EN
メニュー

Cinema

『愛の渦』と、あの部屋に残してきた自分

  • その部屋だけの同意
  • 倫理
  • スクリーンの女性
  • 同意
  • 嫉妬

六本木のマンションで代金を払って過ごす一夜は、前もって合意された性と、あとに何も残らないことを約束する。けれど夜が明けるころ、部屋は締め出すはずだったものでいっぱいになっている。来る前に、誰でも断れるのかと尋ねた女子大生は、その権利を、部屋の決まりが届かないところまで手放さない。

夜が始まる前、ひとりの男が、広告を見て申し込んできた眼鏡の女子大生に決まりを説明している。彼女が尋ねることは、ひとつだけだ。気に入らない相手がいたら、断ってもいいのか。いい、と男は答える。ただ、断ってばかりいたら、何のためにここへ来たのかという話になる、とも言い添える。

小さなやりとりだが、この映画のすべてが、そこに詰まっている。彼女が尋ねた権利は認められる。そしてそのすぐあとに、同じ口から、その権利を使うことの値段が告げられる。告げているのは、彼女がその権利をあまり使わずにいてくれることで商売が成り立つ男である。

そして、ある深夜。東京のどこかで、働いていない若い男が、なけなしの二万円を引き出し、電話で教えられた道順をたどって六本木のマンションへ向かっている。彼をふくめた八人の見知らぬ男女が、午前零時から五時までを、バスタオル一枚でその部屋に集まって過ごし、合意した相手と下の階へ降りていく。三浦大輔の『愛の渦』は、その一夜と、一夜を簡単なものにしておくはずだった決まりごとの物語である。

この部屋が売っているのは、前もって合意された性と、そのあとに何も残らないことだ。名前は名乗らない。電話番号は交換しない。代金はみな払い済みで、終わりは五時と決まっている。けれど部屋は、それ以外のものを締め出しておくことができない。ほどなく部屋は、この仕組みが玄関の外に置いてくるはずだったもので満ちていく。品定め、陰口、嫉妬、拍手、言い争う恋人たち、そして誰かを好きになってしまった若い男。題名はそれを、愛の渦と呼ぶ。愛を締め出すために作られた部屋が、愛でいっぱいになるのだ。

この文章が考えたいのは、こういうことだ。店長のあの答えこそが、この部屋で同意をめぐって本当に働いている方針なのだ。断る権利はある。ただし値段がついていて、その値段を決めたのは、権利が使われないことで得をする側だ。映画はその権利を一夜のあいだ追いかけ、さらにその先、決まりの届かない場所にまで連れていく。こういう部屋で女性が合意したことは、その部屋のものだ。そこで起きたどんなことも、決まりも、夜も、ほかの誰かの気持ちも、それを部屋の外までついてこさせることはできない。そして、どの自分を連れて部屋を出るかは、彼女が決めることである。

作品について、そして読み進める前に

『愛の渦』は、二〇一四年三月一日に公開された日本映画である。三浦大輔が、自身の主宰する劇団ポツドールで二〇〇五年に初演した同名の戯曲をもとに、自ら脚本を書き、監督した。戯曲は二〇〇六年、第五十回岸田國士戯曲賞を受けている。この年の受賞作は二作あり、もう一作は佃典彦の『ぬけがら』だった。映画の上映時間は百二十三分で、十八歳未満は観ることのできない区分で公開された。同じ年の七月には、ニューヨークのジャパン・ソサエティが開く映画祭、ジャパン・カッツでも上映されている。

出演は、ニートという役名で呼ばれる若い男に池松壮亮、女子大生に門脇麦、フリーターに新井浩文、サラリーマンに滝藤賢一。一晩じゅう部屋を見張る店員を窪塚洋介が、店を仕切る店長を田中哲司が演じている。客たちには名前がない。映画は彼らを役割でしか呼ばない。名乗らないという店の決まりが、そのまま映画の作法になったかのようだ。この年のキネマ旬報ベスト・テンでは、門脇麦がこの作品をふくむ三本で新人女優賞を、池松壮亮がこの年の出演作で助演男優賞を受けた。

