EN
メニュー

Cinema

『モラルセンス ~君はご主人様~』と、契約書にはできない、聞くということ

  • 止めるための言葉
  • 倫理
  • スクリーンの女性
  • ファンタジーと境界線
  • 仕事、性別、望むこと
  • 同意

三か月の期間、いくつかの決まり、すべてを止めるひとつの言葉。ふたりの同僚は、望むことを紙に書いた。欲望は条件のように取り決められる。それがこの映画のいちばんの発想であり、映画がいちばん多くを明かしてしまう場面は、紙に書かれた条件にはできないことが何なのかを見せている。

小包が、まちがった机に届く。同じ広報会社で働くチョン・ジウとチョン・ジフは、名前があまりに似ている。そのせいで彼に宛てた荷物が彼女の机に置かれ、彼女はそれを開けてしまう。なかには革の首輪とリードが入っている。あわてて駆けつけたジフは、犬用だと言い張る。そこへ、箱からアダルトショップのクーポンがはらりと落ちる。

笑わせるための幕開けで、映画も笑いとして撮っている。けれど、これは届けまちがいでもある。ひとりの男のいちばん私的な望みが、ひとりの同僚のもとに届いてしまった。彼女はそれを誰にも言わない。秘密がどうなるかは、ほとんど、誰がそれを受けとるかで決まる。映画はそのことを知っているように見える。

この届けまちがいから、映画は、恋愛喜劇がふつうは手間をかけないものを組み立てていく。ジフは何年も、自分の望みを恥じてきた。ジウは有能な管理職なのに、まわりの男たちに話をさえぎられてばかりいる。彼は、主導権を握る側になってほしいと彼女に頼む。彼女は断る。やがて自分の意思で引き受け、ひと晩かけて調べものをし、ふたりは契約を結ぶ。期間は三か月。いくつかの決まり。そして、すべてを止めるひとつの言葉。ここでの性の嗜好は、明るみに引きずり出される暗い秘密ではない。大人がふたりで、紙の上で、終わりの日付まで決めて交渉するものだ。

それがこの映画のいちばんの発想であり、この文章はそれを本気で受けとめる。ただ、その発想には限界があり、映画は、意図したかどうかは別として、その限界を画面に映してしまう。契約書は、ふたりが合意したことを記録できる。すべてを止める言葉を書き込むこともできる。けれど、その言葉が口にされたとき、それを聞くことはできない。聞けるのは人だけだ。そのたびに、その場で。前もって書かれたものが、代わりに聞いてくれることはない。

これはまた、職場では言葉がほとんど重んじられない女性に、その言葉がすべてになる私的な場所が与えられる映画でもある。その場所は、外でも彼女を守れるのか。映画は最後にその問いを立て、恋愛喜劇にしてはずいぶん考えさせる答え方をする。この文章は、結末がどこから始まるのかをはっきり断ったうえで、そこへたどり着くことにする。

作品について、そして読み進める前に

『モラルセンス ~君はご主人様~』は、二〇二二年二月十一日にネットフリックスで配信が始まった韓国映画だ。監督はパク・ヒョンジンで、イ・ダヘとともに脚本も書いている。原作は同名のウェブトゥーンで、韓国語の原題も「モラルセンス」という。ジウをソヒョンが、ジフをイ・ジュニョンが演じる。ふたりとも、韓国のアイドルグループから演技の道に進んだ人だ。ジウの親友ヘミをイ・エルが、ジウを慕う若手社員イ・ハンをアン・スンギュンが演じている。日本語の題は原題に「君はご主人様」という一行を添えていて、この一行には、あとでもう一度戻ってくる。

批評の受けとめは、好意と物足りなさが同居したものが多かった。ある批評家は、ふたりの関係そのものを描くより、支配と服従の関係の手引きのような作品だと書き、恋愛の部分はずいぶん慎み深いと評した。美しく野心的だが、まとまりに欠けると見た批評家もいる。そして何人かは、よくできていること以上にめずらしいものを、この映画に認めた。性の嗜好を扱いながら、その嗜好が誰かに不意打ちで押しつけられるのではなく、合意されるものとして描かれていることだ。

