Cinema
『バッカス・レディ』と、彼女にしか頼めなかったこと
ソウルの真ん中の公園で、六十五歳の女性が、自分と同じように年老いて貧しい男たちに体を売って暮らしている。やがて昔の客が三人、ひとりずつ戻ってきて、死ぬのを手伝ってほしい、あるいはそのときそばにいてほしいと頼む。映画は、なぜそれが彼女でなければならなかったのかを淡々と見せ、最後に、彼女の番が来たとき誰がそばにいるのかを問う。
秋のソウル。古い街の中心、鍾路にある公園のベンチには、行かなければならない場所も時間もない老人たちが並んで座っている。ジーンズにデニムのジャケットを着た六十五歳の女性が、そのひとりの隣に腰をおろし、お互いもう秋はそんなに残っていないわね、というようなことを言って、バッグから小さな瓶を取り出す。バッカスという、韓国なら薬局でもコンビニでも売っている栄養ドリンクだ。日本でいえば、夕方、疲れた同僚の机にひょいと置いていく、あの小瓶のたぐいである。けれどこのベンチの上では、それは問いになる。何を尋ねられているのか、男たちにはわかっている。受け取る男もいれば、侮辱されたような顔をする男もいる。
彼女の名はソヨン。少なくとも、そう名乗っている。そして彼女は、この仕事がうまい。公園の老人たちのあいだでは評判の人で、韓国語の原題はその評判を、そのまま題名の洒落にしている。俗語として読めば「死ぬほどうまい女」、文字どおりに読めば「殺してくれる女」。この二重の意味は、日本語にも英語にもうまく移らない。
やがて、男たちが戻ってくる。それが目当てではなく。ソヨンはバスで、何年も会っていなかった物腰のやわらかな男やもめと隣り合わせる。彼は、ふたりの知っている男たちの近況を話しはじめる。仕立てたスーツしか着なかった上客は、いまは病院のベッドで身の回りのことが何ひとつできず、こんなのは生きているとは言えない、と言っている。もうひとりは記憶を失いつつあり、身寄りがない。昔の客が三人、ひとりずつ、死ぬのを手伝ってほしい、あるいはそのときそばにいてほしいと彼女に頼む。そして彼女は、引き受ける。
この文章が考えたいのは、この「頼まれる」ということだ。自殺幇助が正しいか間違っているか、ではない。映画はその問いに決着をつけないし、この文章もつけようとは思わない。考えたいのは、そういうことを頼まれる側にいるとはどういうことなのか。そして、なぜこの男たちにとって、それが彼女でなければならなかったのか、である。映画の答えは、飾り気がなく、容赦もない。男たちが彼女に頼むのは、彼女の仕事がそういうものだったからだ。何年ものあいだ、彼女は男たちがいちばん無防備になる場面に立ち会ってきた。目をそらさずに。家族なら抱くはずの、この人はこうあるべきだという利害を、もたずに。そしてもうひとつ、ほかに誰もいなかったからである。
こういう頼みごとは、同時にふたつのものだ。これまで誰かが彼女に寄せたなかで、いちばん重い信頼。そして、本来なら社会全体が引き受けるべき重さが、たまたまそのベンチに座っていた貧しい老女ひとりの膝の上に置かれた、ということ。映画はその両方を抱えたまま進み、最後の最後で、問いを裏返す。彼女の番が来たとき、彼女が人にしてきたことを、誰が彼女にしてくれるのか。
この先について、そして映画のあらまし
この文章は、結末を含めて映画の全体に触れる。ソヨンの逮捕と、そのあとに起きることまで。先に映画を見ておきたい人は、どうかそうしてほしい。読むのは、そのあとでかまわない。映画の中心にある三つの死は、以下ではっきりと書くが、どれについても、その様子は描かない。
『バッカス・レディ』は、イ・ジェヨンが脚本と監督を手がけた二〇一六年の韓国映画である。イ・ジェヨンは、韓国では洗練された都会的な商業映画の監督として知られている。フランスの古典的な恋愛小説を十八世紀の朝鮮に移した『スキャンダル』(二〇〇三年)も、そうした一本だ。それに比べると、この映画はずっと小さい。製作は韓国映画アカデミー。二〇一六年二月にベルリン国際映画祭のパノラマ部門で上映され、同じ年の十月六日に韓国で公開された。成人のみが鑑賞できる指定で、上映時間は百十分。ソヨンをユン・ヨジョン、ジェウをチョン・ムソン、ドフンをユン・ゲサン、ティナをアン・アジュが演じている。ユン・ヨジョンはこの五年後、『ミナリ』で、韓国の俳優として初めてアカデミー賞を受けることになる。
