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『ヴァレリア』と、自分の名前で書くということ

  • 仕事、性別、望むこと
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マドリードの作家は、約束の小説が書けない。結婚は静まり返っている。このドラマは四つのシーズンをかけて、彼女に三つのものへ自分の名前を書かせていく。本に、欲望に、別れに。そして最後に彼女を失う男は、彼女の本に人生を変えられたと語る読者を、鼻で笑った男だった。

物語の終わり近く、マドリードのブックフェアに机がひとつあり、ひとりの女性がそこに座って、自分の本にサインをしている。人前でのサイン会はこれが初めてで、何年も前から夢見てきたことでもある。読者のひとりがやって来て、あなたの本に人生を変えられたのだと告げる。その場には、彼女と暮らす男もいる。自作の小説の映像化の話が進んでいた作家だ。男はそれを鼻で笑う。あんなに軽いものが人の人生を変えるものか、とでも言いたげに。ほどなくして、彼女は彼と別れる。

このドラマが最後の本当の決断をどこに置いたのか、少し立ち止まって考えたい。結婚式ではない。ベッドの中でもない。誰かの部屋の前の雨の中でもない。サイン会の机で、一冊の本をめぐる一言のあとに、である。

物語は、同じ話の反対の端から始まっていた。白いままの原稿。迫る締め切り。静かになってしまった結婚。ヴァレリアは文学賞を受け、出版契約まで手にしたのに、約束の小説の筆が進まない。夫と暮らす部屋は、ふたりともその静けさを聞き取れなくなるほど、しんとしていた。第一話は、日本の配信では「インポスター症候群」と題されている。けれど原題はもっと短く、「ラ・インポストーラ」、偽者の女、とだけ言っている。

『ヴァレリア』はよく、スペイン版の『セックス・アンド・ザ・シティ』として紹介される。その比較は、ある程度までは当たっている。四人の女性がいて、そのひとりは書く人で、舞台は都会で、性について率直に語る場面がたくさんある。けれどこの文章は、このドラマが三角関係の奥で、もっと狭く、もっと役に立つことを描いていると考える。ひとりの女性が、いろいろなものに自分の名前を書けるようになっていく話だ。本に。出版社はある時期、彼女の本を男の名前で売ろうとした。欲望に。それは、どう扱えばいいか分かるよりずっと先に目を覚ます。別れに。このドラマは、別れを正当化するための悪役を用意しない。

彼女の書けなさは、脇筋ではない。このドラマの計器であり、驚くほど正確にひとつのことを測っている。いまこの瞬間、彼女の人生のどれだけが彼女自身のものなのか。そして、彼女が自分の名前を手放しかけたとき、表紙にその名前を残させたのは、男たちではなかった。三人の女友達だった。

だからこれは、彼女がどちらの男を選ぶべきだったかの判定ではない。ドラマはその問いに長い時間をかけ、ファンはもっと長い時間をかけた。それより面白いのは、最後に物事が起きる順番のほうだ。彼女は別れる。マドリードに残る。書く。恋が戻ってくるのは、そのあとだ。本が先なのである。

この先について、そして四つのシーズンのあらまし

この文章は、結末を含めて四つのシーズンのすべてにふれる。先に作品と出会いたい人は、ここで閉じてかまわない。読むのは、そのあとでいい。

『ヴァレリア』は、マリア・ロペス・カスターニョがネットフリックスのために手がけたスペインのドラマで、制作はプラノ・ア・プラノ。原作は、同じヒロインを描いたエリザベト・ベナベントの小説シリーズで、その第一作は二〇一三年に出ている。ベナベント自身も、創作面の相談役として制作に加わった。シーズン1は二〇二〇年五月八日に配信され、シーズン2は二〇二一年八月、シーズン3は二〇二三年六月、そして六話だけの短い最終シーズンが二〇二五年二月十四日に配信された。全部で三十話になる。シーズン1で名前の挙がっている脚本家、ロペス・カスターニョ、アウロラ・グラシア、アルムデナ・オカーニャ、フェルナンダ・エギアルテと、監督のインマ・トレンテ、ネリー・レゲラは、全員が女性だった。書くことを疑われる女性の物語は、少なくとも始まりの段階では、女性たちの手で書かれ、撮られたことになる。ヴァレリアをディアナ・ゴメスが、友人のロラ、カルメン、ネレアをシルマ・ロペス、パウラ・マリア、テレサ・リオットが演じ、ヴィクトルをマキシ・イグレシアス、ブルーノをフェデリコ・アグアドが演じている。

