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『快楽の原則 -私たちの歓びを求めて-』と、沈黙が代わりに教えたこと
女性の快楽をめぐる全三話のドキュメンタリーが本当に問うているのは、誰が自分の体を知ることを許されてきたのか、ということだ。知識はずっと前からあったのに手渡されず、その沈黙は、情報より先に恥を、快楽は誰か別の人のものだという筋書きを、そして体の反応が本人の代わりに答えるという思い込みを、教えてきた。
平日の夜、十一時を回ったころ。四十代の女性が、画面に映るアニメーションの図を見ている。自分の体の一部がほんとうはどんな形をしているのかを、彼女はいま、生まれて初めて知る。官能的な場面ではないし、番組もそう見せようとはしていない。胸に浮かぶのは、むしろ、かすかにとげのある問いかもしれない。どうして、誰もこれを見せてくれなかったのだろう。
番組の名は『快楽の原則 -私たちの歓びを求めて-』。二〇二二年にネットフリックスで配信された、全三話のドキュメンタリーシリーズだ。第一話の冒頭近くで、ナレーションは、シリーズ全体を支えている問いを投げかける。自分の体のことを、そして自分が何を望んでいるのかを、恐れずに学べていたとしたら、その後の人生はどう違っていただろう。やさしい問いである。明るいアニメーションに、温かい声が重なる。けれど、それを包んでいるシリーズは、見かけほどやさしくはない。
表面だけを見れば、女性の快楽を扱った親しみやすい科学番組だ。研究者がいて、性教育者がいて、ソファに並んだ女性たちが、性について最初にどう教わったかを思い出して語る。その下でシリーズは、穏やかに聞こえて、じつは鋭い主張をしている。女性の快楽は、科学からも、医学からも、学校教育からも抜け落ちてきた。そして、抜け落ちたことには理由があった。主題は技術ではない。誰が、自分の体を知ることを許されてきたのか、である。
この文章がそこに付け加えたいことは、ひとつだけだ。それも、シリーズ自身が差し出している証拠から出てくる。沈黙は、空白ではない。ある事柄が、女の子がそれを学べたはずのあらゆる場所から抜け落ちていても、彼女は何も知らないまま大人になるわけではない。先に届いたものを知って、大人になる。シリーズがたどる歴史のなかで先に届いたものは、三つの教えの形をしていた。情報よりずっと先に届く恥。快楽は誰か別の人のものだという筋書き。そして、体の反応が、その体の持ち主である女性の代わりに答えてしまうという思い込み。三つとも、どの教科書にも書かれていなかった。三つとも、ちゃんと教えられていた。
どんなシリーズか、そして読み進める前に
監督はニハリカ・デサイ、ナレーションは俳優でコメディアンのミシェル・ブトー。二〇二二年三月二十二日に、一話五十分前後の全三話で配信が始まった。各話の題は、日本語版でも「私たちの体」「私たちの心」「私たちの関係」と、飾り気がない。科学の話はアニメーションと図解が受け持ち、それ以外のすべてはインタビューが受け持つ。専門家として登場するのは、心理学者のロリ・ブロット、性の精神生理学者ニコール・プラウス、性教育者のエミリー・ナゴスキーらだ。ナゴスキーのいちばんよく知られた著書は、二〇二四年に『私たちのセクシュアル・ウェルネス』という題で日本語でも読めるようになり、産婦人科医が日本語版を監修している。最終話では、スウェーデン出身の監督エリカ・ラストが、女性の欲望を念頭に置いてエロティックな映画をつくることについて語る。専門家たちのあいだには、人種も、性的指向も、体型もさまざまな女性やノンバイナリーの人々が座って、性と恥について最初に教わったときのことを思い出していく。
日本では日本語字幕つきで配信されている。題には「快楽」と「歓び」という、ふたつの違う言葉が並ぶ。この題のことは、あとでもう一度考えたい。
