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『セクシー田中さん』と、恋より先に尊重を

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職場で誰にも見られない四十歳の田中さんと、誰からも見られるのに、誰にも話を聞いてもらえない二十三歳の朱里。このドラマはふたりに、踊りと、友情と、ある映画から借りたひと言で応え、そのひと言が求める順番を守りつづける。まず尊重、恋はそのあと。

ある会社の経理部に、変わり者ということになっている女性がいる。四十歳。服装は地味で、雑談には加わらない。夜に何をしているのか、職場の誰も知らない。職場の人たちは、ほかの誰に対してもそうするように、彼女を「田中さん」と呼ぶ。そして職場は、ずいぶん前から彼女を見なくなっている。

同じフロアに朱里がいる。二十三歳の派遣社員で、こちらには、誰もが目を向ける。夜はたいてい合コンに出かけている。若くてかわいいうちに結婚して、世間並みの幸せを手に入れる。それが彼女の計画で、そういう自分をあまり好きになれないことも、彼女はわかっている。

ある夜、朱里はペルシャ料理店「サバラン」で、サリという名で踊るベリーダンサーを見る。目が離せなくなる。サリは、田中さんだった。

『セクシー田中さん』の第一話は、こうしてふたりの女性を並べてみせる。ふたりはそれぞれ、違うかたちで見えなくされている。田中さんは、誰にも見られない人。朱里は、誰からも見られるのに、誰にも話を聞いてもらえない人。職場はふたりのそれぞれに出来合いの読み方を用意していて、そのどちらも、彼女たちが何をしているのか、何を望んでいるのかとは関係がない。

このドラマがふたりに最初に差し出すのは、恋の物語ではない。全十話の第七話で、田中さんは朱里に、ある映画のせりふを手渡す。恋はいらない、欲しいのは尊重されること、というひと言だ。この文章は、ドラマがその順番を本気で守っている、と考える。このドラマが信じるまなざしは、どれも、女性がしていることを真剣に受けとめるところから始まる。朱里が踊りに向けたまなざしは友情になり、やがて仕事になる。侮辱から始まったある男のまなざしは、太鼓の稽古に変わる。恋は、来るとしても、そのあとに来る。

作品について、そして読み進める前に

『セクシー田中さん』は、日本テレビの日曜ドラマ枠で、二〇二三年十月二十二日から十二月二十四日まで放送された全十話の連続ドラマである。原作は芦原妃名子の同名の漫画で、二〇一七年から小学館の『姉系プチコミック』で連載され、ドラマが作られた時点では、まだ完結していなかった。四十歳の田中京子を木南晴夏、二十三歳の倉橋朱里を生見愛瑠、三十七歳の商社マン笙野浩介を毎熊克哉が演じる。笙野の同僚の小西一紀を前田公輝、サバランのマスターで、田中さんの踊りにダラブッカを合わせる三好圭人を安田顕、朱里の学生時代からの友人の仲原進吾を川村壱馬が演じている。最後の二話の脚本には、芦原自身の名前がクレジットされている。

先に三つ、断っておく。この文章は、ドラマそのものを観て書いたものではない。場面は、公開されているあらすじや記事が伝えるとおりに記した。登場人物のせりふは、記事が引いているものを数か所そのまま引いたほかは、すべて言い換えている。次に、この文章は結末を含めてドラマの全体にふれる。結末が始まる節の冒頭でそう断るので、結末をまず画面で見たい人は、そこで読むのをやめて、観たあとで戻ってきてほしい。そして、このドラマは、放送のあとに起きたことでも記憶されている。原作を描いた人の死も、そのなかにある。終わり近くの一節をそのことにあてる。そこでは死を事実として述べるだけで、何も描写しない。

誰にも見られない人

まず職場から見ていく。ドラマもそこから始まるからだ。田中さんは経理部で働いていて、同僚たちは彼女について、もう結論を出してしまっている。地味な服装、雑談をしないこと、暮らしの気配のなさ。何が欠けているかで語られる同僚、それが田中さんだ。ドラマはさらに、彼女には友人も恋人もできたことがない、と告げる。

それを、この物語がふさぐべき傷として読むのはたやすい。けれど、このドラマはもっとおもしろい。田中さんを哀れな人にはしないのだ。彼女は、誰かに気づいてもらうのを机で待っている人ではない。もうひとつの暮らしを持つ人にとって、見過ごされることには使い道もある。夜どこへ行くのか、誰も尋ねない。はじめの田中さんに欠けているのは、恋人ではない。自分の昼と夜の両方を知っている誰かだ。