シーズン1。三十歳を目前にしたヴァレリアは、出版社に約束した小説が書けずにいる。夫アドリアンとの暮らしは冷え、静まり返っている。ロラを通じて、魅力的でつかみどころのないヴィクトルと出会い、彼女の心は目を覚ます。シーズンの終わりには、アドリアンと別れ、ヴィクトルからの連絡に答えないまま、家族のいるバレンシアに身を寄せている。シーズン2。お金に困ったヴァレリアは小説を世に出し、それがベストセラーになる。そして、何も約束しない付き合いを差し出すヴィクトルのもとへ、戻り続ける。

シーズン3。ヴィクトルがほかの女性とも会っていると知って、彼女は関係を断ち、同じ出版社の作家で幼い娘のいるブルーノ・アギラールと出会う。彼は自分の気持ちを隠さない。ヴィクトルともう一夜を過ごしたあと、カルメンとボルハの結婚式で、彼女はブルーノを選ぶ。最終シーズン。一年がたち、ブルーノとの暮らしは落ち着いていて、彼女はまた書けなくなっている。自作の映像化のあいだ彼女の部屋に移ってきたブルーノは、彼女の小説を軽いものだと見下し、娘と一緒にアストゥリアスへ移ろうと言う。彼女はうなずく。セラピーを経て変わったヴィクトルは友人として戻ってきて、君の書くものには意味があると告げる。そして、ブックフェアと、あの読者と、あの笑いがやって来る。彼女はブルーノと別れ、マドリードに残って書き、そのあとでようやく、ヴィクトルとふたたび結ばれる。

彼女のまわりでは、友人たちの人生がそれぞれの時計で進んでいる。通訳のロラは、既婚者セルヒオとの関係から抜け出せず、彼を断ち切るためにウィーンへ発つ。三十歳を迎える頃、十歳年下のライに恋をして、最後には彼を選ぶ。広告会社で働き、恋愛経験の少ないカルメンは、同僚のボルハに惹かれて結婚し、息子のゴンサロを産み、産休を切り上げて職場へ戻る。家に残るのはボルハだ。両親の法律事務所で働く弁護士ネレアは、レズビアンであることを両親に打ち明け、事務所を離れて自分のイベント会社を立ち上げ、仕事で雇った写真家に惹かれていく。物語の終わりにも、ネレアは恋人の結婚への怖れと向き合い続けている。

静かになった結婚と、悪役のいない別れ

このジャンルがふつうはしないことを、このドラマはまずひとつやってのける。悪役を立てずに、結婚を終わらせるのだ。

アドリアンは、残酷な夫としては描かれていない。ドラマは彼に、償うべき大きな罪を背負わせない。結婚はただ、遠く、静かになってしまった。互いに驚かされることを期待しなくなったふたりの部屋に降りてくる、あの種類の静けさだ。そしてドラマは、それを別れの理由として真剣に扱う。制作が始まったとき、ネットフリックス自身がこう紹介していた。小説のことでも、夫とのことでも、ふたりのあいだの感情の距離のことでも、危機のさなかにいる作家の物語だ、と。

かわりに彼女に与えられるのは、彼女に目を向ける誰かだ。ロラの友人ヴィクトルは彼女に気づき、彼女は、気づかれている自分に気づく。長い静けさのあとでは、それは、切れていたスイッチがもう一度入るような感覚になりうる。シーズン1が終わる前のしばらくのあいだ、彼女は妻のまま、ヴィクトルとも会っている。ドラマはそれを、何でもないことのようには扱わない。それは破られた約束であり、その重みは、ドラマが一度も責めさせようとしない男の上に落ちる。シーズン2で別居は離婚になり、アドリアンは、自分の結婚がなぜ終わったのかを、いちばんつらい形で知る。彼女の小説を読んで、知るのである。

この二つの事実を、同時に手に持っておきたい。ドラマ自身がそうしているからだ。家を出ていく妻の物語は、昔から、出ていくことを正当化するための悪役を必要としがちだった。乱暴な夫、不実な夫、せめて滑稽な夫。それがいなければ、出ていく女のほうが悪役になる。『ヴァレリア』は、その取引を断る。アドリアンはまっとうな人のままで、結婚は終わったままで、ふたりが別れるとき、ドラマはアドリアン自身に、ふたりは別々の方向へ歩いていたのだと認めさせる。静けさが理由だった。それで、理由としては足りていた。

