Cinema
『セックス・アンド・ザ・シティ』と、誰の真似でもない欲望
第一話で、男みたいにセックスすればいいと言い出したサマンサは、それを「感情抜きで」と言い換えた。最終話までに彼女は、このドラマのほかの誰にも言えない一文にたどり着く。この文章は、そのあいだの六シーズンを、女性の欲望にあてがわれた借りものの物差しと、それを自分のものに取り替えることを許されたのは誰だったのか、をめぐる物語として読む。
ミランダの誕生日、マンハッタンで四人の女性が夕食のテーブルを囲んでいる。四人のなかでいちばん年上の、広報の仕事をしているサマンサが、この街で成功した女に残された道を並べてみせる。恋人を探して壁に頭を打ちつけつづけるか、それとも割り切って、男みたいにセックスしに出かけるか。シャーロットには、それがどういうことなのか、よくわからない。サマンサが言い直す。「感情抜きで」ということよ、と。
一九九八年六月、アメリカの有料ケーブル局で放送が始まった『セックス・アンド・ザ・シティ』の第一話である。話が終わるころには、四人は試してみると誓っている。完璧な男を探して気をもむのはやめて、男がするとされてきたように、情を移さず、セックスそのものを楽しむ。冗談であり、宣言でもある誓いだった。このドラマは最後まで、その誓いを手放しきらなかった。
この先は六シーズンのすべてにふれる。四人それぞれの物語の終わり方も書き、二本の映画とのちの続編にも少しふれる。結末を先に自分の目で確かめたい人は、そうしてから読んでほしい。この文章は、そのあとでも読める。
六シーズンのちの最終話。若い俳優が撮影先からニューヨークへ飛んで帰ってきて、サマンサに愛していると告げる。彼女は抗がん剤の治療をくぐり抜けてきたところで、ドラマは、治療が彼女の欲望を奪っていくところを見せてきた。彼女が返すのは、場面が待ちかまえているはずの台詞ではない。あなたは、これまで知ったどんな男よりも、私にとって大きな意味をもつ人だった。そう彼女は言う。
この文章が扱うのは、そのふたつの言葉のあいだの距離であり、どちらも同じひとりの女性のものだという事実である。『セックス・アンド・ザ・シティ』についてよく語られるのは、性をめぐる誓いで始まり、恋愛で終わったドラマだという話だ。あの結末は後退だった、怖じ気づいて全員を誰かと組ませてしまった、と。この文章の主張は、もう少し狭い。そして、そのほうが真実に近いと考えている。第一話が間違えたのは、欲望そのものではなかった。物差しのほうだった。男とはこう欲するものだという絵を借りてきて、それを四人の女性の自由の形として差し出したのだ。そう読めば、そのあとの六シーズンは、その物差しが役に立たなくなっていく物語であり、四人がそれぞれ、自分の欲望が本当はどんな形をしているのかを知っていく物語である。
誓いを誰よりも守っているように見えたサマンサが、その証拠になる。彼女は一度も、男みたいに欲したことなどなかった。サマンサのように欲したのだ。たびたび、あけすけに、自分の口で言った条件のうえで。病気が欲望を奪ったとき、残ったのは、小さくなった女でも矯正された女でもなかった。同じ声が、それまで言ったことのないことを言っていた。その反対側にいるのがキャリーである。彼女はドラマのほとんどを、一緒にいると自分らしい声が出ないと自分でも認める男を愛して過ごし、ドラマは彼女の物語を、彼女の言葉ではなく彼の言葉で閉じる。
記録と、この文章の読み方
まず記録から。『セックス・アンド・ザ・シティ』は、一九九八年六月六日から二〇〇四年二月二十二日まで、アメリカのケーブル局HBOで放送された。三十分のエピソードが六シーズンで九十四話。キャンディス・ブシュネルが週刊紙『ニューヨーク・オブザーバー』に書いたコラムと、それをまとめた一九九六年の本をもとに、ダレン・スターが、女性の多い脚本チームとともにドラマに仕立てた。キャリー・ブラッドショーをサラ・ジェシカ・パーカー、サマンサ・ジョーンズをキム・キャトラル、シャーロット・ヨークをクリスティン・デイヴィス、ミランダ・ホッブスをシンシア・ニクソンが演じる。二〇〇一年にはエミー賞のコメディ・シリーズ部門で作品賞を受け、受賞はエミー賞が通算七つ、ゴールデングローブ賞が八つを数える。最終話の脚本はマイケル・パトリック・キングが書いた。のちに映画が二本(二〇〇八年と二〇一〇年)作られ、二〇二一年から二〇二五年までは続編シリーズ『AND JUST LIKE THAT... / セックス・アンド・ザ・シティ新章』が続いた。日本では二〇〇〇年十二月、衛星放送で第一シーズンの放送が始まっている。