ここでいう見えなさがどんな種類のものなのかを、正確にしておきたい。誰も彼女を見ていない、のではない。誰もが同じものを見ている。そしてその同じものとは、ひとつの区分である。この図書室は「変わったのは読まれ方であって、身体ではない。」という文章で、年を重ねた女性に起きる変化は、見知らぬ人が彼女に押しつける読まれ方の変化なのだと論じた。ある年齢では誘いとして読まれ、別の年齢では機能として読まれる。四十歳の田中さんは、機能のほうに分類されている。その分類は、彼女について何も語らない。語っているのは、職場が注意をどこに注いでいるかだ。若い人に、声の大きい人に、役に立つ人に。経理部の静かな女性にまわる注意は、あまり残っていない。

誰からも見られる人

朱里が抱えているのは、その反対の困りごとだ。ドラマがそれを田中さんの困りごとと同じ重さで扱うのは、このドラマのやさしさのひとつである。朱里は、どこへ行っても見られている。見られることがあまりに途切れないので、彼女はそれを土台に計画を立てた。見られることにまだ値打ちがあるうちに、結婚する。ドラマは、そういう自分を彼女があまり好きになれずにいることを、はっきり描いている。

けれど、見られることは、話を聞いてもらうことの代わりにはならない。学生時代からの友人の進吾は、都合のいいときだけ部屋にやって来て、自分の気持ちは口にしない。その関係は、彼には都合がよく、朱里には高くつく。合コンでは男たちが選び、朱里は選ばれる。そのすべては、彼女が感じよく、気安く、若くありつづけることを前提に回っている。この仕組みのなかで、朱里が自分の人生で何をしたいのかを尋ねる人はいない。前半のほとんどのあいだ、朱里自身も尋ねない。

ふたりを並べると、このドラマの最初の考えがはっきり見えてくる。職場は、ひとりを機能として、もうひとりを誘いとして読む。どちらの読み方も、結局は相手を見ないためのやり方だ。ひとりは、誰も見ないから見えない。もうひとりは、誰もが見て、誰も聞かないから見えない。読み方は正反対で、沈黙は同じである。

サバランで朱里が見たもの

そしてサバランの夜が来る。大人になってからずっと見られる側にいた朱里が、見る側にまわり、目が離せなくなる。彼女が見ているのは、難しいことをすっかり自分のものにしている女性であり、積み重ねてきたことがひと目でわかる踊りだ。この店では、マスターが彼女の踊りのために太鼓を叩いている。

誰が、どんなふうに見ているのかが大事だ。これは、朱里が合コンで知っているまなざし、値踏みして選ぶまなざしではない。賞賛のまなざしだ。見事な技を目にして、それがどうやって生まれるのかを知りたくなった人の目である。第六話で田中さんは、このドラマ自身の考えを言葉にしている。「人を惹きつけるのは、若さでも、美しさでもない。エネルギーだ。」そして、「技術と練習量に裏付けされたエネルギーは衰えを知らない。」踊りについての言葉であり、同時に、年齢についての言葉でもある。ドラマは十話をかけて、それが本当であることを示していく。

見られてしまった田中さんが最初にするのは、黙っていてほしいと頼むことだ。職場の誰にも知られてはならない。この頼みごとから、ドラマの中心にある関係、ひと回り以上年の離れたふたりの女性の友情が育っていく。始まりは、ひとりがもうひとりの秘密を守ることだった。朱里は田中さんの熱烈なファンになり、自分でもベリーダンス教室に通い始める。笙野が田中さんを侮辱すれば、仕返しをたくらむ。その忠誠ぶりはおかしくて、そして本物だ。

やがて朱里は、職場が一度も気づかなかったことに気づく。田中さんが人から尊重されるのは、田中さんが周りの人を尊重しているからだ、と。これは朱里の発見であり、ドラマの最初の考えと二つめの考えをつなぐ蝶番でもある。見られることは、自分の身に起きることだ。一方、尊重されることは、人と人とのあいだを行き来するもので、相手がしていることに注意を向けるところから始まる。ドラマは、そう言っているように見える。