監督によれば、この映画のきっかけは母親の一言だったという。一緒に旅行をしていたとき、母親がアイブロウペンシルを買おうとして、ふと手を止めた。三本入りだったのだ。どうせ全部は使いきれないのに、と母は言った。その言葉が胸に刺さった、と監督は語っている。この映画は、そんなふうに数えはじめた人たちについての映画でもある。
物語のあらましはこうだ。ソヨンは鍾路の公園で体を売って暮らしている。そこで働くほかの女たちと同じように、声をかけるときの合図はバッカスの小瓶だ。淋病の治療に通っている診療所で、フィリピン人の女性が医師に襲いかかり、警察に連れていかれる。医師は既婚の韓国人の男で、彼女と幼い息子を捨てていた。騒ぎのなかでソヨンは、残された男の子のミノを家に連れて帰り、役所の手が届かないようにかくまう。家は梨泰院の古びた一軒家の間借り部屋だ。大家のティナはラウンジで歌うトランスジェンダーの女性で、隣の部屋のドフンは義足の青年、決まった仕事はない。三人で、男の子の面倒を見る。
やがて昔の客たちが、別の頼みごとをしはじめる。三人の男と、それぞれが何を頼んだのかについては、あとで一節を設けて書く。そのあとソヨンの身に起きること、つまり映画の最後の部分も、別の一節で扱う。
暮らしの糧として、淡々と
この映画の最初の、そしていちばん良い決断は、語り口にある。ソヨンの仕事は、彼女にとってそうであるとおりのもの、つまり暮らしの糧として映される。物語は診療所での診断から始まる。淋病だと告げられ、治療を受け、映画は先へ進む。彼女が先へ進まなければならないのと同じように。公園の同業者に病気のことを言いふらされると、彼女はいつもの場所を失い、ほかの公園で客を探すことになる。それは商売の条件であり、映画はそれに、彼女の一週間のなかで占めるのと同じだけの重さしか与えない。片づけるべき問題であって、教訓ではない。
韓国の映画評論家ソ・ゴクスクは二〇二二年の批評で、仕事の場面でのカメラの置き方に目をとめている。客との場面では、男の顔がこちらを向き、ソヨンは背中を見せていることが多い。手前に男の昂ぶり、奥に彼女の労働。男たちにとって見栄えのいい角度ではないし、彼女を憐れむ角度でもない。つらい仕事をしている人を、そばで見ている人の角度である。
映画は、ベンチの男たちがみな紳士だというふりもしない。お金を払ったのだから何をしてもいいとでもいうようにふるまう客がいて、映画はそれが彼女に何を強いるのかを、長々と映さずに見せる。お金で買えるのは、一時間と、そのなかで合意したことだけだ。それ以外は決して買えない。そしてソヨンがそれ以外のことを考えている気配は、映画のどこにもない。
同じくらいきっぱりと、映画は憐れみを拒む。ソヨンは口が悪くて、おもしろい人だ。彼女のような女性たちの記録映画を撮りたいとカメラを持って近づいてくる青年には、おばあさんと呼ばないでちょうだい、と言い返す。野良猫に餌をやる。お金が入れば、同じ家に暮らす人たちのために使ってしまう。公開の週にこの映画を評した批評家のチョン・ミナは、彼女を、貧しく、老いていて、女で、ひとりであり、社会の仕組みが欠けている分を全身で受けとめるしかない位置にいる人だと書き、それでも彼女は堂々としている、と付け加えた。
ベルリンでこの映画を見た米業界誌「バラエティ」の評者が書きとめた場面がある。古紙を山と積んだカートを押して通りを行く老女を、ソヨンが足を止めて見つめる。その顔は、どちらがより落ちぶれたのかを見積もっているように見える。映画がソヨンに許す比較は、これだけだ。そしてそれは、誰のことも慰めない。
そして映画のある場面で、お金目当てに老人を殺した男のニュースがテレビで流れ、まわりの人たちが舌打ちをする。ソヨンは半ばひとりごとのように言う。あの人にも何かわけがあるんだろう。みんな上っ面だけ見て騒いでいるだけで、中身なんて誰にもわからない、と。監督は、これは自分がふだんよく口にする言葉だと語っている。覚えておいてほしい。映画はこの言葉に戻ってくる。彼女自身を代償にして。
