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『わたしたちのハッピー・エンディング』と、言いだせないまま重くなった本当のこと
一年のあいだ、ルナはやさしさと気恥ずかしさから演技を続けてきた。夜を重ねるたびに、本当のことは重くなる。言えば、それまでの夜のすべてを書き換えることになるからだ。自分が何を求めているのかをよく知っている女性と、それを伝えられないただひとりの相手についての喜劇。
付き合いはじめて、ちょうど一年になる日。ルナとミンクは、はた目には、どこから見ても幸せな恋人たちだ。見ている誰も、ふたりのあいだにまだ言っていないことがあるとは思わないだろう。
ひとつだけある。そして、ふたりのうちでそれを知っているのはルナだけだ。この一年、彼女はミンクとのあいだで一度も達したことがない。はじめから、毎回、達したふりをしてきた。彼はそれを信じている。彼女の演技は上手で、彼は彼女を愛していて、疑う理由がどこにもないからだ。親しい友人たちは知っている。彼だけが、何も知らない。
彼女がそうするのは、彼を見下しているからでも、退屈しているからでも、何かを計算しているからでもない。やさしさと、気恥ずかしさからだ。どちらもいちばんありふれた理由であり、映画はそのどちらについても、彼女を責めるようなことをしない。
この文章が考えたいのは、こういうことだ。『わたしたちのハッピー・エンディング』は、自分の快さを見つけられない女性の物語ではない。それがどこにあるのか、ルナはよく知っている。やがて映画のなかのほとんど誰もが知ることになる。いちばん関わりのある、ひとりの男をのぞいて。これは、言わずにおくたびに値段の上がっていく一言の物語である。最初の夜に言っていれば、それはその一夜についての知らせですんだ。一年たってから言えば、一年ぶんの知らせになる。それまでのすべての夜を、さかのぼって書き換えてしまうからだ。ルナが自分の望むことを最初に口にできた相手が、知り合ったばかりの女性だったのは、ミンクに何かが欠けていたからというより、そのためである。一度もふりをしなくてよかった相手だった。そして最初に傷つくのも、その女性になる。本当のことは告白という形で届くものだと誰もが思っている。その告白が、この本当のことにとってはいちばん難しい届き方になってしまうのも、同じ理由による。
だからといって、重たい映画だというのではない。これはロマンチック・コメディで、調子は軽やかで、登場人物の誰もがまっとうに描かれている。悪人はひとりもいない。だからこそ、傷が本物に感じられる。誰も残酷ではない。それでも、みんなが傷つく。
作品について、読み進める前に
『わたしたちのハッピー・エンディング』は、二〇二三年のオランダ映画である。脚本と監督はヨーシェ・デュークで、彼女にとってはじめての長編映画になる。もとになったのは、二〇二一年にネットフリックスが開いた脚本コンテストで選ばれた脚本で、そのころの題は、訳せば「一たす一は三」。冗談がそのまま題になっていた。完成した映画は二〇二三年九月一日に世界で同時に配信がはじまり、日本でもネットフリックスで観ることができる。ルナをハイテ・ヤンセン、ミンクをマルタイン・ラケマイヤー、ふたりが出会う女性イブをジョイ・デリマ、ミンクの親友をシダル・トクソズが演じている。撮影はおもにアムステルダムとデン・ハーグで行われた。
脚本が選ばれたとき、デュークはオランダの日刊紙の取材に、自分が何を物足りなく思っていたのかを語っている。オランダの映画情報サイトが伝えたところでは、ありがちなロマンチック・コメディには、女性の性の経験が身に覚えのある形で描かれることがあまりないので、自分の世界から、若いということや、性について話すことを、本物らしく描き加えたいのだという。女友だちのあいだなら性について話すのは簡単なのに、恋人とのあいだではそれがしばしばとても難しい、とも彼女は語っていた。この映画のすべては、そのふたつのあいだの隔たりのなかで起きる。