自分の足で立つための踊り

ここで、踊りそのものの話をしたい。ドラマが描くとおりに描くべきだと思う。ドラマは、この踊りを衣装にも謎にもしないように気を配っているからだ。田中さんのベリーダンスは、稽古である。教室があり、リハーサルがあり、舞台に立つ夜があり、合わせて踊る太鼓がある。けがもする。実際、しばらくのあいだ、四十肩のせいで彼女はまったく踊れなくなる。そして、先もある。還暦を過ぎてもなお踊りつづけるベテランのダンサー、愛子がいる。

田中さんがなぜ踊り始めたのかは、はじめの数話の中心にある。その理由は、誰かが意味づけをする前に、まず聞かれるべきものだ。彼女は、胸を張ろうと思ったのだと言う。曲がった背筋を何度でも伸ばそうと思ったのだと。ベリーダンスが魔法をかけてくれたのだと。彼女が踊りに求めたのは、自分の頭で考え、自分の足で立つことだった。第二話では、こう言う。「正解がないから迷うんです。自分がこうありたい正解を自分で選び取るしかない」。別の場面では、自分の頭で考えて選んだ結論は、誰に何を言われても揺るがないのだ、とも言っている。

ここにあるのは、どれも見た目の話ではない。この文章も、彼女の姿を描写しない。ドラマは、踊りを見た目の話にする必要がないのだ。ドラマの考える踊りとは、稽古に支えられたエネルギーのことで、稽古なら、四十歳の女性のほうが二十三歳の女性より多く積んでいてもおかしくない。田中さんには田中さんの計算がある。若い人の三倍努力すれば追いつける。十倍努力すれば追い越せる。自慢しているのではない。稽古の計画を立てているのだ。

まだ肩が治りきらないまま、彼女は故郷の松戸のショーで踊る。両親が観に来る。そこで両親がかける言葉は、このドラマでいちばん静かな場面かもしれない。父は、上手に踊る京子を観に来たのではない、と言う。母がその先を言う。一生懸命に練習して、逃げ出したいのに逃げ出さずにここにいる、今日の京子を観に来たのだ、と。このドラマで彼女に向けられる、いちばんやさしいまなざしかもしれない。それは出来ばえではなく、努力を見るまなざしだ。彼女がしていることを、見ている。

踊りを、本当の暮らしからの逃げ場として読むこともできる。引き出しにしまった、秘密の華やぎとして。ドラマは逆に読む。踊りの場で、彼女は自分で決めた自分でいる練習をしている。職場は、それを隠しておく場所だ。問われているのは、秘密がばれるかどうかではない。彼女が自分で選んだかたちで、誰かが彼女を見てくれるかどうかだ。

「おばさん」という彼の言葉と、ドラマの応え方

そこへ笙野浩介が現れる。三十七歳の商社マンで、結婚願望は強いが、妻に求める条件が多く、女性について思っていることをそのまま口にする。サバランで彼は、田中さんを面と向かって「おばさん」と呼ぶ。

「おばさん」は、ある年頃の女性を指すごく普通の言葉で、親しみをこめて呼ばれることもある。けれど、値踏みする目つきの男が、よく知らない女性に面と向かって言えば、それは分類になる。もう見られる年齢ではない、という判定だ。職場がしていた読み方が、声に出されたのである。

ドラマは彼に同意しない。かといって、説教もしない。もっとゆっくりしたことをする。彼が通いつづけるのを、許すのだ。行方不明になったハムスターを一緒に探し、モヒートを飲みすぎた夜が明けると、彼は田中さんの部屋で、彼女の隣で目を覚ます。ふたりのあいだには何もなかった。そして彼は、下心は一ミリもない、と言い切る。喜劇として描かれる場面だ。彼の言葉にはよくあることだが、安心させるつもりのひと言が、どこか失礼に響く。この笑いの土台にある事実を、ドラマはぼかさないし、この文章もぼかさない。何もなかったのだ。

やがて彼は、惣菜を届けるようになる。田中さんの想い人が、既婚者のマスターの三好だと知ると、三好をけなし、彼女に追い返される。追い返すのは、まったく彼女の権利だ。そして彼は、この文章がいちばん大事だと考えることをする。三好本人に、ダラブッカを教えてほしいと頼むのだ。三好が彼女の踊りのために叩く、手で打つ太鼓である。田中さんの好きなものを知りたいから、と。

