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『セクレタリー』と、断れる場所で差し出された「はい」
リー・ホロウェイは、電話の勧誘さえ断れない。その彼女が自分の望みを見つけたのは、「いいえ」と言えば職を失う、ただひとつの部屋だった。「はい」が信じられるのは「いいえ」が言える場所だけだと、この映画は知っていて、終わるまでに彼女のためにそういう場所をつくる。そこで彼女がすることは本物だ。ただし、手本ではない。
フロリダの小さな町の実家に、リー・ホロウェイが帰ってくる。しばらく精神科病院に入院していたのだ。入院のきっかけは深刻な自傷で、彼女は何年も前から、隠れて自分を傷つけてきた。家では父が酒を飲み、飲めば荒れ、母はそのことで父と言い争う。結婚したばかりの姉は、夫と一緒に裏庭のプールハウスに移っている。そして映画のなかのリーは、誰の頼みも断れない人として描かれている。電話の勧誘さえ、断ることができない。
彼女はタイプを覚え、エドワード・グレイという弁護士の秘書になる。グレイは、退屈な仕事だと前もって告げる。退屈な仕事が好きです、と彼女は答える。その事務所で起きることが、スティーヴン・シャインバーグ監督の『セクレタリー』を有名にした。タイプミスと、その訂正。机のそばで尻を叩かれること。手紙をタイプする女性と弁護士とのあいだに生まれる、支配と服従の関係。二〇〇二年の公開以来、この映画は論じられつづけてきたが、議論はたいてい、ひとつの問いに行きつく。彼女は、それを選んだのか。
この文章は、映画そのものも同じ問いを抱えていて、評判から想像されるよりうまく答えている、と考える。ただし、その答えは事務所のなかにはない。「はい」が信じられるのは、「いいえ」が言える場所だけだ。リーの暮らしのなかで、事務所だけは、「いいえ」と言えば職を失う場所だった。そして映画の大半で、彼女と雇い主はそこで、間違いと訂正という暗号で語りあう。その暗号には、「やめて」にあたる言葉がない。映画は、そのことを知っているように見える。そして終わる前に、部屋から仕事を取り除いて、彼女が断れるようにする。
そのとき彼女がすることは本物だ。この文章はそれを、彼女のものとして認める。ただし映画が見せている分だけで、それ以上は認めない。そしてそれは、何かの手本でもない。恋愛映画は、どんな職場にも、どんな関係にもできないやり方で、ひとりの女性の「はい」を証明してみせることができる。けれど、この映画が彼女に求める証明は、高くつきすぎる。どんな証明にも、そこまでの代価を求めてはならないほどに。
作品について、そして読み進める前に
『セクレタリー』は二〇〇二年のアメリカ映画だ。監督はスティーヴン・シャインバーグ、脚本はエリン・クレシダ・ウィルソン。原作はメアリー・ゲイツキルの同じ題の短編で、彼女の最初の本である一九八八年の短編集『悪いこと』(邦訳は一九八九年)に収められている。マギー・ジレンホールがリーを、ジェームズ・スペイダーがグレイを演じ、家族ぐるみの知り合いのピーターをジェレミー・デイヴィスが、リーの母と父をレスリー・アン・ウォーレンとスティーヴン・マクハティが演じている。二〇〇二年一月のサンダンス映画祭で初めて上映され、ドラマ部門の審査員から、独創性に対する審査員特別賞を受けた。アメリカでは同じ年の九月に公開され、ジレンホールはこの役でゴールデングローブ賞の候補になった。日本では二〇〇三年七月に、英語の題をそのまま片仮名にして公開され、ある映画データベースはいまも、「弁護士と秘書の奇妙な主従関係を描いた異色ラヴ・ストーリー」と紹介している。
この映画はのちに、男性主人公が同じグレイという姓を持つ『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』と比べられた。また、上司と部下のあいだで、誰も何も尋ねないまま始まる関係を美化している、という批判も受けてきた。この批判には理由がある。どちらの話もこのあとで取り上げるし、この批判に対する映画自身の答えも取り上げる。
先に二つ、断っておく。この文章は、映画そのものを観て書いたものではない。場面は、公開されているあらすじや批評、インタビューが書いているとおりに記し、登場人物のせりふはすべて言い換えていて、そのままの引用ではない。そしてこの文章は、結末を含めて映画の全体にふれる。選ぶということについて、この映画の考えが示されるのは結末だからだ。結末が始まるところで、もう一度そう断る。
もうひとつ。リーは自分を傷つけてきた人で、この映画は、そのことを描いた映画でもある。この文章はそのことをはっきり書くが、どうやってかは何も書かない。
