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『ヘルタースケルター』と、彼女以外の全員のものだった美しさ

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女子高生たちが憧れるりりこの顔は、彼女がママと呼ぶ事務所社長のために違法なクリニックでつくられ、雑誌に売られ、検事には証拠として読まれた。まわりの誰もが、まだ見せられるかどうかは問うのに大丈夫かとは尋ねず、彼女を愛でたのと同じ欲望が、同じ熱で彼女の転落に群がっていく。

二〇一二年三月、実在するファッション誌『ヴォーグ・ガール』が、この世に存在しない二人のモデルを表紙にして発売された。りりこと、吉川こずえ。撮影したのは、その四か月後に公開される映画『ヘルタースケルター』の監督、蜷川実花その人である。

その夏には、映画の製作に名を連ねていたパルコが、同じ二人を登場人物のまま、セールの広告に起用した。映画の宣伝文句は、観客にこう約束していた。「見たいものを、見せてあげる」。

映画のなかのりりこは、この国のトップモデルだ。雑誌の表紙を独占し、映画にも進出し、女子高生たちの憧れの的になっている。そのりりこが、いちばん信頼しているヘアメイクの男に打ち明ける。カメラのシャッターを押されるたびに、自分がどんどん空っぽになっていく気がする、と。

りりこには、ママと呼ぶ事務所社長の多田寛子と分け合っている秘密がある。その体のほとんどすべては、違法な美容クリニックの手術でつくられたものだ。やがて額に痣が浮かぶ。多田はヘアメイクの男に自分の指輪を渡して口止めをし、痣を隠させる。痣は、つくられたものがほころびはじめた最初のしるしだった。

この文章は『ヘルタースケルター』を、ひとつの身体の使い道を描いた地図として読む。りりこのまわりの誰もが、彼女に使い道を持っている。顔を注文した事務所。それをつくり、つくり直しつづけなければならないクリニック。それを売る雑誌。恋人として手もとに置きながら、別の女性と婚約する御曹司。証拠として彼女を欲しがる検事。そして、彼女を愛でる大衆。身体が崩れはじめたとき、彼らの問いはひとつに揃う。まだ見せられるのか。大丈夫なのか、と尋ねる人はいない。その問いは彼女の身体の側にしかなく、額の痣は、身体がそれを初めて口にした瞬間だった。

そして、この映画のいちばん厳しい主張は、大衆について、つまり私たちについてのものだ。りりこをつくった欲望は、彼女が転落しても目を逸らさない。向きを変えて、見つづける。この映画では、賞賛と醜聞は正反対のものではない。ひとつの飢えが、二つの方向を向いているだけだ。

次の節からは、結末を含めて、映画の全体にふれる。

この映画について、そしてこの文章の語り方について

原作は岡崎京子の漫画で、大人の女性に向けた月刊漫画誌『フィールヤング』に、一九九五年から翌年にかけて連載された。一冊の単行本にまとまったのは二〇〇三年で、二〇〇四年には手塚治虫文化賞のマンガ大賞を受け、二〇一三年には英訳も出ている。映画は、鮮烈な色彩で知られる写真家、蜷川実花の長編二作目で、脚本は金子ありさ。二〇一二年七月十四日に公開され、上映時間は百二十七分、十五歳未満は鑑賞できない指定を受けながら、興行収入二十一億五千万円の大ヒットになった。

りりこを沢尻エリカが演じる。事務所社長の多田寛子に桃井かおり、りりこをつくったクリニックの院長、和智久子に原田美枝子。マネージャーの羽田美知子を寺島しのぶが、その若い恋人の奥村伸一を綾野剛が演じる。整形とは無縁の美しさを持つ新人モデル、吉川こずえに水原希子、クリニックを追う検事、麻田誠に大森南朋。

題名は英語の言い回しで、あわてふためいた混乱を意味する。イギリスでは、遊園地で塔のまわりを螺旋を描いて下りる滑り台も、この名で呼ばれる。人目にさらされながら長い時間をかけて登り、いちばん速い道を下りてくる。この物語の絵としては、悪くない。映画のなかでは麻田が、テレビに映るりりこを見ながら、この言葉を、何もかもがひっくり返った状態のことだと言い換えてみせる。

