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『ダウンタイム』と、それが誰の願いなのかを聞くこと

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ふたりの外科医は、それぞれの信条で患者を迎える。「医療で命を救う」と、「美で人を救う」。どちらの信条も、患者が話し終える前に答えてしまう。『ダウンタイム』が倫理を置くのは、そのどちらでもない。メスの前で外科医が立ち止まり、なぜかを尋ね、自分がかなえようとしているのが誰の願いなのかを聞き取る、その瞬間である。

美容クリニックで「ダウンタイム」と言えば、休息のことではない。処置のあと、腫れや内出血が落ち着くまでの回復期間のことだ。クリニックに来たときの顔ではもうなく、お金を払って手に入れるはずの顔にもまだなっていない、そのあいだの日々である。この言葉をそのまま題名にしたドラマを紹介するにあたって、ネットフリックスはその時間を「サナギが蝶になるまでの大事な時間」と呼び、物語を貫くモチーフとして描いていると述べた。

そのドラマ、『ダウンタイム』の主人公は患者ではない。沼田文は大学病院の形成外科医で、手術の腕は天才的だが、美容整形を公然と見下している。ある緊急手術がもとで病院にいられなくなった文は、業界最大手の美容外科クリニックで働きはじめる。内側から暴くつもりで。院長の遠山凜には信条がある。美で人を救う。文の信条は、医療で命を救う。回ごとに新しい顔を求める人がやってきて、ふたつの信条がそのたびに机をはさんで向き合う。

この文章は、ふたつの信条が、ふたりの外科医自身が思うよりずっと似ていると考える。どちらも、患者が話し終える前に答えてしまうのだ。文の信条は、病気でない人に「いいえ」と言う。凜の信条は、望む人に「はい」と言う。どちらも、なぜかを聞く必要がない。このドラマが倫理を置いているのは、そのどちらでもない場所だ。メスの前で外科医が立ち止まり、なぜかを尋ね、自分がかなえようとしているのが誰の願いなのかが聞こえるまで耳を傾ける、わずかな瞬間である。それは本人の願いのこともある。親の願いのことも、家族が隠してきた秘密のことも、市場の願いのこともある。誠実に問えば、答えは「はい」にもなるし、「いいえ」にもなる。

題名が指しているのも、同じ場所だと思う。この業界の通貨ともいえるビフォーアフターの写真は、ふたつの時間を切り落としている。メスの前の数分、理由が語られるか、誰にも聞かれないままになる時間。そしてメスのあとの数日、顔が腫れ、誰かに見守られる必要のある時間。このドラマは後者を題名にし、前者へと何度も戻ってくる。

先にふたつ断っておく。この文章は結末を含めて、作品の全体にふれる。そして作品は、ひとつの死から始まる。この文章はそれを、起きた場所で一度だけ書き、何も描写しない。

作品について、そしてこの文章の読み方について

『ダウンタイム』は二〇二六年九月十七日、ネットフリックスで全世界に配信された。全八話、一挙の配信である。メガホンをとったのは、ドラマ『アンメット ある脳外科医の日記』の監督だ。脚本は、映画『孤狼の血』や、ネットフリックスのシリーズ『極悪女王』を手がけた池上純哉。『極悪女王』は、若い女性たちの身体の上に成り立つ女子プロレスの興行を描いた作品だった。プロデューサーには、『地面師たち』の三宅はるえと、『極悪女王』の演出を務めた茂木克仁が名を連ねる。文を松岡茉優、凜を仲里依紗が演じ、クリニックの創業者で凜の父でもある遠山新を渡部篤郎、文の母・妙子を永作博美、副院長の小宮ルイを間宮祥太朗が演じている。

作り手たちは、書く前に業界をよく調べた。監督によれば、半年をかけ、ものすごい人数に取材したという。患者でいえば、はじめての整形を考えている人から、五回、六回とくり返してきた人まで。取材が反映されていないエピソードも人物もないが、特定のモデルがいる人物はおらず、取材した人たちの話を混ぜ合わせている、とも語っている。そして、見る人にとっても、文と同じように自分の価値観が揺らぎ、見直すきっかけになればと。制作発表の際、プロデューサーの三宅はるえは、この作品は美容整形を一方的に称えるものではなく、「変えられるものと変えられないものの狭間で揺れる心情」を、医師と患者の双方の視点から描く内面の物語だと述べている。

