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『フィール・グッド』と、本当のことをいちばん最後に知る人
回復の途中にいるコメディアンが、男性としか付き合ったことのない女性と恋に落ち、その恋が次にのめり込むものになっていく。言いにくい本当のことがいつも、それがいちばん関わるたったひとりより先に、親からの電話や鎮痛剤や客席に届いてしまうこの作品で、ふたりの愛が落ち着くのは、その順番が逆になったときだ。
ジョージがはじめて友人たちの前でそれを口にするのは、モルヒネの効いた病院のベッドの上だ。パーティーで男たちに担ぎ上げられ、ガラスのテーブルの上に落とされて、大けがをした。ベッドのまわりには友人たちがいて、知らせを受けたメイが駆けつけている。薬のおかげで、しらふでは言えなかったことが、するりと出てくる。自分とメイは付き合っている、と。その夜、ジョージが眠っているあいだに、メイは病室に置かれていた鎮痛剤を、そっとポケットに入れる。
この病室に、少しとどまってみたい。この作品のすべてが、ここにあるからだ。愛し合うふたりと、ふたつの薬。ひとりは、薬で口がほどけてはじめて、本当のことを声に出せる。もうひとりは、同じような薬をあとのためにしまいこみ、誰にも言わない。
題名は『フィール・グッド』。気持ちよくなること。それは、この物語に出てくるものが、どれも約束していることだ。メイの過去にあるコカイン、ポケットのなかの錠剤、ネタの終わりに返ってくる笑い声、出会って三か月で一緒に暮らしはじめるほどの恋の高揚。題名は皮肉というわけではない。気持ちよさは本物で、登場人物の誰もがそれをどれほど欲しがっているかを、作品はしばしばとても可笑しく描く。けれど作品は、自分の題名になっているものを、だんだん信用しなくなっていく。そして最後には、それよりも信用できるものを見つけている。
この文章が追いかけたいのは、本当のことがたどる道筋である。この作品では、言いにくい本当のことが、いつも順番を間違えて届く。メイがどんな過去を生きてきたのかを、ジョージはメイの両親からの電話で知る。ジョージの友人たちは、メイのことを、モルヒネの効いたジョージの口から知る。メイがいちばん恐れていることを、ジョージはコメディクラブの客席のひとりとして知る。この物語の人たちは、たいてい誰かには本当のことを言える。見知らぬ人に、自助グループの集まりに、マイクに、客席に。二つのシーズンのほとんどを通して、メイとジョージにできないのは、それをいちばん先に、当の相手に言うことだ。だから当の相手は、いつもいちばん最後に知ることになる。そしてふたりの愛は、言うかわりに使われる場所でこそ、うまくいかなくなる。気分を高めるものとして。隠れる場所として。台本のある遊びとして。順番が逆になったときにだけ、ふたりは落ち着いていく。
この作品が最後に見つけるのは、愛はもっと穏やかでなければならない、ということではない。愛は、ふたりが隠れる場所を兼ねることはできない、ということだ。
この作品について、そしてこの文章の読み方
『フィール・グッド』はイギリスのドラマで、各六話の短いシーズンが二つある。原案と脚本はメイ・マーティンとジョー・ハンプソン。シーズン1はイギリスのテレビ局チャンネル4のために作られ、二〇二〇年三月十八日に第一話が放送されて、翌日にはネットフリックスが世界で配信を始めた。チャンネル4は続きを引き受けず、完結編となるシーズン2はネットフリックスが単独で作り、二〇二一年六月四日に配信した。マーティンが演じるのは、マンチェスターで活動するカナダ出身のスタンダップ・コメディアン、メイ。シャーロット・リッチーが演じるジョージは、中等学校、日本でいえば中学から高校にあたる年代の学校で英語を教えている。メイの母リンダを『フレンズ』で知られるリサ・クドローが、父マルコムをエイドリアン・ルキスが演じ、薬物依存の自助グループの年長の参加者マギーを、ソフィー・トンプソンが演じる。二〇二一年、英国王立テレビ協会はマーティンにブレイクスルー賞を、マーティンとハンプソンにコメディの脚本賞を贈り、審査員はその脚本を、人を引きつけ、温かく、誠実だと評した。日本でもネットフリックスで、字幕と吹き替えで観ることができる。
