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『恋せぬふたり』と、「仮」の家族の誠実さ

  • スクリーンの女性
  • 「普通」という圧力
  • 家族
  • 恋愛物語の形に収まらない
  • 女性、自由、社会の台本
  • アロマンティックとアセクシュアル

「仮」は、家族にとって劣った言葉とはかぎらない。誠実な言葉にもなりうる。恋愛ドラマのおなじみの仕掛けのなかにアロマンティック・アセクシュアルのふたりを置き、その仕掛けをひとつずつ、静かに、ときにおかしく空回りさせたNHKのドラマは、恋愛が埋めるはずだった場所に、思い込みではなく問いかけでできた暮らしを建ててみせる。

スーパーのチェーンが、恋をテーマにしたキャンペーンを打っている。本社の営業戦略課で働く兒玉咲子は、後輩が企画した「恋する〇〇」の商品を見に店舗を訪れ、青果売り場の店員に「恋しない人間もいる」と言われて、はっとする。『恋せぬふたり』は、ほとんどこの場面から始まる。そしてこの場面に、作品のすべてが小さく収まっている。恋愛をあたりまえとするあまり、食料品まで恋で売ってしまう世の中と、野菜のあいだから見知らぬ人が口にしたひとこと。そのひとことが、世の中に小さな穴をあける。

咲子は人当たりがよく、後輩の面倒見もいい。そして、誰もが恋をするはずだという世の中に、まだ名前のない疲れ方で、静かに疲れている。家族は彼女の結婚を待っている。かつて付き合った同期の男性は、彼女がなぜ何も感じないのかを、最後まで理解できなかった。高校時代からの親友とのルームシェアの約束が反故になったとき、咲子は自分を言い表す言葉を探し、見知らぬ人のブログでそれに出会う。アロマンティック・アセクシュアル。他者に恋愛感情も性的欲求も抱かない人のことだ。書き手は、あの青果売り場の店員、高橋羽だった。咲子は、恋愛抜きで家族になろうと持ちかける。高橋は「お試し」としてそれを受け入れる。ふたりはこの関係を「家族(仮)」と呼び、咲子は、高橋が亡き祖母と暮らした古い家に移り住む。

脚本は吉田恵里香。受け入れられることを描いたやさしいコメディとして語られることの多い作品で、実際そうでもある。けれどこの文章は、この作品がもう少し鋭いことをしていると考える。好意と勘違いされる親切、実家への紹介、嫉妬する元恋人、石段でのもみ合い、ふたたび現れるかつての縁談相手、遠く離れて迎える結末。恋愛ドラマが頼りにしてきたこうした仕掛けを、作品はひとつずつ、燃料を抜いたまま動かしてみせる。仕掛けは順番に、しばしばおかしく、空回りしていく。そして仕掛けが空けた場所に建てられるのは、「仮」という一字をいちばん大事な言葉にした暮らしである。

「仮」は、ふつうは弱い言葉だ。まだ本物ではない、本物が来るまでのあいだ、という意味で使われる。この作品は、その意味をひっくり返す。なぞるべき台本を持たない家族は、思い込みでは回らない。問いかけることでつくられ、問い直されることで保たれるしかない。この作品のなかで「仮」が意味するようになるのは、そういうことだ。この文章が言いたいのは、「仮」が劣った言葉ではないということである。それは、誠実な言葉なのだ。

ふたりのどちらも、直されるのを待ってはいない。作品も、ふたりに直れとは言わない。

この作品について、そして読み進める前に

事実を一度だけ確かめておく。『恋せぬふたり』は、二〇二二年一月十日から三月二十一日まで、NHK総合の「よるドラ」枠で、毎週月曜の夜に放送された。一回三十分、全八回。咲子を岸井ゆきのが、高橋を高橋一生が演じている。放送局はこの作品を「ラブではないコメディ」と紹介した。吉田はこの脚本で第四十回向田邦子賞を受け、選考委員は授賞理由のなかで、この作品が「極めて低い声で、しかも明るいトーンで」描かれていると書いた。覚えておく価値のある言い回しだ。作品のやり方を、そのまま言い当てているからである。