それが何なのかを、正確に見ておきたい。これはまだ、口説きではない。なにしろ教えを請う相手は、彼女が想っている当の男なのだ。これは、相手に何かを求める前に、相手の世界に注意を向けることである。彼は、彼女の踊りに寄り添う楽器を習う。年齢で女性を分類するところから始めた男が、彼女がしていることを学びにいく。ドラマはそれを、彼の言葉への答えにする。年齢について言い争う必要はない。年齢ははじめから問題ではなかったのだと、彼が気づいていく姿を見せればいい。

放送が終わるころ、リアルサウンドに寄稿した藤原奈緒は、笙野を、女性への偏見にまみれた男として読んでいる。その偏見には育った家庭の影響があり、彼は田中さんとの出会いで変わっていく。そしてもともと、やさしさと素直さを持っていた。それがドラマによる彼の言葉の読み方であり、この文章の読み方でもある。偏見は彼が背負うもので、彼がほどいていくものだ。ドラマはそのために、全十話という時間を彼に与える。初めてのデートで、田中さんを侮辱した男たちから彼女を守ろうとして、彼はけがをする。ドラマはそれを甘い場面として描く。けれど尊重は、太鼓の稽古のほうにあった。

職場に知られるとき

第六話で、田中さんの昼と夜がぶつかる。それも、彼女が選んだかたちではなく。ベテランのダンサー、愛子のショーで、田中さんはその場の成り行きで舞台に上がり、愛子の隣で踊ることになる。普段着のまま、サリとして踊るときの化粧もせずに。その様子が撮影され、動画がネットで広まり、職場に知られてしまう。

その動画に何が映っていたのかに、目をとめたい。映っていたのは、芸名と舞台の顔を持つサリではなく、職場の人たちが知っている田中さんが、踊っている姿だった。明るみに出た秘密は、地味な同僚に華やかな分身がいた、ということではない。地味な同僚とあのダンサーが、はじめから同じひとりの女性だった、ということだ。

そのあとに来るのは、破局ではない。ドラマはそこをやさしく描く。職場では好奇の目を向けられる。次のショーで、彼女は舞台に立てなくなり、笙野と三好が演奏して場をつなぐ。やがて、じろじろ見ていた同僚たちも、踊りの魅力に惹かれていく。けれど、終わり方がやさしくても、始まり方は変わらない。この図書室は「見つめられることと、差し出されることは同じではない。」という文章で、見られることと見てもらうことの違いのすべては、作者性にあると論じた。見られている人が、その視線が何を意味するのかを自分で言えるか。向きを変えさせられるか。断れるか。誰かのスマートフォンに撮られた動画は、その作者性を奪う。職場の人たちに踊りを見られることを、田中さんは決めていない。決めたのは、別の誰かだった。

ドラマはそれを分かっている。だからその答えは、彼女をふたたび隠れさせることではなかった。もう一度舞台に立つことで、作者性を少しずつ取り戻させることだった。このドラマでは、見られることがごほうびなのではない。見られることを、自分で選べることがごほうびなのだ。

ある映画から借りたせりふ

第七話の朱里は、落ちこんでいる。笙野の同僚で、女性の扱いに慣れているのに朱里には本気で惹かれている小西と、けんかをしてしまったのだ。恋人ができたことのない田中さんは、恋の相談相手として真っ先に思い浮かぶ人ではないし、本人もそのつもりはない。代わりに田中さんが差し出すのは、笙野に借りた映画のせりふである。

その映画は、二〇一二年のインド映画『マダム・イン・ニューヨーク』で、日本では二〇一四年に公開された。家族のなかで自分だけ英語ができないことを夫や子どもたちにからかわれてきた専業主婦が、ニューヨークに住む姉から姪の結婚式の手伝いを頼まれて渡米し、ひそかに英会話学校に通い始める物語だ。田中さんが朱里に教えるのは、その映画の「恋は要らないの。欲しいのは、尊重されること」というせりふである。

このせりふがたどった道すじを見てほしい。田中さんを「おばさん」と呼んだ男が、家族に真剣に受けとめてもらえない女性の映画を、田中さんに貸す。自分で自分を真剣に受けとめることで暮らしを組み立ててきた田中さんが、そのいちばんいいせりふを、求められることに二十代のはじめを費やし、話を聞いてもらえずにきた女性に手渡す。このドラマでは、尊重が人の手から手へと渡っていく。恋より先に。

