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『運命の女』と、誰にも聞き入れられなかった別れ

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幸せな結婚のなかにいる妻が、理由の示されないまま見知らぬ男を求め、やがて自分から終わらせると決める。エイドリアン・ラインの映画は、そのどちらの決断も軽く扱わない。この文章は二つ目の決断を追い、それを誰が聞き入れなかったのかを考える。

コニー・サムナーの物語は、天気から始まる。風の強い日、ソーホーで買い物をしていた彼女は、突風にあおられて若いフランス人とぶつかり、転んで膝をすりむく。男は彼女を自分の部屋に連れて上がって手当てをし、帰りぎわに一冊の本を持たせる。家で開くと、電話番号が挟まっている。コニーは、電話をかける。

そこへ彼女を押しやったものは、何もない。夫のエドワード、八歳の息子チャーリーと、ニューヨーク郊外のウェストチェスターで何不自由なく暮らし、夫婦仲もおおむね幸せだ。エドワードは冷たい夫ではない。コニーはないがしろにされてもいないし、不幸でもない。映画は彼女に一陣の風を与える。そして最後まで、それ以外の理由を与えない。

エイドリアン・ラインが二〇〇二年に撮った『運命の女』は、エロティック・スリラーとして記憶されることが多い。道を外れた妻とその代償をめぐる教訓劇として語られることもある。この文章はこれを、決断についての映画として読む。そして、その決断が誰のものとして扱われるのかについての映画として。映画は、見知らぬ男を求めるというコニーの一つ目の決断を、弁明を迫らずに受けとめる。やがて息子の迎えを忘れた日、彼女は二つ目の決断をする。終わらせる、と。そこから先の物語の多くは、この二つ目の決断がたどる道すじの記録でもある。

その決断は、持ちこたえない。どう失われていくのかは、読む前のおことわりのあとに回すが、論の筋道だけは先に示しておける。この物語で、コニーの「はい」は受けとられ、「さよなら」は聞き入れられない。この映画が本当に描いているのは、情事そのものよりも、この不均衡だ。それは最後の場面まで続き、ふたりを止まった車のなかに残して終わる。どちらもまだ選んでいない結末を前にして。

読み進める前に、そして物語のあらまし

この文章は、結末を含めて、映画の全体にふれる。暴力も出てくるが、起きたこととして記すだけで、描写はしない。先に映画を観ておきたい人は、観終えてから戻ってきてほしい。

まず記録から。『運命の女』は、エイドリアン・ラインが監督し、アルヴィン・サージェントとウィリアム・ブロイルズ・ジュニアが脚本を書いた作品で、配給は20世紀フォックス。クロード・シャブロルの『不貞の女』(一九六九年)のリメイクにあたる。コニーをダイアン・レイン、エドワードをリチャード・ギア、二十七歳のフランス人の古書商ポール・マーテルをオリヴィエ・マルティネス、チャーリーをエリック・パー・サリヴァンが演じる。アメリカでは二〇〇二年五月に公開された。レインはこの役で、全米映画批評家協会賞とニューヨーク映画批評家協会賞の主演女優賞を受け、アカデミー賞の主演女優賞にもノミネートされている。

あらましを記しておく。ソーホーでの出会いのあと、コニーはポールに電話をかけ、三度目に部屋を訪ねた日、ふたりは踊り、恋人どうしになる。やがて彼女は、口実をつくっては会いに行くようになり、エドワードも、そのことに気づきはじめる。そして、コニーが息子の迎えを忘れる日が来る。彼女は、関係を終わらせようと決める。そこから先のことは、以下で順を追って見ていく。

理由のついていない欲望

まず、この映画が差し出さないものから見ておきたい。道を外れる妻の物語には、理由があらかじめ用意されていることが多い。妻を見なくなった夫、冷えきった結婚、物語が指さすことのできる寂しさ。理由は、ひとつで二つの役目を果たす。理由があれば妻は赦され、同時に、誰か別の人が裁かれる。ないがしろにされた妻には言い分があり、ないがしろにした夫は、そうなって当然だったことになる。

