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『しあわせのモーメント』と、「まだ」という答え

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ムンバイの部屋でいっしょに暮らすふたりを、このドラマは、多くの恋愛ものが飛ばしてしまう時間のなかで追いつづける。片方の昇進ともう片方の足踏み、一年を超える離ればなれ、どちらも急かそうとしない結婚の問い。そこで守られているのは、恋愛の物語がめったに許さない答えだ。「まだ」。ひとりの女性が自分の人生に何を望むのかを見つけるあいだ、ふたりで正直に抱えておく答えである。

『しあわせのモーメント』の第一シーズンの終わり、カヴィヤ・クルカルニとドゥルヴ・ヴァッツは、ぶどう畑のまんなかにいる。外の空気とワインに気持ちがほどけて、彼女はそれまで言わずにいたことを口にする。自分が人生で何をしたいのか、わからない。シーズンはそこで終わる。危機ではないし、計画でもない。何ひとつ決まっていない。ただ、ひとつのことが言葉になった。

それから二シーズンのち、ドゥルヴはデリーの実家で母に結婚を急かされ、ムンバイに戻ってくる。そして、カヴィヤに指輪を見せる。彼女はプロポーズだと思いこみ、動揺する。彼は、そうではないと言う。ふたりは、結婚しない。いまは、まだ。指輪は彼女の手もとに残る。

恋愛の物語の多くは、こういう瞬間を刃物のように扱う。問いが差し出され、答えはイエスかノーで、しかもいま欲しい。このドラマは、それをふたりで抱えていられるものとして扱う。ここに、この作品のいちばん大胆な考えがあるのかもしれない。静かな考えだ。イエスとノーのあいだには、三つめの答えがある。「まだ」である。正直に口にされ、ふたりともに見える場所に置かれているかぎり、それははぐらかしではない。れっきとした答えだ。長いつきあいの途中にいるふたりが、自分たちについて言える、いちばん本当のことでさえあるかもしれない。

そしてこれは、この文章の見立てでは、ドラマがひとりの女性をまっすぐに受けとめるやり方でもある。このドラマは、結婚の問いに、ぶどう畑で彼女が口にした問いを追い越させない。カヴィヤには、恋愛の物語がいつもヒロインに与えるとはかぎらないものが与えられている。時間だ。彼についての問いを待たせたまま、仕事に、暮らす街に、親に、自分が何を望んでいるのかを確かめるための時間である。その時間にはちゃんと代価がついてくる。しかもその代価は、ふたりに等しくはかからない。

指輪がどうなるのかは、次の注意書きのあとに回そう。

読む前に、そして物語のあらまし

この文章は、四つのシーズンすべてに、結末まで含めて触れる。結末には節をひとつあて、その前でもう一度ことわる。先に観ておきたい人は、どうかそうしてほしい。ここに書いたことは、あとで読んでも変わらない。

『しあわせのモーメント』を生んだのはドゥルヴ・セーガルで、彼自身がドゥルヴを演じ、カヴィヤはミティラ・パルカルが演じている。脚本は第三シーズンまでセーガルが書き、第三シーズンには三人の共同脚本家が加わった。最終の第四シーズンは、彼が初めて脚本を書かなかったシーズンで、その三人のひとり、アビナンダン・シュリーダルが書いている。演出は、第一シーズンがエージェイ・ブヒャン、第二シーズンがルチル・アルン、第三と第四はアルンとスミート・アローラーが分けあった。制作はダイス・メディア。五話からなる第一シーズンは、二〇一六年の十月から十一月にかけて同社のユーチューブのチャンネルで公開され、第二シーズンからはネットフリックスが引き継いだ。第二シーズンは二〇一八年十月、第三シーズンは二〇一九年十一月、最終の第四シーズンは二〇二一年十月の配信で、全部で二十九話になる。台詞はほとんどが英語で、くだけた言い回しにヒンディー語がまじる。

この文章を書くにあたって、ドラマそのものは観ていない。物語の中身は、公開されている各話のあらすじと、インド内外の批評、そしてネット上に公開された各話の記録に拠っている。台詞はすべて言い換えで、正確な引用ではない。