何を望んでいるのか分からないことと、差し出されているものがそれではないと分かっていることは、別のことだ。シーズン1のヴァレリアは、自分が何を望んでいるのかを、ほとんど何も知らない。けれど、この静けさがそれではないことだけは、知っている。

その代償は本物で、ドラマは、自分がいちばんよく知っている通貨でそれを払う。ようやく書かれた本は、結婚についての真実が向かう場所になり、真実は、テーブル越しの彼女の口からではなく、活字になってアドリアンに届く。小説は、ひとりの女性が自分の名前で本当の一文を口にする、最初の場所になりうる。同時に、それを言うにはいちばん思いやりのない場所にもなりうる。ドラマは、そのどちらでもあることを許している。

書けなさは、計器である

作家が主人公の物語では、書けないことはたいてい飾りにすぎない。ヒロインが窓の外を眺めるための理由だ。『ヴァレリア』では、それはむしろ計器のように働く。そしてその針の動きは、真剣に読むに値するくらい一貫している。

書けなくなるときと、書けるようになるときを見てほしい。はじめ、静かな結婚の内側では、言葉が出てこない。最初の原稿は突き返される。原稿が動き出すのは、彼女自身の人生が動き出すときだ。ヴィクトルに惹かれ、静けさから離れていくにつれて、小説は勢いを得ていく。シーズン1の終わりには、自分の身にいま起きていることで書いた原稿が、編集者を感心させる。シーズン2では、お金もなく、ひとりになって、彼女はその本を世に出す。最終シーズン、このドラマが彼女に与えるいちばん落ち着いた関係のなかで、気持ちを隠さず先の計画を立てる男と暮らしながら、彼女はまた書けなくなる。彼と別れ、ひとりでマドリードに残ってから、彼女は書く。

分かりやすい読み方は、欲望が彼女を書けるようにした、というものだろう。新しい男が現れ、原稿があふれ出す。ドラマはその読み方を支えない。売れた本が世に出るのは、ヴィクトルが、彼女が寄りかかれるものを何ひとつ差し出さない季節だ。最後の本が書かれるのは、ブルーノと別れたあと、ヴィクトルのもとへ戻る前である。男たちは、書くことの前にも後にも現れては去っていく。この読みでいえば、書けなさが測っているのは別のものだ。いま生きている暮らしが、彼女自身の文章を中心に組まれているのか、それとも誰か別の人の形に合わせて組まれているのか。

シーズン2の二つの回の題が、このドラマがめったに自分に許さない率直さで、それを言ってしまっている。日本の配信では、第二話は「迷った時は書け」、第三話は「ただの本じゃない」と題されている。指示の形をとった、このドラマの主題そのものだ。書くことは、人生が片づいたあとでヴァレリアがすることではない。自分の人生が何なのかを知るための、やり方なのだ。

そして、望むことも、同じ能力に属している。書けなさと静かな結婚がいっしょにほどけていくのは、それが結局は同じひとつの状態だからかもしれない。原稿の上でも、原稿の外でも、一人称で話すことをやめてしまった女性の状態。戻ってきた欲望は、久しぶりに、まぎれもなく彼女のものである最初の一文になる。それをどう扱うかは別の問題で、ドラマはいつもそれに賛成しているわけではない。けれど、望むことそのものを間違いとして扱ったことは、一度もない。

『インポストーラ』という小説と、表紙に用意された男の名前

何が「書くこと」として数えられるのか。このドラマには、それをめぐる冗談がくり返し出てくる。しかも、かなり早く始まる。シーズン1の第二話、ヴァレリアはカフェでノートパソコンを開き、店員に、スリラーのつもりだった小説を官能小説に変えたのだと話す。売れるのはセックスだと気づいたから、と。店員は大喜びで、母親が夢中になっている『フィフティ・シェイズ』の話を持ち出す。ヴァレリアはむっとして言う。少なくとも私のは文学だ、と。店員は、別のテーブルでパソコンに向かっている青い髪の女性を、目で示す。あの人も作家なんです、一冊も売れてないけど。ヴァレリアは、悪気なく、気の毒がる。

青い髪の女性は、エリザベト・ベナベント本人である。このドラマの原作を書いた人だ。ネットフリックスは制作を発表したとき、彼女のヴァレリアのシリーズはスペイン語で四十五万部売れていると紹介した。しかもベナベントは、その最初の一冊を「ベータ・コケタ」という名前で、三ユーロにも満たない値段で、自分でインターネットに載せたところから始めた人である。冗談は、二重にヴァレリアに跳ね返ってくる。彼女は、自分がこれから書こうとしている種類の本を、自分を書いた当の女性の目の前で、見下しているのだから。

