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『ミセス・プレイメン』、署名は同意の代わりにならない

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第一話で、意味を知らされないまま署名した二人の女性が、その代価を払う。ドラマは妻のほうを編集部の頂点へ、そして快楽について誰にも教わらなかった女性たちのための頁へと導き、そのあいだにある紙のことを正直に描くが、何にも署名しなかったひとりの女性にだけは、本人の代わりに赦しの言葉を書いてしまう。

パーティーの翌朝、夫を探しに出た女性が見つけるのは、夫ではなく警察だ。夫の出している雑誌の最新号が押収され、警察は責任者を連れにきている。書類の上では、その責任者は彼女になっている。いつだったか、夫に差し出された紙に署名した。それが、誌面のすべてについて自分が検察に答える立場になるという意味だとは、誰も教えてくれなかった。夫は姿を消している。彼女は留置場でひと晩を過ごす。

同じ街で、若い女性もまた何かに署名している。好意を寄せていた写真家に、二人だけのためだと言われて、裸の写真を撮らせた。そのあと彼が書類を持ってきて、彼女はそれに署名した。そこに裸の写真まで含まれているとは、知らされなかった。ほどなく、彼女の体は街の売店に並ぶ。抗議に行った彼女に返ってくるのは、署名したでしょう、という言葉だ。

ネットフリックスが二〇二五年十一月に配信を始めたイタリアのドラマ『ミセス・プレイメン』の第一話である。一九七〇年代のローマで成人向け雑誌「プレイメン」を率いた実在の女性、アデリーナ・タッティロの物語だ。敬虔なカトリック信者で母親でもある女性が夫の雑誌を引き継ぎ、女性たちに向けて作り変えていく話として紹介されることが多いし、実際そういう話でもある。けれどこのドラマの出発点は、もっと地味で、もっと役に立つところにある。紙によって追いつめられる、二人の女性だ。

このドラマは、欲望を描く多くの物語よりもはっきりと、署名と同意の違いを知っている。署名は、手が動いたことの証拠にすぎない。本人が何に同意するのかを知っていたこと。その使い道に限って同意したこと。断っても何も失わずにすんだこと。署名は、そのどれも証明しない。物語全体が、この隙間に沿って進んでいく。夫は妻の名前を使って罪を逃れる。写真家は若い女性の署名を使って、彼女の体を誌面に載せる。そして当時の法律は、強姦した男が相手の女性と結婚すれば、罪そのものが消えることを認めていた。

ドラマはアデリーナを、名前を使われる女性から、自分で署名する女性へと導く。雑誌もまた、女性を使う頁から、女性に何を望むのかを尋ねる頁へと変わっていく。そのあいだにある紙のほとんどについて、ドラマは正直だ。ただ、何にも署名しなかったひとりの女性に対してだけは、そうではない。ボートの上から裸を撮られ、尋ねられることなく誌面に載せられたジャクリーン・ケネディ・オナシス。ドラマはのちに、彼女に出版者を赦させる。この文章が確かめられた記録のどこにも、彼女のそんな言葉は残っていないのに。

この図書室がここから受け取るのは、もっと頻繁に口にされてよい一文である。署名は同意の代わりにならない。そして、女性の欲望を代弁することは、その女性に尋ねることと同じではない。

この作品について、そして結末にふれる前に

まず記録から。『ミセス・プレイメン』は全七話のイタリアのドラマで、監督はリッカルド・ドンナ、脚本はマリオ・ルッジェーリを中心とするチームが書いた。ネットフリックスが二〇二五年十一月十二日に世界で配信を始め、実話に着想を得た作品と紹介している。アデリーナ・タッティロを演じるのはカロリーナ・クレシェンティーニ。夫で共同創刊者のサロ・バルサモをフランチェスコ・コレッラ、編集者マリオ・シャルトルーをフィリッポ・ニグロ、写真家ルイジ・ポッジをジュゼッペ・マッジョ、エルサをフランチェスカ・コルッチ、風紀課の警部アンドレア・デ・チェザーリをドメニコ・ディエーレが演じる。

物語のあらましを書いておく。一九七〇年代のローマ。敬虔なカトリック信者で母でもあるアデリーナは、夫のサロとともに「プレイメン」を出している。横領の容疑を逃れてサロが姿を消すと、警察は最新号を押収し、名目上の責任者であるアデリーナを夫の代わりに逮捕する。保釈された彼女を待っていたのは、借金まみれの会社と、彼女を疑う編集者だった。それでも彼女は舵を取る。ヌードの隣に、快楽について誰にも教わらなかった花嫁や妻たちに向けて自分で書いた文章を載せ、殺された侯爵夫人の日記を載せ、離婚をめぐる議論を載せる。物語が始まる時点で、イタリアではまだ離婚が認められていない。

