Cinema
『セックスと愛とグープ』と、誰も確かめてこなかった思い込み
五組のカップルが、ウェルネス企業の本社で自分たちの性生活に向き合う。ふたりは合わない、体のどこかが小さすぎる、体は恥ずかしいものだ。そう信じてきたことを、誰も確かめてこなかったのだと、ひとつずつわかっていく。このシリーズがいちばん良いのは、思い込みを、答えを返してくれるものに照らして確かめるときで、いちばん弱いのは、それを名前のついた新しい思い込みに取り替えるときだ。
サンタモニカにある企業の本社。スパのようにしつらえられた部屋で、ひとりの女性が、自分の体について、これまで誰からも聞かされたことのなかった事実を告げられる。体のある部分が小さすぎると、彼女は信じてきた。そうではなかった。包皮に覆われていただけで、それを見せてくれた人が誰もいなかったのだ。全六話のシリーズのなかの、小さな場面にすぎない。けれど、いちばん役に立つ場面かもしれない。
同じシリーズの別の場面。パートナーよりずっと頻繁にセックスを求めてきた男性が、そっと触れられただけで、こらえきれなくなる。あとで彼は涙を流しながら、いま自分に何が起きたのかと尋ねる。その回の題は、彼の問いそのものだ。六十代の女性は、六十三年近く自分の体を恥じてきたと語り、鏡の前に立つ。付き添う専門家も服を脱ぎ、彼女の隣に並ぶ。交際六年のカップルは、自分たちはそもそも性の相性が合わないのではないかと恐れていたが、ふたりの違いを、ただの違いとして言い直してもらう。
『セックスと愛とグープ』の英語の紹介文には、カップルたちが専門家の助けを借りて「教えと方法」を学ぶ、と書かれている。そういうふうに売られているし、そういうふうに観るのもたやすい。方法の目録として、ひとつの技法にひとりずつ専門家がついた見本市として。この文章は、別の観方をすすめたい。このシリーズが何度も映しているのは、誰も確かめてこなかった思い込みが、ようやく、答えを返してくれるものに照らして確かめられていく姿だ。体のどこかが小さすぎる。ふたりは合わない。体は恥ずかしいものだ。そういう思い込みである。
ただ、このシリーズは別のこともしている。回数は少なく、出来もよくない。古い思い込みを、新しい思い込みに取り替えてしまうのだ。型、エネルギー、名前のついたパターン、見知らぬ人たちが演じてみせる家族の来歴。新しい思い込みは古いものよりやさしいかもしれない。それでも、確かめられていないことに変わりはない。そして題名にその名を掲げる企業は、確かめられていない主張を、問われる側として経験している。二〇一八年、カリフォルニア州のいくつかの郡の検察官たちは、この企業が三つの商品についてうたってきた効能は、適格で信頼できる科学的根拠に支えられていないと訴えた。三つのうち二つは、女性の体に効くとして売られていた。企業は和解に応じたが、この和解は自社の責任を認めるものではない、としている。このシリーズは、カップルたちの思い込みを確かめる。自分自身の主張は、確かめない。
この文章は、その両方を真剣に受けとめる。カップルたちに起きたことは本物だ。ブランドの名前を聞いてつい浮かぶ薄笑いで片づけてよいものではなく、丁寧に読むに値する。そしてシリーズが売っているものには、シリーズ自身が向けない問いを、こちらから向けておきたい。これは思い込みが確かめられているのか。それとも、取り替えられているのか。
作品について、そして読み進める前に
『セックスと愛とグープ』は、ネットフリックスのドキュメンタリー・シリーズだ。全六話で、一話は三十分から四十分ほど。二〇二一年十月二十一日に全話が配信され、ボードウォーク・ピクチャーズとともに製作された。案内役は俳優のグウィネス・パルトロー。二〇〇八年にウェルネス企業グープを興した人である。彼女は長く連れ添ったカップルたちをサンタモニカのグープ本社に招き、専門家のチームとともに性生活に向き合ってもらう。舞台は、スパのようにしつらえられたセットだ。パルトロー本人はときおり姿を見せ、主に関係と親密さのコーチ、ミカエラ・ベームと進み具合を語り合う。画面の大半は、セッションそのものである。
専門家たちはそれぞれの肩書きとともに紹介され、この文章もシリーズのとおりに呼ぶ。身体を重視する性科学者のジャイヤ。親密さのコーチ、ダルシャナ・アビラ。タントラのヒーラー、アミナ・ピーターソン。「ファミリー・コンステレーション」と呼ばれるものの進行役、カタリーナ・ウィティック。そしてベーム。カップルは五組。エリカとデイモン、フェリシタスとラマ、カミールとシャンドラ、ジョイとマイク、ダッシュとセラである。
