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『セックスと嘘とビデオテープ』と、答えを返せる相手に本当のことを話すこと

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バトンルージュの何不自由ない家で、誰も目の前の相手に望みを言えずにいる。そこへビデオカメラを持った男が現れ、出会った女性たちに、別の場所で語る機会を差し出す。スティーヴン・ソダーバーグの第一作は、記録されることと聞いてもらうことのちがいを描いた映画である。

バトンルージュのある部屋で、ひとりの女性がセラピストに、ごみのことが気になってしかたがないと話している。世界じゅうのごみは、いったいどこへ行くのだろう、と。家はすみずみまで磨き上げられ、夫は成功した弁護士だ。同じ椅子で彼女は、夫に触れられると考えるだけで嫌悪を覚える、とも打ち明けている。ごみの話のほうが、まだ口にしやすいらしい。セラピストは、彼女が自分ではどうにもならないことばかり心配している、と指摘する。

スティーヴン・ソダーバーグの『セックスと嘘とビデオテープ』は、目の前の相手に自分の望みを言えない四人の映画だ。アンは、言えるだけのことをセラピストに話す。その多くは、ごみの話にくるまれている。夫のジョンは、妻に本当のことを何ひとつ言わない。彼はアンの妹シンシアと関係を続けていて、妻が冷たいからだと自分に言い聞かせている。率直さが取り柄のシンシアはよくしゃべるが、そのほとんどは、当の相手には向いていない。そこへ、ジョンの大学時代の友人グレアムが、九年ぶりに町へ戻ってくる。持っている鍵は車の一本だけで、もう嘘はつかないと決めている。そして、のちにアンが見つけるとおり、女性の名前を書いたビデオテープを山のように抱えている。

この映画はたいてい、性について正直に語ることは性そのものより親密でありうると示した作品、としてまとめられる。間違ってはいない。けれどこの文章は、それは「ほぼ」正しいのだと考える。そしてこの映画が本当に見つけたものは、その「ほぼ」のところにある。映画のなかには、二種類の語りがある。ひとつは、カメラに向かって語ること。向こう側から誰も答えないから安心でき、語ったことは残される。もうひとつは、人に向かって語ること。その人は答えることができ、何も残さない。前者は記録されることであり、後者は聞いてもらうことだ。

グレアムのテープは、そこに出た女性たちにとって、語る場所になっている。映画はそれを本気で扱っているし、この文章もそうするつもりだ。けれど語られたことはテープに残り、それを手もとに置く男は、自分からは何ひとつ返さなくてすむ。ここで論じたいのは、性について語られた本当のことが親密さになるのは、ふたつのことが起きたときだけだ、ということである。聞き手が、今度は自分のほうから答えを返す側に立つこと。そして語られたことが、それを使うかもしれない誰かの手もとに、もう残されないこと。映画はその両方を見せる。そして、残された本当のことが間違った男の手に渡ったとき何が起こりうるかも、はっきりと見せる。

記録と、読み進める前の断り

脚本、監督、編集はソダーバーグ自身で、これが彼の長編第一作である。グレアムをジェームズ・スペイダー、アンをアンディ・マクダウェル、ジョンをピーター・ギャラガー、シンシアをローラ・サン・ジャコモが演じる。撮影は一九八八年の八月から九月初めにかけて、バトンルージュで行われた。撮影監督はウォルト・ロイド、音楽はクリフ・マルティネス。製作費は、当時の業界紙の報じたところでは百二十万ドルだった。

完成前の版が一九八九年一月、ユタ州パークシティの映画祭で上映され、観客賞を得た。この映画祭は、ほどなくサンダンス映画祭と名を改める。批評家のエイミー・トービンは、クライテリオン・コレクションに寄せた文章で、この成功が、ハリウッドの商業主義から離れた避難所だったその映画祭を、新しい才能を探しに来るロサンゼルスの実力者たちの集まる場所へ一変させた、と書いている。同じ年、映画はカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品された。映画祭自身の記録には、この年この作品が受けた三つの賞が並んでいる。パルム・ドール、国際映画批評家連盟賞、そしてジェームズ・スペイダーの男優賞。ソダーバーグは二十六歳だった。映画祭は後年、自らのサイトで、若いアメリカ人の映画作家がカンヌをひっくり返した、と振り返っている。

アメリカでは一九八九年八月にミラマックスの配給で公開され、日本ではその年の十二月に公開された。二〇〇六年、アメリカ議会図書館はこの作品を国立フィルム登録簿に加え、その発表では、この二十年の独立系映画のルネサンスを始めた画期的な作品とされた。一本の映画に負わせるには大きな言い方であり、それは議会図書館の言い方である。もう少し控えめに言えば、その後のアメリカの独立系映画の流れを変えるのに力を貸した一本、ということになる。