読み進める前に、二つ断っておきたい。この文章は、映画そのものを観て書いたものではない。場面は公開されているあらすじや映画評が記しているとおりに描き、登場人物のせりふはすべて言い換えていて、そのままの引用ではない。そしてこの文章は、最後の場面までふくめて映画の全体にふれる。この映画が言いたいことは、最後の場面にあるからだ。結末をまず画面で観たい人は、ここでいったん読むのをやめて、観てから戻ってきてほしい。
もうひとつ、この文章がしないことについて。性を扱う喜劇である以上、映画は率直だ。この文章は性についてはひとことで名指すだけにとどめ、誰の体も描写しない。ルナがミンクに、自分がどうやって達するのかを話す場面まで来ても、話したということだけを記し、何を話したのかは、ふたりのあいだに置いておく。
彼女がふりをする理由
彼女の理由から始めたい。映画がそれをきちんと描いているからであり、その理由が、人を叱りたがる人の思いつくようなものではないからだ。
こういうことがどう始まるのかは、想像にかたくない。思っていたようにはいかなかった最初の夜。そう口にすれば、彼が見るからに楽しんでいるひとときを台なしにしてしまう瞬間。数秒の演技で、ひと晩がうまくいく。そして次の夜には、本当のことを言うなら、最初の夜のことまで言わなければならなくなっている。ネットフリックスの紹介文は、この罠をひとことで書いている。ルナはこの秘密をあまりに長く抱えてきたので、もう彼に切り出す勇気が出ないのだ、と。
まず、やさしさ。ミンクは彼女を愛している。その瞬間に、あるいはそれから先のどの瞬間にでも、うまくいっていないと告げれば、愛する女性を喜ばせていると信じている男に、そうではないと告げることになる。ルナは何度も何度も、それを言わずにおく。本物のやさしさであり、映画もそれを、やさしさとして描いている。
次に、気恥ずかしさ。こちらは名指すのが難しい。矛先が彼女自身に向くからだ。相手とのあいだで達しないことは、自分のどこかがおかしいしるしのように感じられることがある。それを口にすれば、その欠陥を自分から言いふらすように思える。ふりをしていれば、その問いにはふたをしておける。何もおかしくないのなら、何も見つめなくていい。とりわけ、自分自身を。
そしてその二つの底に、いちばん単純な理由がある。うまくいくのだ。夜は楽しく過ぎ、彼は幸せそうで、彼女は彼が好きだ。見えるかぎり、誰も傷ついていない。ほかの点では申し分のない関係のなかで、それを保ちつづけるための演技は、内側から見れば、身勝手からいちばん遠い選択にさえ見える。しばらくのあいだ、演技はふたりを守る。そのあとに来るものを、映画は正直に描く。演技は、どちらのことも守らなくなるのだ。
夜ごとに形を変える一言
ここに、この映画を組み立てている仕組みがある。はっきり言葉にしておきたい。このあと起きることのほとんどが、これで説明できるからだ。
ルナのような演技は、同じ大きさのままではいない。最初の夜なら、本当のことは小さかった。今日はだめだった、というだけのことだ。数週間たつと、それは大きくなる。まだ一度も、あなたとは、になる。一年たつと、そこに過去形がつく。一度もなかった、そして、そうではないとあなたに思わせてきた、になる。彼女の体が告げていることは、はじめからずっと同じだ。変わったのは、その一言が届いたときに何をしてしまうか、のほうである。
間に合ううちに言われた本当のことは、報告になる。遅れて言われた本当のことは、書き換えになる。いまのことを伝えるだけではすまない。届くまでに過ぎたすべての夜にさかのぼって、それぞれの夜が何だったのかを変えてしまう。ミンクが知るのは、いま何かがうまくいっていない、ということだけではない。自分の覚えている一年が、別のものだったということ。分かち合っていると思っていた時間のひとつひとつが、彼女が彼をかばっていた時間だったということ。そして、自分を愛している女性が、夜ごとに、かばいつづけるほうを選んできたということだ。
だから、ためらいが長引いたことは、彼女が彼を大切に思っていない証拠にはならない。むしろ逆に近い。大切に思えば思うほど、打ち明けて失うものは大きくなり、打ち明けられる彼の痛手も大きくなる。ふりをした夜のひとつひとつはやさしく、そのひとつひとつが、本当のことを重くしていく。この映画では、やさしさが利子のように積み重なっていく。