決まりのある仕事
事務所の前に、家のことを書いておきたい。彼女が毎朝どこから出かけていくのかを知ると、彼女が仕事に何を求めているのかが、少しわかる気がするからだ。
父の酒は、映画のはじめからそこにある。この文章は、それに説明も言い訳も与えない。ここで大事なのは、酒が家のなかにつくる天気のほうだ。そういう家で暮らす人は、機嫌が変わる前にそれを読むこと、自分の望みを小さくしておくこと、そして逆らわないことを覚えることがある。映画は、それがリーのありようの理由だとは言わないし、彼女の自傷にひとつの原因を与えもしない。この文章も与えない。映画がただ見せるのは、病院から帰ってきた若い女性が、電話で何かを売りつけてくる見知らぬ相手に至るまで、誰にも「いいえ」と言えずにいる姿だ。
そしてリーはタイプを覚え、働きに出る。グレイの事務所は静かで、几帳面で、どこか風変わりだ。書類はすべてタイプライターで打たせ、事務所では蘭を育て、人を寄せつけない。退屈な仕事だと言うグレイに、退屈な仕事が好きです、とリーは答える。小さな冗談のように聞こえる。けれど、映画の前半で彼女が口にすることのなかで、いちばん正直な言葉かもしれない。決まりのある仕事は、一種の避難所になる。求められることは書いてある。時間がくれば終わる。そこには、酔って帰ってくる人はいない。
このことを覚えておきたい。映画の残りは、ここを軸に回っていくからだ。事務所は、リーの暮らしでいちばん安全な部屋として始まる。やがて、自分が何を望んでいるのかを知る部屋になる。そして最初の日から最後の日まで、「いいえ」と言えばその部屋ごと失ってしまう、ただひとつの部屋でもある。
間違いと訂正という暗号
グレイはリーのタイプミスに苛立ち、やがて、それ以上のものを覚える。彼女の従順さに、欲望をかき立てられるのだ。ある日、またミスをした彼女の尻を、彼は机のそばで叩く。映画は、そのとき彼女が感じるものを恐怖としては描かない。彼女は興奮を覚え、そこから支配と服従の性的な関係が始まる。その関係は、ほとんど最後まで、事務所の言葉で営まれる。
その言葉がどんなものかを見てほしい。リーが間違え、グレイが正す。関係が深まるにつれて、彼女は彼を挑発するために、わざと間違えるようになる。グレイの指示は、机の上の手紙を越えて広がっていく。公開当時の批評でシンシア・フュークスは、彼が夕食の中身を、じゃがいもをひと匙、豆を四粒という細かさで指図することにふれている。二十年後に書いたエミリー・ケンウェイは、食べるものと並べて、着るものも、することも挙げた。リーの頼みは、いつも間違いの形でやってくる。グレイの欲望は、いつも訂正の形でやってくる。ふたりとも、自分が何を望んでいるのかを口にする必要がない。
これが暗号の恵みで、その恵みは本物だ。言葉にできなかったはずのふたりが、代わりに語ってくれる文法を見つけたのだから。タイプミスは、いつでもただのタイプミスでありうる。罰も、いつでもただの叱責でありうる。誰も、あの一文を口にする危険を冒さなくていい。電話の勧誘さえ断れない女性と、自分の欲望を恥じている男性のあいだで何かが始まるには、この暗号しか道がなかったのかもしれない。
同じ事実を裏側から見れば、それが暗号の危うさになる。何も言わなくていい文法とは、何も断れない文法のことだ。頼みがいつも間違いの形をしているなら、それを断るには、仕事そのものを断るしかない。欲望がいつも訂正の形をしているなら、それを疑うには、上司そのものを疑うしかない。口にされないものは、相手の解釈にまかされる。グレイの事務所では、そのまかせ方が、部屋のつくりそのものに組みこまれている。リーのミスのひとつひとつは、彼女が口にしなくてすむ問いであり、グレイの訂正のひとつひとつは、彼が自分のものとして引き受けなくてすむ答えなのだ。
これは欲望そのものを嘲る話ではない。何をするか指図されたい、間違えたら罰されたい、というリーの願いは欲望だ。この映画がいちばん正しかったのは、それを欲望として扱ったことだろう。傷としてでも、症状としてでも、冗談としてでもなく。そういうことを望む人はいて、それが自分自身の望みであるとき、人はそれを豊かに生きることができる。「考えているだけでは、自分が何を望むのかはわからない。」という文章は、この映画を、隠れていた好みが暴かれる話としてではなく、小さく試しては自分の反応に気づき、迷いながら少しずつたどり着いていくさまを描いた、数少ない映画として読んだ。そのとおりだと思う。付け加えるなら、その試みがどこで行われているかだ。リーの発見のための実験は、どれも、相手が彼女に給料を払っている、ただひとつの部屋で行われている。