だからこの文章が最初に約束するのは、映画自身の約束と同じだ。彼女の仕事を、彼女が決めたのではない条件のもとで、腕をふるって稼ぐ暮らしの糧として受けとること。そして彼女を、年老いた女性すべての象徴としてではなく、ひとりの女性として受けとること。彼女は韓国の、あるいはどこかの国の、すべての老いた女性ではない。映画が少しずつ差し出す、ある特定の来歴をもった、ある特定の女性であり、おもしろくて、誇り高くて、そして疲れている。
行き場のない人たちの、ひとつ屋根
ミノは、診療所の廊下で、偶然彼女の人生に入ってくる。監督の言い方を借りれば、行き場のない子どもや野良猫を本能のように抱えこむ女であるソヨンは、先のことも考えずに彼を連れて帰る。そこにいたほかの誰も、そうしそうになかったからだ。それからのミノは、食べさせ、見守り、寝かしつけなければならない小さな男の子であり、映画も彼をまさにそのように扱う。
世話は分担される。大家のティナも、男の子の世話を分け合う。ティナを演じたアン・アジュを、バラエティの評者は優雅で品位があると評したが、映画もティナに同じ礼儀を払っている。彼女は誰かの物語の背景に置かれた色どりではない。この家の持ち主であり、ソヨンの過去をたずねられるくらいにはそれを知っている人であり、子どもの世話の分担を引き受ける人だ。隣の部屋の義足の青年ドフンも、自分の分を引き受ける。ソヨンが男の子を支援センターへ連れていき、あなたたちのしたことは誘拐だと職員に咎められたとき、答えるのはドフンである。僕たちは悪い人間じゃありません、とだけ。
ソヨンのほうは、ミノを連れて、拘置されている母親に会いに行く。彼女は男の子を自分のものにしようとしているのではない。母親のもとへ帰れる日まで、預かっているのだ。
韓国に生まれ、日本の大学院で映画研究の博士号をとった崔盛旭(チェ・ソンウク)は、二〇二二年、女性向けのウェブメディア「サイゾーウーマン」の、映画で韓国の近現代史を学ぶ連載でこの映画を取り上げ、この家の集まりが映画の議論に何をもたらしているかを指摘している。トランスジェンダーの女性、障害のある青年、ふたつの国のあいだに生まれた子ども。社会のなかに居場所のない人たちを真ん中に置き、弱い者が弱い者を助ける構図を見せることで、映画はかえって、福祉や人権がどこで欠けているのかを目に見えるものにした、と。チョン・ミナは、もっとやわらかなことに気づいている。この家では、誰も誰かの過去をたずねない。いまのままの相手を、そのまま受け入れている。
この家の下には、映画がはっきりとは口にしない韻が流れている。ミノの父親は、フィリピン人の女性と息子を捨てた、既婚の韓国人医師だ。何十年も前、ソヨンは米兵とのあいだに息子をもうけ、その男は去り、彼女は息子を養子に出した。バラエティの評者はこのつながりを見逃さなかった。映画は、長く口を閉ざされてきた海外養子や、米兵を父にもつ子どもたちの歴史を、フィリピンで韓国人の男たちがもうけた子どもたちの、もっと新しい話の隣に置いている、と。映画はそれを演説にしない。ひとりの子どもを手もとに置けなかった女が、別の子どもを、その母親が迎えに来られるまでのあいだ預かる。それを見せるだけである。
三人の男と、それぞれの頼みごと
ジェウは知らせを運んでくる人であり、最後に頼む人でもある。礼儀正しく、紳士的な男だ。何年ぶりかにバスでソヨンと出くわし、彼女が消息を知らずにいたなじみ客たちのことを話して聞かせる。穏やかな物腰の裏に、彼は長い悲しみを抱えている。息子を若くして亡くし、妻をちょうど五年前の同じ日に亡くした。
彼が最初に話すのは、かつてセビロ・ソンと呼ばれた男のことだ。セビロは日本語の「背広」から韓国語に入った言葉で、彼は背広しか着なかった。年金をたっぷりもらい、いつもソヨンに気前よく接してくれた客である。いまは脳卒中で倒れて病院のベッドにいて、付き添いの人がいなければ何もできない。息子の家族は見舞いに来るが、義務を果たしに来る人の来方をする。こんなのは生きているとは言えない、と彼は言い、死ぬのを手伝ってほしいと頼む。ソヨンは手を貸す。
ふたり目は、ジェウの友人のチョンスだ。小さな部屋がひしめく界隈の、ひと部屋きりの住まいにひとりで暮らし、記憶を日ごとに失っている。家族はいない。彼の頼みを持ってくるのはジェウで、それを確かめるのはチョンス本人である。ソヨンは彼にも手を貸す。
