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『Catastrophe』と、冗談では運べなかったこと

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六日間の火遊びと妊娠から、ほとんど見知らぬ二人が結婚をつくる。それを支えるのは、失礼なことを口に出して言い合える才能だ。このドラマは、その才能が働くときにいちばん可笑しく、それでは運べないもの、つまり冗談にならない言葉と、冗談が尽きたあとに残る選択を見せるときに、いちばん誠実になる。

ロンドンのバーで出会った男がボストンへ帰って、三十二日がたつ。四十一歳の小学校教師が、彼に電話をかける。妊娠した、と告げるために。二人が一緒に過ごしたのは六日間だけだ。二人のあいだにあるものといえば、六日間の火遊びと、大西洋ぶんの距離と、この知らせくらいだ。

男は、また飛行機に乗る。シャロン・ホーガンとロブ・ディレイニーがつくった『Catastrophe』で、彼は指輪も買わないうちに求婚し、そのままロンドンに残る。子どもが生まれてくるというのに、互いのことをほとんど知らない二人は、最初から持ち合わせていたたったひとつのものを土台に、結婚を組み立てはじめる。共有してきた過去ではない。将来の計画でもない。ひとつの才能だ。失礼なことを、相手に向かって口に出して言い、笑って、先へ進むことができる。

その才能は本物だ。二人にそれを与えた脚本で、書き手たちは英国アカデミー賞を受けている。多くの夫婦が何年もかけてようやく口にすること、あるいはついに口にしないままのことを、この二人は早い時期に、大きな声で言ってしまえる。けれど『Catastrophe』は四つのシーズンを通して、その才能では運べないものがあることも隠さない。この結婚をいちばん壊しかけるのは、失礼な言葉ではない。冗談にならない言葉のほうだ。彼が一度も口にしなかった、かつての恋人の流産。職場で彼に向けられた訴え。何年も飲まずにきた酒への逆戻り。そうした言葉は遅れて、ほかの誰かを通って、あるいは追いつめられてから届く。そして、この結婚をほんとうに決めなければならなくなるのは、冗談が尽きたあとだ。

この文章が言いたいのは、失礼なことを言えることと、言いにくいことを打ち明けることは違う、ということだ。失礼なことを言うのに長けた夫婦は、打ち明けないまま、ずいぶん長くやっていけてしまう。もうひとつ、ホーガンが最後のシーズンについて語った言葉を手がかりに、こうも言いたい。この夫婦がどうしても飾らずに言えなかった言葉は、悪い言葉だけではなかった。優しい言葉もそうで、それもまた、冗談では言えなかったのだ。

だからといって、冗談を疑う理由にはならない。この二人をつなぎとめていたものの多くは、たぶん冗談だった。ただ、それがすべてではなかった。冗談にできなかった部分にこそ、このドラマのいちばん語るべきことがある。

このドラマについて、読む前に二つのこと

『Catastrophe』は、イギリスのチャンネル4で、二〇一五年一月十九日から二〇一九年二月十二日まで放送された。全四シーズン、各六話で、一話は三十分に少し足りない。アマゾンと組んでつくられている。企画と脚本はシャロン・ホーガンとロブ・ディレイニーで、二人は夫婦シャロン・モリスとロブ・ノリスを自ら演じる。役の下の名前は、演じる二人と同じだ。監督は、第三シーズンまでがベン・テイラー、第四シーズンがジム・オハンロン。シャロンの友人フランをアシュリー・ジェンセンが、フランの夫クリスをマーク・ボナーが、ロブの母ミアをキャリー・フィッシャーが演じている。二〇一六年、ホーガンとディレイニーはこのドラマで、英国アカデミー賞テレビ部門のコメディ脚本賞を受けた。

キャリー・フィッシャーは、二〇一六年十二月二十七日に亡くなった。第三シーズンの最終話は、彼女に捧げられている。

題名は、一九六四年の映画『その男ゾルバ』の台詞からとられた。自分は男だから結婚した、とゾルバは言い、それについてきたものを数えあげる。妻、子ども、家、何もかも。まるごとの大惨事だ、と。日本では、このドラマは原題のまま紹介されている。