ドキュメンタリーに、明かして困るどんでん返しはない。それでもこの文章は、最終話がどこにたどり着くのかまで含めて、三話すべてに触れる。ここに書くことは、シリーズの公開された記録と批評から取ったもので、画面の台詞はそのまま引かずに、内容を記すにとどめる。この文章が研究にもとづく主張をくり返すところは、その出典にあたって確かめた。確かめられなかったところや、出典がシリーズと違うことを言っているところは、そう書く。
知識はあったのに、教科書は運ばなかった
第一話は歴史の授業で、その歴史は、抜け落ちたものの一覧として組み立てられている。冒頭近くでエミリー・ナゴスキーは、誰もが加わりたがっている快楽という仕組みの基本を、科学はいまだに理解していない、と率直に言う。ロリ・ブロットは、女性の性が長いあいだ、女性の病気の原因にされてきたことを語る。「ヒステリー」という言葉は、いまもその理屈を内側に抱えている。医学の用語としてつくられたこの言葉の語源は、子宮を意味するギリシャ語で、もともとは女性に特有の、子宮の不調から起こると考えられた病を指していた。この考えがどれほど長く生き延び、何のために使われてきたかは、この図書室が「身体が実際にしていること、していないこと。」でたどった。シリーズは、同じ歴史を早足で駆け抜ける。
次はフロイトだ。一九〇五年に初めて出版され、その後二十年ほどにわたって手を加えられた性理論についての三つの論文のなかで、大人の女性の興奮は、クリトリス(陰核)から膣へと引き渡されるべきものとされた。フロイトはクリトリスを、硬い薪に火をつけるための松の木っ端にたとえ、クリトリスが興奮しやすさを手放さない女性は、感じないままでいることがある、とも書いた。シリーズはこれを、クリトリスによる絶頂を退けたものとして示す。実際、そうだ。この器官は、焚きつけとしてのみ、つまり別の何かへ向かう途中の道具としてのみ、意味を持つことを許されている。
ここで、シリーズの題名そのものに、皮肉がひとつ宿る。日本語の題の「快楽の原則」は、フロイトの用語「快楽原則」(「快感原則」とも訳される)と、ほとんど同じ字面をしている。英語の原題も、同じ用語の響きを帯びている。そしてフロイトの語彙のなかで、快楽原則とは幼い心を支配するもので、成長とともに手なずけられていくはずのものだった。この重なりが意図されたものかどうかは、わからない。いずれにせよ題名は、彼の言葉を裏返している。女性が卒業すべきものから、女性が受け取ってしかるべきものへと。
続いてシリーズは、英語圏で標準とされてきた解剖学の教科書、一九四八年版の『グレイ解剖学』から、クリトリスが消えたと語る。これは、二十世紀半ばの解剖学の教科書がクリトリスを描くことも名前を記すこともわざとやめた、というもっと大きな物語の一部で、その物語を語る研究としてくり返し引かれてきたのが、教科書の図版を調べた一九九五年の研究だ。その研究には、のちに異議が出た。ある解剖学者が二〇二二年に臨床解剖学の専門誌で、その方法は再現できず、結論は正当化できないと論じたのである。この争いは、誰もが納得する形では決着しないかもしれない。けれどシリーズの主張は、それを必要としていない。もっと確かな証拠が、別の場所にあるからだ。
二〇〇五年、オーストラリアの泌尿器科医ヘレン・オコネルが率いるチームは、解剖や、顕微鏡を使った解剖、そして生きている体を撮る磁気共鳴画像などを用いた研究を見渡して、クリトリスの解剖を包括的にまとめた論文を発表した。シリーズはこれを、この器官の全体像がようやく描かれた瞬間として紹介する。現代医学にとっては、たしかにそうだった。けれど論文の結論には、話をやわらげるどころか、いっそう鋭くする二つの文がある。ひとつは、典型的な教科書の記述は細部を欠き、誤りを含んでいる、というものだ。教科書がふつう載せてきた一つの断面だけの図では、平らではない構造が平らに見えてしまう、とも書いている。もうひとつは、一八四四年に発表したドイツの解剖学者ゲオルク・ルートヴィヒ・コーベルトの仕事を、きわめて包括的で正確な記述として認めていることだ。現代の研究がもたらしたのは客観的な画像で、新しい発見はわずかだ、と論文は言う。