うまくいってしまう演技
今度は、この一年をベッドの反対側から見てみたい。ミンクはこの一年で何を手にしたのか。愛する女性にとって自分はよい恋人なのだという、一度も揺らいだことのない、疑いようのない証拠だ。それが一年ぶんある。映画は彼を、彼女を愛するまっとうな男として描いていて、疑うきっかけはどこにもない。演技は、演じる本人だけのものではない。相手に手渡される情報でもあり、受けとった人は、その上に何かを築いていく。
この種の演技については、内側から語られた、よく知られた説明がある。場の空気を壊さないように受け答えを編集しつづける女性は、やがて自分が何を好むのかが聞きとりにくくなるかもしれない。望みが、口に出る前にふるいにかけられてしまうからだ。その説明は、パートナーの側にも目を向ける。摩擦の少ない同調を受けとる人には、その下を確かめる理由があまりない。不満がないことは、熱意があることといちばん取り違えやすい合図だからだ。
『わたしたちのハッピー・エンディング』は、その説明には収まらない場合で、二つの点でちがっている。ひとつめ。ルナは自分の声を見失っていない。はっきり聞こえている。何が足りないのかを正確に知っていて、友人たちも知っている。だからこそ、彼女の暮らしをひっくり返すことになる思いつきが持ち上がるのだ。演技によって彼女が失ったのは、自分自身への手がかりではない。それを誰よりも必要としているひとりの相手へ、届く道のほうだ。ふたつめ。ミンクが受けとってきたのは、不満のなさではない。それなら、注意深いパートナーは、その下を確かめることを学べるかもしれない。彼が受けとってきたのは、目の前にはっきりとあるもの、つまり演じられた快さだった。繰り返され、信じるに足る快さだ。注意深いパートナーであればあるほど、それを信じる理由がある。
ここが残酷なところだ。怒りを向けるなら、ふたりのどちらでもなく、仕組みのほうに向けるべきだろう。ルナの演技がうまければうまいほど、それは隙なく通用する。隙なく通用すればするほど、ほどくのに高くつく。彼女の腕前こそが問題なのだ。本来なら誰も彼女に求めるはずのなかったことに、彼女はすっかり長けてしまった。そして、それをうまくやったことへの報いは、本当のことがいっそう言いにくくなることだった。
一言のかわりの取り決め
友人たちは知っている。そして彼女たちに背中を押されるようにして、ひとつの思いつきがルナとミンクのあいだに持ち上がる。三人でしてみる、という思いつきだ。ルナが持ちかけ、ミンクは応じる。ふたりはイブに出会い、三人で一夜を過ごす。
この思いつきが何のためのものなのかを、考えておきたい。ルナはそれで、ミンクに一年隠してきたことをどうにかしたいと願っている。なぜ変わらなければならないのかを言わずに、ふたりのベッドで起きることを変える方法。一言のかわりの取り決めである。人がこういう取り決めに手を伸ばすのには、わかりやすい理由がある。取り決めなら、冒険として軽く持ちかけられる。一言は、そうはいかない。
「『ワンダーラスト: 幸せになるためのセラピー』と、取り決めの届かない場所」という文章は、何が欠けているのかを誰も言わずにすませるために関係を開いてはいけない、という戒めを取りあげ、そのうえで、もっと難しい場合へと進んだ。知っていることは何でも口にしたのに、欠けていたものが自分自身にも隠れていた女性の場合である。『わたしたちのハッピー・エンディング』は、そのわかりやすいほうの場合、あの戒めがまさに向けられていた場合にあたる。ルナは、何が欠けているのかを正確に知っている。三人での夜は、それを言わずに変えようとする試みなのだ。
だからといって、あの夜に合意がなかったことにはならない。何に合意したのかを、はっきりさせておきたい。思いつきはふたりのあいだで持ち上がり、ミンクは応じた。彼はその夜を楽しみ、そのあとはイブを自分たちのパーティーに招きさえする。三人の大人が選んだ夜である。合意の範囲にあったのは、三人で過ごす一夜だった。その範囲に入りようがなかったのは、その夜の理由である。ルナがふりをしてきたことを知らないミンクには、その夜が何を直すためのものだったのか、知りようがなかった。その夜が彼にとって何だったにせよ、彼の「はい」は彼のものだ。けれどそれが、おかしいとすら知らなかったことへの手当てだったはずはない。計画したふたりにとって、同じ夜がちがう意味をもっていた。そしてそれを知っていたのは、ひとりだけだった。
