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Moonlight Journal

退職は、新しい社会システムをつくる前に、いまあるものを取り除きます

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  • 社会的なつながり

三十一年のあいだ、同じ建物には、言わなくてもわかってくれる、大まかに同じ顔ぶれの人々がいました。どの日がつらく、どの日が大丈夫か、を。彼は金曜日に退職しました。翌週の月曜日には、その建物はまだ存在し、その中の人々もまだ存在していましたが、そのどちらも、もう彼とは何の関係もありませんでした。そのあとに訪れた静けさは、彼が知り合いになりにくい人間になったことを意味してはいませんでした。それは、一日に二度動いていた相談のネットワークが、単に存在しなくなり、それに代わるものがまだ何も現れていない、ということを意味していたのです。

三十一年のあいだ、そのオフィスには、大まかに同じ顔ぶれの人々がいました。誰かが彼より先に退職し、誰かが新しく入ってくるたびに、ゆるやかに入れ替わりながら。そのすべての人と深い意味で親しかったわけではありませんが、本当に信頼していた一握りの人々とのあいだには、どちらの側もそれをひとつの仕組みだと名指したことはなくても、頼れるリズムがありました。最初の会議の前のコーヒー、たいてい木曜日には一緒に駅まで歩くこと、本当に何か問題があれば一日のうちに気づいてくれる誰か。彼は金曜日に退職しました。小さな集まりと、みんなが書き込んだカードとともに。その翌週の月曜日、オフィスはまだ存在していました。その中の人々もまだ存在していました。そのどちらも、もう彼とは何の関係もありませんでした。

そのあとの数週間に訪れたのは、彼が最初、自分自身に起きていることとして読み取った、特定の、方向感覚を失わせる静けさでした――自分は、近づきにくい人間になったのだろうか、話していて面白くない人間になったのだろうか、どこか自分らしさを失ったのだろうか。より正確な読み方、そしてこの文章が主張する読み方は、個人的なものではなく構造的なものです。本当に機能していた、一日に二度の、気軽な相談の仕組みが、その金曜日に、全面的に、一度に、存在しなくなり、それに代わるものはまだ何も築かれていなかったのです。その空白は本物であり、よくあることであり、彼の中の何かが変わった証拠ではありません。

この再構成が何を提供し、何を提供しないのかを、正確にしておく価値があります。それ自体で空白を短くすることはありませんし、彼に代わって新しいネットワークをつくり出すこともありません。それが変えるのは、彼が修正をどこに探すか、です。自分は単に一緒にいてつまらない人間になったのだと思い込んだ男性は、その欠陥の証拠を探しがちであり、しばしばそれを見つけます。なぜなら、詳しく調べれば、誰でも自分自身について疑うべき何かを見つけられるからです。自分が、特定の、再建可能なインフラの一片を欠いているのだと理解している男性は、研究が実際に特定した仕組みを通じて、まさにその一片を探しに行くことができます。事実がそもそも支えたことのない評決のために、自分の人格を審査に出すのではなく。

退職が実際に取り除くもの

冨永万由、後藤春彦、山村崇による二〇二一年の、日本都市計画学会都市計画論文集に掲載された研究は、退職した高齢者の社会関係が実際にどう変化するかを調べ、特に、日々の相談を誰にするか――必ずしも深い腹心である必要はなく、一週間のふつうの手触りの中で、悩みを話したり話されたりする相手――に焦点を当てました。この研究は、多くの高齢者が、退職後、相談する相手がほとんど残っておらず、地域社会から切り離されていると感じていると報告していること、そして、高齢期における自立を重んじる国の姿勢が、善意によるものでありながら、他者に頼るという習慣が確立されていない人々を、意図せず置き去りにしうることを見出しました。

この研究が指し示す仕組みは、個人的な引きこもりではありません。それは、職場が、単に仕事のために出勤するという偶発的な副産物として、まさにこの種の気軽な相談のために利用できる、密で、あらかじめ組み立てられたネットワークを供給しているということであり、退職はそのネットワークへのアクセスを、その中のどの個別の関係が実際にどれほど満足のいくものであったか、あるいは表面的なものであったかにかかわらず、一撃で取り除くということです。そのネットワークは、興味が薄れるにつれてゆるやかに色あせていくのではありません。特定の日に終わります。なぜなら、それはそもそも個人の選択の集まりではなく、みなが同じ時間に同じ場所にいる必要があったことの副産物として関係を生み出していた、制度的な構造だったからです。