先に二つ、断っておく。この文章は、映画そのものを観て書いたものではない。場面は公開されているあらすじや映画評が書いているとおりに記し、登場人物のせりふはすべて言い換えていて、そのままの引用ではない。そしてこの文章は、結末をふくめて映画の全体にふれる。この映画は、結末で問いを差し出すからだ。結末をまず画面で見たい人は、ここで読むのをやめて、観たあとで戻ってきてほしい。

もうひとつ、この文章がしないことについて。映画は露骨で、そのことを売りにもしていた。製作が発表されたとき、記事の見出しになったのは、本編百二十三分のうち服を着ている場面は十八分半しかない、という数字だった。この文章は露骨には書かない。性についてはひとことで名指すだけにとどめ、誰の体も描写せず、客たちが互いの体について交わす陰口は、それがあったことだけを記して、中身はひとことも繰り返さない。戯曲には、そのための作法がすでにあった。選考委員のひとり、永井愛は選評で、この戯曲は乱交そのものを直接には描かないのに、まるでその生々しい写真につい見入ってしまったような、ばつの悪さを覚えさせると書いている。この文章も戯曲の側、扉のこちら側にとどまる。

合意がたやすくなるように作られた部屋

まず部屋を見ておきたい。この部屋は設計されていて、その設計そのものがひとつの主張になっているからだ。六本木のマンションの、上下ふたつの階に分かれた一室。上の居間にはソファがあり、客たちはバスタオル一枚でそこに座って待つ。下の部屋にはベッドが四つ並んでいるだけで、あいだを隔てるものは何もなく、互いの姿はすっかり見えてしまう。午前零時から五時まで、客は合意した相手と、その階段を降りていくことができる。決まりは店長が説明し、店員が一晩じゅう残って、それが守られているかを見張る。そのうちのひとつが、あとで効いてくる。ここで知り合った者どうしは、電話番号を交換してはならない。

これは商売でもある。映画の記事は、この店を「裏風俗店」と呼んでいる。客はみな代金を払って来ていて、ニューヨークでこの映画を上映したジャパン・ソサエティの紹介によれば、男性のほうが女性より多く払っている。若い男がこの一夜に使う二万円は、彼の持っているすべてである。

なぜそうなるのかを考えてみる。女性が安く入れるのは、男性が彼女たちに会うためにお金を払うからだ。そう読めば、この料金の差は映画のなかで最初に出てくる品定めであり、しかもそれは、まだ誰も来ないうちから決まっている。この部屋は誰のためのものなのか。そして、誰でできているのか。料金の差は、そのふたつに答えている。

設計のほかの部分も、みな同じ方向を向いている。見知らぬ者どうしの性を頼みにくくしているあらゆる手間が、ひとつずつ取り除かれているのだ。恥ずかしい思いをする名前はない。あとから追いかけてくる番号もない。目的は来る前から共有され、代金は払い済みで、終わりの時刻も決まっている。見知らぬ相手に、いいですか、と尋ねるときのあの気まずい最初の問いは、扉が開く前に、店が全員に代わって尋ね、全員に代わって答えてしまっている。

そうなると、この部屋でまだ高くつくものは、ひとつしか残らない。それは「はい」ではない。

店長の答えがしていること

女子大生の問いと、それへの答えに戻りたい。見かけよりずっと精密にできているからだ。気に入らない相手は断っていい。これは権利で、店長はそれを認める。けれど断ってばかりいたら、何のために来たのかという話になる。これは値段である。しかも巧妙な値段だ。何ひとつ脅してはいない。帰れとも、余分に払えとも、何かをしろとも言っていない。ただ、なぜここにいるのかを説明しろと、彼女に求めている。この一言のあとでは、彼女の口にする「いいえ」のひとつひとつが、彼女についての小さな証拠に変わってしまう。本気で来たのではなかったのか。場をしらけさせているのではないか。その気もないのに来たのではないか、と。

はっきり言っておけば、同意はそういうふうには働かない。このマンションに来たことは、なかにいる誰に対する「はい」でもない。料金を払ったことも、タオル一枚になったことも、ソファで待っていたことも、その夜のもっと早い時間に別の誰かに「はい」と言ったことも、同じだ。「はい」は、ひとりの相手に、ひとつの時点で言われるもので、取り下げることもできる。店長の一言は、これらを全部ひとつの前提にたたみこんでしまう。来た以上は前もって同意したことになり、断るのはその例外で、控えめに使うものだ、という前提に。まるで有給休暇のように。