彼女の痛みについて、映画が言っていること
この映画は、リーの自傷について、ひとつの主張をしている。まず、それが主張であることをはっきりさせておきたい。彼女が自分を傷つけていることを知ると、グレイは話を聞き、それから命じる。二度とするな、と。ある批評家が引いたせりふでは、彼はさらに、それはもう終わったことだ、過去のことだ、と言い添える。彼女はやめる。そこから先、映画の語りでは、ひとりで隠れて自分に向けていた痛みが、分かち合われ、選ばれ、彼女の目覚めの一部となる痛みに置き換わっていく。
シャインバーグは公開当時、それを自分の言葉で語っている。アメリカの公共ラジオの番組「フレッシュ・エア」で、テリー・グロスを相手に、彼はその違いを、この映画の鍵のひとつと呼んだ。彼女の自傷はまったくの孤独のなかで、隠れて行われる。グレイとのあいだで起きることは、誰かとの親密さのなかにある。まるで、その私的な世界に誰かを招き入れるかのように、と。
物語の描写としてなら、そこには本当のことがある。ひとりで抱えている秘密と、誰かと分かち合うことは同じではないし、映画がその違いを感じとっているのは正しい。けれど、何が人の助けになるのかについての主張としてなら、それはほとんどすべてを取りこぼしている。何を取りこぼしているのかを、見ておきたい。
まず、病院を。そこで何があったのか、誰が彼女を助け、家に帰るまでに何が必要だったのか。物語の関心はそこになく、手柄は事務所に渡されてしまう。次に、気づかうことと命じることの違いを。リーがやめるのは雇い主にそう命じられたからで、彼女がやめていられることは、彼の命令の上に乗っている。命令は取り下げられることもある。命じた男がいなくなったとき、そういうやめ方はどうなるのか。のちに彼は、彼女を解雇することで、実際にいなくなる。けれどそれは、恋愛映画が答えるようにはできていない問いだ。それから、その命令がどこまで届いているのかを。給料を払っている男が、勤務時間の外で、彼女自身の体について指図している。映画はそこに、やさしさを見るよう求める。そして、いちばん当たり前のことを。痛みも、服従も、愛も、何かの治療ではない。
二〇一〇年にポップマターズに書いたアデル・メランダー=デイトンは、その異議をまっすぐに述べた。映画はリーの自傷を、グレイとの関係にそのまま置き換えている。両者を同じものとして扱うのは誤解を招き、現実的でもない、と。現実の暮らしについて言うなら、この文章も同じ考えだ。映画が見せているのは、つくられたひとりの女性の物語である。それは、関係や欲望、誰かから与えられる痛みが、助けの代わりになりうるという証拠ではないし、この文章もそうは言わない。
もしここに書いたことが、あなた自身や身近な人のことに触れるなら、それは文章ではなく、人に話してほしいことだ。厚生労働省の「まもろうよ こころ」には、悩みや不安を抱えて困っているときに、電話やチャットで相談できる窓口がまとめられている。
作り手たちは、何を作ろうとしていたのか
この映画をつくった人たちは、自分たちが何を賭けているのかを知っていた。マギー・ジレンホールは二〇〇四年のインタビューで、はじめて脚本を読んだときに怖かったのは、性的な場面や自分が演じることになる行為よりも、まちがった人の手に渡ったときにこの映画が何を言ってしまうかだった、と語っている。映画は細い線の上を歩いていて、そこから落ちれば、反動的で反フェミニズム的なセックス映画になってしまう、と。彼女はシャインバーグに、この映画でどんなメッセージを伝えたいのかと尋ねた。撮り終えるまではわからない、と彼は答えたという。
共演者のスペイダーのことはすぐに信頼できた、とも彼女は言っている。撮影現場の彼は、はっきりとした境界線を保っていた。そのおかげで、現場でふたりのあいだに何が起きても、それが自分の生活に持ちこまれることはないと感じられた、と。小さな発言だが、多くを語っている。映画をつくった人たちは、境界線のなかで仕事をしていた。映画のなかのふたりには、そういうものが何もない。
スペイダーは二〇〇二年、映画の宣伝のなかで、ふたりの関係をほかの人の道徳から守ろうとした。ふたりの人間のあいだの、合意のうえの性的な関係に求められるのは、それが当人たちにとって表現に富み、健やかで、建設的であることだけだ。ほかの人の道徳を寝室に持ちこむ筋合いはない。カナダの新聞グローブ・アンド・メールに、彼はそう語っている。寝室については、彼は正しい。この文章も、そこで彼と争うつもりはない。『セクレタリー』の問題は、寝室にはない。事務所にある。