それが実際にどう再建されるのか、経験した人自身の語りによれば

同じ研究は、何がうまくいくはずかを仮定するのではなく、再建についての退職者自身の語りを追跡し、意図の面での本物の多様性を見出しました。一部の退職者は、退職前からすでにあった関係を維持し、深めることに能動的に取り組み、別の人々は、退職後、既存の地域社会の内外で、本当に新しい人々に出会うことに力を注ぎました。この研究が、両方のグループにわたって、相談する価値のある新しい人に出会う、もっとも信頼できる道として特定したのは、テーマにもとづいた地域活動への参加でした――クラス、趣味のグループ、特定の共通の関心のまわりに組織されたボランティア活動であり、漠然とした近所づきあいではありません。

この区別は実務的に重要です。「人に会う」という漠然とした目標で、幅広い地域のイベントに顔を出すことは、この研究によれば、具体的な、続いている共有の活動のまわりに組織された何かに参加することよりも、意味のある程度に信頼性の低い仕組みです。具体的な課題や関心のまわりでの繰り返される接触は、かつて職場が無料でしていたことを、静かに行います。同じ人々を、繰り返し、同じ部屋に置くのです。誰も、次に会う理由をつくり出す必要のない基盤のうえで。

この特定の時期に何が孤独感を予測するのか

齊藤葉月と平野美千代による、別の二〇一九年の研究は、日本北部に居住する、自立して暮らす六十五歳から七十四歳の二百九十二名を調査し、まさにこの人生の時期における孤独感と、特に何が結びついているのかを調べました。妥当性が確認された孤独感尺度と、多重ロジスティック回帰分析を用いて、この研究は、より高い孤独感と有意に関連する四つの要因を見出しました。友人と会うことへの不満足、近所の者と会う頻度が月に数回以下であること、近所の者と会うことへの不満足、そして情緒的なサポートを求める相手がいないこと、です。

そのリストの中で、二つのことが際立っています。第一に、単なる接触の頻度だけがすべてではありませんでした。接触のあとの不満足は、接触がどれくらいの頻度で起きたかと同じくらい重要であり、つまり、その出会いが実際に何を提供したかという質が、単にその出会いが起きたと記録することとは別に、本物の重みを持っていたということです。第二に、「情緒的なサポートを求める相手がいない」という特定の脆弱性は、退職の研究が描く仕組みと正確に一致します。それはまさに、かつて職場が非公式に供給していた種類のつながりであり、まさに、人が、正しい、活動にもとづいた道を通じて、まだ成功していないとしても、能動的に再建しようとしうる種類のつながりなのです。

四つの特定の警告サインが実際に指し示すもの

齊藤と平野の発見を、ひとつずつ見ていく価値があります。なぜなら、それぞれの四つの要因は、「孤独感」と呼ばれる単一の、区別されない問題ではなく、わずかに異なる、対処可能な空白を指し示しているからです。彼らのデータの中でもっとも強い単独の要因である、友人と会うことへの不満足は、接触は起きているが、それが届いていないことを示唆しています――関係そのものを深める必要があるサインであり、単にもっと頻繁に予定を組めばよいというものではありません。近所の者と会う頻度が月に数回以下であることは、率直な頻度の空白を指し示しています。これはまさに、テーマにもとづいた地域活動が閉じるために作られている種類のものです。頻度とは別に、近所の者と会うことへの不満足は、既存の近所づきあいが、まだ十分な共有された歴史や、具体的な共通の基盤を持っておらず、実質的だと感じられていないことを示唆しています――これもまた、通りすがりの廊下での挨拶ではなく、繰り返される共有の活動が、時間をかけて築くものです。そして、情緒的なサポートを求める相手がいないことは、もっとも直接的に、その空白を名指します。知人の不足ではなく、その人が、本当に大事な何かを持ち込んで、一度でも試したことのある相手の不足です。