「いいえ」がどれだけ自由かは、それがどれだけ安く言えるかで決まる。断ることに何の代価もかからない場所なら、「はい」はそのまま「はい」でいられる。断るたびに説明を求められる場所では、その説明を避けるために差し出される「はい」も出てくるだろう。しかも外からは、どれがそうなのか見分けがつかない。店長の一言は、その代価を入口で引き上げてしまう。夜が始まる前に、まだ誰も誰にも触れていないうちに。

何のために来たのか、という店長の問いは、それ自体が悪いわけではない。ただ、それを口にする人がまちがっている。女性がなぜその場にいるのかは、彼女自身が、ひとりで、正直に答えることであり、この文章も女子大生の代わりに答えたりはしない。見えるのは、誰がその問いを口にしているのか、そしてその答えが彼にとってどれほどの値打ちをもつのか、ということだ。この読みのとおり、男性が会うためにお金を払うからこそ女性を安く入れている部屋なら、断ってばかりの女性は商売の邪魔になる。この文章は、店長を悪人としては読まない。彼は、自分の条件を口にしている商売そのものである。

八枚のタオル、八つの肩書き

はじめのうち、八人の客はタオル一枚で黙って座っている。若い男と女子大生のほかに、フリーター、妻のいるサラリーマン、工員、保育士、会社勤めの若い女性、そして毎回やってくる常連の女性。ダイエットの話など、当たりさわりのない世間話がしばらく続き、やがて最初の組が下へ降りていく。

タオルは、布のかたちをした店の約束である。誰もが同じものにされる。服がないから制服もない。名前がないから来歴もない。仕事が見えないから格もない。映画はこの約束を半分だけ守る。誰にも名前を与えない。けれど誰にも肩書きを与える。そしてその肩書きこそ、タオルが脱がせるはずだった仕分けそのものだ。ニート、フリーター、サラリーマン、工員、保育士、女子大生。どれも、社会が人を働き方や身分で並べるときの言葉であり、映画はその言葉で客たちを呼ぶ。入口で脱いで置いてこられたのは、服だけだったかのように。

合間になると、客たちは自分から、その肩書きをもう一度身につけはじめる。見知らぬ者どうしがよくするように、仕事や身の上を語り合い、その語り合いのなかで、みなが黙って座っていたときにはなかった上下が、部屋に生まれていく。誰かに強いられてそうするのではない、というところに目をとめておきたい。客たちは自分でそうする。人と知り合うとは、まず相手が何をしている人かを尋ねることだからだ。

この仕分けの手つきに見覚えのある人は、少なくないだろう。それも、性とは何の関係もない場所で。自己紹介が終わったとたんに席の空気が決まってしまう飲み会や、名刺を交わしたとたんに互いの位置が定まってしまうような集まりで。映画がつけ加えているのは、その夜だけはそんなものは要らないと売りこんだ部屋、という舞台だけである。

彼女が先に動き、彼が尋ねる

最後まで動かずにいたのは、若い男と女子大生のふたりだった。そこで彼女は、いきなり彼をソファに押し倒す。彼は、下へ行きませんかと彼女を誘う。ふたりは降りていく。

この場面は、起きたとおりに、それ以上でも以下でもなく読んでおきたい。まず彼女の行為があった。突然の、まったく彼女自身の行為だ。次に彼の問いがあった。そしてふたりの答えがあった。降りていく、という答えである。この文章は、ふたりのあいだに会話を書き足さない。そこにあるのは、ものごとの順序だ。彼女が選び、彼が尋ね、ふたりで降りていった。

下の階で、彼女は部屋の誰よりも無防備な姿をさらすことになる。合間には、自分でも変だと思うくらい、いまとても楽しいのだと打ち明ける。彼のほうも、そうは見えないかもしれないけれど楽しいのだと言う。いちばん長く黙って座っていたふたりが、ここにいてよかったと、声に出して言うふたりになる。

彼女の快さを部屋がどう扱うか。それは、この映画を観る女性が最初にはっとさせられるところかもしれない。部屋はそれを陰口の種にする。ほかの客たちが、彼女について、彼女の声について話す。何を言ったのかを、この文章は繰り返さない。けれど、その形には目をとめておきたい。まさにこのために作られ、そのために料金を取り、そのために時間を区切った部屋で、からかわれるのは性そのものではない。女性が楽しんでいるのが聞こえてしまうこと、なのだ。部屋は行為を許し、快さのほうを取り締まる。

