Cinema
『全裸監督』と、ただひとつ彼女のものだった規則
あらゆる規則を侮辱と受け取るセールスマンが閉ざされた業界をこじ開け、ドラマはその規則破りを解放のように見せる。破られて当然の規則も多いが、ひとりの女性が何に、どんな形で、いつまで同意したのかという規則だけは違い、画面のなかでもドラマの制作の場でも、いちばんはっきりした不当な扱いは、まさにそこで起きている。
一九八〇年、札幌。英会話教材の訪問販売をしている男が、まるで売れずにいる。先輩に同行して、売り方を目の前で見せてもらうまでは。アダルトビデオ監督・村西とおるの半生を描いたネットフリックスのドラマ『全裸監督』は、その玄関先から始まる。読むほうも、そこから始めたい。最初の場面で彼が覚えることが、物語の最後まで彼が使いつづける、ただひとつの技だからだ。彼は、売ることを覚える。やがて彼が売るのは、法が禁じる雑誌になり、業界最大手に締め出されたビデオになる。
このドラマはテンポがよく、笑えて、観ていてたいていは楽しい。そして規則については、ひとつのことだけを、何度でもくり返し言う。性にかかわる規則は、どれも偽善だ、と。検閲は偽善として描かれる。警察は金で動く。業界最大手は、ライバルを市場から締め出すために倫理の団体をつくる。物語でいちばん厳しい母親でさえ、自分だけの秘密を抱えている。村西はそのひとつひとつを自分への侮辱と受け取って破り、ドラマはその規則破りを、解放のように見せる。しかも、その多くについて、ドラマの言うことは正しい。
けれど、物語のなかにひとつだけ、ほかと違う規則がある。主人公が最後まで気づかないので、ドラマもそれを、はっきりとは見ていない。それは、性について何を映してよいかという規則ではない。彼女について何を映してよいかという規則だ。ひとりの女性が、何に、どんな形で、いつまで同意したのか。その規則は、国のものでも、会社のものでも、親のものでもない。画面に映る女性本人のものであり、このドラマのなかで本人のものである規則は、それしかない。
この文章が言いたいのは、『全裸監督』で女性たちが受けるいちばんはっきりした不当な扱いが、画面のなかでも、ドラマの制作の場でも、まさにその規則をめぐって起きている、ということだ。そしてそこでは、ドラマがほかの場面で私たちに喝采させてきたのと同じ勢いで、その規則が破られている。ドラマは、傷がどこにあるのかを見せつづけてはいる。そこは認めたい。けれど主人公はその傷の前を素通りしていくし、ドラマの主張もまた、ほとんど最後まで、同じように素通りしていく。
作品について、そして読み進める前に
『全裸監督』は二つのシーズンからなり、どちらも全八話。第一シーズンは二〇一九年八月に、第二シーズンは二〇二一年六月に配信された。総監督は武正晴で、内田英治と河合勇人が監督に加わっている。原作は、本橋信宏による村西とおるの評伝だ。村西を山田孝之が演じ、厳格な母に育てられた女子大生・佐原恵美を森田望智が演じる。村西をこの商売に引き入れるチンピラの荒井トシを満島真之介が、ビニ本の時代に村西と組み、やがて会社を支えるプロデューサーになる出版社の社長・川田研二を玉山鉄二が演じ、第二シーズンでは、元美容部員で業界に入ってくる千葉ミユキを恒松祐里が演じている。
このドラマは、事実と創作を交えた半ば虚構の物語だ。登場人物の何人かは実在の人をもとにしているが、その扱いはまちまちで、本名のまま出てくる人もいれば、別の名前に置き換えられている人もいる。この文章で村西と書くとき、それは山田孝之が演じる登場人物のことを指す。実在の村西とおるの人生については何も主張しないし、ほかの誰の人生についても、このドラマの制作をめぐって公に報じられたこと以上は書かない。
実在の名前のうち、ひとつについては、先に書いておかなければならない。村西は恵美に芸名を与える。ドラマのなかで彼が与えるその名前は、当時、実在の女優が使っていた芸名で、その人は、ドラマがつくられるずっと前に公の場を離れていた。つくり手が本人に連絡を取っていなかったことが報じられ、日本では批判が出た。なぜ批判されたのかは、あとで書く。この文章は、その名前を使わない。ドラマの人物を、男に名前を付け替えられる前の名前で、恵美と呼ぶ。
ほかにも、いくつか断っておく。この文章は、ドラマそのものを観て書いたものではない。出来事は、事典類や公刊された批評が書いているとおりに記し、登場人物のせりふは、言い換えるか、事典類が伝えている形で記すにとどめている。そしてこの文章は、結末を含めて二つのシーズンの全体にふれる。規則をめぐるこのドラマの主張に決着がつくのが、結末だからだ。結末が始まるところで、もう一度そう断る。性的な場面を詳しく書くことはしない。ドラマが性を撮っているところでは、ひとことでそう書くにとどめる。第二シーズンには、自ら命を絶とうとする場面がある。この文章はそのことを一度だけはっきり書き、どのようにしてかは何も書かない。
