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『離婚しようよ』と、まわりのほうが手放せなかった結婚

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政治家と女優が、ひと言で離婚に合意する。けれどその結婚には、彼の母も彼女の母も、スポンサーも有権者も、それぞれの取り分をもっていた。笑いの下で問われているのは、見せるための結婚はいったい誰のものなのか、そして見られることを仕事にする女性に、それが何を求めるのかということだ。

家でふたりが交わす会話は、もう演技のなかにしかない。ネットフリックスのシリーズ『離婚しようよ』の配信前に公開された紹介文は、それをはっきり書いている。結婚五年目の東海林大志と黒澤ゆいは、「仕事や世間体のためにおしどり夫婦を演じている」。家では、ふたりでネットの生配信をするときのほかはほとんど口をきかず、顔を合わせることさえない。配信のあいだ、ふたりは誰もがうらやむ夫婦だ。そして、配信が終わる。

夫は、亡き父の地盤を継いで愛媛から国会に出ている、三代目の新人議員である。妻は女優で、お嫁さんにしたい女優の一位に選ばれている。物語が始まる一年前、夫とテレビのアナウンサーとの不倫が報じられた。妻は夫を公に許した。彼女の好感度は跳ね上がり、彼の株は下がった。

そして愛媛の節分の行事で、夫は、離婚しよう、と切り出す。妻は、自分も同じことを考えていたと答える。ふたりが何かについて即座に意見を合わせたのは、何年ぶりのことかもしれない。けれど、それで何かが片づくわけではない。夫の母は、息子の政治生命のためにこの結婚を必要としている。妻の母は、夫の実家からの援助で暮らしている。妻のスポンサーは、そのイメージに金を払っている。ネットフリックスは英語で出演者を発表したとき、このふたりをメディアのなかで生きる夫婦と形容した。その言い方は正確だ。この結婚は何よりも見られるためにあり、その見られ方に利害をもつ人が大勢いる。

この文章が言いたいのは、このドラマが、笑いの下で、結婚は誰のものかをめぐる喜劇だということだ。見せるための結婚には株主がいて、そのなかにいるふたりだけが、何の配当も受け取っていない。そしてこの結婚は、見られることを仕事にしている女性に、特別なものを求める。彼女がこの商品に差し出している持ち分は、許しだからだ。このドラマのいちばんの発見は、ふたりが一緒に何をするかにある。結婚して五年、ふたりが自分たちのために初めて一緒に取りかかったことは、もしかすると離婚だったのかもしれない。

このドラマがどう終わるのか、そしてなぜこの文章がその結末をこの作品でいちばん勇気のあるところだと考えるのかは、次の注意書きのあとに回そう。

読みはじめる前に、そしてあらすじ

この文章は、結末まで含めてドラマ全体に触れる。結末に入る節でも、あらためてそう断る。また、不倫、妊娠、そして公の場での謝罪についても、はっきりと書く。先に観ておきたい人は、どうかそうしてほしい。読むのは、観終わってからでも遅くない。

『離婚しようよ』は全九話の日本のドラマで、二〇二三年六月二十二日にネットフリックスで世界に配信された。脚本は宮藤官九郎と大石静、監督は金子文紀、福田亮介、坂上卓哉、プロデューサーは磯山晶と勝野逸未。東京のキー局とその制作会社が、ネットフリックスのシリーズとしてつくった。東海林大志を松坂桃李、黒澤ゆいを仲里依紗が演じる。自称アーティストの加納恭二に錦戸亮、大志の弁護士・印田薫に板谷由夏、ゆいの弁護士・石原ヘンリーに古田新太、大志の対立候補となる野党の政治家・想田豪に山本耕史。大志の母・峰子を竹下景子が、ゆいの母を高島礼子が演じている。

題名は、有名な歌の一語を入れ替えた冗談だ。吉田拓郎の「結婚しようよ」は一九七二年のヒット曲で、歌のかたちをしたプロポーズだった。ドラマは「結婚」を「離婚」に替え、あとはすべて残した。「しようよ」という、柔らかく誘いかける語尾も。書き方にも、知っておきたいかたちがある。ある映画サイトの紹介によれば、宮藤と大石は「交換日記」のように、交互に脚本を書き継いでいった。ふたりで一緒にやらなければ終えられないことについての物語は、それ自体、ふたりが交互に書き継ぐことで仕上がったのである。