ラインは、まさにそれを拒んだのだと語っている。公開から二十年後、アメリカのカルチャーサイトのインタビューで、彼は当時をふりかえった。映画会社の側には、この関係を成り立たせるには悪い結婚にしておかなければ、という空気があった。けれどそれでは、ドラマなどまったく生まれなかっただろう、と。彼がおもしろいと思ったのは、それが良い結婚で、彼女には何の理由もなかったのに、それでも、という点だった。その理由のなさが好きなのだ、と彼は言う。

この拒否は、見かけよりずっと大きな意味をもつ。理由が与えられていたら、コニーの欲望は彼女の手を離れ、夫の落ち度の側へ移されていただろう。不満をひとつも与えないことで、映画は欲望を生まれた場所に、つまり彼女のもとに置いたままにし、エドワードを、その欲望については潔白なままにしておく。公開時にウェブ誌「サロン」で評を書いたチャールズ・テイラーは、レインのまさにこの点を称えた。レインは、情事を抑えがたい衝動として、つまり異常なものとして演じてコニーを裁く、ということをしない、と。彼女の欲望は、誰かの症状でも、誰かへの罰でもない。彼女のものだ。

映画はそれを説明せず、見せる。いちばん説明に近づくのは、最初の午後のあと、通勤電車で家へ帰る場面だろう。車内で、レインの顔は、自分の大胆さへの喜びから怖れへ、そしてまた喜びへと揺れる。けれどそれは気持ちであって、理由ではない。

エスター・ペレルの不倫論を読んだこの図書室の一篇、「『The State of Affairs』と、不倫を肯定せずに「なぜ」を考える方法」は、不倫はしばしば、結婚に欠けているものよりも、道を外れる本人が自分自身のなかに探している何かについてのものだ、というペレルの見立てを紹介している。『運命の女』は、その説明にさえ手をのばさない。理屈をつけないまま彼女に欲しがらせ、観客には、彼女について何かを決める前に、まずそばにいることを求める。シャブロルの原作を監督の最良の仕事のひとつに数えるジョナサン・ローゼンバウムでさえ、「シカゴ・リーダー」紙で、リメイクのおよそ前半にはうれしい驚きを覚えたと書き、とりわけ、夫から妻へ重心が決定的に移ったことを挙げている。

これは、彼女がその欲望に従ったのは正しかった、という主張ではない。欲望に従うことがただではないことを、映画は隠さない。口実が要り、夫に見抜かれる嘘が要る。けれど映画は、物語がたいてい一緒くたにしてしまう二つのもの、欲しいと思うことと、それをどうするかを、きちんと分けている。この文章の残りは、その区別の上に立っている。欲しいと思うことに理由が要らなかったのなら、やめると決めることにも、理由は要らない。

妻ではない誰かの口から、夫は知る

映画はエドワードの側にも、十分な重みを与えている。彼がどう知るのかには、立ちどまる価値がある。どんなふうに知らされるかも、その人が受ける仕打ちのうちだからだ。彼は妻の新しい下着に気づく。嘘を見抜く。そして知らせは、いちばんつらい方向からやってくる。忠誠心が足りないと解雇したばかりの部下、ビル・ストーンからだ。喫茶店でキスをするコニーとポールを見ていたその男が、腹いせにそれを口にする。自分の家族を見たらどうだ、と。

疑いを抱えたエドワードがするのは、探偵を雇うことだ。届いた写真に、彼は打ちのめされる。スリラーを観ていると、この先で彼がすることへ急ぐあまり、ここを素通りしがちになる。けれど、急いではいけない。自分の結婚のなかで暮らしていたつもりの男が、その結婚が知らないうちに書き換えられていたことを、解雇した部下のあてこすりと、見知らぬ人間のカメラから知らされるのだ。ペレルを読んだ先の一篇は、裏切られた側の立場を正確に言いあてていた。知らないところで現実を書き換えられていた人であり、その出来事を通して学ばされることに、同意していない人だ、と。

