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『フォー・モア・ショット・プリーズ!』と、友だちだから言ってもいいこと

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この四人の女性のまわりの人々は、みな彼女たちを言い表す一語をもっている。娘の結婚のために履歴書を整える母から、子どもを取り上げると迫る元夫まで。一文をもっているのは、友人たちだけだ。第一話の題に四つのレッテルを並べて始まったこのドラマは、四シーズンののち、友人どうしが面と向かって言い合い、半年のあいだ守ると約束する四つの一文で終わる。そのふたつのあいだの距離に、このドラマの考える友情の役目がある。

四人が出会ったのは化粧室だった。見たり見られたりするバーのフロアではなく、その奥の小さな部屋。化粧を直したり、泣いたり、席の誰にも聞かれたくない電話に出たりするために、女性がひとりで入っていく場所だ。ムンバイのバー「トラック」の化粧室に、ある夜たまたま居合わせた見知らぬ四人は、三年後もまだそこで、テキーラのショットを前に顔を合わせている。『フォー・モア・ショット・プリーズ!』は、そのテーブルが、二〇一九年一月の第一シーズンから二〇二五年十二月の最終シーズンまでの四シーズンをかけて何になっていくのかを描いたドラマである。

第一話には、罪状を読み上げるような題がついている。英語の題をそのまま日本語にすれば、「野心家。お堅い女。フェミニスト。尻軽」。四つの言葉と、四人の女性。どの言葉が誰に向けられたものなのか、題は言わない。言う必要もない。性や仕事について率直に話す女性には、話し終える前にこういう言葉が届くものだ。このドラマは四シーズンをかけて、そのどれひとつとして、四人の誰かに長く貼りついたままにはさせない。

この文章は四つのシーズンのすべてに触れる。一人ひとりの物語の行き着く先も、ドラマの終わり方も書く。先に四人に会っておきたい人は、そうしてから読んでほしい。急ぐ文章ではない。

そして、もう一方の端。最終シーズンは、シディの結婚式から始まる。誓いが交わされたあと、祝いの騒ぎから少し離れた静かな片隅で、四人は約束を交わす。ひとりひとりが、ほかの三人から、自分がいつもやってしまっていて、やめなければならないことをひとつだけ告げられる。期限は六か月。シディは、甘ったれて自分の気持ちから逃げるのをやめる。ウマンは、新しい恋をいちいち運命だと思い込むのをやめる。ダミーニは、幸せを疑い、何かを欲しがる自分を罰するのをやめる。若くして娘を産んだアンジャナは、年齢より先に老け込むのをやめる。

始まりに四つの言葉、終わりに四つの一文。この文章が扱うのは、そのあいだの距離である。この女性たちのまわりの人々は、みな彼女たちを言い表す一語をもっている。娘の結婚のために履歴書を整える母。見合いの食卓を囲む親族。会社の役員会。子どもを取り上げると迫る元夫。一文をもっているのは、友人たちだけだ。一語は、あなたが何者であるかを言う。一文は、あなたがいつも何をしてしまうかを言う。だから、そうしないこともできる。そしてあの約束の一文を口にするのは、このドラマのなかで、それを本人に面と向かって、本人の同意のうえで言う資格を手に入れた、ただ一組の人たちなのだ。

友情はそのためにある、とドラマはしだいに言いはじめる。一緒にいること、ではない。それなら四人は有り余るほどもっている。打ち明けること、だけでもない。それならバーが毎晩用意してくれる。正確さである。そばに居つづけた人たちに、ありのままに言い表されること。そして、それを聞くことに、自分でうなずくこと。

あらゆる恋にそれぞれの決着がついたあと、このドラマが最後に差し出すのは結婚式ではない。四人がそろって、もう四杯、と頼む場面である。

記録と、四つのシーズンのあらまし

まず記録から。『フォー・モア・ショット・プリーズ!』は、プリティーシュ・ナンディ・コミュニケーションズがプライム・ビデオのために制作したドラマで、監督はシーズンごとに替わり、第一シーズンをアヌ・メノンが、第二シーズンをヌプール・アスタナが手がけた。配信は二〇一九年一月二十五日、二〇二〇年四月十七日、二〇二二年十月二十一日。そして七話からなる最終シーズンが、二〇二五年十二月十九日に届いた。プライム・ビデオが初めて女性だけを主役に据えたインド発のオリジナル作品で、配信から一週間とたたないうちに、インドの雑誌『インディア・トゥデイ』はこれを国産の『セックス・アンド・ザ・シティ』と呼び、その呼び名はそのまま定着した。二〇二〇年には国際エミー賞のコメディ部門にノミネートされ、国際テレビ芸術科学アカデミーはこれを、インドのコメディとして初めてのノミネートと記録している。