このせりふを、慰めとして聞くのはたやすい。恋にはもう年を取りすぎていると言われた女性が、それならむしろ尊重されたいと決める。何かを手に入れられない人が、別のものを好むようになるように。けれどドラマには、もっといい読み方があり、それは朱里を通してやって来る。朱里が生きてきた世界では、求められることは若くてかわいいことと結びついていた。つまり、期限つきだった。尊重は築いていくもので、築いたものは長もちする。この図書室は「愛され、尊重されることは、求められることと同じではありません」という文章で、愛されること、尊重されること、求められることは別々の必要で、いつも一緒にやって来るとはかぎらない、と論じた。そして、尊重されていると感じることは、しばしば欲望の敵ではなく、その前提なのだとも。このドラマは、その順番についてはっきりした考えを持っている。まず、尊重。それから、もしかしたら、ほかのことも。

朱里が身につけたメイク

朱里の物語の後半は、彼女のまなざしの物語であり、このドラマでいちばん独創的な発想かもしれない。朱里は、ある種類のメイクに長けている。合コンで効くメイク、男たちに見られ、選ばれるためのメイクだ。笙野との初めてのデートのために、田中さんは自分で化粧を頑張りすぎて、笙野がたじろぐほどになってしまう。朱里は、自分のやり方を田中さんに試してみる。うまくいかない。合コンの二十三歳に似合うものは、四十歳の女性には似合わない。そして朱里は、それを田中さんのせいにはしない。そこが朱里のいいところだ。

だから朱里は、学びにいく。田中さんを二十三歳に見せるメイクではなく、四十歳の田中さんに似合うメイクを探す。そしてそのなかで、自分のやりたい仕事を見つける。

ここでドラマは、見ることの向きを静かにひっくり返す。この図書室は「『5時から7時までのクレオ』、見られることが効かなくなる九十分」という文章で、自分がどう受け取られるかを知ることに有能さのすべてがかかっている歌手を描いた。彼女が定めたのではない条件のもとで身につけた、本物の技能である。ただしそれは、一方向にしか働かない。外へ、見ている者たちのほうへ。朱里も、同じ有能さを抱えてドラマに登場する。彼女のメイクも、感じのよさも、間の取り方も、テーブルの向こうの男たちの目に合わせて作られてきた。田中さんのためにメイクに取り組むうちに、その技能が向きを変える。朱里は、相手の女性が自分をどう見せたいのか、その望みに応えるために相手を見る。見ることが、技術になる。

そしてそれは、おそらく偶然ではなく、朱里の恋がうまく回り始める瞬間でもある。小西が朱里にメイクブラシを贈り、朱里は「大好き」と答える。小さな贈りものだが、これ以上ないほど的を射ている。小西は、朱里がやりたいことに気づき、そのための道具を手渡したのである。

つまり、このドラマのふたつのゆっくりした恋は、どちらも、男性が女性の仕事に関心を向けたところで向きを変える。笙野は、田中さんの踊りに寄り添う太鼓に。小西は、朱里の仕事のためのブラシに。どちらの男も始まりはよくなかったし、ドラマもそれをごまかさない。けれど、尊重が先に来て、恋はそのあとをついてくる。

三好と、踊れなくなった日々

ここから先は、ドラマの結末にふれる。

笙野の母が倒れる。笙野は、母が勧める相手、ふみかとの見合いに応じ、結婚を前提に付き合い始める。サバランのクリスマスイベントの練習にも、顔を出さなくなる。その知らせは、田中さんを揺さぶる。

そして、田中さんがひそかに想いを寄せてきた既婚者の三好が、ついに彼女にキスしようとする。その瞬間、田中さんの頭に浮かんだのは笙野の顔で、彼女は三好を突き放す。彼女の心がどこへ向かったのかを、ドラマがいちばんはっきり示す場面であり、同時にただ、ひとりの女性が「いや」と言う場面でもある。そう言うのは、彼女の当然の権利だ。そのあとしばらく、彼女はまったく踊れなくなる。

田中さんを連れ戻すのは、朱里だ。秘密を守ることから始まった友情は、このころにはもう、ふたりそれぞれの暮らしのなかで、いちばん揺るぎないものになっている。そしてこの友情は、このドラマのどの恋にもできなかったことをする。田中さんを、もう一度踊らせるのだ。

クリスマスのショー、旅立ち、そして二年後

手術を終えた母は、笙野に、行きたい場所へ行きなさいと言う。彼はふみかに別れを告げ、クリスマスのショーの夜、田中さんの踊りにダラブッカを合わせる。太鼓の稽古は、はじめから向かっていた場所にたどり着いた。「おばさん」と呼んだ男が、いま、彼女のためにリズムを刻んでいる。