それから彼は、ひとつのたとえを持ち出した。リーは美しく優雅な、あざやかな色の花で、ふさわしい庭で咲くことを許されれば見事に咲くだろう。そしてグレイは、このうえなくやさしく、繊細で、思いやりのある庭師なのだ、と。寛大な絵であり、映画自身もそれを分け持っている。グレイは事務所で蘭を育て、リーに起きることは、花が開くことのように見える。けれど、この絵が何をしているかに目をとめてほしい。花は何も求めないし、何も断らない。この絵のなかで、選ぶことはすべて庭師のものだ。庭師を演じた人が、本物の愛情をこめて差し出したひとことのなかに、この映画の見えていないところが、そのまま収まっている。
シャインバーグは「フレッシュ・エア」で、ふたりのあいだに育っていくものについて、こう語った。ふつうならサドマゾヒズム的な関係と見なされるものが、グレイにとってもリーにとっても思いがけず、美しく穏やかな恋愛になっていくのだ、と。性についての映画を撮るなら、人物についての映画を撮らなければならない。その性がこの人たちにとって何を意味するのかについての映画を、とも。それから十五年後、彼はこの映画を、いまなら製作できない映画だと呼んだ。
恥と、彼に残されたただひとつの「やめる」
グレイは、自分が望んでいるものを恥じている。彼は何度も身を引く。自分の望みをもうはっきり知っているリーは、彼を呼び戻そうと、わざとミスをする。そしてある日、机のそばで、それまでのどれよりも踏みこんだことが起きる。この文章は、それを描写しない。そのあとグレイは、あれはおぞましいことだったとリーに宛てて書き、その手紙を細断し、彼女を解雇する。
この三つの行いの順番を見てほしい。事務所の問題のすべてが、そこにある。彼は一文を書く。その一文を、自分の手で消してしまう。そして彼女のもとに届くのは、その代わりの解雇だ。ふたりのあいだに起きたことについて、彼がいちばんまっすぐに書いた言葉は、部屋から出ていかない。実際に使われるのは、彼の立場が彼に与えている言葉のほうだ。仕事の言葉だけで営まれてきた関係には、どちらにとっても、「やめる」と言う方法がひとつしかなかった。彼女にとっては、辞めること。彼にとっては、解雇すること。彼は、それを使った。
これが、この関係のなかの力だ。やわらげずに名指しておく。グレイはリーの雇い主だ。給料を払い、彼女が職を続けられるかどうかを決める。そして、起きていることを終わらせたくなったとき、彼は彼女の職を終わらせることで、それを終わらせた。やめるときも、始めるときと同じく、彼女の望みは聞かれなかった。事務所を閉じたのは、彼女の拒絶ではなく、彼の恥だった。
だからこの文章は、グレイの事務所を、合意のうえで力を交換する関係の姿としては扱わない。そこにリーの喜びがどれほど映っていても、だ。問題は、部屋のなかの欲望ではない。部屋のなかの言葉が、どれもはじめから誰かのものだということだ。「『任せたい』は、何も決めたくないという意味ではない。」という文章は、選んで身を委ねることと、諦めることとを分けるのは境界線だ、と論じた。主導権を手渡す本人が前もって引いておく境界線と、計画がふたたび彼女の手に戻ってくる、あらかじめ決めておいた帰り道だ、と。グレイの事務所にも境界線はあった。けれど、それを引いていたのは仕事だった。机と、勤務時間と、給料。そしてその帰り道は、職を失うことだった。
ピーターと、本心ではない「はい」
グレイが身を引いているあいだに、リーはふつうの恋愛も試みる。家族ぐるみの知り合いのピーターは、ありふれたやり方で彼女とつきあう。ふたりのセックスは生ぬるく、叩いてほしいと彼女が頼むと、ピーターは戸惑うばかりだ。ピーターを映画の笑いものにするのはたやすいが、そうするべきではない。彼には、彼女が何を求めているのかがわからない。それは罪ではない。
けれど、彼女がピーターに何をしているかに目をとめてほしい。事務所の外で、給料を払っていない相手に、リーは自分の望みを言葉で頼んでいる。暗号は事務所のものであって、彼女のものではなかったのだ。雇い主のいない部屋を与えられれば、彼女はあの一文を口にできる。
やがてピーターが求婚し、リーは気乗りしないまま受け入れる。この「はい」を覚えておいてほしい。映画が自分の言い分を支えるためにしたことのなかで、いちばん効いているのがこれだからだ。ここでリーは、望んでいない結婚に「はい」と言っている。映画は自分の物語のなかで、彼女の「はい」がそれだけでは何も証明しないことを、見せてしまったのだ。この点で、彼女はまだ、電話の勧誘さえ断れなかったあの女性のままだ。だから映画は、彼女の「はい」を信じさせたいとき、「はい」には頼らない。