先にふたつ断っておく。この文章を書くにあたって、映画そのものは見ていない。拠っているのは、映画について公表されている記録とあらすじ、そして批評家たちの文章である。登場人物の台詞はすべて言い換えで示し、正確な引用としては扱わない。そしてこの文章は、映画の全体に触れる。アンがテープで何を語るか、そのテープがどう扱われるか、映画がどう終わるか。それらに画面で初めて出会いたい人は、ここで読むのをやめて、見終えてから戻ってきてほしい。テープの場面の直前で、もう一度ことわる。

目の前の相手に言えない四人

アンは家をすみずみまで磨き上げている。セラピーでは、ごみのことや結婚のことを話し、幸せなんて買いかぶられている、とも言う。そして、夫に触れられると思うだけで嫌悪を覚える、と。トービンは、落ち着きを脅かすものに出会うたび、彼女が笑ってかわすことに目をとめている。この嫌悪に診断名をつけたり、そこから教訓を引き出したりするのはたやすいが、この文章はどちらもしない。ひとりの女性が、夫に触れられたくない。それを、決まった時間に、ある部屋で、セラピストに話した。いま目の前にあるのはそれだけで、それだけでもう、十分に重い。

弁護士のジョンは、アンの留守にシンシアを家に呼び、夫婦の寝室で関係を持つ。彼女に会うために、大事な顧客との約束まで動かす。そして、妻が冷たいからだ、と自分に言い聞かせる。この言い分こそ、ほかのすべての嘘の下にある嘘であり、それを最初に聞かされているのはジョン自身だ。その筋書きを自分に聞かせてしまった男は、もう自分のしていることを見なくてすむ。見ることは、筋書きにまかせてしまえるからだ。

アンの妹シンシアは、絵を描き、バーで働き、姉とのわだかまりをいつまでも解けずにいる。率直なのは彼女のほうで、その率直さは本物だが、多くは狙いをつけて放たれている。トービンは、姉の夫との関係を、シンシアが姉に対してできるいちばんひどいことであり、だからこそ選ばれたもの、と読む。ひとりの批評家の読みであって、この文章がそれに決着をつける必要はない。言えるのは、その関係がどういうものであれ、相手は姉の夫だったということ。そして姉妹の長いいさかいが、ふたりが同じ場にいるときにはいつも、そこに居合わせているということだ。

そしてグレアム。大学ではジョンの友人だったが、九年を経たいま、ふたりに共通するものはもうない。ジョンは、変わり果てた旧友への嫌悪を隠そうともしない。アンとグレアムは、最初の晩から気が合う。部屋探しにつきあう彼女に、グレアムは、自分は性的に不能だと打ち明ける。事実として淡々と口にする。彼が携えて戻ってきたのは、車の鍵一本と、もう嘘はつかないという決まりだけだった。

四人の、四通りの言えなさ。アンは専門家に、それもしばしば遠回しに話す。ジョンは、本当とは正反対のことを、妻にも自分にも言う。シンシアは大きな声で、しばしば見当ちがいの相手に言う。そして、自分についての本当のことを語るグレアムは、本当のことを告げるべき相手が目の前にひとりもいない暮らしを、自分でこしらえてしまっている。

この物語の中心にある結婚は、セックスレスであると同時に、不誠実でもある。どちらが先だったのかを、映画に映っているものから読みとることはこの文章にはできないし、読みとろうとすること自体が罠になる。アンの嫌悪を、彼女のからだが嘘に先に気づいていたしるしと読むのは都合がいい。ジョンにとって同じくらい都合がいいのは、自分の嘘を妻の嫌悪のせいにすることだ。それこそまさに、彼が自分に聞かせている筋書きである。映画が差し出すのは、触れられたくない女性と、嘘をついている男が、同じ家にいるということだけだ。そのふたつの事実は、どちらかがもう一方の言い訳にされることなく、並べて置かれている。

名前の並んだ棚

後日、新しい部屋を訪ねたアンは、女性の名前が書かれたビデオテープの山を目にする。グレアムは、それが何なのかをありのままに話す。女性たちが、自分で引き受けて、カメラに向かって自分の性について語ったテープだ。それをひとりで見ることでしか、彼は満たされない。アンは動揺して帰り、あの人には近づかないで、とシンシアに電話をかける。