先にふたつ、断っておく。この文章は、映画そのものを観て書いたものではない。場面は、公開されているあらすじや批評が書いているとおりに記し、登場人物のせりふはすべて言い換えていて、そのままの引用ではない。そしてこの文章は、結末を含めて映画の全体にふれる。すべてを止める言葉について、この映画の考えが示されるのは結末だからだ。結末が始まるところで、もう一度そう断る。

もうひとつ。ふたりの時間のなかで何が行われるのかを、この文章は描かない。誰かが自分の取り決めをどう結ぶべきかという助言も、ここには書かない。扱うのは、この映画が取り決めというものをどう扱っているかであって、取り決めの結び方ではない。

人の上に立つことを謝る人

映画にならって、職場のジウから始めよう。彼女は広報会社のチームを率いる管理職で、頭が切れ、仕事ができる。そしてまわりの男たちは、いつものように彼女を軽んじ、話をさえぎる。ある批評家は、映画がほとんど最初に見せる彼女の姿として、同性愛者を差別する発言をしたネットの人気者を広告に起用することに、反対する場面を挙げている。別の批評家は、同僚に放っておけと言われても、性差別的な上司に食ってかかる彼女を書いている。職場が求めていると口では言う資質を、彼女はそのまま持っている。ただその職場は、それを彼女の口から聞きたがらない。

そして、物語全体がそこで回りはじめる小さな場面がある。少し立ち止まって見ておきたい。小包の一件のあと、ジフは、見たものを誰にも言わずにいてくれたことに礼を言う。するとジウのほうが謝る。きつい態度をとってしまった、自分には人に指図してしまうところがある、と。ジフはその謝罪を、告白として聞く。彼女は自分が支配する側の人間だと打ち明けたのだと思いこみ、自分のご主人様になってほしいと頼みこむ。

誤解をめぐる冗談だが、じつに的を射ている。人の上に立つのが得意な女性が、それを謝ることを覚えている。その謝罪を聞いた男は、彼女が詫びているまさにそのことを、自分がいちばん望んでいるものとして聞く。職場は彼女に、人を率いる力は詫びるべき欠点だと教えてきた。映画のなかで最初に彼女のその力を欲しがる人は、欲しがるあまり、彼女の詫びを申し出と取りちがえる。

彼女は断る。このことは大事で、映画もそれを大事に扱う。ジフはもっと事情を打ち明けたあとで、もう一度頼み、彼女はもう一度断る。彼女の「いいえ」は、押しつづければいつか崩れる、交渉の入り口としては扱われない。それは彼女の答えであり、彼女が自分で変えるまで、答えのままだ。

彼の秘密を、最初に預かった人

ジフの側の物語は、もう少し静かに始まる。職場の誰の目にも、彼は何もかもそろった人に映っている。けれど彼には、何年も隠してきたことがある。恋人だったハナは、彼の嗜好を理由に彼のもとを去った。それ以来、彼は自分の望みを恥じてきた。会社の催しの場で、ジウは涙を流している彼に行き会い、彼はそのことを打ち明ける。ジウは、あなたを変態だとは思わない、と答える。

短い場面だが、多くのことが詰まっている。彼の望みは、秘密の知られ方としてはほとんど最悪のかたちで知られてしまった。偶然に、同僚に、しかも職場で。そしてその同僚は、彼が望みようもなかったことをした。誰にも言わずにおき、続きを聞かされても、身を引かなかった。

ジフの心を重くしていたのは、望みそのものより、それを何年も人目から隠し続けてきたことのほうだったのかもしれない。打ち明ければ、その重さは軽くなりうる。ただしそれは、聞いた人が、それを武器に変えずに受けとめられる場合のことだ。この場面では、そうなった。何が重さを軽くしたのかに、目をとめておきたい。この時点では、まだ何も合意されていない。契約も、ふたりの時間も、どんな実践もない。彼の恥をやわらげたのは、打ち明けられたひとりの人の、受けとめ方だった。