読み進める前に、二つ断っておく。この文章は、ドラマそのものを観て書いたものではない。作中で起きることは、各話について公開されている記録と、作り手たちのインタビューにもとづいている。台詞はすべて言い換えていて、そのままの引用ではない。作り手の言葉は、原文を確かめたものだけを訳して引いた。そしてこの文章は、四つのシーズンすべての出来事と、最終話の結末にふれる。結末にふれるのは「いちばんひどい喧嘩」の節からで、その節の頭にそう書いておく。結末を先に画面で見たい人は、そこで読むのをやめて、観たあとで戻ってきてほしい。

逆の端から始まった結婚

このドラマを製作した会社のひとつ、マーマンは、作品をこう紹介している。アメリカ人の男とアイルランド人の女が、ロンドンで恋に落ちようともがきながら、ひどいありさまになっていくコメディ、と。恋に落ちようともがく。妊娠のあとで、求婚のあとで、結婚式のあとで。順番が逆さまなのだ。第一シーズンは、その逆さまからできている。不安な検診がある。アメリカから、帰ってきて全部忘れろと言う母ミアがいる。シャロンの家族がいて、獣医になろうというロブの思いつきがあり、シャロンがそれを止める。そして役所での結婚式。新婚旅行のホテルで言い争っている最中に、シャロンは破水する。

この図書室の「一度ではなく、何度も選ばれる」は、コミットメントは署名や式によって一度つくられるものではない、と論じた。ふつうの日々に、小さく、写真に残らないかたちで選び直され続ける、継続する決断なのだ、と。結婚式は、それを指し示す印にすぎない。『Catastrophe』は、この議論に難しい例をひとつ突きつける。この二人には、選び直すべき最初の選択がない。二人が引き受けたのは妊娠であって、互いではなかった。二人は、すでに始まってしまった結婚の内側で、子どもの誕生を待ちながら、賛成してくれる人もほとんどいないなかで、初めて選ばなければならない。

そうなると、日々の選び直しの姿も変わってくる。あの文章で、小さな日々の選択として描かれていたのは、朝のコーヒーを淹れながら、前の晩に妻が話していた仕事のことを本気で尋ね返す夫だった。『Catastrophe』では、それがもっと口の悪いかたちをとる。投げつけられた皮肉を受けとめて、投げ返すことだ。

それもまた、選択の一種として真剣に受けとめてよい。からかえるのは、気づいたことだけだ。言い返せるのは、聞いていたからだ。ほとんど見知らぬ者どうしとして始まった二人にとって、悪口の応酬は、互いを知るいちばん早い方法のひとつかもしれない。そして一日に何度も、言葉にせずに伝える方法でもある。まだここにいる、まだ遊んでいる、と。

失礼なことを、口に出して言う

この話し方は、早くに決まる。シャロンの友人フランが公園でロブにキスをし、ロブが彼女を押しのけたとき、各話の記録によれば、シャロンがしたのは彼をからかうことだった。第二シーズンでは、二人はどちらも一度も浮気をしていないことを、あっさり口に出して確かめ合う。二人はしょっちゅう、ほとんど何についても言い争い、このドラマの笑いの多くは、その言い争いでできている。

この口の悪さは、笑いのためだけのものではない。どちらも言い返せるから、二人は対等でいられる。まだどちらも手にしていないロマンスの言葉づかいを飛ばして、二人とも使える言葉へまっすぐ行ける。そして、多くの結婚なら何年もたってようやく口にされるか、ついに口にされないままのことを、最初の数か月で言えてしまう。あなたは面倒だ、見栄っぱりだ、ずるい、間違っている、と。

この図書室がアラン・ド・ボトンの小説を読んだ「『The Course of Love』がロマンスの後に始める、本当の物語」と並べてみると、二人は模範生に見える。あの文章は、愛されることは、説明せずにわかってもらえることとは違う、と論じた。大人の親密さに要るのは、魔法の少ない、もっと無防備な技術、つまり必要を言葉にすることだ、と。この結婚では、誰も察してもらうのを待っていない。二人は絶えず、大声で、しばしば意地悪く説明する。二人のあいだには、言えないことなど何ひとつないように見える。

それなのに、このドラマは言えなかったことを何度も見せる。この文章の議論は、ここで向きを変える。言葉にできることと、言葉にされたことは同じではない。ほとんど何にでも使える声を持っていても、いちばん大事な少しのことにだけは、それを使わない。夫婦には、そういうことが起こりうる。これほど流暢で、これほど絶え間なく使われている声は、完全な率直さのように見えてしまう。けれどそれは、打ち明けることと同じではない。