ここで少し立ち止まりたい。映画はこのテープを真剣に扱うよう求めているのに、そうしないほうがずっと楽だからだ。テープに出た女性たちにとって、それが何だったのかを考えてみる。誰かが尋ね、彼女たちは顔ではなくレンズに向かって答える。レンズはたじろがないし、眉をひそめもしないし、言い返してもこない。自分の性について口にしたいことのなかには、まさにそのために、顔よりもレンズのほうが話しやすいものがあるのかもしれない。

映画祭は自らのサイトでこの作品を振り返り、ソダーバーグがビデオを物語の中心に据えることで、観察の仕組みをつくりあげたと書いている。その通りだが、それだけでは足りない。テープは、聞くための仕組みでもある。この映画を奇妙なものにしているのは、男が女を見ていることではない。そういう映画なら、いくらでもある。女たちが語り、男がただ聞いている、ということのほうだ。

けれど、この取り決めにはひとつの形があって、大事なのはその形だ。語り手は差し出し、聞き手は残す。それも文字どおりに残す。テープは名前を書かれたまま、棚に戻される。そして聞き手のほうが聞かれることは、一度もない。嘘をつかないという決まりをつくったグレアムは、自分がいつも尋ねる側にいられるようにも、ものごとを整えていた。彼の正直さは本物だが、彼には何の代価もかからない。何も尋ねられることのない人間には、嘘をつく必要がないのだから。

それに、テープは聞き手とちがって、手にした者なら誰にでも再生できる。別の誰かがあの部屋に入りこんだとき、棚の女性たちを守るものは、この取り決めのどこにもない。映画はのちに、この点へ容赦なく戻ってくる。

早い時期にこの映画を論じた批評家のひとり、マイケル・デアは、一九九〇年にクライテリオン・コレクションに寄せた文章で、グレアムのふるまいに時代の論理を見ている。あの十年の疫病に対して、コンドームのかわりにビデオを予防の手段にする男、という読みだ。エイズの時代には、距離をおいて語ることが、残された最も安全な親密さに見えたのかもしれない。それは、あの時代の読みである。映画はその時代を越えて残った。ということは、グレアムのとっている距離は、はじめからウイルスだけの問題ではなかったのかもしれない。

シンシアのテープと、ジョンが耐えられないもの

姉の忠告は、案の定というべきか、逆の結果を招く。シンシアは呼ばれもしないのにまっすぐグレアムの部屋へ行き、テープの意味を聞き出して、自分も撮らせる。そこで彼女が何を語ったかは彼女のものであり、この文章はそこには立ち入らない。ある批評家は、なぜそうしたのかを語る彼女の言葉に、この映画で共感を誘う人物たちをみな動かしている願いを聞きとっている。彼に自分を見てほしかった、という願いだ。

それから彼女は姉に話し、姉は凍りつく。ジョンにも話し、ジョンはグレアムを口汚く罵って、すべてを彼のせいにする。ジョンが何に怒っているのかを見ておきたい。グレアムは、彼女に問いを向け、その答えを撮った。ジョンに耐えられないのは、彼女が、自分とは何の関係もない形で、ほかの誰かに見られ、聞かれたということのようだ。本人が自分に何と言い聞かせているにせよ、その怒りは、彼女の身を案じるものには見えない。持ち物をおびやかされた者の怒りに見える。

シンシアには、それが見える。そんなジョンに愛想を尽かし、彼女は別れを告げる。このことは、彼女の手柄として認めておきたい。率直なほうの妹は、軽はずみなほうの妹として片づけられやすいからだ。物語のなかで最初にジョンをまっすぐ見て、見たものに従って動いたのは彼女であり、それに要したのは、一本のテープについての一度の会話だけだった。

だからといって、この関係を実際以上のものにするつもりはない。この文章はそれを恋物語としては読まないし、罰するのもこの文章の仕事ではない。それは、ふたりの人間が三人目を欺いていたということであり、その三人目は、一方にとっては妻、もう一方にとっては姉だった。その代償をいちばん重く負うのは、何ひとつ尋ねられなかった人である。

寝室のイヤリング

浮気をしているのか、とアンはジョンに正面から尋ねる。ジョンは否定して言いくるめ、アンはそれを信じる。ところが寝室に掃除機をかけていて、彼女は妹の真珠のイヤリングを見つける。シンシアがなくしたものだった。

静かで、それでいて寸分の狂いもない発見だ。嘘は彼女の顔を見ながら、言葉で告げられた。本当のことは家事の途中に、ひとつの物として、寝室の床から出てくる。浮気のことを、誰もアンに告げはしない。彼女はそれを、家を磨き上げておくための機械で見つける。