このことは、あとで効いてくる。欲望をめぐる物語は、取り決めそのものが彼を癒やしたかのように、手柄を取り決めに渡したくなるものだからだ。そうではないし、この文章もそう扱わない。力をあずけあう関係は、恥の治療ではない。ジフが得た安堵があるとすれば、それは何かに署名するより前に、彼の話を聞いて目をそらさなかった人のひと言から始まっている。

なぜ自分なのかとジウが尋ねると、彼は三つを挙げる。自信、大人らしさ、そして誠実さ。その三つはどれも、彼女の同僚たちが毎日さえぎっているものだ。

三か月、いくつかの決まり、ひとつの言葉

その夜、会社からの帰り道で、ジウは自分の意思で引き受ける。そして残りの夜を、支配と服従の関係について調べることに使う。映画は彼女の調べものに付き合い、ナレーションが、彼女が学んでいることを説明していく。批評家ケイト・サンチェスの言い方を借りれば、心理的な主従の関係と、性を含む関係との違いといったところまで。いかにも彼女らしい、いい細部だ。何かの主導権を握る前に、彼女はまず勉強をする。

それからふたりは署名する。批評が伝えるところでは、契約の期間は三か月で、ジウが支配する側、ジフが従う側になる。決まりがあり、セーフワード、つまりすべてを止めるための合言葉がある。そしてジフは、彼女の体にふれないことを約束し、性の関係は最初から外される。サンチェスによれば、映画は、ふたりが合言葉について話しあう場面を見せ、ふたりのすることが激しさを増したときには、そのあとのいたわりも見せている。

これがどれほどめずらしいかは、見過ごされやすい。この種の欲望をめぐる人気の物語は、たいてい、明るみに引きずり出される秘密として、あるいは片方の望みがもう片方を押し流していく誘惑として、それを語ってきた。この映画を評価したサンチェスも、そのことをはっきり書いている。性の嗜好を描く作品の多くには何らかの強要があり、境界線についての話し合いはほとんどない、と。この映画では、欲望は、ほかのどこよりも先に紙の上にある。

この図書室の「言葉にすると壊れそうなファンタジーほど、言葉が必要になる。」は、誤読されることで損なわれる望みほど、何かが起きる前に、限界を同じ息で添えて言葉にしておく必要がある、と論じた。この映画はそれを、ほとんど文字どおりにやってみせる。ジフが何年も口にできなかった望みは、職場がいちばんよく知っている、いちばん明晰な言葉に置き換えられる。条件と、日付と、ふたつの署名に。同じ文章は、この映画があとで必要とすることも書いていた。聞き手にも仕事がある。その仕事ができない聞き手は、どれほど愛されていても、まだ打ち明けて安全な相手ではない、と。

形式にも、ひとつ静かな皮肉がある。契約書は職場の文書だ。条件と日付と署名でできている。スティーヴン・シャインバーグの『セクレタリー』では、職場のもうひとつの文法、つまり間違いとその訂正が、言葉にできないふたりに何かを始めさせた。そしてその文法には、「やめて」にあたる言葉がなかった。その映画を論じた「『セクレタリー』と、断れる場所で差し出された「はい」」は、「はい」が信じられるのは「いいえ」が言える場所だけだ、と論じている。この映画は、職場の書類仕事のほうを借りてきて、「いいえ」を先に書き込む。

だから、その言葉を覚えておいてほしい。この映画でいうセーフワードとは、前もって決めておく言葉であり、誰が口にしても、ほかに何が言われていても、そのとき起きていることを止める。どちらの役にも属さない。その値打ちはすべて、それが秤にかけられないことにある。聞いた人は、それが効くべきかどうかを考えるために立ち止まらない。映画の残りは、いろいろな意味で、この一文を試すことになる。

親友と、何ひとつ守らない男

映画は、契約の横に、わざとひとつの場面を置いている。ジウの親友ヘミは、ドッグパブを営んでいて、ジフと同じく従う側の嗜好をもっている。そのヘミが、ラブホテルで相手の男に暴力をふるわれはじめ、ジウに助けを求める。ジウとジフはヘミをそこから連れ出し、家まで送り届ける。