あらすじはこうだ。大志は、人物紹介の言葉を借りれば「温室育ちで女性にだらしない」三世議員である。ゆいは自分の力で名を上げた女優で、出世作はドラマのなかのドラマ『巫女ちゃん』。愛媛を舞台に、彼女が巫女を演じた作品だ。節分の日にふたりは離婚に合意し、それぞれ弁護士を立てる。その弁護士ふたりは、かつての恋人同士だったことがわかる。ゆいは、偶然ぶつかった男、恭二に惹かれていく。やがて解散総選挙となり、野党のスター、想田が世襲を断ち切ると言って愛媛から出馬する。離婚しようとしている夫婦が、並んで選挙を戦わなければならなくなる。その先は、この文章の後半に回す。

この文章は、ドラマそのものを観て書いたものではない。物語は、ネットフリックスの発表、作り手たちが公に語った言葉、そして日本語の事典項目と各話のあらすじにもとづいている。人物の台詞は、どれも要約か言い換えで、そのままの引用ではない。

結婚の取り分を握っているのは誰か

まず株主から見ていこう。この喜劇は、その誰もが本物であることの上に成り立っている。

大志の側の株主は、家と選挙区だ。選挙に勝つには三つのものが要るという、俗な言い方がある。地盤、看板、鞄。辞書によれば、それぞれ勢力や組織、評判や知名度、資金力のことだ。大志は地盤を父から受け継ぎ、残りのふたつは家が用意している。結婚は、このうちの看板にあたる。写真映えのする妻は看板の一部であり、母の峰子は、息子の政治生命のためにこの結婚を必要としている。

ゆいの側の株主は、業界と家族だ。スポンサーは、そのイメージに金を払っている。スナックを一人で切り盛りする母は、東海林家からの援助で暮らしている。人物紹介は、この母についてもうひとつの事実を書き添えていて、それには終わり近くでもう一度触れたい。彼女は一度も結婚していない。そして、父親の違う子どもを七人産んでいる。

どの利害も、軽いものではない。議席は職業であり、広告の契約は収入だ。娘の嫁ぎ先からの援助で暮らす母にとって、この結婚は見栄の問題ではない。暮らしがかかっているのだ。この喜劇が成り立つのは、これらの必要がひとつとして偽物ではないからである。滑稽なのはただ、そのすべてが、ひとつの結婚から支払われているという点だ。

そしてそのどれひとつとして、結婚しているふたりのものではない。この取り決めのいちばん奇妙なところはそこにある。結婚のまわりにいる誰もが、そこから何かを受け取っている。議席、契約、仕送り、家の名。何も受け取っていないのは夫と妻のふたりだけで、そのふたりは、家で互いの顔を見ない。

誰もがお嫁さんにしたい女優

ゆいを、自分のブランドを守るスターとして読むのはたやすいし、実際そうでもある。けれど、より正確に言えば、彼女のブランドとは結婚なのだ。

彼女の名声は『巫女ちゃん』から始まった。あるレビュー記事は、宮藤自身の朝ドラ『あまちゃん』をもじった作品だと書いている。チーフ演出の金子文紀監督も映画サイトのシネマトゥデイで、本家に怒られないようにと少し意識した、と笑っている。プロデューサーの磯山晶は同じサイトで、「ピュアなヒロイン像というイメージには巫女がいいのではないか」と考えたと語った。その役から、世間の知るゆいが生まれた。誰もがお嫁さんにしたいと思う女性。そして、言ってみれば誰もが思い描く妻の姿として彼女を売る仕事。それは虚栄ではないし、この文章もそう呼ぶつもりはない。それが彼女の仕事であり、彼女はその仕事にとても長けている。

金子監督は、こうも語っている。「テレビに映るゆいはすごく天真爛漫なのに、うちに帰ったらこんなだよっていう差を出すことが大事でした」。宮藤は制作発表のコメントで、夫婦をこう紹介した。「育ちはいいけど脇が甘いイケメン国会議員の夫。妻はプライド高めな、たたき上げの人気女優。」短いふた言に、実は多くのことが言われている。彼は立場を受け継いだ。彼女は自分で築いた。そして彼女が築いたものは、夫を必要としている。

ここで、この取り決めは夫よりも妻に多くを求める。彼がイメージのなかで担うのは夫の役で、彼はそれを下手にこなし、票を減らしてきた。彼女が担うのは妻の役で、それこそスポンサーが金を払っているものだ。イメージにひびが入れば、彼は人気を失う。彼女は商品を失う。