そして冗談は、冗談でなくなる。シーズン1の終わり、出版社は条件をつける。小説は出す。ただし男の名前で。あるスペイン語圏の解説記事の説明を借りれば、官能小説を書く男性作家なら、ほかの男たちよりずっと女性を分かっていると読者は思うだろう、という理屈である。小説の題は『インポストーラ』。第一話の原題と同じ言葉だ。「偽者の女」という題で始まった物語が、そのヒロインに、偽者になることを条件に成功を差し出すのである。

シーズン2の制作が発表されたとき、ネットフリックスはこの選択を、珍しいほど率直な言葉で紹介した。偽名で本を出し、ようやく書くことで暮らしを立てるか。それを拒んで、終わりの見えない短期契約の世界で食いつなぎ続けるか。これは恋愛のジレンマではないし、ドラマもそうは扱わない。その先は、シーズンを追ったある解説記事が伝えている。マドリードに戻り、貯金のほとんどを失ったヴァレリアは、契約書にサインすることを決める。止めたのは、友人たちだった。三人は彼女を説き伏せて、自分の名前のまま、自分の手で本を出させる。本は売れる。同じ記事によれば、やがてかつての上司が、作者の名前を変えずに版権を買いたいと言ってくる。

この筋書きが、隣のテーブルにいた女性の歩みをどれほど近くなぞっているか、気づかずにいるのはむずかしい。そして最終シーズンの配信を前に、ベナベントがスペインの通信社のインタビューで自分のジャンルについて語った言葉も、聞いておく価値がある。恋愛小説は批評からさげすまれてきたが、読まれる量が落ちたことは一度もない。「女性向けフィクション」という呼び方には、少し身構えてしまう。それは本の前に偏見を置く考え方で、本やドラマには、ただ自分を楽しませてくれるかどうかという好奇心で近づけばいい、と。ドラマはこの議論を、内側から演じてみせる。文学と、女性に売れる本とのあいだに線を引くところから始まったヒロインが、物語の終わりには、その線の向こう側でサインをしているのだ。

三人の友人と、彼女たちがしている仕事

男の名前が差し出されたとき、表紙に彼女の名前を残させたのは、恋人ではなかった。ロラと、カルメンと、ネレアだった。

このドラマはよく、友人つきの三角関係として要約される。その要約は、比率を取り違えている。シーズン2の制作発表で、ネットフリックスは三人の友人を、ヴァレリアを支える三本の柱と呼んだ。言葉は正確だ。ベナベントは最終シーズンを前に、もっとあたたかい言い方をしている。このドラマが語っている本当の恋物語は、女性どうしの連帯と友情の物語で、女性たちには、ほかの女性たちの手でつくられた安全網があるのだ、と。

友情が実際に何をしているかを見てほしい。それも、飾りではないからだ。口に出しにくいことが最初に口にされるのは、この友情のなかだ。テーブルを囲んでいるときだけでなく、ボイスメッセージのやりとりのなかでも。結婚が終わるときにも、本が出るときにも、友情はそこにいる。言い争いもするし、ロラの過去が明かされたときには、ひびも入る。そして一度だけ、決定的な瞬間に、このドラマのどの男もしなかった実務的な介入を、ヴァレリアの仕事に対して行う。自分の名前を売ろうとする彼女を、止めるのだ。

三人はそれぞれ、同じ問いの自分なりの形を抱えている。そしてドラマは、恋愛ドラマがふつう飛ばしてしまう地味な材料を、彼女たちに手渡す。ロラは、やさしい恋を信じられるようになる前に、既婚者との関係を自分の手で断たなければならない。カルメンは産休の終わりを待たずに職場へ戻り、息子と家に残るのは夫のほうだ。ドラマは、その復帰が裏切りのように感じられる彼女の気持ちを、ばかにせずに描く。ネレアは、よく受け止めてはくれない両親に打ち明け、家族の事務所を離れ、自分の会社をつくる。三十歳前後の女性の暮らしの、ありふれた仕事である。友情は、それが片づけられていく場所になっている。

この図書室には、ドリー・オルダートンの回想録を読んだ「『Everything I Know About Love』と、恋愛だけが人生の中心ではないこと」という一篇がある。そこでは、女性どうしの友情は筋書きのない愛だと論じられていた。節目も、儀礼も、出来事として数えられるものもなく、終わるときでさえ記録が残らない。『ヴァレリア』の答えは、友情に筋書きを与えることだった。そして、選ばれた筋書きが示唆に富んでいる。儀礼ではない。介入である。一冊の本の表紙の名前を変える、契約をめぐる決断だ。友情が人生を支える土台の一部なのだとしたら、これが、その土台がうまく働いているときの姿なのだろう。支えるその瞬間まで、目には見えない。