この作品は、当事者を描いただけでなく、当事者とともにつくられた。企画の押田友太は放送前、NHKのサイトに、ある取材のなかでアロマンティック・アセクシュアルの当事者に出会い、はっとさせられたと書いている。クレジットには「アロマンティック・アセクシュアル考証」として三人の名前が並ぶ。三人はいずれもアズループという団体のメンバーで、団体の紹介によれば、ひとりはアロマンティック・アセクシュアルの当事者、ひとりはアロマンティックやアセクシュアルについての研究者、ひとりは二〇一六年から当事者の交流会を開いてきた特定非営利活動法人の代表である。団体の説明によれば、考証が担ったのは、定義などの監修、資料の提供、アロマンティックやアセクシュアルにかかわる脚本とキャラクター設定への助言、関係する場面の撮影やリハーサルへの一部立ち会いであり、ストーリーやキャラクター設定、配役を決めることには携わっていない。制作統括の尾崎裕和は、考証の三人と、取材に応じてくれた当事者たちの言葉を頼りに、作品の形が少しずつ見えはじめている、と放送前に書いていた。

言葉についても、先にふれておく。この作品は、言葉をめぐる物語でもあるからだ。アロマンティックとは、恋愛的指向のひとつで、他者に恋愛感情を抱かないこと。アセクシュアルとは、性的指向のひとつで、他者に性的に惹かれないこと。どちらにもあてはまる人を、アロマンティック・アセクシュアルと呼ぶ。作中ではこれを縮めて「アロマアセク」と言う。考証を担った団体は、これらの言葉には複数の定義があり、どれかひとつだけが正しいわけではないこと、その人の性のあり方と、その人が自分をどう説明するかは別のこともあるので、外から決めつけないことが大切だと、繰り返し書いている。この文章は、作品が使うとおりに、作品の中心にいるふたりについてだけ、これらの言葉を使う。

もうひとつ、以下のすべての場面の書き方にかかわることを断っておく。この文章は、作品を改めて見直して書いたものではない。公に記録された作品の筋、放送局自身のページ、授賞理由、考証チームの記述にもとづいて書いており、場面はそれらの記述にしたがって伝える。台詞は、番組があらすじのなかで引いたひとことと、作り手たちが公にした言葉のほかは、要約で伝える。

この先では、結末まで含めて作品全体にふれる。この作品の議論がいちばん鋭くなるのは結末であり、外側から語ったのでは誠実に論じられないからだ。先に結末を画面で見届けたい人は、ここでいったん読むのをやめて、あとで戻ってきてほしい。

恋愛ドラマの仕掛けが、燃料なしで回るとき

恋愛ドラマのつもりで見ていると、場面ごとに仕掛けが動きだすのがわかる。そして、噛み合わないまま空回りするのも。

始まりは職場だ。後輩が、咲子の親切を自分への好意と勘違いする。恋愛ドラマでいちばん古い誤解であり、ふつうならどこかへつながっていく誤解である。ここでは、どこへもつながらない。つながる先が、はじめからないからだ。次は、親への紹介。娘が男性と暮らしていると知った母は、家族ともども大喜びする。恋愛に縁がなさそうだった娘が、ようやく相手を連れてきたのだ。ふたりは最初、話を合わせ、恋人同士のふりをして実家を訪ねる。芝居を終わらせるのは、うっかりした失言ではなく、ひとつの感情である。自分のものではない「普通の幸せ」に沸く家族を前に苛立った咲子は、自分たちがアロマアセクであることを打ち明ける。祝いの空気は止まり、家族は戸惑う。

次は、嫉妬する元恋人。同期の松岡一、通称カズは、咲子との関係がまだ続いていると思っている。後をつけてきた彼は、高橋を恋敵だと思い込み、家の前の石段でふたりはもみ合いになる。恋愛ドラマなら、女性をめぐる争いの場面だ。ここで転げ落ちるのは高橋で、しかもカズをかばって落ちる。高橋は大けがを負い、元恋人のカズは、その世話をするために家に住み込む。

こうして三角関係は、三人暮らしになる。カズは、ふたりがこれまで誰かにぶつけられてきた不躾な質問を片端から口にし、ふたりの何気ないやりとりをいちいち恋愛として読み、自分がけがを負わせた高橋にたしなめられる。そして少しずつ学んでいく。十分に学んだところで、彼はひとつの申し出をする。恋愛も性的な関係も求めない家族がほしいのなら、それは自分でもいいのではないか。高橋も、それは悪くない話だと認める。咲子は断る。その理由は、この作品のなかでもいちばんやさしい言葉のひとつだ。自分のために、カズが望むはずの恋愛の喜びを我慢させたくない。

それから、かつての縁談相手。農業の会社を経営する猪塚遥は、以前、高橋と結婚の話があった女性で、高橋の祖母もその結婚を強く望んでいたが、彼は受け入れられなかった。恋愛ドラマなら、彼女は恋敵として戻ってくる。ここでの遥は、祖母に縛られずに自分の人生を歩んではどうかと高橋に問いかけるために戻ってくる。手には具体的な提案もある。地方に移り住んで農業を始められる、自社の「農家デビュー」という仕組みだ。そして結末は、恋愛物語がいちばん恐れる仕掛け、つまりふたりを隔てる距離を、そのまま答えにしてしまう。これについては、あとで述べる。