ウェディングドレスと、まっすぐな一文
ここから先は、映画の結末にふれる。
ウェディングドレスの試着の途中で、リーは飛び出していく。ドレスのまま、グレイの事務所へ走り、あなたを愛していると告げる。それがほかに何であっても、暗号ではないことは確かだ。言葉はまっすぐで、彼女はそれを、もう給料を払っていない男に向かって言う。
グレイは、その言葉をどう受けとめればいいのかわからない。迷った末に、彼は彼女を試す。自分が戻るまで、手も足も動かさずに、机の椅子に座っていろ。彼女は、そうする。
試しは彼のものであり、そのことには意味がある。条件を決めるのも、何をもって合格とするかを決めるのも、彼だ。それは同じ男が、同じ机で下す、もうひとつの命令でもある。ここで読むのをやめて、何も変わっていないと言うこともできるだろう。けれど変わったものがある。それは、映画がこのあとにすることのすべてだ。
断りつづけた三日間
ピーターがやって来て、彼女を椅子から引きずり下ろす。彼女は椅子に戻る。グレイは、それを人知れず見ている。やがて、彼女の暮らしのなかの人たちが、ひとりずつ机のところへやって来る。家族も、友人も。やめさせようとする人もいれば、励ます人もいる。記者まで集まってきて、彼女がハンガーストライキをしているのだと思いこむ。彼女は三日間、そこにいる。
この場面を、あの電話の横に並べてみる。映画のはじめ、リーは何かを売りつけてくる見知らぬ相手の電話さえ、断ることができなかった。ここで彼女は、家に連れて帰ろうとやって来た婚約者を断る。彼女を愛し、もうやめてほしいと頼む人たちを断る。記者たちが抗議だと思いこむのにまかせて、動かない。訪ねてくる人のひとりひとりが、差し出された出口だ。そこにとどまる一時間ごとに、いつでも立ち上がれる彼女が、人の目の前で、とどまることを選び直している。
部屋は変わっていない。同じ事務所、同じ机、同じ椅子だ。そこから出ていったのは、仕事のほうだ。いまは椅子のうしろに給料はなく、断れば解雇されるということもない。だからいま、グレイへの「いいえ」が彼女から奪うのは、グレイだけだ。そして、訪ねてくる人たちのなかには、その「いいえ」を彼女に求める人もいる。
これが、この映画の同意の場面であり、よくできた場面だ。それは仕事がなくなったあとに起きる。人の目のあるところで起きるので、彼女の選択はふたりのあいだの秘密ではなく、入ってきた誰もが見ることのできるものになる。そしてそれは、断ることでできている。この図書室の「『ベイビーガール』、身を委ねることは弱みを握られることではない」は、『セクレタリー』について、雇われている人が雇い主に言う「はい」は単純な「はい」にはなりえない、と書いた。事務所については、まさにそのとおりで、事務所のなかのどんな場面も、そこから先へは行けない。座り込みは、仕事がなくなったあとで、映画がその先に付け加えたものだ。映画はここでリーの「はい」を、物語にできるいちばん確かなやり方で証明する。言えたはずの「いいえ」を、ほかの誰に対しても実際に言ってみせる彼女の姿を、何度も見せることで。映画はその大半の時間、「いいえ」が言えない部屋に彼女を置いてきた。ここで映画は部屋から仕事を取り除き、彼女をそこにとどまらせる。
記者たちの場面は映画のなかの冗談だが、その冗談には意味がある。外から見れば、リーの静けさは抗議に見え、抗議として報じられる。机の前でじっと動かない女性は、ほとんど何を意味してもおかしくない。彼女の顔が見えない人たちは、彼女を読みちがえる。私たちが正しく読めるのは、ただひとつの理由による。映画が、彼女の顔を見せてくれるからだ。映画は私たちを、彼女の内側に入れてくれる。どんな職場も、どんな裁判所も、どんなパートナーも、誰かの内側に入ることはできないのに。
座り込みが証明できないこと
だからこの文章がリーのために認めるのは、映画が見せていることであって、それ以上ではない。立ち去ることのできる場所で、彼女は何度も何度もグレイを選んだ。そのうえで、この座り込みが何を見せていないのかについても、同じくらい注意深くありたい。
条件は見せていない。これから始まることで互いに何を望むのか、どこまでなのか、どうすれば止まるのか。ふたりのあいだには、そうした言葉がひとつも交わされない。座り込みが証明するのは、彼女が彼を望んでいるということだ。ふたりが何に合意するのかは、見せていない。「『Fifty Shades of Grey』は、ファンタジーと現実の境界線をどこまで教えてくれるのか」という文章は、うまくいく交渉は物語にならない、と書いた。ふたりが落ち着いて話し、決め、確かめる会話には、見るべきものが何もないからだ。『セクレタリー』は、それを裏づけている。会話があるべきところに、この映画は試しを置いた。試しなら、場面になるからだ。