最後の一文は、読み流さないでおきたい。知識は、欠けていなかった。一世紀半以上も前に、詳しく発表されていたのだ。そのあとに起きたのは無知ではなく、それを運ばなかったということだった。誰かが何かを禁じる必要はなかった。教科書は平らな図を刷りつづければよく、講義は先へ進めばよく、教育課程は止まるところで止まればよかった。そういう抜け落ち方には、悪役がいらない。だからこそ、しぶとく続く。この歴史のなかに怒りに値するものがあるとすれば、それだ。陰謀ではない。ずっとそこにあったのに、誰も手渡さなかった一ページである。
その形を、飾らない言葉で
そもそもの不満は、これが平易な言葉で語られてこなかったことにあるのだから、ここで二〇〇五年の論文にしたがって、飾らずに書いておく。クリトリスは、外陰部の上のほうにある小さな部分だけではない。その部分は陰核亀頭と呼ばれ、体の外から見えるのはそこだけで、神経が密に集まっている。残りは皮膚の下にある。左右一対の海綿体が亀頭から奥へ伸び、恥骨弓に沿って付着する二本の脚(陰核脚)へと続いていく。前庭球と呼ばれてきた一対の海綿状のふくらみも、論文は同じ器官の一部とみなしている。中心では尿道と膣に付いていて、論文はこの三つをひとまとまりの組織として描き、そこが女性の性機能と絶頂の中心であるように見える、と書いている。
どれも、官能的な情報ではない。解剖学の本が載せるためにこそある種類の文で、女性が診察室で、相手に、あるいは自分自身に問いを立てるときに必要になる種類の文だ。名前のないものは指さしにくい。平らに描かれたものは、それ以外の形を思い描きにくい。
第一話はさらに、平易な文が欠けているところに生えてくる俗説にも踏み込む。そのひとつが、処女膜を見れば性交の経験の有無がわかる、という思い込みだ。わからない。世界保健機関は二〇一八年、いわゆる「処女検査」をなくすことを求める、複数の機関による共同声明のなかで、処女膜の見た目は性交があったかどうかの信頼できる手がかりにはならず、性交の経験を証明できる検査は知られていない、と述べている。こうした俗説は、知識の穴ではない。穴に生えてくるものだ。
第一の教え、情報より先に届く恥
このシリーズでいちばん胸に残るのは、図解ではない。ソファに並ぶ顔だ。女性たちやノンバイナリーの人々が、自分の言葉で、性がどんなふうに人生に入ってきたか、自分の体について何を感じさせられてきたかを思い出していく。第一話で、そのなかの一人は、私たちは子どものころから、自分の体を恥じるように教えられている、と言う。そのあと、シリーズがこの点を論じる必要はほとんどない。ソファが論じている。
恥がなぜ情報より先に着いてしまうのかは、正確に言っておく価値がある。ここからは、シリーズの主張ではなく、この文章の読みだ。情報には、教育課程が要る。教える人、教科書、時間割のなかの枠、そして、これを教えると決める誰か。恥には、そのどれも要らない。子どもが何かを尋ねたときにさっと変わる大人の表情、そっと引っ込められる手、早すぎる話題の切り替え、別の女の子のスカートについて言われた一言。恥は、そういうもので教えられる。教えるのはたいてい、自分も同じやり方で教えられてきた大人で、本人は精一杯やっているつもりでいる。恥は早く、教科書もなしに届く。だから情報があとから届いたとしても、それは白紙の上には落ちない。すでに書かれているものの上に、書き直さなければならないのだ。