あらましはこうだ。ナーグプル出身のカヴィヤと、デリー出身のドゥルヴは、ムンバイの部屋で一緒に暮らしている。結婚はしていない。ドラマはそれを、ごく当たり前のこととして描く。第一シーズンは、いくつかの夜と朝でできている。人の投稿を見て、なんとか盛り上げたくなる何もない日曜日。ふたりの機嫌をそろって損ねる朝の慌ただしさ。蚊のせいで眠れない夜に、彼女の元恋人が結婚すると知り、そこから元恋人たちをめぐる長い話になる。予定していた夕食が流れる夜。夜更けの縁日。それから、ぶどう畑。第二シーズンでは、彼女の仕事が伸びていくのに、彼の仕事は足踏みし、やがてふたりは、自分たちの関係はいまどこにあるのかと言い争うことになる。

第三シーズン、ドゥルヴは仕事でバンガロールへ移り、ムンバイに残ったカヴィヤは孤独を抱える。里帰りをすれば、親はそれぞれ年をとっていて、ドゥルヴは母から結婚を急かされる。再び一緒になっても、暮らしの歯車はかみ合わない。指輪が波風を立て、実家からの悲しい知らせに、カヴィヤの気持ちはナーグプルへ向かう。第四シーズンは、ふたりが十四か月離れて暮らしたあとから始まる。彼女はナーグプルの実家で働き、彼はフィンランドで職を得ていた。ふたりはケーララ州の旅で再会する。その先が、結末になる。

部屋のなかのふたり

はじまりは、ひとことで言えるほど小さな注文だった。最終シーズンの配信を前に、インドの映画サイト、フィルム・コンパニオンのインタビューで、セーガルはこう振り返っている。制作会社の上の人たちから、限られたセットの家で、ひと部屋にいるふたりの話を書いてほしいと頼まれた。木曜日に書きはじめ、土曜日には送った、と。安く作るための条件、つまりひとつの部屋とふたりの俳優が、そのままこのドラマのものの見方になった。

第一シーズンの一話は十五分ほどで、筋と呼べるものは、さきほどのあらましでほとんど尽きている。それでいいのだ。日曜日、朝、蚊。共同生活のいちばん小さな材料だけで、このドラマはできている。誰も危ない目にはあわない。ドラマを動かすのは会話で、懸かっているのは、ふたりのあいだの次の一時間だけだ。

会話から恋愛を立ち上げた映画は、これまでにもある。リチャード・リンクレイターの『恋人までの距離(ディスタンス)』は、ウィーンをひと晩歩きながら話しつづける見知らぬふたりから恋を立ち上げ、続編は九年ごとに戻ってきて、その会話がどうなったのかを確かめた。『しあわせのモーメント』は、あのふたりには始められなかった場所から始まる。ここのふたりは、もう同じ部屋に住んでいて、それでも、たいしたことのない話を続けなければならない。話すことでしか、いま自分たちがどこにいるのかがわからないからだ。ここでの会話は、恋の始まりではない。恋を続けていくためのものだ。

アラン・ド・ボトンの小説を読んだこの図書室の一篇、「『The Course of Love』がロマンスの後に始める、本当の物語」は、「多くの恋愛物語は、火曜日を描くのが苦手だ」という一文から始まっていた。『しあわせのモーメント』は、火曜日でできている。英語の原題が約束しているのは、小さなことだ。日本語の題が約束するのは、しあわせな瞬間である。それを求めて観はじめた人は、たしかにいくつか見つけるだろう。けれど同じくらい、結婚式での口論にも、孤独なシーズンにも、ひとりで過ごす誕生日にも出会う。ふたつの題のうち、中身に近いのは英語のほうだ。

部屋が何かの主張として描かれることはない。第二シーズンを取りあげた英語の雑誌、ブラウン・ガール・マガジンの評者は、ふたりの暮らしの事実を短い文で並べてみせた。ふたりは一緒に暮らしている。結婚はしていない。彼女のほうがずっと成功していて、稼ぎも多い。そしてそれらは物語の地をなす事実にすぎず、話のねたとして引きのばされてはいない、と続けている。この文章も同じ調子を守る。ふたりの部屋は、買ってきたものをしまい、けんかをする場所であって、それ以上のことは求められていない。ドラマが部屋のまわりに浮かびあがらせるのは、もっと古いものだ。里帰りのたびに姿を見せる家族の期待。そして結婚を急かす母の言葉。このドラマでは、それは息子のほうに向けられる。