セールスマンと、最初の商品
商売より先に、男のことを。ドラマは村西がどこから出発したのかを描いていて、そこは正確に見ておきたい。社内でいちばん売れるセールスマンになった矢先に、会社は倒産する。家に帰ると、妻がほかの男といる。妻は夫婦生活への不満を告げ、子どもたちを連れて出ていく。
最初に出てくるのが誰の規則なのか、見てほしい。検閲官も警官もライバルもまだ出てこないうちに、物語のなかで最初に自分のことを自分で決めるのは、ひとりの女性だ。そして彼女が決めるのは、出ていくということだ。彼はそれに言い返せないし、それを破ることもできない。このあとに続くことの多くを、もう二度と自分に向けて規則をつくらせまいと決めた男の歩みとして読むこともできる。それはこの文章の読み方であって、ドラマがそう言っているわけではない。あとで取り上げるように、ある批評家は、もっと先まで踏みこんでいる。
それから、酒場で村西は、ひとりのチンピラを窮地から救う。荒井トシは、ラブホテルでひそかに録った盗聴テープを売っている。聞かれているとは知らない恋人たちの声だ。ドラマはこれを、軽い喜劇として描く。けれど、ここでは足を止めたい。ドラマ自身の語りでは、この商売はここから始まるからだ。『全裸監督』でこの商売が最初に扱う商品は、誰にも尋ねられなかった人たちの親密さなのだ。
村西はその話術を、ビニ本に向ける。北海道じゅうに書店を広げ、出版社の川田と組んで、無修正の雑誌を自分たちの手で作りはじめる。地元の警察は賄賂で黙らせていたが、やがて警視庁の刑事・武井に逮捕される。セールスマンは売るものを見つけ、同時に最初の敵とも出会った。何を映してよいかという規則だ。
あらゆる規則が侮辱だった
出所すると、ビデオデッキが普及している。村西はトシ、川田と新宿に「サファイア映像」を立ち上げ、たちまちこの業界を牛耳る男とぶつかる。業界最大手の社長・池沢は、彼らの作品を締め出し、自主規制の団体までつくって、彼らを市場から追い出そうとする。
規則をめぐるドラマの主張が、いちばんはっきりして、いちばん説得力をもつのがここだ。村西の行く手をふさぐ規則が、ひとつ、またひとつと、うたい文句とは別のものだったとわかっていく。倫理の規範は、市場を守るための道具だった。法を守らせるはずの警察は、守らせないことで金を受け取っていた。検閲そのものが、偽善として描かれる。それに対して村西はうるさく、下品で、しつこい。そして相手と並べると、ほとんど正直者に見える。彼の反逆が解放だと、ドラマが論じる必要はない。彼が誰に逆らっているのかを見せるだけで足りる。
多くの場面で、ドラマは正しい。そうでないふりをするのは不誠実だろう。最大手が競争相手を締め出すために運営する倫理の団体は、良心の看板を掲げた談合にすぎない。こういう規則を蹴飛ばす男を眺めるのは楽しいし、ドラマはそう楽しめるようにつくられている。
「誰も規則を破っていない。」という文章は、この業界の底を流れている手法を描いた。それは村西の手法とは正反対のものだ。法に逆らうのではない。条文が効くために必要な要素を、はじめから存在させない仕組みをつくるのだ。そしてあの文章は、そうした工夫のすべてが、罪が成り立つかどうかという問いに注がれていて、誰かが傷ついたかどうかという問いには、ほとんど何も向けられていない、と指摘した。『全裸監督』が描くのは、もっと古くて騒々しいほうの手法、扉を蹴破るほうの手法だ。けれど、二つの手法には同じ死角がある。規則を破ることも、規則をすり抜ける仕組みをつくることも、どちらも国とのやりとりだ。どちらの場合も、カメラの前に立つ人は、そのやりとりの当事者ではない。
だから、このドラマに出てくる規則のひとつひとつに向けるべき問いは、それが偽善かどうかではない。たいてい偽善なのだから。問うべきは、それが誰の規則か、だ。検閲は国のものだ。倫理の規定は、談合する会社のものだ。やがて出てくる母親の反対は、母親のものだ。どれも、画面に映る女性のものではない。そして物語のなかで女性のものである、ただひとつの規則こそ、あらゆる規則を侮辱と受け取る男に、いちばん見えにくいものなのだ。
恵美の「はい」
そこへ、恵美がサファイア映像を訪ねてくる。厳格な母に育てられた女子大生で、自分が、母と妻子ある男との不倫から生まれたことを知っている。事典類は、彼女が出演を望んだ理由として、留学のためのお金を稼ぎたいという思いを挙げている。ドラマの語るところでは、彼女は自分で望んで、やって来る。