彼女はそれを、まだジョンには持っていかない。シンシアのところへも持っていかない。車でグレアムの部屋へ向かう。バトンルージュじゅうで、誰にも言い返されずに本当のことを言える場所は、カメラの置かれたあの部屋だけだ、とでもいうように。

アンのテープ

ここから先は、アンがテープで何を語るか、そのテープがどう扱われるか、そして映画がどう終わるかに触れる。

渋るグレアムを押しきって、彼女は自分のテープを撮らせる。カメラの前で、セックスで満たされたことは一度もないと言い、グレアムと寝ることを考えたと認める。これは彼女の言葉であり、彼女がカメラを選んだからこそ、カメラに向けて語られた言葉だ。この文章は、映画について公表されている紹介が伝える範囲でそれを記し、それ以上には踏みこまない。

それから彼女は、この取り決めがいちばん避けてきたことをする。カメラを彼に向け、今度は彼に語らせるのだ。トービンの書くところでは、彼女は、人間関係から完全に身を引いたふりをしながら自分の人生をかき回した彼を、問いただしに来ている。これまで女性だけを撮ってきたグレアムのカメラが、それを構えていた男に向けられる。

そして彼は答える。かつての自分を病的な嘘つきだったと語り、その嘘がエリザベスという女性との関係を壊したこと、そして区切りをつけるためにバトンルージュへ戻ってきたことを打ち明ける。鍵一本の男、嘘をつかないという決まり、テープ、距離。そのすべてが、この告白のまわりに組み立てられていたことがわかる。彼は、自分が尋ねられる側に決してならないようにすることで、自分の正直さを安全なものにしていたのだ。

ここがこの映画の要であり、何が変わるのかを正確に見ておきたい。それまで、取り決めは一方向にしか流れていなかった。女性たちが語り、彼が残し、彼が聞かれることは一度もなかった。アンはこの取り決めを拒むのではない。完成させるのだ。ほかの女性たちと同じようにレンズに向かって本当のことを言い、それから聞き手に答えさせる。はじめて、テープに残る本当のことが、両方の向きに流れる。そしてはじめて、カメラの後ろにいる男が、何かを支払う。

そして彼女は、彼に歩み寄る。トービンは、彼女が彼の手をとって自分の顔へ導き、頬をつたって首のほうへ動かしていくさまを描いている。テープはそこで終わり、映画は場面を離れる。トービンはその切り方を、ソダーバーグが観客ののぞき見の欲に応えるのを拒み、グレアムと同じ罠に落ちるのがどれほどたやすいかを思い出させる瞬間として読んでいる。夫に触れられると考えるだけで耐えられなかった女性が、ここでは、手がどこへ行くのかを自分で決めている。これはこの文章の読みであって、映画が言葉にしていることではない。けれど場面は、そう読まずにいるのが難しいように組み立てられている。からだに触れることは、本当のことが語られたあとにやってくる。それも彼女自身の手で、記録の外で。

ジョンがそのテープにしたこと

その夜、アンはジョンに離婚を切り出し、テープのことを告げる。ジョンはグレアムの部屋に乗り込んで彼を殴り、外へ引きずり出して締め出すと、アンのテープを再生する。

ここは、はっきり言葉にしておかなければならない。映画のなかでは、ただ筋を先へ進めるための出来事のように見えてしまいかねないが、そうではないからだ。これは暴力である。ひとりの男がもうひとりの男を殴り、その人の家から放り出した。そしてこれは、アンのプライバシーの侵害である。彼女はあのテープを、自分の理由で、ひとりの聞き手に向けて撮り、そこで話したいことを話した。ジョンは、誰の同意も得ていない。力ずくで奪った部屋で、いま殴ったばかりの男から、それを取りあげている。彼が見たからといって、彼女の言葉が彼のものになるわけではない。結婚しているからといって、夫にそれを見る資格があるわけでもない。

画面の前のジョンを映すこの場面は、観る者をその部屋に、彼女の言葉を奪った男のすぐ隣に置く。居心地の悪い場所だし、そうであるべきだ。そこで何をするかは、観る側が選ぶ。この場面を、楽しむべき暴露として見ることもできる。あるいは、ありのままの姿で見ることもできる。ひとりの女性の言葉が、一度も向けられたことのない男のもとへ届いてしまった場面として。