値がついた許し

物語が始まる一年前のスキャンダルが、この取り決め全体の鍵を握っている。その勘定は、ゆっくりたどってみる価値がある。当事者は、ふたりではなく三人いたからだ。

三人目は、桜子である。人物紹介によれば、彼女はキー局のアナウンサーだったが、大志との不倫が発覚したあと、フリーに転じた。ひとつの不倫に、三つの値段がついたことになる。許した妻には値上がり。道を外れた夫には値下がり。そして相手の女性には、局のアナウンサーという職からフリーへの転身。三人のうちふたりは画面に映ることを仕事にする女性で、同じ出来事が、ふたりを正反対の方向へ動かした。ひとりは傷を引き受けたことで報われ、もうひとりは局を離れた。

ゆいは、何の対価を受け取ったのか。傷つけられたことの対価ではない。それだけで好感度が上がる人はいない。彼女が受け取ったのは、許したことの対価だ。つまり、傷を引き受けて家庭を守る妻の役を、人前で演じたことの対価である。この図書室は「謝罪より、次に何が変わるかを見たい」で、謝罪は観客のいる、誰にでも読みとれる出来事であり、変化はそばで暮らす人にしか見えないと論じた。そして過ちが公になり、謝罪が済むと、残された問いは、彼のふるまいから彼女の人柄へと移っていく。彼女は許したのか、と。このドラマは、その仕組みを行き着くところまで描いてみせる。観客が問い、ゆいが答え、観客はその答えに金を払う。

それが罠であり、この物語のなかで、少し怒ってよいところだ。市場価値の一部になってしまった許しは、商品を壊さずには取り下げられない。ゆいの許しが本心だったかどうかは、ほとんど問題ではない。許しが金になったその日から、それはもう彼女が取り戻せるものではなくなった。結婚を続ける朝ごとに、彼女は夫にではなく、観客にした約束を守っている。

裏返しのプロポーズ

離婚は、あの古い歌が結婚を申し込むのと同じやり方で申し込まれる。一緒に何かをしようという、誘いとして。節分の行事で夫がそれを口にし、妻は同じことを考えていたと答える。この結婚についてほかに何が言えるにせよ、ふたりは一度だけ、即座に意見を合わせることができた。その一度が、これだった。

ネットフリックスは出演者を発表したとき、外の事情に阻まれたふたりが、離婚という最終目標に向かって手を取り合うほかなくなる、と書いた。シネマトゥデイは、この作品を「離婚という目標に向かって共闘するコメディー」と紹介している。ここに、このドラマの静かな反転がある。結婚はふたりを競争相手にした。イメージの市場では、彼女を持ち上げたものが彼を押し下げた。離婚は、ふたりを同志にする。

ふたりはそれぞれ弁護士を立てる。大志の弁護士、印田薫は、人物紹介によれば「女性にだらしない東海林を鍛え上げる弁護士」。ゆいの弁護士、石原は「一見胡散臭そうに見えるが腕はピカイチ」。そしてこの弁護士ふたりが、かつての恋人同士だったことがわかる。一度は自分たちも別れた男女が、いまは他人の別れの、それぞれの側に立っている。

この図書室は「『マリッジ・ストーリー』と、引き受けてしまう仕組み」で、あの映画を離婚の仕組みについての映画として読んだ。穏やかに別れるつもりだったふたりが、弁護士が入ったとたん、手続きには手続きの論理があり、分かち合ってきた暮らしを申し立ての束に変え、どちらも望まなかったふるまいに報いることを知る、と。『離婚しようよ』は、その仕組みを裏返す。この夫婦を乗っ取っているのは、結婚のほうだ。母、事務所、スポンサー、選挙区が、独自の論理をもった手続きであり、分かち合ってきた暮らしを見せ物に変えているのはイメージである。そして、かつて恋人同士だったふたりの弁護士がつく離婚は、この物語のなかで、ふたりだけのものである唯一の仕事なのだ。

彼女の顔を知らなかった男

ゆいは、偶然に恭二と出会う。ぶつかった相手の彼は、彼女が誰なのかを知らず、そのまま彼女を連れて街を歩く。顔で生計を立てている女性にとって、見知らぬ人から受けとれるもののうち、これほど親密なものはないかもしれない。イメージより先に、自分自身に会ってもらえるということ。

