Cinema
『問題のあるレストラン』と、「問題」にされた人たち
幹部たちの前で社長が女性社員に性加害をした会社の真向かいで、職場からはじき出された人たちが屋上のビストロを開く。異を唱えた人を「問題」にして害を黙らせる仕組みを描いたこのドラマは、十話をかけてその言葉を本来の場所へ戻し、最後には正直に、屋上にもその言葉を落としてみせる。
『問題のあるレストラン』の第一話は、パトカーの後部座席から始まる。季節は冬で、表参道にはクリスマスの明かりがきらめいている。その下を運ばれていく、手錠をかけられた女が田中たま子だ。画面には、たま子自身の声が重なる。いい仕事がしたい。胸が高鳴って、息をするのも忘れるような、そんな仕事がしたかったのだ、と。そこまで語らせておきながら、ドラマは彼女を車に残したまま、ある屋上へ上がっていく。
表参道の裏通りに建つ古い雑居ビルの屋上には、がらくたが散らばっている。そこへ荷物を抱えた人たちがひとり、またひとりと現れ、互いを値踏みする。離婚調停のさなかにいて、一度も外で働いたことのない専業主婦。東大を出たのに就職先が決まらない、全身黒ずくめの誇り高い若い女性。職を転々としてきた四十代の女性。パリで修業を積みながら、しぐさや服装のせいで厨房を次々に追われてきたパティシエ。見知らぬ人とはスマホ越しにしか話さない、パーカー姿の若い料理人。全員を呼んだのはたま子なのに、たま子は来ない。待つあいだに、それぞれがたま子との間柄を語り、彼女が遅れている理由が少しずつ見えてくる。勤めていた会社で、親友にひどい仕打ちをした男たちに氷水を浴びせ、警察沙汰になったのだ。
ようやく現れたたま子は、寒空の下のテーブルにクロスを広げ、親友から託されたレシピのポトフをふるまって、ここで一緒に店をやらないかと切り出す。この屋上で。古巣の会社がまもなく開く、きらびやかなビストロの真向かいで。
題名の「問題のあるレストラン」とは、この屋上の店のことだ。そして店は、その名に恥じない。屋根がないので、雨の日は営業できない。掲げた旗には、フランス語で「火」を意味する言葉を書くはずが、一字違いで「ばか」を意味する言葉が書かれていて、向かいの店のシェフはそれを見上げて鼻で笑う。はじめて黒字になった夜の儲けは、百十円である。放送前の番組紹介は、この店には問題を抱えた女性ばかりが集まってしまったので、問題が次々に起きるのだと説明していた。
この文章は、このドラマを、「問題」という言葉がどこに着地するのかをめぐる、長い議論として読む。通りの向かいの会社では、人を辱めることが日常の業務になっていて、その業務はとどこおりなく回っている。異を唱える人、笑って受け流せない人、ただ型にはまらない人が「問題」にされ、害をなした仕組みのほうは傷ひとつ負わずに続いていくからだ。屋上は、「問題」にされた人たちが流れ着く場所である。十話をかけて、ドラマはこの言葉を、ひとりずつ、本来あるべき場所へ戻していく。そして最後の最後に、正直に、少し痛みをともなって、同じ言葉を屋上にも落としてみせる。
屋上の人たちが、付き合いやすい人たちだというわけではない。実際そうではないし、ドラマもそんなふりはしない。言いたいのはこういうことだ。彼らが抱えているいちばん重い問題は、通りの向かいのある部屋で手渡されたものであり、手渡した人たちは翌朝、何事もなかったように出勤していった。
このドラマについて、そしてこの文章の扱い方
事実を一度だけ確かめておく。『問題のあるレストラン』は坂元裕二の脚本によるオリジナルの連続ドラマで、フジテレビの木曜劇場の枠で、二〇一五年一月十五日から三月十九日まで、全十話が放送された。演出は並木道子と加藤裕将、プロデュースは清水一幸。坂元と並木は、その二年前に同じ枠で『最高の離婚』を手がけている。たま子を演じるのは真木よう子。まわりを固めるのは、黒ずくめの結実に二階堂ふみ、パーカーの千佳に松岡茉優、専業主婦の鏡子に臼田あさ美、パティシエのハイジに安田顕、まだ会社に残っている藍里に高畑充希、向かいの店のシェフでたま子の元恋人の門司に東出昌大、その見習いの星野に菅田将暉、そして社長の雨木太郎に杉本哲太である。
視聴率はビデオリサーチ調べの関東地区世帯平均で九・三パーセントと、目立つ数字ではなかった。それでも評価は年を追うごとに高まっている。その期のザテレビジョンドラマアカデミー賞では高畑充希が助演女優賞を受け、松岡茉優が僅差の二位につけた。放送批評懇談会が贈る第五十二回ギャラクシー賞では、テレビ部門の奨励賞を受けている。放送から十年がたって無料で配信されたとき、終盤の回を紹介したテレビ誌の記事は、この十年で世の中は良くなっただろうか、と問いかけていた。