エルサの写真は、嘘で手に入れた署名によって誌面に載る。その直後、彼女は知り合いの男に強姦され、その男との結婚を迫られる。アデリーナは彼女を助手に雇う。雑誌をつぶそうとする風紀課のデ・チェザーリは、エルサを情報提供者にするうちに、彼女に惹かれていく。イタリアに進出してきた「プレイボーイ」は写真家を引き抜き、買収を持ちかけ、誌名をめぐって訴えてくる。アデリーナはジャクリーン・ケネディ・オナシスのヌード写真で応え、号は売り切れる。サロとの離婚を申し立て、表紙を飾ったジゴロのスティーヴと関係を持つ。ゲイバーの客たちが暴徒に襲われた夜、ポッジとの関係を隠してきたシャルトルーは逃げ出し、仲間を助けに向かうポッジを置き去りにする。

最終話、エルサとシャルトルーが「プレイボーイ」という誌名そのものも借り物だったと示し、イタリアの裁判所はプレイメンを勝たせる。同じ日、デ・チェザーリは危険な若者を止めようとして重傷を負う。逮捕状が取り消されたサロが戻ってきて、筆頭株主として雑誌を取り上げ、エルサを解雇し、株を買い取りたいと言ったアデリーナを殴る。やがて彼女は、夫が自分と離婚しないまま愛人と結婚していたことを知り、暴露すると迫る。サロは雑誌を手放す。最後に、エルサは編集部の机に戻り、デ・チェザーリは病院で目を覚まし、アデリーナはプレイメンの主として、避妊薬を取り上げる号をまとめている。

結末まで含めて、この文章は作品全体を扱う。強姦と暴力にもふれるが、起きたことを述べるにとどめ、場面を描写することはしない。ここに記したことは、公表された作品の記録と、批評や詳しいあらすじ紹介、そして作品のもとになった歴史についての報道から取っている。この文章のために作品を視聴して確かめてはいない。記述が食い違うところでは、そう書く。

史実と、ドラマがつくったもの

アデリーナ・タッティロは実在の人物で、ドラマが描く彼女の仕事の多くは記録に残っている。一九二八年、南イタリアのプーリア州マンフレドニアに生まれ、修道女が運営する学校で教育を受け、二〇〇七年にローマで亡くなった。夫のサロ・バルサモとともに一九六〇年代半ばに出版を始め、若い読者向けの週刊誌「ビッグ」、裸の女性の写真を集めた週刊誌「メン」に続いて、一九六七年に「プレイメン」を創刊した。アメリカの「プレイボーイ」が、イタリアでは販売を禁じられていた時期のことだ。

一九七一年一月、米誌「タイム」は彼女についての記事を、イタリアのヒュー・ヘフナーは金髪だ、という一文で始めている。記事によれば、「プレイメン」は四年足らずで発行部数四十五万部に達し、創刊以来、どこかの都市で警察に押収が命じられない月は一度もなかった。毎月が読者と警官の競争だった、と記事は書いている。表紙を選ぶのは彼女自身で、法律との危うい賭けも彼女が引き受けた。トップレスで日光浴をするブリジット・バルドーを、パパラッチが盗み撮りした写真を載せたのも、その一つだ。彼女はこの雑誌が「イタリアの男女が愛と性について抱いている、ある種の古めかしい態度を、知的なやり方で変える助けになってほしい」と語り、女性の解放を妨げているのではないかと問われると、「私たちの考えるエロティシズムでは、女性も男性と同じく主体なのです」と答えた。

筋書きのほかの部分にも史実がある。「プレイメン」は一九七二年の暮れに、実際にオナシス夫人の写真を掲載した。「プレイボーイ」の誌名をめぐる主張を、イタリアの裁判所が退けたのも事実だ。一九九六年、アメリカの裁判官はこの経緯を判決に記すなかで、「プレイボーイ」がイギリス、フランス、西ドイツでは誌名の使用差し止めを勝ち取ったものの、イタリアの裁判所は、プレイボーイという語は言葉として弱い商標で、イタリアでは保護に値しないと判断した、と書いている。

