Cinema
『ナミビアの砂漠』と、説明されずにいられる静けさ
二十一歳のカナは退屈していて、気分の振れ幅が大きく、好かれようともしない。優しい恋人も、弁の立つ恋人も、画面の向こうの医師も、ネットの見知らぬ人たちも、ときにはカナ自身も、彼女のどこがおかしいのかを説明したがる。映画は判定を下さない。そしてこの映画に静けさが訪れるのは、誰も誰のことも説明していないときだけだ。
夜、誰にも何も聞かれていない時間に、カナは動物が水を飲むのを眺めている。スマートフォンの中では、ナミブ砂漠の水飲み場からの生配信が、昼も夜も流れつづけている。ときおり、暑さの向こうから何かが現れて、頭を下げ、水を飲み、また去っていく。水飲み場には、カナに何かを求める者はいない。カナについての説を持っている者もいない。
ほかの人たちは、みんな持っている。料理をつくってくれる優しい恋人は、カナは傷ついているのに気づかないふりをしているのだと考え、カナのことはよくわかっていると言う。その次の恋人は、喧嘩の最中に、お前は頭がおかしいと言い、あとになって、コミュニケーションが足りていなかったと言う。オンライン診療の医師は、数分のうちに二つの病名を候補として挙げ、それから、病名はたいして関係ないと言う。映画が日本で公開されると、ネットにはカナについての解説が次々と積み上がった。そしてカナ自身も、そこに加わる。一緒に暮らす男に、ねえ、私おかしいかな、と聞く。医師には病名を求める。自分のことを、わかりたいから。
『ナミビアの砂漠』は、好かれるように描かれることを拒む若い女性の肖像だ。そして同時に、それでも彼女を説明したくなる衝動がどれほど強いかを、静かに映しだす映画でもある。この文章は、そこにもう一つ名前を足すことはしない。彼女がしたことは、手を上げたことも含めて、はっきり書く。彼女がされたことも、はっきり書く。けれど、彼女を診断することはしない。理由は、この映画そのものの議論にある。この映画では、説明されることと、そばにいてもらうことは同じではない。そしてカナが静けさを見つけるのは、誰も誰のことも説明していないときだけだ。
そういう時間は、二度だけある。一度目は、隣に住む女性と過ごす夜の森だ。彼女は火と酒を分け合い、名前の間違った動物たちの話をする。二度目は、最後の場面の食卓。映画のほとんどを喧嘩して過ごした二人が、「わからない」という言葉をめぐって笑い出してしまう。
この映画について、そして読む前に
『ナミビアの砂漠』は、山中瑶子が脚本と監督を手がけた二〇二四年の日本映画だ。カナを河合優実が、カナが順に一緒に暮らす二人の男、ホンダとハヤシを寛一郎と金子大地が、隣人のひかりを唐田えりかが演じている。二〇二四年五月十七日にカンヌ国際映画祭の監督週間で世界初上映され、並行部門の長編第一作・第二作を対象とする国際映画批評家連盟賞を受けた。当時二十七歳の山中は、この賞を受けた史上最年少の女性になった。日本では同じ年の九月六日に公開されている。上映時間は百三十七分。画面は正方形に近いスタンダードサイズで、軽い手持ちのカメラが、河合の行く先々についていく。
山中にとっては、十九歳で撮った『あみこ』以来の本格的な長編である。高校生のときにその『あみこ』を観た河合は、いつか出演させてほしいという手紙を監督に手渡していて、カナはその河合を思い描きながら書かれた。
この文章は、最後の場面を含めて、映画の全体に触れる。恋人どうしのあいだの暴力については、どちらの側からのものも書くが、その様子を再現することはしない。映画と同じように、ある自死に一度だけ触れるが、詳しいことは書かない。オンライン診療の画面にも、カウンセリングの部屋にもカナについていき、そこで語られたことを伝える。ただし、そこで語られたことを、この文章の結論にはしない。
二十一歳、東京のはずれで
映画は、歩いているカナから始まる。町田の商業地を、コツコツ鳴る厚底のサンダルで、日焼け止めを塗りながら、誰のためにも急がずに横切っていく。町田を選んだ理由を、山中はこう話している。若い女の子はたいてい、それほどお金を持っていない。遊びに都心へ出てくることはあっても、住んでいるのはもっと郊外だろう、と。カナは二十一歳。脱毛サロンで働いていて、世の中のほとんどすべてを退屈だと感じている。
