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Cinema

『Fleabag フリーバッグ』と、観客という隠れ場所

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ロンドンに暮らすひとりの女性にとって、ほとんどすべてを打ち明けられるのに何ひとつ聞き返してこない観客は、いちばん安全な部屋だった。その隠れ場所にひとりの神父が気づいたとき、見られることが彼女に何をもたらすのかを、観客にさえ隠していた罪悪感から、私たちを置いて歩き去るバス停まで追っていく。

真夜中のロンドンのアパート。玄関のドアの内側で、ひとりの女性が男を待っている。いまから会いに行ってもいいかと、夜中にメッセージを送ってきた男だ。男が着く前に、彼女は振り向いて、まっすぐこちらを見る。そして、ソファの隣にいる友だちに話すような調子で、たったいま自分がどれだけ手をかけて、何もしていないように見せかけたのかを打ち明ける。やがて男が来て、ふたりはベッドのなかにいる。それでも彼女は、こちらに話しかけている。

これが『Fleabag フリーバッグ』の最初の一分であり、このドラマそのものの縮図でもある。彼女は誰かと同じ部屋にいながら、同時に別の場所にもいる。こちら側、つまり私たちのところに。演劇では、舞台と客席のあいだにあると考えられている見えない壁を「第四の壁」と呼び、登場人物が観客に直接話しかけることを「第四の壁を破る」という。二つの短いシーズンを通して、彼女は場面の途中でカメラのほうへ向き直り、ひとことか、視線だけをこちらへ送ってよこす。部屋にいる誰も、それに気づかない。一緒にいる相手を本当はどう思っているのかを、彼女は私たちにだけ教える。私たちは笑い、彼女の側につき、作品の狙いどおり、彼女の共犯者になる。

ところが第二シーズンで、彼女と話していたひとりの男が、ふと言葉を止める。彼女がいつものようにこちらを向いた、その直後だ。いま、どこへ行っていたのか、と彼は尋ねる。男はカトリックの神父で、物語のなかで、彼女のそのしぐさに気づいた最初の人である。

この文章は、その問いが彼女に何をもたらすのかについて書く。

二つのシーズンの最後の場面まで、結末を含めて触れる。物語の底にはひとつの死があり、第一シーズンの終わりには、彼女が自ら命を絶とうとしかける。どちらもここでははっきりと書き、その様子は描かない。

論じたいのは、こういうことだ。観客は、彼女の打ち明け相手だっただけではない。隠れ場所だった。私たちは、彼女の人生で、何ひとつ聞き返すことのできない唯一の聞き手である。彼女が話すと決めたことはすべて受けとり、話さないと決めたことは何ひとつ受けとらない。笑うべきところで笑い、傷つかず、家族に告げ口もしない。言えないものを抱えた人にとって、これほど都合のいい相手はいない。そして第一シーズンは、観客にさえ隠していたことがひとつあったと明かすことで、そのことを自分で証明してしまう。やがて、彼女がこちらへ来るとき、どこへ行っているのかに気づく人が現れる。見られることは彼女から隠れ場所を奪い、そのかわりに、彼女が実際にいる部屋を返す。男を与えはしない。神を選んだ彼が去ったあと、バス停で彼女はもう一度だけこちらを見て、首を横に振り、私たちを置いて歩いていく。

どんな作品か、そしてこの文章の読み方

このドラマの脚本を書き、主人公を演じているのはフィービー・ウォーラー=ブリッジである。もとは彼女が二〇一三年、スコットランドのエディンバラで毎年夏に開かれる演劇祭、エディンバラ・フリンジで初演した一人芝居で、その年、演劇祭で賞を受けている。ドラマ版はイギリスの公共放送のチャンネルで、第一シーズンの六話が二〇一六年の夏に、第二シーズンの六話が二〇一九年の春に放送された。一話はおよそ二十五分で、第一話をのぞく全話をハリー・ブラッドビアが監督している。

姉のクレアをシアン・クリフォード、神父をアンドリュー・スコット、父をビル・パターソン、クレアの夫マーティンをブレット・ゲルマンが演じる。オリヴィア・コールマンが演じるのは姉妹の名付け親で、母の死後まもなく父と付き合いはじめた芸術家だ。ここでいう名付け親は、実際に名前をつけた人のことではなく、キリスト教の洗礼に立ち会って子どもの後見を引き受ける人、いわゆるゴッドマザーを指す。第二シーズンは二〇一九年のエミー賞で、コメディ部門の作品賞、主演女優賞、脚本賞など六つの賞を受けた。日本ではプライム・ビデオで配信されている。