残りの多くは、ドラマがつくったものだ。エルサと写真家ルイジ・ポッジは架空の人物で、配信開始の際に「タイム」がそう書いている。脚本の中心にいたマリオ・ルッジェーリは伊紙「ラ・レプッブリカ」に対し、アデリーナの仕事についてはほぼすべてが事実どおりで、私生活は彼女の歩みに着想を得て脚色したと語った。劇としての必要のためでもあり、プライバシーへの配慮のためでもあったという。シャルトルーは実在した何人もの人物を合わせてつくった人物で、その私生活はまったくの創作だ、とも。実際のアデリーナには子どもが三人いたが、ドラマでは二人になっている。タッティロについて書かれた唯一の伝記、ダリオ・ビアージによる二〇一八年の一冊とドラマを突き合わせたイタリアのある書評は、オナシス夫人の写真を仲介するジゴロや、サロの重婚を、ドラマの創作として挙げている。出来事の順序も組み替えられている。一九七一年一月の「タイム」はすでに夫婦が別居していると伝えており、イタリア語の事典類によれば、彼女は一九六九年に法的な手段で週刊誌「メン」を夫の手から取り上げ、「プレイメン」もローマの彼女のもとに残った。ドラマはその争いを最終話に移した。最終話で夫が妻を殴る場面はドラマのものであり、この文章は、現実の結婚で何が起きたかについて何も主張しない。

仕事は事実、家庭は創作。脚本家が引いたこの線は、じつはこの文章の主題を小さく映している。タッティロはドラマがつくられるずっと前、二〇〇七年に亡くなった。だからドラマが彼女に与えた私生活、恋人のことも、夫ともう一度過ごす夜のことも、屋上での対決のことも、本人に確かめることはできなかった。前年にネットフリックスが配信したイタリアのドラマ『スーパーセックス』と比べてみるといい。モデルとなったポルノ俳優ロッコ・シフレディは存命で、この美しい物語は自分の人生に着想を得ているが、自分の人生そのものではない、と公に語ることができた。アデリーナ・タッティロのために、そう言える人はいない。ドラマは彼女の私生活への配慮から私生活を創作し、それでもなお、それは彼女が選ばなかった私生活である。非難ではない。亡くなった人を描くあらゆるドラマが置かれる条件であり、この文章も同じ条件の下にある。

第一話の二つの署名

二つの署名に戻ろう。ドラマはそれを同じ回に並べて置いている。ただし、二つは同じ種類の過ちではない。

アデリーナの署名は、責任の付け替えだ。逮捕を恐れた夫は、雑誌の法的な責任を妻に移し、そのことを告げなかった。彼女は何かに同意するよう求められたわけではない。危険を置いておく場所として使われたのであり、夫にとって彼女の名前が役に立ったのは、それが自分の名前ではなかったからだ。

エルサの署名で譲り渡されたのは、彼女の体だ。彼女が同意したのは、好意を寄せる男に、二人だけのために写真を撮られることだった。そのあとで渡された書類は、写真を使うための許可として差し出され、そこに裸の写真まで含まれることは誰も教えなかった。抗議に来た彼女に返されるのは、この商売でいちばん古い答えである。署名したでしょう。紙は、それで話が済んだかのように持ち出される。済んだのは、彼女の手が動いたということだけだ。

そして、普通の女性を誌面に載せるという考えに惹かれ、その写真を使うと決めるのはアデリーナ自身である。署名がどうやって手に入れられたのか、彼女は知らない。けれどドラマはそのことで彼女を免罪しないし、この文章もするべきではない。ドラマ自身の語りのなかで、雑誌が女性のほうへ向きを変える一歩目は、何も知らなかった女性の体の上で踏み出されている。

同意に何が必要かは、正確に言っておく価値がある。書類というものは、同意を実際よりずっと単純に見せるのが得意だからだ。本人が、何に同意するのかを知っていること。その「はい」が、この使い道に限られていること。写真を撮られることへの「はい」は、印刷機への「はい」ではない。断っても罰を受けないこと。そして、一度与えた「はい」を取り消せること。この図書室の「一度言った「はい」は、借りではない。」という文章は、一度の同意は続ける義務も、やめる理由を説明する義務も生まないのに、その場のほとんどすべてがそれを借りのように感じさせる方向に整えられている、と論じた。署名したでしょう、という一言は、その整え方のもっとも純粋な形であり、印刷され、綴じられている。

だからといって、署名した女性たちが愚かなのではない。女性が読まずに署名する理由には、助言より先に敬意を払うべきものがある。ペンを差し出しているのが、信頼している夫だから。楽しい夜のあとの、感じのいい若い男だから。ただの形式だと言われたから。本当はどういう意味かと尋ねることが、相手を疑うことのように聞こえるから。部屋じゅうが急いでいて、流れを止める側になりたくないから。どれも、信頼というもののごく普通の働き方である。そしてこの種の紙は、まさにそういう状況で署名されるように書かれている。ドラマがアデリーナに最初に学ばせることは、つまるところ、署名する前に読むことだ。

赦しとして差し出された結婚

エルサの二つ目の傷は、さらに深い。ドラマはそれをはっきりと述べる。写真が出てまもなく、彼女は知り合いの男に強姦される。警察では屈辱的な質問を浴びせられる。男の弁護士は、結婚すればすべて解決すると持ちかけ、それを断った彼女を、父親は勘当する。