先に三つ、断っておく。この文章は、シリーズそのものを観て書いたものではない。場面は、公開されている各話の紹介文やあらすじ、批評が書いているとおりに記し、それらの資料に印刷された英語の題や短い語句を訳して示すほかは、誰の言葉もそのままの引用としては扱わない。そしてこの文章は、それぞれのカップルが最後にどこにたどり着くかを含めて、シリーズの全体にふれる。結末を書く節で、もう一度そう断る。画面で出会いたい人は、そこで読むのをやめて、あとで戻ってきてほしい。
もうひとつ。ここに出てくるのは、実在の人たちだ。撮影されることに同意したカップルであり、見せることに同意したもののなかには、人が人に見せうるかぎりでいちばん私的なものもある。この文章は、シリーズが映した範囲で彼らを読み、それ以上には踏みこまない。誰も診断しないし、誰の体や欲望にも判定を下さない。ここにあるどの言葉も、特定の専門家や商品や方法をすすめるものではなく、映されている実践のどれかが効くと主張するものでもない。
五組のカップルと、それぞれが信じてきたこと
エリカとデイモンは交際六年になる。彼は彼女よりずっと頻繁にセックスを求め、彼女はバイブレーターでしか絶頂に達したことがない。ふたりがここに来たのは、その二つの事実が意味するかもしれないことを恐れているからだ。自分たちは、性の相性が合わないのではないか。そして、それはどうにもならないのではないか。ジャイヤが三日間、ふたりに付き添う。
フェリシタスとラマは長く連れ添った夫婦で、第一話の紹介文の言葉を借りれば、性の火花をもう一度灯しに来た。ふたりのあいだには、ある型ができあがっている。その回のあらすじによれば、ベームはそれを遠慮なく名指す。小さな男の子と、その母親。ラマはフェリシタスを喜ばせようとしすぎている、と。
カミールとシャンドラはレズビアンのカップルだ。同性愛を否定する家庭で育ったことを背負い、それぞれが自分の体に恥を抱えている。シャンドラは、性交のたびに痛みを感じてきた。ふたりにはダルシャナ・アビラがつく。
ジョイとマイクは六十代で、求める気持ちの強さがかみ合わない。ジョイは、六十三年近く自分の体を恥じてきたと語る。ふたりにはアミナ・ピーターソンがつく。
ダッシュとセラは例外だ。ふたりの悩みはセックスではない、とシリーズははっきり示す。関係が苦しくなると離れてしまう、ふたりに共通の癖である。ふたりにはカタリーナ・ウィティックがつく。
それぞれのカップルの悩みを一文にしてみると、その多くは思い込みの形をしている。わたしたちは合わない。わたしのここは小さすぎる。わたしたちは、こうなってしまった。わたしたちの望みはまちがっている。わたしの体は恥ずかしいものだ。苦しくなったら、どちらかが去る。ひとりでつくった思い込みもあれば、誰かから手渡されたものもあり、関係のなかで育ってしまったものもある。共通しているのは、どれも一度も確かめられていなかったことだ。確かめられたことのない思い込みは、事実とまったく同じようにふるまう。寝室を、結婚を、人生を形づくり、しかも一度も証拠を見せずにすむ。
こうした思い込みを抱えている人が愚かなわけではない。なぜそう言えるのかも、言っておきたい。思い込みは、避難所になりうるのだ。ふたりが合わないのなら、誰も何かを頼まずにすみ、誰も断られずにすむ。体がそもそもまちがっているのなら、困りごとには理由があることになる。理由は、問いよりずっと抱えやすい。こうした思い込みが手放されないのは、それが誰かを何かから守ってくれるからだ。カップルたちは、その避難所をカメラの前で手放した。紹介文は彼らを勇敢だと呼んでいる。この点については、紹介文が正しい。
体に照らして確かめられた思い込み
いちばん飾り気のない確かめは、第四話にある。その回の英語の紹介文は、「授業の時間です」にあたる一言で始まる。ジャイヤはエリカに、小さすぎると思い込んできたクリトリスが、包皮に覆われているだけだと示す。起きるのは、それだけだ。場面がそうしているように、ここでもはっきり名指しておきたい。体のことを知っている人なら、彼女が大人になってからいつでも見せてあげられた事実を、誰も見せていなかったのだ。ここに怒りを向けるべきものがあるとすれば、それは彼女ではないし、誰かひとりでもない。女性の体についてのありふれた事実が、何年も口にされないままでいられてしまう、その沈黙である。
この場面は、どんな方法にも頼っていない。型も、エネルギーも、名前のついた実践も、ここでは要らない。体についての思い込みを、体そのものに照らす。これほど単純な確かめはない。そして思い込みは、それに耐えられない。だからこの場面には価値がある。同時に、落ち着かない気持ちにもさせる。平明な一文で崩れる思い込みのまわりに、人生のほかのどれだけのことが組み立てられてきたのかと、考えずにいられないからだ。