そこから先の展開は、奇妙で、どこか慎重だ。配信前に紹介された場面では、ゆいは眼鏡とマスクと帽子で顔を隠し、人に気づかれないよう用心しながら、彼に朝食を届けにいく。アトリエで彼は、ゆいを思う気持ちを表したというオブジェを見せ、その値段は、ゆいの空いている時間すべてだと言う。ある雨の日、彼は彼女を冷たく追い返す。そして、生配信と暴露で動いている物語のなかで電話ひとつ持っていなかったこの男は、謝るためだけに携帯電話を買う。彼はゆいに口づけする。そして、自分の体について、あることを打ち明ける。自分は不能なのだ、と。

この文章は、その最後のひと言を、彼が差し出したとおりに受けとる。自分について、彼女に話そうと決めたこととして。それは診断ではないし、ここでもそう扱うつもりはない。何かを求めているのでもない。打ち明けられたことは、聞いた人に何も求めないし、聞いたことで彼女が何かを約束したことにもならない。物語のなかでそのひと言は、ふたりの関係を、週刊誌なら決めつけるであろうものから遠ざける。この文章の読みでは、ゆいを恭二に惹きつけるのは、何よりもまず、自分に向けられる時間と関心だ。彼女の顔を知らない男との散歩と、彼女の空いている時間という値段。

彼はゆいのそばにいるために愛媛へ移り、古民家をアトリエにする。彼を、この物語のロマンスの結論にしてしまうのはたやすい。イメージの向こうにいる女性を見てくれる男として。けれど物語は、もっと思いがけないところへ向かう。終わるまでに、彼と夫は、なぜか心を通わせるようになるのだ。

別れようとしているふたりの選挙

やがて解散総選挙となる。野党のスターで、ネットフリックスの紹介によれば弁が立ち、歌もとてもうまい想田豪が、世襲を断ち切ると言って愛媛から大志に挑む。党はどれも、このドラマがつくった架空のものだ。ここで大事なのは、選挙戦が結婚をどう変えるかだ。

選挙戦は、離婚を、これ以上ないほど声高に演じられる結婚へと変えてしまう。ゆいは、自分を世に出した愛媛のドラマ『巫女ちゃん』の特別編を撮っていて、シネマトゥデイが書くとおり、大志が地元で選挙を戦うには彼女の協力が欠かせない。こうして、夫と別れようとしている妻が、夫のために選挙運動をする。公開討論で大志は想田に完敗し、討論の客席からは恭二が想田にやり返す。そしてゆいは、妊娠していることを知る。節分の夜に授かった、大志の子だ。

演技のなかで、演技が予定していなかったことが起きる。議席を受け継いだ大志が、その議席に票を入れる人々の声に耳を傾けはじめ、ウイルス研究所の必要性を、自分の言葉できちんと訴えるようになる。小さな変化だ。けれど、跡取りが議員本来の仕事をするのは、物語のなかでこれが初めてであり、しかもそれは、政治家の営みのなかでもいちばん芝居がかった場、つまり選挙のさなかに起きる。この男が口先でなく本気でものを言いはじめるのは、選挙戦のなかなのだ。

ドラマのもうひとつの標的は、世襲そのものだ。想田はそれを終わらせると約束する。描かれるのは、家の名とともに受け渡される議席、その名の一部だからこそ磨き上げられてきた結婚、そして相続そのものを争点にする挑戦者である。

並んで、膝をついて

イメージは、外から壊れる。桜子が、節分の前夜に大志が自分のもとを訪れていた証拠を、週刊誌に流す。子を授かったあの夜の、前の晩のことだ。ゆいの答えは、世間の知っている答えではない。彼女はもう一度夫を許したりはしない。怒りのままに、自分の不倫を週刊誌に明かす。

そしてふたりは謝罪会見を開き、並んで土下座する。辞書は、土下座に古い意味もあったことを記している。「昔、貴人の通行の際に、ひざまずいて額を低く地面にすりつけて礼をしたこと」。人気を支えてくれている人々の前で、国会議員と女優が、体をこれ以上低くできないところまで低くしている。

一年前のスキャンダルと並べてみると、その変化こそが要点だとわかる。あのとき、夫は道を外れ、妻は許した。過ちを犯した夫と、その夫を支える妻。この物語でいちばんよく売れる図柄だ。今度、彼女はその役を拒む。自ら打ち明けることで、彼女は夫の人柄を請け合う証人ではなく、共同の被告になる。そして許しが稼いできた元手を、一度に使い果たす。人前で、ふたりが初めて対等になる。ふたりはそこへ、膝をついてたどり着いた。