シリーズが、教えてきたのは誰だったのかを繰り返し問うのも、そのためだ。性についての公の会話を主に率いてきたのは、白人で、シスジェンダーで、障害のない教育者たちだった。シリーズはその事実に何度も立ち返り、その会話から外されてきた人々に時間を割く。白人ではない女性たち、トランスジェンダーやノンバイナリーの人々、大きな体の女性たち、障害のある女性たち。映画界の女性をめぐるアメリカのサイト、ウィメン・アンド・ハリウッドで、ローラ・バーガーはこれを一度きりの目配せではなく、作品を貫く線だと評した。各話の題は「私たちの体」「私たちの心」「私たちの関係」。シリーズは二時間半をかけて、その「私たち」に誰が入るのかを広げていく。
第二の教え、快楽は誰か別の人のものという筋書き
シリーズは、いわゆるオーガズム・ギャップ、つまり絶頂の頻度の男女差も取り上げる。この差についてもっともよく知られた研究は、出典にあたって読む価値がある。いちばん多くを語る数字が、あまり引用されないからだ。二〇一八年に性科学の専門誌に載ったその研究は、五万人を超えるアメリカの成人に、この一か月、性的に親密なときにどれくらいの頻度で絶頂に達したかを尋ねた。「たいてい」か「いつも」と答えた人は、異性愛の男性で九十五パーセント、異性愛の女性で六十五パーセント。そして、レズビアンの女性では八十六パーセントだった。
三つの数字を並べると、この差は、女性の体についての事実には見えなくなる。レズビアンの女性は、男性とほとんど変わらない頻度で絶頂を報告している。異性愛の女性は、ずっと少ない。これはこの文章の推論であり、著者たち自身は、差の説明として文化的なものと進化的なものの両方を検討している。それでも、もし差が女性の体のつくりだけに由来するのなら、相手によってここまで動くことはないだろう。研究はまた、女性の絶頂の多さと結びついていたものを挙げていて、その一覧はごく平凡だ。たとえば、オーラルセックスを受けることが多いこと、行為の時間が長いこと、してほしいことを口にすること。そして、直近の行為に、挿入だけでなく深いキスや、手や口による愛撫が含まれていたこと。どれも特別なことではない。ほとんどは、ただ、ひとりの絶頂を終わりの合図にしていない性である。
数字のすぐ横に、注意書きを置いておく。これはアメリカの成人が、ひと月のことを自分で報告したものだ。示しているのは結びつきであって、原因ではない。特定の女性についても、特定の寝室についても、何も語らない。示しているのは、この差が、女性であることそのものの性質ではない、ということだ。
第二の教えを内側から見ると、こうなる。性が挿入のことと定義され、彼が果てれば終わるのなら、彼女の体が必要とするものはすべて「おまけ」の扱いになる。準備運動、心づかい、頼んでしてもらう親切。快楽は彼のものだと、誰かが口にする必要はない。その夜の形が、それを言っている。この筋書きを早くから、深く身につけると、絶頂のふりをすることが、嘘というより礼儀のように感じられてくることさえある。
同じ教えは、科学の内側にもある。シリーズのなかで、絶頂を骨盤の収縮として定義するニコール・プラウスは、女性の興奮や絶頂を調べる研究計画が、彼女自身のものも含めて退けられてきたことを語る。イギリスの新聞ガーディアンでこのシリーズを評したベス・アシュリーは、その却下を、科学界の男性たちの居心地の悪さのせいだとまとめた。それは評者の要約であって、ドキュメンタリーを見ただけで審査の動機を確かめられる人はいない。それでも、この型は、あの調査のなかの型と響き合っている。誰の快楽が、答えるに値する問いとして数えられるのか。その静かな、繰り返される決定である。
第三の教え、体が本人の代わりに答えるという思い込み
第二話は、脳へ、ホルモンへ、そして何がエロティックに感じられるのかへと進み、シリーズは、すべてのなかでもっとも大事な区別を引く。性器の反応と、その人の欲望は、同じものではない。心が同意していないときにも、体は反応しうる。