いま、ふたりはどこにいるのか

このドラマが繰り返し問うのは、ふたりが愛しあっているかどうかではない。ふたりがいま、どこにいるのかだ。ぶどう畑は、それが初めて声に出される場面であり、問われているのはふたりの関係ではなく、ひとつの人生である。カヴィヤは、ドゥルヴのことがわからないとは言っていない。それ以外のすべてがわからないと言っている。そしてシーズンは、その言葉を最後に置く。

第二シーズンで、この問いは重みを増す。カヴィヤは昇進し、大きな案件を任されて忙しくなる。ドゥルヴは仕事について難しい決断をして職を辞め、家で落ち着かないまま、少しでも稼ぐ道を探して漂う。彼女のほうが稼ぎが多く、その差がけんかを生む。先の評者は、ドラマがふたりのあいだの力の差を大げさにせずに描いていると評価していた。その言葉は的を射ている。お金はけんかの種になるが、どちらかがそのけんかの悪役に仕立てられることはない。

いちばん穏やかな回のひとつで、主役はふたりのどちらでもない。カヴィヤの母がムンバイを訪ね、ドゥルヴは午後のあいだ彼女を連れ出して、親の顔の奥にいるひとりの人を知る。小さな回だが、大きな考えが入っている。その考えは、結末でもう一度戻ってくる。自分を育てた人たちもまた、ひとりひとりの人であり、自分たちの人生と結婚を生きているということだ。

そして、観る側にいちばん多くを求める回がくる。出張先で、カヴィヤはほかの男性と打ち解け、ドゥルヴとの関係はこの先も長く続けていけるものなのかと自分に問いはじめる。フィルム・コンパニオンの評者は、その男性を、危険を恐れないタイプの人だと書いている。この文章は、それを裏切りとも、ふたりの関係を裁くものとも読まない。ぶどう畑の問いが、今度は別のひとりの顔をともなって、もう一度問われているのだ。それは本物の問いである。

シーズンは友人の結婚式で終わる。そこで、ふたりのあいだの親密なひとときが、関係はいまどこにあるのかという激しい口論に変わる。最終話の題は、英語で、ぼくらはどこにいるのか、という意味だ。式から帰る道で、ふたりはなじみの場所に寄り、とことん話し合う。この題は、ドラマの問いをそのまま短く言いあてている。シーズンが返す答えは、どこかの場所ではない。ひとつの会話である。

プロポーズではなかった指輪

第三シーズンはふたりを引き離し、離ればなれがどれほど不公平にやってくるかを正確に描く。研究の仕事がドゥルヴをバンガロールへ連れていく。彼はすぐにその街になじみ、あっというまに友人をつくる。ムンバイのカヴィヤは、家では孤独を、職場では心もとなさを抱える。

ふたりはそれぞれ里帰りをする。カヴィヤは父の退職に合わせてナーグプルに帰り、両親が年をとったことを知る。フィルム・コンパニオンの評者はこのくだりに深く心を動かされたと書き、彼女がそこで出会うものを並べている。年老いた犬。退職祝いに呼ばれなかった警備員。子どものころからの友人たち。いまも着られるパジャマ。売られてしまったか、新しく改装されてしまった店。ドゥルヴはデリーに帰って、母が実家を片づけるのを手伝い、結婚を急かされる。問いに決着をつけろという圧力は彼にもかかっていて、彼は苛立ち、気持ちが遠のいていく。

再び一緒になっても、ふたりの暮らしは足並みがそろわない。ドゥルヴはムンバイをバンガロールと比べ、カヴィヤの新しい友人たちに自分の居場所を奪われたように感じる。そのあとに、ふたりがそれぞれ恋愛と結婚に初めて出会ったころへさかのぼる回がくる。カヴィヤの回想には、覚えておきたいことがふたつある。子どものころ、彼女は隣の家に住む若い女性と親しかった。その人は犬と暮らし、ひとりの暮らしを楽しんでいて、カヴィヤはその人から、ひとりで幸せに生きることもできるのだと教わった。のちに恋人ができた。彼はすぐにでも結婚したがったが、彼女はボンベイへ出て学びたかった。彼を失いたくはなかった。それでも、どちらかを選ばなければならなくなったとき、彼女は行くほうを選んだ。