あの夜と、それが生んだ知らせ
そしてその夜、誰も思ってもいなかったことが起きる。ミンクが眠ってしまったあとも、ルナとイブは起きていて、イブとのあいだで、ルナは達する。
彼女にとってはこのうえない出来事であり、彼女の秘密にとっては最悪の出来事だった。このうえないというのは、ルナが自分について何を恐れていたにせよ、それに答えが出たからだ。彼女の快さは、はじめからそこにあった。最悪だというのは、知らせの形がまた変わってしまったからだ。言わずにいた一言は、彼女についてのものだった。わたしは達しない。いま手もとにある一言は、彼についてのものになっている。あなたとは達しない、彼女とは達した。沈黙を終わらせるはずだった取り決めは、沈黙を比較に変えてしまった。比較は、本当のことのなかでもいちばん聞くのがつらい。順位として届くからだ。
なぜイブとだったのか。この文章は体についての理屈を持ちださないし、その必要もない。ウェブ媒体オートストラドルでこの映画を評したカイラ・クマリ・ウパディヤヤは、そのあと始まる短い関係のなかのルナについて、自分の望むことを求められるようになったことに胸を躍らせている、と書いている。なぜそこでは、求めることがたやすかったのか。答えは、さきほどの仕組みのなかにあるのかもしれない。イブとのあいだには、ほどかなければならないものが何もない。イブは一度も、うそを聞かされていない。彼女にとって、ルナの体についての本当のことは、ただの情報だ。尋ねられ、伝えられればそれでよく、書き換えられるのを待っている一年は、どこにもない。ミンクに同じ言葉を言えば、それは告白になる。
ルナが自分の望むことを最初に伝えられた相手は、一度もふりをしたことのない、ただひとりの相手だった。この映画のいちばんの笑いどころであり、いちばん悲しい事実であって、そのふたつは同じものだ。そしてそれは、まだ誰も傷ついていないうちから、誰が最初に傷つくのかを告げている。
通いつづける
ルナはイブのもとへ通いつづける。ミンクの知らないところで、である。そのあいだミンクは、彼女が何を求めているのかにまだ気づかないまま、イブを自分たちのパーティーに招く。ウパディヤヤは、目の前でふたりの女性のあいだに何かが起きていても、彼がそれに気づかないことに目をとめている。
映画はここで誰も悪人にしない。この文章も、いまさら誰かを悪人にはしない。ただ、快さがどこへ行ったのかは見ておきたい。それは家に帰ってきていない。ルナは必要としていたものを見つけ、それを、本当のことをしまっておいたのと同じ場所、ミンクに見えない場所にしまった。合意の範囲にあったのは、三人で過ごした一夜だった。そのあとに続いたことは、その外にある。一夜への合意は、そこから育っていくものへの合意ではない。
ここで、あの取り決めが何だったのかが見えてくる。それははじめから、本当のことを関係のなかへ持ちこむものにはなりえなかった。本当のことを言わずにすむように作られていたからだ。かわりにそれは、ルナの快さを関係の外へ運び出した。何を望んでいるのかを、まだ誰からも尋ねられていない女性のもとへ。
打ち明けた夜
ルナがようやくミンクに打ち明けるとき、その一言は利子をそっくりつけて届く。あなたとは一度も達したことがない、イブとはあった、と彼女は告げる。そしてもうひとこと言い添える。あなたが自分で気づくべきだった、と。そのひとことで、打ち明け話は喧嘩に変わる。激しい口論の末に、ミンクは家を飛び出して、親友のもとへ向かう。
その最後のひとことで彼女を責めるのはたやすいし、そう感じる観客もいるだろう。この文章は、まずそれを理解したい。そこにある願いは、いちばん古い願いのひとつだ。いちばん言いにくいことを言わずにすむこと。自分を愛している人に、気づいてもらうこと。そう願ったことのない人は、あまり思い浮かばない。