この作品は半自伝的で、そこには注意がいる。マーティンが演じているのは、自分自身をもとにした架空の人物だ。シーズン1の配信前には、この人物について、自分の不安やこだわりを実物よりはるかに大きく膨らませたもので、だいたい十年ほど前の自分だ、と語っていた。同時に、ふたりが違うところもはっきりさせていて、自分の両親とはとても仲がいいのだと、笑いながら念を押している。だからこの文章は、あくまで作品を読む。メイ・マーティンという人の人生について、本人が公に語った以上のことは何も言わない。
マーティン自身はノンバイナリーであることを公表していて、英語では性別を特定しない代名詞で呼ばれるのがうれしいと書いている。作中のメイは、はじめは周りから女性として扱われているが、しだいに自分の性のあり方に確信が持てなくなっていき、最終話で、何も決めつけられないまま、ひとつの言葉を差し出される。日本語はもともと代名詞を省くことの多い言葉なので、この文章ではメイを名前で呼ぶ。性をめぐるメイの問いは、作品が差し出しているとおり、いまも問われている途中の問いとして読み、メイに代わって答えを出すことはしない。
物語に入る前に、もうひとつ。この文章は二つのシーズンの結末まで触れる。結末に入る直前にも、あらためてそう断る。また、シーズン2で明かされる、メイの過去の性的虐待にも触れる。それは一度だけ、はっきりと述べ、詳しくは描かない。
コメディクラブの夜と、三か月後の同居
スタンダップ・コメディは、マイク一本で客の前に立ち、多くは自分の暮らしや失敗を材料にして笑いをとる、ひとり語りの芸だ。日本の漫談に近いところもある。メイはマンチェスターのコメディクラブ「ギャグ・ビン」の舞台に立っていて、その夜の反応はいまひとつだった。客席にひとりだけ、楽しんでいる人がいる。ジョージだ。ふたりは終演後も店に残り、キスをして、ジョージの部屋へ帰る。男性としか付き合ったことのなかったジョージは、三か月もたたないうちに、メイと暮らしはじめている。
メイが話していなかったことを、ジョージが知るのはそのあとだ。メイの両親との電話で、ジョージは、メイがかつてコカインに依存し、売人をして、刑務所にも入っていたことを知る。ここでは、メイの理由を先に聞いておきたい。新しい恋は、新しいページのように感じられることがある。古いページは、誰にとっても、いちばん手渡したくないものだ。マーティンはシーズン1の配信前に、前へ前へと進もうとして、過去と向き合うのを拒んでいるこの人物のあり方には、自分も覚えがあると語っている。
ジョージはメイを、ナルコティクス・アノニマスの集まりに戻らせる。薬物の問題を抱えた人どうしが集まって経験を語り合う自助グループで、経験の長いメンバーが新しいメンバーの相談役、つまりスポンサーになり、回復のための十二のステップを一緒にたどる仕組みがある。メイは最初の集まりで席を立ってしまう。追いかけてきた年長の参加者マギーは、コーヒーを飲みながら、頼まれもしないのに、自分がスポンサーになると決めてしまう。はじめのうちメイは、集まりなんて要らないとでもいうように、こう言ってのける。問題はあった、でもいまはジョージがいる、と。
そこから、隠しごとが始まる。しかも、ふたりの両方で。メイは過去を隠していた。ジョージは現在を隠す。友人たちとの夜、ジョージは付き合っている相手は男性だと言い、やがてその架空の恋人には名前までつく。いとこの結婚式では、招待状に同伴者は含まれていないとメイに言って、ひとりで出かける。一日半置いていかれたメイは、やめてと言われるまでメッセージを送り続ける。そしてその結婚式で、ジョージはカメラマン、つまり見知らぬ人に、自分は女性と付き合っていると話す。
ジョージが隠す理由を、裁く前に
ジョージに厳しくするのはたやすい。作品もそれがたやすいことを知っている。だから先に、もっと難しいほうをやっておきたい。ジョージを理解することだ。