これは標語ではない。二〇一〇年、同じ専門誌に載ったメタ分析は、一九六九年から二〇〇七年までに発表された百三十二の実験室研究を集めた。どれも、性器の興奮の測定と、本人がどれくらい興奮していると感じたかの報告の、両方をとった研究だ。男性では、二つは比較的よく一致していた。相関は〇・六六である。女性では、弱くしか一致しなかった。相関は〇・二六。平たく言えば、実験室で女性の性器に起きていたことは、彼女が感じていると言ったことの、あてにならない手がかりだった。これは集団についての知見で、個々の女性については何も予測しない。確かにしているのは、もっと狭く、もっと役に立つことだ。体の反応は、その持ち主が何を望んでいるかの報告ではない。
ここは、できるかぎり平たく書いておかなければならない。興奮は、同意ではない。性器が濡れることも、同意ではない。絶頂も、同意ではない。反応する体は、自分自身について報告しているのであって、その人について報告しているのではない。ましてや、部屋のなかで彼女の代わりに話しているのでもない。同意は、その人が与え、取り消すこともできるもので、ほかの誰かが彼女の体から読み取れるものではない。
沈黙が教えたもののなかで、いちばん危ういのがこの教えだった。ほかの誰かに、彼女を押し切る口実を渡してしまうからだ。官能小説にもアダルトビデオにも、昔からおなじみの台詞がある。口ではそう言っても、体は正直だ。科学が言うのは、別のことである。体は正直でも、嘘つきでもない。そもそも、票を投じていない。
この図書室は、以前にもこの点を書いてきた。「『Come As You Are』が教えてくれる、「欲望の強さ」より大切なこと」で、そして、このシリーズにも触れた「身体が報告をやめたのは、誰もそれに従わなかったからだ。」で。シリーズが付け加えるのは、枠組みのほうだ。反応と欲望のずれを、道徳の教えとしてではなく、体と心がどう働くかについてのありふれた科学として扱う。そうすることで、古い言い訳は、科学を名のる資格を失う。ナゴスキーは、その横に置くべき言葉を添えている。女性は、すべてに「はい」と言うか、すべてに「いいえ」と言うかしかないように感じる世界に生きていて、いい性には、そのどちらよりも明確な言葉のやりとりが要る、と。ガーディアンの評のまとめによれば、シリーズが差し出す同意は、その最中に交わされる問いで、それ自体が性のやりとりの一部になっている。
学校が黙ると、ほかの何かが教える
第三話は、惹かれるものと冷めるもの、相手に何を求めるか、そしてポルノへと移る。女性の欲望を念頭に置いてエロティックな映画をつくるエリカ・ラストも、ここで語る。観る人の意見がいちばん分かれそうなところで、同時に、それまでのすべてからまっすぐ続いているところでもある。
この文章の読みでは、つながりはこうだ。沈黙は、人が学ぶことを止めない。誰が教えるかを決めるだけだ。学校が手前で止まり、家では話題が変えられるなら、教える役目は、若い人のもとに最初に届いたものへと引き継がれる。多くの人にとって、それは画面のなかの女性の快楽にも、画面を観ている女性の快楽にも、ほとんど心を配らないポルノだったかもしれない。シリーズは、その教えを止められるふりをして答えるのではない。誰が、誰のためにそれをつくるのかを問うことで答える。
その答えにも限界はあり、それも書いておきたい。女性の欲望を念頭に置いてつくられた映画も、映画であることに変わりはない。快楽がどう見えるかの絵を広げることはできても、言い返すことも、尋ねることも、誰かの気持ちが変わったときに止まることもできない。取って代わる相手よりは、いい先生かもしれない。それでも、会話ではない。
日本で観るとき、順位表はいらない
このシリーズを日本で、どこか進んだ場所からの報告として観るのはたやすい。そして、それは間違っている。これは、アメリカの医学とアメリカの学校教育に向けられた、アメリカの不満である。批判されている教科書は、英語の教科書だ。ここに記録された沈黙は、どこか一つの国のものではなかった。その問いは、どこでもそうであるように、ここでもこの土地なりの形で届く。