写真を手にしたエドワードが次に何をするのか、映画はしばらく明かさない。明かされるころには、コニーのほうも、自分の決断をしている。

終わらせると決めた日

転機は、ありふれた午後にやってくる。コニーが、チャーリーを学校へ迎えに行くのを忘れる。この文章がチャーリーについてふれるのは、そのことだけだ。その日、彼女は関係を終わらせようと決める。

これがどんな決断なのかを見てほしい。誰かに強いられた決断ではない。たったいま自分の暮らしに見てとったことから、自分の理由で、彼女がひとりで下した決断だ。つまりそれは、ポールに電話をかけると決めたときと、まったく同じだけ自由な決断だ。一つ目を尊重するのが正しかったのなら、二つ目にも、同じ尊重が払われるべきだろう。

そして彼女は、それを自分の声で、二度実行する。一度は面と向かって。ポールの部屋を訪ね、若い女性といる彼を見て逆上し、もう終わりだと告げる。もう一度は、泣きながら彼の留守番電話に残した言葉で。

この図書室は、「『セカンドバージン』と、目を開けたまま落ちる恋」で、逆の場合を読んだ。帰りの機内で終わらせると決めた女性が、その決心を持ちこたえさせられない。欲望のほうが、決心より長く続いてしまう。コニーの場合は、見ているのがもっとつらい。彼女の決心は、持ちこたえるからだ。持ちこたえないのは、それを受け入れようとする、まわりの意志のほうだ。

廊下

もう終わりだと告げたコニーに、ポールは廊下で強引に迫る。彼女は抗うが、やがて抗いきれなくなる。これは性暴力だ。この文章は、その場面を描写しない。

抗いきれなくなることは、同意ではない。それまでの午後が、同意の代わりになるわけでもない。別の日に言った「はい」は、その日への答えであって、いつでも使える許可ではない。しかもこの日、彼女は、その「はい」の残りさえ取り下げるために来ていた。これは情熱ではない。スリラーがこうした場面を置きたがる、情事のいちばん激しい最終章でもない。彼女が決めた終わりが、力で踏みにじられた瞬間だ。

それが物語のどこで起きるかが、大事だ。コニーが自分の人生を自分の手に取り戻した、ちょうどその地点で起き、それを彼女の手からもう一度取り上げる。二度の別れのうち一度目は、それを拒む男に向けて告げられたことになる。

他人の棚にあった贈り物

彼女が去った直後、エドワードがやってきて、ポールは彼を部屋に入れる。エドワードは乱れたベッドを見る。棚には、かつて自分が妻に贈ったスノードームがある。彼はそれでポールを殴り、殺してしまう。

その行為そのものについて、この文章が言うのはここまでだ。温厚な夫で、よき父親でもある男が、妻に贈った品で、一瞬のうちに人を殺す。この文章のどこにも、それを正義として読む箇所はない。

品物のほうは、もう一度見ておく価値がある。映画がそれを選んでいるのだから。贈り物とは、ある人が別の人の暮らしに書きこむ一文のようなものだ。それを他人の棚に見つけるのは、自分の書いた一文が、他人の物語に引用されているのを見ることに近い。シャブロルの原作では、それは夫が結婚三周年の記念に妻へ贈った大きなライターで、愛人のベッドのそばにあった。ラインの映画では、それがスノードームになる。天気がけっして変わらない、小さな、閉じた世界だ。この映画が一陣の風から始まったことを、思い出さずにはいられない。

そして、二度目の別れ。後始末をしているエドワードの耳に、コニーの声が届く。泣きながら関係を終わらせる、留守番電話の言葉だ。ポールに宛てたその言葉は、代わりに夫のもとへ届く。彼がしてしまったことを、もう何ひとつ取り消せなくなってから。彼はそれを消す。そしてのちに、遺体を処分する。

二つの別れを並べてみる。彼女はポールに面と向かって終わりを告げ、彼はそれを力で覆した。彼女は自分の声で彼の留守番電話に終わりを残し、夫がそれを消した。エドワードがなぜ消したのか、この文章は、わかりきった理由より先は推し量らない。その伝言は、妻と死んだ男を結びつけるものだった。けれど理由がどうであれ、結果は同じだ。彼女が決めたことの、ただひとつの記録が消える。この映画で最後まで覆らない終わりは、ひとつしかない。けっして下されてはならなかった、あの終わりだ。