この文章は、彼女の「はい」を、彼女のものとして読む。ドラマも、その「はい」をはっきり彼女自身のものとして描いている。その反対に、望んでいると自分で言う若い女性の言葉を、本気ではないと本人に代わって決めてしまえば、それ自体が、他人が彼女に課す、もうひとつの規則になってしまう。語られている物語を読むかぎり、彼女の「はい」が誰か別の人のものだったと考える理由はない。
母親は発売の差し止めに動き、作品は締め出される。ドラマは母親を、もうひとつの障害として描く。ここは、ドラマの描き方が正しいと認めておきたい。娘が選んだことに母親が反対しても、それは娘の規則ではない。しかもドラマは、この母親にも自分だけの秘密をすでに与えている。恵美は、受け取った出演料を返して、村西のハワイでの撮影資金にあてる。撮影は村西の現地での収監に終わり、そのあいだに彼女は現役の女優としてテレビに出て、母と決裂し、保釈金集めを支える。ドラマはそれを、若い女性が自分の人生を自分の手でつかんでいく姿として描いていて、その多くは、まさにそのとおりだ。
テレビで彼女は性について率直に語り、作品は大ヒットする。ドラマが彼女に与えたもののなかで、いちばんいいものだと思う。なぜそう思うのかを書いておきたい。村西は太平洋の向こうで収監されている。彼女に指図する人は、誰もいない。言葉は彼女自身のものだ。ひとりの女性が、性について自分がどう考えているのかを、公の場で、自分の声で語り、それを国じゅうが聞いている。ドラマがほかに彼女に何をしようと、このことだけは彼女の手に残している。
では、最初の「はい」のまわりに誰が立っていたのかを見てみる。彼女が訪ねた男は、作品を監督する男だ。自ら相手役を務めるので、作品のなかの相手でもある。全裸の監督という題名は、身も蓋もなく、まさにそのことを言い当てている。カメラのうしろにいるはずの男が、カメラの前にも立っているのだ。彼は、彼女に出演料を払う男でもある。そして、彼女に名前を与える男でもある。その四つの立場をすべて占めている相手に差し出された「はい」も、「はい」であることに変わりはない。けれど「はい」には、もう半分がある。それを終わらせる「いいえ」だ。そういう取り決めのなかで、その「いいえ」を誰に向かって言えばいいのかは、簡単には答えられない。語られている物語が目を向けるのは、その問いよりも、母親のほうだ。
名前は何のためにあるのか
彼は彼女に名前を与える。ドラマのなかで、それはこの商売の土台となる行為のひとつで、一度きりでは終わらない。第二シーズンでは、ミユキにも芸名を与える。芸名には、本当に良い働きもある。女性の仕事と、それ以外の暮らしとのあいだの壁になってくれるのだ。知られることが大きな代償を伴う商売では、その壁は大切だ。けれどドラマは、芸名のもうひとつの働きも見せている。
芸名とは、女性と商品が別々の道を歩き出す地点のことだ。名前を持つのは商品のほうだ。商品は印刷され、宣伝され、複製され、売られる。そして彼女が行かない場所へ行き、彼女が去ったあとも残る。事典類によれば、第二シーズンでミユキがこの世界に飛びこむきっかけは、街で川田から恵美の作品を手渡されたことだった。本人の手を離れてすでに出回っていた恵美の映像が、次の女性を呼びこむ売り文句になっている。
それ自体に、悪意があるわけではない。映像とはそういうものだ。けれどそれは、ひとりの女性が出演に同意したとたん、世界に彼女が二人いることになる、ということでもある。そして「いいえ」と言えるのは、そのうちのひとりだけだ。ドラマのなかで女性たちが受ける不当な扱いは、その二人のあいだの隙間で生まれる。彼女が同意したよりも遠くまで行ってしまう映像と、それがたどり着いた先を抱えて生きていくことになる本人とのあいだで。
奈緒子を追ってきた複製
このドラマでいちばんはっきりした例は、恵美のものではない。物語の中心にはいない、ひとりの女性のものだ。そして規則をめぐるこの物語の主張は、そこで裏返る。
奈緒子は、サファイア映像の最初の作品に出演する。そのあと業界を離れ、ふつうの勤め先に就職する。やがて、村西がハワイで収監され、保釈金が必要になると、トシはその最初の作品のマスターテープを、無断でヤクザの古谷に渡してしまい、その金を銀行からの借金だと偽る。無修正の複製、いわゆる裏ビデオが出回る。それが奈緒子の身にも及び、彼女は新しい職を失う。トシは古谷に、販売をやめてくれと頼む。古谷は聞き入れない。
