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Moonlight Journal

これらの問いの多くは、存在しない試験を前提にしている。

  • 身体感覚
  • 官能

これらは誰にも尋ねられません。友人にも、医師にも、一緒に暮らしている人にも。試着室で、あるいは暗がりに横になって黙って尋ねられ、そして綴じられます。そしてその綴じ込みこそが問題です。一度も言われない問いは、訂正されようがないからです。そのほとんどすべてに同じ欠陥があります。試験を前提しているのです。まるで彼女の身体が照らされて測られ、落ちている基準があるかのように言い表されています。そしてほとんどの場合、その基準は存在せず、誰かによって定められたこともありません。

これらは誰にも尋ねられません。友人にも、医師にも、一緒に暮らしている人にも。試着室や浴室で、あるいは暗がりに横になって、黙って尋ねられ、そして綴じられます。そしてその綴じ込みこそが問題です。一度も言われない問いは、訂正されようがないからです。

そのほとんどすべてに同じ欠陥があります。そして冒頭で名指しておく価値があります。彼女がそれぞれのなかでそれを見張れるように。それらは試験を前提しています。まるで彼女の身体が照らされて測られ、そして落ちている基準があるかのように言い表されています。そしてほとんどの場合、その基準は存在せず、そして誰かによって定められたこともありません。

この書庫は以前、身体が報告するいくつもの通り道とそれが戻る順序について、誰も報告に応じなかったので報告をやめた身体について、一つの語のもとへ綴じられた四つの別々のことについて、そして身体そのものではなく見知らぬ人が押しつける読みについて書きました。それらはここで帰属され、繰り返されません。

私の身体はふつうなのか

これはほかの多くの下にあるものであり、そして彼女が意図している意味では答えられません。

ふつう、は道徳の仕事をしている統計の語です。正直な意味では、それは測定の多くがどこに落ちるかを述べます。それは分布についての情報であって、何かがおかしいかどうかについての情報ではありません。夜の十一時に彼女が使っている意味では、それは、受け入れられる、を意味します。そしてその欄を持っていた分布は、一度も存在しません。

言えるのはもっと狭いことです。彼女が自分について発見しうる身体の事実で、彼女を受け入れられないものにするようなものはありません。受け入れられることは、身体が落ちうる種類のものではないからです。そして本当に不快なこと、痛むこと、あるいは新しく説明のつかないことがある場合、それは医療者の領分であり、夜の十一時に彼女自身が下す私的な判決ではなく、まっすぐな答えに値します。

そうなるはずのときに、なぜ何も感じないのか

この問いの中心にある言い回しが、難しさのすべてです。そして彼女はそれを検めたことがありません。

そうなるはず。誰によって、何に照らして定められたのか。彼女が落ちているその期待は、始まりを描く素材から来ています。始まりが写真に撮れる部分だからです。そして彼女は、描写を仕様書として扱ってきました。

そしてその下には仕組みがあります。それは知っておく価値があります。まったく機械的で、彼女についてのことではないからです。指示のもとで感覚に向けられる注意は、ひとりでに訪れる注意とは別の種類の注意です。感じなさいと言われた人は、それを探して監視しはじめます。そして監視は評価の一形態であり、評価されている身体は、ほとんどすべてのものをより少なく生みます。感じなさいという指示は、感じることを妨げるもっとも確実な方法のひとつです。つまり彼女は、失敗することが保証された唯一の手を試み、そしてその結果から自分について何かを結論してきたのです。

同意していないのに、なぜ身体は反応するのか

これはこの一覧のほとんど何よりも多くの恥とともに抱えられ、そして途方もない数の人に黙って誤解されています。

身体がすることと、その人が望むこととのあいだには、臨床の場で広く使われている区別があります。そしてその二つは別々の報告の仕組みであり、しばしば食い違います。ここでは著者も道具も研究も名指さずに参照し、そして一つのことを平たく述べるためだけに使います。

