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『ドン・ジョン』と、見つめ返してくれる人のなかで我を忘れること

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ニュージャージーのバーテンダーは、寝た相手よりもポルノを好む。彼が惹かれた女性は、彼に、自分の好きな恋愛映画の男のようになってほしいと願う。映画はふたつの空想を同じ撮り方で撮り、どちらにも公平だ。彼を変えるのは、一週間ともたない我慢ではない。悲しみのなかにいるひとりの女性だ。彼女は彼がしていることを正確に見て取って口にし、そのうえで自分を見せてくれる。

ニュージャージーの、塵ひとつない部屋。若い男がセックスのあとでベッドを抜け出し、ノートパソコンを開く。その顔を、画面の光が照らしている。彼は自分が大事にしているものを、すでにナレーションで数え上げている。体、部屋、車、家族、教会、男友達、女の子たち、そしてポルノ。なかでもいちばん好きなのは、最後のひとつだ。同じ映画の別の場面では、若い女性が暗い映画館で、涙に濡れた顔のまま微笑んでいる。スクリーンでは、ふたりのスターが恋に落ちている。

ジョセフ・ゴードン=レヴィットが初めて長編を監督した『ドン・ジョン』は、このふたつのショットにほとんど収まってしまう。映画はふたりの顔を同じように撮る。画面の光を浴びた大写しの顔が、何かにすっかり呑まれている。この作品はふつう、生身の女性よりもポルノを好む男の喜劇として紹介される。けれども、より正確に言えば、目の前の人よりも思い描いた像のほうを好むふたりの物語である。男の像はポルノから、女の像は恋愛映画から組み立てられていて、映画はそのふたつを驚くほど公平に扱う。どちらが上とも言わない。同じ撮り方で撮るだけだ。

この文章が追うのは、映画がそのふたつの像の向こうに何を置くか、である。それは設定から予想されるものとはちがう。説教ではない。意志の力でもない。作中でただ一度試される我慢は、一週間ともたない。置かれるのは、ジョンより年上で、彼とは何の関わりもない喪失を抱えたひとりの女性だ。彼の人生で初めて、彼がしていることを正確に見て取り、それを口にした人。そして今度は、自分のほうを見せた人である。

ジョンがポルノに求めているものを、映画は彼自身の口から言わせている。ポルノなら我を忘れられる、相手といるときにはそうはいかない、と。彼女の答えはこうだ。我を忘れたいのなら、相手のなかで忘れるものだ、と。この文章は、その答えには、映画が言葉にせずに見せているひとつの条件があると考える。人が我を忘れられるのは、自分を見つけてくれた相手、そして自分にも見つけさせてくれた相手のなかだけだ。像は見つめ返さない。ジョンの暮らしには、見つめ返してくるものがひとつもなかった。彼女が見つめ返すまでは。

これはまた、画面のなかの女性たちであふれた映画でもある。彼の動画に映る女性たち。映画館のスクリーンで恋をするヒロイン。クラブのフロアで点数に変えられる女性たち。いつも携帯電話を見ている妹。観る側の女性は、そのうちのいくつかに自分を見つけるかもしれない。画面と比べられたことのある人。誰かに、こういう男になってほしいという像を抱いたことのある人。喪失を抱えたまま、それでも誰かのそばにいたいと思っている人。映画はその三人のどれにも居場所を用意していて、評判よりもずっとやさしい。

この映画について、そして結末にふれる前に

まず記録から。『ドン・ジョン』は、主人公ジョン・マテーロを自ら演じたジョセフ・ゴードン=レヴィットが脚本と監督を手がけた作品で、彼にとって初めての長編監督作である。スカーレット・ヨハンソンがバーバラ・シュガーマンを、ジュリアン・ムーアがエスターを演じ、トニー・ダンザとグレン・ヘドリーがジョンの両親に、ブリー・ラーソンが妹のモニカに扮している。初上映は二〇一三年一月十八日のサンダンス映画祭で、このときは英語で「ドン・ジョンの依存症」を意味する別の題名がついていた。題名が変わったいきさつには、あとで一節を割く。アメリカでは同じ年の九月二十七日に、日本では二〇一四年三月十五日に公開された。上映時間は九十分。

ジョンはニュージャージーのバーテンダーで、女性を次々とものにすることから「ドン・ジョン」と呼ばれている。彼の毎週は決まりごとで回っている。ジム、部屋、愛車、家族と行くミサと実家の食卓、土曜の夜のクラブ。そしてポルノ。彼はそれをひっきりなしに観て、生身の相手とのセックスよりも好んでいる。あるクラブで、彼はバーバラと出会う。裕福な家に育った美しい女性で、ジョンと言葉を交わしながらも、一夜限りの誘いは断る。ジョンはフェイスブックで彼女を探し出し、彼女の条件をのんで口説く。真剣な交際。ひと月以上、体の関係はもたないこと。接客業以外の仕事に就くための夜間講座。そして、彼女の好きな恋愛映画。ジョンはそれを作り話だと思っている。両親はすっかり彼女を気に入る。ようやく結ばれても、ジョンは満たされない。ポルノを観ているところを見つかると、友人から来た冗談のメールだとごまかし、バーバラはいったんそれを受け入れる。だがのちにパソコンの閲覧履歴を見つけ、彼女は別れを告げる。