設定の中心にあるのは、ひとつのコラムだ。キャリーはニューヨークの新聞に性と恋愛のコラムを毎週書いていて、各話は、彼女がキーボードに打ちこむ問いを軸に進む。ふと思った、と自分の好奇心を白状するところから始まる、あの一文である。材料の多くを提供するのは三人の親友だ。自分の広報会社を経営するサマンサは、恋愛抜きのセックスを求め、魂の伴侶なら何百人もいると言い、事が済めば相手には早く帰ってほしい。画廊で働くシャーロットは、昔ながらのやり方で結婚を夢見ている。弁護士のミランダは、そのどちらにも懐疑的だ。
この文章はまずサマンサをたどる。議論が彼女から始まるからだ。次に、ドラマを締めくくるキャリー。シャーロットとミランダには、ドラマが与えた結末のところで、短く戻ってくる。六シーズンにはほかにも多くのことが詰まっているが、それは脇に置いておく。
読み方について断っておく。この文章は、ドラマそのものを視聴して書かれたものではない。各話について述べることは、公刊された記録と、記録として残る評や批評にもとづいている。台詞は、そうした資料が書き留めているものに限って訳して引き、それ以外は言い換えて示す。登場人物を診断することはしない。病気については、ドラマが見せていることだけを書き、その先へは進まない。
第一話が借りてきた物差し
第一話が差し出したものは、評判よりも懐が深く、そして評判よりも混乱していた。
懐の深さは本物だった。脚本家のひとりリズ・トゥッチロは二〇一八年、英紙ガーディアンに、あの四人は、自分たちは三十代で、愛がほしい、でも楽しむし、セックスもするし、出かけもする、とテレビではじめて言った女性たちだった、と語っている。同じ記事で書き手のケイト・ボリックは、このドラマが独身女性を、さびしく孤独なオールドミスとしてではなく、仕事に打ちこみ、性においても自立した存在として描いたことを評価した。一九九八年に、それを画面の真ん中に置き、女性たち自身に語らせたのは、小さなことではなかった。
混乱は言葉のほうにある。男みたいに、とは、サマンサの言い換えによれば、感情抜きで、ということだった。性を、満たせば忘れてしまう食欲のように扱う、型どおりの男の像を借りてきて、それを女性の自由の形として差し出したのだ。その像は、実際の男性についてはほとんど何も語らない。それを差し出された四人の女性については、なおさら何も語らない。しかもその像のなかには、欲望についてのひとつの理論がまるごと入っている。欲望とは量であり、溜まっては吐き出さなければならない衝動であり、自由な女とは、男がそうすると思われているやり方でそれを吐き出せる女のことだ、という理論が。
この図書室は、この理論に以前から異を唱えてきた。「欲望は、性欲だけではない。」は、リビドーという言葉がひそかに衝動のモデルを持ちこむこと、そこでは欲望の少ない女は欠けていて、多い女は追い立てられていることになってしまうこと、そして欲望の多くはむしろ応答として、つまり蓄えられているのではなく条件のなかで生まれるものとして理解したほうがいいことを指摘した。ミランダの誕生日の誓いは、カクテルドレスを着た衝動モデルである。男みたいにできるか、と問う。それは量と形式についての問いで、答えはふたつしかない。できる、だから自由。できない、だから自由ではない。
「カジュアルな性。それがどうなるかを実際に予測する、たったひとつの問い。」は、同じ問題に反対側から迫った。その文章が参照した研究によれば、カジュアルな出会いがその女性にとってどんな帰結になるかを予測するのは、形式ではなく理由である。彼女が、自分の理由でそれを望んだかどうか。カジュアルか、決まった関係かという形式そのものは、驚くほど何も予測しない。男みたいに、とは形式の話だ。意図したかどうかはともかく、このドラマは六シーズンをかけて、大事なのは理由のほうであり、あの食卓の四人の理由は男のものではなかったことを確かめていく。理由は、彼女たち自身のものだった。
サマンサは誰の真似もしていなかった
サマンサは、教訓をくっつけずに読まれていい人物だ。ドラマのいちばんいい台詞の多くは彼女のものだが、彼女は笑いものではないし、見せしめでもない。セックスを求め、それもたびたび求め、そう口にする。楽しみ、楽しんでいる自分を面白がる。事が済んだら相手には早く帰ってほしいと思い、それも口にする。六シーズンを見わたして目をひくのは、ドラマが彼女の欲望そのものを、うまくいかない原因にすることがいかに少ないかだ。サマンサのまわりで何かがこじれるとき、たいていそれは、誰かが彼女に手渡した台本のせいである。
