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『華燈初上 -夜を生きる女たち-』と、隠さずに抱きしめるということ
一九八八年の台北。日本式のクラブで、女たちは男たちをもてなし、大切にされていると感じさせることを仕事にしている。仕事を離れれば、彼女たちは互いを守り、互いのために何年も何かを抱えつづける。このシリーズは、その守りが守る側にどれほどの代価を強いるのかを見つめ、最後に、何ひとつ隠さない守り方にたどり着く。
「華燈初上」という中国語の言い回しは、ある時刻を指している。夕暮れどき、街に灯がともりはじめるころだ。一九八八年の台北、林森北路から一本入った路地では、それは「光」という日本式のクラブが夜を始める時刻でもある。店のオーナーはスー・チンイ。誰もが彼女をスーママと呼ぶ。店を仕切るママはロー・ユノン、通り名はローズ。ふたりは古くからの友人で、店では何人かの女たちが働いている。彼女たちの仕事は、客に心を向けることだ。テーブルで相手をし、話につきあい、その夜の客にとって親しい誰かであるかのようにふるまってみせる。
やがて、山中の立ち入り禁止区域に埋められていた女性の遺体が見つかり、ふたりの刑事がその足どりをたどって「光」に行き着く。死んでいたのは、スーだった。
『華燈初上 -夜を生きる女たち-』は、こうして始まる。そして三つのシーズンをかけて、誰がスーを殺したのかを問いつづける。よくできた謎解きだ。けれど、作り手たちがはじめに作ろうとしたのは、謎解きではなかった。脚本家によれば、この作品はもともと、あの界隈に生きる女たちの人生を描く時代劇として始まり、殺人事件はあとから加わったのだという。謎は、観る人を招き入れる入り口にすぎない。なかに入ってしまえば、そこにあるのはひとつの職場と、毎晩その店をまわしている女たちだ。
この文章は、このシリーズを、守ることについての物語として読む。誰が守り、誰がその代価を払い、守り方にはどんな種類があるのか。「光」の女たちの仕事は、男たちに、大切にされていると感じてもらうことだ。シリーズが見つめるのは、仕事を離れたところで彼女たちが互いをどう守っているか、そしてそれが、守る側にどんな代価を強いるのか、である。終わりまでたどると、シリーズはひとつの区別を残していく。人を隠すことで守るやり方と、人を抱きとめることで守るやり方がある。何ひとつ隠すことを求めないのは、抱きとめるほうだけだ。
先にひとつ、断っておきたい。この文章は、三つのシーズンの結末まで、誰がスーを殺したのかも含めてふれる。それは、このシリーズが最後に明かす答えだ。次の節に、その答えがこの文章のどこで出てくるかを書いておく。画面で確かめたい人は、そこで読むのをやめてほしい。
シリーズについて、そして読み進める前に
『華燈初上 -夜を生きる女たち-』は、ネットフリックスのために作られた台湾のシリーズである。全二十四話を八話ずつ三部に分けて配信し、第一部は二〇二一年十一月二十六日、第二部は同じ年の十二月三十日、第三部は二〇二二年三月十八日に公開された。監督は連奕琦、脚本は杜政哲ほか。ローズを演じるルビー・リンは、製作にも名を連ねている。スーをシェリル・ヤン、刑事のパン・ウェンチェンをトニー・ヤン、脚本家のジャン・ハンをリディアン・ヴォーン、ホステスのハナをエスター・リュウが演じ、同じ店で働くアイコをパフ・クオが演じている。
お金も手間もかけた作品だった。制作費はおよそ二億五千万台湾ドル。ネットフリックスの発表によれば、用意された衣装は千着を超える。配信の数日前には台北の金馬映画祭で最初の二話が上映され、二〇二二年には、台湾のテレビの賞である金鐘奨で十一のノミネートを受けた。日本でもネットフリックスで観ることができ、題名は、中国語の原題に「夜を生きる女たち」という日本語の副題を添えたものになっている。