ひとつ屋根の下の、ふたつの秘密

ここから、秘密は持ち主を替える。刑事が、ポールのことを尋ねに来る。別居中の妻が、捜索願を出していたのだ。コニーはそこで初めて、彼が既婚者だったことを知る。そして刑事には、ほとんど知らない相手だと言う。やがて遺体が見つかる。

しばらくのあいだ、サムナー夫妻はひとつ屋根の下で、ふたつの秘密を抱えて暮らすことになる。どちらも互いに隠され、どちらも警察に隠されている。妻は恋人を隠し、夫は殺人を、そして妻の恋人を知っていたことを隠している。後半を好まなかった批評家たちも、この移り変わりには気づいていた。テイラーは、後半では視点が、情事を知っていくエドワードに移ると書いた。ローゼンバウムが前半に見た美点は、妻の側への重心の移動だった。ふたりが言いあてているのは構造であり、その構造そのものが、この映画の主張になっている。映画は秘密を妻から夫へ手渡し、観客に、そのそれぞれと順番に秘密を分けもたせる。

ふたりの位置は、鏡に映したように入れ替わる。殺人の前、ものを見つけるのはエドワードだった。新しい下着、嘘、見知らぬ人間の撮った写真。そのあと、見つける番はコニーにまわる。ふたりはそれぞれ、秘密を抱える側と、それを見つける側を、順番に生きる。英語の原題は、不実な、という一語で、夫婦の一方をその行いによって名指している。けれど映画は終わりまでに、もう一方にも、少なくとも同じだけ大きな秘密を持たせている。

彼女が見つけたもの、彼が口にしたこと

コニーは、夫の上着から、探偵が撮った自分とポールの写真を見つける。家の棚には、あのスノードームが戻っている。彼女は悟る。

問い詰められたエドワードの言葉は、この映画でいちばん痛ましい。彼は泣き崩れる。家族のために働いてきた。おまえは恩知らずだ。そして、殺したかったのはおまえのほうだ、と。

そこにある悲しみは本物で、軽んじてはいけない。彼は自分のものだと思っていた結婚を失い、取り返しのつかないことをした。けれど、この言葉が事実をどう扱っているかを見てほしい。殺人を、妻が招いたことに変え、自分が働いてきた年月を、妻が返しそこねた借りに変えている。ペレルを読んだ先の一篇は、こうした説明を測る物差しを差し出していた。「説明は、選択を見えるものにして責任を深めるべきだ。責任を軽くするなら、それは理解ではなく広報になっている」。そして最後のひと言は、そのままの意味で聞かなければならない。悲しみであれ、怒りであれ、告白であれ、妻に向かって、殺したかったのはおまえだと言う夫の言葉は、脅しでもある。それを聞いた女性に、好意的に解釈してやる義理はない。

数日後、コニーはスノードームのなかに隠されていたものを見つける。家族の古い写真と、彼女を毎日のいちばんいい時間と呼ぶ、夫の言葉だ。それ以前の年月のやさしさが、彼が人を殺した品のなかに、封じこめられていた。映画は、恋文と凶器を、ひとつのガラスのなかに入れている。

彼女は、自分とポールの写真を燃やす。自首すると言うエドワードを、彼女は引き止める。これをどう終わらせるかについての彼女の決断のうちで、誰にも覆されないのは、これだけだ。

警察署の前の赤信号

最後の場面で、エドワードが赤信号で車を止める。コニーは、名前を変えて外国へ逃げるふたりを思い描き、彼はうなずいて、泣く彼女を慰める。車は、警察署の前に停まっている。映画は、そこで終わる。