夜間講座で、ジョンはエスターと知り合っていた。ひとりで泣いているところに出くわした年上の受講生で、隣に座ったとき、彼の携帯電話のポルノを目にした人だ。映画がいちばん言いたいことは、このふたりのあいだで起きることのなかにある。だからこの文章は、結末まで、そして映画が終盤で明かすエスターの喪失まで、すべてにふれる。その喪失については、ありのままに書く。

方法について書いておく。この文章は、作品そのものを観たうえで書いたものではない。書いたことはすべて、公表された作品の記録と、当時の批評やインタビューに拠っており、使うたびに出どころを挙げている。台詞は言い換えて伝え、そのまま引いたものはない。作り手や批評家の言葉をかぎかっこで引いた箇所は、名前を挙げた資料から訳したものである。ジョンが観るポルノの中身は描写せず、映画の性的な場面にも、ひとことで触れるにとどめる。

数えることでできた暮らし

前半の大半は、いくつかの場面の繰り返しでできている。ジム。クラブ。ミサ。家族との食卓。告解室。ノートパソコン。『フィルム・コメント』誌の評者はその繰り返しにうんざりしてみせたが、それはもっともだ。けれども、それこそが笑いどころであり、この映画の要点でもある。ジョンの暮らしはいくつもの輪でできていて、どの輪も何かを数えている。

クラブでは、ジョンとふたりの友人がフロアの女性たちに点をつける。バーバラは、彼らの俗語でいえば「ダイム」、十セント硬貨になぞらえた十点満点の女性だ。告解室では一週間の罪を回数にして報告し、ポルノを観た回数もそこに入る。そして償いの祈りを課される。アヴェ・マリアと主の祈り。ジョンはそれを、ジムでバーベルを上げ下げするあいだに唱えて片づける。教会は数を数え、クラブは点をつけ、ジムは回数を刻む。ほかのどれにもできないものを与えるのは、ポルノだけだ。我を忘れていられる場所である。

ゴードン=レヴィットは、自分が何を笑っているのかをはっきり語っている。男たちが集まって女性の話をすると、それは「かなり残酷で、かなり人を人とも思わない」ものになりうる。二〇一三年、ロサンゼルス・タイムズ紙が伝えた発言で、彼はそう述べた。ひどいと思う一方で、おかしくてたまらない。だからそれを映画にしたのだ、と。

どの輪にも欠けているのは、見つめ返してくる誰かである。クラブの女性たちは、ひとことも発しないうちに点をつけられる。司祭は回数を聞き、祈りを返す。毎週同じやりとりで、映画が見せるかぎり、そのやりとりが数の先へ進むことは一度もない。ノートパソコンのなかの女性たちには、ジョンの姿がまったく見えない。よく見れば、彼がポルノに求めているのは、そこに映るものというより、そこに欠けているもののほうだ。自分を見るかもしれない人、自分に何かを求めるかもしれない人、自分にがっかりするかもしれない人が、いないこと。

映画は、ポルノをどれだけ見せるかに慎重だ。サンダンスでの上映のあと、ゴードン=レヴィットは使う映像を差し替えたり、寄りの構図に切り詰めたりして、露骨さを抑えた。観客がこれをポルノについての映画だと受け取って帰っていったからで、彼によれば、これは「そういう映画では、まったくない」。残ったのは、句読点のように繰り返し差し挟まれる短い断片で、しばしばパソコンの起動音とともに始まる。映画が映すのは中身ではなく習慣であり、この文章もそれにならう。

この文章が、彼を「依存症」と呼ばない理由

二〇一三年の批評の多くはジョンを依存症と呼び、英語版の百科事典の項目はいまもそう書いている。けれども映画自身は、その言葉を題名から外した。アメリカ公開の数か月前、ゴードン=レヴィットは「ドン・ジョンの依存症」を意味する元の題を捨て、その理由を公にした。ひとつは、短くて簡潔な題が好きだから。もうひとつは、これをポルノ依存やセックス依存の映画だと思い込む人がいるが、それは本当に違う、ということだった。『マルタの鷹』を鷹の置物の映画だと言うようなものだ、と彼は書いている。この映画が描いているのは「男と女が互いをどう扱うか、そして私たちが消費するメディアが、互いに押しつけあう非現実的な期待をどう生みうるか」なのだ、と。

ジョン自身は、エスターに向かって、自分は依存症ではないと言い張る。映画はそれを肯定も否定もしない。その二年前、スティーヴ・マックイーンの『SHAME -シェイム-』は、セックスが閉ざされた部屋になってしまったニューヨークの男を追い、それを喜びのないものとして撮った。『ドン・ジョン』はよく似た形の輪を、喜劇として描く。それ自体が、輪のなかにいる男をどう見るかという選択である。症例としてではなく、何かが足りていない人として見る、という選択だ。

