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『One Day/ワン・デイ』と、彼女のものだった年月

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エディンバラ大学の卒業式の夜に出会ったふたりを、物語は毎年、七月の同じ一日にだけ訪ねる。だから、すれ違いで失われた年月の物語として覚えられやすい。けれど、自分を低く見積もりつづけるリーズ出身のエマに目をこらすと、日付と日付のあいだの年月は、彼女が自分の条件を決められるようになるまでの時間に見えてくる。

一九八八年七月十五日、エディンバラ。その日に大学を卒業したふたりが、彼女の部屋で夜が明けるまで話しこむ。体は重ねない。明るくなると、街を見下ろす古い火山、アーサーズ・シートに登る。そのまま彼の部屋へ向かいかけたところで、彼の両親が現れる。朝はそこで終わる。起きることはほとんどそれだけなのに、このシリーズは全十四話をかけて、その一日に戻りつづける。

エマ・モーリーは聡明で、用心深い。リーズ出身の、労働者階級の学生だ。デクスター・メイヒューは美しく、人好きがして、裕福な家に育った。それから毎年、同じ日付、聖スウィジンの日に、物語はふたりがどこにいるのかを見に戻ってくる。同じ部屋にいる年もあれば、別々の国にいる年もあり、互いに口をきかない年さえある。一年に一日ずつ。残りの日々は、画面の外で過ぎていく。

公開されている第一話のあらすじは、あの最初の朝を「機会を逃した朝」と書いている。シリーズ全体を同じ調子で覚えておくのはたやすい。ふたりが失った時間の物語として。そして最後に残る問い、あの朝どちらかがもう少し勇敢だったなら、ふたりは何を手にできたのだろう、という問いとともに。

ここでは、別の読み方をしてみたい。何年も自分を低く見積もりつづける聡明な女性、エマに目をこらして観ると、日付と日付のあいだの年月は、ふたりが失っただけの時間には見えなくなる。それは、彼女に必要だった年月だ。シリーズが見せるのは一年のうち一日だけで、その一日の彼女は、ただ漂っているように見えることもある。けれど、漂っていたように見えるその年月のなかで、彼女は自分の条件を決め、それを守ることを覚えていった。彼に対しても、自分自身に対しても。シリーズが見せる日々は、物語のものだ。残りの年月は、彼女のものだった。

先にひとつ、断っておきたい。この文章は、結末を含めてシリーズ全体にふれる。結末を書くのは終わり近くのひとつの節だけで、その節は最初の一行でそのことを断っている。画面で確かめたい人は、「シリーズの結末」という見出しのところで読むのをやめてほしい。

シリーズについて、そして読み進める前に

『One Day/ワン・デイ』は、ネットフリックスのために作られたイギリスのシリーズだ。一話二十分から四十分ほどの全十四話が、二〇二四年二月八日にまとめて配信された。原作は、デイヴィッド・ニコルズが二〇〇九年に発表した同名の小説。脚本チームを率いたのはニコール・テイラーで、ほかに三人の脚本家が加わっている。ニコルズ自身も製作総指揮に名を連ね、第十三話の脚本を自ら書いた。エマをアンビカ・モッド、デクスターをレオ・ウッドールが演じ、デクスターの母アリソンをエシー・デイヴィス、父スティーヴンをティム・マキナニー、シルヴィをエレノア・トムリンソン、イアンをジョニー・ウェルドンが演じている。

この小説は、以前にも映画になっている。二〇一一年にロネ・シェルフィグ監督がニコルズ自身の脚本で撮った作品で、エマとデクスターをアン・ハサウェイとジム・スタージェスが演じた。上映時間は二時間に少し足りない。シリーズには、映画になかった余白がある。ほとんどの年に、一話がまるごと与えられているのだ。配信から最初のまる一週間にあたる二〇二四年二月十二日からの週には、ネットフリックスが毎週発表する英語のテレビ番組のランキングで一位になり、視聴数は九百九十万を数えた。日本での題は、英語の原題にカタカナの読みを添えたものだ。

