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『正しい日 間違えた日』と、宛先のないほめ言葉

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名の知れた映画監督が、水原で持て余した一日を、出会ったばかりの若い画家と過ごす。映画はその一日を二度語る。一度目、彼は前にもどこかで口にした言葉で彼女の絵をほめる。二度目、彼は絵に本当に見えたものを告げ、自分の暮らしの本当のところも口にする。すると同じ一日が、同じ一日のままではいられなくなる。

映画監督のハム・チュンスは、一日早く水原(スウォン)に着いてしまう。自作の上映は明日で、今日はすることがない。名の知れた監督だが、この日の彼は、時間をもてあました一人の男にすぎない。あてもなく歩き、古いお堂で見かけた若い女性に声をかけると、彼女は彼の名前を知っていた。ユン・ヒジョン、絵を描いている人だ。ふたりはコーヒーを飲む。その夜のうちに寿司をつまみ、焼酎をかなり飲み、彼女の友人たちの集まりに一緒に顔を出す。そして翌日には、ふたりのあいだの何かが、損なわれているか、残っているかのどちらかになっている。

どちらになるかは、語られ方しだいである。ホン・サンスの『正しい日 間違えた日』は、この一日を二度語る。同じ男、同じ女、同じ街、ほとんど同じ店と部屋。二つの語りの違いは、ひと言で言える。一度目、彼は彼女が聞きたいことを言う。二度目、彼は本当のことを言う。

この文章は、その違いがどこにあるのかを、できるだけ正確に見ておきたい。違いは、彼が何を望んでいるかにはない。どちらの一日でも、彼は彼女と一緒にいたいし、それ以上のことも望んでいる。彼がいい男かどうかにもない。同じ男なのだから。彼女の側にあるのでもない。一人目のヒジョンより二人目のヒジョンのほうが賢かった、という話ではない。違いは、彼の言葉がどこに宛てられているかにある。一度目に彼が彼女の絵に贈るほめ言葉は、前にもほかの人たちに向けて口にされたもので、これからもまた口にされるだろう。どんな絵にも当てはまるから、彼女の絵にも当てはまった。宛先のない言葉だったのだ。二度目に彼が口にするきつい言葉は、彼女にしか言えないものだった。あの絵について、あの日に、そして彼が帰っていく暮らしについて。口にするには代償がいった。その代償こそが、それが自分に向けられた言葉だと彼女が知る手がかりになる。

そう読むと、この映画は、見られるということを語る映画になる。見られることは、ほかの誰にも言えなかったはずのひと言から始まる。そしてこれは、本当のことを告げられた人に何が手渡されるのかを語る映画でもある。たとえ不器用でも、たとえその日に出会ったばかりの男からでも、本当のことを告げられた女は、おだてられた女が持っていないものを手にしている。自分がいまどんな一日のなかにいるのかを、知っている。だから、その一日をどうするかを、自分で決められる。

作品について、そして読み進める前に

『正しい日 間違えた日』は、ホン・サンスが脚本と監督を手がけた十七本目の作品である。ハム・チュンスをチョン・ジェヨンが、ユン・ヒジョンをキム・ミニが演じている。上映時間は百二十一分。二〇一五年八月、ロカルノ国際映画祭のコンペティション部門で初めて上映され、最高賞の金豹賞を受け、チョン・ジェヨンは主演男優賞を得た。韓国では同じ年の九月二十四日に公開され、日本では二〇一八年六月三十日に劇場公開されている。

先に二つ、断っておく。この文章は、映画を観て書いたものではない。場面は、公表されている作品の記録と、批評家たちの紹介が伝えるとおりに記した。細部がひとりの批評家の紹介だけに拠るところでは、その名前を示す。登場人物のせりふはすべて言い換えで、正確な引用としては扱っていない。それから、この文章は二つの語りを両方とも最後まで追い、二度目の一日がどう終わるかにもふれる。その結末が始まるところには一行、断りを置いておく。先に画面で出会いたい人は、そこで読むのをやめてほしい。

一度目の一日、ほめ言葉と持っていない指輪

一度目の語りは、題名を掲げる字幕から始まる。英語の字幕でいえば、あのときは正しく、いまは間違い、という意味の言葉だ。覚えておいてほしい。この言葉は、あとで戻ってくる。