この映画が古い型を使っていることは、映画自身も、それを観た批評家も知っている。二〇一四年に英語で書かれた好意的な映画評は、三浦がいくつかの使い古された人物像を用いていると指摘した。はじめての経験をする不器用な童貞や、内気に見えてじつは奔放な女子大生といった型だ。そのうえでその評は、三浦がそれらを型よりずっと深いところまで掘り下げていると論じている。この文章もそう思う。そして、そのちがいを、ひとことで言っておきたい。型には問いが入っていない。この女子大生には、夜が始まる前から、ひとつの問いがある。自分の身に起きることを誰が決めるのか、という問いであり、映画はそれを忘れない。

合間に、部屋が話していること

マンションのなかにひとつの社会が育つのに、数時間しかかからない。まず仕事や身の上の話、それから互いの体や声についての陰口、そして、誰が魅力的で、誰がここに入れられるべきではなかったかをめぐる言い争い。映画はこうしたことをしばしばとても可笑しく描き、それが可笑しいのは、描き方が正確だからである。

ここにはひとつの仕組みがある。全員が求めて来たただひとつのものが前もって合意されてしまうと、それはもう、足りないものではなくなる。性が手に入るかどうかを気に病む客はいない。それは店が片づけてしまった。そこで足りなくなるのは、別のものだ。求められること。誰が最初に選ばれたか。そもそも選ばれたのか。誰が避けられているのか。誰がここにいるべきでないのか。品定めは、この取り決めの故障ではない。市場が値段を生むように、この取り決めが生むものなのだ。

「『ドン・ジョン』と、見つめ返してくれる人のなかで我を忘れること」という文章は、ポルノを好む若い男の好みを、ポルノに欠けているものへの好みとして読んだ。自分を見るかもしれない誰か、自分に何かを望むかもしれない誰か、失望するかもしれない誰か。そういう相手がいないことへの好みとして。この店が売っている夜も、同じ欠落の上に建っている。名前もなく、あとも残らない体だけ。映画が見せるのは、その体に目があったとわかったとき、何が起きるかだ。体は見つめ返す。値踏みする。比べあう。そのうちの何人かは、恋をする。

公開にあたって、三浦大輔はこの映画を「エロでもグロでもないエンタテインメント」だと語っている。それでも、観ていてちくりと痛むところはある。それはおそらく性の場面ではない。ああいう場を内側から知ることになる観客は、多くはないだろう。痛むのは仕分けのほうだ。ほとんど誰もが、したことがあり、されたことがある。

断ることは、判決ではない

工員にとって、この夜はとりわけつらいものかもしれない。女性たちのなかには、彼と組むのを避ける人がいる。この文章は彼を描写しないし、彼について言われることも、何ひとつ繰り返さない。

彼女たちの選択は、彼女たちのものだ。女子大生が尋ねたのはこの権利であり、それはどの女性の手のなかでも同じ権利である。断ることに理由はいらないし、誰かに説明する義務もない。断ることが告げているのは、わたしとは、いまは、しない、ということだけで、それ以上のことを言う必要はない。

部屋がつけ加えるのは、断ることそのものではない。そのまわりの話し声である。その話し声は、ふたりのあいだの一夜についての「いいえ」を、人前で下される、ひとりの人間についての判決に変えてしまう。残酷なのは、その変換のほうだ。

やがて、彼に経験がないことが明るみに出る。そしてのちに、常連の女性とのあいだで、彼はようやくはじめてを迎え、部屋じゅうが拍手を送る。

その拍手を、夜の落ちにするのはたやすい。この文章は逆に読みたい。その夜、部屋がひとつになるのは、おそらくこのときだけで、しかもそれは彼のためだ。何時間も仕分けと品定めを続けたあとで、タオル一枚の見知らぬ者たちが点数をつけるのをやめ、誰かのために手を叩く。一晩のうちで、いちばんやさしい出来事かもしれない。