その回の現在の場面で、ドゥルヴはカヴィヤに指輪を見せる。回想と並べてみると、彼女の動揺は、ただの滑稽なあわてぶりではない。自分の人生がまだ定まらないうちに、結婚という問いが、指輪のかたちで目の前に現れた。回想を手がかりにするなら、彼女は前にも同じ場所に立っている。違うのは、今度は相手のほうが、これはプロポーズではないと自分から言うことだ。いまではない。ふたりのどちらにとっても。

シーズンの最終話では、ふたりがそれぞれに知らせを受けとる。ドゥルヴは大学時代の古い友人の成功をうらやみ、その回の終わりには、その友人の研究を手伝う仕事を持ちかけられている。カヴィヤには実家から悲しい知らせが届き、彼女はナーグプルへの異動を考えはじめる。ふたりは、自分たちがどう変わってきたのかを振り返り、そしてまた離ればなれになる。

こうして指輪は、はめられることも返されることもないまま、彼女の手もとにとどまる。この文章の読みでは、それがこのドラマの中心にある像だ。住む場所を与えられた、ひとつの問い。ふたりがそれぞれ、これからどんな人になっていくのかを確かめに行くあいだ、それを預かっているのは彼女である。

流されるのでも、決めるのでもなく

この図書室は「一度ではなく、何度も選ばれる」で、コミットメントとはプロポーズや署名で一度だけ届け出て、あとはひとりでに続いていくものではないと論じた。むしろ、ふつうの日々に、小さく、写真に残らないかたちで下し直されつづける決断に近い、と。あの一篇は、関係についての研究から、流されることと決めることという区別を借りていた。後戻りするより続けるほうが楽だからという理由で関係の節目をずるずると越えていくことと、本当に吟味した決断によって越えていくことの違いである。あの一篇が案じていたのは、流されるほうだった。誰も立ち止まって問わなかったから続いていく関係である。

『しあわせのモーメント』は、その長さのほとんどを、あの区別には名前のない場所で過ごす。カヴィヤとドゥルヴは、結婚に向かって流されているのではない。問いはそのためにはあまりに目に見えていて、しかも彼女が預かっている指輪という、ふたりとも知っている物のかたちをしている。かといって、決めてもいない。ふたりにあるのは、わざと開けたままにしてある問いだ。開いていることをふたりとも知っていて、そのしるしは目に見えるところにある。これを、抱えておくこと、と呼んでみよう。自分たちが何をまだ決めていないのかを正確に知っていて、それをまだ決めずにおくと選んでいるふたりの状態である。

このドラマは、あの一篇の心配にも公平だ。最終シーズンには、週で数えられる時期がある。三週間が過ぎてようやく、ふたりは、よくない日々が続いたことで何を失ったのかに気づく。それはまさに、あの一篇が描いた流され方である。このドラマが付け加えるのは、抱えられている問いは流されることとは違う、ということだ。流されるのは、誰も見ていないあいだに起きることである。抱えられている問いは、見られている。名前があり、この場合は指輪というかたちもある。

抱えておくことが場所をあけるのは、変化のためだ。問いが開いているあいだ、ふたりはそれぞれ、その問いがまだ出会っていない人になることを許される。バンガロールで、それからフィンランドで研究をする人。ナーグプルの実家から働く人。ド・ボトンを読んだ先の一篇は、恋のあとの愛を改訂の実践と呼び、欲望は昔の投影に忠実でいるのではなく、更新された相手に何度も出会う必要があると書いていた。抱えられた問いは、そのための場所をつくるひとつのやり方である。もし問いに答えが出るなら、それは彼女がなった人から、彼がなった人へ向けて出される。指輪が現れた日のふたりが出すのではない。

この図書室には、部屋を分けあうふたりの物語がもうひとつある。「『この恋は初めてだから』と、終わらせてはじめて本当になった契約」は、家主と下宿人が二年間の契約で結婚する韓国のドラマを読み、契約はふたりのあいだで起きることなら仕切れても、ほかの誰かが結婚に書き込む条件までは締め出せない、と見てとった。カヴィヤとドゥルヴは、何も書き残さない。家族の条件は、あの一篇の見立てどおり、デリーで段ボールを詰める母とともに入りこんでくる。けれど、四シーズンにわたるふたりの暮らしのなかで、書類と呼べるただひとつのものは、誰もはめていない指輪だけだ。指輪は条件を何も抱えていない。抱えているのは、時間である。