この文章は、結末を含めて全話に触れる。五月の身に起きたことは一度だけはっきりと書き、そのあと描写を繰り返すことはしない。台詞は引用せず、言い換えて紹介する。
通りの向かいの部屋
たま子の親友の名は藤村五月という。高校時代からの友だちで、ふたりは同じ会社、大手飲食会社のライクダイニングサービスで働いている。社長の雨木太郎は、雑誌やテレビにたびたび取り上げられるカリスマ経営者だ。第一話の公式のあらすじは、この会社を少しも飾らずに書いている。極端なほど男性偏重で、手柄はすべて男たちのもの。そのうえセクハラやパワハラが日常的に横行している、と。
五月は子会社に異動させられていた。その子会社で食中毒の問題が起きると、会社は責任のすべてを五月ひとりに押しつける。そして社長は、幹部社員たちの前で、服を脱いで謝罪するよう五月に命じる。五月は従う。職場で、公然と、同僚たちの目の前で行われた性加害である。
場面そのものについて、この文章が書くのはここまでだ。このあとのすべてにとって大事なのは、その形のほうだからである。五月への仕打ちは、陰で行われたのではない。会議の場で、いちばん上に立つ男によって、会社を動かす立場の人たちの前で行われ、部屋にいた誰ひとり止めなかった。放送局自身の各話のあらすじでさえ、これを何と呼ぶかが定まらない。ある回はセクハラと書き、のちの回はパワハラと書く。どちらの言葉にも収まりきらないかのように。いちばん正確なのは、先に書いた、飾らない呼び方のほうである。
こういうとき、人がまず口にしがちなのは、なぜ五月は従ったのか、という問いだ。けれど、それは間違った問いである。命令に従うことは、同意することではない。五月は、自分のものではない不祥事を背負わされ、自分の処遇を決める男たちの前に立たされていた。人を辱めることが日常の業務になっている会社で。あの部屋で彼女が何をしたにせよ、それはその条件のもとでのことであり、この物語が描いているのは、その条件のほうである。この図書室は「『The Souvenir』と、彼女に向けてはならない問い」という文章で、あとになって女性に向けられる、なぜ気づかなかったのか、という問いは、その組み立てからして誤っている、と論じた。それは物語の終わりの側から発せられる問いであり、たいていは問う側を安心させるだけだ、と。問うべきは、なぜ彼女が従ったのかではない。なぜ大人たちがそろってあの部屋に座り、黙って見ていたのか、である。
五月は会社を辞めて福井の実家に帰り、その前に、ビストロのシェフだった亡き父のレシピをたま子に託していく。のちにドラマが五月の母を映すとき、母がこの出来事から引き出した教訓は、あの会社が危険だったということではない。女は外で働くべきではない、早く結婚して家庭に入りなさい、ということだった。職場で起きた害は、職場にとどまらない。そのまわりの人生まで、狭めていく。
たま子の答えが、あの氷水である。この文章はそれをやり方として勧めはしないし、ドラマもほとんど勧めてはいない。氷水は彼女をパトカーに乗せ、一日で仕事人生を終わらせた。氷水が示しているのは、もっと単純なことだ。あの部屋で起きたことを知っていた人たちのなかで、そこに座りつづけることを拒んだのが、たま子だった。
傘を持っていった人たち
坂元裕二は、このことのために、たま子にひとつのたとえ話を用意している。第六話で、たま子が向かいの店のシェフ、門司に語る話だ。雨の日、傘立てに、見分けのつかないビニール傘が何本も差してある。最初に店を出る人は傘泥棒で、自分のものではない傘を持っていく。次の人は、どれも同じに見えるから、気づかずに誰かの傘をさして帰る。その次の人も、そのまた次の人も。最後の人は傘を持ってきたのに一本も残っておらず、濡れて帰るしかない。途中の人たちに盗むつもりはなかったし、謝れとも言いにくい。それでも、盗みには加わっている。そして、誰かが濡れたのだ。
門司は、腕は一流だが、料理のこと以外にはほとんど関心がない。見習いの星野が先輩たちに陰で殴られていても、同僚の藍里がつきまといの被害にあっていても、自分には関係ない。どの部屋でも返ってくる答えだ。