それから、ジェウが自分のために頼む。彼が望むのは、ほかのふたりとは少し違う。ひとりで死にたくない、というのだ。彼はソヨンを食事に連れていき、ソウルを見下ろすホテルの一室へ連れていく。そしてそこで、ソヨンがそばにいるなかで、自ら命を絶つ。朝になって、ソヨンは彼の亡骸に泣く。彼は彼女にお金を残していた。
ソヨンはその大半を、ソウルの真ん中にある大きな寺、曹渓寺に納め、ほんの少しだけを一日のために使う。ティナとドフンとミノを連れて、北の境界に近い臨津閣のあたりまで出かけ、おいしいものをごちそうするのだ。その場所でティナは、三十八度線を越えて北から逃れてきた人たちを昔さげすんで呼んだ言葉を使って、ソヨンもそうだったのかとたずねる。ソヨンは、その言葉を聞くのはずいぶん久しぶりだ、と答える。
これらの死がどのように起きたのかは、ここには書かない。この文章が気にかけるのは、そして映画がずっと目を離さずにいるのは、その部屋に誰がいたか、である。
なぜ、彼女でなければならなかったのか
この男たちが、ほかに誰に頼めただろうかと考えてみる。ソンには息子がいるが、その家族は来ては帰っていく。チョンスには誰もいない。ジェウは息子と妻を見送った。そして彼らが口にしたいことは、イ・ジェヨン監督がベルリンでバラエティに語ったとおり、韓国の人たちがあまり語りたがらない問題である。彼らの立場の男がそれを子どもに言えば、口論になるか、子どもへの判決になる。医者に言えば、最後にソヨンが逮捕されるのとまったく同じ危険を、医者に負わせることになる。
だから頼みは、彼らの人生のなかで、すでに世間体の外側に立っている、ただひとりの人のところへ行く。ほかの誰も知らないやり方で彼らを知っている人。いちばん弱く、いちばん滑稽で、男が何者かのふりをいちばんしにくいときの彼らを知っていて、一度も目をそらさなかった人のところへ。彼女が何年ものあいだ彼らに売ってきたのは、男がいちばんむき出しになる場面で、その場にいることだった。最後に彼らが頼むのは、同じことを、別の場面でしてほしいということだ。
この図書室は「よく知る人が聞かなくなったことを、境界のある他人には話せることがある。」という文章で、これに近いことを論じた。親しい人は過去の記録を持っている。取り決めた範囲のなかで会う人には、家族には聞けないことが聞けることがある。そこで口にしたことが、人生全体への投票にならないからだ、と。ソヨンはこの男たちにとって他人ではない。けれど、その記録の外にいる。彼らがどんな父親で、どんな夫で、どんな稼ぎ手だったかに、彼女は何の利害ももたない。彼女が知っている彼らの一面は、家族には決して見せなかった一面である。
そしてここで、この映画は、この図書室が「お金が介在すると、親密さは「偽物」になるのか。」で立てた問いと出会う。あの文章は、本物という言葉がひとりで背負わされがちなふたつのものを分けた。ひとつは継続性。続くかどうか、相手の人生のなかに自分の位置があるかどうか。もうひとつは、その場に本当にいたかどうか。有償の時間には、継続性がなくても、その場にいることは宿りうる。続かないことと、起きていないことは別のことだ、と。『バッカス・レディ』は、この議論にありうるかぎりいちばん厳しい試験を課す。最後に行きついたとき、男たちは、自分と継続性をもっていた人のほうへは向かわない。その場にいた人のほうへ向かう。ベンチの上で、あの部屋で、ふたりのあいだに何が行き来したのであれ、それはこれを託せるくらいには本物だった。
けれど映画は、そこで証明を終えない。映画のかわりにそこで止まるのは、不誠実だろう。映画はさらに、その取り決めが彼女に何を残したのかを問う。それはあの区別のもう半分で、今度は彼女に向かって裏返される。彼女は男たちのそばにいた。けれど誰も、彼女に継続性を負ってはいなかった。男たちが去ったあと、彼らとのあいだにあったものは、誰に対しても、彼女に何の権利も残さなかった。
頼まれるということ
彼女を読み解く前に、まず彼女の理由を。なぜ彼女は引き受けるのか。映画はひとつではない理由を差し出し、順位はつけない。まず、憐れみ。ソンはいつも彼女に親切だった。そしていま、身の回りのことが何ひとつできない。次に、連帯のようなもの。彼女はこの男たちと同じくらい年老いて、同じくらい貧しい。間借りの部屋にひとりで暮らす女にとって、ひとりで死ぬことは抽象ではない。それから、おそらく罪の意識。監督の語るところでは、ソヨンは息子を守れなかった罪悪感を一生抱えて生きている。そして、彼女自身は名前をつけないかもしれないもの。はじめて、体ではなく判断を求められる、ということ。