この文章は、シリーズそのものを観て書いたものではない。物語は、公開されているあらすじや各話の要約、評に書かれているとおりに記した。登場人物のせりふは、そのまま引用せず、すべて言い換えている。作り手たちの言葉は、元の記事で読んだインタビューによる。多くは中国語なので、ここでは訳して、たいていは言い換えて紹介する。
そしてこの文章は、結末までふれる。犯人の名前が出てくるのは「スーが死んだ夜」という見出しの節で、その節は最初の一行でそのことを断っている。答えを画面のためにとっておきたい人は、その見出しのところまで読んで、やめてほしい。
テーブルで売られているもの
「光」の女たちが売っているのは、客に心を向けることだ。客は隣に座ってもらい、話したいことにどこまでもつきあってもらう。そしてひと晩のあいだ、自分がこの人にとって大事な存在なのだという気分を味わう。そう感じさせるのが、彼女たちはうまい。シリーズはそれを、ひとつの技として描いている。話すことと、そこにいることの仕事。自分が何をしているのかをよくわかっている女たちの仕事として。
日本で、ホステスのいる店を規制している法律は、そのテーブルで行われることをひとつの句で定めている。「歓楽的雰囲気を醸し出す方法により客をもてなすこと」。客が何を受けとるのかを書いた言葉だ。そこに、女たちはいない。
スーを演じたシェリル・ヤンは、この技を内側から語っている。配信の前に報じられた雑誌のインタビューで、彼女はこう話している。スーは客の前でも、女友だちの前でも、ホステスたちの前でも、恋人の前でも、それぞれにまったく違う顔を見せる。演じるには、向き合う相手に合わせて、声も表情も身のこなしも、場面ごとに変えつづけなければならなかったという。俳優が役について語った言葉だ。けれど同時に、この仕事の正確な説明にもなっている。目の前の相手ひとりひとりにとって、その人が必要としている誰かになること。
こうした仕事には名前がある。アメリカの社会学者アーリー・ホックシールドは、『管理される心』(原著一九八三年)で航空会社の客室乗務員や借金の取り立て人の仕事を調べ、仕事が求める感情を表に出すために自分の感情を管理することを、「感情労働」と呼んだ。名前が大事なのは、それによって、この仕事を仕事として数えられるようになるからだ。そして「光」でその仕事をする女たちは、それぞれの人生をまるごと抱えてテーブルにつく。シリーズはそれを見せる。借金、子ども、服役の過去、自分を傷つけた男たち。店には麻薬が出入りしている。客が客以上の存在になることを、ひそかに願っている女もいる。そのどれも、教訓としては描かれていない。この文章も、それを教訓にするつもりはない。
では、あのテーブルのぬくもりは、お金が払われているから偽物なのだろうか。この図書室は「お金が介在すると、親密さは「偽物」になるのか。」で、まさにその問いを立てた。そして、「本物」という言葉がたいてい、ふたつの違うものを同時に背負わされていることを指摘した。ひとつは継続性、その関係が続くかどうか。もうひとつは、相手がその場に本当にいたかどうか。対価のある時間には、継続性がなくても、その場にいることはありうる。続かないことと、起きていないことは、別のことだ。そして、お金が絡むと不純になるという感覚は、しばしばこの労働を数えていないところから来ている。あの文章はそう論じた。このシリーズも、それをわかっているように見える。女たちの技を真剣に扱い、悲しみは、テーブルの誰かが継続性を望みはじめる瞬間のためにとってある。
名前さえ、仕事の一部だ。ホステスたちは仕事のための名前で呼ばれる。本名の文字を日本語で読みかえたような、日本の名前である。李淑華はハナ、王愛蓮はアイコ、黄百合はユリ。そういう名前は、小さな守りになる。本名を差し出さずに、テーブルで温かくいられるからだ。このシリーズに出てくる「隠すこと」が、すべて害だというわけではない。自分のために何かをとっておくのは、その人の権利である。
写真がほとんど残らなかった通り