数か月後、ネットフリックスは『快楽の原則 -私たちの歓びを求めて-』を配信した。快楽と、それが科学のなかでどれほど理解されてこなかったかをめぐるシリーズだ。『セックスと愛とグープ』が映しているのは、同じ種類の知らなさの、もっと後の段階である。関係のなかに住みついてしまったあとの知らなさだ。そこまで来ると、それはもう、誰かが知らなかったというだけの話ではない。ふたりが互いをどう見るかの一部にもなりうる。欲しがらないのは彼女のほうで、何か理由があるのかもしれず、その理由は彼女自身なのかもしれない、というふうに。
同じカップルが、シリーズの二つ目の確かめを見せてくれる。こちらは体のしくみではなく、経験についての確かめだ。より多くを求めていたデイモンのほうが、ここでは、ほどかれる側にまわる。ジャイヤに教わったエリカがそっと触れると、彼はシリーズが「エネルギーのオーガズム」と呼ぶものを経験し、そのあと涙を流しながら、いま自分に何が起きたのかと尋ねる。第二話の英語の題は、その問いそのものだ。この言葉づかいをどう受けとめるにせよ、ふたりが持ってきた思い込みがこの場面でどうなったかを見てほしい。ふたりは、違いがあるのは合わないからだと思っていた。シリーズが見せるかぎりでは、もっと欲しかった男性は、自分の知らなかった快さがあることを示され、ひとつのやり方でしか絶頂に達したことのなかった女性は、自分がそれを彼に与えられると知った。違いは消えていない。ただ、ふたりが思っていた意味を持たなくなった。
思い込みが試験に落ちるとき、画面ではこう見える。方法がうまくいったのではない。それは観る者には確かめようがない。答えを返してくれるものに思い込みが照らされ、そして負けたのだ。
新しい名前は、閉じた書類を開きもし、また閉じもする
エリカとデイモンが受けた試験は、ある体系にもとづいて組まれていた。ジャイヤは「エロティック・ブループリント」と呼ぶ体系を考案した人で、人が何によって高まるのかを五つの型から読む。シリーズは、エリカとデイモンの型を読み解いてみせる。違いを判定として受けとってきたカップルにとっては、違いをありふれたものとして語れる言葉があるだけで、問いの立て方が変わるだろう。
この図書室の一篇「『Mating in Captivity』が問いかける、愛しているのに欲望が薄れるのはなぜか」は、ふたりのあいだの欲望を平らにするのは知ではなく終結だと論じた。相手のことはもう説明がついた、という落ち着いた感覚。人に対して閉じられた書類である。そこで示された試しは単純で、今年、どちらかが相手について、段取りの事実ではない何かを学んだかどうか、だった。『セックスと愛とグープ』は、ひとつには、そういう学びを生み出すための装置であり、あの文章が示そうとはしていなかったことも見せる。書類は、自分自身に対しても閉じられるのだ。欲しがらないのは、わたしのほう。小さすぎるのは、わたし。それもまた要約であり、相手についての要約と同じように、欲望を平らにする。
新しい言葉は、そういう書類をもう一度開くことができる。そして、もっと速く閉じることもできる。今度の要約には、名前と、ネット上の診断テストがついてくるからだ。あなたはエネルギーの型で、わたしは性の型。それは互いへの好奇心の始まりにもなりうるし、表紙に公式の名前が刷られた、次の閉じた書類にもなりうる。確かめ方は、あの文章の試しを、相手ではなく名前のほうに向ければいい。その名前を得て、ふたりは互いにもっと興味を持つようになったのか。それとも、互いのことはもう済んだと思うようになったのか。
この図書室のジャーナルの一篇「タントラは技法ではない。注意の向け方のことだ。」は、その言葉のもとで売られる技法どうしが平気で食い違うのは、どれもが別のもの、つまり注意の質を支えるための足場だからだと論じた。このシリーズの枠組みも、互いに矛盾する。型の分類、エネルギー、導くことと従うこと、見知らぬ人たちが演じる家族の来歴。教える人たちの言う意味で、そのすべてが五組のカップルにそろって当てはまるとは考えにくい。だが、その多くは技法ではない。名前だ。そして名前は、技法にはできないことをする。技法は、何をすればいいかを教える。名前は、あなたが何者かを告げる。だから名前は、古い思い込みがまちがっていたときには技法より役に立ち、新しい思い込みがまちがっているときには技法より危うい。
その違いを見分ける公平なやり方は、シリーズ自身が示している。名前を持っておく値打ちがあるのは、それが、答えを返してくれる何かへとつながるときだ。エリカとデイモンの型はひとつの試みにつながり、試みは答えを返した。自分自身にしかつながらない名前、感じることでしか確かめられず、ほかの何によっても確かめられない名前は、どれほど温かく差し出されても、新しい思い込みである。