冗談にならなかった三つのこと

四つのシーズンのあいだ、何かに押し出されるまで言われなかったことを、並べてみる。

ひとつめは早い。第一シーズンで、シャロンはロブの母から、彼のかつての恋人が二人のあいだの子を流産していたこと、そしてロブがそれを一度も話していなかったことを知らされる。それがどんな時だったかに、目をとめておきたい。この関係は、そもそも妊娠から始まっている。前にも同じ場所に立ったことがあり、それが喪失で終わった、と話すべき時があったとすれば、それはまさにこの時だった。ほかのことならほとんど何でも言い合う関係のなかで、これだけは言われなかった。

ふたつめは第二シーズンにある。仕事に退屈し、寝不足のロブは、フランス人の同僚オリヴィアに気を引かれる。やがて彼女は、ロブからセクシュアル・ハラスメントを受けたと訴え、ロブはそれを否定する。この文章は、この訴えについてどちらとも判断しないし、この先も軽く扱うことはしない。ここで追うのは、訴えが家のなかに引き出したものだけだ。言わざるをえなくなるまで、ロブはオリヴィアとのいきさつを、シャロンに何ひとつ話していなかった。それを聞いたシャロンは激怒する。

みっつめは、同じ時期に始まる。ロブは家を出て、ホテルの部屋で、何年ぶりかに酒を口にする。家に戻って二人は仲直りするが、彼は隠れて飲み続ける。

どれも、冗談として言えた言葉ではない。それが、三つに共通する形だ。どの言葉も、冗談ならけっして求めないものを聞き手に求める。悼むこと、信じること、心配すること、決めること。そしてどれも、遅れてシャロンに届く。ひとつめは彼の母を通して。ふたつめは、訴えが起きてからようやく。みっつめは車のなかで、呼気検査がそれを明かしてしまう寸前に。

この図書室は、同じくチャンネル4で始まったコメディについて「『フィール・グッド』と、本当のことをいちばん最後に知る人」を書き、真実がたどる道すじを追って、その真実にいちばん関わる人が、何度もいちばん最後にそれを知ると論じた。『Catastrophe』もそれを裏づける。けれどこのドラマは、道すじより手前にある問いを投げかける。そもそもこれらのことは、どんな声でなら言えたのか。この夫婦には、ほとんど何にでも使える声があった。けれどそれは、こういうことを言うための声ではなかった。

同じ車のなかの、二つの言葉

第三シーズンは、すべてが一度に出てくる夜で終わる。シャロンの父デズは脳卒中で倒れ、亡くなった。葬儀のあと、ロブの母ミアが家に居座っているなかで、ロブは酔ったシャロンをバーまで迎えに行く。ピザを買いたいというシャロンを降ろし、車を停める場所を探しているところで、別の車にぶつけられる。血を流しながら、ロブはシャロンに打ち明ける。また飲んでいたこと、警察の呼気検査でそれがわかってしまうこと。

最後のシーズンにあたってチャンネル4が公開したインタビューで、ホーガンはこれを「ひとつのシーズンまるごと、彼が抱えてきた秘密」と呼んでいる。それが出てきたのは、シャロンが、私たちは一人ずつではやっていけない、と彼に言うところまでたどり着いた、ちょうどその時だった、とも。別のインタビューでは、あの車のなかでほかに何が言われたかを振り返っている。シャロンはロブに、どれほど彼を愛しているかを伝えていた。ホーガンの言葉を借りれば、「どこか酔っていて、少し軽く流すような」言い方で。

つまり、あの夜の車のなかで、冗談にならない言葉が二つ出てきたのだ。彼女の言葉は優しく、出てくるには酒が要った。彼の言葉は告白で、出てくるには衝突が要った。どちらも、この結婚がほかのすべてに使っていた声では言われなかったし、言えなかった。

第四シーズンで、ロブは飲酒運転で有罪となり、社会奉仕と、アルコホーリクス・アノニマスの集まりへの参加を命じられる。飲まずに生きることを目指す人たちが、自分の意志で集まる国際的な団体だ。このドラマは、こうしたことを何ひとつうやむやにしないし、この文章もしない。酒を飲む登場人物を前にすると、書き手はつい診断したくなる。この文章は、それもしない。ロブは何年も飲まずにいて、また飲み、それを隠し、事故で露見し、刑を受けた男だ。結婚はそれを抱えて続かなければならず、ドラマはその重さを追っていく。