これら四つの空白は、同じスケジュールで閉じるわけではありません。退職したばかりの人は、ひとつの新しいグループに参加しただけで、四つすべてが解決すると期待すべきではありません。テーマにもとづいた活動は、もっとも直接的に、もっとも速く、頻度の空白に対処します。決まった火曜日のクラスは、ほとんどすぐに、安定した顔ぶれとの定期的な接触に、人を連れ戻します。より深い空白――接触があるにもかかわらずの不満足や、情緒的なサポートを求める相手の不在――は、たいてい、その頻度が十分に長く続いて、クラスの仲間を、実際に打ち明ける価値のある誰かへと変える、共有された歴史のようなものを生み出したあとにしか解決しません。ここで話は、新しい友情の形成を扱った「それは、失った技術ではありませんでした」という文章がより詳しく描く、時間の積み重ねの仕組みへと、まさに戻ってくるのです。

実際にテーマにもとづいた活動に参加することは、どのようなものになりがちか

実際には、これは、最初の試みで決定的な解決策のように感じられることはめったにありません。退職したばかりの人が、地域の園芸グループ、語学クラス、特定のルートとスケジュールにもとづいて組織された歩く会に参加すると、最初の何回かのセッションは、まさにそのものとして感じられます。ほとんど見知らぬ人々の部屋で、共有の活動をこなしているだけで、かつての職場のネットワークが持っていた気楽さは、まだそこにありません。その平板さは、間違った活動が選ばれた証拠ではありません。それは、かつて職場の内側で自動的に動いていたのとまったく同じ積み重ねの過程の、初期の、時間の少ない段階です。ただ、いまはそれが、意図的に、より遅く動いています。繰り返しを強いるものは、その人自身の、通いつづけようという決断のほかには何もないからです。

その軌道を変える傾向にあるのは、最初の試みで「正しい」グループを見つけることよりも、単純に、繰り返しを守ることです。決まった火曜日のクラスに、特定の一回が特別に報われることを約束しているからではなく、それが決まっているからこそ出席することです。十分な週数がたつと、同じ顔ぶれが十分な頻度で繰り返され、ふつうの雑事――ここに来る途中で雨に降られたかどうか、展覧会はどうだったか――が、かつて古いオフィスで、会議のあいまに無料で起きていたのとまさに同じ種類の、低リスクで、繰り返される交流を生み出しはじめます。その仕組みは、そもそも元のオフィスのネットワークを築いたのと同じものです。ただいまは、制度がその決断を自動的に下すのではなく、通いつづけるという意図的な決断が必要とされているだけなのです。

なぜこの時期は評決と同じではないのか

これら二つの研究を合わせると、個人的な衰えではなく、特定の、期間の限られた構造的な移行を描いています。制度的なネットワークは、知られた日付に、全面的に消え去り、代わりのネットワークは築くことができますが、ゆっくりと、かなり特定の仕組み(テーマにもとづいた、繰り返される、共有活動を通じた接触)を通じて築かれ、そのあいだの空白は、漠然とした、性格にもとづくものではなく、識別可能で、対処可能な形を持つ孤独感と、測定できるほど結びついています。

退職から三か月がたち、まだ新しい相談相手がいない退職者は、以前は得意だった何かに失敗しているのではありません。彼らは構造的に、ふだんの気軽な社会的接触の主な源が終わったばかりの人なら誰もが置かれるのと、同じ立場にいるのです。そしてこの研究は、そこから抜け出す道が、一般的な社交性にもっと努力することではなく、特にテーマにもとづいた、繰り返される活動を通じていることを示唆しています。それが、この研究が実際に動いている変数として見出さなかったものだからです。

なぜ成人した子どもが、めったに実際の代わりにはならないのか

退職したばかりの親の静かな日々への、よくある、善意からの反応は、成人した子どもが、その空白を直接埋めようとすることです。より頻繁な電話、毎週の決まった訪問、かつて職場が供給していた相談相手になろうとする努力です。これは本物の思いやりから来ており、その接触自体、本当に価値のあるものです。しかしそれは、この文章が描く特定の空白を、めったに閉じません。感情的な理由ではなく、構造的な理由からです。この研究が指し示す仕組みは、仲間のネットワーク――おおむね似た人生の段階にあり、それぞれ重なり合う関心を持つ人々が、共有された活動のまわりで、繰り返し会う――に依拠しており、一人の成人した子どもとの、ひとつの関係は、どれほど愛情深くても、機能するネットワークが提供する幅、仲間どうしの対等性、そして接触の窓口そのものの冗長性を、供給することはできません。