この作品の笑いは、こうした仕掛けのなかにある。そして議論も、そこにある。恋愛物語とは、状況を恋愛に変換する装置だ。誤解も、嫉妬も、恋敵も、別離も、すべてキスへの一歩として働く。その装置のなかに、恋愛を燃料にしないふたりを置くと、装置は大きな音を立てて回りつづけるが、何ひとつ変換しない。そして空回りすることで、日々の暮らしのどれほど多くが、その一種類の燃料で動くようにつくられていたかを見せてしまう。スーパーのキャンペーン、実家の食卓での質問、友人たちの笑顔の裏にある前提。

同じような場所から出発して、装置をきちんと働かせた物語と並べてみると、違いがよく見える。二〇一七年の韓国ドラマ『この恋は初めてだから』では、住む場所を失った女性と、ローンを抱えて下宿人を探していた、結婚する気のない男性が、契約結婚を結ぶ。男性にとっては、親の干渉をかわす手段でもあった。大家と下宿人として暮らすうちにふたりは近づき、取り決めは恋愛物語になっていく。この形式が、はじめからそうなるように設計されていたとおりに。高橋のほうも、同居人がいれば近所のおせっかいをかわせるという理由もあって、「家族(仮)」を受け入れている。出発点は、ほとんど同じだ。違うのは、『恋せぬふたり』では、取り決めがやがて来る恋愛の仮の姿ではないということである。取り決めそのものが、物語なのだ。

見知らぬ人のブログで見つけた言葉

家族より先に、言葉がある。作品はこの順番を大切にしている。ブログを見つけた咲子は、別の誰かに生まれ変わるわけではない。自分がすでにそうであったものに名前があること、同じ名前を持つ人がほかにもいること、そしてそのひとりが、名前を出さずに、ずっとそれについて書いてきたことを知るのである。

言葉がすることを、大げさに言うのはたやすい。取り違えるのも、たやすい。言葉がアイデンティティをつくるわけではない。言葉が変えるのは、その人が他人に、そして自分自身に、何を言えるかである。言葉を持つ前の咲子に与えられていたのは、欠如の言葉だけだった。感じるはずのものを感じない、という言い方しかなかったのだ。口にされた欠如がふつうどう受けとられるかは、この図書室が「『コンビニ人間』が静かに問う、「普通」になれば満たされるのかということ」で書いたとおりだ。聞いた側は、何か問題があると心配するか、まだ本当の相手に出会っていないだけだと解釈する。欲しくない、という答えが、そのまま答えとして受けとられることはほとんどない。作品は、そのふたつめの反応に、ひとつの場面を与えている。第三話で、小学校から高校までの友人たちが、口をそろえて咲子に言うのだ。いつか好きな人ができる、そうすれば恋が何なのかわかる、と。

英語には、この合唱の背後にある前提を名指す言葉がある。哲学者のエリザベス・ブレイクが、結婚と法をめぐる二〇一二年の著書でつくった「アマトノーマティヴィティ」という語だ。ブレイク自身の説明によれば、誰にとっても、ひとりの相手とだけ恋愛で結ばれ、長く続くカップルでいるほうが幸せであり、誰もがそうした関係を求めている、という広く行きわたった思い込みを指す。ブレイクが挙げる例には、咲子の友人たちが言いそうなひとことがある。彼女はまだ運命の人に出会っていないだけ。吉田恵里香自身の言葉でいえば、「恋愛至上主義」である。「いつか」とは、その至上主義が、説明のつかない人すべてに向ける答えなのだ。

言葉は「いつか」を「いま」に置き換える。そして、過去の読み方も変える。同じ第三話で、高橋から渡されたアンケートに答えながら、咲子はカズとの交際を思い出す。それが自分にとって何を意味するはずなのかわからないまま、キスにも性行為にも応じたこと。台本が約束していたものを、何ひとつ感じなかったこと。放送局はこの回の冒頭に、性的接触の描写があることを知らせる注釈を流した。そうした場面を見るのがつらい人への配慮として広く受けとめられ、吉田も、本当に素晴らしいことだと思った、こういう注釈がもっと増えてほしい、と公に書いている。