映画は露骨に描くが、この文章は描かない。りりこがマネージャーに性的な関係を強いること、のちにほかの女性たちへの暴力を指示すること、クリニックの患者のなかに自ら命を絶った人がいること、そして終盤、りりこがカメラの前で自分を傷つけること。この文章はそれらをはっきりと書き、どの行為も描写しない。

誰もが、彼女に使い道を持っている

まず、彼女をつくった女性から。多田は、りりこの秘密をつくった張本人だ。映画の台詞を書き起こしたある記録によれば、実家に送られるはずだった金が送られていなかったと知ったりりこに、多田は、維持費がかかる、最初の設備投資もまだ回収できていないと言い、そのうえで、あんたのことをビジネスだなんて思っていない、あんたは私がつくった私の夢なのだから、と告げる。ひと息のうちに、りりこは投資であり、夢である。どちらの言葉のなかでも、彼女は人ではない。

次に、クリニック。和智の仕事は一度きりの手術ではなく、終わりのない契約に近い。処置はくり返さなければならず、後遺症は追いかけつづけなければならない。そして患者のなかには、自ら命を絶った人もいる。このクリニックが本当に売っているのは、顔ではない。見られることであり、それはいつでも止められる。

そして、ほかの全員。りりこを慕うヘアメイクの男は、指輪と引き換えに口をつぐみ、痣を隠す。雑誌は、もっと新しい顔のほうが売れるようになるまで、彼女を表紙に載せる。大きな仕事のひとつは、プロデューサーとの一夜を経てやってくる。結婚を狙っていたデパートの御曹司、南部は、彼女を恋人として手もとに置いたまま、政治家の娘と婚約する。そして検事の麻田は、テレビに映るりりこを見ただけでその正体に目星をつけ、有力な後ろ盾を持つクリニックを崩すための切り札として、彼女を欲しがる。

こうして並べてみると、どの場面も口にしない型が見えてくる。どの関係も、商品との関係なのだ。商品が崩れはじめたとき、誰もが同じことを問う。まだ見せられるか。まだ売れるか。まだ使えるか。その答えによって、それぞれの次の手が決まる。多田は彼女をクリニックへ送り返す。ヘアメイクの男は痣を隠す。雑誌はよそを向き、御曹司もよそを向く。検事は待つ。彼女の人生のなかで、大丈夫かと尋ねる人は、ひとりもいない。

評決と、誰にも届かない報せ

この図書室の一篇、「鏡を見ることと、自分の身体に戻ることは同じではない」は、『ヘルタースケルター』がそれを確かめるためにつくられたのではないかと思えるほどの区別を立てていた。身体を見ることは、評決を生む。基準に照らした採点であり、比べることができ、いったん下されれば片がつく。身体のなかで生きることは、報せを生む。いまこの身体が何をしているかを伝えるものであり、そこに基準はない。そしてあの一篇によれば、見られる身体は、鏡やカメラや他人の目、ひとつの産業によって、よってたかって保たれているのに、生きられる身体を保つ者は、外には誰もいない。

りりこの人生では、それが文字どおりに起きている。見られる身体には、保守の契約がついている。投資を所有する事務所、それを整備するクリニック、欠点を隠すヘアメイク、毎月それを採点する雑誌。生きられる身体のほうには、誰もいない。額に痣が浮かんだとき、それは彼女の身体が、見る人に宛ててではなく口にした最初の言葉だった。そしてまわりの誰もが、それをすぐさま、自分たちが共有している唯一の言葉に訳してしまう。商品の欠陥。隠せ。直せ。請求しろ。

彼女自身も、同じ言葉を教え込まれている。残酷さの内側にある、もうひとつの残酷さだ。あるナレーションのなかで、りりこは自分の内側で鳴る音を聞く。早くしろと急かす、時計のような音。それを彼女は、自分のなかで何かが終わる音だと呼ぶ。身体が発する報せとして、これほど平明なものはない。けれど彼女には、それを渡す相手がいない。自分でそれを聞くときにも、どう見えているかについての評決としてしか聞くことができない。

あの一篇は、もうひとつ大事なことを言っていた。やさしい評決も、評決であることに変わりはない。寛大な裁判官も、裁判官である。このことを覚えておきたい。この映画でりりこにかけられるいちばんやさしい言葉もまた、評決なのだ。

美知子にしたこと

映画は、すべてを仕組みに背負わせはしない。この映画について書く文章も、そうするべきではない。りりこに対してなされたことの代償を、いちばん多く払うのはりりこではない。マネージャーの羽田美知子である。