方法について、ふたつ。この文章は、ドラマを観てではなく、公表された記録や解説をもとに書いている。場面も、それらが描いているとおりに記した。何に拠ったかは、末尾にまとめてある。そしてこの文章は、患者をひとりずつたどりながらドラマを読む。ドラマが、そのように組み立てられているからだ。

話を聞く前に答えてしまう、ふたつの信条

まず文から。文は、手術は命を救うためにあると信じていて、病気でない人にメスは入れられないと言い切る。監督は、はじめの文を、美容整形を完全に蔑視している人物として説明している。演じる松岡茉優も、制作発表に寄せたコメントで、文はどんな人も助けるヒーローではなく、偏見もたっぷりで、口が悪く、身勝手で、自分が納得できることでしか動かない人だと述べている。それでも、文の信条は愚かではない。何かが悪いからこそメスを入れる、そういう場所で鍛えられた外科医の信条であり、要らない手術からも、何でも売りつけようとする市場からも、患者を守ってきた。

次に凜。凜は、父が創業した業界最大手のクリニックを率いていて、患者は凜を指名して来院する。信条は、美で人を救う。これも愚かではない。短く言えば、文は、医療は命をつなぐためのものだと考え、凜は、顔もまた人を生かすものの一部になりうると考えている。見た目のせいで外に出られなくなった人を身近に知っている読者なら、後者を頭ごなしに退けはしないだろう。

けれど、それぞれの信条が外科医に何を省かせているかを見てほしい。文の信条は、患者がひとことも話さないうちに、その願いは医療の問題ではないと決めてしまう。だから、聞くことがない。凜の信条は、患者がひとことも話さないうちに、その願いこそが救いだと決めてしまう。だから、やはり聞くことがない。一方は「いいえ」で、もう一方は「はい」だが、つくりは同じだ。理由が届く前に、答えがもう用意されている。どちらも、耳を傾けずにすませるための方法なのである。

この図書室は、作り変えられた顔について、以前にも書いている。「『ヘルタースケルター』と、彼女以外の全員のものだった美しさ」は、違法なクリニックでつくられたモデルを描いた映画を、ひとつの身体の使い道の地図として読んだ。まわりの誰もが、まだ見せられるかどうかを問い、大丈夫かとは誰も尋ねなかった、と。あの映画は、見る側から描かれていた。『ダウンタイム』が描くのは机の反対側、メスを持つ人たちの側であり、その問いはもっと狭く、もっと実際的だ。大丈夫かと尋ねる人がいるかどうかではない。なぜここへ来たのかを尋ね、その答えを聞いてから、彼女の顔をどうするかを決める人がいるかどうか、である。

最初の夜

物語は、夜の救急から始まる。豊胸手術のダウンタイム中にボトックス注射を打ったインフルエンサー、かなぶんこと國分佳奈が、大学病院に運び込まれてくる。シリコンの下には悪性腫瘍があり、文は命を救うためにシリコンを取り除く。文の信条がそのためにあるような手術だった。緊急の事態があり、救うべき命があり、何かが悪いからこそメスが入る。

胸を失ったことに絶望した佳奈は、自ら命を絶つ。この文章は、それ以上のことを書かない。

豊胸手術をしたのは凜だった。クリニックは、シリコンを取り除いた外科医に責任を押しつけるように、ネットに情報を流す。文は責めを負うことを拒んで大学病院を辞め、実家の借金も抱えて、凜の誘いに乗る。クリニックが腫瘍を知っていたことを証明するつもりで。

この始まりを、どちらかの信条への判決として読むのはたやすいが、ドラマはそれを許さない。文は自分の信条が求めることをした。命が危なかったのだから、それは正しかった。凜のクリニックも、自分たちの信条が求めることをしていた。ただ、どちらの信条にも、その身体が本人にとって何なのかを問う場所がない。それを問うていればあの夜が変わった、とこの文章は言わない。ドラマはただ、どちらの信条にも居場所のない問いから始まり、八話をかけて、その問いのための場所をつくっていく。

ゆり子と、彼女自身の理由

ゆり子は七十五歳。結婚して会社を辞め、それからずっと主婦として暮らしてきた。子どもには恵まれず、夫婦ふたりで生きてきたが、その夫に先立たれた。残りの人生をどう過ごせばいいのかわからずにいたとき、整形を思い立ち、顔も体も変えたいとクリニックにやってくる。末期がんを抱えていて、テレビの密着取材もついている。