三つ、断っておく。この文章は、シリーズそのものを観て書いたものではない。場面は、公開されているあらすじや各話の要約、評に書かれているとおりに記し、登場人物のせりふはそのまま引かず、すべて言い換えている。扱うのはシリーズであり、原作小説と映画には、その記録が役に立つところでだけふれる。そして結末には、「シリーズの結末」という見出しの節でだけふれ、それより前には書かない。

その先を占う一日

七月十五日という日付には、それ自体の言い伝えがある。聖スウィジンの日だ。イギリスでは昔から、この日の空模様でその先の天気を占ってきた。この日に雨が降れば四十日雨が続き、晴れれば四十日晴れが続く、と古い歌は言う。英国気象庁はこれを民間の俗信にすぎないとし、記録が始まって以来、それほど長く雨が降り続いたことは一度もないと書いている。この一日で夏の残りがわかる、という約束だ。記録は、それを裏づけていない。

このシリーズは、その日付を借りている。そして、どこかでその約束も借りている。一日に一年を代表させる。それが、この作品の仕掛けのすべてだ。私たちは七月十五日にエマとデクスターに会い、その一日から、残りの三百六十四日を推し量ることになる。彼女はどこに、誰と住んでいるのか。彼はどれほど飲んでいるのか。前の年から、ふたりは言葉を交わしたのか。美しい仕掛けであり、観る側に多くを求める仕掛けでもある。あの古い歌と同じ誘惑が、そこにあるからだ。たった一日から長い時間を読みとり、その読みを信じてしまいたくなる誘惑が。

全十四話がいっせいに配信されたことも、その誘惑に拍車をかけた。イギリスの月刊誌『プロスペクト』で、批評家のイモージェン・ウェスト=ナイツは二〇二四年三月、このシリーズを、形式と内容が完璧に結びついた作品だと評した。ネットフリックスでは何話もまとめて観る人が多いから、観た人はおそらく、ふたりがあまりに速く年をとっていくのを見たはずだ。愛しく思うようになったふたりの人生を駆け抜けていくのは、めまいのするような感覚だ、と。ほめ言葉として書かれた文章であり、実際にほめ言葉だ。けれどそれは、年月がどれほどたやすく消えてしまうのかの説明にもなっている。ふた晩で観てしまえば、ある年の七月から次の年の七月までは、エンドロールひとつぶんの長さしかない。

ここでは、その逆の習慣をすすめたい。一つひとつの日付を、それ以上でもそれ以下でもない一日として受けとり、年月には、年月の長さを返す。読み方の小細工ではない。エマに起きるいちばん大切なことを、このシリーズはそこにしまっているのだ。

それぞれが手渡されたもの

出発点から見ていこう。このシリーズは、そこを正直に描いている。エマはリーズの出身で、労働者階級の家に育った。頭の回転が速く、いつも身構えている。デクスターは裕福な家の息子だ。見た目がよく、どんな場所にもすっとなじむ。あまりに多くを手渡されてきたせいで、手渡されていることにもう気づいていない。

卒業後の数年を見れば、それぞれの出発点がこの世界でどれほどの値打ちをもつのかがわかる。デクスターは旅に出て、やがてその魅力にふさわしい雇い主を見つける。テレビだ。深夜番組の司会者になり、有名になる。エマは旅回りの劇団に加わり、そのあとロンドンで、思い描いていたのとは違う暮らしのなか、書けない時期をメキシコ料理店で働いて過ごす。やがて、その店で出会った芸人志望のイアンと付き合うようになる。イアンは彼女を愛し、デクスターが彼女の心を占めていることに苛立っている。

これは、どちらかへの判決として書いているのではない。ここに書いているのは、生きやすさと生きにくさがどう配られるのか、そして、それを受けとった人に何が起きるのか、ということだ。魅力とお金は扉を開け、そのどちらもない聡明さは、テーブルのあいだで皿を運ぶ。そしてこのシリーズは、どちらが受け継いだものも本人のためにはならないことを、はっきり見せる。デクスターはあまりに多くを手渡され、それを酒で失いかける。エマはあまりに少なくしか手渡されず、何年も自分を低く見積もりつづける。