ドラマは彼女に三つの台本を渡す。第一シーズンの終わり、彼女はジェームズと出会い、結婚相手になるかもしれないと思って、珍しく待つことにする。愛を感じるまでセックスを先延ばしにするという、昔ながらの求愛の台本に従うのだ。ようやく結ばれてみると、体の相性に失望し、関係は終わる。第四シーズンでは画家のマリアと本気の恋をするが、あなたは親密さを怖がっている、とマリアが結論して終わる。それはマリアの判定であり、ドラマは彼女にそれを言わせる。同時に、サマンサにも、男が恋しいとはっきり言わせる。そしてリチャード。彼女と同じくらい束縛を嫌うホテル王と、一対一の関係を約束する。浮気をするのは、彼女ではなく彼のほうだ。彼女は許そうとする。第五シーズン、疑うことに疲れきった彼女は関係を終わらせ、愛していると言う彼にこう答える。「私も愛してる、リチャード。でも、それ以上に自分を愛してるの」
三つを並べてみると、ありがちなサマンサ像から抜け落ちているものが見えてくる。どれも、彼女の欲望の失敗ではない。どれも、借りものの形式の失敗なのだ。愛が来るまでセックスを待たせる求愛。彼女なら動くところで話しあいを重ねる関係。彼女が受け入れ、彼のほうが破った一対一の約束。そして三つめの終わりに彼女が見つけた一文は、愛と自分自身をひと息に口にした、最初の言葉だった。貞淑の誓いでも、改心でもない。自分の文法で、自分の立ち位置を言ったのである。
スミスは、はじめは欲望でしかない。友人たちと食事に行ったレストランで、若いウェイターを彼女が口説き、家に連れて帰る。それから彼女は、仕事で得意なことをする。広報のプロとして、ジェリー・ジェロッドという名前をスミス・ジェロッドに変え、彼を有名にするのだ。同じシーズンのうちに、彼の姿はタイムズスクエアの看板を飾る。それでも長いあいだ、彼女は恋愛にしてしまう言葉を拒む。彼の恋人と呼ばれたくない。手もつながない。リチャードともう一度だけ関係を持ったあと、スミスのもとへ戻り、彼は彼女を許す。彼は、彼女がまだ名前をつける気になれないものを彼女に求めていて、それでも待つことができた。
これを、いちばん古い筋書きとして語るのはたやすい。恋愛抜きのセックスを求めていた女が、ついに正しい男によって恋愛を教えられる、という筋書きだ。ドラマの語り方は、それとは少し違う。違いは、誰が名づけているかにある。スミスを名づけるのは、文字どおりサマンサだ。恋人という言葉をいつ使ってよいかを決めるのも、サマンサだ。この関係が続いていたあいだ、それが持ちこたえたのは、条件を決めるのが彼女で、彼がその条件のなかで生きられたからである。
欲望が静かになったとき
最終シーズン、彼女は乳がんと診断される。ドラマはそれを、彼女らしい度胸と笑いを交えて描く。自分がスミスのために築いた知名度を使って、名の知られたがんの専門医の予約を取りつける。抗がん剤で髪が抜けると、かつらや帽子やスカーフを次々に試し、スミスは自分の頭を剃る。がんの慈善の集まりで話をすることになった彼女は、壇上でかつらを取り、ほてりのことをあけすけに語る。客席の女性たちが立ちあがり、自分のかつらを外していく。当時の米誌ニューズウィークによれば、それがキム・キャトラルがサマンサとして撮った最後の場面だった。
ここは慎重でありたい。ドラマは、治療が彼女の欲望を奪っていくところを見せる。この文章は、そこから先へは行かない。治療がほかの誰かに何をもたらすかについては、何も主張しない。それは、テレビドラマや、ドラマについての文章ではなく、その人自身の主治医と話しあうべきことだからだ。
ここでドラマがしたことは、サマンサをめぐってこの作品がした、もっとも精密な仕事である。第一話が彼女の自由の尺度のすべてとして扱った欲望が、静かになる。撮影で街を離れていたスミスが、飛んで帰ってきて、愛していると告げる。そして彼女は、あなたはこれまで知ったどんな男よりも、私にとって大きな意味をもつ人だった、と答える。
この一文は、ゆっくり読んでほしい。これはドラマが第一話に返した答えであり、しかも何ひとつ悔い改めずに答えている。何百人もの魂の伴侶を捨ててはいない。使っているのだ。彼らは彼を測る目盛りになり、彼はそのすべての上に来る。過去を責められてきた女性が、その過去を、自分のやさしさを測る単位にしてみせる。このドラマのほかの誰にも言えなかった一文である。六シーズンのなかで、いちばん借りものでない一文かもしれない。
病気がしなかったことにも、目をとめておきたい。病気は彼女を矯正しなかった。この文章は、がんを、彼女の生き方への判決としては読まない。そう読む見方については、あとで取りあげる。病気が奪ったのは欲望だった。第一話が彼女のすべてであるかのように扱った、あのひとつのものだ。残ったのは、彼女の声と、彼女の条件と、その条件のなかで生きることを覚えた男だった。誓いは、感情抜きで、と言った。彼女の最後の一文は感情に満ちていて、それでもまるごと彼女のものである。