けれど、ここでこの願いをかなえるには、彼に何が求められていたのかを見てほしい。一年のあいだルナは、彼が見抜くべきだったといまになって言っている、まさにそのことを、毎回、上手に演じてきた。気づくためには、ミンクは彼女を信じないでいなければならなかった。彼女が快さを見せるたびに、それを演技だと受けとらなければならなかった。気づいてほしいという願いは、人間らしい。けれどこの場合、それはかなわない願いでもあった。そしてそのかなわなさは、一夜ずつ、やさしく作られてきたものだった。
本当のことがようやくとった形にも、目をとめておきたい。それは一年への判決として、ひと晩のうちに、しかも比較をつけて届く。判決として届いたものは、そうとしか聞こえない。ミンクはそれを、自分への裁きとして聞く。どんな言葉を選んでいれば、あの夜を救えたのか。この文章にはわからない。そのころにはもう、本当のことに残された形のなかで、告白がいちばん悪いものになっていたのかもしれない。そしてルナの手もとには、それしか残っていなかった。
イブの朝
その夜、ルナはイブを呼び、ふたりは一夜を過ごす。朝になって、イブはルナを展覧会に誘う。小さな誘いであり、大きな誘いでもある。昼の光、人の集まる場所、ほかの人たちに混じって過ごす午後。互いにとって何者かになりかけているふたりが、ごくふつうに選ぶ過ごし方だ。ルナは、ミンクが帰ってくるのを気にしている。イブには、その気がかりが何を意味するのかがわかる。自分は絶頂のための手段にすぎないのかと傷ついたイブは、それならバイブでも買えばいい、と言い残して出ていく。
可笑しい台詞であり、刺すための台詞であり、そして正確な台詞である。イブはひとことで、自分が何にされていたのかを名指している。恋人でも、友人でも、浮気の相手ですらない。道具だ。ひとつの効き目のためだけに求められ、朝からは締め出され、よその関係が抱える問題への答えとして扱われる。それだけのためなら機械で足りる、とイブは言っているのだ。彼女は機械ではない。
ネットフリックスの紹介文によれば、彼女は気候変動の活動家だ。そしてあの朝、彼女にはいっしょに見たい展覧会があった。この文章は、彼女の暮らしについてそれ以上のことを知らないし、残りを想像で埋めることもしない。できるのは、彼女の台詞をその重さのまま受けとることだ。イブは正しい。誰かとのあいだで快さを見つけたからといって、その相手がそのための手段になるわけではない。ルナに足りなかったものをもたらした相手も、ひとりの人間であり、自分の朝と、自分の予定と、自分の傷をもっている。あの取り決めには、そのどれを入れる場所もなかった。誰も口にしなかった一言を中心に組み立てられていたからであり、イブは、その一言ではなかった。
そして、帰ってきたミンクは、建物から出ていくイブを見かける。なぜ自分と話さずに彼女と寝たのかと、彼は泣きながらルナに問い、関係を終わらせる。
彼の問いをイブの台詞の横に並べてみると、二つは同じことを両側から言っている。イブは、話し合いのかわりに使われた。ミンクは、話し合う相手に選ばれなかった。口にされずにすまされた一言が、ふたりを傷つけた。そして、みんなをかばおうとしていたルナは、その朝が終わるまでに、ふたりとも失っている。
友人の家と、みんなの悩み
ルナは友人の家に身を寄せ、ふさぎこむ。友人たちは、友人らしいことをする。彼女を走りに連れ出し、いっしょに『チャーリーズ・エンジェル』の仮装をする。それから、それぞれが抱えている性の悩みを、率直に語り合う。ミンクの親友も、そこに加わる。
この語り合いが、映画のいちばん静かな主張であり、デュークのあの言葉をそのまま場面にしたものになっている。友だちとなら簡単で、恋人とでは難しい。ルナの友人たちがミンクより先に知っていたのは、彼女たちのほうが賢いからではない。彼女たちに話すのに、たいした代価はかからなかったからだ。聞いたからといって、彼女たちとルナのあいだで書き換わるものは何もなかった。この語り合いでわかるのは、その場の誰もが性についてそれぞれの悩みを抱えている、ということだ。ルナがひそかな恥として抱えてきたものは、友人どうしで比べ合えるくらい、ありふれたものだった。そのあとで、ルナはもう一度向き合おうと決める。