その癖こそが、この文章の主題だ。自分を低く見積もることは、謙遜とは少し違う。性格の欠点でもない。それは身につくものであり、早くに身につくこともある。高望みをすれば笑われる場所では、とくに。先に自分を笑いの種にしてしまえば、誰かに笑われる前に済む。それは身を守ってくれる。同時に、天井もつくる。やりたいことを、自分にはどうせ無理だと言いつづけていると、人は、それを確かめずに済むように暮らしを組み立ててしまうことがある。

誰がヒロインを演じるのか

誰がエマを演じたのかは、この物語にとって小さなことではない。ニコルズの小説のエマは、白人として書かれている。演じたアンビカ・モッドは、インドからイギリスに移り住んだ両親のもとに生まれた俳優で、それまではイギリスの公共放送の医療ドラマで知られていた。二〇二四年三月にアメリカの雑誌に載ったインタビューによれば、彼女はオーディションの誘いを何度も断っている。この役を愛していたし、自分を重ねてもいた。それでも、自分がその位置にいるところを、本当らしく思い描けなかったのだと、彼女は語っている。

彼女はまた、エマが感じているのと同じような意味で、自分もよそ者だと感じてきたし、この業界でもそう感じることが多い、とも話している。それは彼女が自分について語ったことであり、役を通して俳優の人生を読むつもりは、ここにはない。ただ、起きたことのかたちだけを書きとめておく。自分の人生の主役に自分を思い描けない女性の役が、最初はその役に自分を思い描けなかったと自ら語る俳優に渡り、その俳優が主演したシリーズは、配信から最初のまる一週間で、英語のテレビ番組のランキングで一位になった。

なぜ彼女が選ばれたのか、その選択がどう受けとめられたのか。彼女自身が語ったこと以上のことは、ここではわからない。それでも、自分が主役にふさわしいと知っていく女性の物語で、誰が主役に選ばれたかは、脇の話ではない。二〇二四年二月のある一週間、ネットフリックスの英語のテレビ番組のランキングで一位にいたのは、リーズ出身の労働者階級の女性を、インド系のイギリス人俳優が演じる恋の物語だった。

ギリシャで決めたルール

一九九一年、ふたりは一緒にギリシャへ旅をする。エマは、この一週間を友達のまま過ごすための計画を用意してきた。守るべきルールの一覧だ。ふたりは結局、そのルールのもとで、同じベッドで眠ることになる。秘密を打ち明けあう遊びのなかで、彼女は、エディンバラで出会ったあと彼に夢中だったことを明かす。やがて彼は、気軽な関係を持ちかける。彼女は断る。

この断りを、臆病さや駆け引きとして聞くのはたやすい。どちらの読み方も、彼女が知っていることを取りこぼしている。出会ってから、もう三年になる。デクスターとの気軽な関係が、そこでただひとり気軽ではいられない人間に何を強いるのか、彼女にはわかっている。そしてそれが誰なのかを、たったいま、彼に打ち明けたばかりなのだ。ルールは、気持ちを小さくするためのものではなかった。気持ちはもう、秘密として打ち明けてある。ルールは、その気持ちを抱えたまま自分が何をするのかを、先に決めておくためのものだった。

日付と日付のあいだの年月について、まず言えるのはこれだ。そこは、エマが条件を決めることを覚えていく場所だった。ギリシャでの彼女の「いいえ」は、勇気が足りなかったしるしではない。自分が何を望んでいるのかを、早いうちに、はっきり伝えているのだ。そしてその「いいえ」は、彼女がほんとうに守りたいもの、つまりこの友情を守っている。「いいえ」には、そういう働きもある。誰かに惹かれていることと、その人の申し出に応じることは、別のことだ。この場面で、彼女はそのふたつを分けたままでいられる。彼の持ちかけたことは起きず、友情は続いていく。

彼女が席を立った夕食

それからの数年、ふたりは反対の方向へ引っぱられていき、シリーズはその一歩一歩をたどっていく。一九九二年、デクスターは酔いの残ったまま実家に現れる。母のアリソンは重い病を抱えていて、あなたは自分を無駄にしていると、息子にはっきり告げる。父は彼を駅まで車で送り、二度とそんな姿で家に来るなと言う。