弁護士の申し出は、脚本家が考え出した残酷さではない。当時の法律だった。一九三〇年のイタリア刑法第五四四条は、性暴力の罪について、加害者が被害者と結婚すれば罪は消滅し、手を貸した者の罪も消え、すでに有罪判決が出ていれば刑の執行もその効果も止まると定めていた。この条文が廃止されたのは、一九八一年八月になってからである。一九九六年まで、イタリアの法律は強姦を、人に対する罪ではなく、公の道徳に対する罪に分類していた。

ここがいちばん残酷なところで、怒りを向けてよい場所でもある。ただし怒りの向け先は、自分の世界が教えたとおりにふるまう、おびえた父親ではない。強姦した男が結婚式ひとつで無罪を買い戻すことを許し、それを償いと呼んだ条文である。法律は、婚姻の登録簿への女性の署名を、男の赦免状に変える方法を見つけていた。この物語に出てくる紙のなかで、これほど暗いものはない。

雑誌を取り巻いていた国の様子を、少し補っておきたい。カトリックの影響が色濃いイタリアには、一九七〇年十二月まで、離婚という制度そのものがなかった。離婚を導入する法律が成立したのは、同年十二月一日のことだ。反対派はこの法律の廃止を求めて国民投票に持ち込んだが、一九七四年五月の投票では有権者の九割近くが票を投じ、五九・三パーセントが離婚の存続を選んだ。避妊を公に勧めることも、一九七一年三月に憲法裁判所が条文を違憲とするまでは犯罪だった。そして一九七五年の家族法の改正まで、民法は家族の長をひとりだけ認めており、それは夫だった。

そんな国で、アデリーナがエルサに差し出す答えは、小さく、的確だ。仕事を与える。演説でも運動でもなく、机と給料と、父親の家ではない場所へ毎朝出かけていく理由を。ドラマのなかで誰かがエルサのためにしたことのうち、いちばん役に立ったのは、これかもしれない。

妻たちのために書かれた頁

このドラマの核にあるのは一枚の頁で、それは第二話に現れる。借金に追われるアデリーナのもとに、殺された侯爵夫人の写真と、その女性の日記が持ち込まれる。ネットフリックス自身のあらすじは、この回の選択を、悲劇を食い物にするかどうか、とまとめている。次の号のために彼女が自分の手で書いたのは、それとは別のものだった。花嫁たちに向けた文章である。

ドラマのなかでその文章は、初夜から始まる。男とふたりきりになった若い女性が、おびえている。誰も何も教えてくれなかったからだ。相手の体のことも、自分の体のことも。それから文章は、誰も彼女に尋ねなかった問いを投げかける。私たちは何を望んでいるのか。何が好きなのか。号はそれをヌードの隣に載せ、やがて女性たちから手紙が届きはじめる。

その前に、ドラマがほとんど喜劇のように描く場面がある。アデリーナの友人である神父が、夫婦生活に悩む新婚の女性と話をしてほしいと彼女に頼む。女性にも満たされる権利がある、とアデリーナが話すと、若い妻はぎょっとする。けれど後日、彼女はもう一度やってくる。友だちを連れて。

タッティロが自分の雑誌について語った意味で言えば、雑誌がいちばんうまく働いているのはここだ。こういう頁は、女性を眺められる対象として扱わない。何かを望む人として扱い、何を望むのかを尋ねる。その後の号も、ここから育っていく。離婚をめぐる議論、そして最後の最後の、避妊薬。

この二種類の頁の違いは、この図書室が「『お嬢さん』と、欲望・演技・支配から自分の物語を奪い返すこと」で引いた線と同じである。語らされることと、自分で語ることの違いだ。男性の収集家たちの前で官能の書物を朗読するよう仕込まれた女性は、言葉には長けていても、その言葉の書き手ではない。花嫁たちのための頁は、その逆へ向かう。男性のために欲望を演じることを、女性に求めない。自分の欲望のための言葉を、ひとりで読める雑誌のなかで手渡す。

それでもドラマは、ここでもひとつのことを取り違えない。妻たちのために書かれた頁も、妻たちを代弁していることに変わりはない。それを尋ねることに変えるのは返事であり、ドラマのなかで返事は届く。手紙が届き、若い妻が友だちを連れて戸口に立つ。女性を代弁することは、女性の側が答えられるようになったときにだけ、会話になる。

何にも署名しなかった女性

次に、「プレイメン」の名をイタリアの外にまで広めた号の話をしよう。一九七二年十一月半ば、「プレイボーイ」がイタリア版を創刊した。その月の終わりに出た「プレイメン」十二月号には、ジャクリーン・ケネディ・オナシスの写真が十四枚載っていた。ケネディ大統領の未亡人で、ギリシャの海運王アリストテレス・オナシスと再婚していた彼女が、夫の島スコルピオスで裸でくつろいでいる姿である。発行人によれば、写真は一九七一年の夏にモーターボートから撮られた。「タイム」の報道では、数日のうちに売店から「プレイメン」は一冊残らず消えた。