美知子の仕事は、他人のイメージを支えることだ。予定を組み、用事をこなし、機嫌を受けとめる。岡崎の漫画では美知子はりりこと同年代だが、映画は彼女を中年の女性にしている。同じ商売の、華やかでないほうの半分である。りりこは美知子の顔に水を浴びせ、八つ当たりをくり返し、ある夜、性的な関係を強いる。それは強要である。そのあとに何が起きても、それが別のものに変わることはない。

そのあとに起きるのは、献身だ。辱められた美知子は、離れるどころか、ますますりりこに尽くすようになる。そしてりりこは、そんな美知子を変態女と罵る。強いた側の、いちばん古い手口である。自分がしたことに相手がどう応じたかを取り上げ、それを相手の本性の証拠のように突きつける。強要のあとに生まれた献身は、あとからの同意ではない。誰かの力の内側で生きのびるときに人がとりうる形のひとつであり、この文章はそれを愛とは呼ばない。

それからりりこは、害を広げていく。美知子の目の前で恋人の伸一を誘惑し、二人を操って、南部の婚約者を襲わせる。選ばれたというほかに、何の落ち度もない女性をだ。のちに、薬と幻覚のなかで、りりこは美知子に、こずえを襲えと命じる。りりこが差し向ける暴力は暴力であり、それを向けられた女性たちは、誰ひとり、りりこの物語に加わることに同意していない。

仕組みは、はっきり言葉にできる。害は下へ流れる。上にいる全員に体を使われてきた女性が、自分の下にいる女性の体を使い、さらにその女性の手を、次の女性に向ける。仕組みは、残酷さの形を説明することはできる。けれど、その責任を引き取ることはできない。映画も、それを引き取らせてはいない。

遊園地で、美知子はやり遂げられない。こずえは美知子を見て、やれば、と言い、美知子は手を止める。こずえがそのあとに口にする言葉は、この映画自身の論旨であり、この文章はのちにそこへ戻ってくる。

妹と検事、そして整形前の顔

整形前のりりこの顔につながっている人物が、映画には二人いる。映画は、その二人を近くに置いている。

ひとりは、妹の千加子だ。整形前のりりこにそっくりな妹は、姉に会いに東京まで来たのに、事務所で追い返される。そこで手紙を書き、美知子の手を借りて、姉妹はひそかに再会する。映画のなかで、誰もりりこの体に何も求めていない関係は、これだけだ。そしてこの再会に、映画でいちばん悲しいやりとりがある。姉を慕う妹は、お姉ちゃんは強いからきれいになったのだと思っている。りりこはそれを言い直す。違う。きれいになれば、強くなれるのだ、と。

それを、商品がしゃべっていると聞くのはたやすい。けれどそれは、りりこが知っているいちばん本当のことでもある。彼女はそれを、妹に渡せる唯一の守りとして、愛情をこめて差し出している。映画が見せる世界のなかでは、それは愚かな思い込みではない。まわりの空気の正確な読みであり、彼女は働いてきた一日一日、その読みに見合う支払いを受けてきた。悲劇は、彼女がそれを信じていることにあるのではない。何も求めずに自分を愛してくれるただひとりの相手に手渡せるものが、自分を壊しつつあるその教えしかないことにある。

この図書室の「『空気人形』と、満たされることと見られることのあいだ」は、見られることの答えを、ひとりの見知らぬ人のなかに見つけた。使うために買われた人形を窓から見下ろし、その人形に何も求めなかった人である。見られるとは、誰かが相手を満たす必要をまったく感じなくなったときに起きることだ、とあの一篇は書いた。『ヘルタースケルター』には、それがほとんどない。りりこに何も求めない唯一の人は妹で、その妹を、事務所はとうに追い返していた。

もうひとりは麻田だ。彼はテレビに映るりりこの顔を、検事が証拠物件を調べるように見てきた。表面は美しいのに、中は虫に食い荒らされている果実。人が惹きつけられるのは、いつか朽ちるのをみな知っているからなのか、と彼はつぶやく。そして水族館で、見られるために照らされた水槽のあいだにいるりりこの前に現れ、比留駒春子という本名で呼びかけて、クリニックについて証言してほしいと頼む。勇気を持って田舎から出てきて、ここまでたどり着いた、勇気のある人は美しい、大丈夫、君は美しい、と。