ミンクの働くレストランへ行き、ふたりが出会った日をおどけて再現してみせ、やり直したいと告げる。ミンクは答えられない。ルナはその沈黙を、拒絶と受けとる。残りの荷物を取りに行く途中、カフェにイブの姿を見かけても、声はかけない。
その最後の瞬間は小さい。そしてここまでのことを思えば、まっとうなふるまいだ。この文章はそれを、映画のなかでルナがはじめてイブに何も求めない瞬間として読む。それがイブにとって十分なのかどうかを、映画は決めずにおいている。そのことは、あとで、この読みへの反論のなかでもう一度とりあげる。
屋上で、ひとつの問い
ここから先は、映画の結末にふれる。
ルナが自転車で去ったあと、ミンクは部屋に置き忘れられたものを見つける。彼女のバイブだ。彼は自転車に乗り、あとを追う。ルナは足場をよじ登った先の屋上にいて、彼もそこまで登り、隣に腰を下ろす。それから、どう使うのかと尋ねる。彼女がどうやって達するのかを話すのに耳を傾け、自分に何ができるのかを聞きはじめる。ふたりが性について交わす、はじめての正直な会話である。映画は扉を開けたまま、そこで終わる。
彼女が何を話したのかは、ふたりのあいだに置いておく。大事なのは場面の形のほうだ。それは、この映画でそれまでになされた、本当のことを伝えようとするあらゆる試みを、裏返しにしている。
まず、あの道具に目を向けてほしい。イブはそれを、侮辱の言葉として持ちだした。達したいだけなら、バイブでも買えばいい。そのバイブが、本当のことをふたりのもとへ届けるものになる。誰かのかわりとしてではない。証拠としてだ。それは告白なしに、ルナがずっと知っていたことを告げている。彼女の快さは、はじめから失われてなどいなかった。ミンクが与えるものでも、イブが補うものでもなかった。彼女のものだった。足りなかったのは、それを彼に伝える道のほうだった。
次に、問いを見てほしい。イブが出ていった朝、泣きながらミンクが口にした問いは、なぜ、だった。なぜ自分と話さずに彼女と寝たのか。屋上での問いは、どうやって、である。なぜ、は説明を求める。一年ぶんの説明とは、告白のことだ。どうやって、は情報を求める。情報なら、ただ伝えればいい。この映画ではじめて、ルナの体についての本当のことが、彼に下される判決としてではなく、彼が自分で尋ねた問いへの答えとして届く。彼は知りたかった。そのことが、知るということの中身を変える。
「『31年目の夫婦げんか』と、求めるのが彼女ひとりではなくなった夜」という文章は、頼むことのいちばん難しいところは断られうる者になることだと論じ、長い結婚は、もうひとりが戸口に立つ番を引き受けたときにようやく向きを変えた、と書いた。『わたしたちのハッピー・エンディング』は、同じ戸口に反対側からたどり着く。この一年、ふたりのうち一方は演じ、もう一方は信じてきた。屋上では、登り、腰を下ろし、断られるかもしれない問いを口にするのはミンクのほうだ。答えるかどうかは、はじめからルナが決めることだった。そして彼女は答える。
原題は英語で、ただ「ハッピー・エンディング」という。そう名のるロマンチック・コメディなら、観客はふたりがよりを戻す場面を待つだろう。この映画は、その一歩手前で止まる。会話で終わるのだ。この一年に、ただひとつなかったものである。日本での題は、原題にはないひとことを足している。「わたしたちの」。この最後の場面に照らすと、その足し算はぴたりと合っている。問いがふたりのものになったとき、結末もふたりのものになるのだ。
日本の読者にとって
あなたが自分で気づくべきだった、というルナのひとことの奥にある願いを、日本語はふだんの言葉で言い表すことができる。察してほしい。辞書は「察する」を、物事の事情や人の気持ちをおしはかること、と説明している。言い方は日本語のものだ。けれど、願いは日本だけのものではない。この映画は、それをオランダの女性に、オランダの部屋で言わせている。日本の読者が目をとめておいてよいところだと思う。わかりやすい二つの物語を、同時にほどいてくれるからだ。ひとつは、ルナのような悩みは日本に特有のもので、言葉にするより空気を読むことを重んじる文化の代償だ、という物語。もうひとつは、どこか別の国の人たちは、もう言葉でそれを乗り越えてしまった、という物語である。