問いかけも見せていない。グレイは彼女に何ひとつ尋ねず、離れたところから見ている。三日というのは、彼の疑いが晴れるのに要した時間だ。証明を求めたのは恥じていた男で、その代価を払ったのは、恥じていなかった女性のほうだった。
座り込みが見せている証明は、人に求めてよい種類のものでもない。手も足も動かさずに三日間椅子に座りつづけ、見知らぬ人たちにハンガーストライキと取りちがえられる。それは試練であり、映画はそれを献身として描く。戸口から見ている友人なら、別の名前で呼ぶかもしれないし、それはまちがいではない。この座り込みに心を動かされながら、それでもはっきり言うことはできる。欲望を、自分の体で証明しなければならない人がいてはならない。
そして、座り込みはさかのぼれない。映画の終わりの「はい」は、はじめて尻を叩かれたあの日を、彼女が頼んだことに変えはしない。公開から二十年後に、リテラリー・ハブという文芸サイトでこの映画について書いたエミリー・ケンウェイは、リーがどの時点でも同意を尋ねられていないことを指摘した。座り込みは、それを変えない。仕事がなくなったあとで、彼女の選ぶ姿がどう見えるのかを見せるだけだ。もし事務所で誰かが尋ねようと思っていたら、彼女が何と言ったのかは、教えてくれない。
浴室と、玄関先
三日後、グレイが戻ってくる。彼はリーを二階へ連れて行き、体を洗い、食事をさせ、口ごもりながら自分の愛を告げる。ふたりは結婚し、自分たちで選んだ関係を、幸せに続けていく。
浴室の場面は、この映画でいちばんやさしい場面だ。それが何をしている場面なのか、見ておきたい。はじめて、グレイの力が、リーの体を正すためではなく、体が必要としているもののために使われる。彼は指図しない。洗う。試さない。食べさせる。自分の恥を書いては細断することしかできなかった男が、いまは自分の愛を、たどたどしく、つまりは心から、声に出す。試練のあとに、いたわりがくる。主導権を手渡す関係なら、どんな形であれ、いたわりはそこにあるべきだ。終わりに、手渡されたものが手渡し返されるときに。
そして、映画がふたりをどこへ移したのかも見ておきたい。ケンウェイは、映画がリーをどこに置いて終わるのかを書いている。グレイと結婚した彼女が、玄関先から、仕事に出かける彼に手を振っている。映画は、彼女を机の前に置いたまま終わらない。恋人たちに幸せな結末を与えるために、映画はふたりの関係から給料をまるごと取り除き、仕事のあった場所に結婚を置かなければならなかった。結婚には結婚の力があり、映画はそれを吟味しない。映画の議論にとっては、リーが断ることのできなかったただひとつの力、つまり給料が部屋から出ていった、というだけで足りるのだ。事務所の映画として記憶されがちな作品にとって、それは小さくない告白である。
映画が原作に書き足したもの
事典には、ゲイツキルの短編と映画にはほとんど共通点がない、とある。二つを並べて読んだ批評家たちがいちばん大きな違いを見るのは結末で、短編には座り込みも結婚式もない。事務所への帰還も、机の前の三日間も、浴室も、結婚も、映画のものだ。
つまり、この文章がいちばん頼りにしてきた場面、立ち去ることのできる場所でリーが選ぶ場面は、どれも映画のために書かれたものだ。脚色が付け加えたのは、何よりも、断ることだった。
二〇〇六年のインタビューで、聞き手はゲイツキルの以前の評を持ち出した。この映画は短編の『プリティ・ウーマン』版で、魅力を強く押し出した、少しお行儀のよすぎるものだ、という評だ。そのうえで、新しい小説も同じようにハリウッド流に作りかえられるのが心配ではないかと尋ねた。ゲイツキルはその評を否定しなかった。最悪の場合と最善の場合のあいだで言えば、『セクレタリー』はまさに中間の出来事だった、映画になればいくらかのお金と注目が手に入り、あとはそれぞれが判断すればいい、と彼女は答えている。
映画が書き足したものは二通りに受けとれて、この文章はその両方を手放さない。ひとつはゲイツキルの受けとり方で、甘くしたこと、短編にはない幸せな結末を足したこととして見る。もうひとつは、書き足されたものを、映画自身の答えとして見る受けとり方だ。前半が投げかけておきながら、事務所のなかでは答えられない問いへの答えとして。リーのような女性が「はい」と言ったとき、それが信じられるには何が要るのか。映画の答えは、彼女が立ち去ることのできる部屋だ。それはつくりごとだ。そして、正しい。