最初の場面で、友人のイチカが、同級生が自ら命を絶ったことを話す。カナはほとんど聞いていない。隣の席では男たちが下世話な話をしていて、映画は二つの会話を同時に聞かせ、カナの注意はそちらへ逸れていく。感じのいい第一印象ではない。映画はわざとそうしている。
家にはホンダがいる。不動産の仕事をしていて、家賃を払い、料理をつくり、文句ひとつ言わない。香水を宙に吹きつけて、その下をくぐるタイプの男だ。一方でカナは、実家暮らしで自信家のクリエイター、ハヤシともひそかに会っている。ある晩、ホンダが出張の支度をしながら、留守のあいだカナが困らないように作り置きをしていると、ハヤシから電話がかかってくる。カナは、イチカが泣いている、と言う。行ってあげなよ、とホンダは言う。カナが会いに行くのはハヤシで、ホンダと別れてほしいと言われて、うなずく。
出張から戻ったホンダは、行かないと約束していた店に上司に連れていかれたと打ち明ける。カナは部屋を出て、ハヤシと暮らし始める。二人で店へ行き、カナは鼻にピアスを開け、ハヤシはカナの描いたイルカを腕に彫る。ハヤシの荷物の中に、カナはエコー写真を見つける。そして、何も言わない。
ここまでが、物語の土台だ。このあと映画は、まっすぐには進まなくなる。喧嘩、階段からの転落、医師、カウンセラー、夜の森、最後の食事。
優しい男が語る、カナという人
ホンダをこの物語の善人にしてしまうのはたやすい。映画はそうしない。彼は穏やかだ。家のことをしてくれる。酔って帰ってきたカナに水を渡し、ベッドまで連れていく。彼のしていることのほとんどは、ごく平たい意味での世話であり、そこに嘘はない。
けれど、その世話には、カナについての説明がついてくる。カナが出ていったあと、ホンダは彼女の職場の前で待ち伏せる。こういうのを嫌がるのはわかっているけど、急にいなくなるのはきつい、と言う。カナは傷ついているのに気づかないふりをしている、カナのことはよくわかっている、と言う。目を向けるべきなのは、その自信のほうだ。別れたばかりの男が、カナの気持ちを本人に説明している。そしてその説明の行き着く先は、都合のいいことに、カナが帰ってくることなのだ。
山中自身がこの場面に触れている。同世代の男性はみんな優しい、少なくとも表面的には。表面的にでもそうあることは大事だし、内側で何を考えていても、それが表に出て誰かを傷つけなければかまわない。けれどこの映画では、それが漏れ出てしまう瞬間も描いた、と。例として挙げたのが待ち伏せだった。ああいうのは本当に怖い。でも恋愛のなかのことだから、たぶん本人は悪いと思っていない。
カナの返答は、この映画で彼女がするいちばん残酷なことだ。そこはごまかさずに、そう呼んでおきたい。出張のあいだに中絶した、と彼女は嘘をつく。ホンダは道の上で泣き崩れる。カナはその姿を見て、変な人、と言って笑う。
弁解の余地はないし、この文章も彼女をかばうつもりはない。ただ、その嘘がどこへ向けられているかだけは見ておきたい。嘘はまっすぐ、わかってあげる側、面倒を見る側でいたい彼のいちばん柔らかいところへ向かう。あなたは何もわかっていなかった、という筋書きの作り話を、傷つけるためだけに手渡すのだ。彼の語るカナに、カナは自分で語り返した。ほんの一瞬、説明される側に立たされるのは、彼のほうになる。
山中は、この映画の設計を、同じ音をもつ二つの言葉で語っている。逃走と闘争。カナはホンダから逃走し、ハヤシとは闘争の関係に入る。やがて立場が入れ替わり、今度はハヤシがカナから逃げたくなる。「安心できる人と、惹かれる人が違うとき。」という文章は、多くの女性が知っている分裂を描いた。両親に会わせられる人と、眠っていた何かを起こしてしまう人。安心を予報として、惹かれを現在形の数値として扱った文章だ。カナは予報を捨てて現在形のほうへ行き、映画は彼女についていく。そこで見えてくるものは、あの文章の図を否定はしないが、少し複雑にする。安心できる男の安心には、カナが書いたのではない、カナについての物語がついてくる。そして惹かれる男のほうも、やがて自分の物語を持ち出してくる。
カナが求めた、ただ一つの説明
ハヤシは、ホンダの正反対に見える。頭の回転が速く、皮肉っぽく、自信があり、家で仕事をしている。かつてニューヨークで暮らしていた両親や、みなうまくやっている友人たちとのキャンプで、カナは輪の端に居場所のないまま過ごす。のちに、階段から落ちて車椅子になったカナは、ハヤシと都庁の上から街を見下ろし、怪我でかすれた声で、こんなところで働きたくないね、と言う。二人は笑う。外に出ると、ハヤシは官僚になった昔の同級生とばったり会い、どこか誇らしげにカナに紹介する。