「タイム」はそれを、ジャッキーのプライバシーへのあからさまな侵害と呼んだ。発行人は悔いていなかった。「ジャッキーは、あの場所で写真家たちが何度も撮影してきたことを知っていたはずです。撮られたくなかったのなら、あんなふうに身をさらすべきではなかった」。トリノの新聞「ラ・スタンパ」は、イタリアはあの写真を載せないほうがよかった、と書いた。

この一文が何をしているかに、耳を澄ませてほしい。問いを、彼女が同意したかどうかから、彼女がどこにいたかへと移している。そんな格好をしていたほうが悪い、と言うときの文法そのものであり、それを口にしたのは、二年足らず前に同じ雑誌に向かって、自分の考えるエロティシズムでは女性が主体なのだと語った女性だった。ジャクリーン・ケネディ・オナシスは何にも署名していない。誰も彼女に尋ねていない。この物語のなかで、頁の上でただ見られるものにされた女性の、もっともはっきりした例が彼女である。そしてその号は、現実の雑誌のいちばん有名な成功だった。

ドラマはこの号を残し、その意味を変える。ネットフリックス自身のあらすじは、第五話の選択を一行で言い表している。彼女の評判を壊しかねないが、雑誌の未来を確かにする写真。そのうえでドラマは、詳しいあらすじ紹介によれば、ひとつの発見を付け加える。写真家に情報を流したのはオナシス本人で、離婚の際に払う金を逃れるための醜聞を欲しがっていた、というのだ。オナシスが写真を仕組んだという話は、スティーヴン・ギロンが二〇一九年に出したジョン・F・ケネディ・ジュニアの伝記が主張しているもので、一九七二年の「タイム」の記事にはない。こうして掲載は、夫のたくらみを暴く行為になる。次の回、ドラマはレストランでアデリーナをオナシス夫妻と向き合わせ、二人の女性に話し合わせる。ジャクリーンは理解を示す。二人は、力のある男たちに利用された女同士として互いを認め合う。そして彼女は、出版者を責めないことにする。

記録のほうに、そんな場面はない。この号を伝えた一九七二年の「タイム」の記事は、彼女の言葉をひとことも引いていない。彼女について引かれているのは発行人の言葉で、それは撮られた彼女のほうを責めている。ドラマは彼女に、理解と赦しを与えた。この文章が確かめられた記録のどこにも、それに似た言葉は見当たらない。

だからドラマは、彼女を二度代弁している。一度目は写真で、それを誌面に載せることによって。二度目は赦しで、それを書くことによって。ドラマは何が間違っていたのかを正確に見てとっていた。尋ねられることなく載せられた女性がいる、と。そしてそのうえで、彼女がそれでかまわないと決める場面を書いた。ドラマには創作する権利がある。問われるのは、その創作が何のためにあるかであり、この創作は出版者のためにある。

株券に残る夫の名前

ドラマがもう一つ長く描くのは結婚で、そこでも争いは、やはり名義と紙をめぐって進む。株券にあるのはサロの名前で、誌面のすべてにあるのはアデリーナの仕事だ。はじめ、夫の名前は、自分の責任を妻に負わせるために使われる。最後には、夫の肩書きが彼を編集部に呼び戻す。筆頭株主として雑誌を取り上げ、彼女が雇った女性を追い出し、買い取りを申し出た彼女を殴る。

彼女は財産の法によって勝つのではない。秘密を見つけることで勝つ。夫は自分と離婚しないまま、愛人と結婚していた。彼女はそれを暴露すると迫る。この図書室の「『ベイビーガール』、身を委ねることは弱みを握られることではない」は、互いが相手の弱みを握り合うようになると、どちらも「やめて」をただでは言えなくなると論じ、値札のついた出口は自由ではなく、弱みの握り合いだと書いた。『ミセス・プレイメン』の結末は、まさにその意味での弱みの握り合いである。ドラマはそれを勝利として描く。夫の肩書きが妻の働きより重く量られる法の秩序のなかでは、それが彼女に残された最善の出口だったのかもしれない。それでもやはり、秘密で買い取った出口である。

ドラマのなかで、まるごと「はい」だと言える署名がひとつだけある。彼女がためらう署名だ。自分で求めた離婚の書類が届いたとき、彼女は重い気持ちでそれを前にする。何を意味するのかを知っていて、自分で求めたもので、署名せずにおくこともできた。同意に必要な条件のすべてを満たす紙は、物語のなかでこれだけだ。そして、彼女が署名する紙のなかで、いちばん悲しい紙でもある。