主人公には最後まで名前がない。まわりの人物は、父、名付け親、神父と、彼女との関係で呼ばれ、彼女だけがひとつのあだ名で呼ばれている。フリーバッグは英語の俗語で、薄汚れた安宿や、毛並みの荒れた動物を指す。ウォーラー=ブリッジは、若いころ自分がフリーバッグやフリーと呼ばれていたと明かし、人生を自分で握っているように見えて、実はそうではない人物にしたかったと語っている。

読み方について、ひとつだけ断っておく。台詞は引用せず、言い換えて示す。この文章が読むのは仕掛けのほうだ。カメラに話しかけることが何をしているのか、そして作品がそれにどんな代償を払わせるのか。それを使っている女性を診断することはしない。彼女は非常に精密に書かれた登場人物であり、心の病の名前を当てはめたくなる人もいるだろうが、ここでは使わない。作品のほうが、どの言葉よりも正確だからだ。

打ち明け話に、ひとつだけ欠けていたもの

彼女の目配せは、テレビでいちばん正直なものに見える。欲望、軽蔑、退屈、最悪のタイミングで浮かぶみっともない考え。意地悪をする自分さえ、彼女は見せてくれる。すべてを打ち明けてもらっているのだと思いたくなるし、作品もそう思わせようとしている。

ブーについて、私たちが知らされるのはこういうことだ。ブーは親友で、ふたりは一緒にカフェを開いた。いまはフリーバッグがひとりで切り盛りしていて、どうにも儲からない店である。もとは普通のカフェだったが、誕生日の贈り物に困ったフリーバッグがモルモットのヒラリーをブーに贈り、ブーがそのモルモットを大まじめに可愛がるうちに、店はすっかりモルモットのカフェになった。ブーはもういない。第一話、家へ帰るタクシーのなかで、フリーバッグは運転手に何があったのかを話し、私たちはそれを聞く。恋人に浮気されたブーは、彼を懲らしめるために狂言の自殺をしようとして、それがそのまま死につながってしまった、と。

彼女が話さないのは、その恋人の浮気相手が自分だったということだ。

私たちがそれを知るのは第一シーズンの終わり、ほかのすべてが崩れていくのと同じ流れのなかでである。クレアは妹ではなく、マーティンの言い分を信じる。姉妹の言い争いがひとつの記憶を呼び起こし、ドラマは、彼女がカメラにさえ隠していたことを見せる。六話ぶんの親密さが、そこで一気に組み替えられる。楽しんできた目配せは、どれも本当だった。そしてそのすべてが、言わずにいたひとつのことを中心に並べられていた。

ここに、このドラマがひそかに扱っている、観客というものの性質がある。観客は聞き返すことができない。差し出されたものを受けとるしかないので、なされた告白は聞けても、なされなかった告白に気づく手立てがない。ソファの隣の友だちなら、いつかは尋ねただろう。なぜ恋人の話を一度もしないのか。なぜあの店にそこまでこだわるのか。あの夜、本当は何があったのか。私たちには尋ねられなかった。仕掛けとして読むなら、そこが肝心なところだ。秘密を抱えた人にとって、決して話をさえぎらない聞き手ほど、選びやすい相手はいない。

この図書室の「『ブルーツ』と、正面からは言えないものの器」は、悲しみはときに横からしか口にできず、耐えられないものに斜めから近づくあいだ、人は何か手放さずにいられるものを必要とする、そしてそれは回避とは違う、と論じた。彼女の目配せも、ひとつの器である。ただし、逆向きにつくられている。ほかのすべてを入れておくことで、そのひとつには近づかずにすむようにできているのだ。そう読むなら、第一シーズンでは、セックスも冗談もカメラそのものも、同じ仕事をしている。ひとつの感情を感じずにすませる仕事を。その感情とは、罪悪感である。

物語として語られるセックス

この作品は、セックスの場面から始まる。しかもそれを、進行中の打ち明け話として見せる。語り口の偶然ではない。第一シーズンの彼女は、たいして好きでもない男たちと寝て、そのことを淡々と、ときには最中に、こちらへ語って聞かせる。相手のひとりを、作品はののしり言葉のあだ名でしか呼ばない。セックスはここで、いくつもの意味を同時に持っている。欲求であり、作品はそれを一度も詫びない。気晴らしでもあり、ときには、自分で自分に与える罰に近いものでもある。