このたとえ話は、通りの向かいの部屋がどう動いているかについて、ドラマが差し出すいちばんの説明になっている。命じたのは、ひとりの男だった。ほかの人たちは、傘を持っていった。幹部たちは見ていた。たま子の直属の上司だった事業部長の土田は、どんな訴えも大げさだと冷笑する。誰ひとり、会議室で命令を下したわけではない。けれど誰もが、その命令を下しやすくし、次の命令をさらに下しやすくした。
なぜこれほど多くの人が座ったままでいるのか、正確に言っておきたい。賛成しているから、ということはめったにない。ああいう部屋では、座っていることがいちばん安上がりなのだ。今日のところは何も失わずにすむ。立ち上がれば、仕事も、昇進も、同僚たちのなかの居場所も失うかもしれない。このドラマの怒りは、そこにこそ向けられるべきだ。沈黙がいつもいちばん安くつく仕組みと、全員の沈黙の請求書が、濡れて帰ったひとりのもとに届く仕組みに。
ドラマは、傘を持っていった人のひとりに、めずらしく公平な目を向けている。土田もまた、家族の前で社長に辱められ、新店舗の担当を外される。五月のために証人になってほしいとたま子に頼まれると、土田は断り、もし自分の娘が同じことをされたら社長を殺す、とだけ言う。傍観者について、このドラマが口にするもっとも正確なことだろう。わが子に置き換えれば不正がはっきり見える男が、それでも、それをされた当の女性のためには立ち上がらない。そしてこの件が世間に届くとき、それは土田を通じて届くことになる。
向かいの店でも、彼女のレシピが使われていた
第三話に、見落としやすいけれど多くを語る細部がある。通りの向かいの、会社の新しいビストロは、たま子の屋上の店と同じフォンを、同じレシピでとっていた。五月のレシピである。その厨房をまかされている門司は、そもそもたま子の同級生がつくったフォンなど使いたくなかったのだ、とたま子に言い放つ。五月を辱め、追い出した会社は、彼女のレシピだけは手もとに残していた。
それが、資産と贈り物の違いだ。旗艦店にとって、五月の仕事は、本人を追い払ったあとも会社が持っていられるものだった。屋上では、同じレシピが友だちからの贈り物として届き、それでつくったポトフが最初の夜、寒空の下で、ここにいてほしいと頼むために出される。第五話で社長本人が屋上に現れ、五月をおとしめるようなことを口にし、たま子に愛人にならないかと持ちかけたとき、たま子は、五月の無念を晴らすためにこの店を始めたのだと告げて、彼を追い返す。一本の通りをはさんで向かい合うふたつの店が、どちらも、片方が追い出した女性のノートから料理をつくっている。
たま子がどんな人なのかも、大事なところだ。公式の紹介は、たま子を、真面目で働くことが大好きな女性と書いている。生まれつきの反逆児ではない。仕事のできる人でありたかっただけで、仕事ができるためには、自分や隣の席の人にされることを我慢しなければならない会社にいた。このドラマが怒っている害は、尊厳にだけ向けられたものではない。仕事を好きでいる気持ちそのものに向けられている。あの会議室の日まで、その気持ちこそが、たま子と五月をいちばん強く結びつけていたものだった。
屋上の店の欠点を誰かに指摘されるたび、たま子はあっけらかんと言う。短所というのは、魅力の別の名前なのだ、と。冗談のようでいて、それはこのドラマの静かな方針でもある。よそで「問題」とされたものが、屋上では、同時に持っていたもうひとつの顔を見せることを許される。人に見られることに耐えられないけれど、どんな料理でも形にできる料理人。面接官をことごとく怒らせるけれど、誰かが鉛筆を探すより早く、頭のなかで原価を弾き出してしまう東大卒。東京のどの厨房にも置いてもらえないけれど、パリで腕を磨いたパティシエ。
免許証でふくらんだ財布
川奈藍里は、多くの視聴者がいちばん好きになれなかった人物であり、同時に、ドラマがいちばん信頼している人物でもある。まだ会社に残っている藍里は、愛らしくふるまうことでそこを生き延びてきた。上司に、その服は男受けが悪いと言われれば、すみません、気をつけます、と笑って返す。女の価値は付き合う男で決まると信じていて、セクハラやパワハラに耐えるのは女の役目なのだと、たま子に向かって言い切る。ドラマの前半の藍里は恋敵であり、はっきり言えば面倒な人だ。