この図書室の「見つめられることと、差し出されることは同じではない。」という文章は、その違いのすべてを、ひとことで言い表した。作者性である。大切なのは意味を決める権利がどこにあるかだ、とあの文章は書いている。人は、自分の見られ方が何を意味するのかに口をはさむことができる。物は、どの角度から眺めまわされても、その意味を変えられない。アンのテープは、その違いをこれ以上ないほどはっきり見せてくれる。グレアムの部屋で、自分の選んだカメラの前で、言葉は彼女のものであり、その言葉が何を意味するかも彼女のものだった。ジョンの手のなかでは、同じテープ、同じ言葉、同じ顔が、まったく別のものに変わる。作者であることが、彼女から奪われたからだ。テープの上では何も変わっていない。変わったのは、それを手にしている者である。

テープが止まり、ジョンは呆然と画面を見つめたまま取り残される。彼が奪ったもののなかに、彼の役に立つものは何もない。記録された本当のことは、危ういものでもある。女性たちが語る場になったテープは、はじめからずっと、盗まれうるものだった。そして映画は、いまその盗みを見せたところだ。

傷つけるための告白

それからジョンは、グレアムが締め出されているポーチへ出て、こう告げる。エリザベスがグレアムとつきあっていたころ、自分は彼女と寝ていた、と。そして去っていく。

この図書室の「『クローサー』と、すべてを打ち明けても知られないこと」という文章は、どんな告白にも使える見分け方を差し出していた。本当のことが告げられたあと、聞いた人は前より自由になっただろうか、それとも不自由になっただろうか。あの文章は、ロンドンの四人が本当のことを、告げる側の荷を軽くするために、聞く側を罰するために、勝つために使うさまを見ていた。ポーチのジョンは、その三つを一文でやってのける。それが本当かどうかはともかく、その告白は、グレアムが自分の立っている場所を知るために告げられるのではない。いちばん深く傷つく瞬間を選んで、傷つけるために告げられる。しかも、自分のものではなかった本当のことを、力ずくで手に入れたばかりの男によって。

アンの問いを、その隣に置いてみる。彼女もまた、グレアムが言わずにすむように暮らしを組み立ててきた本当のことを、彼に言わせた。けれど彼女は、彼を知るために尋ね、答えを聞くためにそこにとどまった。ジョンは傷つけるために告げ、それが届く前に背を向ける。あの見分け方に照らせば、グレアムは、アンのテープを撮り終えたとき、撮る前より自由になっていた。そしてポーチでは、前より不自由なまま残された。同じ男、同じ過去。そして、本当のことのまったく別のふたつの使い方。

ジョンが去ったあと、グレアムはカメラとテープをすべて壊す。この文章は、彼のために理由をこしらえるつもりはない。その行為が何をほどいたのかを見れば足りる。名前の並んだ棚は、もうない。女性たちが語ったことを残しておく者は誰もいなくなり、誰ももう、あの部屋に入りこんでそれを再生することはできない。その身ぶりにどんな意味があったにせよ、それは、自分は聞かれずにすむ形で女性たちの話を聞くというやり方の、終わりでもある。

バーの姉妹

しばらくして、ジョンは上司の部屋に呼び出される。浮気にかまけて、顧客をおろそかにしてきたのだ。映画はこの報いを、声高にではなく静かに描く。この文章も、それにならう。それを楽しんでも、得るものは何もない。

それよりも重みをもつのは、ふたりの女性の場面だ。アンはシンシアの働くバーを訪ね、姉妹は仲直りをする。

静かな場面で、多くの人の記憶に残る場面のあとに来るから、見過ごされやすい。けれど、どういう場面なのかを見てほしい。あの関係はふたりのどちらにも代償を払わせ、その中心にはひとりの男がいた。それでも姉妹の物語は、その男で終わらない。シンシアの職場で、つまり彼女の場所で、アンのほうが訪ねていく形で終わる。もしトービンの読みのとおり、あの関係が姉に向けられたものだったのなら、バーでの仲直りはジョンのことだけではない。ふたりのあいだで、ジョンが身代わりに立たされていた何かのことでもある。

それはこの映画のもうひとつの本当の言葉であり、もしかすると、より難しいほうの言葉だ。アンのテープは、レンズ越しに、一度きり語られた。バーで姉妹のあいだに交わされるものには、ふたりのそれまでのすべてが背後にあり、これからの人生のすべてが前にある。そういう本当のことを、カメラが受けとめられたはずはない。

ポーチ

そして最後の場面。アンはグレアムの家を訪ね、ポーチの彼の隣に腰を下ろす。アメリカ映画協会のカタログの記述によれば、ジョンが彼を放り出したのと同じポーチだ。カメラはない。カタログによれば、小雨が降るなか、ふたりは手をつないでいる。雨になりそう、と彼女が言う。もう降っている、と彼は答える。