チュンスが自作を上映しに来た水原は、京畿道の道庁所在地で、ソウルから南へおよそ三十キロの大きな街だ。けれど彼にとっては、空いた一日をやり過ごす場所にすぎない。この一度目の語りでは、映画は、彼が頭のなかで考えている声を聞かせる。フィルム・コメント誌のジョナサン・ロムニーによれば、はじめのほうで彼は、ホテルの窓から映画祭のスタッフの若い女性ボラを眺め、気をつけろ、きれいすぎる、と自分に言い聞かせる。その声は画面の外から聞こえてくる。それでも彼はボラに言い寄り、電話すると約束して、結局かけない。

古いお堂で、彼はヒジョンを見かける。彼女は彼の名前を知っていたが、映画は観たことがなかった。ふたりはコーヒーを飲みに行き、彼女は自分のことを話す。以前はモデルをしていた。お金は悪くなかったが、虚しかった。いまは絵を描いている。彼は彼女のアトリエについていき、描いている彼女を眺め、目の前の絵をほめる。

それから寿司屋で焼酎を飲み、ふたりとも酔う。彼は、きれいだと言う。友達として好きだ、いや友達以上に好きだと言い、渡す指輪を探してポケットをかきまわす。そんな指輪は持っていないのに。ヒジョンの表情が沈み、自分には友達がいない、と打ち明ける。

その夜は、友人のカフェで開かれた誕生日の集まりで終わる。ヒジョンは、監督が自分の絵についてどんなことを言ってくれたか、それがどれほど心に響いたかを友人たちに話す。すると年上の友人スヨンが、この人はインタビューで同じことを何度も言っている、と指摘する。女好きで知られていて、結婚もしている、とも。彼はそれを認める。酔ったヒジョンは別の部屋で横になり、近づいてきた彼に、帰って、と言う。家に帰ると、酔っていることを母に叱られる。

翌日、彼は二日酔いのまま上映後の対談に出る。司会を務める評論家の質問がきっかけで、観客の前で怒りだし、とりとめのないことを口走る。そしてソウルへ帰っていく。

どんな絵にも当てはまるほめ言葉

一度目の一日で何がいけなかったのかと問われれば、嘘だと答えたくなる。たしかに嘘はある。結婚していることを告げないまま、彼は一日を彼女と過ごした。けれど、アトリエでのほめ言葉のほうが、じつは奇妙な失敗である。それは偽りではなかったかもしれないからだ。彼は一語一語、本気だったのかもしれない。その言葉を空っぽにしたのは、中身ではない。宛先だった。

リバース・ショットのアダム・ネイマンは、映画がその言葉をどう扱っているかに目をとめている。一度目の語りのなかで、チュンスが彼女の絵について言ったことは三度めぐってくる。まず彼から彼女へ。次に、彼女の友人たちを通って彼のもとへ戻ってくる。その言葉にほとんど考えが込められていなかったことを彼女が知るのは、このときだ。そして最後に、翌日の対談の場で。ネイマンによれば、そのころにはもう、その言葉は冗談のオチのように響いている。繰り返しは、この映画の冗談であり、同時に証拠でもある。インタビューにも、アトリエにも、壇上にも現れる言葉は、はじめから目の前のキャンバスについての言葉ではなかった。それは絵というものについての彼の決まり文句で、彼女の絵は、彼がそれを口にしたとき、たまたまそこにあったにすぎない。

お世辞とは、そういうものだ。受け取るときには心地よい。けれどその下では、話し手が自分の欲しいものを語る言葉が、聞き手について語る言葉のふりをしている。喜ばせるために作られた言葉は、見ることを必要としない。だから何度でも使い回せる。ポケットを探しても出てこない指輪も、同じ仲間だ。中身のない約束のしるしである。画面の外から聞こえる声も、そうだ。この日の彼は二人いる。私たちにだけ聞こえる、考えている彼と、彼女が聞いている、話している彼。お世辞は、そのあいだのすきまに住んでいる。

この図書室は、以前にもこの線を引いたことがある。「見つめられることと、差し出されることは同じではない。」という文章は、女をひとりの特定の人として扱う注目と、ある範疇の交換可能な一例として扱う注目とを分けた。そして前者は、定型的な台詞では済まず、実際に見ることを必要とするからこそ、見知らぬ人から向けられても人を満たしうる、と書いた。一度目のチュンスの一日は、上手に演じられた定型的な台詞である。証拠はボラだ。同じ一日のうちに、同じ男が、同じ温かさを二人目の若い女性にも差し出し、電話すると約束して、かけずにおく。同じ日に二人の女性へ振り分けられる注目は、そのどちらに向けられたものでもなかった。