小さな場面だが、多くのものが詰まっている。ほんの一瞬、二人は、誰もが望むはずの暮らしを笑う冗談の同じ側に立つ。そしてその暮らしのほうが、向こうから歩いてくる。この人たちにカナが歓迎されていないわけではない。ただ、その絵の中に、彼女の場所がない。
ハヤシもまた、カナについての説明を持っている。喧嘩になると、お前は頭がおかしい、と言う。転落のあとは、焦りすぎていた、コミュニケーションが足りていなかった、と謝り、車椅子を押して世話をする。彼に欠けているのは、自分自身についての説明だ。
そのことが映画の中心に据わるのが、エコー写真の場面である。無職の男が赤ん坊を育てる脚本を書いているハヤシに、カナは、それは罪滅ぼしのつもりかと聞き、写真を突きつける。忘れていた、とハヤシは言う。妊娠は中絶で終わった、強いたわけではない、と。そもそも、お前には関係ない。カナは、今すぐその女性に電話して謝れと迫る。ハヤシは拒み、口論は取っ組み合いになる。
カナが何に怒っているのかは、正確に見ておく必要がある。その決断が女性自身のものではなかったと示すものは、映画の中に何もない。この文章も、そうは言わない。カナが耐えられないのは、忘れることのほうだ。妊娠に関わり、それが終わるのを見届け、写真を荷物にしまったまま忘れ、それから、赤ん坊を育てる男の優しい物語を書きはじめる。そういうことが、できてしまうことだ。あの場面にほかにどんな問題があるにせよ、カナの要求は、この映画で誰かが口にするいちばん真剣な要求だ。自分がしたことについて、それが起きた相手に向けて、説明をせよ。
写真の女性は、一度も画面に現れない。名前もない。電話はかけられないままだ。映画は彼女を、ハヤシが置き去りにした場所に置いたままにする。けれどこの場面で、ひとつの構図が完成する。カナのまわりの人たちは、カナのことならみな淀みなく説明してみせる。カナが求めたただ一つの説明、ある男が自分自身について語る説明だけは、誰も差し出さない。
喧嘩を、ぼかさずに
喧嘩の場面は、正確に書いておかなければならない。映画がそれを読み違えやすくつくっているからだ。物語の軸になる二つの喧嘩では、先に手を出すのはカナのほうだ。仕事が終わるまで夕食を待たされたカナは、ハヤシに物を投げつける。エコー写真のことを、お前には関係ないと突き放されると、ハヤシにつかみかかる。ハヤシも力を使う。この二度目の口論は二人の取っ組み合いになり、やがてハヤシは、カナから逃れるために部屋を飛び出していく。これは恋人どうしのあいだの暴力であり、その向きは一方通行ではない。映画も、それをそのまま映している。
そのうち最初の喧嘩は、カナが部屋を飛び出し、建物の外の階段から転げ落ちて終わる。大けがをしたカナは首を固定され、車椅子の生活になり、ハヤシが世話をする。それからの二人の暮らしのリズムは、こうだ。喧嘩をして、世話をして、また喧嘩をする。
山中は、これらの場面をどう撮ったかを隠していない。転落など危険な部分はスタントが演じた。喧嘩の場面にはアクション部が入ってリハーサルを重ね、振り付けを、かっこよく見える暴力や恐ろしく見える暴力から、滑稽な暴力、プロレスに近いものへと意識して寄せていった。そのニュアンスを共有するために、ジャック・ドワイヨンの『ラブバトル』の場面を、みんなで観たという。山中はまた、何も考えずに暴力的な女性を描くのはよくないと思った、とも語っている。映画史には理由のない男性の暴力がいくらでも描かれてきたが、自分なりの倫理がなければ、暴力は描いてはいけない、と。
その滑稽さは本物で、きちんと役目を果たしている。暴力を魅力的に見せることを拒み、一緒に暮らす人間どうしの喧嘩が、決まった手順をもつ習慣へと固まっていくさまを捉えている。批評家たちは、その両面を見た。ある批評家は、もみ合いは瞬間的には痛ましいが、続くほどに感覚が麻痺し、遠くから撮られると喜劇に近づく、と書いた。別の批評家は、家庭内暴力というより子ども同士の喧嘩だ、と書いた。