これが映画の最後のやりとりであり、それはひとつの答えだ。告白でも、インタビューでも、何かについての判定でもない。同じ空の下、隣に座る彼が差し出す、小さな訂正である。彼女が話し、彼が答える。ふたりはもう、互いに本当のことを告げあっている。レンズに向けた語り、セラピストに向けた語り、一撃として使われた語りに満ちたこの映画は、そこで終わる。そして、それで十分なのだ。

この台詞は冗談としても聞ける。軽い冗談だ。うまくできすぎた比喩としても聞ける。彼女が待っていたものは、もう始まっている、と。けれどこのやりとりは、テープには一度もできなかったことを、まさにやってのけている。テープは語られたことを抱えこみ、何も返さなかった。ポーチは何も残さず、答えを返す。それが、この文章が最初から追いかけてきた違い、記録されることと聞いてもらうことの違いである。映画は、ふたりが並んで座ったまま、ほかには何も決まらないうちに終わる。

静かになったふたつの結婚

この図書室の「『31年目の夫婦げんか』と、求めるのが彼女ひとりではなくなった夜」という文章は、別の静かな結婚を追っていた。妻だけが求めつづける結婚だ。廊下を歩いて夫の部屋へ行き、カウンセラーの部屋に入り、何度も何度も。断られる危険が、ついにもうひとりの手に渡るまで。あの文章は、求めること自体が問題だったのではなく、断られる危険を引き受けるのがいつも彼女ひとりだったことが問題だったのだ、と論じた。カウンセラーにできることとできないことも、きちんと見分けていた。カウンセラーは夫に何でも尋ねることができる。けれど夫の代わりに、廊下を歩くことはできない。

アンの結婚が静まりかえったのは、その反対の側からだ。アンは何も求めていない。触れられたくないのであり、結婚が本当のことを言える場所だという期待も、もう手放してしまったように見える。この映画でカウンセラーの部屋にあたるのが彼女のセラピーで、映画はそれをありのままに映す。椅子に座った女性が、ごみのこと、幸せのこと、夫に触れられることを話し、セラピストは耳を傾けて、自分ではどうにもならないことばかり心配していると指摘する。セラピストにできないのは、そのどれかをジョンに伝えることだ。そして映画のほとんどのあいだ、アン自身にもそれはできない。

ここでは、この文章が彼女について何を言うのかに気をつけたい。この文章は、診断も説明もしない。夫に触れられたくない女性の「いや」は、彼女が持っていていいものだ。結婚のために直されるべき症状ではないし、夫に触れさせる義務も、もともとない。結婚は、誰のからだにも何も義務づけない。テープのなかで彼女は、セックスで満たされたことは一度もないと言う。それは彼女自身の人生についての彼女自身の説明であって、誰かについての医学的な事実ではない。映画が見せるのは、別のことだ。触れあいが訪れるのは、彼女が本当のことを言い、それに答えてくれる人がいたあとであり、それも彼女自身の手によってである。

静かになった結婚が、ふたつ。ひとつは、妻がひとりで求めつづける結婚。もうひとつは、妻が求めるのをやめてしまった結婚。あの文章が見つけたのは、もうひとりが戸口に立つ番を引き受けたときにだけ、結婚の向きが変わりうるということだった。アンの結婚は向きを変えない。終わる。終わらせるのは彼女であり、それはテープの前で本当のことを口にした、その同じ日のことだ。遅れて告げられた本当のことが、結婚の二度目の人生の始まりになることもある。ずっと前に終わっていた結婚の、終わりになることもある。映画はアンに後者を与え、それを悲劇のようには描かない。

日本で読む

この映画は一九八九年十二月、日本ヘラルド映画の配給で日本の映画館にかかった。邦題は原題をそのまま訳したものだ。国内の大手映画情報サイトの作品紹介は、グレアムの訪問を「心優しき変態者の来訪」と書き、彼の申し出を、ビデオカメラで「性的対話」をしようというもの、と紹介している。どちらの言葉にも、少し立ち止まる値打ちがある。

「心優しき変態者」という言い方は、この映画が観客にかけてくるふたつの引力を、うまく言い当てている。映画は、テープを持つこの男を好きになるよう誘い、同時に、そのテープが何なのかを決して忘れさせない。この文章も、その両方を手放さないようにしてきた。一方の「対話」は、テープにはまだ早すぎる言葉だ。いつも片方が尋ね、いつも片方が語るインタビューは、対話ではない。それが対話になるのは、カメラの向きが変わったときだけだ。