日本から見ると

日本の読者は、このドラマに少し違う角度から出会うことになる。日本の民法では、夫婦は話し合いによって、役所に届を出すだけで離婚できる。一八九八年の明治民法のときからそうで、今もそれが日本でのごく普通の離婚の形だ。だから、一九七〇年まで離婚ができなかった国と聞けば、遠い世界のように感じるかもしれない。けれど、それを優劣の表にしてはいけない。日本でもその手軽な届は、妻を一方的に追い出す道具にもなるとして批判されてきた。手続きが簡単なことと、それを使う自由があることは、同じではない。

避妊薬の話は、見た目よりずっと身近だ。最終話でアデリーナが準備しているのは、一九七〇年代はじめのローマの号である。そこで取り上げられる薬が日本で避妊薬として認められたのは、一九九〇年に承認の申請が出されてから九年後、一九九九年のことだった。

オナシス夫人の号と同じ一九七二年、日本にも雑誌をめぐる事件があった。月刊誌「面白半分」が、永井荷風の作と伝えられる『四畳半襖の下張』を掲載し、編集長だった作家の野坂昭如と発行元の社長が、刑法のわいせつ文書販売の罪で起訴された。最高裁判所は一九八〇年十一月、上告を退けて有罪を確定させている。その争いは、「プレイメン」とイタリアの警察との争いと同じく、何を活字にしてよいかをめぐるものだった。エルサの問いは別のものだ。誌面に載せられた本人が、同意していたのかどうか。

日本の視聴者には、『全裸監督』も思い浮かぶかもしれない。一九八〇年代のアダルトビデオ業界を描いた、二〇一九年のネットフリックスのドラマである。この作品は、実在の女優を、公の場を離れて久しい本人に連絡を取らないまま、現役時代の名前で登場させたとして、日本で批判を受けた。ネットフリックスは、本人も、物語の中心にいる監督も制作には関わっていないと説明している。この文章は、その女優の名前を繰り返さない。これは同じ問題の日本版である。欲望を扱う商売についての物語が、ひとりの女性に尋ねることなく、その名前を使った。

署名について、日本の法がいま求めていること

第一話の二つの署名に、日本の法はそれぞれのやり方で答えを出してきた。

アデリーナの紙は借金の保証ではないが、同じ系統に属している。夫の危険を背負わせるために使われる、妻の署名だ。日本の民法はいま、個人が事業のための借金を保証する場合、契約前の一か月以内に公証人が保証人になろうとする人と直接会い、借金の中身と、保証人になることの意味と、その危険を本当に理解しているかを確かめて公正証書をつくらなければ、保証は効力を持たないと定めている。実際の手続きでは、借り手や貸し手は同席させない。頼まれて断りきれずに判を押してきた、事業の外にいる家族や知人のための仕組みである。例外に何が書かれているかが示唆的だ。個人事業主の借金について、その事業に実際に携わっている配偶者は、この確認の対象から外れている。すでに分かっているはずだ、ということなのだろう。アデリーナは夫の仕事のすぐそばで働きながら、自分が何に署名したのかを知らなかった。

エルサの紙については、二〇二二年六月に施行された、アダルトビデオへの出演被害を防ぐための法律がある。契約の内容は書面で説明されなければならない。契約から一か月は撮影できず、撮影を終えてから四か月は公表できない。出演者はどんな行為も断ることができ、公表の前に映像を確かめられる。そして、いま結ばれる契約であれば、公表から一年のあいだは理由を問われることなく契約を解除し、販売や配信の停止を求めることができる。この法律の原則は、この文章がずっとめぐってきたものと同じだ。署名は、同意が試されはじめる場所であって、終わる場所ではない。

これが物語ではない人のために書いておく。性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターには、全国共通の番号#8891に無料で電話をかけることができ、アダルトビデオへの出演をめぐる被害の相談も受けつけている。

母語ではない言葉で暮らしている人には、第一話はもっと近くに届くかもしれない。賃貸の契約、雇用の契約、病院の同意書、撮影のあとで写真家が差し出す使用の許諾書。ゆっくりとしか読めない言葉で届き、急いでいる誰かが口頭で説明する紙だ。署名の値打ちは、その前にどれだけ読めたかで決まる。時間を求めること、翻訳を求めること、持ち帰る写しを求めることは、失礼ではない。それは、その「はい」があなたのものであるための条件である。