これが何なのかを、はっきり言っておく。運が悪かったのでも、行き違いがあったのでもない。あの作品に出演したとき奈緒子が何に同意したにせよ、それはこれではなかった。マスターからダビングされ、ヤクザの手で、法が禁じる形で、彼女が業界を離れたあとに売られる複製。彼女の映像は、彼女の同意なしに売られ、それが彼女の暮らしを奪った。ドラマが見せているのは、そういうことだ。
そして、その複製がどういうものかに目をとめてほしい。無修正、つまりモザイクがない。ドラマは始まりからずっと、モザイクを取り払うことを解放のように感じさせてきた。偽善者たちに投げ返す、セールスマンの侮辱として。ここでは同じ行為が、同じ種類の映像に向けられて、誰の偽善とも無関係なひとりの女性の暮らしを壊す。モザイクは、国の規則に従うためのものだった。奈緒子が同意したものは、彼女の規則だった。前者を破ることが、このドラマの考える自由だ。後者を破ることは、まったく同じ身ぶりであり、それが何を奪うのかを、ドラマは正確に見せている。
誰にもそれを止められないことにも、目をとめてほしい。始めたトシが頼みこんでも、断られる。複製がいったん出回ってしまえば、それを放った男にも、彼女以上の力はない。これは、この文章の結論にかかわってくる。奈緒子の立場にいる女性を守るものがあるとすれば、それは複製が存在する前に働くか、複製を止める力を彼女自身の手に渡すものでなければならない。
「カメラが見ているもの。」という文章は、このドラマが描く業界について、出演者に職業上の立場を与えるのと同じ、人に見られ、知られるということが、辞めるときの代償を重くする、と書いた。奈緒子の物語は、その一文をそのまま筋書きにしたものだ。彼女は去った。映像は去らなかった。
断られた台本と、去っていった人たち
ここから先は、ドラマの結末にふれる。
第二シーズンは一九九〇年に始まる。村西は川田と決裂し、「ダイヤモンド映像」を設立して、衛星放送に巨額をつぎこむ。彼の心は恵美から、内気な新人のミユキへと移っていく。
恵美は、衛星放送の第一作のために彼が用意した台本を読み、彼の心が自分から離れたと感じて、出演を断る。役はミユキに回る。ドラマはこれを失恋として描き、実際それは失恋だ。同時に、それは拒否でもあり、その拒否は尊重される。彼女は「いいえ」と言い、その役を演じない。ただ、ドラマがこの拒否にどんな理由を与えているかを見てほしい。理由は、彼だ。彼の心が離れたと感じたから、彼女は断る。この物語では、彼女の「いいえ」さえ、彼の物語の一章として語られる。
やがてバブルがはじけ、衛星放送の事業で、彼は深みに沈んでいく。彼は、奈緒子の複製を売ったあの古谷から金を借り、ひそかに、自分の手で裏ビデオをつくりはじめる。そして、女優やスタッフを、商品にすぎないと罵る。彼らは去っていく。ひとり残らず。川田とトシとも縁が切れる。
このことについて、二つ書いておきたい。大事なのは二つめのほうだ。一つめは、ふたつのシーズンの呼応だ。第一シーズンで奈緒子の暮らしを奪ったもの、法が禁じる形の複製は、第二シーズンでは、主人公自身の商売の計画になっている。ドラマは誠実にも、それを彼自身に跳ね返らせている。二つめは、全員が去っていくことだ。それはこのドラマのなかで、彼のカメラの前とうしろにいた人たちが、そろってひとつの規則をつくる場面であり、その規則は「いいえ」だ。ドラマはそれを、彼の転落として語る。けれど、彼らの決断として語ることもできたはずだ。商品と呼ばれた人たちが、そろって、自分たちは商品ではないと決める場面として。
戻ってきた人
仲間がみな去ったあと、恵美が戻ってくる。もう一度立ち上がるよう、彼を励ましに来るのだ。彼の心は動かない。恵美は自ら命を絶とうとし、一命を取り留める。
この文章がそのことについて書くのは、それだけだ。ドラマは代償を画面に映していて、そのことは認めなければならない。この物語の女性たちは、彼の作品の代価を、仕事で、家族で、そしてほとんど命そのもので払っていて、ドラマはそこから目を逸らさない。見ておきたいのは、彼の物語のなかで、彼女の役回りがどう終わるかだ。以前、彼女は自分自身の拒否を携えて、彼の前に立った。最後にやって来るとき、彼女が携えているのは、取引でも拒否でもない。彼を気にかける心だけだ。それを差し出された男には、もう誰かを気にかける余力が残っていない。