この文章の論点は、もっと狭い。夫婦が受けとめなければならないかもしれない知らせのなかで、どちらかがまた飲み始めた、という知らせほど、冗談を許さないものはないかもしれない。それは投げ返せない。受けとめるしかない。投げ返せる言葉にだけ流暢な夫婦は、それを置く場所がどこにもないことに気づくことがある。それは、秘密にしてよい理由にはならない。ただ、何でも話しているように見える結婚のなかで、あのような秘密がひとつのシーズンのあいだずっと隠れていられた理由の、一端ではあるのかもしれない。

失礼なことのほうが、なぜ安全なのか

失礼な言い方がなぜ安全なのかは、正確に言っておきたい。安全には聞こえないからだ。悪口は危うく聞こえる。けれどこの二人のあいだでは、逆だ。悪口は、二人とも知っている枠のなかで交わされる。これは遊びだ、という枠である。投げ返せるから、二人は対等でいられる。見返りを何も求めずに、相手を見ていたことの証しになる。そして外れても平気だ。的を外した冗談は、笑ってすませられる。

言いにくい言葉には、そうした守りがひとつもない。枠がない。投げ返せず、答えるしかない。許しや、忍耐や、心配や、決断を求める。うまく届かなくても、笑ってすませることはできない。だから二人が悪口に流暢になればなるほど、言いにくい言葉のほうは別の言語のように響き、そこへ切り替えるのが高くつくようになるのかもしれない。台所で、何でもない夜に、切り替えを強いるものが何もないなかでは、なおさらだ。

この図書室の「『Fleabag フリーバッグ』と、観客という隠れ場所」は、カメラに向けた主人公の語りかけを、告白に見える隠れ場所として読んだ。観客は、彼女が話すと決めたことだけを受けとり、けっして問い返してこない聞き手だ、と。『Catastrophe』は、その逆に組み立てられている。冗談の宛先は、言い返してくる相手だ。だからそれは隠れ場所ではなく、親密さになる。けれど二つの仕掛けには、ひとつ共通点がある。どちらも、心を開いていることにあまりによく似ているので、飾らない言葉が入るはずだった場所を、占めてしまえるのだ。

これは、ユーモアへの不満ではない。この結婚が最初の一年を生き延びられたのは、ユーモアのおかげだったのかもしれない。これは境界の話だ。遊びにできるものなら何でも運べる器は、まさにそのせいで、遊びにできないものを取りこぼす。

好かれなくてもいい主人公

このドラマの秘密は、ほとんどがロブのものだ。だから『Catastrophe』を、隠しごとをする夫と、ただ正直な妻の物語として読むのはたやすい。けれど、そうとは言いきれない。その違いは、このドラマが女性をどう画面に置いているかに関わってくる。

シャロンは四十一歳、アイルランドの出身で、ロンドンの小学校で教えている。妊娠したのは、彼と同じくらい彼女自身のものでもあった火遊びのあとだ。口が悪く、しばしば不公平で、そのどれにも笑いがある。ホーガンはアメリカの公共ラジオの番組で、シャロンを、根はいい人だけれど、自分勝手なふるまいに走りがちな人だと語っている。ひどく酔うこともある。第四シーズンでは、店で値札を貼り替えているところを見つかる。そのあいだずっと、彼女は物語の真ん中にいる。

物語はしばしば、気難しい女性に、遅かれ早かれ好かれる人になることを求める。罰を受けてそうなるか、苦しみを通して赦されるか。シャロンは、最後まで気難しいまま、物語の真ん中に居続ける。ホーガンはこの女性に自分の下の名前を与え、自分で演じた。シャロンのいちばんみっともない瞬間が内側から書かれているのは、そのせいかもしれない。

そして、彼女が言えなかった言葉は、彼のものとは種類が違った。彼の秘密は、しくじりだった。彼女のほうは、ホーガンの話によれば、幸せだった。ロブがどれほど自分を幸せにしてくれるか。最後のシーズンまでは、酔って、軽く流すようにしか口にできなかった言葉。失礼な声は、この結婚でいちばん悪い知らせを運べなかった。いちばん良い知らせも、運べなかった。この対称が、このドラマの主人公への公平さだと思う。ここにいるのは、正直な妻と嘘つきの夫ではない。同じ死角を抱えて、違う方向を向いている二人だ。