この記憶は、咲子がいまの咲子である理由として差し出されているのではない。そう読むのは誤読である。それは、彼女がすでに手にしていた証拠だ。恋人同士ならこうするものだと物語が言うことを、彼女はしてみた。そして、それは望むということについて、何も教えてくれなかった。記憶のなかに悪役はいない。ふたりは、交際とはそういうものだと思うことをしただけだ。けれど、応じることと望むことは同じではなく、その違いは、誰かが尋ねたときにはじめて見えてくる。作品が次に向かうのは、そこである。

アンケートから始まる家族

咲子の提案は実際的で、どこかおかしみもある。作品はそのどちらも隠さない。家族はほしい。恋愛も性的な関係もほしくない。同じようにどちらもほしくない人を見つけた。それなら、試してみてもいいのではないか。高橋が「お試し」に応じる理由も、ありふれたものだ。半年前に祖母を亡くしてから、彼はその家にひとりで住んでいる。同居人がいれば、近所のおせっかいもかわせる。誰もこれを運命とは呼ばない。ふたりが選んだ呼び名は「家族(仮)」、かぞくかっこかり。まだ決まっていない題名のうしろに(仮)と添えるのと同じ書き方だ。そして咲子は、その家に越してくる。

そして作品は、もっとも静かで、もっとも根本的なことをする。第三話で、同居をうまく続けていくために、高橋は咲子にアセクシュアルについてのアンケートを渡す。考証チームがのちに公開したそのアンケートは、たとえばこう尋ねる。自分に恋愛感情があると思うか。他の人を性的な意味で魅力的だと感じたことはあるか。他の人に触れることに嫌悪感はあるか。自分の恋愛や性について尋ねられること、他人のそうした話を聞くことに、嫌悪感はあるか。恋人やパートナーがほしいか。そもそも、他の人と一緒に住みたいと思うか。そしていちばん上に、一行が添えられている。「回答は答えられるもののみで結構です」。

恋愛物語のなかの恋人たちは、思い込みで互いを知っていく。台本が次に何が来るかを告げ、ふたりはそれに従う。台本のない暮らしには、それができない。あのアンケートは、「家族(仮)」が台本の代わりに用意した答えであり、いちばん上の一行こそが、そのなかでいちばん大事な一行である。何も思い込まない。すべてを尋ねる。そして、答えられないことには答えなくていい。

この図書室は「親密さとは実際に何か。長く続く関係が実践していること。そしてそれは必要なのか」のなかで、少なくともひとりに正確に知られていることは人の必要にかなり近いが、連れ合いとの恋愛や性の親密さは、きわめて広く分布した好みであって、誰にとっても欠かせない要件ではない、と論じた。あのアンケートは、その区別を家庭の道具にしたものだ。恋愛と性を抜きにして、正確に知られるための道具。そして作品のなかで、それはきちんと働く。

この暮らしがふたりに何を与えるのかについて、作品は正確だ。物語のなかでいちばんつらい場面のあと、小田原で千鶴から姿を消した理由を打ち明けられ、カズとの関係にも区切りをつけて家に帰った咲子は、高橋が用意しておいた食事を泣きながら食べる。高橋は何も尋ねず、黙ってそれを見守る。この場面に恋愛はない。けれど、ここには多くのいたわりがある。そのいたわりは、恋愛の埋め合わせではない。ふたりがこの暮らしをつくったのは、まさにこのためなのだ。

咲子を演じた岸井ゆきのは、放送前にこの人物をこう語っている。人は好きだし、ひとりは寂しい。だから恋愛抜きで家族をつくろうとがんばる。作品はこの説明を裏切らない。アロマンティックであることは、冷たいということではない。考証の三人が二〇二〇年に行った、アロマンティック/アセクシュアル・スペクトラムの人たちへの調査では、恋愛的な感情も性的な感情も含まない「愛情」を感じる相手として、七三・六パーセントが友人を、六九・九パーセントが家族を挙げている。結びつきは、本物だ。ただ、それが恋愛物語の形をしていないだけである。

わからない人たちと、その人たちの理由

咲子と高橋のまわりの人たちを笑いものにするのは、簡単だったはずだ。作品はそれを拒む。この作品のあたたかさは、その拒み方から来ている。ふたりを理解できない人たちには、それぞれに理由があり、そしてその多くが、少しずつ動いていく。

たとえば母。兒玉さくらは、娘に結婚のことで圧をかけないように努めている。それでも期待はにじみ出る。番組自身のあらすじは、彼女を「結婚をせかす母」と書き、実家を咲子にとって「居づらい」場所と書いている。娘が男性を連れてきたと思ったときの母の喜びは、罠ではない。それは愛情であり、ただ、彼女の知っているたったひとつの形をしているだけだ。その形を取り上げられると、母は途方に暮れる。作品は、その途方に暮れた時間を長く描く。父は口数が少なく、心配している。どちらも、理解できないことで罰せられはしない。理解しようとする姿が、少しずつ描かれていく。