一度目の一日を、彼女の側から

一度目の一日を、有名な男の言葉を信じてしまった若い女の教訓話にするのはたやすい。そして不公平だ。映画は、彼女が彼の言葉を聞きたくなかったふりはしない。それを彼女の落ち度として数える理由も、どこにもない。

その日、彼女は先に彼に話していた。モデルをしていたが、見られることを仕事にする毎日は虚しかった、と。彼女は絵を描くほうへ向きを変えていた。見られる側から見る側へ、それ自体として評価されうるものを自分の手でつくる側へ、と言ってもいいだろう。そこへ、見ることを仕事にしている男がアトリエに立ち、この絵はいい、と言う。響かないはずがない。その言葉は、彼女がこれから生きていこうとしている場所にまっすぐ届き、しかも、その意見に重みがあってしかるべき人の口から届く。その晩、友人たちにその話をしたのは虚栄心からではない。その日いちばんうれしかったことを、人はそうやって誰かに話すものだ。

だからこそ、あの集まりの場面はつらい。ヒジョンは、自分の一日についての本当のことを、いちばん最後に知る。人前で、友人の口から、彼のいる前で。ほめ言葉が決まり文句だったことと、彼が結婚していることを、誕生日の席で、酔いのまわったまま、いっぺんに知らされる。あの部屋には、それをひとりで受けとめる余地がなかった。

スヨンのことにも、ひと言ふれておきたい。彼女がしたのは、角の立つ親切である。年上の友人が、年下の友人に、ある男について知っていることを、声に出して告げる。誰かが言うべきことだったのだろう。場が場だけに、それは屈辱になった。けれど、その屈辱を生んだのは嘘のほうで、嘘を終わらせた友人ではない。

そして、嘘が彼女から何を奪っていたのかを見ておきたい。コーヒーも、アトリエも、夕食も、彼を友人たちの集まりに連れていくことも、その日ヒジョンはすべて、ひとつの事実を知らないまま受け入れていた。それがどんな一日なのかを教えてくれたはずの、ただひとつの事実を。その事実を欠いた選択は、同じ選択とは言いきれない。事実が届いたとき、彼女は、自分で決めていいことを決める。別の部屋で、近づいてきた彼に、帰って、と言う。

それから家に帰り、酔っていることを母に叱られる。怒りを向けるなら、ここだ。向ける先を間違えずに。嘘は彼のものだった。叱られるのは彼女だ。翌日、彼は観客の前で怒りをぶちまけ、ソウルへ帰っていく。その晩、家で叱られているのは彼女のほうである。

字幕が裏返る

映画は半ばで、もう一度始まる。題名の字幕がふたたび現れ、言葉の順序が入れ替わっている。あのときは正しく、いまは間違い、だったものが、いまは正しく、あのときは間違い、になる。同じ日の水原で、チュンスにはまたすることがない。古いお堂へ行く。彼女がいる。

批評家たちは、物語と同じくらい、その違いに引きつけられた。アメリカの公共ラジオ局で評を書いたマーク・ジェンキンスは、二つの版では照明もカメラの角度も違い、画面の外の語りが入るのは一方だけで、同じ日の同じ場所のはずなのに天気まで変わっている、と指摘している。ロムニーは、絵の具の色まで変わっていることに気づいた。一度目にヒジョンが混ぜているのはオレンジがかった桃色の絵の具で、二度目は青緑だ。そして今度は、これもロムニーが書いているとおり、彼の気を散らすボラが出てこない。

いちばん大きいのは、声が消えることだ。二度目の一日では、チュンスが考えている声は聞こえない。彼女に話している言葉の横で、もうひとつの声が流れつづけることはない。映画が知らせてくれるかぎり、彼が考えていることは、彼が口にしていることと同じだ。一度目のお世辞が住んでいたすきまは、閉じられた。画面のなかで彼が心を入れ替えたと宣言したからではない。形式が変わったからだ。