恵美は母のもとへ帰る。数年後、彼女はイタリアで美術を学んでいる。これがドラマの描く彼女の結末で、静かだが、彼女の物語にぴたりと合っている。彼女が最初に村西のところへ来たのは、留学のためのお金を稼ぐためだった。そして受け取った出演料を、彼のハワイでの撮影のために返した。最後になって、ドラマは、彼女が求めていたものを彼女に与える。世界の反対側で、業界の外で、彼から遠く離れたところで。彼女の規則は、結局、去ることによって守られる。一九七〇年代から八〇年代のニューヨークの性産業を描いたアメリカのドラマ『ザ・デュース』は、中心にいる女性、路上で客をとって暮らしていたキャンディを、カメラのうしろに回らせ、自分の作品を撮らせた。『全裸監督』が恵美のために用意した答えは、距離だった。
ほかの人たちの行く末は、手短に語られる。トシは古谷を殺し、その直後に古谷の手下に殺される。刑事の武井は収賄で逮捕される。川田は、かつての仲間と、ふたたび作品づくりを始めている。巨額の借金を抱えた村西は、ミユキと暮らしている。
最後の場面の主役は、彼だ。渋谷で、許可を取らないまま撮影している。まだ規則を破っているのだ。警官たちが彼を取り押さえる。押さえつけられたまま、彼はカメラに向かって叫ぶ。死にたくなったら下を見ろ、俺がいる、と。いちばん下にいるのは自分だ、どんな人でも、下を見れば自分が見つかる、というわけだ。ばかばかしくて、どこか胸を打つ。そしてそれが、このドラマの最後の言葉になる。けれど、もう一度見てほしい。それもまた、ひとつの売り口上なのだ。彼は自分の破滅を、見知らぬ人たちへの慰めとして、レンズ越しに差し出している。同じシーズンのなかで、じかに彼を訪ねてきたただひとりの人には、応えなかったのに。
もし、この最後のせりふが呼びかけている気持ちが、あなた自身や身近な人のそばにあるなら、それは文章ではなく、人と話してほしいことだ。厚生労働省の「まもろうよ こころ」には、悩みや不安を抱えて困っているときに、電話やチャットで相談できる窓口がまとめられている。
ドラマが変えなかった名前
ここで、物語の外に出たい。この規則をドラマがいちばん大きく破ったのは、筋書きのなかではないからだ。
二〇一九年に第一シーズンが配信されると、日本では、公の場を離れて久しい実在の女性の芸名を、本人に連絡を取らないままヒロインに与えたことに、批判が出た。その年の八月、ある女性向けのウェブ媒体がネットフリックスにこの点を尋ねると、返ってきた答えは、村西と同様に彼女本人も制作には関与しておらず、あくまで本橋信宏の原作に基づいた作品であり、権利関係についてはこれ以上話せることはない、というものだった。
二〇一九年九月、井戸まさえは「現代ビジネス」で、この答えが語っていないことを書いた。ネットフリックスは村西とも彼女とも接触しておらず、彼女の「忘れ去られる権利」について、そもそも配慮が必要だという認識もない、と。井戸はさらに、ドラマそのもののなかに、「解せない」ものを見つけている。彼女が出演したテレビ番組の、実在の司会者たちは、ドラマのなかでは仮名にされているのだ。すでに引退していたひとりの男性もふくめて。つくり手は、名前の変え方を知っていた。それでも、彼女の名前は変えなかった。
井戸は、その女性がその後に何をしてきたかも伝えている。一九九四年に引退し、その後、「あの人は今」のたぐいの消息記事や、自分が出演した作品の再版について、プライバシーと肖像権の侵害だとして、出版社や映像ソフトの販売会社を相手に民事訴訟を起こし、勝訴している、と。
それを、ドラマが語る物語の横に置いてみる。物語のなかでは、業界を離れた女性が、同意したことのない複製のせいで新しい職を失い、誰にもそれを止められない。物語の外では、業界を離れ、そのあと自分について公にされたものをめぐって裁判まで起こしてきた女性の、かつての芸名が、世界じゅうに配信されるドラマのヒロインに与えられた。報じられたところでは、つくり手は本人に連絡を取っていなかった。ドラマは奈緒子の物語を語りながら、その制作の場では、実在の人に対して、それとよく似た形のことをしていたのだ。
「『ミセス・プレイメン』、署名は同意の代わりにならない」という文章は、このドラマに短くふれ、同じ問題の日本版だと書いた。欲望を扱う商売についての物語が、ひとりの女性に尋ねることなく、その名前を使った、と。そしてあの文章は、その名前を繰り返さなかった。それは正しかったし、この文章もそれに倣っている。よく読むと、このドラマは、自分に向けられるべき異議を、自分の筋書きのなかにすでに抱えている。これは、男が与える名前と、同意を越えて生きのびる映像についての物語であり、その制作の場で、その両方がくり返された。
彼女がこのドラマをどう思ったのかを、この文章は推し量らない。
このドラマが批判されたこと
二〇一九年に出た、ほかの読み方を三つ書いておきたい。どれも、この文章が考えてきたことの一部を、はっきり言葉にしているからだ。