安心と、惹かれることと、気持ちを隠さない男

そして三角関係。『ヴァレリア』をめぐる会話の大半は、ここへ向かってきた。

シーズン3でドラマは、この図書室が「安心できる人と、惹かれる人が違うとき。」で扱った選択を、ていねいに組み立てる。ヴィクトルは現在形だ。魅力と熱があり、彼女を求めながら関係は求めず、何も約束しない付き合いを差し出す男。ブルーノ・アギラールは予報のほうだ。同じ出版社の作家で、父親で、自分の気持ちを隠さず、彼女が気持ちを整理するための時間をくれる男。あの文章は、安心と惹かれは別々の計器が返す数値で、役に立つ問いは「どちらの男性か」ではなく「この分裂は何を報告しているのか」だと論じた。そこで挙げられた可能性のうち、ヴァレリアにいちばんよく当てはまるのは、あの文章がもっとも真剣に受け取ったものだ。大人になってから一度も、同じ人から同時に、安心と欲しがられることの両方を感じたことがなく、二つが重なることを期待しなくなった女性。

ヴィクトルの部屋のソファにほかの女性の下着を見つけて、彼女は関係を断つ。ここで何が壊れたのかは、正確に言っておきたい。何も約束しない取り決めは、本物の取り決めであって、劣った取り決めではない。そういう取り決めを結び、守っている大人はいくらでもいる。ただ、それが誰かを守れるのは、条件が声に出して言われているときだけだ。ほかの相手をめぐる条件も含めて。ほかの女性の存在が破ったのが、ふたりの取り決めだったのか、それとも彼女がそこにそっと結びつけていた希望だったのか。それは、ふたりが実際にどんな言葉を交わしていたかによる。この場面が残すのは、それを知らずにいることの代償である。

ヴィクトルともう一夜を過ごしたあと、カルメンとボルハの結婚式で、彼女はブルーノを選ぶ。この選択は、観客を二つに割った。原作の小説でヴァレリアが選ぶのはヴィクトルで、落胆した人も多かった。より健やかな選択だと擁護する人もいた。スペインの映画サイトが反応をまとめた記事には、どちらの側よりも鋭い視聴者の一言が引かれている。ヴァレリアは「いい人」を選んだのではない。ひとりでいられないのだ。それとこれとは違う、と。

その視聴者は、最終シーズンが届く二年近く前に、その形を見抜いていた。

予報が見落としていたこと

最終シーズンは、その予報を試す。そして予報には、訊き忘れていた問いがひとつあったことが分かる。

ブルーノは相変わらず、気持ちを隠さない男だ。そして同時に、彼女の書くものをあまり買っていない男でもあることが見えてくる。自作の映像化のあいだ、彼は彼女の部屋に移ってくる。最終シーズンを詳しく紹介したある英語のレビューによれば、彼は彼女のいまの小説を、中身のない軽いもの、誰もが読み飽きた恋愛ものだと言い、以前の、より文学的な文章のほうを褒める。そして、娘と一緒にアストゥリアスへ移ろうと言う。彼女はうなずく。そして、また書けなくなる。

この二つを並べると、残酷だが明快な形が見えてくる。彼女の仕事への軽蔑と、いっしょに暮らす人生の申し出が、ひとつの包みになって届くのだ。同じ形は、マドリードから遠く離れた『花束みたいな恋をした』にも現れる。営業の仕事にすり減った麦は、絹が給料の下がる、けれど好きな仕事へ移ろうとしているのを見下すようなことを言い、言い争いの勢いのまま、仕事を辞めて好きなことをすればいいと言って結婚を申し込む。絹は断る。どちらの男も、怪物ではない。どちらも、心から贈り物だと信じているものを差し出している。彼女の仕事が、あってもなくてもいいものになる暮らしを。けれど、仕事が自分が誰であるかの一部になっている女性にとって、それは贈り物ではない。指輪や引っ越しのトラックが添えられた、降格である。

あの安心と惹かれについての文章は、安心を予報として描いた。私が弱っているとき、退屈なとき、疲れて調子の悪いとき、この人はどうするか。『ヴァレリア』は、その予報が訊いていなかった問いをひとつ付け加える。私がつくるものを、この人はどう扱うか。書く人にとって、あるいは仕事が自分の一部になっている誰にとっても、彼女にはやさしく、彼女の仕事には冷ややかな相手は、安全ではない。居心地がいいだけだ。