それは同時に、この部屋に私的なものなど何もないという、いちばんはっきりした証拠でもある。彼のはじめては、みなのものになる。部屋じゅうがそれを知っていて、その拍手は、ほかのいろいろな意味とともに、ひとつの判定でもある。一晩で部屋が下すいちばんやさしい判定であり、それでもやはり判定である。その場面は、どちらでもありうる。この文章もそのまま両方を抱えておき、誰にも順位をつけない。彼にも、常連の女性にも、別の選択をした女性たちにも。

彼女の代わりに決めるということ

夜のある時、フリーターが女子大生を下へ誘うと、若い男が立ち上がって、ふたりを止める。好きになるな、とフリーターは彼を怒鳴りつける。

起きたとおりに読んでおきたい。そのとき女子大生が何を望んでいたのかは、彼女自身のものだ。この文章はそれを補わない。この場面にあるのは、ひとりの男が、彼女に代わって何かを決めたということだ。守ろうとしたのかもしれない。自分のものにしようとしたのかもしれない。おそらくはその両方だろう。どちらにしても、決めたのは彼女ではなかった。しかもそれは、誰もが自分のことは自分で決めるという前提で作られた部屋のなかで起きた。

部屋がそれを何と呼ぶかにも、目をとめておきたい。無作法とも、横やりとも呼ばない。好きになる、と呼ぶ。そしてその言葉は、責める言葉として口にされる。部屋がいちばん大きな声で守らせようとする決まりは、電話番号についての決まりではなかった。誰も書き記さなかった決まり、何も感じるな、という決まりだった。若い男は、それを破ったのだ。

この場面で、フリーターは悪役ではない。彼は部屋の書かれていない決まりを声に出しているだけで、しかも若い男について、正しいことを言っている。

若い男に好感がもてるぶん、そしてその振る舞いが騎士道のようにも見えるぶん、見落としやすい同意の問題が、ここにはある。「はい」を言いやすくした部屋は、ほかの誰かが、あなたの望みをわかっているかのようにふるまうことも、たやすくしてしまう。彼女を守る「いいえ」は、彼女自身のものでなければならない。彼女がそこに立っているあいだに、男が彼女の代わりに言うものではなく。

分かち合うために来た恋人たち

遅れて、ひと組のカップルがやってくる。女は若い男を下へ誘い、男は女子大生を誘って、彼女は彼と降りていく。若い男は、彼女がほかの男といるのを見つめている。

やがてカップルは喧嘩を始める。男は女を、本気で楽しんでいたと責め、女は出ていってしまう。

ふたりが来る前に何を話し合ったにせよ、連れ立って来たこと自体が、ひとつの簡単な取り決めを語っている。ふたりとも、これをする。けれど彼らがこの部屋で知るのは、その取り決めに、どちらも口にしていなかった条項があったということで、しかもそれは男の側のものだった。してもいい。でも、楽しんではいけない。取り決めは行為を覆っていた。彼女の快さは覆っていなかった。男はそれを、自分でも気づかないまま、自分のものとして扱っていたのだ。「『チャタレイ夫人の恋人』と、世話と跡継ぎしか求められなかった妻」という文章は、跡継ぎのために愛人をつくってはどうかという夫の提案に、同じ欠落を見ていた。それは望んでよいという許しではなく、身ごもってよいという許しだ、と。ここでの許しはもっと小さく、もっと今ふうだが、抜け落ちているものは同じである。彼女自身が何を望むか、だ。

「『クローサー』と、すべてを打ち明けても知られないこと」という文章は、嫉妬する恋人が繰り返す問い、つまり、そっちのほうがよかったのか、という問いが、ほんとうは知ることを求めていないと指摘した。それが求めているのは順位であり、問う男自身が、彼女の相手の一覧のどこに置かれるかである、と。男の責め言葉は、その同じ問いを、告発のかたちにしたものだ。そしてその矛先は、ここでもまた女性の快さに向かう。女子大生の快さを部屋は陰口の種にし、この女の快さを恋人は裏切りと呼ぶ。快さを一晩いくらで売っている部屋で、女性が楽しむことが、繰り返し、罪のように扱われる。

喧嘩で夜の空気が割れたあと、若い男は女子大生に謝り、ふたりはもう一度ベッドへ向かう。何を謝ったのかはともかく、謝るということには目をとめておきたい。謝るとは、相手に何かを負っていると認めることだ。相手が順番に入れ替わるように組まれた部屋で、それはすでに、ひとつの結びつきのかたちである。