別の終わり方もありえたし、実際、そうなりかけた。シャブロルの原作では、夫は妻に愛していると告げ、刑事たちのところへ話をしに出ていく。カメラは、妻と息子から遠ざかっていく。公開時のアメリカの通信社の記事によれば、ラインは配給の20世紀フォックスに促されて、別の結末も撮っている。観客にはもっとはっきりした決着が必要だ、というのが会社の考えだった。会社が望んだ結末で試写を重ねたあと、ラインは土壇場で、不確かなほうの結末に戻した。ずっとあの結末に心ひかれていて、最後には自分の思いどおりにした、と彼は語っている。そのほうが観客の知性を信頼することになるし、論争が、議論が起きるだろう、自分はそういうのが好きなのだ、と。

つまりこの結末は、監督自身の言葉によれば、会社が望んだ結末を退けて選ばれたものであり、選択として読む価値がある。赤信号は、ふたりが作ったのではない決まりで、ふたりをそろって止めている。警察署は、すぐそこにある。背後には、ふたりそれぞれがしてきたことがあり、前には、ひとつの決断がある。信号が変わったとき、ふたりが実際にどうするにせよ、それはこの物語のなかで、ふたりが初めていっしょに下す決断になる。そして映画は、それを見せない。

ダイアン・レインは公開時、この監督をこう語っている。世論調査をする人なのだ、映画への反応のなかで、人が自分をさらけ出すのが好きなのだ、と。最後の場面は、その調査票だ。あの信号で、サムナー夫妻にどうしてほしいと思うか。その答えは、答えた人が結婚を何のためのものだと考えているかを、かなり正直に語ってしまうだろう。

正直にはなった、けれど修復はされていない

ここで映画は、この図書室が真剣に受けとめてきた、ある考えと出会う。ペレルを読んだ先の一篇が紹介していた、彼女のもっとも挑発的な主張だ。不倫が明かされ、それに向き合ったあとで、かえって正直になる結婚がある。不倫が良いものだったからではない。危機が、欲望や失望について、長い結婚がほかの方法ではまず届かないほどの率直さを強いるからだ、と。

『運命の女』の終わりで、サムナー夫妻は、それまでのどの時よりも互いに正直だ。ふたりとも、相手のしたいちばん悪いことを知っている。そして、その正直さは何も修復しない。ふたりを縛る。ふたりが今わけもっているのは、選ぶ自由をくれる真実ではない。ふたりがそろって守りつづけて、はじめて成り立つ秘密だ。「『クローサー』と、すべてを打ち明けても知られないこと」は、すべてを語ることと知られることは別の行為だ、と論じた。サムナー夫妻がたどりつくのは、そのどちらでもない三つ目のものだ。すべてを知っていて、そのことによって、その場に留めおかれていること。

「『阿修羅のごとく』と、言っても負けない場所」は、知っていても言わない女たちを追った。夫に面と向かって言えば、負けるしかない勝負が始まってしまうからだ。コニーが生きるのは、その裏返しだ。彼女は言う。二度、恋人に面と向かって、そして彼の留守番電話に。そして、二度とも負ける。最後には、すべてが口にされている。そして口にされたことは、ふたりを自由にするどころか、いっそう固く結びつけている。

そして、車の外にいる人がいる。ポールには別居中の妻がいて、捜索願を出したのは彼女だった。あの信号でサムナー夫妻が何を決めるにせよ、それは、ほかの人たちのものでもある死について決めることになる。ペレルを読んだ先の一篇には、ここで思い出したい一文がある。理解の目的は、「謎を運命にせず、それでも真実の後をどう生きるかは本人に返すことだ」。赤信号の前で、サムナー夫妻には決める自由がある。ポールの妻には、口をはさむ余地すらない。

この映画は、彼女を罰していたのか

公開時から『運命の女』に向けられてきたもっとも強い反論は、どれほど同情的に見えても、これは罰の物語だ、というものだ。いちばん鋭く言ったのはテイラーだった。後半のエドワードは、極限まで追いつめられた善良な男であり、彼をその立場に置いたのはコニーだと観客は理解するよう求められている、と彼は書く。映画がスリラーに転じるにつれて、コニーはこの映画のパンドラになり、ラインにとって、不倫をしている女は災厄のきっかけなのだ、と。その背後には、ラインが一九八七年に撮った『危険な情事』がある。テイラーはこれを、性と家族の価値をめぐる右派的な考えを、ほとんどそのまま弁護する映画だと評した。