その最後のものは、見かけより大きいかもしれない。映画の断片からつなぎ合わせる彼女の人生は、ほかの人が彼女につけた呼び名の連なりだった。男たちの頼みは、映画のなかで誰かが彼女に求めたことのうち、彼女を、命を託せる人間として前提にした、はじめてのものだ。恐ろしいかたちの承認である。それでも承認にはちがいない。彼女がそこに何も感じていないと考えるのは、見下しだろう。
けれど映画は、それだけで話を終わらせない。公開のとき、監督は京郷新聞の取材に、ソヨンを、死を頼む無責任な男たちの後始末をしてやる強い女だと語った。ジェウを演じたチョン・ムソンは、脚本を読んですぐ、この女は天使だね、と言ったという。ふたつの言い方は正反対の方向に引っぱりあっていて、映画はそのどちらよりもおもしろい。彼女は天使ではない。けれど、ただの道具でもない。男たちが負わない圧力のもとで、難しい決断をしている女だ。男のお金、男の感謝、自分の貧しさ、そして全員の孤独を、一度に抱えたままで。
ソ・ゴクスクは、その難しさを正確に言いあてている。なぜ老人たちの苦しみを、ソヨンというひとりの個人が引き受けなければならないのか。なぜ社会の責任が、個人に押しつけられるのか。ソ・ゴクスクの読みでは、死の手助けは仕事の延長線上にある。どちらでもソヨンは他人の求めにひたすら応え、それが彼女を破滅させる。男たちは彼女に感謝する。ジェウは、あなたがしてくれたいいことは忘れない、と言う。その感謝と、そのお金が、彼女を独房へ送るものの一部になる。
この男たちへの彼女の承諾は、彼女のものだ。映画はそれを、ただ彼女の身に起きることとしてではなく、ひとつの決断として扱っている。けれど、これだけの重さの下でなされた承諾は、自由になされた承諾と同じではない。そして、もう失うもののない男たちは、その危険を何ひとつ負わない。負うのは、すべて彼女である。
結末について
ここからが結末である。
防犯カメラが、ホテルを出る彼女の姿をとらえていて、警察がやって来る。彼女は弁明しない。パトカーのなかで煙草を吸いながら、乾いた落ち着きで、刑務所に行くのは春になってからにしてもらえないか、寒がりなので、と言う。逃げたりはしない、と彼女は言う。どうせ老人ホームに入るお金もないし、刑務所なら少なくとも三度の食事は出る。
ミノの母親はまもなく釈放され、ミノは母親とフィリピンへ帰ることになる。ミノのまわりに集まった家族のようなものは、どこにも認められたことがなかった。彼が帰ってしまえば、それはもう何でもなくなる。
ソヨンは刑務所のなかで、ひとりで死ぬ。遺品の箱には、家族も友人もいないと記されている。
ニュースの男について、彼女が言ったことを思い出してほしい。みんな上っ面を見て騒ぐだけで、中身は誰にもわからない。彼女の最後の夜の上っ面は、カメラの映像と、死んだ男と、ホテルの部屋と、お金だ。それが警察に読める物語であり、彼女は別の物語を差し出そうとしない。言っても無駄だと思ったのかもしれない。本当のことを話せば男たちのことを話さなければならず、男たちのことは、黙っていてやるべきことだったのかもしれない。あるいは彼女が言ったとおり、刑務所のほうが、ほかのどの行き先より暖かかったのかもしれない。映画はそのどれかを選ばない。読む側も、選ばなくていい。
映画は、ずっと積み上げてきた問いを差し出す。彼女が人にしてきたことを、誰が彼女にしてくれるのか。映画のなかで、それをする人はいない。映画が言っているのは、誰にもできなかったということではない。彼女のまわりの何ひとつとして、誰かがそうするようには整えられていなかった、ということだ。
この国がまだ清算しきれていない歴史
ベルリンでバラエティの取材に応じたイ・ジェヨン監督は、彼女を取り巻く国について率直だった。五十年前、韓国は世界でもっとも貧しい国のひとつだった。それがあまりに速く豊かになったので、もう後ろを振り返ることもできない。子が親を養う伝統的な仕組みは、ほとんど完全に消えた。多くの高齢者がひどく貧しい、と。