二枚の字幕には、いくつかの読み方がある。以下は映画の読みではなく、この文章の読みである。ひとつの言葉は二度裁かれる。口にされたときに一度。そしてあとで、何が残ったかによって、もう一度。お世辞は、あのときは正しい。心地よく響いたその瞬間には。そして、いまは間違っている。決まり文句として思い出されるときには。本当のことは、あのときは間違っていることが多い。刺さるし、場の空気を壊すし、その晩を台なしにしかねない。それでも、いまは正しくありうる。映画は、自分の題名を二枚目の字幕から取っている。

絵と、屋上

二度目の一日は、一度目から嘘を抜き取っただけの一日ではない。行き先が違う。そのひとつは屋上だ。

今度のコーヒーの席では、彼は彼女の暮らしについて尋ね、彼女は答える。母と二人で暮らしている。父は離婚したあとソウルへ移り、もう会っていない。ザ・フィルム・ステージのニック・ニューマンは、二度目の語りを、彼がもっといいことを言い、彼女がもっと開かれたかたちで応える一日として評した。具体的には、こういうことだ。ひとつの問いと、行き場のある答え。

アトリエで、彼はキャンバスを見て、見えたものを告げる。自信をもって描いているし、質もある。けれどこの絵は、自分のためだけに描かれたように見える。もっと大胆にならなければ、と。ヒジョンは激しく怒る。彼はその怒りから逃れるように、外へタバコを吸いに出る。そのあとで、彼女は彼を屋上へ連れていき、自分の家がどこにあるかを指さす。

二つの一日を並べてみると、順序そのものが、この映画の静かな驚きになっている。一度目は、ほめ言葉が夕食へつながり、夕食が屈辱へつながった。二度目は、彼女を傷つけたひと言が、ほどなく、彼女が自分の家を彼に見せることへつながった。ネイマンは、シネマ・スコープ誌のロジャー・コザの指摘を紹介している。二度目のほうが絵についての言葉はきびしいのに、彼女は前より自分に確信をもっているように見える、というのだ。この二つは同時に成り立つ。そう見えるのは、彼女が真剣に扱われているからかもしれない。見てもいない絵を、わざわざ批判する人はいない。

二つの言葉の違いは、ここに縮図のように収まっている。一度目のほめ言葉は、水原のどのキャンバスについても言えた。二度目の批評は、この一枚についてしか言えない。そこにあるもの、つまり自信と質を名指し、欠けているものを名指した。欠けているものを名指すには、それを探して見ていなければならない。しかも、そこには代償があった。彼女を怒らせ、その日をそこで終わらせてしまったかもしれない。代償は、本当のひと言にたまたまついてきたものではない。それが自分に宛てられた言葉だと、彼女が知るための手がかりの一部なのだ。

ロムニーは、この批評はぶっきらぼうにすぎ、彼女の自尊心を傷つけた、と書いている。この文章も、彼が間違っているとは思わない。そのことには、あとで戻る。けれど映画のなかでは、ほめ言葉では一度も起きなかったことが、その痛みから起きる。彼女に、言い返すものができるのだ。

怒ってもいい一日

二度目の一日は、彼にとって、一度目よりいい一日だ。そして、見落とされやすいけれど、彼女にとってもそうだ。二度目の彼女は、声が大きい。

一度目、彼女のいちばんはっきりした言葉は、終わりに、別の部屋から出てくる。彼を追い返す、帰って、のひと言だ。二度目、彼女はアトリエで怒り、怒っていると口にする。夕食の席では、彼が言ったことに自分から戻っていき、どうして私の絵を見て、私が悲しそうだと言ったのか、と尋ねる。彼は、あなたがそういう空気をまとっているからだ、と答える。一度目と同じように、彼女は友達がいないと打ち明ける。今度の彼は、それでいい、たぶんそういう人なんだろう、と返す。直そうとはしない。それを彼女のものとして、そのままにしておく。

「「愛される女」になろうとするほど、自分の欲しいものが見えなくなる。」という文章は、この二度目の一日がそのまま答えになるような問いを立てていた。女性は、どこでなら声を出せるのか。その文章は、大事なのは声の大きさではなく、自分の声にたどり着けることだと論じ、人は、安心できる関係ではよく話せても、壊れそうな関係では自分を小さく編集してしまうことがある、と書いた。二度目の一日、ヒジョンの怒りは何も終わらせない。彼女は彼に激しく怒り、そのあとほどなく、自分の家がどこにあるかを彼に見せることができる。