この図書室は、こうした圧力を「『晩春』と、話し合ってつくられた同意」で取り上げたことがある。ひとりの作者をもたず、心配という形で届き、やさしいからこそ効いてしまう圧力。力は恨みを生むが、親切は負い目を生む。七十年あまりたっても、咲子の家族のなかで働いている仕組みは、見まがいようもなく同じだ。変わったのは、咲子が言葉を持っていることだ。言葉があれば、心配に対して、折れることも、けんかを始めることもなく、答えることができる。いつか幸せになるから、と言い張る必要はない。いまの自分が何であるかを、言えばいい。

それから妹。みのりの結婚は、家族が咲子にも望んでいた「普通の幸せ」そのものだった。作品の後半、それが彼女を裏切る。二人目の子どもを身ごもっているあいだに、夫が浮気をしていたのだ。みのりは咲子たちの家に押しかけ、姉に八つ当たりし、そのままそこで産気づく。咲子は、みのりがどんな道を選んでも味方でいると告げる。咲子の暮らしを理解できなかった家族は、みのりの側に立ち、夫を丁寧に拒む。作品はその皮肉に傍線を引かない。引く必要がないのだ。ひとりの娘を台本のほうへ押した忠実さと、台本が壊れたときにもうひとりの娘を抱きとめる忠実さは、同じものである。

いちばん重い理由を抱えているのは、門脇千鶴だ。高校時代からの親友で、美容師で、ルームシェアの約束を取り消したのが彼女だった。そのとき彼女が挙げた理由は、元恋人とよりを戻したことだった。勤め先の美容室の小田原支店へ移り、黙って住所も電話番号も変えていた千鶴を、咲子は訪ねていく。そこで千鶴が打ち明けるのは、別の理由である。咲子への思いが恋だと気づいてしまい、その思いが返されることのない人と一緒に暮らすことに、耐えられなかった。そして、もう友人には戻れない、と言う。作品は、千鶴の痛みに、咲子の痛みとまったく同じ重さを与えている。ふたりとも自分に必要なものについて正しいまま、それでも同じ部屋には住めないことがある。

そしてカズ。彼は、この作品のなかで間違った質問をすべてする人であり、同時に、変わっていく人の手本でもある。三人暮らしが終わったあとも友人でありつづけ、合鍵を返さずに勝手に上がり込み、最終回では、迷う咲子を励まして高橋との話し合いに向かわせる。最初は咲子の言うことを受け入れようとしなかった男が、最後には、彼女がそれを口にするのを手伝っている。

家そのものにさえ、台本は入り込んでいる。高橋が離れようとしないその家の主だった祖母は、彼と遥の結婚を強く望んでいた。彼をいちばん愛した人が、ありふれた幸せを願っていたのだ。作品は、そう願った祖母を責めないし、それに応えられなかった彼を責めもしない。

「仮」が誠実な言葉である理由

ここから先は、結末にふれる。最終盤、高橋は店長代理に昇進し、好きな野菜からさらに遠ざかる。遥は彼に、農業を始める道を差し出す。高橋は断る。祖母の家を離れるつもりはなく、「家族(仮)」をやめて、またひとりに戻るのも嫌なのだ。その断り方に納得できない咲子は、カズに励まされ、母からも、アロマアセクとしての幸せをつかんでほしいと背中を押されて、高橋と話し合う。そして答えを見つける。自分がこの家に住みつづけて守り、高橋は地方へ行って野菜を育てればいい。一緒に住まなくても家族でいられるし、ふたりの関係を何かに決めてしまう必要もない。「仮」のままでいい。高橋は、涙を流してそれを受け入れる。

最後の場面で、高橋は遠くで野菜を育て、咲子はあの家で暮らし、ふたりは連絡を取り合っている。咲子はいまの日々を「大満足」と呼び、これからも誰かに文句を言われるだろうと思いながら、自分の幸せは自分で決める、と語る。最後の言葉は、彼女のものだ。

恋愛物語は、形を固めて終わる。結婚式、同居の始まり、永遠の約束。最後の場面は、この先の関係がどんな形をとるのかを観客に告げ、その形はずっと続くものとして差し出される。この結末は、意図してその逆をする。一緒に暮らしていたふたりが離れて暮らすというふうに、形のほうを変え、関係のほうは保ち、しかもその関係を、完成した名前に格上げしない。お試しとして始まった「仮」が、ここでは原則として守られる。