そして儀式の最中に、儀式では受けとめきれないものがあふれ出る。膝をついたまま、大志は、なぜ離婚しなければならないのかもうわからない、と泣く。それは結婚のあいだに、ふたりのどちらかが口にしたいちばん正直な言葉かもしれない。しかも彼は、それをカメラの前で言う。ここでも、あの謝罪をめぐる文章の区別が役に立つ。土下座は観客のためのものであり、観客にとっては、それで一件落着となる。そのあとで何が変わるかは、カメラから離れたところで、ふたりのあいだで起こり、それを見ているのはふたりだけだ。

演じるのをやめたとき、変わったもの

選挙戦が、ふたりを変えていく。ふたりは一緒に笑うようになり、そもそもなぜ別れるのだったか、と首をかしげる。恭二は大志をアトリエに招き、ゆいが惹かれた男と、ゆいが別れようとしている男が、よりによって気が合う。妊娠を告げられた恭二は、ゆいの子なら自分の子だ、と言う。

わかりやすい読み方は、ふたりがもう一度恋に落ちていくというものだ。ドラマはその読みに、材料をたっぷり与えている。笑い、赤ん坊、夫の涙。この文章は別の読み方をする。変わるのは、気持ちの深さというより、その条件である。イメージはもう使い果たされた。許す妻は、もう誰も買わない。夫は公開討論に負けた。結婚は商品であることをやめ、守るべき商品をなくしたふたりには、初めて共同の仕事ができる。選挙を乗り切ること、そして離婚すること。仕事を分かち合う人どうしは、友だちになれる。

それが、このドラマが笑いの下で見つけるものであり、それは感傷的な発見ではない。結婚のなかで競争相手だったふたりが、離婚のなかで同僚になる。ふたりは、結婚を演じるのをやめて初めて、互いを好きになる。ネットフリックスは日本語の発表で、この作品に描かれるのは「結婚生活での不満、葛藤、衝突」であり、そして「自由に、自分らしく生きたいという願い」だと書いた。その自由は、奇妙なことに、別れようとしている相手との友情としてやってくる。

夜明け前

ここから先は、このドラマの結末に触れる。

開票の夜、想田の党が政権を取り、大志は約百票差で議席を失う。夜明け前、もやもやを抱えたまま、ふたりはそれでも離婚届を出す。

その行為がどれほど素朴なものかを、知っておいてよい。法務省自身のページによれば、協議離婚の場合、届け出るのは離婚をしようとする夫婦で、届書には成年の証人二人の署名が要り、届け先は届出人の本籍地か所在地の市役所、区役所、町村役場である。届け出る時期は「随時」とされている。五年のあいだカメラの前で営まれ、さらに多くのカメラの前での土下座を経た結婚は、そこに名前のあるふたりが、空が明るくなる前に差し出す一枚の届で終わる。

互いをもう一度好きになっても、決めたことは取り消されない。この一文がドラマの背骨であり、このドラマのいちばん受け入れにくいところでもある。ふたりには、やめる理由がいくらでもある。気が合いはじめている。子どもが生まれる。そして彼は、この結婚を続けてきた理由でもあった議席を、たったいま失った。結婚しておく理由と、離婚する理由が、同じ瞬間に消えたのだ。ふたりを役所へ向かわせるものは、もう何もない。ふたりは行く。

この図書室は「一度ではなく、何度も選ばれる」で、書類はある決断を記録するにすぎず、その決断は結婚が続くかぎり、小さなかたちで選び直されなければならないと論じた。そして結婚は、惰性と、それを終わらせることの実際的な難しさによって維持され、ただ流されていくだけのものにもなりうる、と書いた。東海林夫妻の結婚は、まさにそれだった。五年のあいだ流されるままに続き、終わらせるのを不都合と考える人々によって、その場に留められていた。このドラマが付け加えるのは、離婚もまた二度選ばれうるということだ。一度目は節分の行事で、誰も終わらせることを許さない結婚からの逃げ道だった。二度目の夜明け前には、逃げるべきものはもう何もなく、楽な流れはむしろ逆向き、結婚へ戻るほうへ向かっていた。笑いも、赤ん坊も、失った議席も、そちらへ押していた。それでも、ふたりは決めた。