問いを抱えているのは誰か

抱えられている問いは、誰かが抱えていなければならない。そしてここでは、たいてい彼女が抱えていた。最初の「まだ」を口にしたのはドゥルヴで、指輪はプロポーズではないと告げたときのことだ。指輪は彼女の手もとに残った。彼がバンガロールで伸び伸びとしていたあいだの孤独も、彼女のもとに残った。離れていた十四か月は、彼女にとって、ナーグプルの両親の食卓で、実家から働いて過ごした十四か月でもあった。彼はそのあいだ、フィンランドで働いていた。

ふたりが再会するケーララ州の旅は、アーラップーザ、コーチ、ムンナールをめぐる。その旅のなかで、ドラマは彼女の三十歳の誕生日を、彼女ひとりのものにする。ドゥルヴは仕事の約束から抜けられず、彼女はその日を自分ひとりで過ごし、あちこちを歩いて、自分の心の内を探る。その回の題はフォート・カヴィヤ。コーチの地名、フォート・コーチをもじったものだ。このしゃれは、シーズンでいちばんやさしい冗談かもしれない。区切りのいい誕生日をひとりで過ごす女性が、自分だけの砦を守っている。

このシーズンで、彼女は、仕事のほうが自分の人生に合わせてくれるのを待つのをやめる。ムンバイでの職に戻れないなら辞める、と彼女は会社に告げる。フィルム・コンパニオンの評者は最終シーズン評でこの強気の交渉の場面を取りあげ、観る者が想像はしていても一度も見せられてこなかった、彼女の激しく負けず嫌いな面が出ていると書いた。ドゥルヴのほうは、インドに帰って腰を落ちつけることを決める。フィンランドの友人たちとの集まりで、彼がほんとうはなぜ戻ってきたのかが問われる。誰が誰のために動いたのか、とドラマは問う。この文章は、その答えを推し量らない。

これらのどれも、彼女の「まだ」を臆病さにはしない。彼女には理由があり、それは筋の通った理由だ。少女のころ、隣の女性から、ひとりの人生も幸せでありうると教わった。いつ結婚するのかという男性の考えが、次に何をしたいのかという自分の考えとぶつかるところを、彼女はすでに一度くぐり抜けていて、そのときはボンベイへ行った。そして、ぶどう畑では、人生で何をしたいのかわからないと口にしている。そういう来歴をもつ女性が、指輪を指にはめずに手もとに置いておくのは、決断から逃げているのではない。この文章の読みでは、本当に決められるようになる前に決めることを、拒んでいるのである。

ドゥルヴにも、言うべきことは言っておきたい。結婚の圧力はデリーで、母から、彼にも届いている。そして彼の「まだ」も、それなりに正直だった。その圧力に押されて、指輪を、自分がしていないプロポーズに見せかけることはしなかったのだから。けれど、抱えておくことの重さはふたりに等しく分けられてはいなかった。「まだ」をほめる読みは、それをはっきり言わなければならない。指輪を預かっていたのは、彼女だった。

ここから、結末へ

ここから先は、ドラマがどう終わるのかを書く。

カヴィヤはムンバイでの職を取り戻すが、その仕事を始めることができない。ふたりはまた一緒に部屋を借り、部屋を整えながら、結婚のよいところと悪いところを話し合う。そこへ、つまずきがやってくる。医師が彼女の背中に神経の圧迫を見つけ、彼女は勝ち取ったばかりの仕事を始めるかわりに、安静を命じられる。それは、強気の交渉で異動を認めさせたばかりの上司に、出社できないと告げることでもある。ドゥルヴは新しい職場で苦労している。フィルム・コンパニオンの評者によれば、チームのみんなに給料の支払いが遅れると告げなければならない場面もある。彼女は家で気力をなくし、彼は職場ですり減り、三週間が過ぎてようやく、ふたりはそれが自分たちに何をもたらしていたのかに気づく。