その形のいくつかは、言葉のなかにある。まず題名だ。「快楽」は、日常の日本語では、身をゆだねてしまうもの、溺れるもの、という響きをかすかに帯びることのある言葉で、しかも、先に見たとおり、フロイトの用語ともほとんど同じ字面をしている。副題は、もうひとつの言葉「歓び」に手を伸ばし、「私たちの」を添える。私たちの歓びを求めて。誰かがそう意図したかどうかにかかわらず、この題は、シリーズが扱っている居心地の悪さそのものを舞台に上げている。人前で名指すには、隣にもっとやわらかい言葉を置かなければならないような、快楽。
借りてきた言葉もある。ギリシャ語の「子宮」は、日本語にも渡ってきた。「ヒステリーを起こす」という言い方は、いまも日常の日本語で、感情を抑えられずに激しく怒ったり泣いたりすることを指す。辞書はその語源を、ギリシャ語の子宮と、子宮が体のなかをさまようという古い考えにたどっている。理屈は、とうに医学から去った。言葉は、いまも毎日使われている。
そして、書かれているものもある。学習指導要領は、人が母親の体のなかで育って生まれることを学ぶ小学五年の理科について、人の受精に至る過程は取り扱わないものとする、と定めている。中学校の保健体育では、受精・妊娠は取り扱い、妊娠の経過は取り扱わないものとする、とある。この二つは、いわゆる「歯止め規定」として知られていて、学習指導要領の改訂が進むいま、残すべきかどうかがあらためて議論されている。二〇二六年四月には、日本弁護士連合会が撤廃を求める会長声明を出した。妊娠の始まりの手前で止まるように組まれた教育課程には、このシリーズがありふれた科学として扱う問いを、学校で問う余地はほとんど残らない。
動いたものもある。それも同じくらい、はっきり書いておくべきだろう。文部科学省と内閣府は二〇二一年から、子どもたちが性暴力の加害者にも、被害者にも、傍観者にもならないための「生命(いのち)の安全教育」の教材をつくってきた。二〇二六年三月、その教材と指導の手引きは改訂され、二〇二三年の刑法改正で不同意性交等罪がつくられたことなどを受けて、「性的同意」についても学べる内容が加わった。使うかどうか、どう使うかは、それぞれの学校の判断にゆだねられている。それより前に学校を出た女性は、教室で同意という言葉を一度も聞かなかったかもしれない。それは、彼女が聞き逃したからではない。そこに、聞くべきものがなかったのだ。
沈黙は、日本の物語のなかにも顔を持っている。こだまの自伝的な小説をドラマにした二〇一九年の『夫のちんぽが入らない』で、若い二人は、しようとしている性がどうしてもできないことに気づく。雑誌やインターネットで同じ悩みを抱える人を探しても、誰も見つからない。やがて彼女は、自分は欠陥品なのだと思い込むようになる。何年ものあいだ、二人とも一言も口にしない。沈黙が彼女に教えたのは、彼女の体についての事実ではなかった。その体を抱えて、自分はひとりなのだ、ということだった。
痛み、出血、あるいは、しようとしている性がどうしてもできないこと。それは婦人科で相談すべき問いで、ドキュメンタリーもこの文章も、その相談の代わりにはならない。この物語が見せているのは、言葉がないとき、ひとつの問いがどれほど長く、ひとりで抱えられてしまうか、ということだ。
別の言葉のなかで育ち、いま日本で暮らしている女性にとっては、この隔たりが二重になることがある。英語ではこうしたことを言えても、診察室で使われる日本語は知らないかもしれないし、その逆もありうる。二つの言葉の両方で、名前を持っておく価値がある。どこかがおかしいからではない。名前のない問いは、たいてい、問われないままになるからだ。
このシリーズへの反論と、この読みへの反論
反論を四つ挙げる。そのあとに、この文章が読み手に負っているもうひとつを。