やがて、同僚の池辺が、藍里と自分は付き合っているのだと思い込む。藍里にそんなことに同意した覚えはない。池辺はつきまとい、家にまで押しかけてきて、藍里は怖くて家に帰れなくなる。そのとき手を差しのべるのは、たま子だ。バレンタインの夜、池辺は電飾で飾りつけた公園に藍里を呼び出し、思いを告げる。藍里はとうとう、気持ち悪いからやめてください、と口にする。池辺は拳で藍里を殴る。会社はこれをもみ消し、池辺は九州へ飛ばされる。藍里は会社を辞めて屋上の店に転がりこみ、生き延びるために使ってきた愛想のよさが、客の前では本物の才能だったことがわかる。
はっきり言っておくべきことが、ふたつある。感じよくふるまうことは、同意ではない。働かせてもらう条件として職場が女性に求める笑顔を、あとから許しのしるしとして読むことはできない。自分たちは付き合っているという池辺の思い込みは、藍里の礼儀正しさ以外の、なにものからもできていなかった。もうひとつ。最後に藍里に暴力を招いたのは、彼女が決して口にしないよう自分を訓練してきた、まさにそのひとことだった。彼女が身につけた我慢はどれも、いやだと言わないかぎりでしか、彼女を守ってくれなかったのだ。
藍里のいちばんの場面は、彼女がふりをやめたときにやって来る。みんなの前で、藍里は自分の生き延び方を、自動車教習所でとる免許にたとえてみせる。服のことで男に文句を言われても、気をつけますと返せる教習所は卒業した。痩せろと言われても、やらせろと言われても、笑ってごまかせる教習所も出た。財布は免許証でぱんぱんだ、と。そしてそのたとえを、国民的な漫画のしずかちゃんに向ける。だめな男の子と、偉そうな男の子と、乱暴な男の子とばかり仲良くしていて、女の子の友だちがいないあの子も、きっと免許証をたくさん持っているのだ、と。この役で賞を受けた高畑充希は、のちに、この長い台詞の場面は演じていてとても苦しかったと語り、最後まで弱音を吐かない藍里の強さと意地は、もはやかっこいいくらいだったと振り返っている。
たま子は、助言をしない。あなたの体は、あなたが大事にするものだ、と藍里に言うだけだ。ほとんど何も言っていないに等しい。それでも、会社の誰ひとり、藍里に言ったことのない言葉だった。抵抗すべきだったとも、もっとうまく立ち回るべきだったとも言わない。奪われたものは、もともとあなたのものだった、と言うだけである。この図書室は、そういう訓練の代償について、『「愛される女」になろうとするほど、自分の欲しいものが見えなくなる。』という文章で書いた。場の空気を心地よく保つことにすべての反応を合わせていくと、何かを欲しがる自分の声は、やがて聞こえなくなる。藍里は、それが職場で起きたときの姿だ。そこでの愛想のよさは、愛されるための工夫ではなく、雇われつづけるための条件になっている。
いつも緑を選ぶしかなかったふたり
結実と藍里は、ドラマの前半、顔を合わせるたびにいがみ合う。そのふたりに、ドラマは同じ子ども時代を与えている。女の子たちが『美少女戦士セーラームーン』ごっこをすると、ピンクや赤の役はすぐに誰かに取られ、ふたりとも、いつも最後に残った緑の役にまわされた。結実はプライドと東大の学歴で身を固め、人の計画の甘いところをひとつ残らず指摘するようになり、藍里は、愛らしくなることを覚えた。どちらの道も、同じ場所に行き着いた。仕事を失い、屋上にいる。
結実のいちばんつらい夜は、好意を寄せた若い男からもたらされる。向かいの店の見習いの星野は、事業の相棒にならないかと結実を誘い、融資の相談に乗ってくれる人がいると言って、タワーマンションの一室に連れていく。そこにいたのは、水着やバニーガールの格好で、男たちをもてなすために待機している女性たちだった。星野は男から十万円ほどを受け取り、結実を置いて帰ってしまう。ドラマはそこがどういう場所かをはっきり示し、長居はしない。時間をかけるのは、そのあとのほうだ。ある日、たま子は通りでうろうろしている結実を見つけ、半ば強引に屋上へ引っぱっていく。仲間たちは結実をあたたかく迎え入れる。ここに、食卓とは何のためにあるのかという、このドラマの定義がある。自分にされたことを説明させられる前に、座らせてもらえる場所。
台所で育った人たち