この文章は、後者の見方をとらない。見ていて滑稽な喧嘩も、暴力であることに変わりはない。女性から男性への暴力は、笑いとして演出されていても暴力であり、男性が女性に向けた力も、先に物を投げたのが彼女だったからといって、力の行使でなくなるわけではない。あの部屋で、二人はどちらも安全ではない。そして二人ともそれを知っている。ある喧嘩のあと、ハヤシは、もう無理だと言って出ていこうとし、カナは、私が出ていく、と言う。もし自分の暮らしの中の喧嘩が、手の出るものになっていたり、どちらかがおびえるようになっていたりするなら、向きがどちらであれ、それは文章ではなく、関係の外にいる専門の人に持っていくべきことだ。医師やカウンセラー、あるいは配偶者や恋人からの暴力についての公的な相談窓口に。
この映画でいちばん奇妙な映像も、ここに置いておきたい。ある喧嘩の途中、画面が片隅に縮み、カナはまったく別の場所にいる。安い電気スタンドが並ぶピンク色の部屋で、お菓子を片手にランニングマシンの上を走りながら、スマートフォンで喧嘩の映像を見ている。喧嘩を繰り返していると、最初は本気でもだんだんルーティンになり、何をやっているんだろうという段階に入って、自分を外から見られるようになる、と山中は言う。あのピンクの部屋は資本主義と消費社会を表した抽象的な空間で、ランニングマシンは撮影の米倉伸の発案だった。何かに無理やり走らされている感覚が今の社会にはある、と山中は受けとめた。
奇妙で、正確な映像だ。カナは喧嘩の中にいて、同時にそれを見ている。はっきり見えていても、喧嘩は止まらない。彼女は走りつづける。
画面の向こうの、二つの病名
ある朝、サロンの新人が、出勤前のカナに話しかけてくる。カナは話の途中で、バイバイ、と言って、職場とは反対の方向へ歩いていく。それからまもなく、カナはオンライン診療を予約する。短く、正確な場面だ。
パソコンの画面の向こうの医師は、二つの病気の名前を、可能性として挙げる。それから、病名より不安を取り除くほうが大事だ、仕事も辞めたのなら診断書もいらないでしょう、あなたに病名は関係ない、と言う。カナは引き下がらない。関係あります、自分のことをわかりたいので、と言う。うちは高いから、と医師は、もっと安いクリニックを紹介する。公開前に配給が出した紹介では、この医師は、カナと向き合おうとしない医師、と書かれている。
この文章は、二つの病名を繰り返さない。数分のうちに画面越しに差し出され、差し出した本人が、関係ないと言ったものだ。ここで繰り返せば、映画が与えずにおいた重みを、それに与えることになる。映画はどちらも確かめない。残すのは、そのやりとりのほうだ。医師は、医師にできること、つまり勤め先に出す診断書を基準にして、どこまで名前を与えるかを決める。そして若い女性は、まったく別の理由から、その名前を求めている。
その違いは、「気持ちは、聴いている人によって名前を得る。」という文章が引いた線と重なる。気持ちに名前をつけるとは、心の中の辞書を引くことではなく、聴き手に向けて行うことで、名前の精度は、聴き手がそれを使って何ができるかによって決まる、とあの文章は論じた。医師の差し出す名前は、診断書を出す窓口に合わせて仕立てられている。カナが欲しいのは、まだ誰も用意してくれていない部屋のための名前だ。自分のことをわかることのできる部屋のための。
その願いは真剣に受けとめたい。幼いと片づけてしまってはいけない。多くの人にとって、診断は檻ではなく扉だ。ケアに、言葉に、仲間につながり、ときには言い表せないほどの安堵をもたらす。病名を求めるカナは愚かではない。この場面が映しているのは、扉がラベルとして差し出され、差し出した本人の手で、舌の根も乾かぬうちに閉じられるさまだ。
名づけたい衝動は、映画の中にとどまらなかった。カンヌでこの映画に賞を贈った批評家の審査員たちは、現代の神経多様性のさまざまな色合いを大胆に探究している、と評した。監督週間の紹介文も、説得力のない医師たちが彼女を診断する、と書いた。日本では、ネットにカナについての解説があふれた。精神科医によるものもあった。医師の挙げた名前の一つを選ぶものがいくつもあり、映画が一度も語らない原因を、彼女の過去に書き足すものもあった。賞の講評は短くなければならないし、批評家には自分の見方を持つ権利がある。問題はその速さだ。映画は百三十七分のあいだ判定を下さずにいて、それでも判定は、向こうからやってくる。
砂の箱と、森の焚き火