臨床の側の見取り図も、知っておいて損はない。その言葉があまりにたやすく広まるからだ。世界保健機関の国際疾病分類は、二〇二二年に効力をもった第十一版で、強迫的性行動症と呼ばれる状態を収めた。激しく繰り返し湧きあがる性的な衝動を抑えられず、その結果として性行動を繰り返すことが長い期間続き、本人の暮らしに著しい苦痛や支障をもたらす状態をいう。置かれた場所は衝動制御の障害の項であって、嗜癖、つまりアディクションの項ではない。同じ改訂でゲーム行動症が加えられたのは、そちらの項だった。二〇一八年に世界精神医学会の学術誌に載った新しい分類の解説は、世界保健機関の精神保健部門の職員も加わった臨床家や研究者たちが書いたもので、ここに関わる点を二つ付け加えている。自分の性的な衝動や行動に向けられた道徳的な判断や非難からくる苦しみを根拠に、診断してはならないこと。そして、これが行動の嗜癖のひとつにあたりうるのかどうかは、当時まだ活発な科学的議論のさなかにあったこと。米国の性教育者・カウンセラー・セラピスト協会は、性依存やポルノ依存を精神疾患として分類するだけの実証的な根拠は見いだせない、という立場を表明している。

どれもジョンへの評決ではないし、評決のつもりもない。ここに書いたのは、呼び名が問いを変えてしまうからだ。ジョンを依存症と呼べば、この映画は彼の何がおかしいのかをめぐる物語になる。映画がそうしているように呼び名を外せば、本当の問いが戻ってくる。彼には何が欠けているのか。そして、彼が好むものには、なぜ誰もいないのか。告解室では、一週間が回数の列に変わる。映画はそこに道徳で人を数えるやり方を描き、その数え方にはほとんど何も見えていないことを、はっきり示している。もし自分自身の性行動が抑えきれないと感じ、そのせいで何かを失いつつあるなら、それは映画やそれについての文章ではなく、資格をもつ臨床の専門家に相談してほしいことだ。

バーバラを、ジョンと同じだけ公平に読む

バーバラを問題の元凶にするのはたやすく、実際そうした批評家もいた。米国のカトリック系雑誌『アメリカ』は、彼女を安っぽくて人を操る女と呼んだ。のちに映画批評誌『クレオ』に載った論考は、映画が最後に彼女を悪役として貶めていると見た。この文章は、映画が彼女を撮るのと同じやり方で彼女を読む。つまり、映画がジョンを撮るのと同じやり方で。

まず、彼女の理由から。クラブで彼女はジョンと言葉を交わし、一緒に帰ることは断る。その断りは、ただの断りだ。彼が食い下がれば覆せる駆け引きの、最初の一手ではない。彼がそれ以上を求めると、意味のあることでなければ何もしたくない、と彼女は言う。彼女は条件を示し、彼はそれをのむ。真剣に付き合い、互いの友人や家族に会うこと。ひと月以上、体の関係はもたないこと。接客業以外の仕事に就けるよう、夜間講座に通うこと。どれも、恋愛映画の側から見れば、もっともな願いだ。本気で選んでくれる人に選ばれたい。そして、その証しがほしい。

それから、彼女がどこに立っていたかを見てほしい。彼女が入っていったのは、男たちが女性に十点満点で点をつけるクラブで、彼女もまた点をつけられた。男が何かを差し出して愛を証明する物語は、見方を変えれば、女性が点数でなくなる物語でもある。これはこの文章の読みであって、映画がそう語っているわけではない。けれどもこう読むと、彼女の空想は、ただの虚栄ではない何かとして見えてくる。ふたりで観た恋愛映画のあと、彼女は何に心を動かされたのかを口にする。彼は彼女のためにすべてを捨てた、あれは運命だった、と。

映画はそれを空想と呼び、しかも彼の空想とまったく同じ種類の空想として扱うことに気を配っている。ジュリアン・ムーアは、脚本のどこに惹かれたのかと問われて、ゴードン=レヴィットがポルノの文化と恋愛喜劇の文化を並べ、そのうえで両者を「同じ種類の空想として等しく扱った」ところが好きだと答えている。その等しさを形にしているのは、カメラだ。ロンドン大学クイーン・メアリー校が公開している映画ガイドが書くとおり、映画館の場面では、涙に濡れて微笑むバーバラの顔の大写しに、恋愛映画の断片が素早く差し挟まれる。ポルノを観るジョンの顔に、動画の断片が差し挟まれるのと同じように。暗がりのなかで画面に照らされたふたりが、それぞれ、生身の誰にも邪魔されない愛の形に見入っている。

彼女がはっきり正しいところでは、映画も彼女の側に立つ。ジョンは嘘をついた。彼女はそれを見つけ、冗談のメールだという話をいったんは受け入れ、あとで本当のことを知った。映画がふたりに与える最後のやりとりは、嘘についての彼の謝罪から始まる。彼女が間違っているところでは、彼女は彼とまったく同じ仕方で間違っている。像をもっていて、目の前の男をそこに収めたいのだ。スカーレット・ヨハンソンは、そのことを共感をこめて語っている。トロント国際映画祭での取材で、バーバラには強い信念があり、そして多くの人が身に覚えのあることをしている、と言ったのだ。「相手を、自分でこしらえた小さな箱に入れてしまいたくなること。その人がぴったり収まるような箱に」。