毎朝、ドゥルヴは彼女のリハビリの運動に付き添い、その朝の時間は、やがてふたりの決まりごとになる。

やがて双方の両親が訪ねてきて、話は結婚に及ぶ。最終話を追ったある記録は、その部屋について覚えておきたいことに気づいている。そこにいるのは、両親と娘、両親と息子という三人ずつのふたつの家族ではなく、三組のふたりなのだ。ふたりはパーティーを開くが、それが何のための集まりなのかは、誰にもよくわからない。

パーティーの夜、カヴィヤはドゥルヴをバルコニーに連れ出し、結婚を申しこむ。プロポーズではなかったあの指輪を彼に返し、彼はそれを彼女の指にはめる。

その夜、彼女は指輪をはめたまま過ごし、ふたりは誰にも言わない。やがて、眠れない彼女が彼を誘い出し、ふたりは夜更けに車で長いドライブに出る。朝になって、ふたりは両親に婚約したことを告げ、両家が居間に集まってそれを祝う。物語は、そこで終わる。

そのドライブの途中で、カヴィヤは、もし自分が子どもはいらないと決めたら、それでふたりは終わりになるのかと尋ねる。彼は、ならないと答える。そしてこの問いについては、彼女の意見が六、彼の意見が四の重みをもつことになる。

そして最終話で、フィルム・コンパニオンの評者によれば、ドゥルヴは、今日はもうずっと、ずっと長く一緒にいる気がする、と言い、いい意味でだよ、と付け加える。

すべてを閉じない答え

結末が問いをどう扱っているかを見てほしい。指輪は、彼女の問いとして戻ってくる。ドゥルヴが最初に口にした「まだ」は、彼女の「いま」になる。彼女が選んだ瞬間に。それは、彼女自身の時刻表のほか、誰の時刻表にも従っていない。

いつ彼女が申しこむのかも見てほしい。ふたりの暮らしが整ったときではない。彼女は背中のせいで動けず、勝ち取った仕事は始められないまま、彼は職場で苦しみ、部屋には両家の親がいる。彼女は、ぶどう畑で口にした問い、人生で何をしたいのかという問いが解けるのを待って、指輪を差し出すのではない。彼女が見きわめたらしいのは、その問いを閉じなくても、こちらの問いには答えられるということだ。彼女は、できあがっていない人生のただなかから申しこむ。誰の人生も、結局はそういうものでしかない。

部屋の順番も見てほしい。申しこみはバルコニーで、ふたりのあいだで、誰も知らないうちに行われる。家族はそのあとで居間に集まり、ふたりがすでに交わした婚約を祝う。問いを急かした人たちは、みな答えの場に立ち会っている。けれど、答えを出したのは、そのうちの誰でもない。

何より、開いたまま残されるものを見てほしい。ひとつの問いに答えが出たその夜に、もうひとつの問いが浮かびあがる。カヴィヤがいつか子どもを望むかどうか、である。そのドライブでふたりが決めるのは、答えではない。重みのつけ方だ。彼女の意見のほうが重い、と。ひとつの問いに答え、もうひとつの問いを正直に抱えたままでいる婚約。それが、このドラマが「まだ」のために差し出す最後の論証である。ひとつの問いへの答えが、すべての問いへの答えである必要はない。

日本から観ると

親戚が投げかける問いは、日本語ではときにとても短い。「結婚はまだ?」。正月の食卓や、いとこの結婚式で、ふと向けられることのある問いだ。向けられた人は、その「まだ」のなかに、小さな責めを聞きとったかもしれない。『しあわせのモーメント』は、この言葉の使い道を、ささやかに変えてみせる。「まだ」を親戚の手から取りあげて、ふたりに手渡すのだ。わざと口にする、自分たちの答えとして。

最後の場面にも、見覚えがあるかもしれない。居間に両家が顔をそろえるその場面は、日本でいう両家の顔合わせを思わせる。ただ、ひとつだけ違いがあり、それは見ておく価値がある。その部屋では、誰も何も問われていない。問いは、その前に、バルコニーで、ふたりのあいだで済んでいる。