ジョージにとって、男性ではない人と付き合うのはこれがはじめてだ。育ったのは堅い中流家庭で、まわりにいるのは、これまでのジョージしか知らない友人たちである。ジョージを演じたシャーロット・リッチーは、ジョージのことを、自分が世の中の主流にいることに慣れた人だと語っている。そういう人にとって、カミングアウトは一度きりの宣言ではない。これまでの自分の物語を、それを一緒に書いてきた人たちの前で書き直すことであり、しかもそれを、自分の身に起きていることを何と呼べばいいのかも分からないうちに、しなければならない。
その最後の点は、見かけ以上に大事だ。この図書室は「『キャロル』と、「正しい人生」より先に聞こえる視線」で、人は、自分を名づける言葉を持つ前に、誰かに見つけられてしまうことがある、と書いた。問われているのは、これが何なのかではなく、気づかなかったふりをするかどうかだ、と。ジョージは気づいている。まだ名前を持っていないだけだ。隠すことは、ひとつには、まだ出会ってもいない自分を、人前で宣言させられずにすむための方法でもある。
本当のことは、ジョージの口から出てはいる。ただ、いちばん代償の少ない場所で出てくる。結婚式で、見知らぬカメラマンに。モルヒネの効いた病室で、友人たちに。そして翌朝、目を覚ましたジョージのもとには、メイのことや、ジョージ自身の性のあり方について尋ねる友人たちのメッセージが届いている。薬の勢いで言った本当のことも、朝になればちゃんと本当のこととして数えられる。作品は、ジョージにそれを思い知らせる。
だからといって、隠すことがただで済むわけではない。代償は誰かが払っていて、それは主にジョージではない。この図書室は「秘密は約束の条件を変える。プライバシーは、最初から条件のなかになかった。」で、秘密とプライバシーのあいだに線を引いた。秘密とは、相手が頼りにして立っている足場への、伏せられた変更であり、プライバシーとは、相手がそもそも一度も頼りにしていなかったもののことだ、と。その物差しで測れば、ジョージの性のあり方はジョージのものであり、いつ、誰に話すかはジョージが決めていい。けれどこの作品は、この線にとっていちばん難しい場合を見つけてしまう。伏せられているのが関係そのものであるとき、相手はその内側に立っているのだ。メイはジョージの友人に会えない。紹介してもらえない。結婚式にも行けない。そして、男性と付き合っていることになったジョージの暮らしを、すぐ横で聞いている。ジョージのプライバシーと、メイがそこにいるということが、同じ部屋を占めている。ふたりとも、自分に必要なものについて間違ってはいない。だからこそ、痛い。
恋が、次にのめり込むものになるとき
メイの側の傷を、作品ははっきりと名指す。結婚式の週末のあと、自助グループの集まりで、メイは、この恋そのものが依存になってしまったと話す。それはメイの言葉であり、その言葉のために用意された部屋で語られている。この文章は、そこに自分たちの臨床的な言葉を付け足すことはしない。メイの愛し方は、何もかもが速い。最初の夜も、同居も、ジョージが留守のあいだのメッセージも。恋が、かつて薬が占めていた場所に座っている。
シーズン1でいちばん無防備な場面は、ブラックプールで訪れる。イングランド北西部の海辺の行楽地で、カナダから来たメイの両親が、飼っていた猫の遺灰をまきに来ている。両親に償いをするよう勧められていたメイは、ふたりにかしこまって謝る。母のリンダは話をそらす。それから、メイのこれまでの選択を責め、ジョージに向かって、メイはいつも異性愛の女性ばかり好きになるのだと告げる。そのあとジョージは、自分もメイが興味を失っていく次の相手になるのかと尋ねる。メイの答えは、ジョージといると、やっと気持ちが休まる、というものだった。
この図書室は「安心できる人と、惹かれる人が違うとき。」で、大人になってから一度も、安心することと求められることを、同じ相手から同時に感じたことのない人がいて、その人はもう、ふたつが重なることを期待しなくなっている、と書いた。ブラックプールでメイが語っているのは、そのふたつが重なった、まれな場合である。けれど作品が続けて見せるのは、それが困難の終わりではなく、別の形の困難の始まりだということだ。激しさで愛を見分けることを覚えてしまった人は、気持ちが休まることを、どう扱えばいいのか分からないのかもしれない。