その箱について、映画がじっくり見せる細部がひとつある。ジョンは自分の部屋を自分で丁寧に掃除し、それを楽しんでいる。決まりごとのなかで、それ自体のためにしている数少ないことのひとつだ。バーバラは、そんなことはあなたのすることではない、うちの家政婦にさせればいいと言う。ムーアは、ここが映画の転回点のひとつだと考えていた。奪われかけているのが本当に彼自身のものだからこそ、ジョンはここで、もうたくさんだと思う。「それに、自分の好きなものを好きでいて、何がいけないの」とムーアは問い、こう続けた。「そういうものの居場所を残しておかなくちゃいけない。自分の愛のなかにも、ほかの人の人生のなかにも」。バーバラが思い描く彼は、掃除をしない。現実の彼は、掃除をする。その像には、彼本人の入る余地がない。

ふたつの空想、ひとつの設計

ふたつを並べてみると、同じつくりをしていることがわかる。どちらも、誰かと一緒にいる感覚を与えながら、人がもたらすただひとつのものを取り除いている。こちらを見る力と、言い返す力だ。ジョンの動画にあるのは、彼を見る者が誰もいないセックスだ。バーバラの映画にあるのは、すでに書き上げられた男だ。次に何をするかはすべてわかっていて、その犠牲は、彼女が相手を知る必要もないまま愛を証明してくれる。彼の空想には、人がいない。彼女の空想には人がいるが、それは目の前の相手ではない。

どちらの像も、やがて物差しになる。ジョンが連れ帰る女性たちは動画に届かない。彼はそれをナレーションで延々と語る。ジョンはバーバラの映画の男に届かない。最後の再会での彼女の言葉は、そう告げているに等しい。映画はさらに、彼自身の像にこそ当てはまる言葉を、彼女の映画について彼に言わせている。恋愛映画を彼女の隣で観ながら、みんな作り物だとわかっているのに本物の人生みたいに観ている、と彼はナレーションで言う。まるで自分のことを語っているようだ。

この図書室は「ファンタジーは依頼ではない。」で、女性が頭のなかにもっている場面は誰への命令でもなく、とりわけ彼女自身への命令ではないこと、そして空想が指示と取り違えられたところから傷が始まることを論じた。『ドン・ジョン』は、同じ取り違えを、空想をもつ本人の側から見せる。ジョンもバーバラも、像をもつこと自体は間違っていない。ポルノも恋愛映画も像であり、人は性についても愛についても、誰の許可もなく像をもっていい。困るのは、ふたりとも像を、目の前の人に宛てた要求に変えてしまったことだ。こうであれ、でなければあなたでは足りない、と。

ゴードン=レヴィットは英国放送協会の取材に、さまざまなメディアが、かつてなかったほどの「期待のチェックリスト」を私たちに与えているように思える、と語っている。チェックリストとは、印をつける欄のついた像のことだ。目の前の人は、そこに載っていない。そのリストは、彼女が現れる前に書かれていたのだから。

同じ食卓で、互いを見ない家族

いちばん笑える場面はマテーロ家の食卓にあり、いちばん正確な場面もそこにある。トニー・ダンザ演じる父親は、食事のあいだじゅう大きなテレビでアメフトを観ている。グレン・ヘドリー演じる母親は、息子はいつ身を固めるのかと気をもんでいる。妹は携帯電話を見ていて、食卓でも、ミサのあいだでさえ、それを手放さない。ヨハンソンはトロントで、これらの場面の主題をひとことにまとめている。「誰ひとり、互いを本当には見ていない。それなのに、とても親密な関係にある」。

この一文は、「親密さとは、近さではなく、正確に知られていること。」の議論そのものだ。あの文章は、長く連れ添いながら相手が何を恐れているのか言えない夫婦と、二度会っただけで互いを正確に知ったふたりを並べ、違いは距離ではなく正確さにあると論じた。マテーロ家は、その夫婦をひとつの家族にまで広げたようなものだ。これ以上近くにはなれないほど近い。毎週同じ食卓を囲み、同じ教会に通い、同じ名字を名乗る。欠けているのは互いについての正確な像であり、食卓の誰ひとり、それを得ようとしていない。テレビも、携帯電話も、母親が待ち望む結婚式も、見ないまま一緒にいるための三つのやり方である。

それから、妹が口を開く。モニカは映画のあいだ、ほとんど何も言わない。ジョンがようやく家族に、バーバラと別れたと打ち明け、両親が落胆すると、モニカはずばりと言う。あの人は思いどおりにできる相手が欲しかっただけだ、と。注意についての、この映画でいちばんの冗談である。画面しか見ていないように見えた人が、実は全員を見ていたのだ。ただ、この文章としては付け加えたい。その言い分は半分しか公平ではない。像というものは、どれも支配を必要とする。人についての像を保つには、その人を像のなかに収めて管理するしかない。そしてジョンは、比べることによって、連れ帰ったすべての女性に同じことをしていた。モニカのバーバラ評は、ふたりへの評でもある。