日本から読む、事故と授かりものと大惨事

この結婚の始まり方は、日本では珍しいものではない。厚生労働省の人口動態統計特殊報告、令和三年度の「出生に関する統計」は、嫡出の第一子のうち、結婚してから妊娠期間より短いあいだに生まれた子がどれくらいいるかを推計している。結婚は、式を挙げたときと、一緒に暮らし始めたときの、早いほうから数える。二〇一九年には一八・四パーセント、およそ三十八万人のうち約七万人だった。この割合は二〇〇二年の二七・九パーセントを頂点に、下がってきている。母の年齢が三十歳以上では、およそ一割だった。報告書は、この数字の読み方にも注意を促している。これは婚姻に占める割合ではなく、嫡出第一子の出生に占める割合であること。そして、いくつかの仮定にもとづく推計で、結婚期間が月単位でしかわからないため、結果には上下に幅があること。

日本語には、これを呼ぶ言葉がいくつもある。辞書は、妊娠をきっかけにした結婚を、俗に「できちゃった婚」と呼ぶと記し、同じ意味の言葉として「でき婚」「おめでた婚」「授かり婚」を並べている。やわらかい呼び名は、事故を授かりものに変える。英語のドラマは逆の方向へ行き、結婚という企てまるごとを、大惨事と呼ぶ。どちらも誇張だ。一方は礼儀正しく、一方は失礼で、どちらも同じ飾らない一文を避けて通っている。計画したわけではない。それでも、これから選ばなければならない。

夫婦喧嘩は犬も食わない、ということわざもある。辞書によれば、じきに仲直りするのだから、他人が仲裁に入るのは愚かだ、というたとえだ。シャロンとロブの言い争いの大半は、まさにその類のもので、割って入るのは野暮というものだろう。ただ、このことわざは、始まりもしない喧嘩のことまでは言っていない。それを始めるはずの一言が、口にされないままの喧嘩のことは。

これは、日本の夫婦がどう話すか、ロンドンの夫婦より冗談が多いか少ないか、という主張ではない。統計が数えているのは出生であって、会話ではない。ここから持ち帰れるのは、もっと狭いものだ。誰も選ばなかった始まりと、それをあとから選んでいく仕事。

夫婦漫才という形

日本には、夫婦が人前で互いに口悪く言い合ってみせる舞台の形もある。夫婦漫才だ。そのよく知られた一組、ミヤコ蝶々と南都雄二は、一九四八年から夫婦コンビとして舞台に立ち、妻が上に立つ漫才で売り出した。一九五五年からは二人で『夫婦善哉』の司会をつとめ、番組はラジオからテレビへ移った。視聴者が参加する番組で、のちの『新婚さんいらっしゃい!』の先駆けになったとも書かれている。

二人の結婚は、離婚で終わった。コンビは終わらなかった。人名事典は、離婚のあともコンビが続いたこと、そして一九六三年からは元夫婦のコンビで、テレビ版の『夫婦善哉』を始めたことを記している。

この文章が言おうとしてきたことを、これほど鮮やかに示す例は、なかなかない。夫婦の掛け合いは、それ自体の命を持った芸だ。見事でありうるし、愛情深くもありうるし、観客がいちばん愛するところでもありうる。そして、それが表しているように見えた結婚が終わったあとも、続いていける。観客が聞いているのは、芸だ。結婚は別のところにある。演じられることのない言葉のなかに。

『Catastrophe』は、同じ隔たりを、まだ続いている結婚の内側で見せる。見ているのは私たちだけだ。ひとつのシーズンまるごと、このドラマの笑いと、いちばん重い秘密とは、並んで走っていた。

いちばんひどい喧嘩

ここから先、この文章はドラマの結末にふれる。

最後のシーズンでは、ロブが有罪となって社会奉仕と集まりに通い、シャロンは値札の件を起こす。そのあと一家は、休暇でボストンへ向かう。着くとすぐ、ミアが亡くなったことを知らされる。海辺での追悼から歩いて戻る途中、シャロンとロブは、結婚生活でいちばんひどい喧嘩をする。ロブはシャロンに、君のことが好きじゃない、と言う。ボストンで仕事の話があって、それを受けたい、とも言う。