だから、休息は長くもたない。もし別れることがあったら、たぶんまた男性と付き合うと思う、とジョージが口にしたあと、鎮痛剤がポケットから出てくる。次にふたりがベッドに入ったとき、メイは、自分の体のこと、性のこと、ジョージが本当に望んでいるもののことを、考えずにいられない。マーティンは、シーズン1で描かれるふたりのセックスの多さについて聞かれて、それはふたりのほとんど唯一の共通点なのだと答え、すべてを呑みこむような苦しみと恍惚が去ったとき、恋には何が残るのかと問い返している。
正しい問いである。そしてシーズン1には、まだ答えがない。いまのところメイにとって、気持ちよくなることは、愛を確かめるために読める、ただひとつの証拠なのかもしれない。
客席に向かって言うこと
シーズン1では、しばらく表舞台を離れていた人気コメディアンがクラブにやってきて、メイに、この芸のいちばん古い助言を与える。本当のことを話せばウケる、と。メイは、客席にジョージのいる舞台に立ち、シーズン1で誰かが口にするなかでいちばん本当のことを話す。自分はトランスジェンダーかもしれない。高校時代のジョージが夢見ていたような恋人になろうとしてきた。いつかジョージに、女として見られてしまうのが怖い。
勇気のいることだ。そして、それはまさに、ジョージを迂回するやり方でもある。一緒に暮らす人がいちばん恐れていることを、ジョージは、笑いに来た大勢の客のひとりとして聞かされる。ジョージは席を立つ。マーティンは、自助グループの集まりと舞台のつながりについて聞かれたとき、作品と同じ線を引いている。集まりには舞台よりずっと多くの正直さがある。舞台はいつも、編集された自分でしかない。そして、重い話題を舞台で話して笑いをとることは、その問題を片づけることと同じではない、と。
イギリスのコメディは、この仕掛けをよく知っている。『Fleabag フリーバッグ』の主人公は、ほかの人が話しているあいだにカメラのほうを向き、本当は何を考えているかを、観ている私たちに打ち明ける。やがて、同じ部屋にいるある男が、その仕草に気づく。この作品の場合は、もっと居心地が悪い。客席は本物で、その告白がいちばん関わる人が、そこに座っているからだ。ひとつの出し物が終わるまでのあいだ、見知らぬ客のひとりにされて。
そのあとジョージは、すでに見つけていた錠剤を前に、メイにひとつだけ尋ねる。それを飲むと幸せになれるのか、と。メイは、あまり、と答える。ふたりは別れる。メイは再び薬に手を出し、マギーの娘と関係を持ち、集まりのなかで自分を引き受けてくれたたったひとりの人を失って、カナダへ帰る便を予約する。そしてちょうどそのころ、ジョージは、それまで行きつけなかった場所にたどり着く。謝って、メイを自分の母親に紹介するのだ。そのときにはもう、便は予約されている。この作品では、本当のことが間違っていることはめったにない。たいてい、遅れて届くのだ。
二度目の機会と、隠れるための役
シーズン2は、メイが十八歳のときにも入っていた、カナダの更生施設から始まる。施設の職員はメイに、ジョージと距離を置いて回復に専念するよう勧め、メイはジョージに電話をかけて、一緒に暮らすのをやめようと言う。十代のころのことを尋ねられたメイは、その多くが記憶から抜け落ちていることに気づく。メイは、昔同じ家に住んでいたことのあるコメディアン仲間のスコットと一緒に、施設をあとにする。作品はそれを、何も言わずに通り過ぎる。あとで戻ってくるために。
イギリスでは、ジョージが同僚のエリオットと付き合っている。そしてジョージは、自分について知ったことがある。エリオットが受けとめきれないほど激しいセックスを、自分は望んでいるのだ。ジョージがそれを求めると、エリオットは尻込みする。ジョージは、自分の望むものを口に出した。多くの人がなかなかできないことだ。作品は、そのことでジョージを罰しない。ジョージはメイのもとへ戻る。数週間のうちに、ふたりはギャグ・ビンから始まった最初の夜をなぞり直し、それから、次々に役を演じはじめる。