そうは見なかった人もいる。二〇二二年、ブルックリンでの三十五ミリ上映に寄せて、ニューヨークの映画情報サイト「スクリーン・スレート」にステファニー・モノハンが書いた文章は、この映画を、ほとんど『危険な情事』を正すような作品として読み、罪悪感と欲望のまじりあったレインの演技を、コニーの行いを裁くことなく、そのまま語らせている、と評した。リチャード・ギアも公開時、この映画には悪役がいない、と語っている。

どちらの読みも、現にあるものを言いあてている。映画はたしかに、パンドラの読みを誘う。後半のカメラはエドワードのそばにいて、観客は彼の打ちのめされた思いを感じとり、彼の身を案じるよう求められる。けれど、この物語の害が実際にどこから来ているのかを見てほしい。廊下で起きたことは、ポールがしたことだ。殺したのはエドワードで、伝言を消したのもエドワードだ。コニーの欲望は人を傷つける。まず誰よりもエドワードを。映画はそれを隠さない。けれど、その欲望は誰も殺していない。彼女が彼をその立場に置いたと言うのは、彼の行為を、彼女の勘定に書き移すことだ。

映画がコニーにしていることは、罰という言葉では言いあてにくい。彼女は殺されず、さらされず、追い出されもしない。彼女は、残される。家も夫も手もとに残る。夫の秘密を守ることと引きかえに。これが罰だとすれば、奇妙な罰だ。死ではなく、ひとつの暮らし。終わらせ方をめぐる彼女の選択がただ一度だけ覆されずにすんだ、そのときに彼女自身が選んだ条件のまま、生きていく暮らしだ。この文章は、それを判決とは呼ばない。それは帰結であり、帰結は判決ではない。映画はエドワードも含めて、誰にも宣告を下さずに帰結を配っていく。この文章も、そこについていく。

日本では、題名が先に彼女を名づけた

日本でこの映画が封切られたのは、二〇〇三年一月十一日。題名は『運命の女』だった。ある映画情報サイトは作品の解説で、ラインを『危険な情事』などのエロティック・サスペンスで知られる監督と紹介している。英語の原題は、ひとつの行いを名指していた。日本語の題名が名指すのは、ひとつの型だ。そして、その型には来歴がある。

「運命の女」は、フランス語のファム・ファタルの訳語のひとつでもある。美術情報サイト、アートスケープの用語辞典は、ファム・ファタルを、フランス語で「宿命の女(運命の女)」を意味する言葉とし、ラルース大辞典の定義を引いて、「恋心を寄せた男を破滅させるために、まるで運命が送り届けたかのような魅力を備えた女」と説明している。そう読めば、日本の題名とテイラーのパンドラは、太平洋の両側から同じ像にたどりついている。破滅の源としての女、という像に。

けれど映画のなかの出来事は、この像にあてはまらない。この物語の破滅は男たちの手でなされ、夫の破滅もまた、最後には彼自身の手によるものだ。題名は、もっとやわらかくも聞こえる。運命の人、風が運んできた人、という意味で。前半の映画は、まさにその物語だ。それが、もう一方の物語に変わっていく。どんな意図でつけられたにせよ、日本語の題名は、その両方を抱えている。そして、ペレルを読んだ先の一篇が戒めていたことを、ひと言でしてしまってもいる。謎を、運命にしてしまうのだ。

同じ種類の物語を、逆に理由から始める、よく知られた筋立てもある。セックスレスになった結婚から始まり、惹かれあっていくふたりを追っていくものだ。理由から語るという、ひとつの誠実なやり方だ。『運命の女』を作った映画会社が望んだのは、また別のやり方だった。悪い結婚という、理由に責める相手までついた物語。ラインのやり方は、三つのうちでいちばんめずらしい。理由もなく、責める相手もなく、それでも欲しいと思う妻。前の二つに慣れた観客には、三つ目がいちばん赦しにくいかもしれない。欲しいと思ったことを弁護する材料を、何ひとつ彼女に持たせてくれないからだ。