それを何かの「症状」と呼んで片づけるのはたやすい。この文章はそうしない。作品のほうが、症状という言葉よりずっと正確だからだ。カメラがセックスにすることは、それを素材に変えることである。自分に起きていることを話として語っているあいだ、人はその経験の内側にいる者ではなく、語り手になる。ベッドのなかにいながら、同時に外にもいられる。加わるには十分に近く、論評するには十分に遠い。多くを感じる余裕のない人にとって、それは文体の癖ではない。とても具合のいい立ち位置なのだ。

欲望についての彼女の率直さは、正当に称賛された。けれど率直さは、親密さと同じではない。率直さは本物だ。彼女は欲しがり、楽しみ、欲しがることを面白おかしく語り、物語はそのどれも罰しない。それでも、彼女がセックスについて語ることはすべて、彼女に触れることも、彼女に何かを求めることも、あとで彼女に失望することもできない相手に向けられている。

第一シーズンで、彼女が差し出していないものをいちばんはっきり奪おうとするのは、姉の夫だ。クレアの誕生日の集まりで、酔ったマーティンは彼女にキスしようとし、彼女は拒む。それをクレアに告げると、マーティンは、迫ったのは妹のほうだと妻を言いくるめる。クレアはそれを信じ、フィンランドでの昇進を断って夫のもとにとどまる。はっきりと拒んだはずの出来事が、拒まれた男によって書き換えられ、いちばん正しく見てほしかった人が、それを見ない。このことを、この文章のほかのすべての横に置いておいてほしい。見られることの反対は、無視されることではない。近しい誰かに、別の誰かに都合のいい版で読まれてしまうことだ。

閉めずにいるカフェ

物語が始まるとき、カフェは傾いている。銀行には融資を断られ、客はまばらだ。それでも彼女は店を開けつづける。モルモットと、そのまわりに増えていった飾りと一緒に。その理由を、作品は口にする必要がない。ブーと最後に一緒につくったものであり、同時に、自分のしたことを知ったまま、毎日立っていなければならない場所でもあるからだ。

作品は、この罪悪感をぼかさずに示す。ブーは死に、フリーバッグは、ブーが懲らしめようとした裏切りの相手だった。物語はそれを実際より軽く扱わないし、だから彼女は壊れて当然だとも決めつけない。どちらも作り手の選択であり、どちらも大事なことだ。

第一シーズンの終わりは、このドラマでいちばん低い場所である。はっきり書いておく。クレアはマーティンを信じた。父のもとを訪ねると、父は彼女に背を向ける。彼女は、自ら命を絶とうとしかける。そこへ、融資を断ったあの銀行員が、たまたまカフェの前を通りかかる。立ち止まり、大丈夫かと声をかける。彼女は、抱えてきた罪悪感を打ち明ける。彼は耳を傾け、人は間違えるものだ、だから鉛筆のお尻には消しゴムがついている、と言い、融資の話をもう一度検討しようと申し出る。

あの夜を内側から知っている人は、訓練を受けた人か専門の相談窓口に、後回しにせず今夜のうちに話してほしい。頼ることは、大げさな反応ではない。

この物語で最初の本当の告白を聞くのが誰なのか、見ておきたい。私たちではない。自分自身も厄介ごとを抱え、彼女の過去には何の利害もない、背広姿の男だ。彼女が一度も演じてみせたことのない相手である。ありふれた問いをひとつ投げかけ、答えを待つ。カメラに向かって六話ぶん話しつづけても起きなかったことが、ひとりの人が立ち止まっただけで起きる。作品は彼女の絶望を見せ場にしないし、この文章もしない。ありふれた問いに、仕事をまかせている。

これはラブストーリーだ、と彼女は言う

第二シーズンは一年後から始まる。顔には血がついている。レストランのトイレで鼻血をぬぐいながら、彼女はこちらを向いて、これはラブストーリーなのだと告げる。それはひとつの主張であり、このシーズンのすべてが、それを試していく。