これが、この文章の「仮」についての主張である。「仮」は、「永遠」にはできない仕方で誠実だ。自分を「仮」と呼ぶ家族は、これからも決め直さなければならないことを認めており、その決め直しを引き受けている。あのアンケートがそうだったし、結末の話し合いもそうだ。思い込むかわりに尋ねるという同じ行為を、より大きな規模で行っている。ここで交わされる約束は、永遠ではない。この関係がどんな形であるべきかを、これからも互いに尋ねつづけ、答えつづける、という約束である。

家が大切なのも、同じ理由からだ。それは、どちらの親の家でもない。高橋を愛し、彼の結婚を願った女性の家であり、その家が、彼女が願ったのとはまるで違う家族の住まいになる。咲子がその家を守ることは、犠牲としては描かれていない。高橋が行けるように差し出された、彼女の答えである。距離もまた大切だ。恋愛物語では、距離は乗り越えられるためにある障害だ。ここではそれは、取り決めの一部にすぎない。家族とは、同じ住所のことではなく、払いつづける注意のことなのだ。

放送前に公開された番組の告知用の写真には、階段の中ほどにたたずむふたりが写っていた。放送局は、友人・恋人・家族・同僚という関係性の、さまざまな曖昧な境界線がひとつの世界のなかにあることを表した、と説明している。作品は、ふたりを階段の中ほどに置いたまま終わる。それは、たどり着けなかったということではない。

本物で、届け出がなく、許しを求めない

「家族(仮)」には、法律上の形がない。作品のなかで誰も何も届け出ないし、作品は法律に承認を求めることもしない。求める相手は、まわりの人たちだ。これは気にとめておく価値のある選択である。そこに残る空白は、本物だからだ。

この図書室は「『万引き家族』と、たがいを選び、認められなかった家族」で、その空白を描いた。関係は、日々のもので、代償をともない、暮らしを支えるものであっても、それについて動かなければならないあらゆる制度から見えないことがある。本当であることと、認められていることは、同じ性質ではなく、ふつうは連れ立って動いているから、分かれうることに気づかれない。あの映画の家族は、もっとも危うい状況のなかで、本物で、届け出のない家族だった。咲子と高橋の家族は、もっとも穏やかな状況のなかで、本物で、届け出のない家族だ。大人がふたり、罪はなく、誰も文句のつけようがない。家族らしく見えない、ということのほかには。

作品が代わりに求めるのは、大切な人たちからの承認であり、それはある程度まで得られる。口に出された母の願い、合鍵を持ったままの元恋人、自分の結婚が壊れたときにふたりの家の戸を叩いた妹。それは多くのものだが、すべてではない。法的な立場のない暮らしは、何かが起きたときに守られにくく、その開かれ方を称えることは、欠けているものを選択のように聞こえさせてしまう。作品はそうではないふりをしない。ただ、法律を主題にしないことを選んでいる。この文章も、作品が残したところに、その空白を残しておく。書きとめたうえで、解決はしないまま。

スクリーンの上の女性の物語として、もうひとつ言っておきたい。恋愛ドラマでは、ヒロインの物語はたいてい、男性の登場によって測られる。この作品では、男性は第一話で現れ、しかもそれが要点ではない。咲子のまわりの女性たちは、それぞれに違うかたちで、台本とかかわっている。台本を守る母、台本に裏切られる妹、台本では報われない恋をした友人、そして自分の会社を経営し、かつて結婚するはずだった男に、自分の人生を生きろと告げる女性。物語そのものを測るのは、咲子の言葉だ。彼女が見つける言葉、彼女が手放さない言葉、そして作品の最後の言葉。それは、彼女のものである。

日本での言葉、そして言葉の旅

この作品が放送されたとき、これらの言葉は、見ている人の多くにとって新しかった。考証を担ったひとりはのちに、知名度が低いなかで放送できたこと自体が大きかった、このドラマで言葉を知った人も多いはずだ、と振り返っている。

数字は、慎重で新しい研究から得られている。二〇一九年の一月から二月にかけて、国立社会保障・人口問題研究所の釜野さおりを代表とする研究チームが、大阪市の住民基本台帳から無作為に選んだ十八歳から五十九歳の市民を対象に調査を行った。回答した四千二百八十五人のうち、〇・八パーセント、三十三人が「アセクシュアル・無性愛者」を選んでいる。調査票ではこの選択肢に、誰に対しても性愛感情を抱かない人、という説明が添えられていた。別に七・五パーセントが、質問の意味がわからない、と答えている。研究チームは、無作為抽出の標本にもとづくこうした推計には日本でほとんど先例がないと述べ、結果は大阪市の十八歳から五十九歳の人たちを超えて一般化できないと断っている。小さな数字だ。そして、本物の数字である。