二度目は決断ではなく、ただの勢いだったのではないか、と言うこともできる。計画があり、計画には重さがある。ふたりはもやもやを抱えたまま出かけていき、この文章もそれを勝利のように描くつもりはない。けれど、流されているのかどうかを確かめるには、反対向きに押しているものがあったかどうかを見ればよい。そしてここでは、ほとんどすべてが反対向きに押していた。

三年後

四か月後、ゆいは男の子を産み、陽自と名づける。それからドラマは三年後へ飛ぶ。ゆいはベルリンで演技の賞を取っている。恭二は、選挙を追って全国を回るブロガーになっている。ウイルス研究所の売却をめぐる金銭の授受が発覚した想田は議員を辞め、妻とキッチンカーでパンを売っている。大志は補欠選挙で当選し、週に四日を陽自と過ごし、国会で子育て支援を訴えている。彼は復縁をほのめかす。ゆいは、再婚しないほうがうまくいく、と答える。

まず賞から始めよう。結末のなかでいちばん静かな一行であり、この文章がいちばん大事に思う一行でもある。国じゅうが思い描く花嫁であることの上にキャリアを築いてきた女性が、愛媛から遠く、週刊誌からはさらに遠い街で、演技によって讃えられる。その賞が何に与えられたものであれ、誰かの妻であることに対してではない。

それから、断り。彼女のひと言をオチとして聞くのはたやすいし、実際おかしい。けれどそれは、このドラマでいちばん正確な一文でもあり、そこで言われているのは驚くほど小さなことだ。結婚そのものへの判決でも、彼への判決でもない。ふたりは結婚していないほうがうまくいく、ということだけだ。それはこのふたりについての発見であり、両方を試したうえで得られたものだ。他人のために続けた五年の結婚、選挙、離婚、そしてふたりで子どもを育てた三年。彼女は、その結果を報告している。

結末を、結婚そのものへの判決として読むのはまちがいだろう。最後に見る想田は、失脚した改革者として、妻と一緒にキッチンカーでパンを売っている。何を失ったにせよ、その結婚は失わなかった。このドラマが拒むのは、もっと狭く、もっと難しいことだ。互いを好きでいることを、ふたりの名前をもう一度ブランドの下に戻す理由にはさせない。家族は結婚よりも長く続き、離婚したままでいることは、三年後にもう一度、ひと言で選び直される選択なのだ。

ここで、ゆいの母についての人物紹介が戻ってくる。ゆいの結婚に暮らしを頼っていた女性は、自分では一度も結婚せず、結婚なしに七人の子を産んだ人だった。その娘もまた、結婚の外で子を育てながら物語を終える。そしてそのことについて、物語はひとつだけはっきり描いている。父親がそこにいる。週に四日。この呼応が意図されたものかどうか、この文章にはわからない。けれどそれは、読みとれるところに置かれている。

終わらせるしかなかった契約の、もう半分

この図書室は、取り決めとして続けられた結婚を以前にも読んでいる。「『この恋は初めてだから』と、終わらせてはじめて本当になった契約」は、二年間の契約で結婚した韓国のふたりを追った。彼女は住む場所のため、彼は暮らしを乱さない下宿人と書類上の妻のために。そしてあの文章は、その契約がふたりのあいだで起きることはきちんと仕切ったのに、ほかの誰かの条件、つまり住宅ローンやふたつの家の親や祭祀には、まるで力が及ばなかったと論じた。愛が契約の最初の前提を嘘にしたとき、誠実なのはそれを終わらせることだった。そして、ふたりがあらためて結んだ毎年更新の契約に価値があったのは、更新しないことが本当に可能になっていたからだ。

『離婚しようよ』は、あの文章の問題が終わるところから始まり、あのドラマなら終わらないところで終わる。ここには、外の人々が入り込むべき私的な取り決めなど、はじめからなかった。外の人々の条件が、結婚そのものだった。議席、看板、契約、仕送り。何かが入り込む必要はなかった。何ひとつ、締め出されたことがなかったからだ。そして、あのふたりと同じように、このふたりも結局は互いを好きだと気づく。けれど、よりよい契約を書きはしない。離婚を手放さないのだ。