映画は、責めをあるべき場所に置いている。ふたりが自分たちのために書き留めたもの、つまり条件や限度や、止めるための言葉を、何ひとつ尊重しない男のところに。あの夜まちがっていたのは、ヘミの望みではない。彼女の望みは、ジフの望みと同じものだ。ヘミの夜と、ジウとジフが結んだ取り決めとを分けているのは、欲望ではない。条件があるかどうか、そして相手がそれを守るかどうかだ。

そしてこの場面は、紙に寄せるこの映画の信頼を、少しだけ疑ってみる理由にもなる。契約書は、誰かを安全にするものではない。すでに互いにとって安全なふたりが合意したことを、記録するものだ。ラブホテルの男は、書類一枚で安全になりはしなかっただろう。ジフも、署名したから安全なのではない。安全だとすれば、それは彼が聞く人だからだ。映画は、このことに戻ってくる。

取り決めに収まりきらなかったもの

しばらくのあいだ、取り決めはうまくいき、条件の外にまであふれ出す。私的な場で解き放たれたジウの主導権は、職場でも顔を出しはじめる。彼女はほかの社員に、とりわけ若手のイ・ハンに指図し、ジフは嫉妬する。彼を安心させようと、ジウは終業後のオフィスに彼を残し、警備員にあやうく見つかりそうになる。ふたりの時間に、彼女はのめり込み、同時に戸惑う。恋人になってほしいと言う彼女に、ジフは、誰とも付き合わないと答える。

彼女の主導権をこの映画がどう扱っているのかについて、批評は割れた。サンチェスは、ジウが支配する側にまわることを、性差別的な上司に言い返せない苛立ちのはけ口として見た。ハリソン・シュートは、映画がいちばんはっきり語るのは、彼女の目覚めを上司へのかろうじて抑えた怒りに結びつけるときだと書き、そのうえで、もっと難しい問いを立てた。性的なロールプレイのなかで女性が支配することと、社会のなかで女性が力をもつこととのあいだに、映画は等号を引いているのではないか、と。彼はその考えを気がかりだとした。そう感じたのは正しい。

よい問いであり、映画はそれに、ふたりの批評家が予想しただろう以上に、身も蓋もないかたちで答えることになる。結末の前に言えるのは、この私的な部屋がふたつの仕事を同時にしている、ということだ。ひとつは、ジフが恥じることなく自分でいられる場所であること。もうひとつは、映画のなかでただひとつ、ジウの言葉が、彼女が込めたとおりの重さで受けとられる場所であること。このふたつは別の仕事だ。ひとつめは、部屋が私的なままであることにかかっている。ふたつめは、彼女の言葉が聞かれることにかかっている。映画の残りは、その両方を試す。

社内の全員に届いた録音

ここから先は、映画の結末にふれる。

契約の最終日、ハナがジフを訪ねてきて、あなたが人を愛せないのは身勝手だからだと言い残す。その夜、最後のふたりの時間に、三か月のあいだ体にふれないと約束してきた男に、ジウは、好きなようにしていいと告げる。彼は彼女に口づけする。彼女は彼を押しのける。彼は、愛していること、傷つくのが怖かったことを打ち明け、彼女は去る。

この形に目をとめておきたい。映画はこれを、もう一度くりかえすからだ。限りがないように聞こえた許しにも、境目があった。彼女はそれを、その場で、自分の手で引いた。そして彼女が止めたあとに来たのは、彼の告白だった。このときは、私的な場で、取り決めの終わりに、彼女は出ていった。

そして、もう一度、届けまちがいが起きる。今度は、一度目とはまるでちがう結果になる。ジウを慕う若手社員イ・ハンの録音機が、オフィスでのふたりの時間のひとつを拾っていた。ハンはその音声を、メールで社内の全員に送ってしまう。まちがいだった。