見つめ返した最初の女性

エスターは、思いがけない方向から現れる。大切な人は、たいていそうだ。ジョンは夜間講座で、ひとりで泣いている彼女に出くわす。のちに隣に座った彼女は、彼の携帯電話に映っているポルノを目にする。そのあと彼女は、古い官能映画を彼に見せる。性をもっと正直に描いている、と彼女が思う映画だ。ここは少し立ち止まって考えたい。説教ならこうはしないからだ。彼女は、像を見るのをやめろとは言わない。ほかの像もあるのだと示し、問題は像が何のためにあるかだ、と問いかけている。

彼女はまた、ジョンが先に点をつけることなく出会う、映画で最初の女性でもある。クラブのフロアも数字もなく、そこにいたのは泣いているひとりの人だった。ジュリアン・ムーアはエスターを、最近の出来事のせいで、どうしても百パーセント本物でしかいられない人だと語った。その在り方は、ムーアの言葉でいえば「ほとんど皮膚がない」ようで、だからこそ彼女は「このうえなく、その場にいる」のだという。

バーバラと別れたあと、ジョンとエスターは彼女の車のなかで体を重ねる。そのあと彼女は、彼の人生で誰も尋ねなかったことを尋ねる。なぜポルノが好きなのか、と。彼はわかるかぎり正直に答える。ポルノなら我を忘れられる、相手といるときにはそうはいかない、と。彼女は、一週間ポルノなしで過ごしてみてと言う。彼には、その一週間がもたない。

彼女が次に言うことが、この映画のかなめである。それは技術の話ではない。映画は手引き書ではないし、この文章もそうではない。あなたのセックスは自分のことばかりだった、と彼女は言う。我を忘れたいなら相手のなかで忘れるものだし、それは双方向のものだ、と。これは体の扱い方の指示ではない。彼の注意がどこにあったかの描写である。注意は頭のなかの像と、そのなかにいる自分にあって、実際にそこにいた女性にはなかった。それはまた、映画がその言葉を使わないにせよ、同意がきちんと働いているときの姿でもある。誰かと一緒にいるとは、その人が見えていて、その人の声が聞こえていることだ。もっと望んでいるのか、少し引きたいのか、やめたいのか。それが見えて、聞こえていることだ。

エスターをただの教師にしないのは、ここである。彼女の問いは、彼女自身についての打ち明けでもある。彼女はずっと彼に注意を向けていた。人は何かを望むとき、そうするものだ。映画は彼女にも望みを許している。誰かと一緒にいること、そして自分もまた我を忘れること。一週間ポルノなしで、という彼女の教えだけでは、何も変わらない。彼を変えるのは、その次に起きることだ。

十四か月

それは彼女の家で起きる。一緒に風呂に入ろうと誘ったあと、彼女は泣きだし、湯には入らない。夫と息子が、十四か月前に交通事故で亡くなったのだと、彼女は彼に告げる。

映画はそれを、そのとおりに言う。この文章もそうする。映画は彼女の悲しみを説明せず、名前もつけず、それが彼女に何をしたかも語らない。この文章も語らない。事実を、ふたりのいる部屋にそのまま置いておく。ムーアは、エスターはおそらくいつもこうなのではなく、いまがたまたまそういう時期なのだと考えていた。それはひとつの敬意だ。その悲しみは彼女の人生のものであって、彼の教育のためのものではない。

この場面では、ふたつのことが起きる。ひとつは、いったん口にした承諾が取り下げられることだ。風呂に誘ったのは彼女だが、彼女は入れなかった。そのとき映画は、彼女が自分から話すこと以上の何も、彼女に求めない。承諾はいつでも取り下げられる。映画がそれを実際に見せるただ一度の場面で、最初の答えを、返されるべき借りのように扱う者は誰もいない。

もうひとつのほうが大事だ。映画のなかで初めて、ジョンは他人の現実に注意を向けなければならなくなる。彼女の体でも、承認でも、点数でもない。彼とは何の関わりもなく、彼には直せない喪失に、である。ポルノなしの一週間が失敗したのは、それがジョン自身の問題にとどまっていたからだ。これは、ジョンの問題にはなりえない。それは、彼のもつどの像にも収まらない、映画で最初のものだ。そして、それが彼に届く。そのあと、互いに正直になったことでふたりは近づき、ジョンは初めて、誰かと体を重ねることに意味を感じる。

ここでこの文章は、この図書室の先行する一篇と、穏やかに道を分ける。「その部屋には、いつももう一人の男がいる。」は『ドン・ジョン』を、ふたりともが台本を演じている映画として読み、最後にジョンに届く関係とは、誰かが割って入る関係だと論じた。そこまでは、そのとおりだ。そしてあの文章は、あえて前提と、ふたりめの女性が現れるところまでしかふれなかった。その先まで見ると、映画はもう少し絞りこんだことを示している。エスターは確かに、問いと一週間の試みで彼の暮らしに割って入る。けれども映画のなかで、割って入ることそれだけでは、彼は変わらない。彼を変えるのは、彼女が見せるものだ。割って入られれば、自分が演じていたことに気づく。他人の喪失を見せられれば、代わりに注意を向けるものが手に入る。