文が受けてきた訓練は、何もかもが「いいえ」を指している。文は、教わってきたとおりのことを口にする。手術は、ゆり子の命を危険にさらすかもしれない。ゆり子の答えは、要するに、最後だけでも自分のために何かしたい、というものだった。そしてゆり子は文に、あなたは患者を見下している、と告げる。

ここでは、信条が答えるより先に、理由のほうが文に届く。しかもそれは、どちらの信条にも収まらない理由だった。文の医療は命をその長さで測るが、ゆり子の命の長さは、もう決まっている。凜の美は人を救うが、ゆり子は救われたいと言っているのではない。夫と家を中心にまわってきた長い人生のあとで、自分のためだけの手術を受けたいと言っているのだ。文はフェイスリフトを執刀する。退院したゆり子は、写真館へ遺影を撮りに行く。監督によれば、ゆり子がはじめて笑顔を見せるのは、そこだという。

遺影は、本人がいなくなったあとに人が見る顔だ。だから、これもまた他人の目のためだったと読むこともできるし、テレビのカメラがあることで、その読みはいっそうたやすくなる。どちらかを選ぶ必要はない。自分で選んだ顔で覚えていてほしいと願うことと、それを自分のために望むことは、同時に成り立つ。写真館の笑顔は、どちらの証拠でもない。この回がはっきりさせているのは、もっと単純なことだ。耳を傾けた外科医が、思いもよらなかった理由を聞き、それを聞いたことで、自分のすることを変えたのである。

善子と、仕事が求めた顔

田中善子は声優をめざして学んでいて、並外れた才能に恵まれている。それなのに、役は顔のいい人に行くからと、オーディションを受けることさえ止められる。彼女が望むのは声の仕事だ。けれど、彼女が入りたい市場は、値札を顔のほうへ付け替えてしまった。

だから善子はまぶたと鼻の手術を受け、役をつかむ。やがて鼻を強く打ってプロテーゼが損傷し、元の顔に戻るくらいなら死ぬ、と彼女は言う。よく耳にする言い回しではある。けれど、ひとつの死から始まったこのドラマのなかで、それをただの言い回しとして聞ける人はいない。凜が鼻を作り直す。

何かを判断する前に、まず彼女の理由に耳を傾けたい。善子は見栄っ張りなのではない。彼女は業界を正確に読んでいた。そして業界は、読んだとおりに応えた。新しい顔が、役をつかんだのだ。凜の信条が、うたい文句どおりに働いたことになる。この回が付け加えるのは、うまくいったあとに何が起きるか、である。仕事を得るために変えた顔が、いまの自分の顔になり、それをもう一度失うことは、自分を失うことになる。それこそ、文の信条に居場所のないものだ。鼻を作り直す外科医は、虚栄に付き合っているのではない。外科医のつくったもののなかに、自分というものの一部を住まわせている人を、見守っているのである。

ここで、制作の話をひとつ。特殊メイクを手がけたアーティストによれば、善子を演じた俳優が自分の顔のまま映る場面はひとつもない。ビフォーもアフターもすべて特殊メイクで、ビフォーは、変化の幅を大きく見せるために、アフターと正反対のイメージでつくられたという。理由はどうあれ、その結果、善子の「ビフォー」として物語に立っているのは、実在するどの女性の顔でもない。観客は、生きている誰かを見て、この人は直されるべきだったとうなずくよう求められてはいないのだ。

もえのと、ほかの誰かの願い

もえのは、動画配信をしている小学生だ。幼いころに母を亡くし、父とふたりで暮らしている。父がプロデュースするチャンネルで、ふたりは生計を立ててきた。けれど、このところ再生回数が伸び悩んでいる。元テレビマンの父には、立て直しの案がある。業界最大手のクリニックとコラボして「キャラ変」をはかり、小学生の整形ドキュメントを撮ることだ。もえのは、自分の整形を撮ってチャンネルに出したいと言う。明るい声で。

凜は断る。誰かのためにがんばっているのがわかるから、手術はしない、と。監督は、もえのを演じた子役に、もえのにとってはそれが本心だと思い込んでいるという解釈でいいのではないか、と話したという。この回の難しさは、その一文にすべて入っている。その願いは本気で、しかも、彼女のものではない。

この回には、飾りも説明もいらない。もえのについて、彼女が何を望むと言ったか以上のことを書く必要もない。子どもの「はい」だけで、手術を行うことはできない。親の計画は、子どもがそれをくり返したからといって、子どもの理由にはならない。この場面を大事なものにしているのは、凜が示す根拠のほうだ。凜は規則を持ち出さない。自分が聞き取ったことを言葉にし、それを理由に断るのである。