それ自体に問題があるわけではないし、この文章もそう扱うつもりはない。大人ふたりが合意して遊ぶことはありふれたことで、多くのカップルにとって、近づくための方法のひとつでもある。作品が問うのは、ここで、このふたりにとって、その遊びが何をしているのか、ということだ。答えは物語の内側から出てくる。ある夜の病院で、メイが遊びを始めようとし、ジョージはその場を立ち去る。ほどなくジョージは、しばらくセックスを休もうと提案し、メイは、あの遊びに惹かれていたのは、自分の体から抜け出せたからだと思い至る。役は、メイに、メイではない居場所を与えていた。
ここで同意は、はじめの「はい」以上のものになる。ふたりの遊びは、大人どうしの合意のうえにあった。けれど「はい」は、そのあとのすべてを縛る契約ではないし、放っておいても本当であり続けるものでもない。それは、ふたりがまだそこにいることにかかっている。遊びのなかで、どちらかがどこか別の場所へ行ってしまったとき、もう一方がそれに気づいて止めることは、遊びの失敗ではない。それは、同意のなかの、思いやりの形をした部分だ。しばらく休もうというジョージの提案は、このあたりでふたりのどちらかがすることのなかで、いちばん愛のこもったものかもしれない。
作品が使う言葉と、この文章が足さない言葉
同じ病院で、メイは酸素マスクから息を吸っているところを見つかり、医療者から、心的外傷後ストレス障害の症状が出ていると告げられる。パニック発作と記憶の欠落のあとで、登場人物が登場人物に与えた、作品の言葉である。この文章はそれを伝えるだけで、自分の言葉は足さない。
そしてメイは、それがどこから来ているのかをジョージに話す。十代のころ、メイはずっと年上の人たちから性的虐待を受けていた。それは秘密のうちに起きていた。そのひとりが、メイが一緒に施設をあとにした、昔なじみのスコットだった。スコットは三十歳で、メイは十五歳だった。十五歳の子どもが、大人に同意することはできない。ここには、秤にかけるものは何もない。この文章は、これ以上は描かない。
ここから振り返ると、シーズン1は違って見えてくる。以下は作品が語っていることではなく、この文章の読みである。シーズン1のほとんどを通して、メイは秘密にされることに耐えられなかった。それは外から見れば、せっかちさや、意地や、甘えに見えた。けれど、メイが傷つけられたのは、秘密という条件のなかでだった。その加害は、誰にも知られないことに支えられていた。ジョージは、そのこととは何の関係もない自分自身の理由でメイを隠していたし、自分の隠しごとが何に触れていたのかを知りようがなかった。メイ自身も、それを言葉にできなかったのだろう。愛している人に隠されることと、傷つけている人に秘密を強いられることは、同じ行為ではない。両者が同じだと言うつもりは、この文章にはない。ただ、ふたつは同じ場所に落ちることがあるのかもしれない。
これですべてを説明してしまうのは、たやすい。作品はそれを拒む。虐待を、それまでのあらゆる場面を開ける鍵にはしない。薬への逆戻りも、マギーの娘との一夜も、押し寄せるメッセージも、隠していた錠剤も、やはりメイのものだ。シーズン2で、友人たちはメイを囲んで話し合いの場を設け、そばにいてどうだったかを代わる代わる伝える。メイはようやく、自分の暮らしがどれほど自分のことばかりだったかに気づく。マーティンはシーズン1の配信前に、「かわいそうな私」の物語を書いているように見えるのがとても心配で、あえてこの人物の欠点を引き出すようにしたと語っていた。シーズン2は、いちばんつらいことを明かしたあとも、その約束を守っている。
この図書室は「歴史を持った、まるごとのひと。」で、傷つけられた人に差し出される物語はたいてい二つしかない、と書いた。損なわれたのだから修復されなければならない、という物語と、もう大丈夫なのだから、いつまでも考えるのはやめるべきだ、という物語。どちらも偽りで、その人は、歴史を持った、まるごとのひとだ、と。歴史はその人の物語の一部であり、それでいて、この先のすべての文を書くわけではない。この作品は、メイをまさにそこに立たせる。起きたことは、多くを説明する。けれど、メイがほかの誰かにしたことを何ひとつ免罪しないし、メイを、欠けた人にもしない。