井戸の異議は、名前にとどまらなかった。井戸によれば、ドラマは村西を老若男女を問わないヒーローとして位置づけ、「性革命」を起こして、「それまで抑圧され、受身に徹してきた女性たち」を、性をめぐる呪縛から解き放つ立役者として描いている。これは井戸による要約だが、このドラマがいちばん大きく美化しているものを、正確に言い当てている。セールスマンの規則破りが、女性たちの解放として差し出されているのだ。
岡田育は、二〇一九年十月の「ニューズウィーク日本版」で、出発点にさかのぼった。岡田によれば、浮気した妻に罵倒されてから、彼はポルノの販売と制作に、とりわけ法の許さない撮影に、執念を燃やすようになる。そして、「欲望の解放について饒舌に語り倒す村西が、自身の後ろ暗い復讐心、その奥に読み取れるミソジニー(女性憎悪)について内省することはない」。厳しい読み方であり、批評家の読み方だ。それでいて、ドラマの最初の場面を読み解く手がかりにもなる。彼が破れなかった最初の規則は、ひとりの女性のものだった。
三つめは、批評家ではなく解説者によるもので、いちばん役に立つかもしれない。西田宗千佳は二〇一九年八月、ネットフリックスがなぜこのドラマをつくれたのかを解説する記事のなかで、この会社は合意の得られない表現を相当慎重に選んでいると書き、このドラマでそれにあたるのは「女性の意思と搾取の問題」だと名指した。アダルトビデオ業界を性差別や搾取と切り離すのは難しい、と彼は書く。ドラマはそれを漂白して、なかったことにしたわけではない。主人公のまわりの描き方を慎重に選ぶことで、そうした問題から生まれる嫌悪感や不快感をうまく取り除き、別の形にし、主人公をより主人公らしく描き、物語として気持ちよく観られるように、はっきり脚色している、と。記事は、つくり手の技を解説するものとして読める。同時に、この文章がたどってきたことの、正確な描写でもある。女性の意思は、ドラマのなかにある。ただ、物語の気持ちよさを損なわないように配置されている。
ドラマが脇に置いたものを、政府自身の説明が補っている。二〇二二年に成立した、アダルトビデオの出演者を守るための法律は、その第一条で、こうした作品の制作と公表によって、出演者の心身と私生活に、将来にわたって取り返しのつかない重大な被害が生じるおそれがあり、また現に生じている、と述べている。第三条は、撮影にあたって出演者に性行為を強制してはならない、と定めている。内閣府男女共同参画局は、親切なふりをして近づいたり、アイドルになりたい気持ちを利用したりする出演被害が起きている、と説明している。ドラマが選んだのは、自分で望んでやって来た女性の物語だった。それは本当にありうる物語だ。そして、業界が自分について語ってほしい物語でもあるのだろう。内閣府が書いているようなやり方で引きこまれた女性たちは、このドラマの主題ではない。
時間でできた法律
その法律は、第二シーズンの一年後に生まれた。二〇二二年六月十五日に成立し、二十三日に施行されている。内閣府はこれを、性をめぐる個人の尊厳を守るための法律だと説明している。『全裸監督』と並べて読むと、この法律の性格がよく見えてくる。何についての法律ではないのかが、はっきりするからだ。
これは、何を映してよいかについての法律ではない。その決まりは、契約と日程についてのものだ。制作する側は、契約書と、その内容を説明する書面を渡して、説明しなければならない。それらを渡してから一か月は、撮影してはならない。出演者は、撮影も、嫌な行為も断ることができ、公表の前に、撮影された映像を確かめることができる。すべての撮影が終わってから四か月は、公表してはならない。出演者は、撮影の前でも、公表までのあいだでも、公表から一年のあいだでも、無条件に契約を解除できる(施行から二年のうちに結ばれた契約では、公表から二年。三年目に結ばれた契約には、別の経過措置がある)。そして、契約がないのに公表されている場合や、契約を取り消したり解除したりした場合には、販売や配信の停止を求めることができる。
この一覧を、ドラマを思い浮かべながら読み直してみてほしい。どの項目も、ドラマに見えなかったただひとつの規則に属している。映像に何が映っているかという、国の関心にかかわる項目は、ひとつもない。どれも、映された本人が、自分の映像が、いつ、どう扱われるのかを決める力にかかわっている。二〇二二年の法律が、一九八〇年代を舞台にした物語にさかのぼって届くことはないし、この文章は、それを誰にも当てはめない。それでも奈緒子の物語の横に置くと、最後の二つの項目は、ほとんどそれへの答えのように読める。