そして田中さんは旅立つ。還暦を過ぎたダンサーの愛子とともに、海外へダンス留学に出るのだ。四十歳で、踊り手としてさらに先へ進むために国を出る。ドラマはそれを、結婚へ向かう途中の寄り道としてではなく、物語の頂点として描く。一緒に旅立つ相手が、ひと世代上で、いまも踊っている人だということにも意味がある。職場ならとうに分類を済ませているはずの年齢の、はるか先まで、ドラマは女性が働きつづける時間をのばしてみせる。

朱里にも、同じ回に彼女自身の結末がある。誰を選んでも一生味方だと、田中さんに約束する。そして小西に指輪を渡されても、まずは仕事を選ぶ。

二年後、朱里の親友の華の結婚式で、ドラマは最後にもう一度みんなを集める。朱里はメイクアシスタントとして働いている。小西は、結婚をお預けにされたまま待っている。笙野は、相変わらずひとりだ。笙野の伴奏でみんなが踊り出したところへ、一時帰国した田中さんが、飛行機の遅れで遅れながらも駆けつけ、輪に加わる。田中さんと笙野がどうなるのかを、ドラマは語らない。

この最後の場面に、少しとどまりたい。ドラマの言いたいことが、ひとつの画面に収まっているからだ。ひとりの女性が、どこか別の場所から遅れてやって来る。その場所で彼女は、好きなことの腕を磨いていた。そして、もう始まっている踊りに加わる。彼女を想う男は、指輪を持って戸口で待ってはいない。太鼓を叩いている。このドラマは、伴奏で終わるのだ。男はリズムを刻み、女は自分のペースで輪に加わる。恋の物語が否定されるわけではない。ドラマがずっと置いてきた場所に、置かれたままになっているだけだ。二番目に。

キスを見たかった視聴者は、はぐらかされたと感じるかもしれない。そのことは、あとの節で真剣に受けとめる。けれど、順番こそが要点なのだ。このドラマでうまくいく恋は、どれも同じようにうまくいく。女性がしていることへの尊重を通して。そしてドラマは、それを昔ながらの結末で飾ることを断る。女性の人生を、ふたたび二番目に押しやる結末で。

日本の暦と、四十という数字

こう書いたからといって、『セクシー田中さん』が日本の職場や日本の女性の肖像になるわけではないし、この文章もそのように差し出すつもりはない。ただ、このドラマの細部には、日本で暮らす女性にとって特別な重さを持つものがあり、よそから日本へやって来た女性にとって、また別の重さを持つものもある。

まず、朱里の暦から。朱里は若くてかわいいうちに結婚したいと思っている。まるで、二十三歳でもう遅いかのように。厚生労働省の人口動態統計の概数によれば、二〇二五年に初めて結婚した女性の平均年齢は二十九・七歳だった。一九九五年には二十六・三歳である。朱里は、何にも遅れていない。彼女が競っている締め切りは、国の統計のどこにも見当たらない。この平均は、その年に結婚した女性だけを数えたもので、誰が結婚したいと思っているのかも、結婚しない女性たちのことも語らない。語れるのは、朱里の頭のなかの時計が、事実ではなく台本だということくらいだ。そしてドラマはそれを知っている。四十歳の女性を「おばさん」と呼ぶのも、同じ台本なのだから。

日本語には、年代の数字がそのまま入った不調の呼び名もある。四十肩だ。四十歳ごろに肩が痛み、腕が上がりにくくなることを、辞書はそう呼ぶ。しばらく田中さんを踊れなくするのは、この四十肩である。ここでは、年齢を表す言葉がたしかに彼女に追いつく。けれどそれが名指すのはけがであって、判定ではない。彼女はまた踊る。

このドラマの二十七年前、日本映画には、すでによく知られた秘密のダンサーがいた。周防正行監督の『Shall we ダンス?』(一九九六年)では、経理課長が通勤電車の窓から、ダンス教室の窓辺にたたずむ女性を見かけ、レッスンに通い始め、それを家族に隠す。教室では、職場で笑われている同僚が、実はひそかに踊っていたこともわかる。かたちは同じだ。昼は経理、夜は踊り、そして職場には知られてはならない。変わったのは、まなざしの向きである。彼が踊りに入っていく入口は、ひとりの女性を見ることだった。田中さんの入口は、自分自身についての決心であり、彼女を見つけるまなざしは、年下の女性の賞賛である。