日本の読み手の多くには、この映画のなかで、なじみ深く感じられるものがあるかもしれない。電車だ。コニーは郊外に住み、恋人は都心にいる。そのあいだを結ぶ路線に、映画は、もっとも称賛された場面のひとつを置いている。東京へ向かう路線のずっと先に暮らしている人なら、埼玉でも千葉でも、そういう一日の形を知っているだろう。片方の端に家があり、もう片方に都心がある。そのあいだに、どちらの端からも彼女の顔が見えない時間がある。

結末は、国を移り住んだ読み手に向けても、語りかけるものをもっている。コニーが最後に思い描くのは、別の国と、別の名前だ。よその国へ行けば別人になれる、とでもいうように。実際に国を移り、生まれ育った言葉とは別の言葉で、いま日本の毎日を送っている人は、その空想が言い落としているものに、思いあたるところがあるだろう。新しい国は、たしかにいくつかのことを変える。名前の響きが変わり、新しい言葉を使ってはじめて口にできることが、見つかることもある。けれど、自分が携えてきたものまでは変えない。サムナー夫妻が思い描くのは、見知らぬ者として別の土地に着くことだ。国を移った人なら、たぶん、もう知っている。人はどこへ行っても、自分自身として着くのだということを。

この読みへの反論

ここからは、この読みへの反論を、できるかぎり強い形で述べておく。

第一に、結末。この文章は赤信号を選択として読み、ライン自身の説明もそれを支えている。けれどローゼンバウムは、まったく別のものを見た。このリメイクに映っているのは試写の反応をめぐる不安ばかりで、だから結末を探しはじめたとたんに急降下する、と。いくつもの結末を数えたが、どれも不器用だった、とまで書いている。議論を起こすために選ばれた結末は、試写のあとで選ばれた結末でもある。監督を世論調査にたとえたレインの言葉も、両刃の剣だ。この文章が評価した宙づりは、問いのふりをした会社の保険なのかもしれない。商売の理由で立てられた問いも、問いであることに変わりはない、とは言える。けれど、反論は残る。

第二に、伝言を消したこと。この文章はそれを、コニーの別れが奪われた二度目の出来事として読んだ。そんなものではない、と言う読み手がいてもおかしくない。彼は証拠を始末しただけで、彼女の決断のことなど頭になかった、と。そうかもしれないし、ここにそれを退ける材料はない。ここでの読みは、彼が何を思ったかではなく、消したことが何をもたらしたかについてのものだ。

第三に、理由を説明しないこと。この文章は、コニーの理由について映画が黙っていることを、一種の敬意と呼んだ。けれどそれは、ただの都合かもしれない。理由のない欲望は、映画がそれについて考えずにすむ欲望でもある。それは天気になり、筋を動かすための仕掛けになる。内面が空白のまま残された女性には、観客が持ちこむものを何でも詰めこめる。モノハンはレインのコニーを、温かさと計り知れなさのまじりあいと評した。称賛の言葉だが、計り知れなさは、見ようとしないことのひとつの形でもありうる。レインの演技が脚本の空白を埋めている、というのがここでの応答だ。けれどその応答が称えているのは、映画ではなく俳優だ。

第四に、死んだ男。夫婦に注意を向けるあまり、この文章はポールにはわずかなものしか与えていない。廊下で暴力をふるい、そのあと殺された男、としか。彼がしたことで、彼が殺されたことが小さくなるわけではない。彼が何をしたにせよ、その死が当然だったことにはならない。夫婦のどちらも裁かないと決めた文章は、三人目を外に置くほうが楽だっただけではないか、と思う読み手もいるだろう。捜索願を出した彼の妻には、ここで一、二文しか割かれていない。それでは足りない。そのことを記しておく。

最後に、この文章自身の釣り合いに対して。コニーの欲望を尊重し、夫婦のどちらも裁かないという立場は、居心地のいい中間に見えるかもしれない。裏切られた読み手がまず問うこと、つまり、すべてが始まる前にコニーはエドワードに何を負っていたのか、という問いを避けているように。映画は嘘を見せている。この文章はそれを名指して、先へ進んだ。結婚のなかで嘘をつかれたことのある読み手には、それが速すぎると感じられるかもしれない。そう感じるのは、間違っていない。