その「性愛感情」という一語には、立ち止まる価値がある。この作品は、八回をかけてその一語をほどいていくからだ。考証チームによれば、日本では長いあいだ、アセクシュアルという言葉が、恋愛感情も性的な惹かれもないことをまとめて指す意味で広く使われてきた。性的な面と恋愛的な面を分けて名づける考え方は、英語圏を中心に定着し、近年になって日本でも使われるようになったものだという。『恋せぬふたり』は、月曜の夜の全国放送で、その分けた言葉づかいを伝えた。しかも、分けたふたつの言葉の両方を必要とする人物たちを通して。中心のふたりはアロマンティックでありアセクシュアルであり、千鶴の思いは恋愛感情であり、第六話の交流会には、恋愛感情はあっても性的には惹かれないロマンティック・アセクシュアルの男性がいて、最高の恋人に出会えたかもしれない、と話している。

これは、日本だけの特殊な事情ではない。ブレイクの言葉は、結婚と法をめぐる英語の本のなかで生まれたものであり、それが名指す圧力は、多くの場所で見覚えのあるものだ。この作品に固有なのは、その手触りのほうである。思い込みは、スーパーのキャンペーン、実家の食卓、同僚の勘違い、近所の好奇心という、ある特定の暮らしのありふれた仕組みを通してやってくる。国民性を通してではない。ふたつの言語のあいだで暮らす人なら、英語の言葉のほうに先に出会ったかもしれない。この作品は、日本語の言葉もまた存在すること、そしてそれが、必要とした人たちの手で、ていねいにつくられてきたことを思い出させてくれる。

この読みに対する反論

この文章が間違っている道は、いくつかある。そのうち最初のふたつは、この作品が描こうとした人たち自身の側から来る。

第一に、結末は、家族をふたたび中心に据えるものとして読むこともできる。誰とも暮らしを共にしたくないアロマンティックやアセクシュアルの人にとって、ふたりがいまも家族だという結末は、恋愛を抜いただけの恋愛の台本に見えるかもしれない。あいかわらずふたり組で、あいかわらず、ほかのすべてがそれを基準に測られる単位である。作品は、この反論に半分だけ答えている。第六話の交流会で、ある女性は、ひとりでも毎日楽しくて満足しているから、誰かと暮らすことは考えたことがないと言い、別の女性は、一緒に住んではいないパートナーとの関係を語る。考証チームは、ひとりで生きていくのが楽しい人、自認に迷っている人、ロマンティック・アセクシュアルの人、同居していないパートナー関係、同性同士のパートナー関係など、できるかぎりさまざまな当事者の姿を描いてほしいと頼んでいたという。そしてこの場面には、事前の取材に応じた人を中心に、六人の当事者が参加者として出演している。

その考証チームが二〇二〇年に行った調査は、アロマンティック/アセクシュアル・スペクトラムを自認する人、あるいはそうかもしれないと思う千六百八十五人から回答を得て、恋愛的でも性的でもない関係のパートナーを望むかどうかを尋ねている。ひとりのパートナーを望む人がほぼ半数、望まない人がおよそ四人にひとりだった。インターネット上で自発的に回答を募った調査であり、どの答えがどれくらい一般的なのかは言えない。それでも、「家族(仮)」がいくつもある答えのひとつであることは、はっきりと示している。交流会のひと場面に、ほかのすべての答えを背負わせることはできない。

第二に、この作品は、男性と女性、つまりまわりの誰もがカップルだと読んでしまう組み合わせを中心に置いており、その笑いは、その読み違いに支えられている。女性ふたりや、ひとりで生きる人の物語なら、別の仕掛けが必要だったはずだ。考証チーム自身が放送後に、この作品でアロマンティックやアセクシュアルのすべてが描けたわけではなく、不十分だと感じたところもあり、よいところも批判すべきところもあった、と語っている。公平な評であり、しかも内側から出たものだ。

第三に、この作品はやさしい。そして、やさしさには代償がある。家族は歩み寄り、嫉妬した元恋人は学び、いちばんつらい拒絶である千鶴の言葉さえ、品位をもって告げられる。歩み寄らない家族は少なくないし、八回のうちに理解がやってくる物語は、それを実際より簡単に見せてしまうかもしれない。選考委員がたたえた低い声は、叫ぶ必要のない声でもある。自分の家族が動かなかった人には、この作品を自分の人生よりやさしいと感じる権利がある。