この一帯は実在し、シリーズはその歴史を下敷きにしている。林森北路から入った路地の一帯は條通と呼ばれ、ネットフリックス自身の発表は、この界隈をこう紹介している。二十世紀の初めには台北に住む日本人のエリートたちが集まる住宅地で、第二次世界大戦のあとも日本らしい雰囲気を保ち、一九六〇年代からは夜の街として育つなかで、日本人のビジネスマンがいちばんよく足を運ぶ場所になった。いまも條通のバーやレストラン、カラオケのラウンジやクラブには、本物の和の趣があるという。
シリーズの舞台は一九八八年。一九四九年から台湾に敷かれていた戒厳令が解かれた、その翌年である。ただし戒厳令はこのシリーズの主題ではないし、この文章もそれを主題にはしない。より大事なのは、作り手たちが一九八八年を探しに行ったとき、何を見つけたかだ。配信が始まる少し前、連奕琦監督は台北の新聞の取材に応え、條通の商店街はいまもあるけれど、三十年前の日本式クラブのにぎわいを再現するのは想像していたより難しかったと語っている。古い写真も文字の記録も、とても少ないのだという。おそらく、客を守るためだったのだろう、と監督は言う。そこで監督と脚本家は、女たちを探しに行った。引退したママやホステスたちを見つけて話を聞き、監督は、聞いた話をこうまとめている。條通で部屋を貸す大家になった人もいれば、客について日本へ渡った人もいる。消えてしまったかのように、行方のわからない人もいる。運命は、ひとりひとり違っていたという。
この言葉は、心にとめておきたい。このシリーズの多くが、そのなかに入っているからだ。客が記録の外に置かれることで守られてきたのだとすれば、作り手たちは、そのかわりに女たちのもとへ行くしかなかった。そして、女たちが覚えていたことをもとに、この作品の一部を作った。物語のなかでは、ひとりの女が山に埋められ、ほかに何が一緒に埋められていたのかがわかるまでに、三つのシーズンがかかる。人目につかないところに置いておくこと。あの世界では、それが人を守るやり方だったのかもしれない。シリーズは、それが誰を守り、誰が代価を払うのかを問う。
ひとつの店を切り盛りする、ふたりの友人
物語の中心には、ふたりの女がいる。オーナーのスーは、優しく、多才で、この仕事で重んじられる落ち着きを身につけている。見せるつもりのないものは、何ひとつ表に出ない。ママのローズは、まっすぐで情に厚い。気持ちは、見せると決める前に顔に出てしまう。彼女は息子のズーウェイを育てている。ふたりは古くからの友人で、一緒に「光」を切り盛りしている。
ふたりの友情は、競い合いでもある。シリーズはそれを隠さない。自分の誕生日に、ローズは、スーがジャン・ハンと付き合っていることを知る。脚本家で、かつてローズの恋人だった男だ。一年でただ一日、自分のための日であるはずの日に届いた裏切りであり、しかもそれは、ふたりのあいだに入りこむものの最初のひとつにすぎない。
この図書室は、エレナ・フェッランテの四部作を「『リラとわたし』と、二人ともは持てない野心について」で読み、ふたりの女のあいだの愛情を競争から切り離さない物語だと論じた。その物語が描く条件のもとでは、ふたつは一度も離れていなかったからだ。このシリーズにも、同じ正直さがある。女の立ち位置が、テーブルでも、テーブルの外でも、選ばれるかどうかで決まる商売では、互いを大事に思うふたりが、同じものを欲しがるようになることもある。ひとりの男、ひとつの未来、ひとりの少年。シリーズは愛情と競争をひとつの部屋に同居させ、どちらの女にも、そのどちらか一方だけであることを求めない。
スーには相手ごとに違う顔がある、というシェリル・ヤンの言葉は、ここで効いてくる。向き合う相手ごとに別の自分を持っている女は、仕事がとてもうまく、そして、とても知りにくい。いちばん長く彼女を知っている友人にとってさえ。ローズのほうが読みとりやすく、そのぶん傷つきやすい。シリーズは、同じ商売を生き延びるふたつのやり方を見せ、どちらが上だとは言わない。ただ、ふたりがそれぞれ何を抱えてきたのかを、ゆっくりと見せていく。
ローズが育てた息子