身体の反応は、同意ではありません。好みでもなく、承諾でもなく、彼女が何を望んだかについての証拠でもありません。身体は、彼女が望まなかったものに反応しうるのであり、そしてその反応は彼女について何ひとつ語りません。そしてこれは稀でも恥ずべきことでもなく、ありふれていて、よく記述されていることです。

その一文がこの文章にあるのは、これを知らない女性が、身体の出来事を自分の人柄についての何かの証明として何年も抱えうるからです。そしてそれは何の証明でもありません。もしその段落が誰かにとって大きな仕事をしているなら、正しい次の一歩はもう一本の文章ではなく、訓練を受けた人との会話です。そしてここでそう言うことは、形式ではありません。

私にはもう遅いのか

これはたいてい、人生一般についてではなく身体について尋ねられます。そしてこれには正確な答えがあります。

静かになったものは、静かになったのです。それは、なくなったこととは違います。何年も使われていない通り道は、最初はかすかに報告します。そしてかすかは、しばらくのあいだ、ないことと見分けがつきません。そしてそれこそ、人がそれをないものと結論してやめる、まさにその期間です。

この書庫は、身体が報告するいくつもの通り道と、それらが戻ってくる傾向のある順序について書きました。ここで再演はしません。ここに属するのは訂正だけです。この問いに答えるために彼女が使っている証拠は、試みの最初の十五分のうちに集められたものです。そして最初の十五分は、この事柄全体のなかでもっとも情報の乏しい部分です。

なぜ私はこんなに時間がかかるのか

何と比べて長いのか。それがこの問いのすべてであり、そして彼女はその形で尋ねたことが一度もありません。

彼女が使っている時計は、描かれたものを見ることで合わせられました。そして描写は、持続する時間を見せられません。実際に時間のかかるものは切られます。長い時間を、それを占めずに伝える方法が、切ることだからです。そして編集が経過した時間に何をするかについては、この書庫が別のところで書きました。つまり彼女がこれまで見てきたどの描写も、彼女が自分を比べているまさにその部分を取り除いていて、そして何ものも誰も実際には動いたことのない速さの印象だけを残したのです。

正直に言えるのは、時間がかかることは速さについてのことだ、ということです。それは不足ではなく、判決でもなく、彼女が何かをどれだけ望んでいるかについての事実でもありません。より時間のかかるものが、そのことによって劣ったものになるわけではありません。そして速さをすべての尺度とする経済は、彼女が自分の帳簿をつけなければならない経済ではありません。

ここで実際に忍耐が問題になる人は一人だけで、その人は部屋のなかにいて、話しかけることができます。速さについて意見を持っているほかの全員は描写であり、そして描写は、何かを待たなければならなかったことが一度もありません。

なぜ私は、どこかへ行って洗濯物のことを考えはじめるのか

彼女はこれを、そこにいたくないことの証明、あるいは彼のどこかがおかしいことの、あるいは自分のどこかがおかしいことの証明として読んできました。そしてたいていは、そのどれでもありません。

十一年のあいだ、空いた瞬間をすべて段取りに使ってきた頭は、その瞬間もそう使います。その習慣に、例外の条項はありません。それはその瞬間を重要でないものとして選んでいるのではありません。占められていないあらゆる瞬間にしていること、つまり一覧を走らせること、をしているだけです。そしてその一覧が、頼まれて簡単に置けるものではない理由について、この書庫は長く書きました。

そしてそれは、人柄の欠陥ではなく、実務的な何かを指し示します。どこかへ行ってしまうことは、しばしば、一覧が実際には手渡されていなかった徴です。止められただけ、察してもらっただけ、あるいは彼女がまだ抱えたままになる形で渡されただけ、ということです。誰かが確かにそれを持っていると分かっている頭は、それを走らせる理由がずっと少なくなります。