日本の職場なら、それを何と呼ぶか
日本のある映画データベースに載っているあらすじは、グレイがリーに「猛烈なシゴキ」をぶつけ、ミスをすると尻を叩く罰を加えた、と書いている。しごきは、ありふれた言葉だ。辞書は、きびしく鍛えることと説明し、先輩のしごきにあう、という用例を添えている。上の者が下の者に課す、きびしい訓練の言葉だ。訓練がどこで終わり、別の何かがどこから始まるのか。日本の職場は、その問いに文章で答えなければならなくなった。
二〇二〇年六月から適用されている厚生労働省のパワーハラスメントについての指針は、まさにそのあたりに線を引いている。職場のパワーハラスメントとは、優越的な関係を背景とした言動であって、業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、労働者の就業環境が害されるもの、とされる。そして、客観的にみて業務上必要かつ相当な範囲で行われる適正な業務指示や指導は、パワーハラスメントには当たらない、と付け加えている。指針が最初の類型として挙げる身体的な攻撃の、最初の例は、殴打や足蹴りだ。
タイプミスに対して尻を叩くことを必要とする業務は、どこにもない。映画はそれを知っていて、だからこそあの場面には熱がある。リーもそれを知っていて、だから彼女はわざとミスをするようになる。事務所の暗号は、指導や訓練の文法を借りて、その文法がもともと言うためのものではなかったことを言う。そして、それほど上手に借りられた文法には代価がある。外から見るかぎり、その文法のなかでは「はい」と沈黙の区別がつかない。
日本の最高裁判所は二〇一五年、現実の職場について、それに近いことを述べている。ある水族館で、管理職の男性ふたりが、そこで働く女性たちに性的な発言を重ねた事件だ。原審は、男性たちが女性のひとりから明白な拒否の姿勢を示されておらず、許されていると思いこんでいたことを、彼らに有利な事情として考慮した。最高裁はそれを退けた。職場でセクハラを受けた人が、内心では著しい不快感や嫌悪感を抱きながらも、職場の人間関係が悪くなることなどを心配して、抗議や会社への申告を控えたり、ためらったりすることは少なくない、というのが理由のひとつだった。職場では、「いいえ」がないことは「はい」の証拠にならない。映画がリーの「はい」と沈黙とを見分けられるのは、彼女の顔を見せてくれるからだ。裁判所にも、同僚にも、雇い主にも、その顔は見えない。
ここに書いたことは、フロリダの架空の事務所に当てはめるためのものではないし、これで『セクレタリー』が日本についての映画になるわけでもない。ただ、映画の事務所が持っていなかった言葉を、ここで読む人に手渡してはくれる。仕事と関係のない訂正を呼ぶ言葉と、「はい」ではない沈黙を呼ぶ言葉を。
この読み方がまちがっているかもしれない理由
この読みには、まちがっているかもしれないところが少なくとも四つある。ひとつめは、この文章がいちばん認めたくないものだ。
ひとつめ。事務所は衣装にすぎず、この文章はそれを本物の職場と取りちがえているのかもしれない。『セクレタリー』は寓話として語られている。蘭を育てる弁護士、花開く秘書、浴室で終わる試し。スペイダーは、この映画が描いているのは、いちばん型どおりで素朴で無垢な恋愛物語でさえ、ふだんより遠くまで目をこらさないと見えない世界に生きていることがある、ということなのだと語った。上司と秘書というのは、そもそも、合意のうえで、職場とは無縁の場所で演じられることのある場面でもある。遊びのなかでそれを望むことは、職場でそれを望むことではない。そう考えるなら、この映画に人事部の基準を当てはめるのは、ジャンルを取りちがえているだけだ。その多くは認めるべきだろう。この文章は、そのファンタジーとも、それを演じる人とも争っていない。争っているのは、映画の事務所を、現実の雇い主と従業員のあいだで何かが始まるときの姿として読むこと、それだけだ。
ふたつめ。座り込みは、この文章の言うこととは逆のことを証明しているのかもしれない。リーが座るのは、グレイがそう言ったからだ。戸口で彼女が口にする拒絶のひとつひとつは、彼への服従でもある。だとすれば、この文章が彼女のいちばん自由な場面と呼んだものは、彼女の服従のいちばん純粋な姿なのかもしれないし、映画は記者たちと同じくらい、選ぶことと従うことを見分けられていないのかもしれない。それは本当で、理屈で打ち消す必要はない。女性は、従うことを選べる。選ばれた服従とは、そういうものだ。映画が付け加えたのは、従うことがもはや職を守るための代価ではない部屋だ。だからそこで彼女が従うとき、それはようやく選択として受けとることができる。