これは、努力する成人した子どもへの批判ではありません。それは、その努力が、いったん差し出されれば十分だと扱わない理由であり、退職した親が引きつづき感じている空白の感覚を、実際には一貫して現れている子どもへの、恩知らずとして扱わない理由です。愛情深く、気にかけてくれる成人した子どもと、機能する地元の仲間のネットワークという、この二つのものは、異なるニーズに応えており、人生の後半における関係構造についての研究は、それらを、代替可能なものとしてではなく、補い合うものとして扱います。退職した人は、一方を持ちながら、もう一方を持たないこともありえます。そして、前者を持っていることは、後者が解決されたことを予測しません。

この文章が主張していないこと

これは、退職がすべての人にとって孤独感を引き起こすという主張ではありません。あるいは、すべての退職者が大きな新しいネットワークを必要とし、あるいは望んでいるという主張でもありません。一部の人々は、仕事を離れたあと、意図的に、そして満足しながら、自分の社会的な世界を縮小します。そして、意図して選ばれた小さなネットワークは、この文章が描く問題ではありません。

これは、齊藤と平野のデータからの因果的な主張ではありません。そのデータは横断的なものです。特定された関連は、この年齢層において孤独感に何が伴う傾向があるかを描いているのであって、どれかひとつの要因が、ある個人においてそれを生み出すことを証明するものではありません。

そして、これは、一般的により社交的であろうとする努力が解決策だという指示でもありません。冨永・後藤・山村の研究は、特にテーマにもとづいた、繰り返される活動を、より信頼できる仕組みとして指し示しており、構造化されていない場での単なる努力ではありません。

また、これは、すべての相談ネットワークが、なんらかの特定の期間内に、うまく再建されるという主張でもなく、再建に失敗することが、選ばれた特定の活動の誤りを反映しているという主張でもありません。一部の人々は、やがて本物の相談へと深まっていく種類の、繰り返される接触を生み出すグループにたどり着くまでに、いくつものテーマにもとづいたグループを試します。そして一部の人々は、努力とは何の関係もない理由で、自分に合うグループを一度も見つけられません。この仕組みは、再建がうまくいくとき、それがどう起きる傾向にあるかを描いています。それがうまくいくことを保証するものではありません。

この家が申告しなければならないこと

この家は、区切られた、有料の一時間の中で、注意と会話を売っており、この文章が描く、特定の、活動にもとづいた再建を、置き換えたり早めたりすると主張してはいません。セッションは、その持続時間そのものにおいては本物のカンパニーシップですが、退職後の相談ネットワークを実際に再建すると研究が示す、繰り返される、テーマにもとづいた地元での接触の代わりにはなりません。

それができないのは、新しい地元のネットワークがそこから築かれる、繰り返される、無料の、地域にもとづいた接触を供給することです。それは、クライアント自身の地域社会の中で、具体的などのような共有活動が、同じ人々を、繰り返し、同じ部屋へと連れ戻すのであれ、それを見つけ、参加する必要があります。この家が、それに取って代わるために築かれたことのない一時間の内側ではなく。

編集上の注記

この文章は、日本の二つの研究に拠っています。冨永・後藤・山村(二〇二一年)は、退職した高齢者の人間関係が、仕事を離れたあとにどう変わるかを調べ、新しく相談できる相手に出会うもっとも確かな道は、クラスや趣味のグループ、共通の関心を軸にしたボランティアといった、テーマにもとづいた地域活動だと見出しました。齊藤・平野(二〇一九年)は、自立して暮らす六十五歳から七十四歳の二百九十二人を調査し、友人と会ったあとの不満足、近所の人と会う頻度の少なさや、会ったあとの不満足、そして情緒的なサポートを求める相手がいないことが、孤独感と結びついていることを見出しました。中心にある主張は、退職後の孤独感は、たいてい、突然終わる職場のネットワークと、かなり特定の仕組みを通じてゆっくりとしか築けない代わりのネットワークとのあいだにある、構造的な空白を映しているのであって、社交性が個人として衰えたからではない、ということです。

この文章は、退職が誰にとっても孤独を生むとは言っていません。横断的なデータである齊藤・平野の調査から因果を引き出してもいませんし、繰り返される、テーマにもとづいた活動に加わることではなく、一般的にもっと社交的であろうと努力することが解決策だとも言っていません。ここで予約される一時間を、新しいネットワークが実際にそこから築かれる、繰り返される、無料の、地域での接触の代わりとして差し出すものでもありません。

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週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

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