この図書室の「『人生の最期にシたいコト』、言葉にした約束が、彼女に声をくれた」は、ステージ4の乳がんを抱えた女性が、遅くなってから、ひとつひとつの行為が求められ、ひと言ですべてが止まる文法を見つけ、それを寝室の外の人生へと持ち出していく姿をたどった。サマンサはその反対の例だ。彼女は第一話から、自分の文法をもっていた。病気が試したのは、彼女が声を見つけられるかどうかではなかった。誰もが、その声は欲望でできていると思いこんでいた。その欲望を失っても、声が残るかどうかだった。声は残った。
キャリーと、あだ名しかない男
すべてを書き留めるのはキャリーで、ドラマは彼女の声のうえに組み立てられている。毎週、彼女は問いを打ちこみ、各話はその答えを探しに出かける。彼女は物事に名前をつけるのがうまく、愛する男にも名前をつける。彼女が彼に与えたのはあだ名だった。ミスター・ビッグ。人ではなく、大きさと地位を指す呼び名である。ドラマは六シーズンのあいだ、それを彼の唯一の名前にしておく。繰り返される冗談の内側に、まじめなものが入っている。
二〇一三年、米誌ニューヨーカーに、このドラマがなぜ評判を落としたのかを論じる文章を書いた批評家エミリー・ヌスバウムは、彼をはっきりと読んだ。危険信号だけで編み上げられたような男であり、彼女をゆっくりと毒していった男だ、と。キャリー自身も第一シーズンのうちに、この文章にとっていちばん役に立つ言葉を口にしている。ビッグといると自分が自分じゃない、とキャリーはミランダに打ち明ける。しっかり者のキャリー、セクシーなキャリーを演じていて、ときどきポーズをとっている自分に気づく。疲れる、と。
これを、サマンサの最後の一文の隣に置くと、対比はぴたりと合う。スミスといるサマンサは、自分にしか言えないことを言う。ビッグといるキャリーは、自分でも認めるとおり、自分らしい声が出ない。ドラマのほとんどのあいだ、彼女の欲望もまた、借りものの調子で奏でられている。今度は男の型ではなく、彼女自身のコラムが何度も立ち返っていく恋愛の型だ。大恋愛と、なかなか来ない男。
ドラマは彼女にもうひとりの男を与え、なぜ彼女がその男を選べないのかを誠実に描く。エイダンは温かく、辛抱づよく、わかりやすい男で、彼女に煙草をやめさせる。彼と付き合っているあいだに、彼女は、すでにナターシャと結婚していたビッグと関係を持ち、それを打ち明ける。ドラマはその代償をごまかさない。ナターシャは自分の家でふたりのことを知り、逃げるキャリーを追いかけて怪我をする。エイダンは、よりを戻したあとも、彼女をもう心から信じることができない。彼は求婚し、婚約は、彼女がまだビッグに抱いている思いのせいで壊れる。
この図書室の「安心できる人と、惹かれる人が違うとき。」は、まさにこの分裂のために書かれた文章で、それを欠陥と呼ぶことを拒んだ。代わりに、いくつかの読み方を示している。いちばん歓迎されないのは、惹かれる相手は手に入らないからこそ惹かれるのかもしれず、その引力は彼そのものではなく、手を伸ばすことに向いている、という読み方だ。もっとやさしい読み方もある。安心と、求められていることを、同じ人から同時に感じた経験が一度もないまま、ふたつが重なることを期待するのをやめてしまったのかもしれない、という読み方である。キャリーの六シーズンは、どちらにも読める。
そしてパリ。最終シーズン、キャリーはミランダの心配をよそに、ロシア人芸術家アレクサンドル・ペトロフスキーを追ってパリへ渡り、美しい街でひとり、仕事をいつも先にする男に顧みられずに過ごす。関係を終わらせようとするとき、彼女は六シーズンでいちばんはっきりしたことを言う。「私は愛を探している人間なの。本物の愛を。ばかげていて、不都合で、すべてを呑みこむような、互いなしでは生きていけない愛を」。この一文は彼女のものだ。何も借りていないし、ほかの誰かの目盛りで測られることも求めていない。続く口論のなかで、彼ははずみで彼女の顔を打ち、彼女は彼のもとを去る。
そこへビッグが現れる。彼は助言を求めて彼女の友人たちを訪ね、三人にパリへ送り出されていた。夜の橋の上で、彼は彼女が六年待った言葉を口にする。「キャリー、君こそが運命の人だ」。彼女は、家に連れて帰って、と言う。最後の数分、ニューヨークに戻った彼女のナレーションがドラマを締めくくる。いちばん刺激的で、手ごわく、大切な関係は、自分自身との関係だ。そして、自分が愛している自分を愛してくれる人を見つけられたなら、それはもう最高だ、と。そのふたつの言葉のあいだで、彼女の電話が鳴る。発信者の表示はジョン。六シーズンを経て、あの男にようやく名前がつく。