この一言の何が新しいのかを、正確に見ておきたい。この二人は、第一話から悪口を言い合ってきた。けれどこれは皮肉ではない。受けとめてもらうために投げられた言葉ではない。最後のシーズンで、それまでの三つのシーズンでは言えなかった何を言いたかったのか。そう問われて、ホーガンは二つのことを挙げている。ふたつめが、これだ。「ロブが、君のことが好きじゃないとシャロンに告げるところまで行ったこと。そんなことは一度もやったことがなかった。かなり容赦のないものだった」。

ひとつめに挙げたのは、優しい言葉のほうだった。最後のシーズンで、シャロンはロブに、彼がどれほど自分を幸せにしてくれるかを告げる。こんどは、ホーガンの言う「本物の、心からの吐露」として。車のなかの一度目は、酔った勢いの、軽く流すようなものだった。それを可能にしたものについて、彼女はこう語る。「それができたのは、たぶん、それまでお互いにあれだけひどかったからだと思う」。

これが、作り手自身による最後のシーズンの説明だ。そしてそれは、この文章の議論を、表側から言い直したものでもある。四つのシーズンのあいだ、失礼な声は、いちばん大事な二つの言葉、いちばん悪い言葉といちばん良い言葉だけを残して、すべてを運んできた。最後のシーズンで、冗談の尽きた二人は、ついにその二つを飾らずに口にする。ホーガンの話からすれば、優しいほうの言葉は、お互いにあれだけひどかったあとでなければ出てこなかった。シャロンは最初こそ反対するが、やがて、ロブがその仕事を受けること、自分も子どもたちを連れてボストンへ移ることに同意する。

看板の向こうへ

そして浜辺。子どもたちは車のなかで眠っている。シャロンはロブに、また妊娠した、と告げる。下着姿になって、海へ入っていく。ロブは、離岸流の危険を知らせ、遊泳を禁じる看板を目にして、泳いで彼女を追う。二人は口づけを交わし、カメラは、岸から遠く小さくなった二人を残して引いていく。

このドラマは、その一文で始まった。六日間の火遊びから三十二日後、シャロンはボストンに電話をかけて妊娠を告げ、ロブは海を越えて彼女のもとへ来た。ドラマは同じ一文で終わる。それは浜辺で告げられ、男はこんどは、海のなかへ彼女を追っていく。一度目の知らせは、結婚をつくった。二度目の知らせは、いちばんひどい喧嘩をくぐったばかりの結婚のなかで告げられる。それへの答えは、求婚ではない。入るなと書かれた看板を越えて、水のなかへ彼女を追うことだ。

「一度ではなく、何度も選ばれる」にとって、ここがいちばん難しい例になる。あの文章の選び直しは小さく、日々のもので、それを確かめる目安は、何ごともなく、どちらにも何も求められない日だった。『Catastrophe』の選び直しは、いちばん悪い日に、ひとつの死と、はっきりした嫌悪の一言のあとで行われる。小さくはない。約束でもない。イギリスのテレビのトーク番組で、二人は死ぬのかと問われたホーガンは、結末はあいまいにするつもりだったと答え、こう語った。「両方であるはずのもので、二人の未来に、希望と同時に恐れも感じてもらうためのもの」。ディレイニーは、二人そろって受けたインタビューで、最後に二人は愛していると言い合っているのだと話し、こう付け加えている。「だからといって、何もかもうまくいくということではない」。

だから結末は、ドラマが置いたところに置いておく。溺れたのではない。最後の画は、遠い沖で、水のなかに寄り添う二人だ。救われたのでもない。岸にたどり着く姿は映らないし、子どもたちはその岸で眠っている。映っているのは、警告に逆らってなされた選択だ。冗談の尽きた二人が、どうなるかを知らないままにした選択。

ゾルバの台詞、このドラマに名前を与えたあの一言は、結婚を災難と呼ぶ男の冗談だった。妻、子ども、家、何もかも。まるごとの大惨事。このドラマは、三人目の子を身ごもった妻を追って、まるごとの大惨事のなかへ自分から飛びこんでいく男で終わる。ある意味では、まだ冗談だ。けれどそれは、このドラマのなかで初めて、はっきりと誓いでもある冗談だ。