部屋が締め出せなかったもの

一夜をひとつにまとめてみると、題名の意味がひとりでに明らかになる。拍手のなかのやさしさ。立ち上がった若い男のなかの独占欲。カップルのなかの嫉妬。陰口のなかの品定め。電話で妻に言い訳をする夫。マンションが玄関の外に置いてくるように設計されていたものは、朝を待たずに、すべて部屋のなかで渦を巻いている。愛の渦。この題名は皮肉ではない。描写である。

戯曲を選んだ人たちも、同じことに気づいていた。永井愛は選評に「後味の悪さで言えば、『愛の渦』が一番だろう」と書いている。後味こそが肝心なのだ。それは、店が消してみせると約束した帰結が、それでもやってくることであり、しかも、それを読む人や観る人のところにまでやってくることである。井上ひさしは、二十世紀の世界の演劇でひとつの主流をなしていた極端なリアリズムで、最先端の性風俗を描いたらどうなるか、というところに、この戯曲の趣向を見ている。どうなるのか。映画の答えは、性がいちばん驚きの少ないものになる、というものだ。

この部屋がどうにか締め出せたのは、名前と電話番号だった。名前は完全に締め出した。映画のなかで名前をもつ客は、ひとりもいない。電話番号も、あと少しで締め出せるところだった。

夜明けと、外へ漏れた番号

ここから先は、映画の結末にふれる。

五時になり、夜が終わる。部屋のカーテンが開けられ、朝の光が客たちの顔に当たる。常連の女性は店長と連れ立って帰っていき、ふたりが恋人同士だったことがわかる。

女子大生は携帯電話をなくしていて、それを探すために、店員が若い男の電話から彼女の番号にかける。誰でもするような、ごくふつうの親切である。そしてそれが、まさにこういう時のために店が定めていた、ただひとつの決まりを破る。彼女の番号は、いまや彼の電話のなかにある。彼の番号は、彼女の電話のなかにある。

夜のほかのものは、カーテンが開くと同時に、すべて部屋に残される。陰口も、品定めも、喧嘩も、拍手も。部屋の外へ出ていくのは、その番号だけだ。

ひとつの夜の、ふたつの言い分

後日、女子大生は若い男を呼び出す。彼は喜ぶ。けれど彼女は、番号を消してほしいと言うためだけに来たのだった。あそこにいたのは自分ではない、と彼女は言う。あそこにいたのが本当の自分だと思っている、と彼は答える。彼女は去っていく。

彼女のやり方に目をとめたい。番号を消してほしいと頼むには、彼の番号を使うしかなかった。部屋から漏れ出たただひとつのものを、彼女は、それを部屋に戻すために使ったのである。

映画は最後の言葉をふたりに手渡し、どちらにも軍配を上げない。一夜をともにしたふたりが、その夜が何を見せたのかについて、食い違っている。彼女にとって、あの部屋にいた女は、いま去っていく女とは別の人だ。彼にとって、あの部屋にいた男は、夜のはじめになけなしの二万円を引き出した男よりも、ずっと自分自身だった。どちらかの側に立つのはたやすい。彼女は恥じていて彼は勇敢だと言うことも、彼女には分別があって彼は思い違いをしていると言うことも。この文章はどちらも選ばない。ふたつの言い分のちがいより、共通するもののほうが興味深いからだ。どちらも、自分の物語の書き手であろうとする主張である。彼女は、ひとりの自分を部屋に残してくる権利を主張している。彼は、ひとりの自分を連れて帰る権利を主張している。

同意を、一度宣言されれば済むものではなく、実際に働きつづけるものとして読むなら、ここで言えることは単純だ。彼女があの部屋で合意したことは、あの部屋で合意したことである。それは、あの部屋の、あの夜の、あの時間に向けた「はい」だった。朝にまで、電話のなかにまで、手を伸ばすものではない。一夜をともにしたからといって、相手がどれほどやさしくても、二度目に会う義務は生まれない。彼の気持ちがどれほど本物でも、それは彼女に何も負わせない。彼女が自分で渡したのではない番号は、はじめから約束ではなかった。番号を消してほしいという頼みは、映画のなかの最後の「いいえ」であり、夜が始まる前に彼女が尋ねた、あの権利そのものである。部屋のなかでは、誰でも断ることができた。部屋が終わったあとには、部屋そのものを断ることができる。