美しい結末であり、この文章も心を動かされないわけではない。けれど、言葉がどこから来ているかを見てほしい。本物の愛についての彼女自身の一文は、パリで、聞いていない男に向かって言われた。彼女の物語を締めくくる一文は彼のものであり、ドラマを閉じる名前も彼のものだ。いちばん大切なのは自分自身との関係だと言うナレーションさえ、彼からの電話でふたつに切られている。六シーズンのあいだ物事に名前をつけつづけた女性は、名づけられる側としてドラマを終える。君こそが運命の人だ、と。
誰も演説を書かなかったふたつの結末
ほかのふたりの結末はもっと静かで、それぞれ別の側から、この議論を裏づけている。
シャーロットもまた、最初の食卓に借りものの物差しを持ってきていた。サマンサのものより古い物差し、おとぎ話である。いつか現れて自分を救い出してくれる夫。ドラマはそれを、ほとんど文字どおりに彼女に与える。タクシーの前で転んだのが縁で、旧家の出の医師トレイ・マクドゥーガルと出会う。そうすべきだと信じて結婚まで待ち、式の前夜に、彼が性的不能だと知る。セラピー、別居、束の間のやり直し。ふたりは子どもを望むが、トレイはもう子どもはいらないと言い、結婚は終わる。台本は一字一句守られた。それでも、持ちこたえなかった。
代わりに彼女が見つけるのは、いちばん予想していなかった相手、離婚を担当した弁護士のハリー・ゴールデンブラットだった。ユダヤ教徒としか結婚できないと言う彼のために、彼女は改宗する。重い決断であり、彼女自身の決断だ。結婚を迫って振られ、シナゴーグの独身者の集いで彼に謝ると、彼は求婚する。けれど、その先は計画どおりには運ばない。長く子どもを授からなかった末に妊娠し、そして流産する。ドラマは、その悲しみを悲しみのままにしておく。最終話では、当てにしていた養子縁組が流れ、そのあとで、中国から女の子を養子に迎えられるという知らせが届く。シャーロットが望んだもの、つまり家族を、彼女は手放さない。それがとるはずだった形のほうを手放す。このドラマで欲望が変わるとは、こういうことだ。女性が矯正されるのではなく、望みが、自分は何のための望みだったのかを見つけていく。
ミランダの物差しは懐疑だった。それは彼女の役に立ってきた。あの食卓で、いちばん馬鹿を見そうにない女性が彼女だった。バーテンダーのスティーヴは、彼女の人生が想定していた相手ではなく、時間とお金の違いから、彼女は彼と別れる。精巣がんの手術を受けて自信をなくした彼と一夜を過ごし、彼女は妊娠する。中絶も考え、産むことを選ぶ。決めたのは彼女であり、ドラマもそれを彼女の決断として扱う。息子の名前はブレイディ・ホッブス。父親の姓をファーストネームに、母親の姓をラストネームにした名前だ。最終シーズン、求婚するのはミランダのほうである。その家族の取り決めは、子どもの名前に書きこまれている。
そして、このドラマにしては珍しい場面が来る。ふたりは、ミランダにとっては気の進まないままブルックリンへ移り、記憶を失いつつあるスティーヴの母メアリーを引き取っている。メアリーのいちばんつらい日、ミランダは彼女の体を洗う。演説はない。のちに家政婦のマグダが、あれが何だったのかを言う。「あなたがしたこと、あれが愛よ」
誰が話しているかに目をとめたい。六シーズンのなかでミランダがいちばん真実だった瞬間は、彼女の台詞ではない。それは行為であり、ほかの誰かによって名づけられる。これはこの文章の議論への反証ではなく、その議論のいちばん広い形である。ドラマが最後に信じる物差しは、男のものでも、恋愛物語のものでもない。誰も場面を書いてくれなかったとき、ひとりの女性が自分のやり方でしたこと。それが物差しになる。
作り手が認めなかった結末と、それを開きなおした続編
キャリーの結末へのいちばん鋭い異議のいくつかは、このドラマを作った人たち自身から出ている。ダレン・スターは二〇一六年、アマゾンの電子書籍向けのインタビューで、最後のエピソード群は自分が書いたものではないと断ったうえで、あの番組は最後に、自分が何についての番組だったかを裏切ったと思う、と語っている。女性は結局のところ結婚で幸せになるわけではない、ということだ。幸せになれないわけではないが、と彼は付け加えた。この番組は、それまでのロマンティック・コメディの筋書きから外れて始まったのだ、と。原作のコラムを書いたキャンディス・ブシュネルは二〇一七年、ガーディアンに、現実ならキャリーとビッグは結ばれなかったと思う、と語った。テレビ番組を作るというのは、ショーアートではなくショービジネスなのだ、と。ヌスバウムは二〇一三年の文章で、このドラマは後半のシーズンで、ロマンティック・コメディという型の限界に屈してしまった、と論じている。