第二部は時間をさかのぼり、ふたりのあいだで守られてきた秘密にたどり着く。スーの母は、ある男の愛人として生きていた。クラブを開くずっと前、スーは母の同居相手にレイプされ、その母に家を追い出された。身ごもっていた彼女は、ローズを頼った。
ローズは彼女を迎え入れ、産むように説き、生まれた子を自分の息子として育てた。それがズーウェイである。物語が映さない長い年月のあいだ、ローズは、毎日の暮らしのあらゆる場面で、彼の母親だった。そして彼がどこから来たのかは、ふたりの女のあいだにとどめられてきた。
ここで立ち止まっておきたい。謎解きは、ここを足早に通りすぎてしまうからだ。自分もかつて、暴力をふるう父の家を出たローズは、友人の子どもとともに、ひとつの家族をつくった。スーがそばにいつづけるという約束もなく、いつかスーが何を望むようになるのかに口をはさむこともできないまま。子育ては毎日、何年ものあいだ、誰の目にも見えるところで続いた。伏せられていたのは、その子の生まれだけだった。ふたりのあいだにこのあと何が起きようと、ローズはそれをやりとげた。シリーズはそのことに敬意を払っている。この作品について書く者も、そうするべきだろう。
同じ年月について、スーにも公平でありたい。あのとき彼女が何を決めたにせよ、彼女は自分の家を追い出され、開いている扉がひとつしかないところで決めたのだ。その扉が、ローズだった。これほど余地のないなかでの決断も、決断にはちがいない。そして人は、その決断を一生悲しみつづけることもある。
「『NANA』、そばにいてほしかったのはハチだけではなかった」という文章は、ふたりの女を描いた別の物語を、こう読んだ。ふたりが一緒につくった暮らしは、物語のなかでただひとつ、後ろ盾を何も持たない関係であり、子どもがやってくることになったとき、大人の世界が差し出すものはどれも、そこから離れる方向を指していた、と。このシリーズでは、同じ状況が逆向きに起きる。家を追い出され、身ごもった女の後ろ盾になったのは、ふたりの女の友情だけだった。その友情には、自分のほかに支えるものが何もなかった。それでも何年ものあいだ、すべてを引き受けてきた。シリーズがこのあと問うのは、守られた当の女が自分の子を返してほしいと望んだとき、そうしてつくられた家族がどうなるのか、ということである。
誰かの代わりに服した刑
第三部はローズの過去へさかのぼり、そこにも同じかたちを見つける。ローズは刑務所から「光」に来た。夫の罪をかぶって服役していたのだ。獄中で、彼女はハナを守った。ハナは出所するとローズを追って「光」に来て、ローズの家に身を寄せ、誰よりも彼女を慕っている。
このかたちを、ひとまとめにして見ておきたい。ローズは、引き受けることで守る。友人の子ども、夫の罪、誰かを必要としていた獄中の女。そのなかには抱きとめることもあれば、隠すこともあり、ローズはそのどちらにも代価を払う。ズーウェイをめぐる秘密が表に出るとき、それは彼女の上に落ちてくる。スーの母はズーウェイが誰の子かに気づき、週刊誌の報道がローズを、いちばん古い友人を殺した最有力の容疑者に仕立てる。スーが死んだ夜の録音を手にしたジャン・ハンは、それを持ってローズに会いに向かい、たどり着く前に命を奪われる。
脚本の杜政哲は、最後のシーズンの配信のあと、いちばん心を痛めた登場人物はローズだったと語っている。この事件のすべてに巻きこまれ、背負うしかなかった。真相が明かされる前には、犯人だと疑われさえした。子どものこともあった。いちばんつらい目にあったのは彼女だ、と。彼が使った中国語の動詞は、重い荷を肩にかつぐことを言う言葉である。ぴったりの言葉だ。この物語で、背負う人はローズなのだ。
ハナにされたこと
ハナは「光」の人気ホステスだ。第三部で明かされる彼女の過去は、はっきりと書いておきたい。恋人は彼女をだまし、やがて売春を強い、彼女の稼ぎをほかの女に貢いだ。それは強制だった。彼女が選んだ仕事ではない。
その男に「犬」と呼ばれたとき、ハナは彼を襲い、そのために刑務所に入った。獄中で、ローズが彼女を守った。出所したハナはローズを頼って「光」に来て、パンの部下の刑事アタと恋仲になる。