第一の反論は、結末に向けられる。医学と学校と科学が女性の快楽を置き去りにしてきたことを二時間半かけて示したあと、シリーズは、ガーディアンの評が書きとめたところによれば、静かになってごらん、答えはあなたの内側にあるのだから、と観る人に告げて終わる。構造の失敗が診断され、個人への宿題が配られる。この結末にも、本当のところはある。自分の体に注意を向けることでしか見つからない答えも、たしかにあるからだ。けれど、教科書が自分を平らに描いてきたと知ったばかりの女性には、宿題が自分の手もとに戻されたことに気づく資格がある。
第二の反論は、絶頂を数えることそのものが、新しい圧政になりうる、というものだ。絶頂の回数で測られる差は、女性に、自分を同じ物差しで測るよう誘う。誰もが快楽に値すると言い続けるシリーズは、いまあまり快楽を感じていない人に、うまくできないことをもうひとつ背負わせてしまうかもしれない。快楽は体と同じくらい心に宿る、というシリーズ自身の結論は、部分的な答えにはなっても、完全な答えではない。目標にされた快楽は、快楽であることをやめ、成績表になる。
第三の反論は、商いにかかわる。これはネットフリックスのシリーズで、第一話には大人のおもちゃの実践的な紹介が含まれている。ある評者は、観終わったあと、そのいくつかを買い物かごに入れたと打ち明けた。手渡されなかった教育についてのドキュメンタリーが、買い物リストで終わってしまうこともある。この図書室が「棚にあるもの。フェムテック、セルフプレジャー、そして買って抜け出すことの限界。」で論じたように、何かを買えることは、権利を持っていることと同じではない。棚の上のどんな品物も、教科書から抜け落ちた一章を取り戻してはくれない。
第四の反論は歴史そのものに向けられ、もっとも重い。解剖学の教科書が意図的にクリトリスを描かなくなった、と論じてくり返し引かれてきた研究には、先に触れた解剖学者が異を唱えている。その研究は、再現できない方法と、資料の偏った読み方の上に立っている、というのである。その批判が正しければ、抜け落ちたことには理由があった、というシリーズの言い方は、ところどころ強すぎるのかもしれない。抜け落ちの一部は、意図ではなく怠慢だったのかもしれない。この文章は、動機についてはその点を認め、図については譲らない。誰が何を意図していたにせよ、現代の地図を描いた解剖学者自身が、典型的な教科書の記述は細部を欠き、ところどころ誤っていたと書いている。平らな図は、誰かにそのつもりがあったかどうかに関係なく、女性を置き去りにする。
そして、この文章が負っているもうひとつ。この家は私的な同伴を売っている。女性は自分の快楽を奪われてきた、と結論する文章は、こうした商売にとって都合がいい。だからこそ、シリーズが実際に何を処方しているのかを、はっきり書いておきたい。そのどれも、ここでは売られていない。一枚の図。語彙。隠すように教えられてきたことを、声に出して言う人たちのいる部屋。最中に交わされる問いと、「いいえ」でもかまわない答え。どれも無料で、どれも買う必要がない。
この図書室が、このシリーズから受け取るもの
アニメーションをはがしてみると、このシリーズは、この図書室が留保なしに共有する主張をしている。自分の体を知る権利は、快楽についてのどんな約束よりも先にあって、その約束に左右されない。ここでいう知識は、よりよい性のための技術ではない。人が問いを立てるとき、何かを断るとき、医師に痛みを説明するとき、あるいは、何年も礼儀のつもりでふりをしてきたと気づくとき、その足もとにある地面である。