名前のついた型
フェリシタスとラマの物語は、その両方を一度に見せる。ベームが名指す型は、それ自体がひとつの要約で、聞くにはつらい。大人ふたりが、母親と小さな男の子として描かれるのだから。そのうえでベームは、名前というより試験のように働くものをふたりに課す。目隠しをしたエクササイズで、ラマが主導する。フェリシタスは、その場で相手を批判しないように教わる。
試験としては、それは本物の何かを確かめている。いつも正す側がやめ、いつも喜ばせようとする側が導いたら、何が起きるのか。答えは誰かの理論からではなく、ふたりのなかから出てくる。けれど名前としては、次の思い込みになりかねない。わたしたちはこういうものだ、しかも今度は専門家のお墨付きで、というふうに。
このエクササイズの内側には、もっと難しい問いがある。それは、シリーズの問いではない。処方は、女性には口をつぐむように、男性には先に立つように求めている。それを解放として聞くこともできる。何もかもを取りしきってきた女性が、一時間だけ、何も取りしきらなくていいと許される、と。装いを新しくしただけの古い指示として聞くこともできる。男性が男性らしくいられるように、女性はもっと静かにしていなさい、と。どちらなのかは、彼女が部屋の外で何を抱えているかによる。家の予定を覚えているのは誰か。何が切れかけているかに気づくのは誰か。いつも知っている役なのは誰か。
エスター・ペレルの本を論じたあの一篇は、その本がすすめる距離を、家のなかで実際に払えるのは誰なのかを問うた。同じ問いは、正すことにもあてはまる。正す女性は、正さざるをえなかった女性なのかもしれない。フェリシタスがそうなのかどうか、この文章は知らないし、親密さのためのエクササイズひとつでは、それは見分けられない。
受け継がれた思い込みと、治療と接触のあいだの線
カミールとシャンドラの思い込みは、ひとりでつくられたものではない。手渡されたものだ。自分たちの欲望はまちがっていると教える家庭で育ち、それぞれが、どこかで自分の体を恥じることを覚えた。手渡された思い込みは、ひとりでつくった思い込みより確かめにくい。確かめるということは、それを手渡した人たちに異を唱えることであり、その人たちは、しばしば自分が愛してきた人たちだからだ。
アビラは、鏡と、手を使うボディワークでふたりに向き合う。第四話の英語の紹介文が「性科学的なボディワーク」と呼ぶもので、セッションの一部として、専門家が相手の体に触れる。このシリーズでいちばん大胆な選択であり、いちばん鋭い異論を招いた選択でもある。この文章はそのセッションを描写しないし、描写する必要もない。大事なのは、それらの場面が観る者に何を受け入れさせようとしているかだ。
いちばん鋭い異論は、その分野の内側から出た。オーストラリア性科学者協会の当時の会長で、心理性的な問題を扱うセラピストでもあるケリン・ブラッドフィールドは、シドニー・モーニング・ヘラルド紙に対し、性科学者が助けになるために相手に触れたり、相手のセックスを見たり、裸を伴ったりする必要はないと語った。このシリーズは性科学者を名乗るボディワーカーたちに強く焦点を当てている、その肩書きは保護されていないので誰でも名乗れる、そこから生まれる混乱が害になっている、とも述べた。発言は、ウェブ媒体ザ・スワドルが伝えたものである。これは、確かめることについての指摘だ。肩書きはひとつの主張であり、誰も守っていない肩書きは、誰も確かめていない主張である。観る者は、性科学者、コーチ、ヒーラーとして紹介される人を目にするが、その言葉が何を保証しているのか、そもそも何かを保証しているのかを知るすべがない。
シリーズは、こうしたことすべてに治療の道具立てを借りている。セッション、突破口、ヒーラー。映っているのは、同意のもとで、ほかから隔てられた部屋で、証人のいる前で与えられる接触だ。それは、部屋にいる人たちにとって大きな意味を持ちうる。けれど治療と同じものではないし、ふたつをぼかす言葉は、観る者がはっきり保っておくべき線をぼかしてしまう。場面は、触れることが何をもたらしたのかも教えてはくれない。シャンドラの痛みの原因が何だったのか、この文章は知らないし、観る者にもわからない。性交のときに痛みがあるなら、まず相談する相手は、婦人科などの医師だ。
そして、これらの場面が同意について何かを決着させると読むべきでもない。シリーズが映しているのは、特定の人に特定の仕方で触れられること、そして撮影されることに同意した大人たちだ。その接触が彼ら自身のものだと言えるのは、その同意があったからだ。体がゆるんだり反応したりしても、それは重ねての「はい」ではないし、方法についての判定でもない。体の反応は同意ではなく、何かが効いている証拠でもない。