安いほうのクリニックのカウンセラーは、別の種類の聴き手だ。配給の紹介も、はっきりそう書いている。カナとしっかり向き合うカウンセラー、と。彼女は名前を差し出さない。質問をする。カナさんには、自分はこうあるべきだと思ってしまう思考のくせがある、考えるのは自由だ、と言う。カナは、街を歩きながら抱えている怖さで答える。やっていることと思っていることが違う人が、そこらじゅうにいる。それが怖い。カウンセラーは安心させようとしない。何が怖いと思うの、と聞き、自分の中にあるものを言葉にしてみるよう勧める。
カナは父親の話をする。父親としては最低で、許せないことがたくさんあった。それでも一人の人間としては尊重すべきで、許してあげるべきだと思ってしまう。父親が何をしたのか、映画は語らない。観客はその空白をさまざまに埋めてきた。最悪の可能性で埋めた人もいる。けれど映画は、そのどれかを選ぶ根拠を与えていない。この文章も、推測はしない。
ある回のカウンセリングで、カナは砂の入った箱を前にして、その真ん中に小さな緑の木を一本植える。映画の題名を、彼女が自分の手でつくったような光景だ。砂漠と、その中の一つの生きもの。
それから、ひかりがいる。隣の部屋に住む若い女性で、壁越しに、英語を声に出して練習しているのが聞こえてくる。ベランダ越しに目が合ったことと、エレベーターでの一瞬だけを根拠に、カナは、あの人は私たちのこと全部わかってるよ、とハヤシに言う。ある夜、森にひとりでいたカナを、ひかりが見つける。二人は焚き火を囲んで酒を飲み、ひかりは言う。なんか大変そうだね。一年後には忘れているとは言わないけど、三年後にはほとんど思い出さなくなって、百年後にはみんな死んでるでしょ。わかるよって言われるのは嫌そうに見えて、実はうれしいでしょ、とも。
それから、動物の話になる。パンダアリという生きものがいる。白黒でパンダみたいで、アリみたいに小さいから、人が勝手にそう呼んでいるけれど、実は蜂の仲間。ハチクマは蜂でも熊でもなく、鳥。ウミネコも猫じゃない。ウミネコが猫だったら、海のことを好きになれたかもしれない。そのあと二人は、火のまわりで「キャンプだホイ」を歌い、何度も火を飛び越える。
映画でいちばん静かなこの場面は、間違った名前でできている。蜂だったパンダアリ。鳥だったハチクマ。カモメの仲間だったウミネコ。この話は、医師が画面越しに二つの名前を差し出してから、それほど経たないうちに置かれている。映画がその響き合いを意図したかどうかはわからない。けれど響き合いは、そこにある。名前が教えてくれるのは、誰かがそれを何と呼ぶことにしたかであって、それが何であるかについては、ほとんど何も教えてくれない。ひかりは、カナが何者なのかを告げない。ウミネコの話をする。
山中は、ひかりを、言ってほしいことを言ってくれる人だと語っている。想像上の友だちではなく実際に隣に住んでいる人だが、あのキャンプの場面は現実ではないように撮った、とも。そして、もっと希望のあることも言っている。サロンの新人はかつてのカナでもありうるし、隣人は未来のカナでもありうる。今のカナは行き詰まっているかもしれないが、それがそのまま未来の自分を決めるわけではない、と。
題名もまた、距離から来ている。山中はかつて、ナミビアの砂漠の水飲み場を映すライブ配信を、自分でも見ていた。調べてみると、あの水飲み場は人工的につくられたもので、動物たちを呼び寄せて、私たちに見せてくれているのだとわかった。山中が引っかかったのは、安全な場所から手軽に眺めて癒やされ、フレームの外のことは考えもしない、その距離だった。カナは、身近な友人や恋人を粗雑に扱う一方で、少し距離のあるカウンセラーや隣人の言うことは素直に聞ける。関係の遠い相手には、責任を負わずにすむからではないか、と山中は言う。スマートフォンの中の砂漠は、カナの暮らしからいちばん遠いものだ。そしてそれが、彼女を落ち着かせる。
最後の食卓と、二人ともわからない言葉
映画は、それまで何度も戻ってきた場所で終わる。喧嘩のあとの食卓だ。今度の喧嘩には、原因が示されない。喧嘩のあと二人は座り、ホンダがかつてカナのために作って冷凍しておいたハンバーグを食べる。優しい男の手料理が、もう一人の男との食卓に並ぶ。映画のいちばん静かな冗談かもしれない。