そして彼は、彼女にそうさせる。彼は自分の言い分を口にし、彼女は去り、映画はそこでふたりを置いていく。自分自身についての彼の言い分は、彼が持っていてよいものだ。それは彼女に何も求めていない。

それで何を言おうとしたのかを、彼女は説明しなくてよい。恥なのかもしれない。守ろうとしたのかもしれない。あの夜が届くはずのなかった、部屋の外の暮らしを。あるいは、ごく単純な線引きなのかもしれない。自分のどの顔までなら知られてもよいかを、女性が男に告げるという線引きだ。どの自分が本物だったのかを、誰かに説明する義務は、誰にもない。大切なのは、どの自分を連れて帰るのかを誰が決めるのか、ということだ。『愛の渦』の最後で、ようやくそれを決めるのは、彼女である。

日本で読むということ

まず法律について、条文が定めているところを記しておく。刑法第百七十四条は「公然とわいせつな行為をした者」を罰すると定め、第六十二条は、正犯を幇助した者を従犯としている。この二つの条文は、二〇〇九年六月のあるニュースにそろって出てくる。それを報じたニュースサイトの記事によれば、宮城県警は仙台市のマンションの一室で開かれていた乱交パーティーに踏みこみ、八人を逮捕した。そのなかには、公然わいせつの現行犯で逮捕された客ふたりと、公然わいせつ幇助の現行犯で逮捕された主催側のふたりがいた。マンションの一室が公然の場所だとは思いにくく、記事の見出しも、これは犯罪なのか、という疑問が相次いだと伝えている。記事が伝える警察の説明は、マンションの一室とはいえ、不特定多数の者が公然と性行為をしていて、参加者がほかの参加者の姿を見ることのできる状態だった、というものだった。

この文章は、虚構であるこの映画の店を法がどう扱うかについては何も主張しないし、ここに法律上の助言は何もない。けれど、映画の記事が使っていた「裏」という言葉は正確である。裏側の商売は、自分の決まりで動く。そしてこの店では、断ることについての方針は、店長のあの一言がすべてなのだ。

海外では、この映画は別の枠に入れて紹介されることがある。アメリカの配給会社は、日本の「風俗」を率直に、ユーモアたっぷりに、奔放なまでの猥雑さで描いた作品として売り出した。その枠には、あらがっておきたい。『愛の渦』は、日本でなければ成り立たない話ではない。見知らぬ者たちが、帰結のない一夜に代金を払い、帰結が待ちかまえていたことを知る。それは、マンションと電話がある町なら、どこででも起きうる。日本に固有なのは言葉のほうだ。肩書きや、「裏」という言い方のほうであって、人ではない。なけなしの二万円を一夜に使う若い男も、断ってもいいのかと尋ねる女子大生も、日本だけの物語ではない。ここでは、たまたま日本語で語られているだけだ。

公開二週目に、女性に向けたトークイベントが開かれ、出演者たちとともに、文筆家の雨宮まみが登壇した。そこで彼女が口にしたことは、次の反論のなかに置いておく。いちばん鋭い反論だからだ。

この読み方がまちがっているかもしれない理由

この読みには、まちがっているかもしれないところが少なくとも五つある。ひとつめが、いちばん重い。

ひとつめ。若い男のこと。そのトークイベントで、雨宮まみは、男は女を見下している、とはっきり言った。もしそのとおりなら、この文章は彼に甘すぎたことになる。彼が彼女を好きになったことは、部屋の品定めに逆らうものではなく、その一部だったことになり、あの部屋にいたのが本当の自分だという最後の言葉も、愛とは別の何かの告白になる。この文章は、その読みを退けられない。のちに好きだと言った男に見下されていた経験のある女性なら、雨宮の読みのほうがほんとうだと感じるかもしれない。この文章に言えるのは、女子大生の頼みは、どちらの読みでも揺るがないということだけだ。彼が彼女を愛していたのなら、それでも彼女は去ってよい。彼が彼女を見下していたのなら、彼女が去ったのは正しかった。