それがなぜ可能なのかは、ひと言で言っておく価値がある。彼がやさしくなったからではない。何を考えているのかが、読みとれる人になったからだ。この絵は自分のなかに閉じている、と言う男は、自分がどんなふうに見ているのかを、彼女に見せている。彼女には、この人の前での自分の立ち位置がわかっている。自分の立ち位置がわかっている女は、腹を立てる余裕をもてる。同じことは、夕食の席で彼が告げる事実について、いっそうはっきり言える。

妻と二人の子ども、道で拾った指輪

二度目の寿司屋で、彼は、君と結婚したい、でもできない、自分には妻と二人の子どもがいる、と打ち明ける。そして泣く。ヒジョンは、もっと早く出会えていたらよかった、と言う。それから彼は道で拾った指輪を渡し、彼女はそれを、ふたりの結婚指輪と呼ぶ。

この場面を恋物語にしてしまうのはたやすい。説教にしてしまうのもたやすい。そのどちらでもない。打ち明けたからといって、彼がしていることが別のものになるわけではない。それはやはり、結婚している男が、その日に出会った女性を口説き落とそうとして過ごす一日である。妻と子どもたちは、夕食の席で口にされるひと言として、この一日に入ってくる。この一日でいちばん多くを失いかねないのは彼らだ。この文章は、彼らの代わりに語ることはしないが、彼らを視界から外すこともしない。

その打ち明けが変えるのは、誰が何を知っているか、である。一度目の一日、それがどんな一日なのか、つまり最後に家族が待っている一日なのかを知っていたのは、二人のうち一人だけだった。もう一人は、それを集まりの席で知った。二度目の一日では、二人ともが知っている。しかも彼女はそれを、食卓をはさんで本人の口から聞く。その晩の残りをどうするかを、まだ自分で決められるうちに。

そして、彼女がそれで何をするかに目を向けたい。彼女は立ち去らない。もっと早く会えていたら、と言う。事実を受け入れることと、それを悲しむことを、ひと息でしてしまう言葉だ。そして、値打ちのない指輪を受け取り、名前をつける。一度目、彼は持ってもいない指輪を探してポケットをかきまわした。二度目、彼が手渡すのは、道で拾った、本物だけれど何の値打ちもない指輪で、それが何を意味するかを決めるのは彼女のほうだ。起こることのない結婚のための、結婚指輪。冗談なのかもしれない。だとすれば、この映画でいちばん正直な冗談だ。何ひとつ偽っていないのだから。

「『クローサー』と、すべてを打ち明けても知られないこと」という文章は、どんな告白にも当てはめられる問いを示していた。本当のことが告げられたあと、聞いた人は前より自由になっただろうか、それとも不自由になっただろうか。一度目、本当のことは友人の口から集まりの席で届き、ヒジョンはかえって不自由になった。人前にさらされ、それから叱られた。二度目、本当のことは本人の口から、早いうちに届き、彼女は前より自由になった。そのあと彼女がした選択は、どれも事実を手にしたうえでの選択だった。ただ、この問いの答えは、彼にとって全面的に有利なものではない。なぜそうなのかは、この読みへの反論のところで、もう一度とりあげる。

友人たちと、彼の服と、母からの電話

集まりがもう一度めぐってくる。今度は、友人たちは彼を気に入る。親切な人だ、評判とは違う、と。彼は酒を飲み、一瞬つぶれて、それを芝居のふりでごまかし、それから酔ったまま、彼女の友人たちの前で服を脱いでしまう。ロムニーもネイマンも書いているように、そのときヒジョンは隣の部屋で眠っていて、その場面を見ていない。

帰り道、母から電話がかかってくる。母はもうその話を聞いていて、おもしろがっている。ヒジョンは声をあげて笑う。

一度目の集まりと並べてみる。同じカフェ、同じ友人たち、同じ男、同じ酒。一度目の夜、さらされたのは、彼女が彼のほめ言葉をどれほど喜んだか、ということだった。しかも、その喜びを話して聞かせた友人たちの前で。そして彼女は、家に帰って叱られた。二度目の夜、さらされるのは、すべて彼のほうだ。彼は自分から笑いものになり、笑われるのは彼ひとりだ。一度目に娘を叱った母は、二度目には電話口で笑っている。本当のことは、誰の体面も救わなかった。ただ、危うくなっているのが、もう彼女の体面ではなかった、というだけだ。