よそから日本へ来た読者には、田中さんが借りたせりふが、もうひとつ別の響きを持つかもしれない。その映画は、故郷を遠く離れた女性が、見知らぬ人たちの教室で、家族にからかわれてきた英語を学ぶ物語であり、ドラマは終わり近くで、四十歳の田中さんを学びのために国の外へ送り出す。大人になってから日本語を学び、自分より若い人ばかりの教室に座ってきた女性なら、田中さんの計算を内側から知っているかもしれない。追いつくには三倍、追い越すには十倍。そして、努力する姿を見てきた人たちに真剣に受けとめてもらえたときの、あの独特の安堵も。

放送のあとに起きたこと

このドラマは、放送のあとに起きたことでも記憶されている。このドラマについて書く文章は、それを一度だけ、はっきりと言っておくべきだろう。

『セクシー田中さん』は、原作の漫画がまだ描かれている途中で映像化された。そのためドラマには、漫画の結末を先取りしない、ドラマ独自の終わり方が必要だった。芦原妃名子は、原作に忠実であることを求めていた。そして最後の二話の脚本を、自分で書くことになった。二〇二四年一月、最終回からひと月ほどたったころ、彼女は映像化の経緯についての自分の説明を公表し、そのあと取り下げた。それから数日のうちに、彼女は亡くなった。自殺とみられると報じられた。

日本テレビは二〇二四年五月三十一日に、社内特別調査チームによる調査結果を公表し、小学館は同年六月三日に、特別調査委員会による調査報告書を公表した。小学館の報告書は、作家がより安心して映像化に臨み、執筆や作画に集中できるようにするために会社は何をすべきか、という観点から事実を把握し、改善策を示すことを目的とした、と述べている。関係者個人の名前は伏せられている。提言には、契約を早い段階で文書にしておくこと、そして、作家や編集者がSNSでの論争の矢面に立つようなことがあっても孤立させないことが含まれている。報告書は、最初に何が合意されていたのかについて、二社の認識が食い違っていることも記している。そしてこの一件は、映像化が物語を生み出した人をどう扱うのかという問いを、契約のあり方や、作品の同一性を保つ作者の権利をめぐって、日本の社会に広く投げかけた。

ほかの関係者の名前は、この文章ではあげない。そのあとに起きたことのなかには、個人に向けられた非難もあった。ここで、それに何かを付け加えることはしない。彼女の死を説明しようともしない。この文章にできるのは、彼女がつくった作品を、作品が求めている注意をもって読むことだけだ。

もしここに書いたことが、死にたいという思いに触れるなら、それがあなた自身のことでも身近な人のことでも、文章ではなく人に話してほしい。厚生労働省の「まもろうよ こころ」には、電話や文字のやりとりで相談できる窓口がまとめられている。

この読み方がまちがっているかもしれない理由

この読みには、まちがっているかもしれないところが少なくとも五つある。ひとつめは、ほかならぬドラマ自身が呼び込んでいる異議だ。

ひとつめ。題名である。『セクシー田中さん』の売りは、正体が明かされる驚きだ。経理部の地味な女性が、実はセクシーだった。どれほど丁寧に扱われていても、それは昔ながらの変身の物語で、女性は見えるようになることで報われる。実際、ドラマは田中さんに、感心する同僚たちと、ふたりの男と、舞台を与えている。この文章が頼ってきたのは、ドラマ自身の考えだった。人を惹きつけるのは若さでも美しさでもなく、稽古に支えられたエネルギーだという考え。そして、職場に合わせて彼女を変えようとはしない姿勢。けれど、正体が明かされる驚きで成り立つ喜劇は、やはりその驚きを必要とする。題名の一語のほうが、その考えより強く効いていると感じる読者がいても、それはまちがいではない。

ふたつめ。これはドラマの内側から来る異議で、進吾のものだ。もう振り回されない、と告げる朱里に、進吾は、依存先を田中さんに変えただけだと言い返す。意地の悪い言葉だが、愚かな言葉ではない。賞賛は、自分を持たずにいるためのもうひとつのやり方になりうるし、ファンはまだ友人ではない。この文章の考えでは、ドラマはこの異議に、朱里が賞賛をどうするかで答えている。彼女はそれを稽古に、仕事に、自分自身の技術に変えていく。けれど、はじめの数話については、この異議は当たっている。朱里の熱中は、たしかに新しい寄りかかり先のようにも見える。