そのあとシリーズは、ハッピーエンドに対してテレビがめったにしないことをした。結末を何度も開きなおしたのだ。二〇〇八年の一本目の映画では、ビッグが結婚式の当日に式を取りやめ、ふたりはのちに市役所でひっそりと結婚する。同じ映画のなかで、ロサンゼルスで暮らし、スミスの仕事を取りしきっているサマンサは、だんだん不幸になっていき、彼に誠実なまま、彼のもとを去る。あなたを愛しているけれど、それ以上に自分を愛している、いま向きあうべきなのは自分自身との関係なのだ、と告げて。続編シリーズは第一話でビッグを死なせた。サマンサはほとんど登場しない。キャリーと仲たがいしてロンドンへ移ったことになっていて、いくつかのメッセージと、二〇二三年のごく短い電話で姿を見せるだけだ。
キム・キャトラルは、先へ進まないことを選んでいた。二〇一九年、彼女はガーディアンに、このドラマを愛していたからこそ、ゴールを越えてもサマンサを演じつづけたこと、それは多くの意味で恵みだったが、二本目の映画のあとではもう十分だったことを語っている。この文章は、彼女の言葉以上のことを、彼女の理由から読みとらない。ただ、自分の条件で望んだ女性の物語が、本人は舞台の外にいて、別の街からのいくつかのメッセージのなかにだけいる、という形で終わったことを記しておく。それは、サマンサ・ジョーンズのために書かれうる結末として、最悪のものではないのかもしれない。
ふたりのコラムニスト、ふたつの都市
日本で第一シーズンの放送が始まったのは二〇〇〇年十二月で、その時期には意味がある。その年の国勢調査で、三十歳から三十四歳の女性のうち一度も結婚したことのない人は二六・六パーセント。一九八〇年の九・一パーセントの三倍近くになっていた。二〇二〇年には三八・五パーセントである。三十五歳から三十九歳では、二〇〇〇年の一三・九パーセントから、二〇二〇年の二六・二パーセントへ。いずれも国勢調査にもとづく数字で、配偶関係のわかっている人のなかで未婚の人が占める割合であり、二〇二〇年の値は、回答のなかった人の分を推計で補っている。人口についての数字であって、誰かひとりの理由を語るものではない。それでも、画面のなかの女性たちが、日本でも、大人の暮らしのなかのありふれた、大きな存在になりつつあったことは伝えている。
二〇〇三年、コラムニストの酒井順子が一冊のエッセイ集を出し、その題名がこの人たちに名前を与えた。版元自身の紹介の言葉を借りれば、どんなに美人で仕事ができても、三十代以上で未婚、子どものいない女性は「女の負け犬」なのだ、という本である。『負け犬の遠吠え』は講談社エッセイ賞と婦人公論文芸賞を受け、二〇〇四年、「負け犬」は新語・流行語大賞のトップテンに入った。賞の解説は、酒井が好んで「負け」の位置をとったことを、ひとつの戦略として読んでいる。
架空のマンハッタンのコラムニストと、実在の東京のコラムニストを並べてみると、見えてくるのはふたつの国の対比ではなく、名前の引き受け方のふたつの形である。キャリーは名づけることを自分の手に取り、それを外へ向けた。男たちに、デートに、さまざまな現象に。酒井は、誰かに投げつけられる前にその侮蔑を自分で拾い、自嘲として身にまとった。それもまた、書き手であることのひとつの形だ。ただし危うい形でもある。鎧として着た名前は、それでもなお、他人がつけた名前だからだ。のちの『東京タラレバ娘』(二〇一七年)は、三十歳で独身の友人三人が、夜ごと集まって飲んでいるところから始まる。そこへ若いモデルが言い放つ。あんたたちはタラレバ女だ、ああだったら、こうすれば、と言ってばかりいる女だ、と。女性の欲望を誰が名づけるのか。それはニューヨークだけの問いではない。
二〇一〇年には、同じ賞のトップテンに「女子会」が入った。女性だけで集まり、ほかでは言わないことを言いあう食卓のことだ。受賞したのは、女性だけのプランを打ち出した居酒屋チェーンを運営する会社の社長だった。食卓には名前がつき、すでに商品にもなっていた。売ることのできなかったものが、この文章がたどってきたものである。食卓を囲んだ四人の女性が、自分の言葉で、自分の望むことを言いあうこと。
日本で、母語ではない言葉で暮らしている女性にとって、あの食卓は、ドラマが見せるほど簡単には見つからないかもしれない。四人のあけすけさは、同じ母語と、同じ街と、何年もの夜の積み重ねに支えられている。そんなふうに話せる友人は海の向こうで眠っているかもしれないし、自分の望むことを言い表す日本語は、誰も教えてくれないから、いちばん最後に覚える言葉のひとつになるかもしれない。これは、日本で暮らす女性たちの生き方についての主張ではない。このドラマ自身の条件を裏返しただけのことだ。四人が自分の言葉で望みを口にできたのは、その言葉がきちんと通じる場所があったからである。