カナのスマートフォンが鳴る。中国の親戚からのビデオ通話だ。向こうでも大勢が食卓を囲み、みんな一度にしゃべっている。中国語をほんの少ししか話せないカナは、ニーハオと言い、それから一つの言葉を繰り返す。听不懂(ティンプートン)。聞いてもわからない、という意味だ。通話が終わると、ハヤシが、あれはどういう意味かと聞く。わからない、というカナの答えは、訳としても、肩をすくめる返事としても聞こえる。ハヤシが同じ中国語を口にする。二人は顔を見合わせて、笑い出す。何ひとつ解決しないまま、映画は終わる。
この結末について、山中は、外から何かが部屋に入ってきてほしかったと語っている。二人はずっと同じ日本語を使いながら通じ合えず、やがて体で喧嘩をするようになった。どちらにもわからない言葉があれば、二人はようやく、ほとんど同じ地平に立てる。意味や言葉があふれる世界でうまく生きられないカナにとって、わからない言語があることは救いになる、と山中は言う。外国の空港に降り立って、知らない言葉にまぎれたとき、どこかほっとするように。この場面は直感で書いたもので、二人の芝居を現場で見るまで、ここで映画を終えられると確信できた人はいなかったという。
山中はこれを、単純ではないけれどハッピーエンドだと言っている。脚本にはこのあとに少しバッドエンドのような場面があったが、この二人はあまりバッドでないほうがいいと思い、撮影を進めるうちにやめた。いつかは離れるかもしれない、それはすぐかもしれないけれど、もう少しこうしてやっていくだろう。長い人生に、そういう時期があってもいい。最後の場面では、部屋の左右もひそかに反転している。何かが決定的に変わってしまったことを示すためだ、と山中は語っている。
金子大地は、あの食卓を、カナを絶対に幸せにしようとひそかに決めている男として演じていたと話し、観客にはまったくそう見えていないようだと笑っている。場面の中にいる人でさえ、外からは読みとれない。映画はそのことと折り合いをつけている。エンドクレジットで、映画はようやく、カナが見つづけてきた配信そのものを映す。砂漠の水飲み場に、オリックスがいる。そこでも、誰も何も説明しない。
「『her/世界でひとつの彼女』と、理解されることへの誘惑」という文章は、完全に理解されたいという空想が、実は誰とも本当には出会わずにすむ方法でありうること、そして摩擦こそが相手がそこにいることのしるしだということを論じた。あの映画は孤独な男に完全な理解を差し出し、その代償を見せる。山中の映画は若い女性に、ほとんどその逆のもの、分け合われた「わからない」を差し出し、それを、この二人がたどり着けた親密さにいちばん近いものとして扱う。互いにわからないことは、カナとハヤシにとって目新しくない。一緒にわからないこと、それも初めて同じ側に立ってわからないことが、新しいのだ。
終わりの気分の中の、日本
カナは世代の肖像ではない。映画も、そうならないよう気をつけている。河合は撮影中、女性であることや、ミックスルーツであることを背負って誰かを代弁する舞台から、カナは降りてしまっていいと思った、と語っている。山中によれば、観た人の中には、破天荒だね、変わった子だね、と言う人もいれば、友達にいる、と言う人もいた。山中にとって、カナは普通の女の子で、その状態もとても普通なのだという。二十歳前後は急に社会に放り出される時期で、情報も選択肢も多すぎて、自分が本当はどう思っているのかを感じとるのが難しい、と。
それでも映画はどこかを舞台にしていて、その場所は中立ではない。今の日本で生きている気分はどうかと、山中が河合や年下のスタッフに尋ねると、みんな立場は違っても、終末のようなムードを感じていることがわかってきた。頑張ればそれだけいい暮らしが待っているとは、もう誰も思っていないのではないか、と山中は言う。映画の中でカナは、それを一行にしてしまう。仕事を失ったあと、日本は少子化と貧困で終わっていくので、今後の目標は生存です、と言い、そのまま、ねえ、私おかしいかな、とハヤシに聞くのだ。
この一行は、気分だけのものではない。日本財団が二〇二四年二月に六か国の十七歳から十九歳を対象に行った調査では、自分の国の将来が良くなると答えた日本の若者は一五・三%で、六か国の中で最も低かった。自分の国の重要な課題として真っ先に挙がったのも、少子化だった。十代を対象にした調査はカナの肖像ではないし、特定の誰かを説明するものでもない。それでも、カナが口に出したあの文は、同じ年ごろの多くの人が黙って抱えている文なのかもしれない。