映画のなかで彼女にかけられる、いちばんやさしい言葉だ。そしてそれもまた評決である。寛大な評決が、証言と引き換えに差し出されている。りりこが断ると、麻田は整形前の写真と書類を置いていく。その書類が世に出たとき、それが最初から彼の狙いだったことがわかる。整形前の顔は、妹のなかでは彼女を愛する人であり、彼のファイルのなかでは証拠である。

同じ欲望が、向きを変えるだけ

こずえは、りりこの表紙を奪いつつある。遊園地で美知子に迫られても、こずえはたじろがない。やれば、と彼女は言う。みんなすぐ忘れる。「私たちはどうせただの欲望処理装置」なのだから。無責任な欲望だけがあって、名前と顔だけがすげ替わっていく、と。

これは映画自身の論旨であり、それが、いちばん傷ついていないように見える人物の口から語られる。こずえは皮肉屋というより、正確なのだ。りりこには理解する余裕のないことを、彼女はもうわかっている。大衆の欲望は本物で、しかも誰にも忠実ではない。そして自分もまた、いずれ取り替えられる。

物語の残りは、こずえが正しいことを証明していく。薬に溺れ、ほかの誰にも見えない蝶を振り払いながら、りりこはテレビの収録中に倒れ、多田は彼女に、少し休めと告げる。荒れた部屋に残って片づけていた美知子は、麻田の資料を見つけ、世間に流す。なぜそうしたのか、映画ははっきりさせない。復讐とも、りりこを救いたかったのだとも、もう一度世間の目をりりこに向けさせる最後の手段だったとも読まれてきた。理由がどうであれ、結果は同じだ。世間はりりこの整形の話題に飛びつき、クリニックの悪事も明るみに出る。

世間のこの飢えこそが、映画の蝶番である。彼女を愛でた大衆と、彼女の醜聞をむさぼる大衆は、同じ大衆だ。問うていることも同じで、この女は見る価値があるか、であり、その答えは二度とも「ある」なのだ。麻田は果実の話で、すでにそれを言っていた。いつか朽ちると知っていることも、惹きつけられる理由のうちなのだと。転落は、商品の反対ではなかった。売られているものの一部だった。

だから彼女は、最後の見せ物を差し出す。記者会見を前に、りりこは、映画の宣伝文句そのままに、見たいものを見せてあげる、と言う。無数のフラッシュを浴び、カメラの前で、彼女は自らを傷つけ、倒れ、そのまま姿を消す。シャッターは鳴りやまない。

誰も、カメラを下ろさない。映画が残すのはその光景であり、それは怒りが向かうべきところを指している。りりこでもなく、美しくなりたいと願ったことのある誰でもなく、その瞬間にさえ止まることのできなかった、レンズで埋め尽くされた部屋だ。そのあと街には、りりこの写真集の復刊を告げる大きな看板が立つ。転落さえ、商品として包装されている。

新しい舞台と、この文章が共有できない読み

時が流れても、こずえはスターのままだ。海外での撮影を終えたあと、彼女は過激なショーで知られるクラブへ連れていかれ、美知子によく似た女を見かけて、扉の奥へあとを追う。そこにいたのは、美しいりりこだった。クラブの呼びものとして、女王のように君臨している。

この結末には、りりこが勝ったという読みがある。そしてその読みは、いちばん強い形で示されるべきだ。監督自身が、それに近い読みを語っているからである。蜷川は、りりこは最後に自分で決める、そのときの、何にも惑わされない彼女の視線は本当に美しい、少なくとも最初よりは幸せそうに思えた、と話している。ある観客の文章は、もっと端的に書く。彼女は勝ったのだ、と。事務所にも、クリニックにも、雑誌にも、もう許しを請う必要はない。自分の舞台に、自分の条件で立っている。

この文章は、その読みに耳を傾けたうえで、それを共有することができない。カメラの前で自分を傷つけることを、自由と数えることはできないし、ここでもそうは数えない。何かを自分で決めるために、そんな代価を払わなければならない人がいてはならない。あの記者会見が測っているのは、それ以外のことを、彼女がどれほど自分で決められずにきたか、である。