貧しさについては、経済協力開発機構(OECD)の測り方で見ても、数字がそれを裏づけている。OECDが二〇二五年に公表した年金の報告書によれば、二〇二二年の韓国では、六十六歳以上の人の三九・七パーセントは、世帯の人数で調整した可処分所得が、国全体の中央値の半分に届いていなかった。二〇一一年と比べれば、八ポイントほど下がってはいる。同じ報告は、高齢の女性のほうが高齢の男性より貧困に陥りやすく、両者の貧困率の差が二〇一一年より開いたことも示している。映画自身も、この事実をかたちを変えて口にしている。ここにこの数字を置く理由はひとつしかない。韓国をどこかの国と比べるためではない。ソヨンが筋書きの都合で生まれた例外ではない、と言うためである。
彼女自身の過去は、断片として届く。残りは、公開のときに監督が語った。監督は彼女の誕生を、朝鮮戦争が始まる直前の一九五〇年六月に設定している。戦争で孤児になり、住み込みの家政婦として働き、そして米軍基地のそばの基地村で、ある米兵と暮らして息子を産み、別れたときに息子を養子に出した。映画のなかで、その基地村には名前がある。ソウルの北、東豆川(トンドゥチョン)。あのころの仲間だった女性が、いまは家族をもって、ソヨンの前に現れもする。
崔盛旭は、彼女の来歴がまるごと四つの言葉で届くことに気づいている。三十八度線を越えて南へ逃れてきた人をさげすむ古い呼び名。他人の家に住み込んで働く少女のことを指す言葉。工場。そして東豆川。どれも、世界が彼女につけた名前だ。映画はそっと、彼女の本名がミスクであることを明かす。ソヨンは、仕事のときの名前である。崔盛旭は、ミスクがミスクであったことは一度もなかった、と書いている。
それは、個人の不運だけの話ではなかった。韓国政府は米兵のための売春を容認し、管理していた、あれは公娼のようなものだった、と監督は二〇一六年にバラエティに語っている。その六年後の二〇二二年九月、韓国の大法院は、国が米軍基地の周りに基地村をつくり、管理し、運営し、そこでの売春を正当化して助長したことは違法だったとする判決を確定させ、そこで働いていた女性九十五人への賠償を認めた。判決を報じたソウル新聞によれば、役人たちはかつて彼女たちに英会話を教え、彼女たちを愛国者と呼び、老後の保障まで約束していたという。
老後の保障。この映画の女性は、公園のベンチで年をとり、刑務所で死ぬ。彼女は虚構の人物であり、この文章は彼女を、実際に裁判を起こした女性たちの代わりにするつもりはない。けれど彼女の人生には誕生日があり、こういう映画では、日付は偶然ではない。
日本から、そしてもう少し遠くから
この映画は、ひっそりと日本に来た。二〇一七年夏の韓国映画の映画祭での上映、それからディスクでの発売。邦題は飲みものの名前だけを残し、原題の洒落は消えた。日本語でこの映画をもっとも丁寧に読んだのは、崔盛旭かもしれない。日本の女性読者に向けて書いた彼は、バッカスを、誰でもすぐに思い浮かぶ小瓶の栄養ドリンクのたぐいとして説明し、彼女の最期にたどりつくと、ひとつの日本語を選んだ。無縁仏、である。
この映画を見つけた日本の観客は、ふたとおりの書き方をしている。分けて考える価値がある。韓国の暗部をのぞく窓として受けとった人がいる。一方で、これは韓国だけの問題ではない、日本でも刑務所で人生の終わりを迎えようとしている人がいる、と書いた人もいる。最初の受けとめ方には、穏やかに首を振りたい。ひとりの女性についての映画は国民性の証拠ではないし、さきほどの数字は順位表ではない。二つめの受けとめ方はもっと近い。けれど、それもまた比較であり、映画の問いは比較を必要としない。問いはひとりで海を渡ってくる。
渡ってくるのは、公園ではない。あの箱である。四十代、五十代の女性にとって、最期に誰がそばにいるのかという問いは、すでにふたつのかたちのどちらかで届いているかもしれない。ひとつは電話として。病院から電話がかかってきて、頼まれるのが家族のなかで自分だというとき。もうひとつは紙として。入院の申込書や、部屋を借りるときの書類にある緊急連絡先の欄と、名前を書く前のほんの一瞬のためらい。ソヨンの箱は、その欄を誰も埋めなかった用紙である。
家族が外国にいて、ひとりで日本に暮らす女性にとって、そのためらいはもっと長い。欄が求めているのは近くにいる人で、近くにいる人こそ、彼女にないものだからだ。この図書室は「まわりに人がいることと、頼れる人がいることは違う」で、大きな人づきあいの網にも、ちょうど必要な場所に穴があいていることがある、と論じた。この映画は、その穴を自分の網の真ん中に抱えた女性が、晩年を、ほかの人たちの同じ穴を埋めることに費やした話である。