遅れて届いた知識も、知識であることに変わりはない。このシリーズが配信されたのと同じ年、ソフィー・ハイド監督の『グッド・ラック・トゥ・ユー、レオ・グランデ』は、ナレーションの問いを、ひとりの女性の物語にしてみせた。一度も絶頂を知らないまま教職を退いた女性で、自分の体を恥じていて、かつては女子生徒たちのスカートについて、それが何を意味するかを言い聞かせる側の大人だった。映画は彼女を、お金を払って借りたホテルの一室を通してそこへ連れていく。そのこと自体が、また別の主題だ。けれど映画の最後の像は、その部屋でも、その男性でもない。鏡の前にひとりで立ち、悪びれることなく自分の体を見つめる彼女である。彼女もまた、それを学校で教わりはしなかった。
シリーズの形式も、中身と同じくらい真剣に受け取りたい。ソファそのものが、論証になっているからだ。恥は、自分だけだと信じている人にいちばんよく効く。人々を一つの部屋に集め、隠すように教えられてきたことを声に出してもらう。それはこのシリーズがしているいちばん単純なことで、同時に、第一の教えをほどく見込みがいちばん高いことでもある。科学は大事だ。誰かと一緒にいることも、同じくらい大事だ。
ここにあるのは医学的な助言ではなく、このシリーズも診療所ではない。どこかが痛む、出血するはずのないときに出血する、気がかりな変化がある。そういうときは、婦人科か、信頼できる医師に相談してほしい。そしてその問いは、平易な言葉で、つまり教科書が載せるべきだった言葉で、尋ねてかまわない。
この文章が主張していないこと
これは医学的な助言ではなく、誰のことも診断しない。ここにあるどの文も、読み手の体についての言明ではない。ここに書いたことに自分の暮らしを何ひとつ見出さない人がいても、その人のことを言っているのではない。
絶頂の数字は、アメリカの成人を対象にした一つの大規模な研究から取ったもので、回答者がそれぞれ自分のひと月について報告したものだ。結びつきを示すもので、原因は示さず、個人については何も語らない。興奮についての実験室の知見は、集団を記述するもので、一人ひとりを記述するものではない。
一九四八年版の『グレイ解剖学』からクリトリスが消えたという話は、シリーズの主張として伝えた。同じ物語を語ってくり返し引かれてきた研究には異議が出ていて、この文章はその争いに決着をつけない。教科書一般について述べたことは、二〇〇五年の解剖学の論文そのものに拠っている。
この文章のためにシリーズを視聴してはいない。記したことは、公開された記録と批評から取ったもので、画面の台詞はそのまま引かずに記述した。ソファに座る人の誰についても、名前を挙げたり、一人ひとりを描いたりはしていない。専門家については、画面で語っていることだけを伝えた。
シリーズをつくった人、出演した人の誰かがこの家を知っている、あるいは推薦している、という含みはない。この家がこの結論に対して持つ利害は、ここだけでなく、本文のなかで述べてある。
持ち帰るための問い
あの図に遅れて出会った人のために、いくつか問いを置いておく。
自分の体について最初に学んだことは、何だっただろう。それを教えたのは誰で、その人に教えるつもりはあっただろうか。三つの教えのうち、誰にも声に出して言われないまま身につけたのはどれだろう。先に届く恥。誰か別の人のものとしての快楽。あなたの代わりに答えてしまう体。言葉がなくて、何年も抱えたままになっている体についての問いはあるだろうか。いまなら、誰に尋ねられるだろう。
ナレーションは、恐れずに学べていたら人生はどう違っていただろう、と問う。それは過去についての問いで、過去を教え直すことはできない。けれど、この問いには現在形もある。もっと小さく、もっと役に立つ現在形が。いま、何を知りたいだろう。
平易な文を、誰もあなたに手渡さなかった。それは一度も、あなたの落ち度ではなかった。その文はあるし、あなたのおばあさんが生まれるより前からあった。そして、あなたが望むときにはいつでも、あなたのものだ。
ほかの章から読む
さらに深く、資料室で
この問いから、次へ
もう少し静かな、次の一歩
読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。