見入ることと、見つめ合うこと

この映画の軸になっている言葉に戻ろう。ジョンは我を忘れたい。恥ずべき願いではない。人は音楽に、仕事に、小説に、暗がりの映画に我を忘れる。バーバラは恋愛映画に、ジョンが動画にそうするのと同じくらい深く我を忘れている。我を忘れることは、人がずっと昔から知っている楽しみであり、この文章に、それを咎めるつもりはない。

日本語では、我を忘れるという言い回しは、しばしば「見入る」と組になる。我を忘れて見入る。ジョンがノートパソコンの前でしていること、バーバラが映画館の暗がりでしていることは、まさにそれだ。見入る相手は、こちらを見返してこない。だからこそ安心して我を忘れられる。エスターとのあいだで起きるのは、見入ることではない。見つめ合うことだ。見つめ合う相手は、こちらを見ている。

映画が見つけるのは、人と一緒にいるときに我を忘れられる場所であり、その条件は、ポルノが差し出すものとちょうど逆である。動画の前でジョンが我を忘れられるのは、誰にも見つからないからだ。誰も見返さず、誰も尋ねず、誰もがっかりせず、そもそも誰もいない。エスターといて我を忘れられるのは、すでに誰かが彼を見つけているからだ。彼女は彼の携帯電話に映っていたものを見た。なぜかと尋ねた。見たことを彼に告げた。そして、彼とは何の関わりもない十四か月の悲しみのなかにいる自分を、彼に見つけさせた。見つけることが先にあり、我を忘れることはそのあとに来る。映画の最後の場面で、それはふたりに、一緒に訪れる。

同じ二〇一三年に公開されたスパイク・ジョーンズの『her/世界でひとつの彼女』は、学び、成長するように作られたコンピューターの基本ソフトに恋をする男を描いた。この図書室の「『her/世界でひとつの彼女』と、理解されることへの誘惑」は、摩擦こそ誰かがそこにいる証しだと論じた。生身の人は、こちらを驚かせ、読み違え、自分の境界をもつ。『ドン・ジョン』のふたつの像は、どちらも摩擦を取り除くように作られている。動画は彼を拒まない。バーバラの映画の男は、彼女を驚かせない。エスターの悲しみはむき出しの摩擦そのものであり、誰の都合にも合わせて並べ替えることのできないものだ。だからこそ彼女は、彼がようやく一緒にいられる相手になる。

最後の告解と、最後の再会

物語を閉じる場面はふたつあり、どちらも、見られるか見られないかについての場面だ。ひとつめで、ジョンは告解室に戻り、ポルノを観るのをやめたと司祭に告げる。結婚していない女性と寝たけれど、それは違っていた、特別で、これまでのどれとも違った、と。司祭はその変化を認めようとせず、ジョンは幻滅して出てくる。要点は教会の話ではない。数える場所は、数が減ったことを記録できても、その数の持ち主である人を見ることはできない、ということだ。ジョンはそこでも、一度も本当には見られていなかった。

ふたつめで、彼はもう一度バーバラと会う。嘘をついたことを謝る。それは、彼女に言うべきことだった。そのうえで、きみの期待も無理なものだったと告げる。それもまた、言うべきことだった。彼女は自分の像のなかから答える。男は愛する女のためなら、どんな犠牲でも払うものだ、と。そして、もう電話してこないで、と告げる。映画は彼女を罰しもしなければ、変えもしない。彼女は信念を抱いたまま、始まったところで終わる。それは映画の限界なのか、誠実さなのか。おそらく、その両方だ。

そして映画は、結婚式の代わりにこの終わり方を選ぶ。ジョンもエスターも、ありきたりの結婚には興味がない。ふたりは付き合いはじめ、互いのなかで我を忘れる。ムーアは、多くの恋愛喜劇と違って、この映画は「めでたしめでたし」を前提にしていないと語った。映画はただ「どうなるか見てみよう」と言っているのだと。そしてこう続けた。「いま私たちが注意を向けているのは、これなのだ」。映画が最後に差し出すのは、つまり、注意である。互いを見つけたふたりが、いまのところ、そこにいる。

日本で観るということ

『ドン・ジョン』は二〇一四年三月十五日、KADOKAWAの配給で、十五歳未満は観られない区分として日本で公開された。日本の観客にとって、この映画の一部は外国の習慣として届く。告解室である。カトリックの信徒が司祭に罪を告げ、償いの祈りを課される場だ。笑いが伝わるには、それくらいを知っていれば足りる。もうひとつ知っておきたいのは、ジョンの告解の仕方、つまり一週間分の集計と、ジムでバーベルの合間に唱える祈りが、ひとりの男の習慣を描いたものであって、誰かの信仰を描いたものではない、ということだ。

日本の事実をひとつ、ここに置いておきたい。ジョンの像が差し出すいちばん大きな約束に、正面から答えるものだからだ。ポルノは、誰もいないセックスを売る。けれども、そこにはいつも誰かがいる。日本では二〇二二年六月、アダルトビデオへの出演による被害を防ぎ、被害を受けた人を救うための法律が成立し、同じ月の二十三日に施行された。内閣府男女共同参画局は、これを性をめぐる個人の尊厳を守るための法律と説明している。その決まりは、言ってみれば、同意を実際に働くものにするための仕組みだ。契約のときには契約書と説明の書面を渡して説明しなければならず、それらを渡してから一か月は撮影してはならない。出演者は撮影も、望まない行為も断ることができ、公表の前に撮影された映像を確かめられる。すべての撮影が終わってから四か月は、公表してはならない。そして出演者は、性別や年齢にかかわらず、撮影の前でも、公表までのあいだでも、公表から一年のあいだでも、無条件に契約を解除できる。法の初めの数年に結ばれた契約では、その期間はもっと長い。