酒のことは、映画が見せているとおりに、飾らずに書いておく。寿司屋で焼酎、集まりでさらに。一度目の一日には、翌朝の二日酔いと癇癪。二度目には、つぶれて、それから服を脱ぐ男。この文章は、誰のことも診断しない。ロムニーは、ホン・サンスの映画から汲みとれる教訓のひとつに、酔っていることこそいちばん正直な状態だ、というものを挙げている。二度目の一日は、その裏づけになっている。寿司屋で泣く男と、集まりの男は、何杯か飲んだあとの同じ男だ。彼の正直さが自分で選んだものなのか、抑えがきかなくなった結果なのかは、この読みでは決められない。

玄関と、一本のタバコと、客席

ここから先は、二度目の一日がどう終わるかを書く。

彼は彼女を家まで送り、あとでまた出てきてほしい、もう少し話したい、と頼む。彼女は、出てくる、と約束する。彼の頬に口づけする。母が出てきて、ヒジョンは家に入る。チュンスは通りでタバコを吸いながら待つ。彼女は出てこない。やがて彼はあきらめる。

彼女がなぜ家から出てこないのか、この文章は知らないし、推し量ることもしない。言えるのは、家にとどまったことが何を意味しないか、である。玄関先の約束は契約ではなかった。頬への口づけも、出てくるという言葉も、出てこなかったことも、三つとも彼女のものだった。どれも借りではない。「見つめられることと、差し出されることは同じではない。」という文章は、その原則をはっきり書いていた。見つけてもらうことは、差し出すことではない、と。この文章の読みでは、ヒジョンは二度目の一日に、一度目のどの瞬間よりも正確に見られた。そしてそれは、彼女に何の義務も負わせない。

彼がすることも大事だ。待って、それからあきらめる。小さなことだが、正しいことだ。これほど彼に容赦のない映画のなかで、彼が何かを正しくしたときには、気づいておく価値がある。

翌日、彼の対談はうまくいく。ネイマンは、今度はその場面がずっと短く、誰も声を荒らげないことを指摘し、それがこの映画に望めるいちばん幸せな結末だ、と書いた。ヒジョンは彼の映画を観に来る。彼は彼女の席まで別れを言いに行き、彼女は、これからはあなたの映画を全部観る、と告げる。上映のあと、彼女は降りしきる雪のなかを歩いていく。

彼女がどこから始めたかを思い出したい。彼女は彼の名前を知っていて、映画は観たことがなかった。そして最後には、これから彼の仕事をすべて見ると約束する。二度目の一日に、彼が彼女の仕事を見たように。視線はようやく両方向に行き交い、どちらの向きでも、顔や名前ではなく、仕事に向けられている。小さな、よい結末だ。彼は去っていく。彼女は雪のなかへ、自分の暮らしのなかへ歩いていく。

正しい日と間違えた日、日本から読む

日本での公開題は、英語の題にはない選択をしている。英語の題は、いまとあのとき、二つの時点を向かい合わせる。邦題は、正しい日と間違えた日、二つの日を並べる。英語の題は、ひとつの言葉がいつ裁かれるのかを問う。邦題は、どちらの日が正しかったのかを裁くよう、観る人を誘う。題名から映画に入る日本の観客は、判定を期待して席に着くかもしれない。どちらの題も、この映画を裏切ってはいない。この文章が英語の題に寄りかかってきたのは、ここでの話が時間をめぐるものだからだ。口にしたときには間違っていて、あとに残ったもので見れば正しい、そういう言葉の話である。

この映画が扱っていることのいくつかには、日本語にふだん使いの名前がある。お世辞。社交辞令。場を円く収めるために差し出され、真に受けられることを前提にしていないほめ言葉やあいさつのことだ。そういう言葉が手近にあることは、一種の守りになる。ほめ言葉を礼儀として聞く習慣を身につけた人は、一度目のヒジョンに起きたようなことに、いくらかさらされにくい。けれど、その習慣には代償があり、二度目の一日がそれを見せている。どのほめ言葉もあらかじめ割り引いて聞いていると、本気で言われたただひとつの言葉まで、ほかと一緒に割り引いてしまう。しかも本気の言葉は、いつもやさしく響くとはかぎらない。自分がつくったものについての、ありがたくない指摘として届くこともある。