姉妹の姉として育った読者なら、アンのなかに、日本語でなら言い当てやすいものを見つけるかもしれない。「お姉ちゃんなんだから」という、ありふれた言葉がある。しばしば、ゆずりなさい、がまんしなさい、お手本になりなさい、という言いつけといっしょにやってくる言葉だ。アンは、磨き上げた家をもつ、きちんとしたほうの姉で、シンシアは、思ったことを声に出して言うほうの妹だ。どちらの役も、人そのものではない。どちらの役にも、代償がある。バーでふたりのあいだに何が交わされたにせよ、それは、どちらも自分の役を演じなくてすむひとときだった。

あとから学んだ言葉は、グレアムのレンズに少し似た働きをすることがある。ある言語学者が千人あまりの多言語話者に尋ねた研究では、罵りの言葉やタブーとされる言葉は、最初の言語でいちばん強い感情の力をもつと感じられ、あとから学んだ言語になるほど、その力は弱く感じられていた。その言語にどれほど通じていると思っているか、どれほど頻繁に使っているかによっても、感じ方は変わっていた。日本で、日々の一部をあとから来た言葉で過ごしている人なら、思いあたることがあるかもしれない。性やからだについて、その言葉でならかえって言いやすいことがある。言葉が、口のなかで軽いときだ。けれど同じ軽さが、聞き手を遠ざけもする。言いにくかったことが、こめたつもりより軽く届いてしまう。アンのテープには、その両方がある。レンズが、彼女に言わせた。そして彼女がその向きを変えるまで、同じレンズが聞き手を手の届かないところに置いていた。

そして、古い日本家屋の縁側を知っている人なら、最後の場面にどこか見覚えを感じるかもしれない。家の内でも外でもない場所に、向かい合うのではなく、並んで座る。向かい合っては言えないことも、並んでなら言えることがある。映画は、ふたりがそうして座っているところで終わる。

この読みが間違っているかもしれないところ

ここからは、この読みへの反論を、できるかぎり公平に組み立てる。そのいくつかは強い。

第一に、グレアム。この文章は彼について、必要以上に映画の側に立ってきたかもしれない。映画が彼に寄せる好意を取り去ってみると、物語はこうなる。ひとりの男が、女性たちが自分の性について語るのをテープに集め、ひとりで使う。そして映画は最後に、そのなかでいちばん心を閉ざしていた女性を、ご褒美のように彼の隣に座らせる。棚の女性たちは撮られることに同意していたし、映画はその同意を本物として扱っている。この文章もそうしてきた。けれど、撮られることに同意したからといって、その取り決めが何であるかまで決まるわけではない。誰に頼むかを選んだのも、問いを立てたのも、テープを残したのも彼で、彼自身は一度も映っていない。何も求めない聞き手という男の像は、男にとって都合よく美化された、古くからある絵であり、映画はそれに甘えているのかもしれない。せいぜい言えるのは、映画がそのつけを彼に払わせている、ということくらいだ。カメラの向きを変えるのはアンであり、テープを壊すのは彼である。けれどそれは、異議を狭めるだけで、退けるものではない。

第二に、これは第一の異議とも重なる。アンの転回は、ひとりの男の隣で完成する。離婚を切り出すのも、妹と仲直りするのも、彼女がひとりでやったことだ。それでも最後の画は、カメラを持っていた男の隣のポーチに、彼女を置く。自分の声を見つける女性の物語が、最後の最後で、もっといい男を見つける女性の物語にたたみこまれてしまったのではないか、と問う読者がいても無理はない。この文章の読みは、ポーチを選んだのが彼女だということ、そしてそこで交わされるのが救出ではなく答えだということに寄りかかっている。結末がきれいにまとまりすぎていると感じる読者は、間違っていない。

第三に、映画の形そのもの。デイヴィッド・ステリットは一九八九年、クリスチャン・サイエンス・モニター紙の批評で、最後の三十分ほどで映画の工夫が消えてしまうと書いた。人物たちはただ座って話し、カメラはただ据えられて、退屈な切り返しでそれを撮るだけになる、と。この文章は、座って話すことこそ映画が主題にたどりついた姿だと論じてきたし、三十年近くのちのトービンは、同じ山場を、きわめて静かに進み、ゆっくりとひとりからもうひとりへカットを移していく場面として見ている。けれどステリットの異議には、好みの問題を越えた刃がある。百二十万ドルほどで撮られ、トービンの言うように露出はほとんどなく、性の場面も省略でつないでいる映画は、その主題を予算のなかに見つけたのかもしれない。話す人を撮るのは安くすむ。話すことは性より親密だという主張は、ある程度までは、制約を意味に見せかけたものなのかもしれない。