みっつめ。あのせりふは、結局は慰めなのかもしれない。ひとことで、もう求められる年齢ではないと告げられた女性が、それならむしろ尊重されたいと決め、その選択を信条と呼ぶことは、十分にありうる。田中さんは恋をする。ドラマは三好との場面を、そして笙野への想いを、彼女に与えている。ドラマが言いたいのは「先に」ではなく「代わりに」で、あのせりふは、彼女がいずれ手放す、身を守るための言葉なのかもしれない。この文章は、自分の読みのほうを選ぶ。けれど、証明はできない。

よっつめ。ドラマの時間のかなりの部分は、ひとりの男の成長に費やされている。偏見から太鼓の稽古へと変わっていく笙野は魅力的だが、それは、男が女性にふさわしくなっていく過程を軸に、女性の物語が組み立てられるという、見慣れたかたちでもある。このドラマでも、尊重はしばしば、男が与えることを学ぶものだ。どちらの男も始まりはよくなかった。ひとりは侮辱で、もうひとりは手慣れた口説きで。ドラマはそれを隠さない。結末がどちらの恋にも結婚という決着をつけないことが、この文章の答えだ。十分な答えではない。

いつつめ。構造的には、これがいちばん強い。結末は、意味の問題というより、つくりの問題なのかもしれない。原作が未完だったので、ドラマには漫画の結末を先取りしない終わり方が必要だった。語られないまま残されたふたりは、まさにそういう終わり方が必要とするものだ。この文章は、語られないふたりを、恋を二番目に置きつづけるドラマの姿勢として読んだ。それは、未完の物語が求めたかたちにすぎないのかもしれない。そして、この文章が読んでいるのは、原作者がその作られ方に異を唱えた、放送されたドラマである。最後の二話のクレジットを別にすれば、どの選択が彼女のものだったのかは言えないし、言おうともしない。

この図書室が、ここから受けとるもの

三つある。どれも、決まりではない。

見られることと、見てもらうことは違う。そして女性は、そのどちらの方向にも取りこぼされうる。このドラマは、ふたつの取りこぼしをひとつの職場に置き、それが同じ沈黙であることを示す。

尊重は、愛されないことへの慰めではない。このドラマのなかで、尊重は恋が立つための土台であり、それは、女性がしていることへの注意というかたちをとる。習い覚えた太鼓。一揃いのメイクブラシ。出来ばえではなく努力を観に来た両親。

そして、信頼に値するまなざしとは、仕事に変わりうるまなざしだ。朱里の賞賛は、技術になった。笙野の注意は、伴奏になった。どちらのまなざしも、向けた相手に、もっと若くなれとも、別人になれとも求めなかった。

だから一度だけ、あなたに言いたい。もしあなたが、職場にずっと前に分類されてしまった人なら。あるいは、誰からも見られるのに、誰にも話を聞いてもらえない人なら。まず尊重されたいと望んでいい。それは、小さいほうの望みではない。ほかのすべてが、その上に立つ望みだ。そして、そばにいてほしいと思える相手は、あなたに何かを求めるより先に、あなたの好きなものを学びたがる人なのかもしれない。

これは、ひとつのテレビドラマの読みである。虚構の人物も実在の人も、誰も診断しないし、仕事についても、結婚についても、誰の体についても、助言するものではない。ここで使った数字は厚生労働省のものだけで、年を添えている。それが語っているのは、その年に結婚した女性たちの平均であって、誰かの暮らしではない。

手もとに残しておく問い

あなたの暮らしのなかで、あなたを見ているのは誰だろう。あなたの話を聞いているのは誰だろう。それは、同じ人たちだろうか。

あなたに向けられてきたのは、どちらの読み方だっただろう。誘いとしての読み方か、機能としての読み方か。あなたが実際に何をしているのかを、誰かが尋ねてくれたことはあっただろうか。

あなたにも、自分の足で立たせてくれる何かがあるだろうか。稽古でも、言葉でも、技術でも。それをしている姿を見られるときを、誰に決めてほしいだろう。

あなたに何かを求める前に、あなたの仕事に関心を向けてくれたのは誰だっただろう。そして、先に求めてきたのは誰だっただろう。

尊重とは、愛されない女性が代わりに求めるものだ、と誰かに言われたら、あなたは何と答えるだろう。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

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