この映画は喜劇で、あのメールはへまから生まれている。けれど、それでこのメールの意味が変わるわけではない。ふたりが、互いとだけ分かちあうと決めていた、いちばん私的な時間が、一緒に働く全員の耳に届けられる。それは、ふたりのプライバシーに対する深刻な侵害だ。送った人に何のつもりがあったかで、その害が小さくなることはない。この文章はこれを、笑いの場面としては扱わない。そこにいたふたりにとって、それは笑いではなかったのだから。

何に合意していて、何に合意していなかったのかを、正確にしておきたい。終業後のオフィスで時間を過ごしたことで、ふたりは危険を冒していた。映画はすでに、警備員があやうく入ってきそうになる場面を見せている。けれど、通りがかりの警備員に見られる危険と、一緒に働く全員に聞かれてしまうという事実は、同じではない。冒した危険は、与えた許しではない。ふたりが合意したのは、互いのあいだのことだけだ。誰かに聞かれることに合意した人は、どこにもいない。

それはまた、はじめにジフの恥をやわらげた打ち明け方の、ちょうど裏返しでもある。あのときは、すべてが選ばれていた。彼が選んだ時に、彼の言葉で、それを受けとめられるひとりの相手に。今度は、誰も何も選んでいない。時も、言葉も、聞き手も。彼が楽になったのは、ひとりの人が秘密を聞いて、しまっておいてくれたからだった。いまは全員が聞いてしまい、誰もしまっておいてはくれない。

嫌がらせに変わった会議

ふたりは、録音のことで経営陣の前に呼ばれる。ある解説は、それを懲戒委員会と書いている。その場はやがて嫌がらせに変わり、性差別の矛先はジウに向かう。

これは、はっきりその名で呼んでおきたい。映画の運びは速く、見過ごされやすいからだ。職場での振る舞いを問うはずの会議が、別のものに変わっている。ふたりの社員の職を左右する力をもつ人たちが、その社員たちが誰にも聞かせるつもりのなかった録音を聞いたうえで、ふたりに嫌がらせをする。その矛先がいちばん鋭く向かうのは、女性のほうだ。それが、職場の力がいちばん集まった部屋で、ついさっき職場じゅうにプライバシーをさらされたばかりのふたりに対して、起きている。

ジウは、映画のあいだずっとしてきたことをする。自分を弁護する。するとジフが割って入り、すべての責任をかぶる。何もかも自分のしたことだ、というのが、その言い分の中身だ。

見かけは、騎士のようなふるまいだ。彼は自分の職と名を、彼女の盾にしている。喝采する観客も多いだろう。けれど、部屋を見てほしい。最初の場面から、この職場の男たちに話をさえぎられてきた女性が、自分の言葉で自分を弁護していた。そこへ男がひとり割って入り、彼女の代わりに話しはじめたのだ。

合言葉が、会議室で口にされたとき

だからジウは、合言葉を口にする。ジフはそれでも話し続け、幹部たちの前で、彼女と一緒にいたいと宣言する。物語は、それを愛と呼ぶ。

その言葉が何だったのかを、思い出しておきたい。それはふたりの取り決めのなかで、どちらの役にも属さないただひとつの言葉であり、口にすれば、すべてが止まる。それが効くのは、秤にかけられないからだ。聞いた人は、相手が本気かどうか、止まることが相手のためになるかどうかを考えるために、立ち止まらない。

彼女はそれを、取り決めの外で、会議の場で、契約の期間が終わったあとで使う。これは細かい手続きの話ではないし、この読み方への反論として、あとでもう一度取り上げる。けれど、彼女がなぜそれに手を伸ばしたのかは、想像がつく。こういう部屋で、ふつうの言葉は、映画の始まりからずっと彼女を裏切ってきた。これは、ふたりが持っているいちばん強い言葉であり、誰も言い返さないと決めた言葉だ。彼女は、自分の考えも考慮してほしいと頼んでいるのではない。議論を終わらせるための言葉を、使っているのだ。