カフェは繁盛している、とやがてわかる。その夜は、父と名付け親の婚約を祝う食事会だ。そのさなかにクレアが流産し、誰にも言おうとせず、病院にも行こうとしない。フリーバッグは、姉が隠しておけるように、流産は自分のことだと食卓で言い、そのことを軽く扱うマーティンにつかみかかる。姉妹はタクシーで病院へ向かう。

愛から出た嘘だ。そしてそれは、彼女が真実に対してすることのすべてと、同じ形をしている。扱える場所へ、真実を移すのである。

クレアはこの物語のもう半分で、この図書室はすでに彼女について書いている。『全部を抱えている女性は「大丈夫」なのではなく、上手いだけだ。』は、クレアを、すべてを回しつづけて大丈夫と言う女性として読み、姉妹が二つの変装をしていると指摘した。クレアの有能さと、フリーバッグのカメラへの視線である。後者をあの文章は、その場にいないための彼女の方法と呼んだ。あの文章は、あえて第二シーズンの結末の手前で筆を止めている。この文章はもう一方の変装を引き受け、その先まで追う。第二シーズンが問うているのは、変装を身につけるところを誰かに見られてしまったら、その変装はどうなるのか、ということだからだ。

ひとつだけ、言い方を変えたい。あの視線は、その場にいないための方法というより、決して踏み込んでこない相手と一緒にいるための方法なのではないか。

どこへ行っていたのかと尋ねた人

神父と彼女が出会うのは、婚約祝いの食事会の店の外、煙草を吸う者どうしとしてだ。父と名付け親の結婚式を執り行うことになっている人である。面白くて、酒もたしなみ、独身の誓いを心の底から真剣に受けとめていて、そのことを、彼女のまわりの誰にもない率直さで話す。カトリックの司祭は結婚をせず、独身を誓う。彼はその誓いと、彼女の前で格闘することになる。彼は印をつけた聖書を彼女に渡す。しばらくのあいだ、彼はただ、どこで会ってもその場でいちばん面白い人である。

そして第三話で、彼女はいつものことをする。話の途中で、こちらを向く。すると彼は話を止め、いま、どこへ行っていたのかと尋ねる。誰にもそんなことを聞かれたことはなかった。二つのシーズンを通して、気づいた人さえいなかったのだ。

彼が何を見たのか、正確に言っておく価値がある。欲望をめぐる物語でふつう「見られる」と言われるものとは、違うからだ。彼が見たのは体ではない。体なら、彼女は大勢に見せてきた。冗談の奥に隠れたやさしさを見抜いたのでもない。そんな見抜かれ方を彼女は嫌っただろうし、作品も嫌っただろう。彼が見たのは、彼女が出ていくところだ。私たちのところへ来るために部屋から一歩抜け出す、その一瞬に気づき、それを不在として受けとめた。仕掛けのすべては、部屋にいる誰にもそれが見えないことにかかっていた。ひとりでも見える人が現れれば、出口はもう出口ではない。誰かの目の前でしていること、つまり、尋ねられうることになる。

なぜ彼なのか。二〇二〇年、英国映画テレビ芸術アカデミーの催しでこの作品について語ったウォーラー=ブリッジは、自分の言葉でこう説明している。神父は彼女と鏡合わせになっている、彼には神がいるから。一方の彼女は、最初から最後までカメラに見届けられていて、最後に彼女にとって大きな問いになるのは、そのカメラを手放せるかどうかだ、と。この仕掛けを読むのに、これ以上の鍵はないと思う。ほかの誰にも見えない証人に話しかける女性に、ただひとり気づけるのは、ほかの誰にも見えない証人に生涯話しかけている男なのだ。彼はそのしぐさを知っている。自分のものだからだ。

だからといって、読者に神についての立場を求めるつもりはないし、作品も求めていない。祈りと目配せは同じ形をしている。部屋にいるほかの誰にも見えない証人に向けて、言葉を差し出すという形だ。作品は、彼のそれにも、彼女のそれと同じだけの真剣さを払っている。

見られることが奪うもの、与えるもの

見られることは、まず代償を求める。彼の前では、会話からそっと抜け出そうとすれば、抜け出すところを見られてしまう。しばらくのあいだ彼女は、いつものやり方、つまり愛嬌とはぐらかしでそれをしのぐ。彼が彼女をもっと知ろうとし、悩みを聞こうとすると、彼女は彼を突き放し、いい一日が気まずく終わる。