この図書室が読んできた映画のなかに、この映画の隣に置きたい一本がある。『グッド・ラック・トゥ・ユー、レオ・グランデ』(二〇二二年)では、夫を亡くした元教師の女性が、ホテルの一室と若い男性を予約し、これまでしたことのないことを書いたリストを持ってくる。二本を並べてみる。あちらでは、年上の女性はお金を払う側で、部屋は清潔で、映画は彼女が望むことへの許可についての物語だ。こちらでは、年上の女性はお金を払われる側で、場所は公園のベンチで、映画のなかの誰ひとり、彼女が何を望んでいるのかをたずねない。どちらの映画も、この仕事を仕事として真剣に扱う。二本を分けるのはお金であり、老いのなかで、望みを数に入れてもらえるのは誰なのか、ということだ。
この読みに対する反論
ここから、反論をできるかぎり強いかたちで並べる。取り上げるのは四つで、はじめのふたつは、この読みそのものを崩しかねない。
一つめは崔盛旭から来る。それは、この文章がいちばん寄りかかってきた言葉、つまり信頼に切りこむ。四つの言葉の奥の人生をたどったあとで、崔盛旭は、彼女のやさしさの下に別のものがあったのではないかと考える。祖国の歴史の曲がり角ごとに犠牲を強いられてきた女性の目には、体が動かなくなったから、物忘れがひどくなったから、妻に先立たれて寂しいから死にたいという男たちの願いは、「贅沢な甘え」としか映らなかったのではないか。彼女の承諾には、一生彼女を踏みにじってきた男たちと男中心の社会への、彼女なりの復讐がまじっていたのではないか。彼はそれを結論ではなく疑いとして差し出していて、それは真剣な疑いである。映画は彼女に涙を与えるが、涙はそれを決着させない。人は、自分のどこかで望んでもいたことのために泣くこともできる。言えるのは、映画がどちらも選ばないということだ。天使か、復讐者か。映画のかわりに選んでしまう読みは、彼女を実際より単純にしている。
二つめは、ソ・ゴクスクの指摘を映画そのものに向ける。社会の重荷が貧しい老女ひとりに押しつけられることが悲劇なのだとしたら、映画もまた、描いていることを自分でしているのかもしれない。年金の仕組み、基地村の歴史、移民の子ども、社会に居場所のないふたりの隣人、そして三つの死を、ひとりの架空の女性に背負わせているのだから。批評家たちも、それぞれの言葉で同じことを言った。英語の映画批評サイトのひとつは、物語が多すぎてどれにも十分な場所がないと書いた。別の評者は、安楽死の問いに触れながら少しも深く掘り下げないのがもどかしいと書いた。韓国の雑誌「アーツ・アンド・カルチャー」の評者は、男たちが自分の死に彼女を同行させたとき何を考えていたのか、彼女の内側で何が起きていたのかを、もっと緻密に描いてほしかったと書いている。そして京郷新聞によれば、監督は脚本を書く前に、公園で働く女性たちに会ったり、その暮らしを直接取材したりはしなかったという。いくつかの記事と時事ドキュメンタリーと、想像力から書いた。映画が彼女について知っていることは、また聞きである。この文章が知っていることは、そのさらに先のまた聞きだ。
映画のなかには、この問題そのものの姿をした人物さえいる。彼女のような女性たちの記録映画を撮ろうと、カメラを持った青年が彼女につきまとう。彼女はおばあさんと呼ぶなと言い、住み込みの仕事のことや工場のことを、しぶしぶ少しだけ話す。この文章もまた、彼女の人生に問いを抱えてやって来た、もうひとりのよそ者である。せめて、彼女が書かれることを望んだわけではない、ということくらいは心にとめておきたい。
三つめは、体を売る女性を描く映画のいちばん古い罠だ。じつは誰よりも清らかな心の持ち主だった、という発見。この映画の淡々とした語り口はそれに抗っていて、バラエティの評者も、結末はわざとらしく明るくもなく、悲劇を売り物にしてもいないと書いた。けれど、ソヨンを映画の道徳的な中心に据える読みは、この文章も含めて、お金を受けとっていたからこそ彼女を聖女にしてしまう危険を抱えている。それは、向きを変えただけの軽蔑である。