海を渡ったのは誰か

結末は、ひとつの移動をめぐっている。国境を越えて結婚した人なら、ここでいちばん立ち止まるかもしれない。この二人のどちらも、ロンドンが故郷ではなかった。シャロンはアイルランドの出身だ。ロブは妊娠の知らせを受けて大西洋を渡り直し、二人の子が生まれ、葬儀があり、有罪判決を受けても、自分の国ではないその国にとどまり続けた。最後の話で、ロンドンでの暮らしへの彼の不満は、この結婚でいちばんひどい一言と同じ喧嘩のなかで出てくる。それに答えるのは、シャロンだ。こんどは彼女のほうが、移る側になる。

ふたつの国にまたがる結婚は、ひとつの国のなかの結婚なら持たずにすむ帳簿を、抱えることがある。誰が海を渡ったのか、何を置いてきたのか、その分を何で返してもらうべきなのか。こういう帳簿を、掛け合いはうまく扱えない。何年もからかいの種にしながら、一度も開かずにいられてしまう。『Catastrophe』では、それはひとつの死で帰郷が急に切実になったあとに、怒りのなかで出てくる。誰かのために海を渡った人、あるいは誰かに海を渡ってもらった人は、そのからかいと、その下にあったものの両方に、思い当たるところがあるかもしれない。

そして、その結婚で交わされる言葉が、どちらかにとって、育つなかで話してきた言葉ではないなら、それがいちばん出てしまうのは、たぶん口の悪さのところだ。愛情のつもりの皮肉は、悪口から手のひらひとつぶん手前に着地しなければならない。その幅を測るのは、幼いころから聞いてきた耳だ。机に向かって身につけた言葉では、遊びの一言より先に、飾らない一言が出てくることがある。それは足りなさのように感じられるかもしれない。けれど、この二人の四つのシーズンを知ったあとなら、それがどんな足りなさなのかを問い直してもいい。シャロンとロブは、遊びの言葉ならあふれるほど持っていた。見つけられなかったのは、飾らない言葉のほうだった。

この読みへの反論

この読みが間違っているかもしれない点は、少なくとも五つある。

第一に、あの率直さは書かれたものだ。ホーガンとディレイニーは、まさにこの台詞で脚本賞を受けたコメディの書き手で、見る人が感心しているのは結婚ではなく脚本かもしれない。現実の夫婦には書き直しがなく、滑った一言を削ってくれる編集者もいない。答えられるとすれば、この一点だ。この文章は、あの掛け合いを真似るべき手本としてではなく、境界を持った話し方として扱ってきた。そしてその境界は、書かれたものにさえ見えている。

第二に、口の悪さは、口の悪さ以上のものになりうる。二人とも言い返せるときには愛嬌であるものが、片方しか言い返せないときには、別のものになる。このドラマの悪口は双方向で、それが愛情として読める理由の、ほとんどすべてかもしれない。相手の口の悪さが一方通行の人、自分が言い返すことを許されていない人は、この結婚を自分の結婚に重ねる必要はない。それが喜劇の中の話では済まない人のために、書き添えておく。内閣府は、大声でどなることや、相手をおとしめる言葉も、配偶者からの暴力のかたちのひとつに数えている。内閣府の「DV相談+(プラス)」は、0120-279-889で、二十四時間、日本語の電話相談を受け付けている。

第三に、結末は危険を美しく見せているかもしれない。子どもたちが車で眠っているあいだに、禁止の看板を越えて、両親が沖へ泳ぎ出す。作り手自身の「希望と同時に恐れも」という言葉が、それを認めている。この文章はあの泳ぎを誓いとして読んだが、それは喜劇の最後の場面が誘う読みで、親の目なら拒む読みかもしれない。あの浜辺に無謀しか見ない人は、そこに実際にあるものを見ている。

第四に、この文章はロブの告白に甘いかもしれない。彼が話したのは、呼気検査で明らかになる寸前だった。それを告白と呼ぶのは、ほめすぎかもしれない。職場での訴えは、この文章が置いたところに、判断されないまま残っている。この文章はその訴えを、夫婦のあいだに何を引き出したかという点でしか追ってこなかった。それは結婚の内側から語られる物語の角度であり、この文章はその角度の外に出ていない。そう言っておくべきだろう。