日本で暮らしを築き、親は別の国で年をとっていく。そういう女性にとって、このドラマでいちばん身に覚えがあるのは、部屋でも指輪でもなく、里帰りの場面かもしれない。帰るたびに年をとっている親。父の退職。子どものころから好きだった、隣の家の年老いた犬。そして、大きな決断を迫ることになる、実家からの悲しい知らせ。知らせのあと、カヴィヤは実家に帰り、最終シーズンが始まるころには、十四か月を実家で働いて過ごしている。この文章は、その十四か月を、「まだ」の中断ではなく、「まだ」の一部として読む。彼女は帰り、そして戻ってきた。帰ることも戻ることも、抱えていた問いへの答えではなかった。

仕事のために離れて暮らすことを言いあらわす言葉が、日本語にはいくつもある。単身赴任もそのひとつだ。家族を置いて、ひとりで任地におもむくこと。『しあわせのモーメント』には、仕事のために生まれる距離がいくつも出てくる。バンガロールの研究職、フィンランドの仕事、ナーグプルへの異動。そしてドラマはそのたびに、こうした赴任がいつも抱える問いを投げかける。誰が動くのか。誰が待つのか。そして、一方が働いているあいだ、将来についての問いを抱えているのは誰なのか。

だからといって、このドラマが日本についての物語になるわけではない。このドラマもこの文章も、インドのカップルやインドの女性一般の肖像ではない。国を越えて届くのは、ひとつの仕組みだ。ふたりが開けたままにしている問いがあり、そのどちらがそれを抱えているのか、という問題である。

この読みへの反論

この読みが外れているかもしれない点は、少なくとも五つある。

第一に、「まだ」は思想ではなく、制作の日程なのかもしれない。次のシーズンを望む恋愛ものは、中心の問いを開けておく必要がある。ひと部屋のふたりという注文から始まり、配信サービスでシーズンごとに大きくなっていったドラマには、ふたりに決めさせない理由がいくらでもあった。そう考えれば、彼女が預かる指輪は愛についての考えではない。次のシーズンを約束する仕掛けである。この文章は、それを退けられない。いちばん狭い応答は、このドラマが先延ばしを都合のいい細工のなかに隠すのではなく、画面の上に置いたということだ。プロポーズではないと、はっきり言われた指輪として。けれど、仕掛けは自分について正直であっても、仕掛けであることに変わりはない。

第二に、結末が論旨を裏切っているのかもしれない。四シーズンを途中の時間で過ごしたあと、ドラマは指輪と、居間にそろった両家で終わる。恋愛の物語が昔から終わってきた場所だ。ザ・ニュース・ミニットの評者は最終シーズン評で、かなり型どおりの結末だと感じる人もいるだろうと認めている。そして最終シーズンは、生みの親が初めて書かなかったシーズンでもある。セーガルはザ・クイントに、人物たちがもう自分を驚かせなくなったから書かなかったのだと語っており、シーズンは別の書き手の手で書かれた。最後の最後で、ドラマが何年も避けてきた型のなかへ帰っていったと感じる読者は、間違っていない。この文章は、部屋の順番、つまり居間より先にバルコニーがあったことを違いとして読む。それでも、型そのものは古いままだ。

第三に、先に書いたとおり、抱えておくことは不平等だった。「まだ」をほめることは、女性が待つことを美しく見せてしまうかもしれない。昔からある取り決め、つまり女性の人生が男性の仕事を待つという取り決めを、忍耐と呼んで飾り立てるのはたやすい。ある街での研究、別の国での仕事。そのあいだずっと、指輪を預かっていたのは彼女だ。ドラマは、彼女に彼女自身の理由と最後の一手を与えることで、その一部には答えている。すべてには答えていない。この文章も同じだ。

第四に、申しこみは、彼が毎朝リハビリに付き添った数週間のあとに来る。観る人は、指輪に感謝を、あるいは借りの返済を見るかもしれない。この文章はそうは読まない。理由は単純で、指輪はもともと彼のものであり、彼女は十四か月の別離よりも前から、つまりリハビリの朝が始まるずっと前から、それを預かっていたからだ。毎朝の運動が示しているのは、彼女が彼に何を負っているかではなく、問いが待たされていたあいだに、ふたりのふつうの日々が何になっていたかである。それでも、もうひとつの読みが間違いだと示すことはできない。