この文章は、業界についても、観る人についても、何も主張しない。映画は、ジョンの動画に映る人々について一度も問わない。それは、この映画が置き去りにした問いのひとつである。けれどもこの法律は、ジョンが楽しむために忘れていなければならないことから出発している。画面のなかの人は人であり、その承諾は、一度きりの署名ではない、ということだ。

日本語が母語ではない女性がこの国で暮らしていると、比べられる像は、しばしば彼女個人ではなく、ある類型の像になる。出会う前から誰かが思い描いていた、外国の女性という像だ。映画の結末がたどり着くのは、推し量られるのではなく、きちんと見られ、言葉で告げられることだ。それは言葉の壁を越えなければ彼女に届かず、そのぶん時間がかかるかもしれない。それでも、届いたときに起きることは同じである。

この読みへの反論

この映画には手厳しい批評家たちがいて、その異論はどれも、映画だけでなくこの文章にも触れてくる。

ひとつめは、映画が自分で笑いものにしているものに、自分がなってしまっているという批判だ。『フィルム・コメント』誌のモーガン・ウィルコックは、テレビに映る女性たちを並べた冒頭の場面を、女性を貶めるメディア文化への風刺の前触れだと受け取ったが、実際には映画のほうが「問題の一部になる」と書いた。ジョンのナレーションは寝た女性たちの欠点を細かく並べ立て、笑いの大半は女性の見た目をめぐるものだ、と。これは公正な指摘である。映画は、ジョンの採点を見抜くよう求めるずっと前から、それを一緒に笑うよう求めている。見られることについての文章が、映画はいつも女性たちをきちんと見ている、と言い張るわけにはいかない。

ふたつめは、もっと深い。『クレオ』誌のエレニ・ディーコンは二〇一四年、この映画は画面上のあらゆる空想を退けながら、別の空想をその場所に据えていると論じた。映画は「意味という観念そのものを崇めてしまっている」のだと。最後のモンタージュは、嘲笑したはずの恋愛喜劇の文法を夕日まで含めてなぞっている、と彼女は指摘した。エスターについては、若い男に人生の輝きを教えるためだけに現れる夢のような娘、という定型を裏返した人物だと見た。人生の現実を彼に教える、母親のような人物だ、と。この見方では、ふたりの女性はどちらも人ではなく類型であり、しかも仕組み全体が性別で分けられている。女性は恋愛喜劇を観て、男性はポルノを観る、というふうに。その多くは当たっている。結末もまた、像である。空想を性別で振り分けるのは、映画が一度も疑わない単純化であり、現実にそれを求めるものは何もない。ムーア自身、取材者から、別の作り方をしていればエスターは若い男の自分探しを手伝うためだけにいる女性になっていたかもしれない、と言われて、そうなりえた、と認めている。

みっつめは、セックスそのものについてだ。『サロン』のルーク・ウィンキーは、この映画の処方を奇妙に保守的だと考えた。正しい交わり方はひとつだけで、静かで、誠実で、見つめ合うもので、攻撃性にも服従にも遊びにも居場所がない。我を忘れることを語る映画なのに、その我の忘れ方の定義は「がっかりするほど狭い」と。この文章はそれに同意し、自分の主張をそれに合わせて狭める。ここでの議論は、様式の話ではない。セックスが静かか騒がしいか、優しいか、合意のうえで荒々しいか、厳かか遊び半分かは、そこにいる人たち以外の誰にも関係のないことだ。映画が正しく捉えているのは、その下にある条件だけである。相手がそこにいて、こちらが見えていて、答えることができ、止めることができること。映画の最後の場面とはまるで似ていないセックスの多くが、その条件を満たしている。そっくりに見えても、満たしていないものもある。

よっつめは、バーバラについてだ。ヨハンソン自身、ジョンの成長を見せるなら、自分の役はその反対、彼をその場に留めておく人でなければならなかった、自分は彼の旅の「引き立て役」なのだと率直に語っている。クイーン・メアリー校のガイドも、バーバラは一面的なまま、変わる機会を与えられていないと書いた。どちらも正しい。この文章が彼女に向けた公平さは、映画のなかに見つけたものというより、いくらか補って読んだものである。点をつけられることへの防御として彼女の空想を読むのは、この文章の読みであって、映画のものではない。

そして最後の異論は、この文章の中心に向けられる。この文章は、ジョンを変えたのはエスターの悲しみのなかに招き入れられたことだと論じてきた。それは古くて居心地の悪い型でもある。女性の痛みが、男の物語の転回点として使われるという型だ。映画は確かに、彼女の喪失を彼の変化の転機にしている。この文章に言えるのは、映画が彼女の悲しみを使い捨てにはしていない、ということくらいだ。それをそのまま述べ、彼女のものとして手放さず、彼女自身が選ぶ終わり方を与えている。それは異論を狭めはするが、答えにはならない。