そして正直な注意書きを一つ。この問いには、もっと重い版があるからです。その離脱が漂うようにではなく突然であるとき、それが全面的であるとき、それが怖いとき、あるいはそれが彼女の来歴の何かにつながっているとき、それはさまよう頭とは別の現象であり、そしてこの文章の領分ではありません。それは訓練を受けた人の領分であり、このページはその代わりではなく、そして平たくそう言うことのほうが、それを覆い隠す安心の言葉より役に立ちます。

そんなに条件が要る私は、壊れているのか

彼女は、条件を要する身体は欠陥のある身体だ、と決めてしまいました。そしてその信じ方は、どの条件よりも多くの損害を出しています。

身体の持つあらゆる能力は条件つきです。眠りは暗く静かな部屋を要し、そして自分の眠りを偽物だと呼ぶ人はいません。食欲は病院の廊下で消え、そして自分の空腹は偽物だったと結論する人もいません。条件つきであることは、特定の人の欠点ではなく能力の性質であり、そして誰かが必要とする条件の数は、点数ではありません。

本当なのは、彼女の条件が数多く、見栄えがせず、そしてたいてい引き算である、ということです。鍵のかかる扉。あとでしなければならないことが何もないこと。六時から十一回中断されていないこと。それを必要とすることは、もろさではありません。それは仕様であり、そして仕様とは、診断ではなく、知っておくと役に立つものです。

なぜ私は、触れられることより見られることのほうが嫌なのか

この非対称はよくあり、ほとんど決して名指されず、そしてそこから恥を取り除く率直な説明があります。

見られることは、評価されうることです。視線は比べ、順位をつけ、結論を出せます。そして彼女は三十年、その三つを絶えずする文化に見られてきました。触れることは、そのようには評価されません。手は彼女のお腹について意見を持っていません。ただ、そこにあるだけです。

だから難しさは、晒されることにあるのでも、親密さにあるのでもありません。評価の通り道に、具体的にあるのです。つまり役に立つ調整は、評価の通り道についてのものになります。明かり。角度。自分が見えるかどうか。誰かが自分の顔を見ているかどうか。それは小さな実務上の変数であり、そして妥協ではありません。評価を取り除くことは、隠れることではありません。

なぜ一人のときのほうが、自分の身体と楽でいられるのか

ほとんど誰もが、これは関係に何かおかしいところがあるという意味だと思います。そしてたいていそれは、もっと地味な何かを意味しています。

一人のとき、身体には仕事が一つあります。人といるとき、二つあります。在ること、そして在るところを見られていること。二つ目は仕事であり、途切れず、そして思春期から評価を予期するよう訓練されてきた人によって行われます。一人でいるときの楽さは、孤独への好みではありません。二つ目の仕事がない、ということです。

そしてそれは直しかたを指し示します。役に立つのは自信を増やすことではなく、評価の機会を減らすことです。それは整えられます。そしてふつうの手段で整えられます。そしてそれは、彼女がまず別の種類の人間になることを求めません。

自分が何を望んでいるか分からないのは、何かを意味するのか

これは本物の苦しさとともに尋ねられ、そしてこの一覧のなかでもっとも優しい答えを持っています。

自分が何を望むかを知ることは、内側から取り出される事実ではありません。それは条件のなかで行使される技能であり、そしてその出力に対して何もなされなければ衰えます。何年も報告し、そのたびに却下された身体は、やがて報告をやめます。空へ向かって報告することは、代謝の上で無意味だからです。この書庫はまさにそれについて書きました。そしてここで関わるのは、その沈黙が人柄ではなく帰結である、ということです。

だから答えは、それは何かを意味しているが、彼女が思っている意味ではない、ということです。それは、彼女が何か永続的な仕方で自分から切れている、ということではありません。信号が送られ、そして何も続かなかった。三十回か四十回。そしてその結果、分別のあることが学ばれた、ということです。学ばれたことは、ゆっくりと学び直せます。小さな信号が現れたときにそれに応じることによって。それが知られている唯一の方法であり、そして聞こえるよりずっと地味なものです。