鏡の前の、もうひとつの体
ジョイとマイクは六十代で、シリーズはふたりの欲求の差を、ほかの誰のものとも同じ真剣さで扱う。ピーターソンはふたりに動物になりきって遊ばせ、それから、ジョイがいちばん長く抱えてきた思い込みに向き合う。ジョイは、六十三年近く自分の体を恥じてきたと語る。鏡の前で、ピーターソンは自ら服を脱ぎ、ジョイの隣に並ぶ。
この図書室のジャーナルの一篇「鏡を見ることと、自分の身体に戻ることは同じではない」は、鏡が返すのは評決だと論じた。体が受け入れられるかどうかという問いに、ある基準と比べて点をつける。そして、この場面にぴったり重なる警告を添えていた。像を愛することも、なお採点である。寛大な裁き手も、なお裁き手だ。そう読めば、ジョイの鏡の前で起きていることは、厳しい評決がやさしい評決に置き換わっただけで、彼女はいまも自分の体の外に立って、それを眺めていることになる。
けれど、別の見方もある。この文章はそちらのほうが本当に近いと考えるが、証明はできない。鏡の前の評決は基準と比べてつけられ、その基準が、同じ部屋にいる体であることはない。一枚の写真であり、若いころの自分であり、ある年齢の女性はこう見えるべきだという考えだ。だから鏡の前でできた思い込みは確かめにくい。照らし合わせる現実のものが、何もないからだ。ピーターソンは、それを変える。一瞬、鏡には服を着ていない二つの体が映る。どちらも本物で、どちらも写真ではない。誰も何も言わなくても、基準は権威を失う。ひとりの人間によって、反証されるのだ。
その専門家が、付き添う相手と同じだけ自分をさらしていることにも意味がある。このシリーズの権威は、たいてい一方向に流れる。専門家が説明し、カップルが学ぶ。ここでは、めずらしくそうではない。この場面が何であるにせよ、上から授けられる授業ではない。
鏡の前で起きたことが、よりやさしい評決なのか、それとも確かめなのか。この文章には決められないし、たぶん両方なのだろう。それでも、その違いは手放さずにおきたい。やさしい評決は基準をそのままにして、彼女により良い点をつける。確かめは、基準が物差しであるという主張そのものを取り去る。前者は、毎朝更新されなければならない。後者は、一度起きれば足りるのかもしれない。
受け入れるしかない思い込み
第五話は、種類が違う。ダッシュとセラの悩みはセックスではなく、去ってしまうことだ。ウィティックは「ファミリー・コンステレーション」でふたりに向き合う。ふたりに会ったこともない人たちが家族の誰かの役を引き受け、その役どうしのあいだで起きることが、家族について何かを示すものとして受けとられる。セラの回で浮かび上がったものを、シリーズは、祖母から受け継がれてきた悲しみとして示す。
セラが何を見つけたのか、この文章は知らないし、彼女が何かを見つけたことを疑ってもいない。名づけられずにいた癖に、言葉を与えてくれたのかもしれない。それには大きな価値がありうる。けれど、エリカが見つけたものとは種類が違う。エリカの思い込みは彼女の体に照らして確かめられ、解剖学の教科書を開けば、誰でもその確かめをなぞれる。セラには、自分の来歴についての新しい思い込みが与えられた。それを確かめられるのは、彼女にとってそれがどう感じられるか、だけだ。部屋のなかに、答えを返してくれるものは何もない。体も、パートナーの反応も、ほかの誰かが調べられる事実も。
突破口を軸に組まれた形式には、その違いに印をつける手だてがない。どちらも、感情の高まりをともなう突破口として、カメラの前で起きるからだ。だからこそ、観る者が自分で補わなければならないのは、確かめられた思い込みと、取り替えられた思い込みの違いである。前者のあとには、何かを知っている自分が残る。後者のあとには、別の何かを信じている自分が残る。
このシリーズが確かめないもの
題名にその名を掲げる企業には、確かめることをめぐる、それ自身の来歴がある。二〇一八年九月四日、カリフォルニア州のいくつかの郡の検察官が、グープとの和解を発表した。食品、医薬品、医療機器を扱う、カリフォルニアの合同の対策チームに加わる検察官たちである。対象は三つの商品。翡翠の卵、ローズクォーツの卵、そしてフラワーエッセンスの調合品だ。オレンジ郡地方検事の発表によれば、グープは、ふたつの卵がホルモンのバランスを整え、月経周期を調え、子宮脱を防ぎ、膀胱の制御を高めると宣伝し、調合品はうつを防ぐ助けになると宣伝していた。検察官たちは訴えのなかで、それらの主張は適格で信頼できる科学的根拠に支えられていないとした。和解のもとで、グープは十四万五千ドルの民事制裁金を支払うことに同意し、二〇一七年の一月から八月までに商品を買った人には、求めがあれば返金すると約束した。そして、そうした根拠なしに商品の効能を主張することを禁じられた。