このドラマの静かなほうの傷は、たいてい台所で起きている。そしてドラマは、会議室と同じ正確さでそれを描く。パーカーの千佳は、雨木社長の娘だ。両親が離婚したあと、母は七年間、自分の部屋に閉じこもった。幼い千佳は、母が食べてくれるように毎日料理をつくりつづけ、やがてその母は娘を置いて家を出た。再会した母が告げたのは、新しい家庭をつくるということだった。千佳は、よかったね、と精いっぱいの言葉を返し、自分の孤独がこれで完成したと友人にメールを打つ。たま子が思い描くどんな料理でも形にできるのに、自分が料理を好きなのかどうか、わからない。腕は本物だ。ただそれは、子どもが何かを覚えるいちばん悲しい理由、つまり、ほかの誰かに食べてもらうために身についたものだった。のちに母から、新しい恋人と暮らす北海道に来ないかと誘われても、千佳は店に残る。屋上は、千佳の料理が、また来てくれる人たちのためのものになった、最初の台所なのだ。
鏡子は、たま子の高校の剣道部時代からの親友で、結婚してからずっと専業主婦だった。夫は、自分の母親の介護を手伝いもせずに鏡子に任せきりにし、家事はでたらめだったと責め、いまは息子の親権を争おうとしている。鏡子はみんなの前で、自分を不良品だと言う。一度も働いたことがなく、料理もできないのだから、と。たま子は、誰が、どんな暮らしが、どんな言葉が、あなたにそう思わせたのかと問い、それは間違っている、と言う。夫に向かって鏡子が言うことは、夫ひとりに向けた言葉ではないのだろう。いい話は、ときどき人を殺す。夫を支えることに一生を捧げた妻の話は、自分にとっては呪いでしかなかった、と。
屋上で、鏡子は料理がうまいことがわかり、スーシェフをまかされる。バレンタインの夜、向かいのビストロが小さな子ども連れの親たちを断ると、屋上で子どもたちを預かって、夫婦で食事を楽しんでもらおうと言い出したのは鏡子だった。その夜、店ははじめて黒字を出す。百十円である。その黒字が拠って立つのは、子どもの世話をし、人に食べさせるという、鏡子が何年も値打ちがないと言われつづけてきた腕だった。屋上は、家では彼女の欠点に数えられてきたのと同じ力で、最初の黒字を出したのだ。
ハイジは、日本に戻ってから、しぐさや服装のせいで、どの職場にもいられなくなってきた。親戚からも疎まれている。放送局の公式の紹介は、ハイジをゲイと書いている。けれどドラマは、それを何という言葉で呼ぶのかをハイジ自身に一度も言わせず、ハイジのことはハイジに語らせる。この文章も、ドラマにならう。弟の結婚が決まったとき、ハイジは親戚の目を思って欠席の返事を出す。ハイジにどうしても来てほしい弟は、式に出ないのなら二次会を屋上の店でやると言い、ハイジは弟のためにウエディングケーキをつくる。どの回とも同じ形だ。ある部屋から押し出された人と、その人のためにつくられる、もうひとつの部屋。
男たちもまた、傷つけられている。大事なのは、仕組みが彼らにその傷をどう扱わせるかだ。見習いの星野は、人目のないところで先輩たちに殴られ、罵られている。その星野が結実にしたのは、彼女の信頼を十万円で売ることだった。のちに彼は結実に面と向かって謝り、旗艦店を辞めるが、そのころには結実の気持ちはもう冷めている。家族の前で社長に辱められた土田は、その屈辱を週刊誌への漏洩へと変える。ドラマはふたりの男を、最悪の行いだけの人間にはしない。けれど、どちらの行いも免罪しない。
噂として届いた正義
五月は第八話で東京に戻ってくる。福井で知り合った高村新という恋人と一緒だ。東京の旅行代理店に勤める新は、北陸新幹線の開業に合わせたツアーの下見に来ていて五月と出会い、結婚を申し込んでいた。五月は、自分に起きたことを新に話していない。恥じていて、話すくらいなら別れようと決めている。まるでそれが、彼女の恥じるべきことであるかのように。すべてを知った新は、一緒に戦おうと言う。ふたりは婚姻届を出し、五月は雨木を訴える決意をする。代理人を引き受けるのは、十年前まで弁護士だったことがわかる奈々美だ。
新は五月を救い出すのではなく、隣に立つ。そして、料理のこと以外には関心のなかった門司は、五月にされたことを知ると社長のもとへ行き、きちんと謝ってほしいと訴える。社長の答えは、会社として対応しているから心配はいらない、きみの店がつぶれることはない、というものだった。傘を持っていった人も、傘を返しに戻ることはできる。
奈々美は社長に、謝罪と慰謝料の支払いを求める通知書を送る。回答の期限は五日間。たま子は証人を探しにまわり、頼んだ相手の土田は断る。それでも事件は、世間に届く。考えうるかぎり最悪の形で。土田から週刊誌へ漏れた話は、事実と憶測の入りまじった記事になって広まり、社長の側だけでなく五月の側のことまで巻き込んで、そこへ著名人である社長の父親をめぐる臆測まで添えられる。雨木は社長を辞任し、旗艦店は休業に追い込まれる。雨木の謝罪が上辺だけのものだったうえ、自分まで侮辱された門司は、雨木を殴って解雇される。