最後の反論は、この図書室自身に向けられる。この家は私的な同伴を売っている。だから、お金を払って会っていた相手が、三人の男にとって最後にそばにいる人になる映画は、この家にとって中立の場所ではない。彼女が男たちに与えたものは本物だった、というこの文章の読みは、この家のような場所がいかにも見つけたがる読みである。その分を差し引いて読んでほしい。ここで言うのはふたつだけだ。映画は、この家も含めて、どんな商いの肩ももたない。最後に男たちに必要だったのは、足りるだけのお金と、世話を受けられる場所と、死という言葉を口にしても口論にも危険にもならない相手であり、そのどれも、どこでも売られてはいない。そして、彼女が人にしてきたことを誰が彼女にしてくれるのか、という映画の最後の問いは、売り物で答えられる問いではない。
この図書室が受けとるもの
老いの孤独への答えは、お金を払って誰かと過ごす時間だ、ということではない。映画は、映画にできるかぎりはっきりと、その逆を言っている。最後に男たちに必要だったのは、ソヨンとのもう一時間ではなかった。その一時間が最後の頼みの綱にならずにすむための、すべてだった。
この図書室が受けとるのは、もっと狭く、もっと難しいことだ。有償の取り決めのなかでも、その場にいることは本物でありうる。男たちの信頼がその証拠であり、それを否定するのはソヨンに対するささやかな残酷さだろう。けれど、継続性をともなわずにその場にいることは、それを与えた人に、自分の番が来たとき、誰からも何も負われていない状態を残す。彼女は三つの死に立ち会った。彼女の死には、誰も立ち会わなかった。
人が頼まれる人になるのには、ちゃんとした理由がある。必要とされることは、ひとつの居場所であり、ときにはそれしか差し出されていない居場所だ。断ることには、たいてい、引き受けること以上の代償がかかる。そして頼りにされることは、これまでほとんど立場を与えられてこなかった人に残された、最後の立場であることがある。どれも愚かなことではない。人はそうやって、世界のなかに自分の場所を保っている。
だから一度だけ、あなたに向けて書く。もしあなたが頼まれる側の人なら。病院がまず電話をかけてくる娘だったり、夜中の十二時を過ぎて電話を受ける友人だったり、ほかの誰にも持っていけない話をみんなが持ってくる職場の人だったりするなら。頼まれることは信頼のひとつのかたちであり、あなたがそれを信頼として感じるのは正しい。それは同時に、重さの受け渡しでもある。そのことに気づいてもいい。どちらに気づいても、あなたが身勝手になるわけではない。そして、映画があまりに遅く発した問いを、静かに、早めに自分に向けてみることは、不平ではない。私のときには、誰が来てくれるだろう。
これは一本の映画についての読みである。自殺幇助に賛成も反対もしておらず、ここにあるどの言葉も、死について、あるいは誰かの介護についての助言ではない。虚構の人物も実在の人物も、誰も診断していない。数字は名前を挙げた出典が報告しているものであり、国々を順位づけるものではない。これらの死について読むうちに、自分自身の死についての思いが望まないほど近づいてきたなら、それは映画についての文章にではなく、それを聴く訓練を受けた人に話すべきことだ。厚生労働省は電話相談の窓口を紹介しており、そのなかには、いのちの電話や、無料で二十四時間つながり、外国語での相談にも対応するよりそいホットラインがある。電話をかけることは、大げさなことではない。一本の電話である。
持ち帰るための問い
家族の外にいる人にしか頼めないことが、あなたにはあるだろうか。それは誰で、その人にとって、頼まれるとはどういうことだろう。
あなたは頼まれる側の人だろうか。それはあなたに何をくれて、何を奪っているだろう。そして、奪われているほうのことを、誰か知っているだろうか。
今夜どこかの書類が緊急連絡先をたずねてきたら、誰の名前を書くだろう。その人は、自分がそこに書かれていることを知っているだろうか。
あなたの未来に何の権利も主張せずに、あなたのそばにまるごといてくれた人はいただろうか。あなたはその人に何を負っていて、その人はあなたに何を負っているだろう。
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読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。