そのあいだにヴィクトルは、母親に勧められてセラピーに通い、友人として、距離を守りながら戻ってくる。同じレビューによれば、ヴァレリアが昔の文章を見せると、彼は、君は真面目さと大切さを取り違えている、と言う。君の本が大切なのは、それが人の心に届いて、人が自分の姿をそこに見つけられるからだ、と。四つのシーズンを通じて、誰かが彼女に言ったなかでいちばん役に立つ言葉かもしれない。そしてそれは、愛の告白ではない。ひとつの読解である。

サイン会の机で

こうしてドラマは、ブックフェアの机へ戻ってくる。

決定的な場面がサイン会であることには、意味がある。四つのシーズンのあいだ問われ続けてきたのは、彼女の仕事に誰の名前が載るのか、ということだった。男の名前。女性向けの官能小説は男の名前のほうが売れる、という理屈のために。彼女自身の名前。友人たちが手放させなかったから。誰の名前も載らない。書けなかったから。フェアで彼女は、表紙にその名前が刷られた本に、見知らぬ読者たちのために、自分の名前を何度も書く。そして読者のひとりが、その本が自分に何をしてくれたかを告げる。そのあとの笑いは、恋人どうしの口げんかではない。女性の大衆小説に対して文学の世界が昔から下してきた判決だ。それが公の場で、読者の目の前で、彼女がアストゥリアスまでついていこうとしていた男の口から、言い渡されたのである。

彼女は彼と別れる。そして、恋愛もののジャンルが結末でヒロインにめったに許さないことをする。その場所にとどまり、ひとりで、仕事をするのだ。ヴィクトルとふたたび結ばれるのは、本が書き上がってからである。この順番そのものが、議論になっている。フェアの場でブルーノのもとからヴィクトルの腕の中へ駆け込ませることもできたはずのドラマは、書くことが終わるまで、ふたりを結ばせない。

最終シーズンを紹介したあるレビューによれば、フェアの場面にはベナベント本人も現れ、あなたは素晴らしい作家なのだから誰にも自分を小さく感じさせてはいけない、とヴァレリアに告げるという。もしそうなら、シーズン1で一冊も売れていない作家として登場させられた女性が、最後に戻ってきて、ヒロインがいちばん必要としていた一言を手渡したことになる。小さく、そして正確な瞬間だ。このドラマは、ヴァレリアが自分の物語の作者を気の毒がるところから始まり、その作者が彼女の味方になるところで終わる。

シーズン3からずっと、このドラマはひとつの問いを抱えてきた。健全な選択と、本当に望む選択は、重なりうるのか。ここでドラマは、条件つきの答えを出す。重なりうる。ただしそれは、選んでいるのが、すでに自分の仕事を自分のものにしている女性であるときに限られる。その前には、健全な選択はアストゥリアスへ連れていく男で、望む選択は何も約束しない男だった。そのあとでは、同じ男が両方でありうる。彼女はもう、自分を支える柱の役目を、男に求めていないからだ。

マドリードと東京、「軽い」という同じ判決

日本のネットフリックスは、このドラマにこんな紹介文を添えている。執筆はスランプ、恋愛はクライシス、心のよりどころは三人の女友達。そのまま作品の要約として通用しそうな一文だ。

日本の紹介記事も、ほかの国と同じ比較に手を伸ばした。海外ドラマの専門サイトに載ったある長い記事は、『ヴァレリア』と『セックス・アンド・ザ・シティ』を登場人物ごとに並べたうえで、ベッドシーンがかなり多いので、スペインのドラマを見慣れていない人は驚くかもしれない、と少しばかり注意をうながしている。この見方は、断っておきたい。『ヴァレリア』の率直さは、国民性ではない。誰の欲望に画面の時間を割くかという、制作上の判断である。少なくともシーズン1では、女性たちのチームが、大人の視聴者に向けた配信シリーズのために下した判断だ。日本の画面も、静かになってしまった結婚を描く自前のドラマで、同じ判断をしてきた。夜十時の地上波ドラマと配信シリーズの違いは、形式の違いであって、気質の違いではない。