第四に、この文章自身に向けた反論。「仮」を誠実な言葉と呼ぶことは、限界へのお世辞かもしれない。「家族(仮)」が「仮」なのは、ひとつには、法律も慣習も、それ以外のものになることを許さないからであり、欠けているものを美徳に変えるのは、まさに気楽な読み手のすることだ。それでも、より狭い主張は残る。作品は、関係をもっと立派な名前に格上げすることもできたのに、その言葉を手放さないことを選んだ。その選択は、真剣に受けとめるに値する。「仮」がほかの誰かにとってふさわしい言葉かどうかは、その人が決めることであり、この文章が決めることではない。

この図書室の立場

この図書室の立場を、はっきり書いておく。アロマンティックやアセクシュアルであることは、人のありようのひとつであって、症状でも、傷でも、一時期のことでも、ふさわしい相手が解決してくれるのを待っている問題でもない。恋愛や性の上に築かれていない人生は劣った人生ではなく、それらなしにつくられた家族は劣った家族ではない。この図書室は以前、連れ合いとの恋愛や性の親密さは、きわめて広く分布した好みであって、誰にとっても必要なものではないと論じた。この作品は、この図書室の知るかぎり、その議論をもっとも十全にドラマにしたものであり、議論に欠けていたものを補ってくれる。空いた場所に何が建つのか、という絵だ。問いかけでできた暮らし。

この作品が教えることは、ふたりの外にまで届く。ただし、ふたりの人生をほかの誰かのための教訓にすることなく。どんな関係も、いくらかは思い込みで動いている。恋人たちは台本が望めと言うものを自分も望んでいると思い込み、家族や友人は、それを本人に代わって思い込む。この作品の中心にあるアンケートは、思い込むのをやめたら関係がどう見えるのかを示している。そしていちばん上の一行、答えられるもののみで結構です、は、たいていの関係が一度も書き留めることのない、同意についてのすぐれた説明になっている。

持ち帰るための問い

あなたがアロマンティックやアセクシュアルなら、あるいはそうかもしれないと思っているなら、あるいはその言葉が自分に合うのかわからないなら。この作品は、あなたに咲子や高橋になれとは言わない。あの交流会には白紙のままの名札もあり、それもまた許されていた。もし誰かがあのアンケートを差し出したら、あなたは何と書くだろう。そして、誰に差し出したいと思うだろう。

あなたが、食卓の母だったなら。いつかわかるよと言った友人だったなら。まだ合鍵を持っている元恋人だったなら。答えを先に決めていない問いを、ひとつだけ尋ねてみるには、何が必要だろう。あなたの人生のなかに、別の誰かになってくれるのを、やさしく待ちつづけてきた人はいないだろうか。

そして、結婚式で、法事で、送別会で、誰かいい人はいないのかと尋ねられたことのある人へ。あなたの関係のうち、思い込みで動いているのはどれで、問いかけで動いているのはどれだろう。この作品の意味で「仮」にしてみたい関係は、ひとつもないだろうか。本物でなくなるのではなく、決め直すことに開かれている、という意味で。作品の最後の言葉は、これからも誰かに文句を言われるだろうと知りながら、自分の幸せは自分で決めると決めた女性のものだ。あなたにも、同じ一文を口にする資格がある。

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『コンビニ人間』が静かに問う、「普通」になれば満たされるのかということ36歳、未婚、恋人なし、コンビニ勤務18年目。村田沙耶香の芥川賞受賞作から考える、「治される」ことへの圧力と、自分の輪郭を自分で決めるということ。善意の手が空欄に伸びるとき、何が守られ、何が薄くなっていくのか。親密さとは実際に何か。長く続く関係が実践していること。そしてそれは必要なのか一つではなく二つの要素をもつ定義。関係と親密さが独立した変数である理由。それぞれに機構を付した十五の実践。そして親密さが人の基本的な必要かどうかへの誠実な答え。もう一方の答えに商業上の利害をもつ家によって与えられる。イタリア。かくまう家族と、その代金を払う時間イタリアには、取引に見える二つの数字がある。西欧でもっとも低い水準の出生率と、欧州連合でもっとも遅い部類に入る親元からの独立である。安易な読みは、家族の近さが自律の代価で買われた、というものだ。この文章は、支えと遅れは互いに取引する二つのものではなく、一つの取り決めを反対の端から記述したものにすぎないと論じる。そしてその取り決めは、子育ての時期に一度、老いの時期にもう一度、女性の無償の時間によって引き受けられている。離婚と中絶をめぐって二度も教会の立場に反対票を投じ、それでも教会が見覚えのある家族を運用している国は、矛盾ではない。宗教の規則が取り払われ、その他の仕事が静かに別の場所へ移されたとき何が起きるかの、世界でもっとも明瞭な実演である。

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