一九九三年、教師になったエマは学校で劇を上演し、初日の夜、生徒たちに自信をもたせて舞台に送り出す。劇は成功する。同じ年、デクスターは自分の番組の生放送の前に酒を飲み、放送は画面の上で崩れていく。シリーズは、そのふたつの夜を並べて置く。自分を信じきれない女性が、ほかの人たちを勇気づけている。誰もが信じている男が、カメラの前で自分を見失っていく。

そして一九九四年。デクスターは、いまの暮らしを見せたくて、エマを華やかなレストランに連れていく。彼は有名になり、酒や薬に呑まれていることが増えている。食事が進むうちに彼はエマに牙をむき、ただの教師で、なりたかった作家にはなれていないと、彼女を見下す。エマは店を出て、もう友達ではないと告げる。ふたりはそれから一年、口をきかない。

ここがこのシリーズの分かれ目であり、その分かれ目をつくるのはエマだ。彼女が何を拒んでいるのかを見てほしい。彼そのものではないし、愛でもない。拒んでいるのは、自分を小さくしはじめた友情だ。かつてエディンバラの彼女の部屋で、これからの人生について夜通し語りあった男が、いまは夕食の席で、彼女の仕事を笑いの種にしている。何年も自分を低く見積もってきた女性にとって、ほかの誰かが代わりにそれをしている部屋から出ていくことは、向きを変えることだ。代価も払う。いちばん近しい友人を失う。それでも彼女は、その条件のまま彼をそばに置くより、そちらを選ぶ。

シリーズの仕掛けに即して言えば、次の年の七月十五日にふたりが離れているのは、彼女がそう決めたからだ。一年に一日しか映さないこのシリーズが、その年に映すのは、別々の暮らしのなかにいるふたりだ。その一年は、彼女が使う一年になる。次の節は、彼女がそれをどう使ったかの話だ。

日記

この文章の題は、一九九五年から来ている。学期の最後の日。エマはすでにイアンと別れていて、デクスターとは一年、話していない。家に帰ると、居心地の悪い夜が待っている。そのイアンが勝手に部屋に上がりこみ、彼女の日記を読んでいたのだ。これはいい、出版するべきだと、彼は言う。彼は、彼女が選んだ読み手ではない。けれど彼の言うことは本当で、彼女はそれを聞きとる。

そのあと、買い物からの帰り道で、彼女は教え子のひとりにばったり会う。その生徒は、エディンバラ大学で英文学を学びたいと思っている。七年前にエマが卒業した大学だ。そしてエマは部屋に戻り、日記をもとに小説を書きはじめる。

これを、シリーズの仕掛けと並べてみる。シリーズは一年に一日しか見せられず、七年のあいだ、そこに映ったエマの日々は漂流のように見えていた。旅回りの劇団、レストラン、イアン、教室。けれど彼女は、書きとめていたのだ。シリーズが省いたものを、日記は抱えていた。そして一九九五年、それが彼女の仕事の素材になる。七月から次の七月へと見ていくと、どこにも行かない時間に見えた年月は、彼女がずっと手もとに残してきた年月だった。いちばん素直な意味で、それは彼女のものだった。そして彼女は、そこから何かをつくる。

これが何を意味しないかも、言っておきたい。つらかった年月がじつは彼女のためになっていた、という意味ではない。望まない仕事に費やした何年かが、一冊の小説で釣りあう、という意味でもない。日記は、本になる約束ではない。言いたいのは、もっと小さくて、もっと使えることだ。外から見ても、ときには内側から見ても、立ち止まっているようにしか見えないあいだに、人生が何かを積み上げていることはある。

そして、あの生徒のことも大事だ。自分を低く見積もる教師は、毎日、ほかの人を高く見積もって過ごしている。ここにいるのはそのひとりで、エマが出た大学を目指している。エマの信じる力は、ほかの誰かに向けられたとき、こんなことができる。あの少女は、そのしるしでもある。シリーズはその出会いを、彼女が書きはじめる直前に置いている。まるで、最後に彼女が見る必要があったのは、ほかの人のなかで働いている自分の信念だった、とでもいうように。