日本でいちばん近い鏡は、東村アキコの漫画をもとにした二〇一七年のドラマ『東京タラレバ娘』だろう。主人公の倫子は三十歳。仕事が行き詰まりかけているテレビの脚本家で、手がけていたドラマから外され、若い脚本家に取って代わられる。夜ごと、高校時代からの友人ふたりと、そのうちのひとりの父親が営む居酒屋で飲み、「たら」「れば」の話ばかりしている。二十五歳のモデルの青年が、三人を「タラレバ女」と呼んで叱りつける。そして物語の終わり、男たちがどうであれ、三人は三年後の東京オリンピックを、夫や恋人がいてもいなくても一緒に見ようと約束する。

二つの作品を並べると、前提以上のものが重なって見える。どちらも、書くことで生きている女性が、三十歳で立ち止まっている物語だ。どちらも友人たちを真ん中に置き、男たちをそのまわりに回らせている。そしてどちらにも、女性たちの言葉にどれだけの値打ちがあるかを言い渡す男が出てくる。『東京タラレバ娘』では、若い男が三人に、問題はあなたたちのおしゃべりだと言い、ドラマのほうも、少なくとも半分は彼にうなずきかけているように見える。『ヴァレリア』では、男が女性に、問題はあなたの本だと言い、ドラマは彼女をその部屋から歩き出させる。この違いは、二つの作品のものだ。一方は結婚の時計を軸に、もう一方は書けなさを軸に組まれている。二つの国のものではないし、どちらの街が進んでいるという話でもない。二つのドラマは、同じ判決に言い返している。女性どうしが交わす言葉や、女性が読むものは軽い、という判決に。

よその国から日本へ移ってきた女性には、三角関係よりも、別の細部のほうが強く響くかもしれない。『ヴァレリア』の友情は、テーブルを囲む時間だけでなく、ボイスメッセージのなかでも生きている。家から遠く離れた場所では、そういう小さな集まりが、暮らしを支えるもののほとんどになりうる。そしてそれは、時差をまたいで、このドラマが描くのと同じ地味な行いで保たれていく。顔を出すこと。返事をすること。友人に、それにはサインするなと言うこと。ドラマが描いているのは、ひとつの街の四人の女性だ。けれど、その仕組みは国境を越えて働く。

この読みへの反論

この文章が間違っている道は、少なくとも四つある。そのうち二つは、本気で危うい。

第一の、いちばん重い反論。ドラマが自立と呼んでいる結末は、恋愛もののジャンルが昔から抱いてきた、いちばん古い願いでもある。つかみどころのなかった男がセラピーに通い、やさしくなり、待ち、ヒロインの準備が整ったところで彼女のもとへ届けられる。ヴィクトルを望んでいたファンは、彼を手に入れた。シーズン3は最終シーズンとして宣伝されていたが、そのあとで、物語を閉じるための第四のシーズンが加えられた。シーズン3の結末への反応がその決定と関係していたのかどうか、この文章には分からない。ただ、最終シーズンがヴァレリアを、原作の小説が選んだ男のもとへ帰したことは確かだ。本が先で恋があと、という順番を、ありきたりなハッピーエンドを取り繕うための体裁だと見る読者は、間違っていない。ドラマは、同じ目的地へ向かう、もっと品のいい道を見つけただけなのかもしれない。

第二に、試験は仕組まれている。ブルーノは、負けるために書かれている。公の場で読者を笑う男は、選択をたやすくしてしまう。もっと難しい物語、つまり彼女の仕事を尊重していて、それでも彼女が望まない相手の物語を、このドラマは一度も語らない。仕事と愛についての議論がいちばん鮮やかに見えるのは、まさに、男が間違うようにドラマが手配しておいた場所なのだ。

第三に、ヴィクトルの変化は、手本にするには都合がよすぎる。セラピーは、最終シーズンが必要とする日程どおりに効いている。その結果を讃える文章は、筋書きのための装置を勧めていることになるだろう。人は変わる。助けを借りて変わることもある。けれど六話で変わることはめったにないし、このドラマを根拠に誰かを待ち続けるのは、賢いこととは言えない。

第四に、このドラマがいちばん愛しているものへの反論。自分の人生から書くことは、無垢ではない。アドリアンは、自分の結婚がなぜ終わったのかを、かつて結婚した女性の小説を読んで知った。ドラマはその本を彼女の解放として扱い、実際そうでもある。けれどそれは、ふたりで生きた私的な暮らしについての、ふたりのうち一方による公の記述でもあり、もう一方は、それをページの上で知ることになる。ヴァレリアが自分の名前で書くことを讃える読みは、そのページに書かれている人生が彼女ひとりのものではないことを、認めなければならない。