凜の信条にも、じつは問いが含まれていたとわかるのは、ここだ。美が人を救うと信じる外科医こそ、その手術が誰の人生を救うためのものなのかを、誰よりも切実に問わなければならない。ここでの答えはチャンネルであり、凜は、チャンネルのためには手術をしない。ドラマは、それを言うのが誰なのかにも気づかせる。幼いころ、父に舞台へ立たされ、「神の手」の後継者として紹介された女性だ。だから聞き取れたのだ、と言ってしまうのはたやすすぎる。それでもドラマは、親の計画を背負った子どもを、かつて同じように背負わされた女性の前に座らせている。

父の理由にも耳を傾けておきたい。ドラマは彼にも理由を与えている。チャンネルは暮らしそのもので、数字は落ちていて、彼はひとりで子どもを育てている。だからといって、その計画が正しくなるわけではない。ただ、わかってしまう計画にはなる。そのほうが、かえって難しい。理由が本物であることと、それが子ども自身の理由であることは、別のことなのだ。

弟と母と、顔にしまわれた秘密

文の母、妙子はスナックを営んでいる。カウンターをはさんで、ママと呼ばれる女性が客に酒を出し、話し相手になる、あの小さな店だ。娘が美容外科で働いていると知った妙子は、酔ってクリニックに乗り込み、娘を辞めさせろと迫る。のちに妙子はくも膜下出血で倒れ、やがて亡くなる。娘の知らなかった過去の痕跡を残して。そのひとつは、妙子自身の顔にあった。彼女は、かつて二重の整形をしていたのである。

文の弟は、以前、二重まぶたになりたいと文に訴えて、説き伏せられていた。母のことを知ったあと、弟は自分でそれをしようとして傷を負い、母さんだって整形していたんだから自分もする、と言い出す。今度は執刀の前に、文は弟に、なぜかと尋ねる。

同じ願いに文が返した、ふたつの答えを並べてみたい。ひとつめは信条の答えだった。説き伏せること。それは一種の「いいえ」で、願いを消しはしなかった。ふたつめは、問いである。だからといって、外科医は頼まれたことを何でも引き受けるべきだ、ということにはならない。もえのの回は、その反対を語っている。ふたつの回は、対になって読める。言えるのは、理由を聞かない「いいえ」と、理由を聞かない「はい」は、同じ欠点を抱えているということだ。そして「なぜ」は、本人に向けて差し出すものであって、本人から取り立てるものではない。

しかも、その願いには、説得の届かない来歴があった。美容整形から娘を連れ戻そうと乗り込んだ母は、自分の整形を、何年も黙って抱えていたのだ。息子が受け継いだのは、ある形のまぶたへの願いだけではない。顔の来歴を、いちばん近い人にさえ明かさずにおくという習いでもあった。なぜかと尋ねる外科医は、ときに、その来歴が声に出して語られるのをはじめて聞く人にもなる。

この図書室の「『夏物語』が問う、身体は誰のものかということ」は、豊胸手術のためにクリニックを訪ねようと上京してくる女性の出てくる小説を読み、本の外へ持ち出せるひとつの問いを引き出した。自分の身体についての考えが浮かんだとき、それは誰の文なのか、と。あの文章は、その問いを読み手ひとりの胸のうちの問いとして差し出した。『ダウンタイム』は、それを外科医の口に置く。そこで問いは、ひとりの内省であることをやめ、メスを持つ人がメスの前に負う務めになる。

名前と、顔と、ひと組の手

このクリニックは三つのものを売っていて、ドラマはそれを丁寧に分けて描く。ひとつは顔だ。副院長の小宮ルイは、自分の容姿で患者を集める美容外科医で、患者が凜を指名すると苛立ちを隠さない。ひとつは名前、患者が指名する凜の名前である。三つめは、ひと組の手だ。それは、いつも凜の手とはかぎらない。

凜には秘密がある。自分の手術でパトロンの孫娘を失明させて以来、大きな手術になると手が震え、執刀をほかの医師に任せてきた。その若い女性の無理な頼みを、凜は断れずにいる。この文章は、その震えに名前をつけない。ドラマはそれに来歴を与えていて、読むにはそれで足りる。