毎日、会いたかった

デクスターの時間も、前へ進んでいく。酒を断った彼は、シルヴィと出会う。一九九七年、大学時代の友人の結婚式で、彼はエマに、シルヴィが妊娠していて、彼女と結婚するのだと告げる。エマは、おめでとうと言う。そして、毎日会いたかったと打ち明ける。ふたりは、親友のままでいようと約束する。

毎日。それは、このシリーズの仕掛けが映せないものを、正確に言い当てる言葉だ。物語が訪ねるのは一年に一度だけ。彼女が彼を恋しく思ったのは、それ以外の日々、物語が省いた日々だった。友情のほとんども、恋しさのほとんども、じっさいにはそこで起きている。そして、彼女がその言葉をどう使ったのかを見てほしい。もう何も変えられないときに、ほかの人と結婚しようとしている男に向かって、何ひとつ求めずに、それを言う。何年も自分を低く見積もってきた女性にとって、それは新しい話し方だ。自分の気持ちについての本当のことを、見返りを求めず、飾らずに口にする。

翌年は、彼にとってつらい年になる。デクスターは昔の同居人キャラムのコーヒー店で働き、幼い娘ジャスミンの世話に疲れたシルヴィは、そのキャラムと関係を持っている。この文章は、そのどれも罰としては読まない。ひとつの結婚がきしんでいる。ここではそれだけを書いておく。

パリで

一九九九年、離婚を控えたデクスターは、エマに会いにパリへ行く。彼女はそこに住み、二冊目の本に取り組んでいる。この回のあらすじには、パリで生き生きと暮らす彼女と、悩みを抱えた彼、とある。エマには、ジャン=ピエールというフランス人の恋人もいる。

ふたりを、エディンバラの最初の朝と並べてみると、立ち位置はほとんど入れ替わっている。あのとき、彼はすべてを手渡されていて、彼女には自分を低くする癖があった。いま、彼女にはうまくいっている仕事があり、しばらくのあいだ自分の街と呼べる街があり、会っている男性がいる。彼は離婚の途中で、小さな娘がいて、前の年には友人のコーヒー店で働いていた。エマは、彼を選ぶ。

これがなぜ選択と呼べるのかを、正確に言っておきたい。彼を求める気持ちがなくなったから、ではない。その気持ちが一度も消えていなかったことは、あの結婚式の日にわかっている。そうではなく、彼女はいま、自分の足場のある場所から彼を求めている。彼を中心に回っていない暮らしがあり、自分の仕事があり、このまま一緒にいることもできる別の誰かがいる。それが自分に何を強いるかを知っていたからギリシャで断った女性、友情が残酷になったからレストランを出ていった女性が、いま、同じ知恵をもって選んでいる。彼はパリまで彼女を追ってくる。決めるのは、彼女だ。

「『ノーマル・ピープル』が痛いほど描く、好きなのに言葉が足りない二人」は、階級をまたいで長い時間をともにする、もうひと組のふたりを読んだ。言葉が追いつくずっと前から、気持ちは本物だったふたりだ。時期も構造も言葉も失敗してなお、愛情だけは本物でありうる、とあの文章は論じた。『One Day/ワン・デイ』は、同じ問いを、反対の側から試している。エマとデクスターに、言葉が足りなかったことなど一度もない。最初の夜は、話すことしかしなかったのだから。ふたりに足りなかったのは、言葉だけでは用意できないものだった。対等に出会えるふたりであること。シリーズは十一年をかけてそのふたりをつくり、そのつくられていく過程が、この物語そのものになっている。

シリーズの結末

ここから先は、このシリーズがどう終わるのかを書く。

二〇〇一年、ふたりは結婚の準備を進めている。デクスターの母はすでに亡くなっていて、彼は母の遺したお金で買ったカフェを営んでいる。エマの四作目の小説は、出版を控えている。ふたりは子どもを望んでいるが、なかなか授からない。しばらくのあいだ、シリーズは、最初の朝が約束しているように見えた結末に、遅れてたどり着いたかのように見える。