スーの最後の夜
死を迎えるまでの数か月、スーは店を去る支度をしている。ジャン・ハンとの関係を終わらせ、日本人の上客の中村に心を移す。ホステスのアチーが思いを寄せていた客だ。スーは彼と結婚して、日本へ渡るつもりでいる。店を去る夜、彼女は自分の持ち分をホステスたちに譲り、あなたを守ってくれる人を探してあげる、とローズに微笑む。そして、ズーウェイを取り戻すつもりでもいる。
あの夜を、監督が話を聞いた女たちについての一文と並べてみる。客について日本へ渡った人もいる。スーの計画は、作り手たちが聞いた三つの行く末のひとつであり、シリーズはそれを、いちばん多才な女に与えている。アチーの願いが、スーの計画になる。テーブルでの心づかいが、出口になる。
スーが去りぎわにローズに差し出すものを考えてみたい。お金でも店でもなく、彼女を守ってくれる男だ。このシリーズでいちばん悲しい贈りものかもしれない。しかもそれは、この物語で、生涯守る側に立ちつづけてきた女に差し出されている。「『明日、私は誰かのカノジョ』と、選ばれることの値段」という文章は、あるシリーズの結末までひとりの若い女を追い、彼女が、守りたいという優しい男の申し出を断る理由を読みとった。それを受け入れれば、自分の人生を、救い出されるべきものだと認めることになるからだ。スーは逆を選ぶ。自分のために、そして友人の分まで。シリーズは、それがまちがっているとは言わない。ただ、気づかせはする。スーがローズのために思い描ける守りは、男を通るものしかないように見える。そしてそれは、母の人生が彼女に見せてきた、ただひとつの守り方だったのかもしれない。
では、ズーウェイを取り戻すという計画はどうか。奪うことだと読むこともできるし、シリーズはそう読む理由も与えている。育てたのはローズだからだ。母の悲しみと読むこともできる。台湾の科学啓発サイトに載ったある論評は、まさにそう読んだ。ほかに道がなく手放すしかなかった子どもが、一生の重荷になったのだ、と。シリーズは、そのどちらでもありうるままにしておく。そして、スーのどの顔がその計画を立てたのかを、語らない。
スーが死んだ夜
ここから先、この文章は、スーを殺した人の名を書く。
スーが死んだ夜、ハナは、ズーウェイをローズから取り戻そうとするスーを問い詰めに行った。スーは彼女を「犬」と呼んだ。かつてハナに売春を強いた男が使っていた言葉だ。ハナはスーを殴り、死なせた。
ハナの恋人アタが、スーの遺体を捨てた。のちに、証拠があるとジャン・ハンが警察に電話をかけてきたとき、その電話を取ったのはアタで、ローズに会いに向かうジャンの命を奪ったのもアタだった。
これが事実であり、ここにはそのまま置いておくべきだ。やわらげることも、実際より大きく見せることもせずに。ふたりの人が殺された。ひとりは、シリーズがその死を解き明かそうとした女。もうひとりは、その真相を運んでいた男だ。
この言葉には、歴史があった。ハナの稼ぎと自由を奪った男の口から出るとき、それはただの悪口ではなかった。いわば、彼にとって彼女が何だったのかを言い表す言葉だった。自分のもので、言うことをきくもの。ハナは一度、それに暴力で応え、罰を受けた。何年ものちに、彼女はその言葉を、スーの口からもう一度聞いた。
シリーズはこの結末で、重い指摘をしている。暴力は、欲からではなく、人が抱えてきた傷から生まれうる、ということだ。謎解きは、それまでほかのあらゆる方向を指していた。店を通り抜ける麻薬、恋人たち、スーが周りの人々に抱かせてきた動機、そして週刊誌に最有力の容疑者にされた友人。答えは、女たち自身の忠誠のなかから来た。ひとりの女が産み、もうひとりの女が育てた少年と、ひとりの女が人生でいちばんつらかった年月から持ち出してきた、ひとつの言葉である。