アメリカの通信社アソシエーテッド・プレスによれば、グープは声明で、和解は会社の責任を認めるものではなく、商品そのものではなく広告だけにかかわるものだと述べ、双方のあいだには誠実な意見の相違があるとした。記録のこの両面を、ここに置いておく。どちらも、企業に属するものだ。シリーズに出てくるカップルたちには何の関係もない。彼らは、何も売っていなかった。
シリーズと並べると、この記録は居心地の悪い韻を踏む。卵は、女性の体は物によって調整できるという約束のもとで売られた。シリーズでいちばん良い場面は、ひとりの女性に、まちがっていると思い込んでいた体の部分が、一度もまちがっていなかったと告げる。このシリーズがもっとも価値を持つのは、女性の体についての思い込みを確かめるときだ。そしてこのシリーズを送り出した企業は、女性の体についての自分の主張を検察官に確かめられ、根拠を欠くと訴えられた。
画面のなかでなされる主張は、たいてい別の種類のものだ。卵についての主張は、ホルモンや月経周期や膀胱のこと、つまり研究室が検証でき、検察官が法廷に持ちこめることだった。専門家たちの枠組みは、型やエネルギーや来歴のことで、検証するのも、法廷に持ちこむのも、ずっと難しい。それは、枠組みがまちがっている証拠ではない。けれど、シリーズがしないやり方でそれらを持っておく理由にはなる。発見としてではなく、教える人それぞれに属する枠組みとして。
このシリーズから観る者が何を持ち帰れるかについて、批評の見方は分かれた。疑いの目で観はじめて、考えを改めた批評家は多かった。そうでない人もいた。アメリカの批評サイト、ザ・スプールのアシュリー・ララは、このシリーズを、リアリティ番組らしい刺激と、性と関係についての真剣な探究とのあいだで宙づりになっていると見た。カップルたちにはいくつかの突破口をもたらしたと認めたうえで、ひとつの疑いで評を結んでいる。残念ながら、観る者が同じ感情の解放を経験するとは思えない、と。この文章も、その疑いを共有している。
どう終わるのか、そして結末に示せること
ここから先は、シリーズがどう終わるのかを書く。
最終話は、エリカとデイモンの歩みをまとめる。その回の英語の紹介文は、ふたりが自分たちの型をひとつにしていくと書いたうえで、ボディワークについては「変容をもたらすオーガズム」を約束している。誰にも確かめようのない言葉だ。アビラとのセッションで、性交のたびに痛みを感じてきたシャンドラは、緊張がほどけて絶頂を迎える。締めくくりの近況では、フェリシタスとラマは以前より心が通い合い、ジョイとマイクは同じ熱量で求め合えるようになり、ダッシュとセラはカップルとして自信を深めている。そして、老いていく自分の姿を受け入れられずにいることをカメラの前で打ち明けていたパルトローは、鏡を使ったワークに心を動かされ、自分の人生の次の段階は、ありのままを受け入れることでなければならないと語る。
エピローグは報告であって、確かめではない。カップルたちが語ったことと、編集が残したものを、作り手が選んだ瞬間に伝えている。作り手には、物語がうまく終わってほしい理由がいくらでもあった。彼らのために喜べないのは、狭量というものだろう。けれど近況報告を、何が長続きしたかの証拠としてうのみにするのは、人がよすぎる。ふたつは同時に成り立つし、観る者はその両方を抱えていられる。
受け入れることについてのパルトローの言葉は、シリーズの終わりでいちばん興味深いものだ。セックスについてでも、方法についてでもないからである。女性の体のための商品を売ってきた企業、あの卵も売った企業の創業者が、他人の思い込みを扱うシリーズの終わりに、自分自身の思い込みを名指す。年を重ねていく自分の姿を、まだ受け入れられていないということ。受け入れることは、このシリーズのなかで、どんな商品にも届けられない唯一の教えだ。だからこそ、ウェルネス企業がいちばん売りたくなる教えでもあるのかもしれない。先に引いた鏡についての一篇なら、鏡の前で差し出される受容もまた、ひとつの採点になりうると警告するだろう。ここではほんの一瞬、それが、このシリーズでいちばん売るものを持っている人の口から、自分自身について、まだたどり着いていないものとして語られる。
日本から見るということ