第五に、疲れた読者がいちばん感じるかもしれない反論。結末は、ひとりの女性の降伏として読める。夫は、君のことが好きじゃない、自分の国の仕事を受けたい、と言い、彼女は、自分が暮らしを築いてきた国を離れて彼についていくことに同意する。言えることがあるとすれば、最後に動くのは彼女だ、ということだ。知らせを告げるのも、海へ入るのも彼女で、彼はそのあとを追う。けれど、この非対称は現実のものだ。移るのは彼女であり、あの同意に屈服を聞く人は、間違ってはいない。

この図書室が受け取るもの

三つのこと。どれも、規則ではない。

何でも言えることは、打ち明けることと同じではない。流暢で、率直で、とても可笑しい結婚が、いちばん大事な少しの言葉を、一年も抱えたままでいることはある。ひとつの声に長けていることが、もうひとつの声の入る場所を、占めてしまうことがある。

冗談は、いちばん悪い知らせを運べない。いちばん良い知らせも運べない。この結婚で遊びにできなかった言葉は、彼のしくじりと、彼女の幸せだった。どちらも、もっと飾らない声を必要とし、どちらも、最後にはそれを見つけた。

そして、選び直すことは、いい日の小さな優しさだけではない。いちばん悪い日に、いちばん悪い言葉のあとで、うまくいくと約束してくれる人が誰もいないなかで、なされることもある。『Catastrophe』はそこで、遠い沖で終わり、それを安全なものとして飾らない。

だから一度だけ、あなたに。あなたの結婚が、可笑しい結婚なら。子どもたちがやっと寝ついた夜の十一時の台所が、その週いちばんの冗談が生まれる場所なら、それは小さなことではない。二人をつないでいるものの多くが、そこにあるのかもしれない。この読みは、それを手放せとは言わない。ただ、二人がまだ一度も飾らずに言い合ったことのないものが何か、気にとめておいてもいい。どちらかが抱えてきた重いことと、冗談を前に置かずには一度も出てこなかった優しいこと。どちらも、衝突や、よほどひどい夜を待たなくていい。どちらも、可笑しくなくていい。

これは、あるテレビドラマの読みである。架空の人物も、実在の人物も、誰も診断しない。飲酒についても、誰かの結婚についても助言はしないし、物語のなかで登場人物に向けられた訴えについても、何も判断しない。唯一の統計は、日本の出生について厚生労働省が推計した数字で、それが数えているものについてだけ使った。

手元に残す問い

二人のあいだで、冗談としてなら言えるのに、飾らずに言ったことが一度もないことは何だろう。

冗談にならない言葉を、どちらかが相手に向けて、ひとつ抱えていないだろうか。

誰かがどれほど自分を幸せにしてくれているか、最後に飾らずに伝えたのはいつだろう。

あなたの結婚が、どちらも選ばなかったことから始まったのなら、それから二人は何を選んできただろう。

二人が今いる場所にたどり着くために、どちらが何を越えてきただろう。それは、声に出して言われたことがあるだろうか。

ほかの章から読む

一度ではなく、何度も選ばれるアルバムはどこかの引き出しの中にあり、二人ともそれをもう何年も開いていません。十九年経って、二人がなお持っているのは、あの式典ではありません。それは、今朝もまた起きた、はるかに小さく、はるかに写真映えしない何かであり、明日もまた起きる必要があり、静かに引き出しにしまわれるような、何の相当物も持っていません。『The Course of Love』がロマンスの後に始める、本当の物語アラン・ド・ボトンの物語は、たいていの恋愛小説が終わる場所から始まる。愛されることは、説明せずにわかってもらえることとは違う。カナダ。複数の道徳世界と、一つの法と、外にしか開かない扉カナダは、複数性を成り行きに任せるのではなく公式の政策にした数少ない国の一つであり、そのために、ある共同体の規則をふだんは放置している自由主義国家が、その内側にいる女性に何を負っているのかを、公然と決めなければならなかった。四十年ぶんの記録――仲裁をめぐる争い、与えられなかった宗教上の離婚、証言台で覆われた顔、一夫多妻の照会――は、一つの仕組みを異例の明瞭さで描いている。権利には中身があり、値段がある。使うために自分の人々のもとを去ることを要する救済は、救済とは別のものであり、国家が介入しないという自制こそが、その値段を高いままにしている。

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読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

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