ある夜、彼女は彼の教会へ行く。ふたりとも酒が入っていて、彼が彼女の告解を聞く。告解は、いまのカトリックでは「ゆるしの秘跡」と呼ばれ、聞いた司祭は、その内容を決して外に漏らさない義務を負う。彼女はいつものように、笑いの取れそうなありふれた罪をいくつか並べるところから始める。そして泣きながら、冗談ではないことを口にする。誰かに生き方を教えてほしい。朝何を着るか、何を食べるか、何を信じるか、誰を愛して、それをどう伝えるか。これまでずっと間違えてきた気がするから、と。ふたりは求め合いかける。彼が踏みとどまる。

それはおそらく、二つのシーズンで彼女が口にするなかで、いちばん身構えていない言葉だ。そして彼女はそれを、人に向かって言っている。気づいてほしいのは、それが第一シーズンの中心にあった告白ではない、ということである。ブーのことを彼に話したのかどうかはともかく、告解室で彼女から出てくるのは、いまについての一文だ。どう生きればいいのかわからない、誰かに教えてほしい。見られることがまず可能にするのは、それである。秘密ではなく、必要のほう。

ほどなく彼は家族に、式を執り行えなくなったと告げ、彼女にはもう教会に来ないでくれと言う。それから彼女を訪ね、気持ちは体だけのものではないと打ち明け、ふたりは一夜をともにする。そして作品は、それまで一度もしなかったことをする。ふたりが触れ合うそのとき、彼女はカメラのほうを向き、私たちを押しやるのだ。

ドラマの最初の場面は、こちらへ語って聞かせるセックスだった。いちばん大事なセックスは、見せてもらえないセックスになる。仕掛けとして読むなら、議論のすべてがそのしぐさひとつに収まっている。感じずにすませるためのセックスは観客の前で演じられ、そうではないセックスは観客から遠ざけられる。ふたりは大人であり、彼が破りかけている誓いは、破るのも守るのも彼自身のものだ。作品はその誓いが本物でないふりを一度もしないし、この文章もしない。

見られるということは、往復なのだと考えてみる。何かを差し出し、受けとられ、的外れに届き、言い直し、もう一度試す。目配せはずっと、帰りの便のない往復だった。彼女が差し出し、私たちが受けとり、何も返ってこない。彼とのあいだでは、行き来が両方向に流れる。そしてこのドラマで初めて、彼女には、私たちに見えない場所が必要になる。

いずれ過ぎ去る、と彼は言った

結婚式の日に、すべての糸が集まる。彼女は第一話で盗んだ彫刻、小さな女性の胴体の像を名付け親に返し、名付け親は、それが彼女の母をモデルにしたものだと告げる。その日が終わるまでに、像はまたフリーバッグのバッグのなかにある。二つのシーズンのあいだ、母の姿は、盗まれ、贈り物にされ、返され、また盗まれて、人の手から手へと渡りつづけていた。彼女はそれを知らなかった。作品はそれを説明しないまま置いておく。それが正しい。

クレアはマーティンに流産の真実を告げ、別れてほしいと頼む。心を寄せているフィンランド人の同僚が発ってしまう前に追いかけるよう妹に促されると、クレアは、空港を走ってまで追いかけたい相手はあなただけだと言い、それから走っていく。自分の結婚式を前に怖じ気づいていた父は、フリーバッグに、お前は私たちの誰よりも愛し方を知っている、だからこんなにもつらいのだろう、と言う。神父は結局ふたりの式を執り行い、愛について説く。愛はひどいもので、痛いもので、たくさんの希望を必要とするものだ、と。

式のあと、バス停で、ふたりはようやく互いに愛していると口にする。彼女がそう言うと、彼は、それはいずれ過ぎ去ると言う。神なのね、と彼女が尋ねると、彼はそうだと答える。彼は神を選んだ。ふたりは穏やかに別れる。そこへ狐が一匹現れる。もう何年も狐につけまわされているのだと、彼が話していた動物だ。彼女はその狐に、彼の去った方角を指さしてみせる。

そして最後の一分が来る。このドラマのすべてが、そこへ向かって歩いてきた一分だ。彼女はバッグから像を取り出して、胸に抱える。こちらを向き、すぐ近くで、涙まじりに小さく笑う。立ち上がって行こうとするとき、彼女は私たちに向かって首を横に振る。ついてこないで、と。そして手を振り、通りを歩き去る。私たちは、その場に残される。