この図書室が受けとるもの

受けとるものは三つある。どれも、規則ではない。

像は敵ではない。人は昔から、性についても愛についても像をもってきたし、映画は誰にもそれを捨てろとは言わない。主人公がポルノを観なくなるのは、別の何かが訪れたあとであって、恥じ入らされたからではない。

像が害になるのは、それが、実際にそこにいる人を測る物差しになったときだ。ジョンが連れ帰った女性たちは、動画になりそこねたわけではない。ジョンは、恋愛映画の主人公になりそこねたわけではない。どちらも、最初から問われるべきことではなかった。そんなふうに測られたことのある女性は、足りなかった側ではない。

そして、誰かと一緒にいるとは、両方向に流れる注意のことだ。人を正確に見ること、そして自分が見られるのを許すこと。この図書室が「正確に知られること」と呼んできたのはそのことであり、『ドン・ジョン』はそこに、ひとつのことを付け加える。人が我を忘れられるのは、自分を見つけてくれた相手、そして自分にも見つけさせてくれた相手とだけだ。見つけることは、楽しみの前置きではない。我を忘れることを可能にするものそのものである。

この文章が主張していないこと

この文章は文化についての分析であり、臨床的な助言でも治療的な助言でもない。誰も診断しない。ジョンにも、エスターにも、映画のほかの誰にも、臨床的な呼び名は用いていない。自分は依存症ではないというジョンの言葉は、彼の言葉として紹介した。国際的な疾病分類は説明したが、誰かに当てはめてはいない。

ポルノを観る人がどれだけいるか、どれほどの頻度で観るかといった数字は、ひとつも挙げていない。この文章の主題は一本の映画の議論であって、ある集団ではないからだ。ポルノについても、恋愛映画についても、そのどちらかを観る誰についても、評決を下すものではない。どれか一種類のセックスが正しいと主張するものでもない。

エスターの喪失は、映画が述べるとおりに述べた。悲しみが彼女に何をしたかは語らず、誰の悲しみにも名前をつけていない。

この文章は、作品そのものを観たうえで書いたものではない。記したことは、公表された作品の記録と、批評、当時のインタビューに拠っており、台詞はすべて言い換えである。ジョセフ・ゴードン=レヴィット、スカーレット・ヨハンソン、ジュリアン・ムーアの言葉は、二〇一三年のインタビューや声明から訳したもので、映画についての彼ら自身の説明として扱い、この読みの証明としては扱っていない。

アダルトビデオの出演者に関する日本の法律は説明したが、当てはめてはおらず、特定の会社や人について何も主張していない。この映画をつくった人々や出演者、名前を挙げた批評家の誰かが、この図書室を知っている、あるいは推奨していると示すものは何もない。

手もとに残しておく問い

この映画のなかに、見覚えのある部屋を見つけた人のために、いくつかの問いを。

あなたは、誰の像と比べられてきただろう。そのことを、声に出して言ったことはあるだろうか。身近な誰かについて、あなたはどんな像を抱いているだろう。その人がそこに収まらなくてもいいと認めるには、何を手放すことになるだろう。あなたがしていることを、誰かが最後に正確に見て取り、蔑まずにそれを口にしてくれたのは、いつだっただろう。まだ誰にも見せていないものは何で、見せたいと思える誰かはいるだろうか。

映画は、結婚式も、約束も、治癒もないまま終わる。互いを見つけたふたりが、いまのところ、一緒に我を忘れている。それは恋愛の物語が約束するものよりも少なく、どんな像が差し出せるものよりも多い。

もしあなたが画面と比べられたことがあるなら、その物差しは、はじめからあなたを測るためのものではなかった。像は見つめ返さない。あなたには、それができる。

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親密さとは、近さではなく、正確に知られていること。同じベッドと住宅ローンと二十年を分け合いながら、他人のままでいる二人がいる。二度会っただけで互いを正確に知る二人もいる。違いは距離ではない。正確さだ。『Three Women』と、望みが手に入れてしまう観客八年の取材から生まれた一冊は、アメリカの欲望についての報告として読まれてきた。だが、私的な望みが誰かに目撃されたあとに何が起きるかという線で読み直すと、それは別の、そしてより使える本になる。三つの生において決定的だったのは望むことではなく、誰が見ていたか、あとから誰がそれを語る権利をもったか、そして他人が説明を握ったとき望みが何に変わるかであった。この本への反論と、この読みへの反論を、いずれも省かずに置く。彼女が買い戻した時間は、どこから来たのか豊かな国の女性が、移住してきた女性を雇うことで自分のケアの負担を解決する。その女性は、自分の子どものケアをどこか別の場所で、たいていは無償の女性を通じて手配する。学術の世界はこれをグローバル・ケア・チェーンと呼ぶ。この書庫は、女性が自分の時間を取り戻すことについて繰り返し書いてきた。これはその文章群が落としてきた仕訳である。時間には出所がある。それは解決策の構造についての主張であって、人を雇ったことのある誰かへの告発ではない。そして連鎖の中にいる女性たちは、決められているだけでなく、決めている。

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週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

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