客席の前の求婚と、ふたりを救った「いいえ」
ここから先は、最後の二話と、作品の結末に触れる。
シーズン2では、ジョージにも清算のときが来る。同じくジョージという名の、同性愛を嫌う父が予告なしにやってきて、ふたりは正面からぶつかる。ジョージはすでに、エリオットと立ち上げた教師たちの活動をやめていた。メイに集中しなければならないから、と言って。そして、ジョージに本当のことを告げるのは、自分なりの思惑を抱えたエリオットである。きみはいつもメイを支えてばかりで、その逆はない、と。
やがてジョージは学校で生徒たちの発表会を開き、メイは、善意からではないエリオットの助言に乗って、観客の前の舞台で、ジョージに結婚を申し込む。ラブコメディが、観る者に待つことを教えてきた、あの大きな見せ場だ。ジョージは断る。
その「いいえ」が何を断っているのかを、正確に見ておきたい。メイではない。客席だ。観客の前で投げかけられた問いは、ふたりきりで尋ねられる同じ問いとは違う。観客は、一方の答えを安くし、もう一方の答えをひどく高くつくものにするからだ。だから公開の求婚は、愛のつもりでなされても、圧力として働きうる。そしてだからこそ、ジョージの「いいえ」は、二つのシーズンを通してジョージが口にするなかで、いちばん正直な言葉なのかもしれない。人前で、しらふで、自分の条件で、代償を払って告げる本当のこと。女性の「はい」を長く見せ場にしてきたジャンルのなかで、この作品はヒロインに「いいえ」を与え、それでも愛が生き延びるところを見せる。
差し出された言葉、閉じられた扉、そして桟橋
最終話で、メイとジョージはカナダのメイの実家へ向かう。そこではリンダの不信が監視に変わっていて、それは薬物検査にまで及んでいる。ふたりはその目を逃れ、抜け出した先のどこかで、ジョージは、ノンバイナリーという言葉を考えてみてはどうかとメイに言う。それは差し出されたのであって、押しつけられたのではない。作品は、その言葉をメイの手に預けたままにする。一つ前のシーズンでは、友人たちの前でメイを認めることもできなかった人が、いまは、メイが自分を名づけるための言葉を、ふたりきりのところで、問いのかたちで差し出している。
両親にも、打ち明けるべき本当のことがあった。それはこの物語の常として、ひどく遅れて届く。リンダがずっとメイのせいにしてきた置物を壊したのは自分だった、とマルコムが白状するのだ。小さなことで、少しも小さくないことだ。何年ものあいだメイが背負わされてきた責めが、最初から知っていた人のひと言で、ようやく下ろされる。
それからメイは、スコットに会いに行く。スコットは、かつてメイの面倒を見てやったことが自分に何かの権利を与えたかのように話し、自分の評判のことを気に病んでみせる。メイは、スコットがしたことを名指す。メイはスコットを抱きしめる。そして、二度と会いたくないと告げる。その抱擁は説明されないし、この文章もメイに代わって説明するつもりはない。友人であるはずだったスコットへの嘆きかもしれないし、十代の自分への嘆きかもしれないし、名前のない何かかもしれない。作品がメイに最後に言わせるのは、二度と会いたくないという、扉を閉じる一文である。誰かの面倒を見たからといって、その人への権利が生まれることはない。これまでも、一度もなかった。
そして、桟橋。メイとジョージは水辺に並んで座っている。これまでになく落ち着いたふたりとして。物語のなかでは、誰もふたりを見ていない。舞台も、役も、求婚もない。関係を演じてみせる相手も、隠す相手もいない。シーズン2の配信当時に書かれたある批評は、カメラの動きさえ落ち着いて感じられると書いている。題名は『フィール・グッド』だが、この作品は、気持ちよさでは終わらない。落ち着きで終わる。それは気持ちよさより静かで、売り込みにくく、そしてふたりが自分で手に入れたものだ。
日本で観るとき、外から観るとき