第五に、恵まれた条件と、この図書室自身の偏りである。カヴィヤとドゥルヴは、動かせる仕事をもつ、教育を受けたふたりで、家族も、急かしはしても待つことができる。多くのカップルは、何年も問いを開けたままにはしておけない。お金、在留の資格、年齢、待てない親、動かせない仕事。「まだ」を美徳にする読みは、贅沢を描いているだけかもしれない。そしてこの図書室には、小さなものを好み、答えより問いを好む癖がある。このドラマのなかに、はじめから探していたものを見つけてしまったのかもしれない。

この図書室が受け取るもの

三つある。どれも規則ではない。

「まだ」は答えになりうる。それが答えであるのは、ふたりともが、それが差し出されたことを知っていて、どこにしまわれているかを知っているときだ。ひとりだけが抱えているとき、あるいは、それがかつて問いだったことをどちらも覚えていないとき、それはただ流されることに変わる。違いは、問いがどれだけ長く開いているかではない。誰かがまだそれを見ているかどうかである。

問われた人は、答える前に、自分の人生に何を望むのかを確かめる時間をとってよい。仕事に、暮らす街に、親に。そのために、人生が先に落ち着いている必要はない。必要なのは、答えが自分のものであることだ。そしてその答えは、自分の言葉で、ときには自分からの問いのかたちで出てきてもいい。

ひとつの答えが、すべての問いを閉じる必要はない。いくつかの問いは、ふたりで、わざと開けたままにしておける。それぞれについて、どちらの意見を重くするのかを了解したうえで。婚約は、子どもについての問いを抱えたままでいられる。結婚も、ほかの問いを抱えたままでいられる。

だから、一度だけ、あなたに。もしあなたが、ふたりのための問いを、鞄のなかに、引き出しのなかに、夕食どきの沈黙のなかに、ひとりで持ちつづけてきたのなら、それは決められずにいたということではない。ふたりのものを運んできたのだ。それがどこにしまってあるのかを相手が知り、その重さを少し引き受けてもらうのは、まっとうなことである。

これは一本のテレビドラマの読みである。登場人物であれ実在の人であれ、誰も診断しない。どんな関係についての助言でも、どんなけがについての助言でもない。

この文章の拠りどころと、主張しないこと

この文章は、ドラマの公開された記録、つまりクレジット、配信の日付、各話のあらすじに拠っている。最終シーズンの配信にあわせたインタビューとしては、ドゥルヴ・セーガルがドラマの始まりを語ったフィルム・コンパニオンのものと、最終シーズンを書かなかった理由を見出しに掲げたザ・クイントのものに拠っている。批評としては、二〇一八年のフィルム・コンパニオンとブラウン・ガール・マガジン、二〇一九年と二〇二一年のフィルム・コンパニオン、二〇二一年のザ・ニュース・ミニットの評に拠っている。そして、ネット上に公開された各話の記録に拠っている。いちばん詳しいのは、インド映画を扱う英語のブログ、ドント・コール・イット・ボリウッドに載った、最後の二シーズンの一話ごとの記録だ。こうした記録に拠る場面は、別の記録も同じことを伝えている場合にだけ書いた。評者が書いたことは、その評者の記述として示している。

インドで、あるいはほかのどこかで、結婚せずに一緒に暮らすことがどう見られているかについては、何も主張していない。統計もひとつも使っていない。カヴィヤの背中については、ドラマが示していること、つまり医師の所見、安静、毎朝のリハビリを超えて、医学的なことは何も言っていない。ドゥルヴがなぜフィンランドから戻ったのかは書いていないし、推し量ってもいない。取りあげた日本語は言葉として示したもので、日本の家族がどうふるまうかの記述ではない。

ここで名前をあげた作り手、演者、評者、媒体のいずれも、この図書室とは何の関係もなく、この文章を推奨してもいない。

手元に残しておきたい問い

ふたりのあいだに、わざと開けたままにしている問いはあるだろうか。それが開いていることを、ふたりとも知っているだろうか。どこにしまってあるのかも。

それを持ち歩いてきたのは、どちらだろう。もう一方は、一度でも代わりに持ったことがあるだろうか。

仕事や、暮らす街や、親について、何がどうなっていれば、それに正直に答えられるだろう。

もしふたりで、ひとつのことについての発言の重みを六対四に分けるとしたら、それはどんなことで、六を持つのはどちらだろう。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

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