ふたつの物語は、結婚をめぐって争ってはいない。どちらも、なかにいるふたりの実際と合わなくなった結婚を、守りつづけることを拒んでいる。違うのは、その向こう側で見つけるものだ。あのドラマは、より本当の契約を見つけた。このドラマは、契約がなくても家族は成り立つことを見つける。息子、週に四日の父、賞を取った母、選挙のブログを書く友人、そして商品だったころよりずっと気の合うふたり。あの文章は、更新に意味があるのは、更新しないこともできるときだけだ、と結論づけていた。同じことは逆向きにも言える。再婚しないことに意味があるのは、再婚という道が差し出され、彼女がそれを断ったからだ。

もっと小さな観客のための結婚

日本語には、東海林夫妻のような結婚を指す日常の言葉がある。仮面夫婦。辞書は、俗に「他人の前では仲のよさを演じてみせるが、実際の二人の関係は冷えきっている夫婦のこと」を言う、と説明している。そういう夫婦が人前で保とうとしているものにも、言葉がある。世間体だ。どちらも、テレビカメラを必要としない。

画面の外では、見せるための結婚の観客は、何百万人ではなく、ほんの数人だ。別居を息子への判決のように受けとるであろう姑。夫婦がそろってこそ一家として見られる近所や、子どもの学校の保護者のあいだや、小さな町。夫婦であることが、店の看板の名前の一部になっている家業。そうした結婚が続く理由は、このドラマが喜劇に変えた理由そのものかもしれない。その取り決めで暮らしを立てている親、収入、家の名、子ども。どれも軽くはない。そのどれかのために結婚を続けている女性は、他人の必要を背負っているのであって、それはゆいがしていたこととまったく同じだ。そこに臆病なところは何もない。

このドラマは、東京が国のすべてではないことも知っている。投票日に意味をもつ観客は、ゆいの生配信を見ている全国の人々ではなく、愛媛の一つの選挙区だ。そこでは彼女はあのドラマの巫女で、彼はあの父の息子である。大きな街の外で暮らす読者には、その構図に見覚えがあるかもしれない。小さな土地では、夫婦のありようが、そのまま家の評判になることがある。

結末はまた、このドラマがつくられたあとに日本の法律が変わった問題にもかかわっている。ドラマが描くのは、一週間を分け合う子ども、そのうち四日を父と過ごす子どもだ。現実の家族の取り決めが法律のうえでどうなるかは、弁護士や家庭裁判所に尋ねるべきことで、この文章が答えることではない。ただ、法務省自身のページは次のように説明している。改正された規定は令和八年四月一日に施行された。父母が離婚をする場合には、父母のうち一方か双方を親権者と定め、親権者はまず父母の協議によって定める。そして共同親権と単独親権は、どちらが原則というものではない。これは、いまの制度がどうなっているかという事実であって、どの家族への助言でもない。

この読みへの反論

この読みがまちがっている可能性は、少なくとも五つある。

ひとつめ。これは笑劇であり、作り手たち自身もそれに近いことを言っている。制作発表で宮藤は、倦怠期の夫婦の悲喜こもごもを「重すぎない絶妙な塩梅で描きました」と語り、大石は、ふたりで力いっぱい書いたせいか「押しの強いぶっ飛んだ台本になってしまいました」と述べた。英語圏のある批評サイトの評者は、人物たちの大げさな反応が、本当に笑えるものから目を覆いたくなるものまでさまざまだと書いている。所有や許しについての議論をここに見つける文章は、喜劇のいちばん真面目な瞬間だけを拾い、残りを見ないふりをしているのかもしれない。残るのは、もっと狭い主張だ。ネットフリックスと作り手たちが示した前提は、仕事と世間体のためにおしどり夫婦を演じるふたりであり、どの笑いも、その前提が本当であることにかかっている。

ふたつめ。この結末は、こういう人たちにしか手の届かないものだ。国会の議席、ベルリンで賞を取るほどの俳優としての仕事、後ろに金のある家。子どもを分かち合い、誰も破滅しない穏やかな離婚は贅沢であり、それを簡単そうに見せる喜劇は、住む家を失わずには結婚を出られない人々にとって、幻想でしかないのかもしれない。それは本当であり、この文章はそれを認める。残るのは、このふたりは少なくとも、とどまることもできたのに、そうしなかったという、小さな一点だけだ。