このシリーズは日本を描いたものではないし、ここにあることは、日本の女性やカップルがどう感じているかについての主張ではない。ただ、日本で読むと、効き目をうたう言葉について、思い当たる仕組みがひとつある。医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律、いわゆる薬機法は、医薬品や化粧品、医療機器などの効能について、明示的であると暗示的であるとを問わず、虚偽や誇大な広告をすることを、誰に対しても禁じている。承認や認証をまだ受けていない医薬品や医療機器について、その効能などを広告することも禁じている。カリフォルニアの検察官が問題にしたのと同じ種類の線が、この国では法律そのものに書かれているわけだ。この文章は、それをどの商品にもあてはめない。大事なのは対比だ。法律は、売り手が商品について、体への効き目をどこまで言ってよいかを確かめる。けれど、ひとりの女性が人生の大半にわたって自分の体について信じてきたことを確かめてくれるものは、何もない。それは、彼女自身と、彼女が打ち明ける気持ちになれる誰かに委ねられている。
カップルたちの思い込みは平明な言葉でできていて、それに答えた確かめもまた、平明な言葉でできている。小さすぎる。痛い。合わない。恥ずかしい。包皮に覆われているだけ。枠組みのほうは、別の層の言葉でできている。ブループリント、エネルギー、ソマティック、ヒーラー。日本語では、その多くが片仮名の借りものの言葉として届くほかなく、どこか別の場所の権威をまとっている。借りものの言葉は、もとからある言葉がどれも恥を帯びていて口にしにくい話題を、口にできるものにすることがある。それは、小さなことではない。けれど、このシリーズでいちばん力を持つ場面は、借りものの言葉をいちばん必要としない場面なのだ。
このシリーズには映らない難しさが、もうひとつある。恋人とのことや自分の体のことを、外国語として学んだ言葉で話している読者の場合だ。そういう言葉では、この領域の出来あいの言い回しのほうが、先に手もとに来やすい。ブランドの言葉、セラピーの言葉、こういうシリーズの言葉。平明な言葉はずっと遅れてやって来るか、来ないままになる。けれど、この文章がたどってきた確かめは、どれも平明な言葉でできていた。一度も口にしたことのない言葉で、自分の体のどこかが本当に小さすぎるのかと尋ねるのは、難しい。思い込みは、借りた語彙でのほうが口にしやすく、そこでのほうが確かめにくいのかもしれない。
この読みへの反論
この読みがまちがっているかもしれない理由は、少なくとも五つある。はじめの二つは、とりわけ重い。
第一に、いちばん深刻なもの。確かめは、カップルたちのものではなく、編集のものかもしれない。こういう形式は、毎回何かがうまくいくことを必要とし、そして必ずそれを見つける。思い込みが試験に落ちたように見えるものは、落ちるところを見せるように形づくられた物語なのかもしれない。この反論に、この文章は答えを持たない。言えるのは、この文章の議論が、シリーズが自分に求めるより少ないことしかシリーズに求めていない、ということだけだ。どの方法が効いたとも主張していない。画面のなかで、いくつかの思い込みが、答えを返しうるものに出会ったと言っているだけだ。編集は、その出会いを並べることができる。エリカの体のしくみを、つくり出すことはできない。
第二に、これも深刻なもの。思い込みを確かめることと取り替えることの線は、きれいすぎるのかもしれない。恥は、事実についての思い込みではない。ジョイの六十三年近くは、体のしくみについてのまちがった事実のようには反駁できない。鏡の前で起きたことは訂正ではなく慰めなのかもしれず、鏡についての一篇が警告していた、よりやさしい評決なのかもしれない。だとすれば、このシリーズでいちばん心を動かす場面は、この文章の引いた線の向こう側に属し、その線は見かけほど役に立たない。
第三に、シリーズが映しているのは、確かめではなく許可なのかもしれない。この図書室のジャーナルの一篇「深い休息は眠りではなく、許可のことだ。」は、体が警戒を解くのは、何も求められないという、信じられる合図を外から受けとったときだけだと論じた。シリーズが映すものの多くは、そう描くこともできる。女性の隣で服を脱ぐ専門家、正さなくていいと言われる妻、ただ受けとることに身をゆだねる男性。この文章の答えは、ふたつは同じ出来事を両側から見たものかもしれない、というものだ。わたしの体は恥ずかしい、という思い込みはひとつの禁止でもあり、それを確かめることは、許可が届く道のひとつである。けれど、許可という読みのほうが本当に近いのかもしれず、そちらを選ぶ読者はまちがっていない。
第四に、この文章は和解に重すぎる荷を負わせているのかもしれない。それは三つの商品の広告をめぐるもので、企業は意見の相違を表明しつつ和解し、シリーズが配信される三年前のことだった。専門家たちは企業ではなく、カップルたちは専門家ではない。その記録を枠組みに使うことは、多くの批評が、ブランドの評判から予想したよりずっと良いと認めたシリーズに対して、公平ではないのかもしれない。記録が教えてくれるのは、企業の過去の主張についてのことだけだ。シリーズのなかの何かが本当かどうかについては、何も教えてくれない。