この図書室がここから受け取るもの

三つのことを、はっきり言っておく。

欲しいという気持ちは、理由がなくても本物だ。不満がないからといって欲望が偽物になるわけではないし、不満があれば本物になる、というものでもない。理由にこだわる物語は、たいてい、誰のせいなのかを問うている。それは、別の問いだ。

やめるという決断には、始めるという決断と同じ敬意が払われるべきで、それは決めた本人のものだ。「もう終わり」は、それだけで完結した一文だ。それを力で覆すのは、どう呼ばれようと暴力だ。どんな理由であれ、それを消すことは、彼女がそう言ったという記録を奪うことだ。どちらも愛ではなく、情熱でもない。

正直さは、修復と同じではない。互いのいちばん悪いところを知ることは、もっと偽りのない結婚の始まりにもなりうるし、隠れ家の条件にもなりうる。どちらになるかを決めるのは、その知識が何のために使われるのか、そして、車の外にいる人たちが視界に入りつづけているかどうかだ。

もしあなたが、何かを自分の言葉で終わらせたことがあって、その終わりが認められなかったのなら。言葉をさえぎられ、押しきられ、あるいは、そんなものは数に入らないと決めた誰かに、静かになかったことにされたのなら。それでも、その終わりはあなたのものだった。あなたは、それを言ったのだ。拒まれたことが物語っているのは、拒んだ人たちのことであって、あなたが本気だったかどうかではない。そして、もしあなたが、どう見ても不足のない暮らしのなかで、不満の裏づけのない望みを抱えているのなら、その望みは、あなた自身やその結婚がどこか間違っている証拠ではない。それで何かが決まるわけでもない。それをどうするかを決めるのは、あなただ。そしてその望みは、本物であるために誰かの許しを必要としない。

この文章が拠っているもの、主張していないこと

これは一本の映画についての読みであり、臨床的、法的、治療的な助言ではない。登場人物も含めて誰も診断せず、ここにあるどれ一つとして、読者の結婚についての助言ではない。

この文章は、映画を観て書いたものではない。作品と配役の公開された記録、監督と俳優が公開時とその後に受けたインタビュー、公開当時と後年の批評、賞を出した団体自身の記録、日本公開の記録に拠っている。台詞は要約で伝え、正確な引用としては扱わない。批評家、監督、俳優の言葉は、英語で発表されたものを、この文章が訳すか要約して伝えている。どの俳優の私生活についても、何も述べていない。

この物語が、あなた自身に起きたことにふれるなら、それは文章ではなく、人に話してよいことだ。日本では、#8891に電話すると、通話料無料で、最寄りの性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターにつながる。受付時間はセンターによって異なる。パートナーからの暴力については、内閣府の「DV相談+(プラス)」が、0120-279-889で二十四時間、日本語の電話相談を受け付けている。正午から午後十時まではチャットでも相談でき、チャットは十か国語に対応している。緊急のときは、110番に。

ここで名前を挙げた監督、脚本家、俳優、批評家、媒体、賞の団体は、いずれもこの図書室とは何の関係もなく、推薦も受けていない。

手もとに残す問い

あなたの望みが、理由を伴わずにやってきたとしたら、あなたはそれを前より信じなくなるだろうか。それとも、説明しにくくなるだけだろうか。

何かを終わらせたとき、それを聞いたのは誰だったか。その人は、それをそのままにしてくれただろうか。

信号が変わったとき、サムナー夫妻にどうしてほしいと思うか。その答えは、あなたが結婚を何のためのものと考えているかについて、何を語っているだろう。

あなたの人生に、誰かとの距離を縮めた真実と、ただ互いを縛りつけただけの真実は、あるだろうか。

あなたが生きている物語で、車の外にいるのは誰か。その人に、口をはさむ余地はあるだろうか。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

このお便りについて