説明は言い訳ではないし、シリーズもそれを言い訳として差し出してはいない。ハナは罪を認める。言葉もまた、原因ではない。スーは、ひどいことを口にしたせいで自分の死を招いたのではない。彼女は殺されたのだ。シリーズが見せているのは、何年も前にひとりの男が残した傷のつけが、それとは何の関係もない女に回ってきたということだ。手を下したのは、その男に深く傷つけられた女だった。スーがこんな目にあういわれはなかったことと、ハナが深く傷つけられていたこと。そのふたつはどちらも本当で、どちらももう一方を打ち消さない。
人を守る、ふたつのやり方
アタがしたことを見てほしい。シリーズはそれを、別のものと並べているからだ。監督の話からうかがえるように、あの世界は、人目につかないところに置くことで客を守ってきたのかもしれない。アタは、それと同じやり方でハナを守った。遺体を隠し、隠したことを暴きうる男が現れると、その男を殺した。それも一種の守り方ではある。そして、死者をもうひとり増やした。
それを崩すのは、ひとつの皮肉である。アタは麻薬取引で逮捕され、強引な取り調べでのし上がった刑事パンは、録音の消されたテープではったりをかけ、真相を引き出す。記録の乏しい世界で、真実は、何も入っていないテープによって引き出される。
そしてハナは、隠すこととは反対のことをする。ローズに真実を打ち明け、田舎の両親のもとへ帰る。ローズはそこまで追っていき、彼女を見つけ、抱きしめる。
この文章がたどり着こうとしていたのは、この場面だ。ローズはいちばん古い友人を失い、腕のなかにいるのは、その友人を殺した女である。ローズはハナを隠さない。抱きしめて、行かせる。ハナは店で最後の一夜を働き、それから、罪を認めに行く。シリーズは、ローズが彼女を赦したとは言わないし、この文章も言わない。抱きしめることは、罪を消すことではない。人から真実を取り上げずに、その人のそばにいることだ。
それが、このシリーズが残していく区別である。人を隠すことで守るやり方がある。それは愛とまったく同じ顔をしていることがある。家族のなかでも、結婚のなかでも、こうした商売のなかでも、それは愛のひとつのかたちだ。この物語では、それが妻に夫の刑を引き受けさせ、しばらくのあいだ、人を殺した者を手の届かないところに置いた。それは誰かに代価を払わせ、この物語で、その多くを払っているのは女たちだ。そして、何ひとつ隠さずに人を抱きとめる守り方がある。そちらのほうがまれで、むずかしい。このシリーズでそれを持っているのは、誰よりも多くを背負ってきた女だった。
墓前と、誕生日の夜と、歩きつづける女たち
シリーズが最後にすることは小さく、そして大事だ。一方の親友をもう一方の親友に奪われたローズは、スーの墓を訪ね、そこで心の整理をつける。ふたりのあいだで何が交わされるにせよ、それはもう答えることのできない相手に向けて言われる。もしかすると、そうするほかに、言う方法はなかったのかもしれない。
店では、スーの誕生日を祝う集まりが開かれる。それはハナの最後の出勤日でもある。シリーズが最後のほうで見せる仕事の姿であり、おそらくいちばん本当の姿だ。いなくなった女を偲ぶ夜を、もうひとりの仲間をこれから失おうとしている女たちが、仕事としてつとめる。何を抱えていようと、その夜はつとめなければならない。それもまた、仕事なのだ。
ほかの女たちも、自分のことを自分で決める。アイコは、母と和解しないと決める。スーに願いを奪われたアチーは、子どもを産むと決める。この物語には、母たちがいたるところにいる。娘を追い出したスーの母。別の女の息子の母になったローズ。息子を取り戻したかったスー。これから母になるアチー。自分の母のもとへは戻らないアイコ。シリーズは、ふたりの女が、自分の母のことと自分の子どものことを、誰にも代わりに決められることなく決めるところで終わっていく。
邦題が書き足したもの
このシリーズには三つの題があり、それぞれ違うことを言っている。中国語の原題は、ある時刻を名指す。夕暮れ、灯がともりはじめるころ。英語の題は、ひとつの行為と、店の名前を名指す。「光」だ。日本での題は、原題の漢字をそのまま残し、「夜を生きる女たち」という副題を添えた。三つのうち、女たちを名指しているのは日本の題だけである。