みっつめ。受け継がれる権力への風刺は、穏やかだ。跡取りは父の議席を失い、補欠選挙で取り戻す。世襲を終わらせると約束した改革者は、金を受け取ったことが発覚して、パンを売ることになる。このドラマは九話かけて世襲を笑っておきながら、最後には世襲は大丈夫だと観客を安心させている、と批評家は言うかもしれない。応答は部分的なものにとどまる。大志は変わって戻ってくる。息子を育て、親たちのために発言する。けれど議席は家に残り、この異議は消えない。

よっつめ。ゆいの怒り。テレビのなかの天真爛漫なゆいと、家での険のあるゆいとの落差は、ある程度は笑いのために演じられているし、この文章がいちばん評価する転回、つまり告白は、怒りから生まれた行為だ。女性の気性から笑いを取る喜劇は、怒りを引き起こしたものではなく、怒りそのものを笑いの種にしてしまう危うさを、いつも抱えている。この文章は、彼女の怒りを、自分のイメージという元手を使い果たす女性の行為として読んできた。それがおもに笑いのために演じられていると感じる視聴者は、同じ場面を違うふうに読むだろうし、それはまちがいではない。

いつつめは、この文章自身の傾きだ。この図書室は、女性が何かを断る結末に弱く、ゆいの最後のひと言に、探しにいったものを見つけただけなのかもしれない。ふたりに再婚してほしかった視聴者の側には、笑いも、赤ん坊も、夫の涙もある。このドラマは恋の物語を組み立てておきながら、ひねりのためにそれを完成させなかった、と言うのは公正な批判だ。あの断りは、原則としても、オチとしても読める。この文章は前者を選んだ。後者も、そこにある。

この図書室が受け取るもの

笑いのあとに残ることが三つある。規則としてではなく、気づいたこととして書いておく。

結婚には株主がいることがあり、それが誰なのかを知っておくことには意味がある。その結婚に頼っている親、そこから利益を得ている雇い主、夫婦がそろってこそ一家と見る町。どれもが持ち分を握り、どれもが、あなたが自分の持ち分をどう扱うかについて意見をもつだろう。誰が株主かを知っても、何かが決まるわけではない。そこに誰の声が混じっているのかが、わかるだけだ。

人前で与えた許しは、あなたのものでなくなることがある。ほかの人がそこに利害をもった瞬間から、それを取り下げることは、彼らが当てにしているものを壊すことになる。許しはそれ自体よいものであり、この文章はそれを否定しない。気をつけたいのは、観客のほうだ。他人の承認のために差し出した許しは、取り下げなければならないときでさえ、取り下げにくい。

そして決断は、二度下すことができる。一度目の離婚は、あるいは結婚は、何かに押されてのことかもしれない。押すものが何もなくなった二度目には、それは選択になる。誰かをもう一度好きになっても、決めたことを取り消さなければならないわけではないし、守りつづけなければならないわけでもない。このドラマのふたりは二度決め、二度目こそが、ふたりのものだった。

だから一度だけ、あなたに。もしあなたが、見ている人が多くても少なくても、その目のために結婚を続けているのなら、あなたは偽物でも臆病者でもない。母の家賃や、家の名や、子どものふつうの毎日を、背負っているのかもしれない。どれも重いものだ。それを背負いつづけるべきかどうかを、この文章は言わない。その重さは、あなたの暮らしの外にいる者にはわからない。このドラマが求めているのは、もっと小さなことだ。結婚のどの部分が自分のためで、どの部分が彼らのためなのかを知っておくこと。そして、何を決めるにせよ、決めるのがあなた自身であって、持ち分を握る誰もかれもがあなたの代わりに決めるのではないこと。

これは一本のテレビの喜劇の読みである。フィクションの人物も現実の人も、誰ひとり診断しないし、誰かの結婚や離婚や法律上の立場についての助言でもない。法務省のページは、そこに書かれていることを示すために引いたのであって、どこかの家族について何かを言うためではない。

手元に残しておきたい問い

あなたが暮らしている結婚、あるいはそばで見て育った結婚の持ち分を握っているのは誰だろう。それぞれは、そこから何を受け取っているのだろう。

あなたが間近で見てきた結婚のうち、観客のために続けられていたのはどれだろう。それは、そのなかにいた女性に何を求めていただろう。

同じ決断を、二度下したことはあるだろうか。一度は急いで、一度は考える時間をもって。そのうち、あなた自身のものだったのはどちらだろう。

人前で誰かを許したとき、その許しは誰のためのものだったのだろう。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

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