ドラマは法廷をいちども映さない。映すのは、多くの不正が実際にはどのように世に出るのか、である。認定としてではなく、物語として。自分自身の恨みを抱えた誰かに運ばれて、害を受けた本人には手の届かない形で。この図書室は「『よこがお』と、関わりだけで解体される人生」という文章で、その違いを書いた。告発には答えられるが、物語には答えられない。五月の件は、たしかに社長を引きずり下ろした。同時に、五月にされたことを、見知らぬ人たちが朝食の席で読む話に変えた。真実でないことをまじえて、社長についてだけでなく、彼女についても。ドラマはそのふたつを同時に成り立たせ、前者があったのだから後者も仕方がない、というふりはしない。
屋上から落ちたスプーン
そしてドラマは、多くの視聴者を戸惑わせることをする。この文章にとっては、それがこのドラマのもっとも勇敢な一手である。屋上の店が毎晩ようやく満席になったころ、客が落としたコーヒースプーンが柵を越えて、下の通りへ落ちる。警察沙汰になる。ある人物が、そもそもこの店が営業していること自体に苦情を寄せる。常連客のひとりが間に入ってくれるものの、ビルのオーナーとの話し合いは決裂する。苦情を言った人物は、最後まで画面に映らない。最後の営業の夜、すべての席が埋まるなかで、店は八百四十円の黒字を残して閉じる。売上を計算した結実は、やっと軌道に乗ったのに、なぜ閉めなければならないのかと泣き出す。
これを腰砕けと読むこともできるし、話数が足りなくなったしるしと読むこともできる。けれど、もっといい読み方がある。最終回の放送から数日後に、ある女性がブログに書いた読み方で、この文章はそれを借りる。九話まで、害はいつも一方向に流れていた。会社から、屋上へ。最後に、屋上が害の出どころになる。小さな害だ。歩道の誰かに当たったかもしれない、スプーンひとつ。そして苦情は、観ている側が一度も顔を見ることのない、好きになる理由もない人物から届く。苦情に耳を傾けろと言いつづけてきたヒロインたちは、この苦情だけは、なかなか聞くことができない。ドラマは最後に、観ている私たちを、そっと社長の椅子に座らせたのではないか、と彼女は書いた。顔の見えない誰かに、誰も悪気のなかったことで責め立てられ、そんな苦情は理不尽だと思い込む、あの席に。
これは、このドラマが自分の題名に対してする、いちばん正直なことだ。「問題」という言葉は、屋上の人たちのものでなかったのと同じように、いつまでも会社のものでありつづけるわけでもない。自分が誰かを傷つけたと聞かされるのを拒む人のところに、その言葉は着地する。傷つけられた人たちがつくった場所だからといって、誰も傷つけない場所になるわけではない。その場所が試されるのは、会社が落第したのと同じ試験だ。苦情を言う人を「問題」にすることなく、その苦情を聞けるかどうか。
最終回はたま子に、かつての会社が、誰もが協力しあう職場になっている夢も見させる。彼女がずっと望んでいたものを、ドラマが見せる唯一の場面だ。屋上でもなければ、向かいのビルとの戦争でもない。見て見ぬふりをしない人たちと並んで、いい仕事をする場所。三百日後、たま子は仲間を海辺の廃屋に呼び集め、ここで店をやり直すと宣言する。星野と一緒に近くのホテルで働いている門司は、勝てる気しかしないと言い、たま子も同じ言葉を返して、ふたりは拳を突き上げる。いまや対等な者どうしの競い合いであり、それがこのドラマが自分に許した、いちばん幸せな結末である。
数字が語ること、決まりの現在地
もちろん、テレビらしい誇張もある。放送中に書かれたある批評は、ここまで極端な職場は現実にはないだろうと書きつつ、大なり小なり同じような差別がいまも横行しているのは事実だろう、とも書いていた。けれど、このドラマが気にかけている日常の仕組み、つまり、沈黙のほうが安くつくから害が黙って飲みこまれていく仕組みは、数字で測ることができる。そして日本では、実際に測られている。