凜の背後には父がいる。クリニックの創業者、遠山新は、いまも陰から支配を続けている。凜が幼いころ、新は彼女を舞台に立たせ、自分の「神の手」の後継者として紹介した。その言葉が、受け継がせようとしているものの正体を物語っている。技術ではなく伝説であり、手以上のものであるべき手だ。その継承が凜に何を負わせてきたかは、見ればわかる。業界じゅうが頼みにする名前と、その名に見合うとは自分でも信じきれない手である。

手術への同意は、ほかのどんな同意とも同じく、特定の誰かに向けて与えるものだ。外科医を名前で指名する患者は、自分の顔を誰の手に預けるかを選んでいる。ドラマが描くのは、名前がその背後の手より高く値づけされ、患者が選んだ相手と、実際に彼女を手術する人とが食い違いうるクリニックだ。診察室でドラマが問いつづける「これは誰の願いか」には、手術室で問われる、対になる問いがある。「これは誰の手か」。

ダウンタイム、写真が切り落とすもの

このドラマは、題名を特殊メイクにまで組み込んでいる。患者ひとりひとりの顔が、ビフォー、ダウンタイム、アフターと段階ごとに、俳優ごとにあつらえられた。業界自身の写真が切り落とす時間に、それだけの手間をかけたのである。

英語の辞書でこの言葉を引くと、最初の語義は工場のものだ。とくに段取りや修理のために、生産が止まっている時間。ふたつめは、仕事の合間のような、動いていない時間である。日本の美容クリニックは、それを、顔が使えない日々の名前として借りた。英語の響きを残したまま聞くと、この言葉は居心地の悪いことを言う。それ以外の時間、顔は働いているのだ、と。英語圏での題名は、手術で作られる美しさ、つまり結果を名指している。日本語の題名が名指しているのは、待つ時間のほうだ。

ネットフリックスのサナギの比喩は、ひとつの約束である。そのあいだの時間はやがて終わり、美しいものがそこから出てくる、と。ドラマそのものは、宣伝の言葉より慎重だ。最初の救急は、ダウンタイムのさなかに始まる。回復の途中に、新しい処置が重ねられたときに。善子の新しい顔は、ひとつの回復期間を抜けたあと、プロテーゼが損傷して作り直されることになり、もうひとつの回復期間に入っていく。ゆり子のアフターは、遺影だ。制作発表で松岡茉優は、この作品は「出口もゴールもない美の世界」をはっきりと映し出すと語った。ドラマのダウンタイムは、その言葉を裏づけている。そこに最後のアフターはなく、あるのは次のあいだの時間だけだ。そして、あいだの時間に人が必要とするのは、蝶ではない。そばにいてくれる人である。

それが、この文章がたどってきた倫理の、もう半分だ。「なぜ」はメスの前に問われる。メスのあとには、誰も写真に撮らない時間が来る。ドラマは、そこに誰がいるのかから目を離さない。自分のクリニックが一度つくった鼻を、もう一度つくり直す外科医も、そのひとりだ。

日本の「ブーム」と、公的な記録が言えること

ネットフリックスは配信前の紹介で、ひとつの矛盾を挙げていた。近年の日本では「美の多様性」がよいこととされ、ルッキズム、つまり外見至上主義は悪いものとして広く語られるようになった。それなのに、美しくなりたい、自分を変えたいと顔や体にメスを入れる美容整形のブームは、加速している、と。前半は、世の中の語り方についての話だ。後半は、公的な記録と少しだけ突き合わせることができる。その「少し」がどれほどのものかを、正確にしておきたい。

国民生活センターは、全国の消費生活センターなどと結ばれた相談のデータベース「パイオネット」に登録された、美容医療についての相談の件数を公表している。対象は、レーザー脱毛、豊胸、脂肪吸引など、医師が行う美容医療である。センターの集計によれば、二〇二六年五月末の時点で、二〇二三年度は六千二百八十一件、二〇二四年度は一万七百四十四件、二〇二五年度は七千九百四十四件だった。これは相談の件数であって、けがの数でも、手術の数でもない。売り方や広告をめぐる相談、解約したい契約の相談もあれば、皮膚の障害ややけどといった被害の相談もある。件数の増減は、困りごとの多さだけでなく、相談先を知る人の多さを映しているのかもしれない。この数字が示すのは控えめな、それでも知っておく価値のあることだ。クリニックを訪れたあとで、誰かに助けを求めずにいられなかった相談が、毎年何千件も寄せられている。