日本でこの作品を観るとき、補っておきたいことがいくつかある。ナルコティクス・アノニマスは、イギリスだけのものではない。日本の組織は、これを、薬物によって大きな問題を抱えた仲間どうしの非営利の集まりだと説明していて、メンバーになるために求められるのは、使うことをやめたいという願いだけだという。集まりは北海道から沖縄まで全国で開かれていて、そのなかには女性だけの集まりも、性的少数者のための集まりも、日本語と英語のバイリンガルの集まりもある。
厚生労働省は、アルコールや薬物、ギャンブルなどの依存症は、適切な治療とその後の支援によって回復が可能だとしたうえで、偏見や差別のために、本人や家族が治療や支援につながりにくいことを課題に挙げている。そこに置いてみると、この作品が差し出すいちばん素朴なものは、その普通さかもしれない。ここでの回復は、メイが途中で出ていってしまう集まりであり、出しゃばりすぎるスポンサーであり、逆戻りであり、前にも入ったことのある施設であり、そして、また戻ってくることだ。そのすべてが喜劇として描かれ、どれも嘲りとしては描かれない。マーティンはシーズン1の配信前に、この作品が、依存というものを少しでも身近な人間の話として見せられたらと語っていた。
カミングアウトについて言えば、日本の職場の指針は、この文章がジョージについてとってきた立場を、すでにとっている。厚生労働省は、上司との面談などで打ち明けられた性的指向や性自認を、本人の了解を得ずにほかの労働者に暴露することを、パワーハラスメントの例として挙げている。言うかどうか、いつ言うかは、本人のものだ。この作品が付け加えるのは、指針には収まりきらない部分である。伏せられているのが関係であるとき、その内側にはもうひとりが住んでいて、沈黙の代償の一部を払っている。
シャーロット・リッチーは、自分とマーティンのもとに届いた声は、自分の性のあり方が描かれていると感じた人たちからだけでなく、秘密の関係のなかにいるかもしれない人や、恥を感じている人たちからも来たと語っている。この作品を、見かけ以上に身近に感じる読者が、日本には少なくとも二通りいるかもしれない。ひとりは、海外から日本に移り住み、家族や職場に自分のことを知らされていない相手と暮らしている女性だ。ジョージの隠しごとは、その人には翻訳がいらない。隠される側が払うものも、同じように分かるだろう。もうひとりは、生まれ育った場所から遠く離れ、母語ではない言葉のなかで回復の途中にいる人である。新しい街でメイが最初に見つけた居場所、つまり本当のことを言うために見知らぬ人たちが集まる部屋は、その人にとって、喜劇の設定というより、暮らしを立て直すやり方の描写だろう。そういう部屋が、ここでは二つの言葉で開かれていることもある。
もし薬物やアルコールが、あなたや身近な人の問題になっているなら、厚生労働省は、住んでいる地域の保健所や精神保健福祉センター、そしてナルコティクス・アノニマスのような自助グループを、相談先として案内している。もしメイに起きたようなことが、あなたにも起きていたのなら、全国共通の番号#8891にかければ、最寄りの性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターにつながる。多くの電話から、通話料はかからない。
この読みへの反論
反論を四つ挙げる。はじめの二つは、当たっている。
第一に、この文章は、ジョージに公平であると約束したまさにその地点で、ジョージに不公平だった、という反論。メイが受けた虐待の秘密と、ジョージの隠しごとの秘密を、どれほど慎重にであれ並べて置くことは、ジョージを、本来並ぶはずのない列に立たせてしまう。ジョージは、まだ名前のない自分を守ろうとしていた、怯えたひとりの女性だった。わざと誰かを傷つけたわけではないし、何も知らなかった。これは認める。この文章が言ったのは、ふたつがメイのなかで同じ場所に落ちるのかもしれない、ということだけで、作品はそれさえ言っていない。その重ね合わせは書かずにおくべきだったと考える読者は、正当な指摘をしている。