厚生労働省が二〇二四年一月に、全国の企業などに勤める二十歳から六十四歳の労働者八千人を対象にインターネットで行った、職場のハラスメントについての実態調査では、過去三年間に職場でセクハラを受けたと答えた人は六・三パーセントだった。女性では八・九パーセント、男性では三・九パーセント。このドラマの舞台である宿泊業、飲食サービス業では、十・五パーセントにのぼる。セクハラを受けたあとの行動でいちばん多かったのは、何もしなかった、で五十一・七パーセント。その理由でいちばん多かったのは、何をしても解決にならないと思ったから、で五十二・七パーセントだった。勤務先がセクハラを把握していた場合でも、その後の対応として最も多く挙げられたのは、特に何もしなかった、であり、勤務先の認定で最も多かったのは、あったともなかったとも判断されず、あいまいなままだった、というものだ。このふたつの数字は百二十人という小さな集団にもとづく、働く人の側の回答である。
どの数字も、特定の誰かの選択を説明するものではないし、架空の人物について何かを語るものでもない。そしてこの調査には、出来すぎているほどの限界がひとつある。対象は、いま働いている人たちだった。仕事を離れた人も、まだ仕事に就けずにいる人も、調査の外にいる。つまり、第一話でたま子が屋上に集めた全員が、そこには入っていない。
決まりは、二〇一五年からいくらか動いた。ここでは、厚生労働省の頁に書かれていることだけを書く。事業主は、職場のセクハラを防ぐための措置を講じなければならない。その措置を定めた指針は二〇〇六年のもので、このドラマが放送されたときには、すでにこの義務はあった。パワハラについての措置の義務は、大企業には二〇二〇年六月から、中小企業には二〇二二年四月から課されている。求められる措置には、事実関係を迅速かつ正確に確かめることや、相談したことを理由に不利益な扱いをしないことが含まれる。働く人に向けた頁で、厚生労働省はこう書いている。ハラスメントは、個人の問題ではなく会社の問題です。このドラマの会社なら、首をかしげそうな一文だ。パワハラの指針が、優越的な関係というものを、相手が拒めるかどうかで測っていることは、「『ベイビーガール』、身を委ねることは弱みを握られることではない」に書かれている。
これが物語ではない人にとっては、まず、それが数に入るのかどうかを決める必要はない。都道府県労働局の総合労働相談コーナーは、ハラスメントを含む職場の相談を、予約なしで、無料で受けつけていて、外国語での相談にも応じている。起きたことが性暴力なら、全国共通の番号、#8891にかければ、通話料無料で、最寄りのワンストップ支援センターにつながる。
この読みに対する反論
この文章が間違っている道は、少なくとも四つある。そのうちふたつは、ドラマそのものにかかわる。
第一に、このドラマは女対男の物語として売り出され、序盤の回はおおむね、そのように組み立てられていた。放送前の紹介は、問題を抱えた女性たちが、これまで散々自分たちを苦しめてきた男たちに宣戦布告するコメディーだと謳っていた。第一話の会社の男たちは、ほとんど全員が、加害者か、いじめる側か、傍観者として描かれる。スプーンについてあれほど鋭く書いた同じ女性は、もしこれが男の生きづらさの物語で、女がみんな男を苦しめる人間として登場するところから始まっていたら、自分は目を逸らさずに観られただろうか、少し自信がない、と正直に書いている。この異議は、そのまま残しておくべきだ。後半の回は絵を広げていくし、最終回では、あらゆる訴えを冷笑してきた会社の男ふたりが、屋上へ向かう親子連れのベビーカーを、こっそり階段の上まで運び上げてやる。子連れでレストランに来るな、とぼやきながら。この文章は、ドラマを、掲げた標語ではなく、描いた仕組みによって読んできた。けれど、作品をいちばんいい回で読むのは、ひとつの親切である。そして序盤の回こそ、少なからぬ視聴者が、観るのをやめる前に目にしたものだった。
第二に、屋上は、辞めていく人の夢物語であり、辞められることはひとつの特権である。たま子があの部屋に返した答えは、彼女をパトカーに乗せ、仕事人生を奪った。厚生労働省の調査が示しているのは、多くの人が実際にすることは何もしないことであり、その理由はたいてい、何をしても解決しないと思ったからだ、ということだ。辞めることを勇敢に見せる物語は、とどまることを臆病に見せてしまいかねない。けれど、そうではない。家賃があり、子どもがいて、逃げこむ屋上などない人が、仕事にとどまって頭を低くしているとしても、その人は、このドラマが課すどんな試験にも落第していない。彼女は、ドラマが怒っているその仕組みのなかで暮らし、それを背負っているのだ。