彼は話し続ける。彼女を守るために話し続ける。責任を自分がかぶれば、彼女は背負わずにすむ。そして、たったいまふたりを辱めた人たちの前で、映画のほとんどのあいだ怖くて言えなかったことを、声に出して言う。映画はそれを、彼が隠れるのをやめた瞬間として差し出している。秘密の終わりであり、ふたりが人目をはばからずに生きはじめる始まりとして。

この文章は、それを軽く片づけたくはない。ジフという人物に、判決をくだすつもりもない。彼は、自分の身を削って、愛する人をかばおうとしている登場人物だ。この文章が量りたいのは、映画があの言葉で何をしたのか、ということだ。映画は、いつでも必ず効く言葉をひとつ決めておくふたりを、観客に見せてきた。そしてクライマックスで、その言葉に合意した当の男に、それを聞かせたうえで、彼女のためにと話し続けさせる。物語はそれを愛と呼ぶ。愛が上回ることのできるセーフワードは、もうセーフワードではない。それは頼みごとであり、頼みごとは秤にかけられる。

場面の形にも、目をとめておきたい。映画は、同僚たちに話をさえぎられる女性から始まった。そしてクライマックスで、男がもうひとり、彼女の話をさえぎる。同じ会社で、同じような男たちの前で、愛から。映画はこの呼応を意図していないのかもしれない。それでも呼応はそこにあり、それは、支配と力をめぐる批評家の問いへの、映画自身の答えになっている。ジウが私的な場で持っている主導権は、会議室までは届かなかった。それを彼女に求め、書面にまでしたただひとりの男でさえ、それがいちばん大事なときに、彼女のためを思って、それを脇へ置いた。

聞き手の仕事が問われるのは、ここだ。契約のすべてはそれにかかっていたのに、それは契約には書き込めなかった。言葉は書けた。聞くことは、書けなかった。

録音には、録音で

それから映画は、ジウに主導権を返す。そのやり方は、合言葉と同じくらい注意して見る価値がある。彼女はハンを説き伏せ、彼が持っている、何人かの幹部の不倫の録音を社内に送らせる。幹部たちは停職になる。ジウとジフは公然と付き合いはじめ、主従の関係もそのまま続けていく。

映画はそれを正義として描き、そう描く理由もよくわかる。幹部たちは、ふたりの私生活の録音を種に、ふたりに嫌がらせをしたばかりだ。そして彼ら自身にも、同じ扱いには耐えられない私生活があった。そこには胸のすく思いがあり、映画がそれを差し出すのはまちがいではない。

けれど、この文章の読みでは、それは同じ行為だ。人の私生活の録音を、その人と一緒に働く全員に送ること。映画は会議室の場面で、その行為が暴かれる側に何をするのかを見せ、それを侵害として感じるよう観客に求めたばかりだった。その少しあとで、映画は同じことをほかの人たちにして、今度はそれを楽しむよう求める。そして不倫は、けっしてひとりの人の私生活だけではない。そこにはかならずもうひとりがいて、多くの場合、何ひとつ口を挟めなかった家族がいる。この映画のプライバシーの感覚は、条件つきだったことになる。物語が気に入っている人たちだけを守るのだ。

こう読むと、この職場で力をもつのは、録音を持っている人だ。幹部たちがふたりを裁く場を開けたのは、録音がひとつあったからだった。ジウが幹部たちを引きずり下ろせるのは、録音がほかにもあったからだ。そしてそのすべてを握っているのは、ひとりの若手社員、ことの始まりになった録音機の持ち主だ。恋愛喜劇の職場の終わらせ方としては、どうにも落ち着かない。ある批評家は、最後の筋を動かす障害が、唐突に現れ、そのあとほとんど意味をもたないように感じられると書いた。その評がいちばん効いてくるのは、ここだろう。ひとつの録音がもたらした害は、ほかの録音で片づけられる。録音された人たちのひとりひとりが、本来どう扱われるべきだったのかは、この結末が答えるようにできている問いではない。