この読みへの反論
ここから反論を、できるかぎり強い形で並べる。五つあり、第一のものは根元に届く。
第一に、このドラマは自分の誓いを、はじめから信じていなかったのかもしれない。二〇一八年にこのドラマについて書いた批評家アンドレア・ロング・チューは、第一話のある台詞を指さしている。正しい男が現れたら、こんなことは全部窓の外へ吹き飛ぶ、とキャリーがふたりの友人に言う台詞だ。感情抜きのセックスをめぐる威勢のいい言葉にもかかわらず、このドラマはどの回でもその台詞に従っている、とチューは論じた。セックスは愛の代わりにはならない、愛の席を温めておくだけだ、と。その読みに立てば、サマンサの最後の一文は誓いへの答えではなく、予定どおりに誓いが崩れた瞬間にすぎない。正しい男によって改心させられた放蕩者。性に奔放な女性の物語がとりうる、いちばん古い形である。映画やドラマを動画で論じるサイト、ザ・テイクも、とくにサマンサの結末について、自由に性を楽しむ女性も結局は落ち着く相手を待っていただけだという「神話」を補強するものとして読める、と書いている。この文章は、それを退けることができない。言えるのは、もっと狭いことだけだ。この文章が寄りかかった一文は、彼女の過去を捨てるのではなく、使っている。そしてシリーズ自身が、一本目の映画で、彼女を彼女自身のもとへ送り返した。これは読みの範囲を狭めただけで、反駁にはなっていない。ドラマは四人全員を、なんらかの形の伴侶とともに終わらせた。そこに想像力の限界を見る読者は、現にそこにあるものを見ている。
第二に、病気のこと。物語には、いちばん性に奔放な女性に、いちばん重い苦しみを与える古い癖がある。がんをめぐる長い物語を、このドラマが四人のなかでいちばん多くの恋人をもった女性に与えたことに、読者が気づくのは当然だ。この文章はその物語を、彼女への判決ではなく、まわりの人々への試しとして読んだ。記録に残る筋も、その読みに合っている。男は去らず、客席の女性たちは彼女と一緒にかつらを外す。それでも、誰を病気にするかを選んだのは脚本家であり、この文章はその選択を取り消せない。
第三に、食卓そのもの。この文章が称えてきた自由、自分の条件を決めてそれを口にする自由は、このドラマのなかでは、マンハッタンに住む四人の裕福な白人女性にしか与えられていない。番組を愛し、その衣装を紹介するインスタグラムのアカウントを共同で立ち上げたファッション・エディターのチェルシー・フェアレスは、二〇一八年のガーディアンで、あれほど白人ばかりの番組はない、有色人種がレギュラーになったことは一度もなかった、と語り、性的少数者をめぐる扱いにも当時から異議があったと話している。同じ記事は、あからさまな物質主義と、フリーランスの物書きの暮らしについてのまったくの絵空事にもふれている。両性愛者やトランスの女性をめぐるいくつかの冗談は、古びてしまった。二本目の映画は四人をアブダビへ連れていき、中東という舞台が批判の中心になった。反イスラム的だと受けとめた人も多い。
仕事をふたつ掛け持ちしている埼玉の女性が、サマンサの条件を、自分には一度も差し出されたことのない贅沢として眺めても無理はない。それはドラマについては正しい。原則については、それほど正しくない。自分の理由を持つことに、お金はかからないからだ。けれどこのドラマは、お金も自分の会社ももたない女性が、その理由を口にするとき何を支払うのかを、一度も見せなかった。そして最終話で愛を名づけるのは、他人の家で働いている女性である。
第四に、この文章はキャリーに厳しすぎるのかもしれない。六シーズンのあいだビッグを疑ってきた友人たちが、彼をパリへ送り出した当人だった。そして当時ワシントン・ポストで評を書いたジェニファー・フレイは、あの結末を、キャリーが自分を取り戻す物語として見た。自分の街に、自分の部屋に、書く仕事に戻り、ビッグはおまけにすぎない、と。自分が何を選んでいるかを知ったうえで、ずっと望んできた男を選ぶ女性は、何も借りていない。その読みに立てば、本物の愛についての一文こそが結末で、ビッグはその答えであって、取り替えではない。この文章は言葉のほうがもっと重いと考えているが、それを証明することはできない。彼女のために喜んだ読者は、間違っていない。