このどれかを、どうするか

実務上の内容は意図的に小さくしてあります。九つの問いの一覧が計画表で終われば、それは、失敗する対象がもう一つ増えただけの一覧になるからです。

そのうちの一つを取り、それが試験を前提していないか確かめること。ほとんどすべてが前提しています。それを書き出し、それが含意している基準を探し、そしてその基準を誰が定めたのか、それはどこで読めるのかを尋ねること。たいていの場合、答えは、それは素材から吸収されたものであり、誰も意図して定めておらず、そしてどの権威もその言葉でそれを擁護しないだろう、というものです。

そしてある問いが、基準についてではなく身体についてのものだと分かったとき——何かが痛む、何かが変わった、何かが新しい——正しい手はもう一本の文章ではありません。まっすぐな答えをくれる医療者です。そして読者にはそれを得る資格があり、得られるまで尋ねつづけるべきです。

この文章が主張していないこと

限界を、平たく述べます。

これは治療ではなく、医療でもなく、研究を引かず、著者も道具も名指さず、数値を示さず、誰も診断しません。参照された臨床の区別は一つだけで、一文のために使われ、その上に何も築かれていません。

ここにあるどれも、何かが戻る、変わる、良くなると約束していません。いくつかの答えは、その問いの立て方が悪い、と述べているだけです。それは治療より小さな役務であり、そして外部の者が正直に差し出せるものの全部であることが、ときにあります。

そしてこうした問いを抱えていることは、何の症状でもありません。ほとんど誰もがいくつか抱えています。それが自分だけのことのように感じられる理由は、それをめぐる沈黙です。そしてその沈黙こそ、この文章が減らそうとしているものです。

これが起きている地面、そしてこの家が申告しなければならないこと

終わりには二つのことが属します。

土地の難しさは、身体についての平たい会話がここでは薄く、そして使える語域が臨床的か商業的かのどちらかである、ということです。それについてはこの書庫が別のところで書きました。医療でも取引でもない問いを持つ女性には、それを置くふつうの場所がありません。だからそれは試着室にとどまります。これは測定ではなく観察です。数値は示さず、何も数えず、そしてどれも一つの国に固有ではありません。

そしてこの家は、身体が心を向けられる時間を売っています。それは、自分の身体は心を向けられる値打ちがあると女性が信じることについて、明らかな利害をこの家に与えます。それは何よりも先に言うべきです。実践の節に、この家は何も関わっていません。ある問いが試験を前提していると気づくことには費用がかからず、今夜できます。一つの問いを立て直し、そしてここを一度も予約しない読者は、正しい結末として記録されます。付け加える価値のある唯一の狭いことは、これらの問いのいくつかが評価されることについてのものであり、そして評価のない取り決めは、何も測られていないときに自分の身体が何をするのかを人が知れる一つの場所である、ということです。それは条件についての小さな構造上の主張であって、治療ではありません。そしてそれにしてはなりません。

ほかの章から読む

『シンプルな情熱』と、恥の置き場所がない文体四十代後半の女性が、妻のある男からの電話を待つことだけに生活のすべてが編成された一年半を記録する。短く、平坦で、いかなる慰めも拒む本である。その達成は、彼女を弁護したことではない。恥を置く場所がない文体で書かれたことにある。それは議論よりも難しく、そして日本語で読み書きする者にとって、もっとも手元にない道具である。『わたしは最悪。』と、「まだ分からない」という罪一人の女性が何度も進路を変え、周囲からも、そして自分自身からも、決められないことが道徳の欠陥であるかのように扱われる。何を望むか分からないことと、差し出されているものがそれではないと分かっていることの違い。成熟に見える慣性。人生の形についての議論としての十二の章。そして街がひとつ止まる数分について。秘すれば花。日本は正しい性についての教義をついに生まなかった。行為を道徳の問題にしない文化には、その行い方を定める理由がないからだ。代わりに生まれたのは美学であり、そしてその美学は、見せることではなく察することを軸に組み立てられている。それが、訪れる人を戸惑わせるほとんどすべてを説明する。前戯という語も、あの映像のなかの声も含めて。

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読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

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