この読みへの反論

ここから、反論をできるかぎり強い形で示す。答えるべきものが四つあり、五つ目は当たっている。

一つ目。これはドラマであり、しかも温かいドラマなのに、この文章は法律の書類のように点検している、という反論だ。ドラマは記録映画を名乗ったことがない。脚本家はどこを創作したかを率直に語っている。人物の合成も、年代の組み替えも、創作された場面も、この形式そのものである。答えは限られている。ここで当てた物差しは、ドラマ自身のものだ。ドラマは第一話を、若い女性が理解しないまま署名した紙を中心に組み立て、それを過ちとして見るよう観客に求めた。この文章は、その物差しを、ドラマが当てるのをやめた回にまで持ち込んだだけである。

二つ目は、もっと強い。警察が毎月雑誌の押収を命じられていた国で、ヌードを載せることは、有名な女性の盗み撮りも含めて、大人が何を見てよいかを誰が決めるのかをめぐる本物の闘いの一部だった。オナシス夫人の写真にこだわる批評家は、望むと望まざるとにかかわらず、検閲官が立っていた場所に立っている、というものだ。これは部分的に認める。検閲との闘いは本物で、雑誌はその正しい側にいた。けれど、検閲官の問いと、その女性の問いは別の問いである。前者は、これを活字にしてよいのかを問う。後者は、私は尋ねられたのかを問う。一つの出版物が、同じ号で前者について正しく、後者について間違っていることはありうるし、「プレイメン」はそうだった。

三つ目は反対側から来る。ドラマはこの反論に、ラジオでアデリーナを攻撃するフェミニスト、マリア・マージという声を与えている。その最も強い形はこうだ。妻たちのための頁がある男性誌も、男性誌であることに変わりはない。主体という言葉は、タッティロがアメリカの記者に答えるために見つけた言葉にすぎない。歴史はヒロインをさらに複雑にする。前述の書評が伝える伝記の記述では、彼女は一九七三年に自分はフェミニズムを信じていないと語り、一九八七年には自分は生まれつきのフェミニストだと語った。この図書室の「「エロティックの用途」は許可ではなく、物差しである」は、裸か品行方正かという線よりも、よい線を示している。オードリー・ロードによるエロティックとポルノグラフィックの区別は、正確に読めば、何を出版してよいかについてではなく、その経験をしている人が自分の感情のそばにいるかどうかについてのものだ。その物差しで量れば、花嫁たちのための頁とオナシス夫人の頁を分けているのは、露骨さではない。それぞれが誰の感情のためにあったのか、である。

一九七一年以降のニューヨークの性産業を描いたドラマ『ザ・デュース』は、この商売を引き継いだ女性がカメラを自分の手に取るのか、それとも同じ仕組みのなかで立ち位置を変えるだけなのかを、繰り返し問いかける。『ミセス・プレイメン』は、その問いに『ザ・デュース』より楽観的に答える。ブリジット・バルドーやジャクリーン・ケネディ・オナシスを盗み撮りした写真を載せた現実の雑誌の歴史は、その問いを開いたままにしており、この文章もそうする。

四つ目の反論は、ジャクリーン・ケネディ・オナシスについての節に向けられる。彼女に声を与えることは、むしろ優しさではないか。記録が沈黙のまま残した女性を、ドラマは語らせたのだから、というものだ。答えは、彼女に何を言わせたかによる。出版者が聞く必要のあったことを語る声は、彼女の口を借りた出版者の声である。ドラマが彼女に、自分は載せられるべきではなかったと言わせていたなら、それは彼女に声を与えたことになっただろう。ドラマが与えたのは、赦しのほうだった。

最後の反論は当たっており、それはこの文章自身に向けられる。この文章もまた、もう尋ねることのできない女性たちを代弁している。タッティロを、写真の女性を、そして痛みを他人に書かれたエルサを。資料が言っていることだけを言い、知っていることと読んでいることの境目を示そうとしてきた。それで問題は小さくなる。消えはしない。

この家が売っているもの、そして自分に課すべき試験

この家は私的な同伴を売っている。欲望を売った雑誌と、同伴を売る家は、別の商売だ。後者が前者の華やかさを借りることも、言い訳を借りることも、あってはならない。けれど、どちらも親密な何かを扱い、どちらも自分は女性の側にいると言いたがる。タッティロは一九七一年に「タイム」にそう語った。この家もそう言う。その言葉の値打ちは、この文章が雑誌に課したのと同じ試験に、どれだけ耐えるかで決まる。

その試験は、事業が女性について何を語るかではない。その取り決めの内側にいる人たちに、何が起きるかである。一人ひとりが、同意する前に、何に同意するのかを知っているか。その「はい」は、このことに限った「はい」で、別の何かへの「はい」になっていないか。やめることに代価を払わずに、やめられるか。そしてそのすべてが、代金を払う側と同じように、働く側にとっても本当か。これは基準であって、自慢ではない。どんな家も、内側から、いつもそれを満たしていると証明することはできない。自分たちの善意を証拠として差し出す家は、タッティロが主体という言葉でしたのと同じことをしている。同意についての問いに、自分についての言明で答えることだ。