第五に、確かめることを軸にした枠組みは、それが助けようとする女性たちへの、もうひとつの要求になりうる。気持ちが軽くなったばかりの女性に、それを検証しなさいと言う必要はない。何の証拠にもならなくても本物である安堵はあるし、厳密さの名のもとにそれをジョイやセラから取り上げる文章があったら、奇妙な文章だろう。答えはこうだ。この文章は、慰めに証明を求めてはいない。求めているのは、約束への用心だ。そのふたつは別のものであり、このシリーズとその背後の企業が、観る者からいちばん必要としているのは後者である。
この図書室が受け取るもの
三つある。どれも、規則ではない。
一度も確かめられたことのない思い込みは、事実のようにふるまう。証拠を見せないまま人生を形づくる。このシリーズがもっとも価値を持つのは、そういう思い込みが、誰の目にも見える場所で試験に落ちるところを見せるときだ。
新しい名前には、古い思い込みが一度も向けられなかった問いを向けていい。型も、エネルギーも、パターンも、来歴も、閉じた書類を開くことがあれば、もっと速く閉じることもある。持っておく価値があるのは、答えを返してくれる何かへとつながる名前だ。
このシリーズがいちばんうまくやってみせた確かめには、ブランドが要らない。体、パートナーの実際の反応、鏡の前のもうひとつの本物の体、体のことを知っている誰か。シリーズはそれらを企業の建物のなかで撮らなければならなかった。けれど、それらはそこに住んでいるわけではない。
だから一度だけ、あなたに。自分の体や、自分の欲しさについて、長いあいだ抱えてきた思い込みがあるなら。小さすぎる、求めすぎる、もう若くない、自分はそういうふうにできていない。それは、一度も確かめられていないのかもしれない。それは、あなたの落ち度ではない。確かめようと言ってくれた人がいなかったのだし、思い込みのなかには、もっと難しい問いから私たちを守ってくれるから手放されないものもある。その思い込みには、シリーズがエリカの思い込みに向けたのと同じ問いを向けていい。これは本当なのか。それとも、ただ一度も問われなかっただけなのか。そして、その代わりにやって来るもの、型でも、言葉でも、商品でも、それを家に持ち帰る前に、同じ問いを向けていい。
この文章が主張しないこと
これは、テレビのシリーズについての読みである。文化についての分析であって、臨床的な助言でも、性の健康についての助言でもない。いかなる治療も記述せず、いかなる結果も約束せず、画面の内でも外でも、誰も診断しない。
グープも、同社が売ってきたどの商品も、シリーズに登場するどの専門家も、そこで映されるどの方法も推奨しないし、映されている実践のどれかが効く、あるいは効かないという主張もしない。体のしくみについては、シリーズが名指したとおりにだけ名指している。
カップルたちは、撮影されることに同意した実在の人たちである。ここにあるどの言葉も、彼らの体や欲望や選択を判定するものではなく、企業の記録について述べたことは、彼らにも専門家たちにもあてはまらない。
二〇一八年の和解は、検察官の発表と、通信社が伝えた企業の声明のとおりに記した。発表が述べていること以上に、商品についての見解は示さない。日本の法律は記述しただけで、どの商品にもどの人にもあてはめておらず、ここに法的な助言はない。
確かめられた思い込みと取り替えられた思い込みの区別は、この図書室自身のものであり、発見ではなく議論である。統計は、ひとつも用いていない。
手もとに残す問い
自分の体について、一度も確かめられたことのない思い込みはあるだろうか。それを確かめてもらうなら、誰を信頼するだろう。
自分の欲しさについての思い込みのうち、ひとりでつくったものはどれで、誰かから手渡されたものはどれだろう。
いちばん最近、自分や自分たちの関係に名前を与えられたのはいつだろう。型でも、パターンでも、診断でも。そのあと、あなたは相手や自分にもっと好奇心を持つようになっただろうか。それとも、もう済んだことだと思うようになっただろうか。
誰かがあなたの体の何かを良くしてあげると言うとき、その人は正確には何を主張しているのだろう。それを確かめられる人は、いるだろうか。
抱えてきた思い込みが、ただの思い込みだったとわかったら、それがこれまで頼まずにすませてくれていたことのうち、何を頼まなければならなくなるだろう。
ほかの章から読む
読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。