ふたつめ。客たちの暮らしのこと。ニューヨークでの上映に合わせて好意的な評を書いたクリストファー・ボーンは、性というひとつの主題の下に、人が性風俗を、うわべだけの、かなり空っぽな暮らしからの逃げ場として使うさまが描かれていると見た。その読みに立てば、この映画はこの文章が認めてきたよりも社会への批評であり、部屋が客たちに何をするかだけでなく、客たちが部屋に持ちこむ空っぽさについての映画になる。この文章は、誰の暮らしも空っぽだとは呼ばずにきた。外から人を仕分けるのは、あの部屋自身の癖だからだ。けれど、映画が客たちについて、この読みよりも厳しい判断を下している可能性は認める。判決を下さずにおくことが、判決を見ないための方法になっているのかもしれない、ということも。

みっつめ。女子大生のこと。この文章は彼女の頼みを、自分の物語の書き手であろうとすること、どの自分を連れて帰るかを知っている女性の引く境界線として読んできた。けれどそれは、ただの恥なのかもしれない。そしてこの文章は、自律のほうが結末として美しいからという理由で、恥を自律に読み替えてしまったのかもしれない。映画はどちらとも言わない。この読みは、ひとつの読みである。

よっつめ。映画そのもののこと。『愛の渦』は露骨で、それを売りにしていた。居間にとどまる文章は、実在するものよりおだやかな映画を描いてしまっているのかもしれない。選考委員のひとりの言葉によれば、戯曲は行為を直接には描かなかった。映画は描いた。映画の率直さを搾取的だと感じる人や、客たちを笑いものにする喜劇を不親切だと感じる人は、まちがっていない。この文章は、その異議に答えていない。異議の向けられた中身を、繰り返さないことを選んだだけだ。

いつつめ。前提のこと。この文章は、「はい」から利益を得るように作られた商売のなかで同意を論じ、まるで答えが、断ることについてのもっとよい方針であるかのように書いてきた。読者のなかには、答えは、こういう部屋がそもそもあるべきではないということだ、と考える人もいるだろう。どれほど断ることができても、この種の、代金を払った一夜が自由なものになることはない、と。この文章はその議論をしない。映画がしていないからだ。けれど、その議論がまちがっているとも言わない。

この図書室が、ここから受けとるもの

三つある。どれも、決まりではない。

値段のついた権利も、権利であることに変わりはない。けれど、その値段を決めた誰かが必ずいる。誰が決めたのか、そして権利が使われずに終わったとき誰が得をするのかは、いつでも尋ねてよい。

前もってひとつのことに合意することは、そのまわりに育っていくすべてのことに合意することではない。品定めされること、噂されること、あとになって求められること、探されること。部屋の決まりは、何が差し出されているのかを言うことはできた。それが何に変わっていくのかは、言えなかった。

一夜をともにしたふたりが、その夜が何を見せたのかについて食い違うことはある。どちらも、相手に同意する義務はない。

だから一度だけ、あなたに言いたい。ある夜について、ある一年について、ある部屋について、あそこにいたのは自分ではないと言ったことがあるなら。あなたは、ひとりの自分をどこかに残してきてよい。いつかそれを取りに戻ってもよい。どちらも、その夜への判決ではない。そしてそれを決めるのは、あの部屋にいた誰でもない。あなたをいちばん気に入った人でも、あなたに点をつけた人でも、手を叩いた人たちでもなく。

これは一本の映画の読みである。虚構の人物も実在の人も、誰も診断しないし、どの俳優の暮らしについても語らない。法律上の助言は何もしていない。ここで挙げた刑法の二つの条文は、いま定められているとおりに記し、ひとつの摘発は、報じられたとおりに記した。どんな取り決めも勧めず、こういう部屋にいたことのある誰も責めない。

手もとに残しておく問い

何かに「はい」と言ったとき、あなたが合意していたのは、正確には何だっただろう。そしてその場は、あなたがそれといっしょに何に合意したことにしていただろう。

あなたの「いいえ」の値段を決めたのは誰だっただろう。その「いいえ」が言われずに終わったとき、得をしたのは誰だっただろう。

別の何かのために来た場所で、点をつけられたことはあるだろうか。そのあとで、その点をどうしただろう。

自分で選んで、どこかに残してきた自分はいるだろうか。それを取り戻したいと思うだろうか。そして、ほかの誰かにそれを持っていてほしいと思うだろうか。

ある特定の夜のあなたこそが本当のあなただと、誰かに言われたら、あなたは誰の言い分を信じるだろう。そして、それはなぜだろう。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

このお便りについて