最後に、この図書室自身に向けられる反論。この家は私的な同伴を売っている。女性の欲望は彼女自身の言葉で測られる、と結ぶ文章は、そういう家にとって都合のいい結論に行き着いている。読者がその分を割り引いて読むのは当然の権利だ。ひとつ付け加えておけば、このドラマは家の味方をしない。この文章がいちばん寄りかかった場面、頭を剃る若い男、義母の体を洗う女性、かつらを外していく女性たちの客席は、どれも誰かがお金で買ったものではない。
この図書室が受け取るもの
『セックス・アンド・ザ・シティ』はあけすけさで記憶されていて、そのあけすけさは本物だった。けれど、このドラマでいちばんあけすけなのは、性についての会話ではない。ゆっくりと、いつも意図してではなく、たどり着いたひとつの発見である。女性の欲望を測るのに、借りてきた物差しはどれも合わない、という発見だ。第一話が自由として差し出した男の型も、シャーロットが持ってきたおとぎ話も、ミランダがまとっていた懐疑も、キャリーが書きつづけた大恋愛も、合わなかった。物差しは、その女性自身の理由であり、彼女自身の言葉で言われるものだ。そしてそれは、病気で、喪失で、予想もしなかった相手との出会いで変わりうる。変わっても、彼女から取りあげられはしない。
だから、サマンサはお手本だったのか、それとも戒めだったのかという昔からの議論は、問い方を間違えている。第一話と同じ間違いだ。女性は男みたいにセックスできるのかと問うことと、いつになったら落ち着くのかと問うことは、同じひとつの動きを二度しているにすぎない。彼女の欲望を、誰かほかの人の形に当てて測ること。サマンサの六シーズンは、そのどちらも拒む。彼女は自分の条件でセックスをし、自分の条件で愛した。体が欲望を持ち去ったときも、条件は手放さなかった。
一日の終わりにこれを読んでいるあなたに、ひとつだけ。もしいつか、自分の欲しがり方は男みたいだ、女らしくない、多すぎる、少なすぎる、と言われたことがあるなら、あるいは自分でそう思ったことがあるなら、その比べ方に、あなたが答える必要ははじめからなかった。病気や疲れや悲しみが、しばらく欲望を静かにさせているのだとしても、その静けさは、それまでのあなたへの判決ではない。望むことは変わりうるし、変わってもあなたのものだ。それを、誰の真似でもない、あなたにしか言えない言葉で言っていい。
このドラマは、この文章なら終わらせたであろう場所では終わらなかった。ヒロインには、あだ名の男と、そのあとで彼の名前を与えた。けれど、いちばん真実な一文、ほかの誰にも言えなかった一文を、感情抜きのセックスを持ちかけたあの女性に与え、愛についての最後の言葉を、ミランダが義母のいちばんつらい日にしたことについて語る家政婦に与えた。そのふたつのあいだで、このドラマは、自分の結末が認めた以上のことを知っていた。
この文章が主張していないこと
この文章は文化についての分析であり、臨床的な助言でも治療的な助言でもない。登場人物も実在の人物も、誰ひとり診断していない。がん、子どもを授かりにくいこと、流産、性的不能、失われていく記憶は、ドラマが見せているとおりにのみ書き、その原因や治療や経過について、誰の人生についても何も主張していない。
この文章は、ドラマそのものを視聴して書かれたものではない。各話について述べたことは、公刊された記録と、記録として残る評や批評にもとづいている。台詞は、そうした資料が書き留めているものに限って訳して引き、それ以外は言い換えた。批評家や作り手の言葉も、公刊された文章に実際にあるものだけを伝えている。
国勢調査の数字は人口について語るものであり、誰かひとりの女性の理由を語るものではない。ニューヨークと東京の比較は、ふたりのコラムニストとふたつのドラマのあいだのものであって、ふたつの国や、そこに暮らす女性たちのあいだのものではない。
ここにあるどれひとつとして、演じた人々について、公にされた本人の言葉を越えて何かを述べるものではない。ドラマを作った人や出演した人、名前を挙げた批評家の誰かが、この図書室を知っている、あるいは推薦している、ということを意味するものでもない。
持ち帰る問い
自分の欲望を測る物差しを、あなたは最初に誰から教わっただろう。いまもそれを使っているだろうか。
自分の望むことについて、あなたにしか言えない一文はあるだろうか。それを誰かに言ったことはあるだろうか。
欲望がひと季節、あるいは何年も静かだったとき、誰がそばに残り、何と言っただろう。
友人たちがあなたの物語の最後の場面を書くとしたら、それはあなたが自分で書く場面と同じだろうか。
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読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。