日本で観る人にとって、この店のかたちの多くは見慣れたものだろう。ママがいて、ホステスがいて、日本の名前があり、日本人の客がいて、テーブルでは日本語も交わされる。シリーズはそのかたちを、テーブルの反対側から、そして別の国から見せる。台北に残った日本の歴史から生まれ、やがて台北自身のものになったものとして。ルビー・リンは作品を紹介するにあたって、それを台湾のひとつのサブカルチャーと呼び、世界じゅうの観客に知ってほしいと語った。このシリーズは、日本の男たちの肖像でも、台湾の女たちの肖像でもないし、この文章もそのように読まれるべきではない。中村は、ひとりの客である。
よその国から日本に来て、日本語で働いている女性にとっては、このシリーズのある一点が、とりわけ強く響くかもしれない。「光」の女たちは、ぬくもりの仕事の一部を、自分の言葉ではない言語で、仕事のための名前を名乗って行っている。母語ではない言葉で温かくあることは、ひとつめの労働の上に重なるもうひとつの労働だ。けれど、そのどちらも、労働として数えられることはめったにない。
そして、日本で、自分の仕事そのものがぬくもりであるような女性にとっても。窓口で、診察室で、売り場で、教室で。このシリーズは、夜の街とは何の関係もないところで、見覚えのあるものとして映るかもしれない。ホックシールドの言葉は、日本語でも「感情労働」として知られている。このシリーズが書き足すのは、その言葉からこぼれ落ちる部分だ。その仕事をする女たちが家に何を持ち帰るのか。そして、それを一緒に背負ってくれる人がいるのかどうか。
ハナの過去や、スーの過去が、ただの物語ではない人のために。日本では、#8891に電話すると、通話料無料で、最寄りの性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターにつながる。
この読み方がまちがっているかもしれない理由
この読みには、まちがっているかもしれないところが少なくとも五つある。はじめのふたつは、このシリーズを作った人たち自身から来る。
ひとつめ。殺人事件はあとから加えられたもので、その意味も、一緒に加えられたのかもしれない。脚本家によれば、この作品は配信のおよそ四年前、條通を舞台に女たちの人生と成長を描く時代劇として構想された。三つのシーズンを貫く殺人事件は、観客が好む要素を加えようと、あとから決まったのだという。構想の段階では犯人が何度も変わり、第一話を書きはじめるときにようやく決めたのだ、とも。結末を、守ることについてのこのシリーズの議論として読む文章は、筋書きの解決に、ありもしない論旨を読みこんでいるだけなのかもしれない。いちばんましな答えは、始まりがどうであれ、結末はシリーズが見せているものだ、というものだ。強い答えではない。
ふたつめ。このシリーズは美しく、美しさは人を説き伏せる。二億五千万台湾ドルをかけ、千着を超える衣装を用意し、実在の通りの店に頼みこんで一九八八年ふうの看板を掲げてもらった作品は、この商売を、街でいちばん華やかな場所のように見せる。監督自身の取材で見つかったのは、大家になった女、日本へ渡った女、そして消えてしまったかのような女たちだった。シリーズの灯は、監督が聞いた人生よりも明るい。忠誠や抱きとめることに目を凝らすこの文章は、その灯をさらに明るくする手伝いをしているのかもしれない。
みっつめ。ハナの行為についての説明は、ふたつの方向にまちがいうる。ひとつは、彼女を仕掛けにしてしまうこと。男の言葉ひとつで作動した女として、まるで自分のしたことに何の関わりもなかったかのように。もうひとつは、スーの残酷さをスーの死の原因にしてしまうこと。それは死者を責めることになる。この文章は、そのどちらも退けようとしてきた。ハナはスーを殺した。ハナは深く傷つけられていた。どちらの事実も、もう一方を打ち消さない。けれど、このシリーズの重い指摘には、もうひとつの危うさがある。ああいう言葉を抱えて生きる人のほとんどは、誰も傷つけない。強いられた過去を持つ女が人を殺す物語は、傷ついた女は危ないという見方に力を貸しかねない。この文章は、その見方に少しでも力を貸したくない。シリーズが語っているのは、ひとりの女の物語であって、傷ついた人についての法則ではない。