第三に、このドラマは法を迂回している。通知書と証人探しまで積み上げておきながら、そこから一足飛びに、スキャンダルと辞任と拳の一発へ移ってしまう。それを現実的だと読むこともできる。訴えがあいまいなまま放置されることが最も多いという調査の結果も、その読みを支える。一方で、腰が引けた、あるいは尺が足りなかったとも読める。法的な手続きが五月に何を求めたはずかを描く手間を省いて、社長の失墜という満足にだけたどり着いた、と。どちらの読みも公平で、この文章にはどちらとも決められない。
第四に、この文章そのものに向けた反論。異を唱える人が「問題」にされるという主張は、これまで何かに異を唱えたことのある人なら誰でも、いい気分にさせてしまう。苦情のなかには、本当に問題であるものもある。扱いにくい同僚が、ただ扱いにくいだけのこともある。ドラマ自身が、スプーンでそれを言っている。公道の上の屋上にある店は、誰かを傷つけうるし、苦情を言った人がまったく正しかった可能性もある。その人物を最後まで映さないことで、ドラマはヒロインたちを、本当の試験から免れさせている。スプーンを正直さとして称える文章は、その正直さにも限度があったことを認めなければならない。
そして、いちばん明白な限界。これはフィクションについての読みである。登場人物はつくられた人たちであり、ここに挙げたどの数字も彼らを記述するものではない。この文章のどこにも、演じた俳優たちについての言明はない。
この図書室の考えと、この家に言えないこと
この図書室の立場を書いておく。職場の害が、ひとりの行いであることはまれだ。たいていそれは、集団の営みである。ひとりが手を下し、部屋いっぱいの人たちがそれを安くする。同僚にできるいちばん役に立つことは、それを安くさせないことであり、それには氷水のバケツなど、たいてい要らない。多くの場合、必要なのは、藍里が最後に口にしたひとことか、たま子が鏡子に向けた問いくらいのものだ。誰が、あなたにそう思わせたのか。
ひとりひとりがまともに扱われる食卓は、いい職場に添えられる贅沢品ではない。いい仕事の条件そのものであり、あのパトカーの後部座席でさえ、たま子がずっと望んでいたものだ。そして職場が「問題」と呼ぶ人たちは、しばしば、その職場の問題を代わりに背負わされている人たちである。
そして、この家にとって不利なことも書いておく。この家は私的な同伴を売っている。ここで働く人たちも、働く人である。このドラマが残す問い、つまり、どれほどの職場が、事を荒立てないことに同意する人たちによって回っているのかという問いは、ライクダイニングサービスに向けられるのと同じだけ、この家にも向けられる。ここで働く人たちが、「問題」にされることなく断り、苦情を言い、信じてもらえるかどうか。それは、この文章が掲げることはできても、請け合うことはできない基準である。このドラマのなかに、この家が売っているものを擁護する議論はひとつもない。屋上が仲間たちに与えたもの、目を逸らさない同僚は、どこにも売ってはいない。
持ち帰るための問い
あなたが働いてきた場所で、何かを口にしたせいで「問題」にされたのは誰だっただろう。それが、あなただったことはあるだろうか。黙っていれば何も失わずにすむからと口をつぐんだ会議で、あなたは気づかないまま、どの傘を持って帰っただろう。あなたは何を笑ってやり過ごすことを覚え、それをやめるには何が要るだろう。先に自分のことを説明しなくても、まともに扱ってもらえる食卓が、どこかにあるだろうか。もしないのなら、ほかに誰が、それを持っていないだろう。
もしあなたが、大げさだと言われたことがあるなら。当人どうしの問題だと言われたり、それも仕事のうちだと言われたりしたことがあるなら。そのとき、問題はあなたから始まったのではない。あなたを責めるのがいちばん簡単な、あの部屋から始まったのだ。あなたはその部屋に、沈黙をさしだす義理も、恥を引き受ける義理もない。ドラマは海辺で終わる。廃屋のそばの砂に旗が突き立てられ、ここで食べるごはんは絶対においしいと言い張る女がひとりいる。彼女は正しい。そして、それで何かが解決するわけではない。見て見ぬふりをしなかった人たちと、もう一度始めるための場所があるだけだ。たいていの人は、いつか、そういう場所を必要とする。そして、それを自分の手でつくらなければならない人もいる。
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