厚生労働省は二年ごとに、医師の数を、主に従事している診療科ごとに集計している。美容外科を主たる診療科とする医師は、二〇一四年末に四百九十七人、二〇二二年末に千二百四十七人、二〇二四年末に千七百二十人だった。そのほぼ全員、千七百一人は、病院ではなく診療所で働いている。平均年齢は四十一・二歳で、臨床研修医を除けば、どの診療科よりも若い。この数字が語るのは、美容外科を主な仕事とする医師が何人いるか、である。美容の処置をしていても、別の診療科を主としている医師は、ここには数えられていない。その医師たちが何件の手術を、どれほどうまく、誰に行っているかについては、何も語らない。

厚生労働省は二〇二四年、美容医療の適切な実施に関する検討会も開き、十一月に報告書をまとめた。こちらは統計というより、一覧に近い。検討会がとくに目を向けたのは診療の場面、つまり受診したときの勧誘や説明、そして診療行為そのものだった。挙げられた課題には、医師ではない人に治療方針を決められたという声、合併症などへの対応が難しい医師が処置を担当していること、アフターケアや緊急時の対応をしない医療機関があること、保健所などが指導の根拠にできないほど診療録の記載が不十分な場合があること、などがある。対応策としては、関係学会などが策定するガイドラインに即日治療の原則禁止などを盛り込むこと、そして診療録に患者の要望や同意の内容を書き残すことが挙げられている。

ドラマと並べて読むと、この一覧で目を引くのは、問題の置かれている場所だ。メスの前の数分、誰かが患者の望みを聞き、誰かがそれをどうするか決める時間。そしてメスのあとの数日、彼女が連絡できる相手を必要とする時間。ビフォーアフターの写真が切り落とす、あのふたつの時間である。ただし報告書は、どの問題がどのくらい起きているかを示すものではない。寄せられたものを並べた、見るべき場所の地図であって、頻度の物差しではない。

日本のドラマは、ほかの答えも想像してきた。二〇二一年のNHKのドラマ『きれいのくに』は、大人の多くが同じふたつの顔のどちらかを買い、そのあとで国が美容整形そのものを禁じた国を描いた。『ダウンタイム』は、禁止もブームも差し出さない。答えがあるとすれば、患者ひとりずつに向けて発せられる問いである。これは日本だけの特殊な話ではないし、ここに書いたことは日本の女性の肖像でもない。文と凜の言い争いは、医師の免許と美の市場がひとつの建物に同居しているところなら、どこででも起こりうる。

ここから結末へ。手術台の上の外科医

ここから先は、作品の結末を書く。

文は凜の手の震えを世間に明かし、それを仕組んだのが自分だと凜に知られて、クリニックを去る。けれど、選挙を控えた都知事が若返りの手術を受ける日、文は凜のもとへ駆けつけて手術を手伝い、ふたりは手を組んで新に立ち向かう。やがて文は、新が自分の実の父であり、凜が新の養女であることを知る。実の娘と養女。同じ父が、ふたりの娘を、自分の名を継ぐ器として扱おうとしていたのだ。美容外科を離れると凜に告げた文は、海へ向かう途中で交通事故に遭い、大けがを負う。

命は助かったが、顔には後遺症が残るかもしれない。新は、遠山の血と「神の手」を継いでほしいと文に頼み、文は、それなら遠山の名を手放せと条件をつける。そして、病気でない人にメスは入れられないと言った文が、自分の顔の手術を凜に頼む。そのころ凜は、現役に戻って自分を追い落としにかかった父を前にして、佳奈と、失明させた女性、ふたつの手術の記録を文に渡していた。会見で佳奈の死へのクリニックの責任を認め、失明させた女性との取り決めを終わらせ、クリニックをたたんで、フロリダへ発とうとしていた。その凜が、一度は断る。けれど、手術が始まると聞いて病院へ駆けつけ、執刀させてほしいと申し出る。

ここでドラマは、自分の問いを裏返す。物語のほとんどのあいだ、文は机をはさんだ外科医の側に座り、なぜかを尋ねることを学んできた。いま、文は患者だ。そしてその理由は、このドラマのなかでいちばん素朴なものである。自分の顔を取り戻したい。美でも、病気でもない。これからも自分だと、まず自分自身にわかる顔でいたいという願いであり、どちらの信条も、それを言い表す言葉を持っていなかった。誰も、それを裁く必要はない。