そして、この法律が何でできているのかも見てほしい。時間でできているのだ。撮影の前に一か月。公表の前に四か月。考えを変えるための一年。ドラマは、その反対のものでできている。主人公は玄関先で商売を覚えた。そこでは売り買いが、ペンを握った人がひと晩考える前の、数分のうちに決まる。このドラマの大きな楽しみのひとつであるそのテンポも、セールスマンのテンポだ。訪問販売で契約した人には、法律で八日間が与えられている。埼玉県の消費生活支援センターの言葉を借りれば、「頭を冷やして冷静に考え直す期間」だ。英会話教材は人ではないし、この比べ方は、誰にとっても気持ちのいいものではない。それでも比べるのは、このドラマが玄関から始まるからだ。急いで取りつけられた「はい」への答えは、どちらでも同じだ。時間と、その「はい」を取り消す力。
この法律が実際にどれほど機能しているかは別の問いであり、この文章はそれに答えようとはしない。言いたいことは、もっと小さい。ドラマは、あらゆる規則をひとつの種類のもの、破られるべき規則として扱う。法律はそれを二つに分け、画面に映る人のものである半分を、その人の手に返した。
開かれていることと、自由であること
このドラマがいちばん深いところで美化しているのは、どこにも言葉にされていないのに、どこでも前提にされている図式だ。性をより多く見せる社会ほど、女性はより自由だ、という図式。モザイクに対する村西の戦いは、女性たちのための戦いとして差し出され、テレビで率直に語る恵美は、その証拠として差し出される。
「日本はなぜセックスレスを数えるのか。その数字が隠すもの。」という文章は、別の文脈で、この図式に釘を刺していた。このドラマにそのまま当てはまる一文で。かつて性を公然と見ていた国が、だから女性が自由な国だったわけではない、と。『全裸監督』は、その証拠を自分のなかに持っている。恵美がテレビの前の観客を得たのと同じ年月に、奈緒子の映像は、取り戻しようのない複製になって出回った。開かれているというのは、映像についての事実だ。自由というのは、そこに映る人についての事実であり、それは、自分の映像に何が起きるかについて、その人に何か言えることがあるかどうかにかかっている。
これは、日本だけの話ではない。女性を映した映像を誰の規則が決めるのかという問いは、そういう映像がつくられるところならどこでも問われているし、放っておいてうまく答えられた場所など、どこにもない。ここに固有なのは、法のかたちだけだ。何を映してよいかに長く関心を寄せてきた国の法が、二〇二二年に、映されるものが誰のものかについて、別の規則を書いた。
このドラマが描く年月を覚えている日本の読者には、それが愉快な騒動として、あらためて売り出されるのは、奇妙に見えるかもしれない。ほかの国から日本に来た読者にとっては、このドラマが、この業界を知る最初の入り口だったかもしれない。世界じゅうに配信された作品だからだ。どちらにしても、知っておいていいことがある。これは楽しんで観られるようにつくられた作品であり、この作品が描いた国は、その後、作品から抜け落ちていたただひとつの規則を、法律に書きこんだ。
この読み方がまちがっているかもしれない理由
この読み方には、少なくとも五つの弱点がありうる。そのうち二つは、本気で考えなければならない。
第一に、この文章は、喜劇仕立ての犯罪劇に、同意についての論文であることを求めているのかもしれない。『全裸監督』は、ひとりの男とひとつの時代の物語だ。セールスマン、好景気、バブル、そして転落。女性たちの物語として語られてはいないし、彼の作品が彼女たちに何を払わせたのかを、批評家たちが時に認める以上に正直に見せている。西田の説明は、ある意味ではほめ言葉だ。問題は漂白されてはいない。物語を損なわない形に置き換えられているだけだ。この見方からすれば、ドラマは男についての物語にできることをしていて、この文章は、ドラマ自身が差し出した証拠から、自分の主張を組み立ててきた。それは、証拠がそこにあると認めることでもある。その多くは認めるべきだろう。この文章の異議は、ドラマが代償を隠していることではない。代償を防げたはずの規則を、破られて当然の規則と見分けられないことにある。
第二に、こちらのほうが深刻だ。恵美を、まわりの男たちの規則を通して読むことは、ドラマが彼女に与えたただひとつのものを、取り上げてしまうかもしれない。彼女は選ぶ。母に逆らう。テレビで、国じゅうに向かって、自分の言葉で語る。台本を断る。そして去り、よそで自分の暮らしをつくる。彼女を、彼の規則破りが傷を負わせる場所としてばかり読めば、意志をもったひとりの女性を、ただの犠牲者に変えてしまいかねない。この文章は、彼女の「はい」を彼女のものとして、彼女の拒否を彼女のものとして読むことで、その線を守ろうとしてきた。けれど危うさは本物で、この文章のなかよりドラマのなかの恵美のほうが自由だと感じる読者は、まちがっていない。