仕事のことも、同じ絵の中にある。山中によれば、脱毛サロンを選んだのには理由がある。本来やらなくてもいいのに、まんまとやらなければと思わされていることが、今は多すぎる。そのひとつとして、と。カナが仕事を失った理由として語る話には、静かな皮肉がある。本気で脱毛したいならサロンではなく医療脱毛へ行ったほうがいい、と客に言ってクビになった、とカナはハヤシに話す。日本では、レーザーなど強い光を毛根に当てて毛乳頭などを壊す行為は、医師でなければ行えない医業とされている。だからカナの助言は、ただの事実だった。サロンには、カナが客に勧めたものを売ることができない。
山中はまた、この映画は裏・『花束みたいな恋をした』みたいだ、と言われたことがあり、たしかにそうかもしれないと思ったと語っている。どちらも、東京やその近郊で部屋を分け合う若い二人の話だ。あちらの二人は、同じ本や映画や音楽という共通の文化の上に暮らし、やがて仕事が二人を引き離していく。カナには、そのどれも必要ない。苛立って、映画なんか観てなにになんだよ、とハヤシに言い放つ場面さえある。二つの肖像は、一つの世代をめぐる対立した判決ではない。同じ世代の、二つの部屋だ。
言葉の境界をまたいで日本に暮らす人には、この結末が、特別な響き方をするかもしれない。母親が中国人である山中は、河合とミックスルーツの所在のなさについて話したことを思い出し、脚本の後半でカナにその設定を加えた。河合は、そういう通じなさは、ミックスルーツでなくても誰もが経験しているのではないかと話している。これは言葉で言っても伝わらないだろう、と感じる瞬間。大人になってから日本語を身につけた人なら、一日じゅう半分だけ理解される疲れを知っているかもしれない。この映画は、その疲れの内側からは奇妙に聞こえるかもしれないことを差し出す。食卓の誰にもわからない言葉は、休息にもなりうる。そのあいだだけは、誰も読みとられずにすむからだ。
日本の外から見ると、カナを国の症状として読みたくなる。ある海外の批評は、日本の同調圧力が、合わない型に自分をねじこもうとするカナとその世代を殺しつつある、と書いた。後半は正確だ。前半は少し違う。合わない型に合わせろという圧力は日本の発明ではないし、映画はどの型のことを言っているのかについて正確だからだ。優しい男と、弁の立つ男。脱毛サロン。車椅子から笑ったオフィスの塔。『わたしは最悪。』もまた、二人の男のあいだを揺れる若い女性を描いている。あの映画は題名で彼女を最悪と呼び、そのうえで愛らしく描く。『ナミビアの砂漠』は、その手間をかけない。そしてそのぶん、誠実なのかもしれない。
この読みへの反論
この読みには、答えておくべき反論が五つある。最後の一つは、映画ではなくこの図書室に向けられている。
第一に、映画そのものが、答えるのを拒んでいる問いを立てている。診療の場面を置き、カウンセラーの問いに父親のまわりを巡らせ、砂の箱をカナの前に置く。ある批評家は、映画は彼女を診断する一歩手前で止まっているが、それでも彼女を症状の束に還元してしまう危険がある、と書いた。映画は彼女の苦しみについて曖昧すぎると同時に、それに興味を持ちすぎている、と感じることもできる。判定を下さないことを褒めるこの文章は、映画が意図して問いを開いたままにしていること、そしてひょっとすると両方を欲しがっていることを、認めなければならない。
第二に、そしてこちらのほうが大事なことだが、多くの人にとって名前は安堵だ。何年も、誰にも説明できない気分の波とともに生きてきた人が、カナに自分を重ね、医師の言葉を欲しいと思うことはありうる。あらゆる診断を人を管理する手段として扱う文章は、その人を侮辱することになる。この文章は、そういうことを言いたいのではない。断っているのは一つだけ、暗がりから彼女を眺める人たちによる、虚構の女性への診断だ。そして、次の人へ引き渡そうとしている誰かが数分で差し出す名前と、そばにとどまる誰かと一緒にたどり着く名前は同じではない、と考えている。
第三に、喧嘩の滑稽さ。女性から男性への暴力をどたばた喜劇として見せる映画は、現実の暴力を笑いやすくし、受けた側の男性がそれを口にしにくくするかもしれない。内閣府が二〇二三年度に行った男女間の暴力に関する調査では、配偶者から被害を受けたことのある人のうち、誰にも打ち明けず、どこにも相談しなかった人は、女性で三六・三%、男性では五七・二%にのぼった。カナとハヤシは結婚しておらず、この数字は二人のことを語らない。それでも、この滑稽さには、映画が勘定しきれていない代償がある。監督の語った倫理も、この文章の記述も、それを払いきれるものではない。