みっつめ。結末が、始まりを洗い流しているのかもしれない。ケンウェイの異議は、そのまま残る。はじめ、誰もリーに何も尋ねない。そしてふたりの関係に結婚という褒美を与える映画は、尋ねずに始まったことも幸せな結末が許してくれる、と教えかねない。メランダー=デイトンは、終わりにもっと伝統的な恋愛物語の装いへと退いていくことを、唐突で説得力がないと評した。この文章は、結末をこの映画の同意についてのいちばんよい考えだと論じてきた。それは同時に、いちばん危ういものでもあるのかもしれない。事務所をいちばんよく弁護しているのが、事務所がなくなったあとに起きる場面なのだから。
よっつめ。この文章は、事務所を責めているのと同じことを、自分でしているのかもしれない。リーの「はい」が彼女のものだと、誰にどうしてわかるのか。この文章はずっとそう問いつづけてきた。それは、ふつうとはちがう欲望を持つ女性が、何度も突きつけられてきた要求に近い。証明してみせろ、という要求に。ジレンホールは、この映画が思ったほど論争を呼ばなかったことに驚き、望んでいたようにこの映画のために闘う機会がなかった、と語っている。この映画をただの恋愛物語として受けとった観客こそが正しく読んでいて、証明を求めているのはこの文章のほうなのかもしれない。答えはこうだ。この文章は、リーの欲望を疑っていない。映画がそれを見せていて、この文章はそれを信じている。問うているのは、映画館の外で、ほかの誰かがそれを信じられるには何が要るのか、ということだ。それは映画自身の問いであり、座り込みは、映画自身の答えなのだ。
この図書室が、ここから受けとるもの
三つある。どれも、決まりではない。
「はい」が信じられるのは、「いいえ」が言える場所だ。それは、誰かの「はい」を疑う理由ではない。どんな取り決めのなかでも、「いいえ」を探す理由だ。それが言えるのか。言えば何を失うのか。『セクレタリー』がいちばんよいのは、リーが断る姿を見せるときだ。その拒絶こそが、彼女がそこにとどまることを、彼女のものにしている。
暗号は守ってくれる。そして同時に、「やめて」の言葉を持ち去っていく。間違いと訂正は、言葉にできなかったふたりに何かを始めさせた。けれどそのせいで、どちらも仕事の言葉でしか、それを終わらせられなかった。グレイが書いて細断したあの一文こそが、助けになるはずのものだった。
職場には「やめる」の言葉がひとつしかなく、それは雇い主のものだ。ああいう欲望を暮らしのなかで生きていきたいなら、その部屋には、ふたり自身の「やめて」が要る。どちらの暮らしの糧も奪わない「やめて」が。
だから一度だけ、あなたに言いたい。もしあなたが、リーの望んだものを望んだことがあるなら。指図されること、正されること、しばらくのあいだ計画を誰かに手渡すこと。その望みは傷ではないし、言い訳もいらない。もしあなたがそれを最初に見つけたのが、断ることのできない場所、職場や、あなたから何かを奪える人の下だったとしても、それであなたの望みが、あなたのものでなくなるわけではない。まちがっていたのは場所であって、あなたではない。どんな取り決めにも持っていきたい問いがある。映画が最後にリーの椅子に向けた問いだ。あなたは、立ち上がれるだろうか。そして立ち上がったら、何を失うだろうか。
これは一本の映画の読みである。虚構の人物も実在の人も、誰も診断しない。どんな関係についても、どんな職場についても助言するものではなく、自傷については、映画の物語が物語だということのほかには何も主張しない。日本の指針も最高裁の判決も、紹介しているだけで誰にも当てはめてはいないし、ここにあるどれも法的な助言ではない。
手もとに残しておく問い
あなたの暮らしのなかで、「いいえ」がただで言える場所はどこだろう。失うわけにはいかないものを失わずには言えない場所は、どこだろう。
大切なことに最後に「はい」と言ったとき、代わりに言えたはずの「いいえ」は何だっただろう。あなたは、それを言えただろうか。
ほのめかしや、わざとの失敗や、機嫌のような暗号でしか頼んだことのないものはあるだろうか。それを一文にするなら、どうなるだろう。
誰かに、あなたが何を望んでいるのかを証明するよう求められたことはあるだろうか。その証明のために、あなたは何を払っただろう。それは、その人が求めてよいものだっただろうか。
いつでも立ち上がれるとしたら、あなたはそこにとどまるだろうか。それは、あなたに何を教えてくれるだろう。
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