そして、出会ってからちょうど十四年後の聖スウィジンの日、エマは、彼に会いに向かう途中の事故で亡くなる。ありふれた、雨の午後だった。彼女のものだった年月は、そこで終わる。その午後について、ここで書くべきことはそれ以上ない。

最終話は、デクスターの悲しみにあてられている。急がず、時間をかけて。彼は酒とコカインに戻っていく。暴行を受け、父が迎えに来て、家に連れ帰る。イアンを含む友人たちが、彼に手を差し伸べようとする。ひとりになった彼は、いつまでもこんな気持ちでいるわけじゃない、とエマが言ってくれるところを思い描く。そして三年後、娘のジャスミンを連れてエディンバラを訪れる。先にアーサーズ・シートを登っていくジャスミンの後ろで、彼は一九八八年の朝を思い出し、あの階段でエマにキスしていたら、と想像する。

エマが物語から去るのは、ニコルズ自身が脚本を書いた第十三話だ。シリーズの脚本を率いたニコール・テイラーは、アメリカの芸能ニュースサイトの取材に、この結末がいまも自分たちの望む結末なのかを問い直すつもりで脚色に取りかかり、ほかの結末も考えた、と話している。それでも結末が残ったのは、彼女の言葉を借りれば、それが作品全体に縫いこまれているからだった。そのかわりに彼女は、最終話と、そのあとの時間について、多くを考えたという。デクスターがそれとどう向きあっていくのか。そして、エマの友人たちのことを。

「もしも」は、悲しみのもの

こうしてシリーズは、始まったところに戻って終わる。機会を逃した、あの朝に。デクスターが最後に思い描くのは、一九八八年に起きなかったキスである。この場面を、あいだの年月すべてにシリーズが下した判決として受けとるのは、自然なことだ。もしあのとき、ふたりがもう少し勇敢だったら、あの年月はすべてふたりのものになっていたのに、と。

この文章は、それを別のものとして読む。悲しんでいる男に与えられた、悲しみの考え方として。「後悔ではなく、可能性として過去を見る」は、後悔を記憶ではなく模擬として描いた。結末をすでに知っている者が組み立て、それを知らなかった過去の自分に当てはめる模擬として。そしてあの文章は、ひとつの狭い試しを差し出した。あのときの自分は、実際に持っていた情報で、もう一方の枝に届きえたのか。

その試しを、エディンバラのあの階段でやってみる。あの朝のエマは、卒業したばかりで、自分を低く見積もっていた。あの朝のデクスターは、すべてを手渡されていて、それが自分に何を強いるのかをまだ知らなかった。階段でのキスが何に出会っていたのかは、シリーズ自身のその後の年月が見せている。数年のうちに、酔ったまま実家の戸口に立ち、夕食の席で残酷になる男。そして、部屋から出ていくことをまだ覚えていない女。デクスターが思い描く枝は、あの朝そこに立っていたふたりには、まだ届かないところにあった。その枝は、彼がいま遠回りとして思い出している年月が、少しずつ育てたものだった。

「『パストライブス/再会』が教える、選ばなかった人生も自分の一部だということ」は、選ばなかった人生は自分の中に残っていていいし、そこにも扉があったと知っているだけでいい、と書いた。判決にしなくていい、ということだ。『One Day/ワン・デイ』は、そのことを、いちばん厳しい形で主人公に求める。エマとの人生を、彼はたしかに生きた。そしてそれは、断ち切られた。エディンバラで彼が戻っていくのは、生きなかったほうの人生だ。悲しむ心には、逃した一度の朝なら抱えられても、十四年の人生は抱えきれないからかもしれない。あの場面は彼のものだ。私たちのものである必要はない。

そしてシリーズは、彼をそこに置き去りにはしない。ジャスミンが、同じ丘を先に登っていく。未来は文字どおり、道の上で、彼の前にある。そしてエディンバラより前、ひとりになったとき、彼は、いつまでもこんな気持ちでいるわけじゃない、とエマが言うところを思い描いていた。彼自身の想像が彼女に言わせたその言葉は、ありえたかもしれないことについての言葉ではない。生きつづけていい、という許しだ。