文がどうやって外科医を選んだかも、見ておきたい。名前ではない。たったいま、父に名前を手放させようとしたばかりだ。文が選んだのは、自分が震えていると暴いたその手であり、その手の持ち主である。名前がその背後の手より高く値づけされるクリニックを描いてきたドラマは、その物語を、名前より手を信じるひとりの女性で締めくくる。

スナックと、値段と、ドラマが手元に残す答え

時が流れる。美容外科を離れると凜に告げた文は、母のスナックを改装して、自分の美容クリニックを開いている。そこへ凜が現れる。いま文が生きている顔は、凜が作り直した顔だ。凜はこのクリニックを二億円で買いたいと持ちかける。文は笑みを浮かべる。その答えは描かれない。

この部屋のことを、少し考えてみたい。スナックは、カウンターと会話を中心につくられた店だ。カウンターの向こうの女性は、酒をつぎ、話をし、耳を傾ける。妙子が働きつづけた部屋であり、自分の顔の来歴を胸にしまっておいた部屋でもある。娘は、そこにクリニックを置いた。この文章はそれを、ドラマがたどり着こうとしてきた倫理の最後の姿として読む。カウンターから始まり、誰かが耳を傾けるところから始まる医療として。もっとも、それは、娘が母の店を引き継いだというだけのことかもしれない。

そして、値段がある。名前を受け継がせたがった父を長く描いてきたドラマは、その養女が実の娘に、スナックに開いたクリニックの代金を差し出す場面で終わる。あるドラマ・ブログの書き手は、この二億円を、凜が文を支配するための金ではなく、もう一度関係をつくるための不器用な言葉ではないかと読んだ。そうかもしれない。ドラマが描いてきた商売が、その外へ一歩出た唯一の部屋を買い戻しに来た、と読むこともできる。どちらなのか、ドラマは教えない。文の答えを見せないからだ。

答えを見せないこと。それこそが、このドラマの最後の一手であり、この文章の読みでは、いちばんよい一手だ。名前がその手より高く値づけされていた女性は、最後に、誰かに自分の手を差し出した。そして、誰の願いに仕えているのかを八話かけて問いつづけたドラマは、まぎれもなく文自身のものである願いで終わり、それを文の手元に残す。凜も、父も、私たちも、それを聞くことはできない。

この読みへの反論

この読みがまちがっているかもしれないところは、少なくとも五つある。ひとつめは、読みの中心にかかわる。

ひとつめ。「なぜ」と尋ねること自体が、残酷になりうる。女性は自分の顔について、誰にも理由を説明する義務はない。なぜかと尋ねる外科医は、たやすく、その理由が十分かどうかを判定する外科医になる。ゆり子に患者を見下していると言われたとき、文がしていたのは、まさにそれだった。自分の何かを変えたい理由を、判決のような口調で問われたことのある人は少なくない。この文章の答えは、ドラマが大切にしている「なぜ」は別の問いだ、というものだ。手術は何のためのもので、それは誰の願いに仕えるのかを問うのであって、理由が合格しなければならない試験ではない。けれど、そのふたつを分ける線は細く、線を引くのは問う側である。ドラマは、外科医たちの善意を信じている。すべての診察室が、その信頼に値するとはかぎらない。

ふたつめ。簡単な事例が、難しい事例の仕事まで引き受けているのかもしれない。凜が子どもを断る場面がいちばんはっきりしているのは、いちばん簡単だからだ。子どもは同意できず、親の計画は部屋のなかに見えている。大人の場合は、もっと難しい。善子の願いは、一部は業界の願いでもあり、ドラマは彼女に「はい」と言う。誰の願いかを問うだけでは、一部が市場の願いでもある大人の願いを前にして、外科医が何をすべきかは決まらない。せいぜい、市場を部屋のなかに見えるようにするだけだ。この文章は、その問いにできる以上のことを、問いに期待しているのかもしれない。

みっつめ。ドラマは、自分が吟味しているその見せ場を、自分でも演出している。患者ひとりひとりにビフォー、ダウンタイム、アフターの顔をあつらえ、ビフォーアフターの業界を描くドラマ自体が、業界と同じく、包帯が外れる瞬間を中心に組み立てられている。観客は、広告に教えられたとおりにその瞬間を楽しむことができるし、批評的な枠組みがそれを止めることはない。ブームのさなかにブームを描いた作品は、ブームの一部でもある。