第三に、実名への異議は、つくり手に対して公平でないかもしれない。ドラマは、公刊された評伝を映像化したものだ。公の経歴は公の歴史の一部であり、実際の出来事を描くドラマは、いつも実名を使っている。ネットフリックスの答えも、原作を指していた。これには、ドラマ自身が答えている。司会者たちの名前を変えたつくり手は、彼女については別の選択をした。
第四に、二〇二二年の法律を一九八〇年代の物語の横に置くのは時代錯誤であり、時代錯誤は、いまの時代をよく見せてしまう。そのとおりで、だからこの文章は、法律をドラマに当てはめず、横に置くだけにとどめている。ドラマのなかの誰も、その法律に縛られてはいなかったし、それを知らなかったことで、ドラマを責めることはできない。この比較が示しているのは、ドラマにできなかった区別は、つけようと思えばつけられたということだけだ。その後、実際につけられたのだから。
第五は、この文章自身に向けられる。この文章は、ひとつの節を割いて、ひとりの実在の女性の芸名と、引退と、裁判について書いてきた。そして、この文章もまた、本人に連絡を取ってはいない。批判していることを、小さな規模でくり返しているのだ。できる答えは、守ろうとしてきたことしかない。ドラマの制作をめぐって公に報じられたこと以上は、彼女について何も書かないこと。彼女の気持ちを推し量らないこと。そして、名前を書かないこと。それは範囲を狭めることであって、無罪の証明ではない。
この図書室が、ここから受けとるもの
三つのことを。どれも、規則ではない。
何を映してよいかという規則と、彼女について何を映してよいかという規則は、別の規則だ。前者は偽善でありうるし、それを破ることが、本物の自由になることもある。後者は決して偽善ではない。それを決めるのは、それが守っている当の本人だからだ。二つを見分けられない物語は、遅かれ早かれ、まちがったほうに喝采する。
「はい」には形がある。どんな形で、どこまでで、いつまでなのか。そしてそれは、それを差し出した人のものだ。このドラマのなかの不当な扱いは、ほとんどの場合、最初の「はい」にはない。それより長く生きのびる複製に、それを越えていく使い方に、本人が去ったあとも残る名前に、ある。
名前を与えたからといって、その名前を好きにしていいわけではない。ドラマのなかで、村西は名前を配る。ドラマの制作のなかで、ひとつの名前がもう一度配られた。誰かに仕事のための名前を与える人は、その名前がどこへ行き、いつまで残るのかについて、その人に借りを負う。
だから一度だけ、あなたに。もしあなたが『全裸監督』を観て、楽しんだのなら。その楽しさは、あなたへの判決ではない。くだらない規則を蹴飛ばす人を眺めるのには、本物の快感があるし、このドラマには、それを味わわせるだけの力がある。蹴飛ばされて当然の規則も、たしかにあった。持ち帰ってほしい問いは、それが誰の規則だったのか、それだけだ。そして、もし誰かが、あなたの規則を、自分の欲しいものとのあいだに立つ障害のひとつとして扱ったことがあるなら。あなたの「いいえ」、あなたの限度、ここまでなら見せていいと同意したあなた自身の姿、あなたの名前を。このドラマが見せていて、主人公が最後まで学ばなかったことを、知っておいてほしい。それは障害ではなかった。あなたのものだった。そしていまも、あなたのものだ。
これは、ひとつのドラマについての読みだ。架空の人物も、実在の人も、誰も診断しない。ドラマがもとにした実在の人たちについては、その制作をめぐって公に報じられたこと以上は何も書いていない。どんな関係や仕事についての助言でもなく、法的な助言でもない。
手もとに残しておく問い
誰かがあなたのために、あるいはあなたの名において規則を破ったとき、それは誰の規則だったのだろう。
一度、ある形で同意したことが、同意したよりも遠くまで行ってしまったことはあるだろうか。いま、それを止められるのは誰だろう。
あなたの暮らしのなかで、破られて当然の規則はどれで、ただあなたのものである規則はどれだろう。
大事なことに「はい」と言うとき、それを取り消せるためには、何が必要だろう。
職場で、家族のなかで、誰かとの関係のなかで、自分で選んだのではない名前を与えられたことはあるだろうか。あなたがその場にいないとき、その名前はどこへ行っているのだろう。
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