映画の地図にも、覚えのある人がいるだろう。水原は大きな街だが、チュンスにとっては、ソウルへ帰るまでの空いた一日を過ごす場所にすぎない。ヒジョンにとっては、そこが暮らしの場所だ。屋上から、彼女はそれを指さす。埼玉や千葉に住む人、あるいは、自分こそが真ん中だと思っている街から一時間ほどのところに住む人なら、その差を、身をもって知っているかもしれない。一日だけの訪問者と、そこで生きている女。二度目の一日は、彼女が彼にその暮らしを見せる一日である。

そして、この映画がとくに深く届くかもしれない読者が、もう一人いる。日本語を一から身につけたのは成人してからで、いまは毎日、その日本語で働いている女性だ。はじめのいくつかの文を話したところで、「日本語、お上手ですね」と言われたことがあるかもしれない。親切のつもりで言われることもあるだろう。けれどそれは、あいさつができた人なら誰にでも言えた言葉で、その意味で、チュンスの一度目のほめ言葉と同じ形をしている。努力したことには気づいても、何を言ったかには気づいていない。やがて彼女がもっと大事にするようになるのは、もっとまれな、刺さるほうのひと言かもしれない。文法は合っているけれど誰もそうは言わない、自分ならこう言う、と教えてくれる同僚のひと言だ。それは、アトリエでヒジョンが味わった痛みのように刺さることがある。そしてそれは、誰かが彼女の日本語に拍手を送るのではなく、耳を傾けているという、最初のしるしでもある。

この読みが間違っているかもしれないところ

この読みが間違っているかもしれない点は、少なくとも五つある。最初のものは、ある批評家がいちばん鋭く言い当てている。

第一に、その正直さは手管かもしれない。ジェンキンスは、二人のチュンスについて、どちらかが本物なのか、それとも二つとも、同じくらい計算ずくの、別々の口説きの手口にすぎないのか、と問うた。そして、一度目の穏やかで如才ない彼より、二度目の無遠慮で率直な彼のほうが魅力的だ、とも書いている。もし率直さが、ただのもっと効く口説き文句なのだとしたら、この文章が拠ってきた違いは、効率の違いにしぼんでしまう。二度目の一日がうまくいくのは、彼が効く方法を見つけたからだ、ということになる。これに返せることは多くない。動機が何であれ、二度目の一日、彼女は彼を拒むのに必要なことを知らされていて、最後には家から出てこない。相手に断る手段を渡してしまう手口というのは、奇妙な手口である。けれど動機は画面からは読みとれないし、正直さが効くと学ぶ男もいる。

第二に、その本当のことは焼酎が言わせたものかもしれない。二度目の一日でいちばん私的な本当のこと、結婚していることと涙は、酒の席で出てくる。集まりは、さらに飲んだあとのことだ。本当のことが、抑えのきかなくなったときにしか出てこないのなら、それは選ばれたものではない。それを選択としてたたえる読みは、彼が得てもいない手柄を彼に与えることになる。一度目の翌日、二日酔いの対談での爆発も、それはそれで、身構えのない姿だった。

第三に、映画は、この文章が下した判定そのものを拒んでいるのかもしれない。二枚の字幕は、訂正ではなく対称として読むこともできる。どちらの日も、ある場所からは正しく、別の場所からは間違っていて、どちらにも本当の一日という名札は付いていない。ロムニーは、一度目の語りは、二度目に起きた本当の出来事をもとにチュンスが書いていた物語なのではないか、とさえ考えている。二度目の一日に軍配を上げるこの文章は、映画の構造があえて示さずにいる教訓を、押しつけているのかもしれない。この文章に言えるのは、これが一つの読みであること、そして映画は両方の日を見せている、ということだけだ。

第四の点は、ヒジョンにいちばん近い。この映画は、やはり彼の一日を中心に組み立てられている。一度目の一日に私たちが聞く、考えている声は、彼の声だ。どちらの一日でも、彼女の暮らしは、有名な男の関心を軸にして回る。この文章が、視線が両方向に行き交うと呼んだ結末でさえ、彼女は彼の観客になっている。彼女が最後に約束するのは、彼の映画を観ることなのだから。この映画でいちばん幸福な像が、若い女性が男の観客になることだと感じる読者は、読み違えていない。言い返せることは、ひとつだけある。何を見るかを選ぶのは彼女であり、彼女はそのあと、彼を待たない暮らしのなかへ、ひとりで歩いていく。それで反論は小さくなるが、消えはしない。