七月のある一日を、日本から見る

日本から見ると、この物語の年月には、すでにひとつの名前がつけられていた。二〇一一年の映画は、二〇一二年六月に『ワン・デイ 23年のラブストーリー』という題で公開されている。年月を数え、そのすべてをひとつの恋の物語と呼ぶ題だ。この文章は、その年月が恋の物語だけではなかったと論じてきた。それでも、この邦題はひとつのことを正しく言い当てている。時間の長さそのものを、主題にしているのだ。

日本の読者なら、この物語の奥に、もっと古い物語を聞きとるかもしれない。七月のある一日にだけ会うふたり。七夕だ。よく知られた語り方では、天帝の娘である織姫と、牛飼いの彦星は、結婚すると働かなくなった。織姫は機を織らなくなり、彦星は牛の世話をしなくなった。怒った天帝はふたりを天の川の両岸に引き離し、年に一度、七月七日の夜にだけ会うことを許した。機織りに励むなら、という条件つきで語られることもある。その夜に雨が降ると、天の川の水かさが増して、ふたりはまた一年待たなければならないという。

『One Day/ワン・デイ』は、その取り決めを裏返している。エマとデクスターを引き離す者は、ふたり自身のほかに誰もいない。あの日付も、誰かが許した逢瀬ではない。ふたりが一緒にいる年もあれば、離れている年もある。そしてこの物語では、仕事は、離れているあいだに進む。ふたりが恋人ではなかった年月こそ、エマが作家になっていった年月だった。古い物語では、恋と仕事が対立し、ふたりは命令で引き離される。このシリーズでは、離れていた時間がそのまま仕事の時間になり、それが無駄だったのかどうかは、観る人にゆだねられる。

もうひとつ、身近に感じられることがあるかもしれない。エマの、自分を低く見積もる癖は、外から見れば謙遜に似ている。そして日本語には、礼儀として自分を下げるための言い回しがたくさんある。つまらないものですが、と差し出す贈り物。ほめ言葉をやわらかくかわす、いえいえ、のひと言。けれど、ふたつは同じではない。礼儀としての謙遜はひとつの形であり、言うほうも聞くほうも、それが形だと知っている。自分を低く見積もるとは、その形を、いつのまにか信じてしまうことだ。エマの物語は、その違いに気づくまでにどれほどの時間がかかりうるのか、そして、そのあいだにもどれほどの仕事が進みうるのか、についての物語でもある。

だからといって、このシリーズが日本の、あるいはイギリスの階級の、あるいは誰かの家族の肖像になるわけではない。これは、一年に一日だけ訪ねられる、ひとりの女性の物語だ。

この読み方への反論

この読み方が間違っているかもしれない理由は、少なくとも五つある。ひとつめは、シリーズ自身から来る。

第一に、シリーズは自らを失われた時間の物語として枠づけていて、この文章はその枠に逆らって読んできた。第一話のあらすじはエディンバラの朝を「機会を逃した朝」と書き、最後の場面はその朝に戻って、起きなかったキスを思い描く。そのあいだで、シリーズはただ、見えるとおりのことを言っているのかもしれない。愛しあっていたふたりが年月を無駄にし、その無駄こそが悲劇なのだ、と。この文章は、その年月をエマのものとして読んだ。別のことを語る物語のなかに、自分の関心を読みこんでいるだけなのかもしれない。

第二に、そして女性をめぐるシリーズにとっていちばん重い反論として。ヒロインは奪われ、最終話は男性のものになる。この文章が物語そのものとして扱ってきたエマの変化は、ありふれた雨の午後に断ち切られ、そのあとに続くのは、デクスターの悲しみ、デクスターの立ち直り、デクスターの記憶だ。どれほど丁寧に描かれていても、女性の人生が、男性が喪失を学ぶために費やされるという古い型ではないか。そう言われても、もっともだ。脚色を率いた脚本家は、なぜ結末を残したのか、そのかわりにどこへ心を注いだのかを語っている。それは、ひとつの選択についての誠実な説明だ。けれど、この反論に答えてはいないし、この文章も答えたふりはしない。