よっつめ。隠すことと抱きとめることの線引きは、ローズに甘く、スーには不公平かもしれない。スーが隠したのは、自分にされたことのせいで家を追い出され、それでも生き延びるためだった。いくつもの顔は、彼女の技であり、身を守る場所でもあった。そしてローズもまた、隠していた。夫の罪を自分の刑として引き受け、息子の生まれを胸にしまって。ふたつの守り方のあいだの線は、ふたりの女のあいだを走っているのではない。ひとりひとりのなかを走っている。ローズが息子に持つ権利よりも、息子を取り戻したいというスーの思いに寄り添う読者は、このシリーズを読みちがえてはいない。シリーズは、そういう読者のための場所を残している。
いつつめ。いちばん単純なことだが、この文章はシリーズを観ていない。あらすじ、各話の要約、評、インタビューを読み、それらが食い違うところでは、確かめられたことだけを書くか、何も書かなかった。登場人物が何を感じているかについて述べたことは、すべて読みであって、報告ではない。
この図書室が、ここから受けとるもの
三つある。どれも、決まりではない。
対価が払われるぬくもりのなかにも、相手が本当にその場にいることはありうる。それが上手なのは技であって、嘘ではない。けれど、それは約束でもない。「光」の女たちは、そのちがいを客よりもよく知っている。そして、そのちがいを越えて何かを願うことは、愚かではない。
隠すことで守るやり方には代価があり、このシリーズでは、ほかの人の秘密を抱える女たちが、そのほとんどを払っている。そういう守り方は、ひとつの家を何年も支えることがある。害を生きながらえさせることもある。抱きとめる守り方は、何ひとつ隠すことを求めない。そしてそれは、認めることとも、言い訳することとも、赦すこととも同じではない。人を抱きしめたまま、真実が語られるのにまかせることはできる。
そして、人を自分のものにするために使われた言葉は、それを使った人よりも長く生き残ることがある。それは、言葉を大切に扱う理由になる。けれど、人を傷つけてよい理由には決してならないし、次にその言葉を口にした人が、自分に加えられたことの責めを負わされる理由にも、決してならない。
だから一度だけ、あなたに言いたい。もしあなたが、まわりの人たちのために何かを抱えつづけてきた側なら。夫の厄介ごと、母の秘密、友人のいちばんつらかった一年。これが愛というものだと、誰かに言われてきたかもしれないし、自分にそう言い聞かせてきたかもしれない。ときには、ほんとうにそうだ。けれど、抱えることには代価があり、その代価は数えてもいい。あなたは、誰かのために何も隠さずに、その人を抱きしめることができる。その人のそばにいて、真実を語るのはその人自身にまかせることができる。
これは、ひとつのシリーズの読みである。虚構の人物も実在の人も、誰も診断しないし、どんな友情や家族や職場についての助言でもない。ここに出てくる数字は、作品の制作そのものについてのものだけだ。
手もとに残しておく問い
あなたのまわりで、ほかの人のために何かを抱えているのは誰だろう。そして、その人のために何かを抱えているのは誰だろう。
あなたが誰かを守ったとき、それはその人を抱きとめたのだろうか、それとも隠したのだろうか。それはあなたに何を払わせ、そのことを誰が知っていただろう。
お金であれ、評価であれ、あなたが対価を受けとっているぬくもりはあるだろうか。そのために注いでいる手間のうち、誰かにわかってほしいのはどんなことだろう。
かつて誰かがあなたを小さくするために使った言葉が、いまも重さを持っているなら、それを誰に話せるだろう。
そして、何年も守ってきた友人が、あなたに何かを返してほしいと言ってきたら、あなたはどんな答えを返したいだろう。
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