そして最後の場面は、出口ではない。舞台である。ひとりの女性が見せ物になり、観客は見たいものを見に来ていて、ショーは続く。会場は変わったが、取り決めは変わっていない。ほかの二本の結末と並べてみるとよい。この物語の近い親戚であるコラリー・ファルジャの『サブスタンス』では、最後に客席が恐慌に陥る。蜷川自身の最初の長編『さくらん』では、塀に囲まれた遊郭から、若い女性と彼女の選んだ男が、笑いながら満開の桜のなかへ走り出ていく。『ヘルタースケルター』は、そのどちらも許さない。映画は、観客のいる別の部屋へ開く扉で終わる。そしてその扉を開けるのは、こずえだ。次の顔が、自分の未来を見せられている。

そう読むなら、この結末は、映画のなかでいちばん恐ろしい一文になる。見せ物は終わらない。会場を変えるだけだ。

一九九五年、二〇一二年、二〇二二年の東京、そして国境を越える物語

岡崎がこの物語を描いたのは一九九〇年代の半ばで、読み手は大人の女性たちだった。物語のなかの女子高生たちではない。英訳版を評した批評家のレベッカ・シルヴァーマンは、二〇一四年にこう書いている。岡崎は熟達した描き手だから、手の届かない美しさをメディアに求めつづける私たち全員が、りりこのような存在を生み出す片棒を担いでいる、とは面と向かって言わない。けれどその含意は見逃しようがない、と。作品のあちこちに、最新のアイドルについてしゃべり、表面の美しさにはしゃぎ、完璧でないものには嫌味を言う、ふつうの人々の場面がはさまれている、というのがその理由だ。蜷川の映画も、同じ役目を女子高生たちのおしゃべりに負わせている。場面の合間に、りりこのことを話す少女たちの姿がはさまれるのだ。

蜷川は、この世界の内側からこの物語にやって来た人だ。長くファッションと広告の写真を撮ってきた彼女は、これが自分のいる世界の話だとは長いあいだ気づかなかった、と笑って語っている。そして、これが何についての映画なのかも、はっきり語っている。女性は生まれたときから、きれいかきれいでないかに圧倒的に左右される。私たちは、あらかじめ不公平な世界に生きている。けれど人は、その不公平を直視せず、ふたをしようとする。それに向き合うことこそがいちばんのテーマで、女性の美への執着は二番目くらいなのだ、と。

映画の十年後、岡崎が描いたものには、日常の名前がついていた。二〇二二年、「ルッキズム」は、その年の新語・流行語大賞にノミネートされた三十語のひとつになった。ノミネートが測るのは言葉であって、誰かの経験ではない。人を見た目で判断することについて、言葉が必要になるほど多くの人が話していた。それを示すだけである。

だからといって、『ヘルタースケルター』が日本だけの風変わりな話になるわけではない。ファルジャの映画は、二〇二四年にハリウッドのスターを迎えて撮られたもので、同じ骨組みの上に立っている。年齢を理由に業界から放り出された女性。より若く、より完璧な自分を約束する闇の薬。崩れていく体。そして観客の前での、最後の舞台。この形が国境を越えるのは、それが描く市場が国境を越えるからだ。違うのは、結末で観客に何を許すかである。ファルジャの観客には、たじろぐことが許される。蜷川の観客には許されず、シャッターは最後まで鳴りやまない。

日本の外から来てここで暮らしている人には、芸能事務所も、雑誌の表紙も、女子高生たちのおしゃべりも、この国に特有の風変わりなものに見えるかもしれない。けれどそれは特有のものというより、方言のようなものだ。評決そのものは国境を越えて移動する。この映画がどこで観られても言いつづけるのは、見る側の人間もまた、物語のなかにいるということである。

この文章が採らない二つの読み

ひとつ目は、『ヘルタースケルター』を美容整形への警告として読むものだ。映画はそれを支えていないし、この文章もそう読まない。物語のクリニックは違法で、しかも架空のものだ。それがもたらす害は、違法なクリニックの害であり、りりこに作り変えを求めたうえで、作り変えられた彼女を消費した業界の害である。蜷川は公開後、美について問われて、もっときれいになりたい、もっと自分をよくしたいと思うことがまず美しいと思う、自分はそこに肯定的だ、と答えている。