第四に、時代。グレアムにとってビデオはエイズの時代の予防の手段だった、というデアの読みは、この文章が人間の問いとして扱ってきた距離が、少なくとも一部は歴史の問いだった可能性を示している。いま書かれる文章は、一九八九年の産物だったものを、普遍的なものにしてしまいかねない。

第五に、区別そのものに対して。カメラに向けて語られた本当のことも、やはり誰かに向けて語られており、その誰かに合わせて形を整えられている。シンシアのテープには、姉への挑発という面もあったのかもしれない。どんな語りも演技でもあるのなら、この文章が引いてきた、記録されることと聞いてもらうことのあいだの線は、見かけほどはっきりしていない。この文章が返せる答えは狭い。違いは、言葉がどれほど純粋かということより、そのあと言葉がどうなるか、残されるのか答えられるのかにある。けれど、異議は残る。

この図書室が受け取るもの

人はもっと打ち明けるべきだ、ということではない。映画はそう言っていないし、この文章も言わない。受け取るのは、ひとつの区別と、そこから出てくるいくつかの飾らない言葉である。

記録されることと、聞いてもらうことは違う。記録は語られたことを抱えこみ、手にした者なら誰にでも再生できる。聞いた人は、それに答えることができる。

何も賭けない聞き手は、親密さの半分である。カメラの後ろのグレアムが、その半分だった。女性たちが語るには十分なほど本物で、それでも半分より先へは進まなかった。誰も彼に何かを尋ねることができなかったからだ。残りの半分は、誰かが尋ねたときに始まった。

女性が自分の性について語ったことは、彼女のものだ。自分で選んだ相手に語ったあとも、それは変わらない。ほかの誰も、見ることによっても、結婚によっても、力によっても、それを手に入れはしない。

自分のからだや結婚についてのいちばん本当のことを、これまで紙の上にしか、暗がりにしか、あるいはどこにも言えずにきたとしても、聞く人がいなかったからといって、それが本当でなくなるわけではない。それはやはり、あなたのものだ。映画が言っているのは、本当のことが口にされたあと、それがどうなるかということだけだ。残されるのか、答えられるのか。いつか誰かに言うのか、言うなら誰になのかは、あなたが決めることだ。

この文章が拠っているもの、主張しないこと

これは一本の映画の読みである。医療、心理、法律の助言ではない。登場人物を含めて誰のことも診断せず、どの読者についての言明でも、どの結婚、どのからだ、どのセラピーについての助言でもない。触れることや欲望についての問いが、からだについての問いであるなら、尋ねる相手は医師であり、映画やその映画についての文章に答えられる問いではない。

拠っているのは、映画について公表されている記録とあらすじ、映画祭自身の記録、アメリカ映画協会のカタログ、そして本文で名前を挙げた批評家たちの文章である。批評家の言葉は、日本語ではすべて言い換えで紹介した。かぎかっこで引いた紹介文の言葉は、国内の映画情報サイトの文章そのままである。公表されているあらすじを越える場面の細部は、それを伝えている記述を示したうえで用いた。記述が食い違うところ、たとえばアンのテープの終わりにカメラを止めるのが誰かについては、一致している範囲だけを記した。

言及した研究知見はひとつだけで、最初の言語とあとから学んだ言語とで、タブーの言葉がどれほどの力をもつと感じられるかについての、査読を経た研究である。質問票に自分から回答した人々を対象にしたもので、人々が言葉をどう感じたかを示すものであって、誰かの暮らしを示すものではない。誰かの結婚や性生活についての数字は、この文章のどこにも出てこない。

ここに名前の出てくる監督、俳優、批評家、映画祭、図書館、媒体のいずれも、この媒体とは関係がなく、何かを推薦してもいない。

持ち帰る問い

答えを返せない誰か、あるいは何かにしか、言えずにきたことはあるだろうか。そこが安全な場所だったのは、なぜだろう。

自分についての本当のことを誰かに告げたとき、それはそのあと、どうなっただろう。残されたのか、使われたのか、それとも答えられたのか。

あなたの人生で、問いの向きを変えて、相手の本当のことをあなたに聞かせてくれた人はいただろうか。

打ち明けたことが、届くはずのなかった人に届いてしまったことがあるなら、それは誰の行為だったのだろう。あなたはそれを、自分のこととして抱えてこなかっただろうか。

あなたにとって難しいのはどちらだろう。本当のことを言うことか、それとも、とどまって答えを聞くことか。

読みもののお便り

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