第三に、この読み方は、つらさを美化しているかもしれない。年月は彼女のものだった、日記は小説になった、と言うことには、才能がすべてを贖う物語、労働者階級の女性のつらい年月が最後の一冊によって正当化される物語を語ってしまう危うさがある。自分を低く見積もる女性の誰にも、その一冊が約束されているわけではない。望まない仕事に費やした年月は、そのあと何が来ようと、それで帳消しにはならない。この文章は、立ち止まっているように見えるあいだにも、人生は何かを積み上げていることがある、と書いた。立ち止まっていても実は大丈夫なのだ、とは書いていないし、そう読まれるべきでもない。

第四に、この文章は、シリーズ自身よりもデクスターに厳しい。シリーズは彼に、本当のことを言う母と、酔ったまま家に帰ることは許さないのに、崩れたときには迎えに来る父を与えている。酒を断つことも、娘も、カフェも。そして悲しみの最終話も。その最終話は、それ自体がひとつの変化の物語だ。エマを主語にする読み方は、デクスターを、彼女が乗り越えていく障害にしてしまう危うさをもつ。彼は障害ではない。パリでの選択が意味をもつために、変わらなければならなかった、もうひとりの人間だ。

第五に、配役のこと。この文章は、誰がエマを演じたかに意味を見いだし、俳優自身の言葉に寄りかかった。実在の女性が自分について語ったことを、文章はたやすく象徴に変えてしまう。それはそれで、彼女の話を聞いていないことの一種だ。彼女が語ったことは、彼女のものだ。この文章がそこから読みとったことは、ひとつの読みにすぎない。

この図書室が受け取るもの

三つのこと。どれも、決まりではない。

一日だけ見れば漂流にしか見えない一年が、人生のつくられている場所であることがある。物語が訪ねるのは一日だけだ。残りの日々はどこかにあり、その一部は、一冊のノートのなかにあるかもしれない。

自分を小さくしはじめた友情を終わらせることは、愛の失敗ではない。それは、はじめて自分の側に立つことでありうるし、もしいつか戻る日が来るなら、そのとき正直に戻れるのも、そのおかげかもしれない。

そして、あの朝もう少し勇敢だったらどうなっていたか、という問いは、悲しみと後悔が、そのときには持っていなかった知識を使って立てる問いだ。それは、そのあとの年月への判決ではない。あの朝のあなたは、あの朝に見えていたことしかできなかった。

もしあなたが、年月を無駄にしたと言われてきた人、あるいは自分にそう言い聞かせてきた人なら。合わない仕事で、合わない街で、誰かが気づいてくれるのを待ちながら過ごした年月を、そう呼んできたのなら。あなたは、自分で思っているより多くのものを、手もとに残してきたのかもしれない。外からは何もなかったように見えた年月が、いまのあなたをつくっているのかもしれない。それは、あなたの年月だった。いまも、そうだ。

これは、ひとつのテレビシリーズについての読みである。架空の人物についても実在の人物についても、誰のことも診断していないし、誰かの友情や悲しみ、飲酒についての助言でもない。ここに出てくる数字は、シリーズそのものについてのものだけだ。

手もとに残す問い

一日だけ見れば漂流にしか見えない一年が、あなたにもあるだろうか。その年、誰にも見えないまま、あなたが手もとに残していたものは何だろう。

あなたを低く見積もるのは誰だろう。そしてあなたは、相手がそうする前に、自分でそうしてしまうことがないだろうか。

自分を小さくしはじめたから離れた友情があるだろうか。離れることは、あなたから何を奪い、何を返してくれただろう。

あのとき、もう少し勇敢だったらと考えるとき、あなたが使っているのは、あのとき知っていたことだろうか。それとも、いま知っていることだろうか。

あなたを愛していた誰かが、あなたが無駄にしたと思っている年月について、本当のことをひとつだけ言えるとしたら、何を言ってほしいだろう。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

このお便りについて