これを、癒えた女性の姿として読みたくなる。それが出来すぎた読みである理由は、二つあとの節で書く。ただ、何が変わったのかは正確に言っておきたい。彼は残らなかった。見られることは彼を引きとめなかったし、はじめから引きとめられるものでもなかった。自分が何と結ばれているのかを、彼は最初から、言ってみれば告げていたのだから。見られることがしたのは、見届ける者を不要にすることだった。この読み方に立てば、彼女に、自分を見ることのできない観客が必要だったのは、見られることに耐えられなかったからだ。それが起き、それをくぐり抜け、彼を失うことまでくぐり抜けたいま、彼女はもう、聞き返すことのできない聞き手を必要としなくなったのかもしれない。隠れていた部屋を、もう隠れる必要のなくなった人が出ていくように、彼女はバス停に私たちを置いていく。

日々の暮らしのなかの目配せ

日本での邦題は、英語の原題をそのまま残し、その横にカタカナを添えている。カメラへの目配せは、ロンドンの喜劇役者だけの芸当に見えるかもしれない。けれど、この仕掛けは、もっと身近なところにある。

自分の暮らしを、その場にいない誰かに向けて実況しつづけている人は、いまでは少なくない。デートの最中に、友だちとのグループのやりとりで様子を伝える。知り合いには言えないことを、名前を伏せたアカウントにだけ書く。誰かに笑われる前に、先に自分で笑い話にしてしまう。どれも目配せだ。温かく、おかしく、本当に命綱になっていることも多い。そして、このドラマが扱っている性質も共有している。聞き手は笑えるし、同情もできるし、夜中の二時にやさしい言葉を送ることもできる。けれど、いまどこへ行っていたのかと尋ねることはできない。

家族にも職場にも言いにくいことを抱えている人ほど、聞き返さない聞き手はありがたいものだ。それは弱さではない。暮らしを回していくための、ひとつの工夫である。ただ、その工夫が長く続くと、話を聞いてくれる相手はたくさんいるのに、話の途中で出ていく自分に気づいてくれる相手が、ひとりもいなくなることがある。

ここに書いたのは、日本の女性はこうだという話ではないし、誰かの暮らし方を裁くものでもない。仕掛けの形が、ありふれた場所に現れるというだけのことだ。このドラマは目配せを発明したのではない。物語のなかの誰かがそれに気づけるほど長く、それを掲げてみせたのである。

恋愛の物語として読まない理由と、残る反論

第二シーズンを恋愛ドラマとして受けとった視聴者は多く、ネットでは神父に「ホットな神父」というあだ名までついた。作品自身も、最初の一分で、これはラブストーリーだと言っている。この文章がそう読まないのは、作品自身が理由を差し出しているからだ。彼女を見た男は、とどまれない。物語は、とどまれるかもしれないというふりを一度もしない。そして最後の画は、ふたりの姿ではない。私たちを置いて去っていく、彼女ひとりの姿である。

いちばん強い反論は、恋愛が浅いということではない。女性の転回が、男のまなざしを通して完成されている、ということだ。カメラから歩き去る彼女をたたえる文章は、彼女がそうするのが、ひとりの男にきちんと見てもらったあとだという事実の始末をつけなければならない。もっともな反論であり、この図書室は、見られることをやめていくひとりの女性について書いた「『5時から7時までのクレオ』、見られることが効かなくなる九十分」で、同じ点を認めている。この文章に言える、いちばん控えめな答えは、最終話で彼女を見る人が一人ではない、ということだ。空港を走ってまで追いかけたい相手は妹だけだと言う姉。誰よりも愛し方を知っていると言う父。そして一年前、大丈夫かと声をかけた銀行員。神父は最初に彼女を見た人であって、ただひとりの人ではない。とはいえ、これは反論の幅を狭めるだけで、反論を退けるものではない。

反対側からの読みもある。カトリックの書き手たちは、結末を、失われた恋ではなく守られた誓いとして読んできた。シカゴ大学神学部の論考で、リチャード・ローゼンガーテンは、彼女がドラマを通して守りつづける唯一の約束はカメラと視聴者に対するものであり、親友との約束を守れなかった女性が、ついに他人の誓いを重んじられるようになる、と書いた。アメリカのイエズス会系の雑誌では、マイケル・オコネルが、アメリカでの配信開始から十年の節目に、最後の場面を希望に満ちたものとして読んでいる。この文章には、そうした読みの是非を判じる立場はないし、それと競うつもりもない。ただ、大事な一点では一致している。神父の選択は物語の失敗ではないし、彼の失敗でもない。それは彼の誓いであり、作品は彼に、それを守らせている。