第五に、本当のことは、相手に手渡される重荷でもありうる。自由になったのか、不自由になったのか、という問いには、きれいな答えが出ない。寿司屋で泣きながら、できることなら君と結婚したいと言うとき、彼は情報を与えると同時に、自分の悲しみを彼女に抱えさせてもいる。彼女は、もっと早く会えていたら、と応える。寛大な言葉だ。けれどそのぶん、彼女はその晩の一部を、彼が帰っていく暮らしのことで彼を慰めて過ごすことになる。絵への批評も、半ばは話す側のための本当のことだったのかもしれない。もっと大胆に、という助言は、すでに経歴のある男の口から出るとき、ほとんど元手がかからない。この映画のなかで、正直さはお世辞よりいい。けれど、それは思いやりと同じものではない。

この図書室が受け取るもの

三つある。どれも規則ではない。

ほめ言葉は、心からのものであっても、宛先をもたないことがある。確かめるべきは、彼が本気だったかどうかではない。それが一語も違わずに、ほかの誰かにも言えたかどうかだ。

誰かの仕事について本当のことを言うと、たいてい、言う側は何かを支払うことになる。その場の空気や、その晩や、相手からの好意を。そしてその代償が、それが自分に宛てられた言葉だと知る手がかりの一部になる。それは侮辱のように聞こえるかもしれない。ただぶっきらぼうにすぎるだけのこともある。どちらも起こる。

そして、女に告げられる本当のことは、何よりもまず、彼女自身が決めるための情報である。自分がどんな一日のなかにいるのかを教えてくれる。けれど、何かを義務づけはしない。告げた男に対しては、とりわけ。二度目の一日、ヒジョンは見られた。それでも家から出てこなかった。

だから一度だけ、あなたに。いつか心を動かされたほめ言葉を、あとになって、同じ人がほかの誰かに言うのを聞いたことがあるのなら。あなたは愚かではなかった。あの言葉は人の心を動かすように作られていて、それがあの言葉の仕事で、その仕事をしただけだ。あなたが望んだことは、まっとうだった。自分の仕事を、よいものとまだのものを見分けられる人に見てもらうこと。それを本当にしてくれるひと言は、もっとまれで、はじめは侮辱のように聞こえるかもしれない。それに腹を立ててもいい。そのうえで、急がずに、誰かを屋上へ連れていくかどうかを決めればいい。

これは一本の映画の読みである。登場人物であれ実在の人であれ、誰のことも診断せず、どんな関係についての助言でもない。

この文章が拠っているもの、主張しないこと

この文章が名前を挙げた批評家は、フィルム・コメント誌のジョナサン・ロムニー、リバース・ショットのアダム・ネイマン(シネマ・スコープ誌のロジャー・コザの指摘も、彼を通して紹介した)、アメリカの公共ラジオ局のマーク・ジェンキンス、ザ・フィルム・ステージのニック・ニューマンである。彼らの言葉は、この文章が日本語に移して言い換えたもので、原文どおりの引用ではない。

二〇一五年のロカルノでの受賞は、当時報じられた映画祭の結果に拠っており、それ以外の受賞は主張していない。韓国と日本での公開日は、この作品の標準的な記録に拠る。

宛先のないほめ言葉と、彼女に宛てられた本当のひと言という区別は、この文章の読みであって、測定された知見ではない。二枚の字幕の読みも、いくつかありうる読みのひとつであり、それへの反論は上に記した。

ここに名前の出てくる監督、演者、批評家、媒体のいずれも、この図書室とは何の関係もなく、何かを推薦してもいない。

持ち帰る問い

いちばん長くあなたのなかに残っているほめ言葉は、誰の言葉だろう。それは一語も違わずに、ほかの誰かにも言えただろうか。

自分の仕事について、最後に本当のことを言ってもらったのはいつだろう。その日はどう感じて、いまはどう感じているだろう。

その一日について、相手は知っていて自分は知らないことがある。そんな一日を誰かと過ごしたことはあるだろうか。知っていたら、その日をどうしていただろう。

どこでなら、そして誰の前でなら、怒っても、そこにいつづけられるだろう。

これからも見つづけると約束した誰かの仕事はあるだろうか。そして、あなたの仕事をそんなふうに見ている人はいるだろうか。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

このお便りについて