よっつめ。結末は、ここでの読みよりずっと冷たく読める。美容整形を見下していた外科医が、最後には美容クリニックを営み、最後の場面は値段をめぐって回る。冷たく読めば、このドラマは懐疑家を改宗させ、取引で幕を閉じる。この文章は、笑みと部屋と見せない答えを、好意的に読んだ。ブームのなかでつくられたドラマには、その外にある結末が想像できなかった、ということもありうる。

いつつめ。この読みは、自分で観て確かめたものではなく、作品について他の人たちが書いたものに拠っている。いちばん頼りにした場面、凜がもえのを断る場面と、文が弟に投げかけた問いは、公開された記述を通してしか知らない。場面の空気がちがえば、意味はまるごと変わる。実際に観て、そこに別のものを見た読者は、自分の見たものを信じてほしい。

この図書室が、ここから受けとるもの

美容整形がよいとか悪いとかいうことではない。違う顔を望むことが疑わしいということでもない。受けとるのは三つで、どれも規則ではない。

新しい顔への願いには理由がともない、その理由は、願いへの判決ではない。ゆり子は、ようやく自分のための何かを望んだ。善子は、値札を顔へ付け替えた仕事を望んだ。もえのは、父が必要としているものを望んだ。理由を聞くことは、願いを真剣に受けとめる方法であって、願いを試す方法ではない。

大事な問いは、それが誰の願いかということであり、誠実に問えば、その答えは「はい」にも「いいえ」にもなる。理由を聞く前の「いいえ」と、理由を聞く前の「はい」は、同じところでつまずく。「なぜ」は本人に差し出すもので、本人から取り立てるものではない。

そして、誰も写真に撮らない部分、メスの前の数分とメスのあとの数日こそが、ケアがあるかないかの分かれ目になる。業界は写真で取り引きをし、人はそのあいだの時間を生きる。

だから一度だけ、あなたに向けて書く。自分の顔について、変えたいと思ってきたことがあっても、すでに変えたことがあっても、あなたは誰にも弁明する必要はない。顔をそのままにしてきたことについても、誰にも謝る必要はない。手元に残しておく価値のある問いは、ひとつだけだと思う。凜が子どものなかに見てとったものを、そっとあなたのほうへ向けた問いだ。あなたは、誰のためにそんなにがんばっているのだろう。答えが自分なら、それは答えだ。ほかの誰かなら、それも知っておく価値がある。どちらにしても、その問いを立てるのはあなたで、ほかの誰かが代わりに答えるものではない。

この文章が拠っているもの、主張しないこと

これはテレビドラマの読みであり、医療上の助言ではない。どの美容医療をすすめることも、戒めることもしない。登場人物を含めて誰も診断せず、凜の手の震えも、ドラマが示すとおりに記しただけである。

このドラマそのものは、この文章のために観ていない。拠っているのは、作品の公表された記録とクレジット、ネットフリックスの発表、監督や作り手たちの公表された発言とインタビュー、公開されたあらすじや解説、そして本文で名を挙げた公的な統計であり、統計にはそれぞれ、年と、何を数えたものかを添えた。台詞はすべて要約である。

豊胸のためのシリコンとがんの関係について、この文章は何も主張しない。実在するどのクリニックや医師についても、何も主張しない。ドラマが描いているのは、架空のひとりの患者の病気であり、そこから一般化できることは何もない。本文の数字が数えているのは相談と医師の数であって、被害の大きさも、治療の結果も測ってはいない。

もしこの物語が、死にたいという思いに触れるなら、それがあなた自身のことでも身近な人のことでも、文章ではなく人に話してほしい。厚生労働省の「まもろうよ こころ」には、電話や文字のやりとりで相談できる窓口がまとめられている。

ここで名前を挙げた監督、演者、プロデューサー、出版社、公的機関のいずれも、この出版物とは関係がなく、この出版物を推奨してもいない。

手元に残しておく問い

見た目の何かを変えたいと思ったとき、最初に打ち明けたのは誰だっただろう。その人は理由を尋ねただろうか。それとも、どう考えるべきかを告げただろうか。

自分の顔や身体についての願いのなかに、ほかの誰かのために抱えているものはないだろうか。親、パートナー、仕事、あるいは見ている人たちのために。

医師に、何より先に尋ねてほしいことは何だろう。そして、尋ねてほしくないことは。

他人の顔や身体や理由について、相手が話し終える前に答えてしまっている場所は、どこだろう。

読みもののお便り

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