女性の欲望を代弁すると主張した雑誌についての文章を、女性に売る商売が書いている。読み手がそのことに気づき、疑いを持ち続けるのは正当だ。そしてもう一つ、この物語の女性たちを実際に助けたものにも目を留めてほしい。仕事、机、たまたま神父だった友人、裁判所、ひとりで読める頁、そして離婚の書類に書いた自分の名前。どれも売り物ではなかった。

この文章が主張していないこと

これは文化批評であって、法律上の判断でも、歴史上の判定でもない。イタリアと日本の法律にふれたのは、同意と出版がどのように枠づけられてきたかを示すためで、誰かに当てはめるためではない。ここにあるのは、法的な助言でもない。

この文章のために作品を視聴して確かめてはいない。記したことは、公表された作品の記録と、批評や詳しいあらすじ紹介、そして歴史についての報道から取っている。場面は引用せずに描写し、引用したのは、名前を挙げた資料そのものが活字にしている言葉だけである。

記述が食い違うところでは、どちらかを選ばずにそう書いた。オナシスが写真を仕組んだという主張もその一つで、二〇一九年の伝記はそう書き、一九七二年の「タイム」の記事にはない。最終話の暴力と、オナシス夫妻とのレストランの場面は、ドラマの場面として扱った。現実の結婚で何が起きたかについても、ジャクリーン・ケネディ・オナシスがあの写真をどう受けとめたかについても、この文章は何も主張しない。

実在であれ架空であれ、誰も診断していない。強姦と暴力は起きたこととして述べ、描写はしていない。アデリーナ・タッティロの家族については、子どもが三人いたという事実のほかにはふれていない。日本のドラマで描かれた女優の名前は、意図して挙げていない。作品をつくった人や出演した人の誰かがこの家を知っている、あるいは推薦しているという含みもない。

持ち帰るための問い

第一話に、何か覚えのあるものを見た人のために、いくつか問いを置いておく。

ペンがもう差し出されていたから署名した紙が、あなたの暮らしのなかにあるだろうか。署名したとき、あなたは何を知っていて、それ以上知らなくていいと決めたのは誰だっただろう。誰かがあなたの望みを代弁するとき、それがパートナーでも、医師でも、雑誌でも、この家のような場所でも、その人はまず尋ねただろうか。それとも、あなたが何を望んでいるかを告げて、あなたがうなずくのを待っただろうか。一度言った「はい」を、今も借金のように返し続けてはいないだろうか。

ドラマの最後、アデリーナは雑誌の主として、避妊薬についての号をまとめている。女性の選択についての頁だ。終わり方としては美しい。そしてその頁を量る正しい物差しは、第一話が教えたものである。頁がどれほど大胆に女性を代弁したかではなく、そこに載った女性たちが尋ねられていたかどうか。

署名する前に、読んでいい。その紙が何を意味するのか尋ねていいし、写しを持ち帰っていいし、一度言った「はい」を取り消していい。尋ねられるべき人は、はじめからずっと、あなただったのだから。

ほかの章から読む

一度言った「はい」は、借りではない。いつでもやめていい、とは誰もが言う。それでも、ほとんど誰もやめない。理由は権利を知らないことではなく、その権利を使う値段にある。値段は設計されたものだ。ならば、下げることもできる。「エロティックの用途」は許可ではなく、物差しであるオードリー・ロードが一九七八年に読み上げた一篇は、望むことへの温かい許可として流通している。初めから読めばそれは逆である。彼女はエロティックなものを物差しとして提案した。ひとたび満ち足りを感じてしまえば感じなかったことにはできない内側の基準であり、その基準に照らせば仕事も結婚もありふれた火曜日も採点の対象になり、そして大半は落第する。いちばん引かれる行が、いちばん柔らかい行である。有償の親密さを売る家による読解。この文章に対してこの家が抱える不都合は、議論のあとではなく先に申告する。ニュージーランド。国民に問われなかった二つの改革十年のうちに、ニュージーランドは性的サービスの労働を非犯罪化し、結婚を開いた。そしてどちらも同じやり方で行われた。抽選で引かれた一議員の法案、党議拘束のない良心の投票、一つの議院、国民投票なし。二つ目の結果に、オーストラリアは全員に問うことで到達した。その問いがいくらかかったかを、この書庫はすでに数えている。比較こそが要点である。そして反論もまた要点である。人口およそ五百万、議院は一つというこの国では、政策の設計そのものよりも、この規模と仕組みのほうが多くの仕事をしているのかもしれない。だとすれば、内容は運べても手続きは運べない。日本は、同じ一つ目の問いを、定義に隙間を残すという形で決めた。法文と違って、隙間は誰の名も挙げず、何を突きつけられることもない。

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