この図書室の「『5時から7時までのクレオ』、見られることが効かなくなる九十分」は、ひとりの歌手の美しさの労働を、虚栄と呼ぶことを拒んだ。それは、彼女が定めたのではない条件のもとで身につけた有能さであり、世界が彼女に代金を払う気になった唯一の技能だった。あの文章では、歌手の帽子が在庫だった。りりこは、その同じ線のいちばん端に立っている。彼女の在庫は、自分の体そのものだ。ここにあるどの言葉も、理由が何であれ美容医療を選ぶ人への判定ではないし、それについての助言でもない。自分の体についての決定は、それを決める本人のものであり、相談する相手は資格を持った医師であって、映画について書かれた文章ではない。

ふたつ目は、りりこを怪物として読むもの、そしてその裏返しとして、ただの被害者として読むものだ。蜷川は、りりこはモンスターのように思われがちだが、私たち一人ひとりのなかに小さいりりこがいると思う、と語っている。寛大で、しかも役に立つ言葉であり、この文章もその限りでは同意する。見られることを仕事にしてきた人や、そうなりたいと願ったことのある人の多くは、彼女のどこかに自分を見つけるだろう。けれど、見つけることは赦すことではない。仕組みは、りりこが美知子に、南部の婚約者に、こずえにしたことの形を説明する。けれど、彼女たちの受けた傷を、説明で消すことはできない。りりこの残酷さを機械のなかに溶かしてしまう読みは、機械が彼女にしたことを、あの女性たちにすることになる。素材として扱う、ということだ。

この文章が答えきれない反論

以上のすべてに対するいちばん強い反論は、この映画もまた一台のカメラだ、というものだ。表紙を撮ったのは監督自身で、実在の雑誌がそれを刷った。製作に加わった企業は、二人の架空のモデルでセールを宣伝した。宣伝文句は観客に、見たいものを見せると約束し、配給会社の作品ページはいまも、最高のショーを見せてあげる、とうたっている。映画はヒットした。そして蜷川は、撮影部と照明部に何より先に、きれいに撮ってほしいと頼んだと言い、記者会見の場面は、冒頭とともに、最初から絵として浮かんでいた場面だったと語っている。

蜷川は、このことから逃げていない。公開前日に掲載されたインタビューで、見方によってはある種、自分の仕事を否定するような映画でもある、と彼女は言った。広告とどう向き合えばいいのか、ファッションをどうすればいいのか、それを突き詰めていけば、もう撮れなくなる、とも。公開から数か月後には、ふだんの仕事に戻れば自分はシャッターを押してフラッシュをたく側で、タレントに、もうちょっと笑顔をください、と言っている、とも語った。

その率直さが、この映画の誠実さであり、同時に、この映画にできることの限界でもある。ヒット商品でもある告発は、自分が描く欲望の外に立つことができない。観客は、転落を、上昇を楽しんだのとまったく同じように楽しむことができる。どこかの映画館でどちらが起きたのかを、この文章は決められないし、決められるふりもしない。映画は、レンズで埋まった部屋を見せる。その部屋のなかに自分を見つけるかどうかは、映画が観客の代わりにしてあげられることではない。

同じ反論は、この図書室にも向けられる。この家は私的な同伴を売っている。見ることの市場を描いた映画は、この家にとって中立の土地ではないし、注意を、採点するものと尋ねるものとに分ける読みは、まさにこういう家が好みそうな読みである。そのことを差し引いて、この文章を読んでほしい。ここで主張するのはひとつだけだ。人に注意を向けることを仕事にする者なら誰にでも、この家も含めて、この映画の基準を当てはめてよい。女性をまだ見せられるかと問う前に、大丈夫かと尋ねる人がいるかどうか。それは基準であって、自慢ではない。

この図書室が受けとるもの

美しさが罠だということでも、それを望むことが間違いだということでもない。『ヘルタースケルター』の残酷さは、りりこが美しくなりたいと望んだことにあるのではない。まわりのすべての関係が使い道であり、そのすべての使い道が、同じことを問うていたことにある。

女性がりりこと同じことを学ぶのには、ちゃんとした理由がある。よく見られることは、家賃を払い、扉を開け、仕事をつなぎ、誰かの関心をつなぎとめ、見過ごされることがそれだけで危うい場所で身を守ってくれることがある。きれいになれば、強くなれる。多くの場で、それは妄想ではない。その場の仕組みを正確に読んだ結果であり、それに従って動く女性は、虚栄心が強いのではない。よく見ているのだ。