そして、この文章が評価してきた率直さについて、小さな反論をもうひとつ。スペインのある批評家は、初期のシーズンの多すぎる性の場面を重たく感じたと書いた。最終シーズンは、その大半を、同じ批評家が言う現実の問題に譲っている。欲望についてのこのドラマの開かれた態度は、信念としても、売り物としても読める。たぶん、その両方だったのだろう。

この家がここから受け取るもの

この図書室の考えを書いておく。仕事でも欲望でも、行き詰まりは失敗ではなく、情報でありうる。それは、まわりの暮らしが誰か別の人の形に組まれていることを、報告しているのかもしれない。相手がひとりの女性の仕事を尊重するかどうかは、好みの問題ではなく、その人といて彼女が安全かどうかの一部である。結婚は、静かになったという理由で終わることができ、そのために誰かを悪役に仕立てる必要はない。たいていは、誰かが代償を払うとしても。そして、名前を手放そうとする女性を止めてくれる友人たちは、その人の物語の背景ではない。物語を支えているものの一部だ。

そして、この家にとって不利なことも書いておく。この家は私的な同伴を売っている。区切られ、予定され、代金が支払われる同伴を。『ヴァレリア』のいちばん強い主張は、女性の人生を支えているのは、報酬のない、長く続くものだということだ。何の借りもないのに顔を出してくれる友人たちと、自分のものである仕事。ここで売られているものは、そのどちらにもなれない。ここでのひと晩は、誰かの名前を表紙に残させはしないし、本を書いてもくれない。一人称で生きられる欲望を讃える文章は、私的な同伴を売る家にとって、都合がよくもある。読者には、そのぶんを割り引いて読む権利がある。

この文章がよって立つもの、主張しないこと

これはテレビドラマの読解であって、実在の誰かについての報告ではない。登場人物は架空の人物であり、彼女たちが何を感じ、何を必要としているかについてここで述べたことは、演じた俳優たちについても、エリザベト・ベナベントについても、何も言っていない。登場人物の誰も診断してはいない。セラピーや、関係への怖れは、ドラマが描いているとおりに扱った。

作中の出来事は、ネットフリックスの発表と、公刊された批評や解説記事が伝えているとおりに記した。台詞はそのまま引用せず、場面は言い換えて描いている。最終シーズンのいくつかの細部、つまりブルーノが彼女の以前の文章について言ったこと、ヴィクトルが真面目さと大切さについて言ったこと、フェアに現れたベナベントの言葉は、一本の詳しいレビューによるもので、そのレビューの記述として伝えている。シーズン2で、サインを決めたヴァレリアを友人たちが思いとどまらせるくだりも、そのシーズンを追った一本の解説記事によるもので、その記事の記述として伝えている。ネレアの物語がどう終わるのかは、ここでは決めない。公刊された記述が食い違っており、ドラマ自身もそこを開いたままにしているからだ。

恋愛小説と友情についてのベナベントの発言は、最終シーズンの配信前にスペインの通信社が行ったインタビューによる。部数は、ネットフリックスが制作発表で示した数字である。この文章が引いた類似、つまりヴァレリアの歩みとベナベントの歩み、そして『ヴァレリア』と『東京タラレバ娘』や『花束みたいな恋をした』とのあいだの類似を、作品の側が意図していたとは主張しない。それらは、この文章自身の読みである。

持ち帰るための問い

あなたの名前は、どこに書かれているだろう。そして、もっともな理由があって、誰か別の人の名前を使うことに同意してきたのは、どこだろう。あなたの行き詰まりは、何を測っているのだろう。仕事で。あるいは、静かになってしまった暮らしの一角で。あなたがつくるものの隣に立てる人は誰で、読者を笑うのは誰だろう。サインしようとするあなたを止めてくれる友人は、誰だろう。そして、誰も何も悪いことをしていないのに、何かが終わったなら、あるいは終わらせる必要があるなら、先に悪役を決めることなく、そう言えるだろうか。

もしあなたが、物語の始まりのヴァレリアなら。書けず、静かで、問題は自分なのだと半ば思い込んでいるなら。このドラマがあなたに言うことはひとつだけで、それは男についてのことではない。文章は、まだそこにある。自分を中心に組まれた暮らしを、待っているだけだ。何かから離れることが必要かもしれない。サインさせまいとしてくれる友人たちが必要かもしれない。そしてほとんど間違いなく、物語がどう終わるのかを知る前に、最初の一文を書くことが必要になる。

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読みもののお便り

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