第二に、当の相手に言えというのは、きれいにまとまりすぎた教訓だ、という反論。多くの人と多くの本当のことにとって、見知らぬ人たちの部屋のほうが、当の相手より安全である。作品もそれを知っている。メイの最初の正直な言葉は、自助グループの集まりと舞台で語られ、それは無価値ではなかった。ジョージが席を立ったあの舞台は動画で広まってメイの仕事を押し上げたし、集まりは、メイがそもそも言葉を覚える場所だった。当の相手には、まだ言うべきでない本当のこともある。誰も、相手の都合に合わせて打ち明ける義務を負ってはいない。残るのは、もっと狭い主張だ。部屋は練習の場所でありうる。けれど、その本当のことの上に立っている人が、最後に知る人であってはならない。
第三に、結末はジャンルが言わせたものではないか、という反論。ラブコメディはカップルを互いのもとへ戻すものだし、水辺の桟橋は、ラブコメディがふたりを置いていきたがる場所でもある。より正直な結末は、落ち着きを取り戻したふたりが別々に暮らすことだったと考える読者は、何も読み違えていない。作品は桟橋を選んだ。それが正しかったと証明することは、この文章にはできない。
第四に、これがどんな種類の作品なのか、という問題。この作品は作り手の人生から材料を得ていて、証言として読みたくなる。けれどこれは虚構であり、作り手自身が、どこを膨らませ、どこはそうでないかを公に語っている。メイの依存や、性のあり方や、受けた虐待を、メイ・マーティンという人についての報告として読むことは、踏み込んではならない場所に踏み込むことだ。この文章は、そうしないように努めてきた。
この図書室の立場と、この家に差し出せないもの
この図書室の立場を書いておく。気持ちよくなることと、元気でいることは違う。気持ちよさだけを求められる愛は、薬の仕事をさせられることになる。プライバシーと秘密は違う。伏せられているものが人であるとき、その人にも言い分がある。求められることと、認められることは違う。そして認められることは、ほかの人たちの前で起きる。本当のことがどの順番で届くかは、大事だ。部屋は、言葉を見つける場所でありうる。けれど、その本当のことの上に立っている人には、部屋より先に、あなたの口から直接それを聞く資格がある。
そして、この家にとって不利なことも書いておく。この家は私的な同伴を売っている。区切られ、予定され、代金が支払われる。誰にも知られる必要のないひと晩は、休息になりうる。同時にそれは、この作品が警告しているものそのものにもなりうる。誰にも何も告げなくていい部屋、決まった時刻に気持ちよさが届き、暮らしのほかの部分に何の跡も残さない部屋に。それが誰にとってどちらなのかを、ここから見分けることはできない。そして、この作品が言うひとりは、見知らぬ人でも、代金を払って会う人でもなく、私たちでもない。ひとりに向かって言うことについての文章が、ひとりと過ごす時間を売っている事業から出ていることに気づいた読者には、そのぶんを割り引いて読む権利がある。
最後に、手元に残す問い
あなたがまだ言っていないことの上に立っているのは、誰だろう。そしてその人より先に、それを聞いたのは誰だろう。友人か、どこかの部屋か、画面か、グラスの中身か。あなたが伏せていることは、あなただけのものだろうか。それとも、その内側に誰かが住んでいるだろうか。気持ちよかったことは、翌朝のあなたを落ち着かせているだろうか。それとも、もっと欲しくさせるだけだろうか。そしてもしあなたが隠される側なら、それが自分にとってどれほどの負担なのかを、相手に伝えたことはあるだろうか。
もしあなたが隠す側なら、あなたは臆病なのではない。本物の何かを守っているのだし、その時期を決めるのはあなただ。もしあなたが隠される側なら、それをつらいと思うことは、求めすぎではない。そのふたつは同時に本当でありうる。この作品は、二つのシーズンをかけて、そのことを確かめていく。そして、演じるものも、演じてみせる相手もいない桟橋にふたりを座らせて、幕を閉じる。ふたりがこの先大丈夫だとは約束しない。ただ、ようやく互いに、いちばん先に打ち明けるようになったふたりを、見せてくれる。
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