オランダは外から、ものをはっきり言う人たちの国として語られることが多い。オランダで暮らす外国人向けの案内記事にも、オランダの人は率直な話し方で知られている、とあり、同じ記事はすぐに、ステレオタイプがすべてではない、と書き添えている。その評判にどれほどの真実があるにせよ、この映画を書いた女性は、自分の世界をちがうふうに語っていた。友だちとなら簡単で、恋人とでは、しばしばとても難しい。人前でものをはっきり言えても、寝室での一言が少しでも安くなるわけではない。『わたしたちのハッピー・エンディング』は、オランダでなければ成り立たない話ではないし、日本でなければ成り立たない話でもない。必要なのは、ひと組の恋人と、一年と、長く続きすぎたひとつのやさしさだけだ。
読んでいる人のなかには、いちばん近しい相手との暮らしを、人生の途中で出会った日本語で営んでいる女性もいるだろう。その人に、この映画はひとつの区別を手渡してくれる。ルナは言葉に困っていない。いつも使っている言葉で、同じ言葉を話す相手に向き合っている。友人たちには、その言葉で何もかも話せる。彼にだけ、ひとことも言えない。こういうことを日本語で言わなければならない女性は、難しいのは言葉のせいだと思うかもしれないし、その一部はたしかにそうかもしれない。けれどルナの一年を見ると、そうでない部分もあることに気づく。使える言葉がすべてそろっていても、いちばん言いにくい一言は、彼女にとって難しかった。語彙の部分は、学ぶことができる。もう一方の部分が、その人の日本語の失敗だったことは、一度もない。
この読みへの反論
この読みがまちがっているかもしれない点は、少なくとも五つある。ひとつめは、この文章がいちばん答えにくいものだ。
ひとつめ。イブのこと。オートストラドルのウパディヤヤは、イブを、映画のなかに置かれた「バイセクシュアルのユニコーン」そのもので、それ以上のものではない、と書いた。すでにいるカップルに加わる、ひとりの、たいていはバイセクシュアルの女性を指す俗語である。彼女は、イブにはまったく決着が与えられていない、それも当然で、イブはやはり装置でしかないのだから、と続け、イブが映画のなかでただひとりの黒人の登場人物であることが、それをいっそう腹立たしいものにしている、とも書いている。この文章はイブに正当な重さを与えようとしてきたが、ひとつの朝に、映画が置いた以上のものを読みこんだのかもしれない。それにこの文章も、映画と同じく、イブの台詞がルナとミンクにとって何を意味するかに、紙幅の大半を使ってきた。映画はルナがイブを使ったのと同じようにイブを使っていて、その結末をほめる文章もそれに加担している。そう考える読者は、まちがっていない。逆の見方をした批評家がいたことも記しておく。ハイ・オン・フィルムズのアヘンドリラ・ゴスワミは、ルナとイブの曖昧な関係を、同性どうしであることを騒ぎ立てずに自然に描いている点と、主人公のそばに置かれるクィアの親友という定番を退けている点を評価した。けれど、関係を気負わずに描くことは、その関係のなかにいる女性に目を向けることと同じではない。
ふたつめ。前提のこと。ウパディヤヤは、よい場面もあるけれど、結局のところ三人での夜という前提は、性や境界線や対話や快さを意味のある形で探るものではなく、安っぽい仕掛けのように感じられる、と書いた。この文章はロマンチック・コメディのなかに、夜ごとに重くなる一言という仕組みを見つけてきた。けれど映画そのものは、この文章が背負わせたほどのものを、背負ってはいないのかもしれない。軽い映画を重く読むことはできる。だからといって、その映画が重くなるわけではない。