映画が付け加えるのは、その代償であり、同じ機械が両方向に動くという事実だ。きれいだね、と言う声と、ずいぶん気を抜いたね、と言う声は、同じことを問うている。この女は見る価値があるか。輝くような答えを出せる大衆は、もう一方の答えも同じ速さで出せる。賛辞と醜聞は、同じ場所から来る。

この映画のなかで、基準を持たず、落第することがなく、売ることもできない問いは、ひとつしかない。りりこに誰も向けなかった問いだ。大丈夫なのか。額の痣が問うていたのは、それだった。そしてそれは、誰かが彼女にその余白を残してさえいれば、彼女が自分に向けることのできた、ただひとつの問いでもあった。

だから一度だけ、あなたに向けて書く。もしあなたが、それが差し出された唯一の強さだったから、見られやすい自分になってきたのだとしたら、それは虚栄ではない。空気を読んでいたのであり、おそらく正確に読んでいたのだ。その読みに疲れてもかまわない。そして、まわりの人たちがたいてい、まだ見せられるかどうかしか問わないのだとしても、もうひとつの問いは、いまもあなたのものだ。カメラがどこにもない、ありふれた夜に。私はどう見えているか、ではなく、私は大丈夫か、と。

持ち帰る問い

あなたの見た目に使い道を持っている人は、誰だろう。そして、大丈夫かと尋ねてくれた人は、誰だっただろう。

見た目をほめられるとき、その賛辞は、あなたに何をしつづけてほしいと言っているのだろう。

美しさと強さについて、あなたは何を、誰から学んだだろう。そして、どちらが先だと教わっただろう。

あなたがカメラになっている場所はどこだろう。そうとは知らずに、ほかの女性の顔を採点している場所。そのレンズを、下ろすことはできるだろうか。

編集上の注記

この文章は文化についての分析である。医療上、心理上、法律上の助言ではなく、誰も診断しておらず、ここにあるどの文も読み手についての言明ではない。実際に行われている美容医療についても、実在のクリニックについても、美容医療を選ぶ人についても、何かを主張するものではない。名前を挙げた雑誌と企業は、この映画の公開をめぐる公刊された事実のためだけに挙げている。

この文章のために作品を上映で確かめてはいない。記したことは、作品の公刊された記録と、あらすじの記述、批評、対談から取っており、ここで伝えた数少ない台詞は、公刊された書き起こしから言い換えて示した。美知子が資料を流した理由のように記述が食い違うところでは、そう書くか、何も書かない。蜷川の発言は、二〇一二年に公刊された対談からの、彼女自身の言葉として伝えており、どの読みの証明としても扱っていない。まだ見せられるかと問うことと、大丈夫かと問うことの区別は、この図書室の読みである。

強要、暴力、自死、自傷については、書いたが描写はしていない。この文章のどこかが、あなた自身の生活のなにかにふれたなら、それを話すべき相手は文章ではなく、医師か、話を聴く訓練を受けた人である。映画をつくった人や演じた人の私生活については何も述べておらず、関係者の誰かがこの家を知っている、あるいは推薦しているという含みもない。

ほかの章から読む

韓国。美の規範、その反動、そして「降りる」という政治。韓国の女性たちは髪を切り、化粧品を壊した。隠しカメラをめぐってソウルの中心を埋めた。一部は原則として、恋愛と結婚と出産をやめた。そして出生率は〇・八を下回った。これを勝利として読むのも敗北として読むのも間違いだ。これは支払期限の来た請求書である。鏡を見ることと、自分の身体に戻ることは同じではない身体を見ることは評決を生み、身体のなかで生きることは報せを生む。評決は採点され、年をまたいで比べられ、鏡とカメラとほかの誰もの目によってあなたの代わりに保たれている。報せには基準も過去形もなく、それを保つ者もいない——だからこそ、誰もそうすべきだと決めていないのに、第一が第二を押しのけるのである。『デプト・オブ・スペキュレーション』と、結婚が実際にとる形番号のついた短い段落でできた小説がある。小さな子どもと、ひとつの不貞を抱えた結婚についての本だ。その断片はふつう文体として語られる。だがそれは報告として読むほうが正確である。それほどの中断にさらされた結婚は、物語としては経験されない。そしてこの本は、そうでないふりをすることを拒む。半ばで、語り手は「わたし」と言うのをやめ、「妻は」と言いはじめる。その一文がこの本である。そしてそれを形式上の出来事として名づけることは、彼女は自分を見失った、と言うよりも多くを語る。

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