この図書室の「『この恋は初めてだから』と、終わらせてはじめて本当になった契約」は、契約は、署名したふたりのあいだで起きることはすべて収めるが、ふたりが連れてくるものは何ひとつ収めない、と見た。この映画は、その後半を外側から裏づける。契約は、文字どおり聞き耳を立てていた職場を、締め出せなかった。けれどクライマックスは、あの文章が問う必要のなかった、もっと難しいことを問う。署名したふたりのあいだでさえ、契約が収めていたのは言葉であって、それが聞かれることではなかった。止めるとは何かを、紙は書ける。それを本当にするのは、聞く人だけだ。

日本語の題が付け加えるもの

この映画の日本語の題は、原題の「モラルセンス」をそのまま残し、そこに「君はご主人様」という一行を添えている。笑わせるための一行だが、笑いより少し多くを運んでいる。デジタル大辞泉は「主人」という語にいくつかの意味を挙げていて、そのうちのふたつが、この映画のすぐそばにある。「自分の仕える人。雇い主など」。そして、「妻が他人に対して夫をさしていう語」。日本語の題は、そのふたつの意味を抱えた言葉を、職場で話をさえぎられ、ひとりの男に主導権を握ってほしいと頼まれる女性に、手渡している。誰かが意図したかどうかにかかわらず、小さな、鋭い反転だ。日本で観る人は、一場面も観ないうちに、それを耳にするかもしれない。

この読み方がまちがっているかもしれない理由

この読みには、まちがっているかもしれないところが少なくとも四つある。ひとつめが、いちばん強い。

ひとつめ。あの言葉は、そもそもあの部屋のものではなかったのかもしれない。セーフワードが止めるのはふたりの時間であり、あの場にふたりの時間はなかった。契約の期間は終わっていて、その最後の夜、ジウは出ていった。会議は遊びではなく、ジフがそこで言ったことは、彼自身の職と、彼自身の気持ちにかかわることだった。人は相手に、自分のために犠牲にならないでと頼むことはできる。けれど、合意したことの外で、相手自身の人生にかかわることを、命じることはできない。そう考えるなら、彼は、彼女の体に対してなされる何かについて、彼女の同意を踏みにじったのではない。取り決めが届かない場所で、指図されることを断っただけだ。この多くは認めるべきだし、だからこの文章は、彼のしたことを侵害とは呼ばなかった。それでも、ふたつのことが残る。彼女がそこに何を込めたにせよ、手を伸ばしたのは、誰も言い返さないとふたりで決めた言葉であり、彼はその意味を知っていた。そして彼が口にしたのは、彼自身の人生のことだけではなかった。彼は彼女の弁護を引き取り、ふたりのことを、人前で、彼女が嫌がらせを受けている部屋で語った。この読み方でいえば、彼が脇へ置いた言葉は、あの場で自分の声を手放すまいとする、彼女の試みだった。

ふたつめ。合言葉を押し切ったことは、映画の過ちではなく、映画の核心なのかもしれない。ジフは映画のあいだずっと隠れてきた。重さが隠し続けることにあったのなら、幹部たちの前での宣言は、隠し続けることが終わる場所だ。自分の望みを恥じてきた男が、考えうるかぎり最悪の部屋で、何を望み、誰を望むのかを口にする。それはこの映画のいちばん大切なところであり、敬意に値する。問いはひとつだけだ。彼の秘密の終わりは、彼女の言葉を脇へ置くことでつくられなければならなかったのか。映画は、そのふたつを同じひとつの行為にすることを選んだ。この文章が問うてきたのは、その選択であって、彼の勇気ではない。

みっつめ。これは恋愛喜劇であり、みんなの前での宣言は、このジャンルでもっとも古いクライマックスのひとつだ。描かれている実践の倫理でそれを裁くのは、土俵をまちがえているのかもしれない。一部は認める。けれど、基準を引き上げたのは映画自身だった。映画はナレーションまで添えて、自分が何を描いているのかを説明し、ふたりの契約には合言葉を書き込んだ。その言葉を教える映画は、その言葉で読まれることを引き受けなければならない。