みっつめ。ルナのこと。この文章は彼女の理由を尊重してきた。ウパディヤヤが見ていたのは、別のものだった。ルナの身勝手さ、そして自分の伝え方の問題を、まわりのみんなの問題にしてしまう癖である。彼女はそれを、この映画のおもしろいところのひとつに数えている。二つの見方は、見かけほど離れていない。ふりをした理由は、尊重に値する。そのあとに起きたこと、つまりミンクの知らないところでの逢瀬、イブが締め出された朝、自分で気づくべきだったというあのひとことは、別の問題であり、映画はそのつけを、ひとつの朝のうちにルナに払わせている。それでも、この文章は彼女に甘すぎた、彼女といっしょに代償を払ったふたりには十分にやさしくなかった、と考える読者がいるなら、それはもっともな指摘である。
よっつめ。結末のこと。ウパディヤヤは、ルナとミンクがおそらくよりを戻すことに、まったく説得力を感じなかった。映画は会話で終わり、扉を開けたままにしている。この文章はその会話を、ジャンルが求めるハッピー・エンディングに仕立ててしまった。ジャンルの仕事を、かわりに引き受けてしまったのかもしれない。開いたままの扉は、まだ誰も通っていない扉でもある。
いつつめ。男のこと。ルナの一年からの出口を見つけ、追いかけ、よじ登っていくのはミンクだ。バイブを見つけるのも、自転車で追うのも、足場を登るのも、尋ねるのも彼である。映画は、男が関心を向けたときにはじめて、女性の快さを口にしてよいものにしている。そしてこの文章も、彼の問いをたたえることで、同じことを繰り返している。そう読むこともできる。もう少し狭い答えならある。屋上で語られることは、彼女のものだ。知っているのは彼女で、学ぶのは彼であり、知識は彼女から彼へと渡っていく。けれどそれは、反論を狭めただけで、退けたわけではない。
この図書室が受けとるもの
三つある。どれも、決まりではない。
やさしい演技のつけは、過去にさかのぼって払うことになる。決まった期限までに打ち明けよ、と言いたいのではない。その一言がなぜ重くなるのか、そしてその重さが、それを抱えている人を責める証拠にはならないのはなぜか、という話である。
足りなかったものをもたらした人は、だからといって、そのための手段になるわけではない。三人めの人の朝が入る場所をもたない取り決めは、はじめから中心に置くものをまちがえている。
答えとしてしか聞きとれない本当のことがある。けれど、誰かのかわりに尋ねることは誰にもできないし、彼女のかわりに答えることも、誰にもできない。
だから一度だけ、あなたに言いたい。ひと晩でも、何年でも、ふりをしてきたのなら。その理由は、たぶんやさしいものだったのだろう。そういう理由をもったのは、あなたひとりではない。続いた時間の長さは、あなたがどれほど不誠実かの物差しではない。あなたがどれほどのものをかばってきたか、そしてその一言がどれほど重くなってしまったかの物差しだ。言うかどうか、いつ言うのか。それはあなたが決めることだ。
達しにくいことそのものが気がかりなとき、あるいは性交に痛みがあるとき、何かが変わったと感じるときには、相談する相手は医師や、性の健康を専門とする資格をもった人である。映画も、映画についての文章も、それには答えられない。
これは一本の映画の読みである。虚構の人物も実在の人も、誰も診断しないし、どの俳優の暮らしについても語らない。性についても、関係についても、どんな製品についても、助言はしていない。どんな取り決めも勧めず、そういう取り決めをしたことのある誰も責めない。
持ち帰る問い
いまそれを言えば過去が何だったのかまで変わってしまうほど、長く抱えてきた一言はあるだろうか。それは何を報告し、何を書き換えるだろう。
何がうまくいっていないのかを言うかわりに、状況のほうを変えようとしたことはあるだろうか。その変化は何を代償にし、誰がそれを払っただろう。
足りなかったものを誰かが与えてくれたとき、その人が何を望んでいるのかを尋ねただろうか。そして、その答えを聞いただろうか。
あなたにとって差し出しやすいのは、問いへの答えだろうか。それとも、誰にも求められていない告白だろうか。
もしあなたの愛する人がふりをしてきたのだとしたら、その人が打ち明けられるようにするのは何だろう。あなたが尋ねることだろうか。耳を傾けることだろうか。それとも、もっと早く言ってほしかった、と求めずにいることだろうか。
さらに深く、資料室で
読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。