第四に、カナが傷つける人たち。この文章は共感の多くをカナに注いできたが、ホンダはあの嘘に値することを何もしていない。ハヤシは、忘れていたことがあるにせよ、歩けなくなったカナの世話をした。写真の女性、カナがただ一人味方しようとした人は、一つの場面も与えられない。気分の波が激しい女性への忍耐を求める読みは、その忍耐を彼女ひとりに使い切らないよう、気をつけなければならない。
最後に、この図書室自身に向けられる反論。この家は私的な同伴を売っている。何も求めず、何も説明しない、少し距離のある人たちのところにだけ静けさを見つける文章は、この家のような場所がいかにも好みそうな議論をしている。その分を差し引いて読んでほしい。ここで主張することは、もっと狭い。世話をしてもらう代償として、自分についての誰かの説明を受け入れなければならない人がいてはならない。それは基準であり、ほかの誰に対してと同じように、この家にも当てはまる。
この図書室が受けとるもの
説明が悪いということではない。カナ自身、説明を求めている。そしてハヤシに求めた説明は、彼が負っているものだ。映画が見せているのは、二種類の注意の違いだ。ひとつは、あなたについての説明に手を伸ばす。あなたが何を感じているのか、どこがおかしいのか、何が必要なのか。そしてしばしば、だからどうすべきか。たいていそれは、帰ってこい、ということになる。もうひとつは、説明を持たないまま、同じ部屋にとどまる。
説明されることは、そばにいてもらうことと同じではない。この映画では前者はどこにでもあって、後者はまれだ。そしてそれが訪れるときは、少し離れたところにいる人からやってくる。何が怖いのかと尋ねるカウンセラー。ウミネコの話をする隣人。そして最後に、さっきまで喧嘩していた男が、中国語の意味を尋ね、答えが「わからない」だったことに笑い出す。
女性が、誰もが説明したがる人になってしまう理由はいくつもある。その一部は彼女自身のものだ。一緒に暮らしにくい人かもしれない。嘘をつき、手を上げ、泣いている男を笑うかもしれない。カナはその三つともする。けれど理由の一部は、説明する側にある。誰かについての説明は、その人をじっとさせておく方法であり、じっとしていない人のそばで暮らすのは、ときに怖いからだ。そう言ったところで、カナの残酷さが優しさに変わるわけではない。ただ、彼女に名前をつけようと急ぐことが、言われているほど思いやりには見えなくなる。
だから一度だけ、あなたに向けて書く。もしあなたが、誰もが説明したがる人だったなら。気分の波を夕食の席で診断され、沈黙を、一度も尋ねてこなかった人たちに解釈されてきたなら。そばにいてもらうために、その人たちの説明を受け入れる必要はない。自分のことをわかりたいと思っていいし、そのために、専門の人の助けを探していい。画面越しに最初に差し出された名前を、そのまま受けとらずに。そしてカナが一晩だけそうしたように、誰も何の意味もわからず、誰もそれを気にしていない瞬間が、いちばんいい瞬間のひとつだと知ってもいい。
山中は、十年後にはきっと今の自分を、全然わかっていなかったと思うだろうし、死ぬときにも、何もわからなかったなと思って死ぬんだろう、と笑いながら話している。こういう映画が生まれてくる場所として、悪くない。人が暮らす場所としても、悪くない。
持ち帰る問い
あなたの人生で、あなたについての説明を持っているのは誰だろう。それを最後に声に出して聞かされたのは、いつだっただろう。
少し離れたところにいるからこそ、素直に話を聞ける人はいるだろうか。その距離は、何を可能にしているのだろう。
自分のしたことについて説明してほしいと誰かに求めたとき、代わりに何を受けとっただろう。
もし自分の感じていることに名前が差し出されたら、その名前に、どんな扉を開けてほしいだろう。
最後に誰かと「わからない」を分け合ったのはいつだろう。それは距離に感じられただろうか。それとも、そばにいることに感じられただろうか。
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読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。