形式からの反論もある。目配せは、ひとりの女性が一時間客席に話しかけつづける一人芝居からの遺産にすぎず、面白くてよく機能するから残されただけかもしれない。だとすれば、この文章は喜劇の仕掛けを、内面の物語に仕立ててしまったことになる。ウォーラー=ブリッジ自身、特定の聞き手を思い描いていたわけではなく、誰に話しかけているのかは見る人がそれぞれ決めてくれればいい、と語っている。これはひとつの読みであり、ひとつの読みとして差し出している。

悲しみの物語にしては、結末が整いすぎているという反論もありうる。女性がカメラから歩き去り、読む側が画面に「癒えた」と書き込んでしまう。作品はそう書かない。回復についての台詞をひとつも与えないし、悲しみは最終話で片のつく問題ではない。この文章が言えるのは、彼女がもう私たちを必要としていないこと、そして母の似姿を抱えて去っていくこと、それだけだ。その先の彼女は、私たちの知るところではない。

最後に、この図書室自身に向けられる反論。この家は私的な同伴を売っている。とどまることのできない誰かに見られることにも本物の力があり、それが人を変えうる、という読みは、まさにこの家のような場所が好みそうな読みであり、読者はその分を差し引いて読んでいい。付け加えるなら、作品自身が言っていることは、この家の助けにはならない。作中でただひとり代金をとって話を聞く人物、父が誕生日に贈ったカウンセリングのカウンセラーは、彼女から、居心地の悪い本音をひとつ引き出す。けれど彼女を変えていくのは、立ち止まった見知らぬ人と、姉と、最後の最後の父と、とどまらなかった神父である。

この図書室が、ここから持ち帰るもの

観客は、聞き返すことのできる証人ではない。長いあいだ人のそばにいることはできる。笑うべきところで笑い、味方になり、本当のことをたくさん聞くこともできる。できないのは、言わずにおかれたものに気づくこと、部屋から出ていく瞬間を見ること、どこへ行っていたのかと尋ねることだ。人生のある時期には、それこそが必要なのかもしれない。作品は、彼女をそのことで一度も嘲らない。

聞き返せない相手に話すのには、ちゃんとした理由がある。そういう聞き手は、彼女に失望しない。去っていかないし、家族に話しもしないし、翌朝、彼女を違う目で見ることもない。下ろすことのできないものを抱えた人にとって、それは勇気の欠如ではない。荷物のほうが自分より重い月日を、人はそうやってしのいでいく。

見られることは、それとは別のものだ。そして作品は、それがいつもやさしいわけではないことに正直である。見られることは、誰も招いていない問いから始まる。出ていくところに気づいた誰かからの問いだ。それは隠れ場所を奪う。そして、見てくれた人がとどまるという約束は、ついてこない。

ここからは、あなたに向けて書く。ひとつのことのほかは何でも話せる場所、たとえば面白い話だけを聞かせる友だちや、実況を送りつづけるやりとりや、名前を伏せたアカウントを持っているとしても、それであなたが偽物になるわけではない。それは、安全でいられた唯一の部屋だったのかもしれない。そして、話の途中で誰かに、いまどこへ行っていたのかと聞かれて怖くなったことがあるなら、その怖さは、あなたのどこかがおかしいというしるしではなかった。見られるというのは、ほかの何かになる前に、まずそういう感じがするものなのだ。最初の一回で答えなくていい。その部屋に、とどまっていていい。

手もとに残しておく問い

いちばん面白い版の自分の暮らしを聞いているのは誰だろう。その人は、何かが欠けていたら気づいてくれる人と、同じ人だろうか。

誰にも話していないことはあるだろうか。そして、誰もそれを尋ねられる位置に立たないように、話す相手を並べてはいないだろうか。

最後に、話の途中で、いまどこへ行っていたのかと聞かれたとき、自分はどうしただろう。

自分の人生で、いちばん手放しにくい見届け役は誰だろう。その前から歩き去るには、先に何が必要だろう。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

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