よっつめ。この文章は恩知らずなのかもしれない。この映画は、性の嗜好を合意されるものとして描いた、めずらしい大衆向けの恋愛喜劇であり、批評はまさにそこを評価した。ある批評家は、これは性についての映画というより、ふたりの人間のあいだの敬意についての映画だと感じた、と書いている。最後の幕にこれほど紙幅を割くのは、挑んだ映画を罰することなのかもしれない。それはもっともで、この文章も冒頭で、この映画のいちばんの発想は本物で、めずらしいと書いた。それでも最後の幕にこだわるのは、そこで起きることが、幸せな結末の内側で見過ごされやすいからであり、いちばんの発想を受けとった人には、それがどこで止まるのかを見る資格があるからだ。

そして、もうひとつ。これにはこの文章も答えられない。彼女が何を望んでいたのかを、読みちがえているのかもしれない。あの言葉は、私のために犠牲にならないで、という意味だったのかもしれないし、彼が話し続けたのは、あなたにも私をかばわせない、という意味だったのかもしれない。あの瞬間に彼女が何を感じていたかは彼女のものであり、この文章はそれを知っているとは言わない。言えるのは、映画が観客に差し出したものだけだ。ひとりの女性の、ただひとつの絶対の言葉が、ひとりの男の愛に上回られ、その光景が幸せと呼ばれた。そういう光景は、ひと組の恋人よりもずっと遠くまで届く。

この図書室が、ここから受けとるもの

三つある。どれも、決まりではない。

望みを書き留めることは、同意の始まりにはなりうるが、終わりではない。契約書は欲望を口にできるものにし、条件と終わりの日付を与え、それを止める言葉を決めておける。けれど、聞くことはできない。聞くのはいつも人であり、そのたびに、その場で聞くのであって、どんな書類もそれを代わってはくれない。

互いに同意したことは、誰かに聞かれることに同意したことではない。見られる危険を冒すことは、聞かれることを許すことではない。映画は、録音されたのが恋人たちのときにはそれを知っていて、録音されたのが悪役たちのときにはそれを忘れる。読む人は、前半だけを持ち帰ればいい。

止める言葉が意味をもつのは、言い返されないときだけだ。そして愛もまた、言い返しになりうる。止めてと言ったのはわかっている、でもあなたのためなんだ。昔からくりかえされてきた言い回しだが、やさしく言われたとしても、押し切っていることに変わりはない。

だから一度だけ、あなたに言いたい。もしあなたが、どんな言い方ででも、どんな部屋ででも、止めてと言ったのに、愛で答えられたことがあるなら。信じて、とか、あなたのためだから、とか。あなたは面倒な人だったのではない。議論を終わらせるはずのただひとつの言葉を使ったのであり、それはあなたが使ってよい言葉だった。愛されていることは、あなたの言葉が秤にかけられる理由にはならない。そしてもし、何年も人の目から隠してきた望みがあるなら、この映画のいちばんいい場面は、いまも本当だ。ふさわしい聞き手は、それを軽くしてくれる。ふさわしい聞き手とはまた、あなたが止めてと言ったときに、止まる人のことでもある。

これは一本の映画の読みである。虚構の人物も実在の人も、誰も診断しない。誰かが従うべき実践も、何ひとつ書いていない。

手もとに残しておく問い

物事を止めるために、あなたが信頼している言葉や合図はあるだろうか。誰かがそれを、聞くかわりに、秤にかけたことはあっただろうか。

誰かがあなたのためだと言ってあなたの決めたことを覆したとき、あなたのためとは何かを決めたのは、誰だっただろう。

職場や家族やグループチャットに、まちがって知られてしまったら、しまっておいてほしいと思う暮らしの部分はあるだろうか。それをしまっておいてくれると、すでに示してくれた人は、誰だろう。

何かが得意であることを、あなたが謝っている場所はどこだろう。その謝罪を、申し出と取りちがえた人はいただろうか。

何かを書面にしたことがあるなら、それは、紙には収まらない何にかかっていただろう。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

このお便りについて