ひと息に紹介される四人だが、ひと息ぶんでは足りない。ダミーニ・リズヴィ・ロイ(サヤーニ・グプタ)は調査報道の記者で、自分の取材を元手に報道系の新興企業を立ち上げた。何よりも仕事を先にし、自分をつなぎとめようとする人からは逃げる。アンジャナ・メノン(キールティ・クルハーリー)は企業法務の弁護士で、離婚して幼い娘アーリヤを育てている。元夫ヴァルンには、もう新しい恋人がいる。彼女は自分の望みを、いつも娘と仕事のあとに回してしまう。ウマン・シン(バニ・ジェイ)はパンジャーブ州ルディアーナー出身のパーソナルトレーナーで、束縛を牢屋と呼び、両性愛者であることを家族に話していない。シディ・パテル(マーンヴィ・ガグロー)は四人のなかでいちばん若く、裕福な家の娘だ。母は娘の体型をけなしながら、結婚相手を探し回っている。

この文章は四人をひとりずつたどり、それからテーブルに戻ってくる。重心を置くのは、四人がそれぞれの一語を渡される第一シーズン、友情がいったん壊れて結び直される第二シーズン、そして約束が交わされる最終シーズンだ。第三シーズンは、四人の物語がそこを通るところで使う。

母が整える履歴書と、自分で書くネタ

いちばん若いシディから始めよう。彼女に向けられた一語が、いちばんわかりやすいからだ。最初の数話の時点で、母のスネーハーは娘の結婚を自分の一大事業にしている。占い師のもとへ連れて行き、歌のレッスンに通わせ、お膳立てしたデートに送り出し、結婚のための履歴書を整えていく。その履歴書のなかで、母がいつまでも手直ししたがっている一行が、娘の身体だ。ドラマはシディの体型へのからかいを、ありのままに、つまり娘の将来のためという名目で負わされる傷として描き、スネーハーの算段に乗るよう観客に求めはしない。求めるのは、その算段が、自分の家の食卓に座る若い女性に何をするのかを見届けることだ。

そこでシディがとる道は、このドラマが彼女について下したいちばん大胆な決断で、ドラマが描いたとおりに書いておきたい。彼女はひそかに、お金を払う見知らぬ人たちに向けた、性的なライブ配信の仕事を始める。これを道徳で裁くのはたやすく、美しい話に仕立てるのもたやすい。どちらも、その形を見誤る。勝利でも転落でもない。家では身体を手直しされつづける娘が、同じ身体がそのまま求められる場所を見つける。条件を決めるのは彼女で、画面のこちら側を握っているのも彼女だ。少なくともそれは、彼女の物語のなかで、シディがまるごと自分のために選んだ最初のことのひとつだった。

けれども画面は持ちこたえない。匿名の男が彼女の正体に気づき、言うことを聞かなければばらすと脅してくる。姿を現した男は、シディが付き合いはじめたミヒールの父親で、求めてきたのは口止めと引き換えの性的な見返りだった。シディは男を殴る。ドラマは起きたことをはっきり描いているし、この文章もはっきり書いておく。見知らぬ人たちに自分の条件で見られることへの同意は、身元を暴かれることへの同意ではなかった。そして、脅して引き出したものは、何に対する同意にもならない。この恐喝は秘密を暴いたというより、秘密を取り上げたのである。彼女が自分のために整えたものを奪い、彼女を動かすための梃子に変えてしまった。

秘密は、それでも両親に届く。いつも味方だった父は背を向ける。夫探しのために娘を測りつづけてきた母のほうが、娘の側に立つ。このドラマはスネーハーを、結婚という市場の声のままにはしておかない。その姿勢は、そのあとも変わらない。シディの父が亡くなったあと、スネーハーは新しい人に惹かれていく。それに耐えられないのはシディのほうで、母とぶつかり、最後には謝らなければならなくなる。測られてきた娘は、母を測らないことを、痛みとともに覚えていく。

そのあいだに、シディは自分の声になるものを見つける。スタンダップ・コメディは、ある意味で、彼女が隠れていた画面の正反対にある。自分の名前で、自分の言葉で、見るためではなく聞くために集まった客の前に立つ。四人のなかでいちばん若い彼女が、言い表される側から、言い表す側に移る場所だ。そしてドラマは、その新しい力を、居心地の悪い縁まで追いかける。最終シーズン、結婚したばかりのシディは、夫に断りなく結婚生活を舞台のネタにする。笑いは取れる。ダミーニの弟アッシュと組んだ寸劇が話題になって事態はこじれ、結婚は壊れかける。ドラマが問題にするのは、笑いそのものよりも、彼女が夫に隠していたことのほうだ。彼女は夫に尋ねなかったし、舞台が自分にとってどれほど大事になっていたかも打ち明けていなかった。かつて自分の物語を脅しによって奪われた女性が、誰かが登場する物語には、その人のうなずきも要るのだと学んでいく。

見合いの席で、自分を表す言葉を選ぶ

ウマンに向けられた一語は、家では誰も口にしない種類のものだ。口にされないことも、ひとつの言い方である。彼女は故郷のルディアーナーと、のちに兄の妻となった初恋の人ピンキーを残して、ムンバイで人の身体を鍛える仕事をしている。束縛を牢屋と呼ぶ。家族は、彼女が両性愛者であることを知らない。友人たちは知っている。いつか家族に話すのかと聞かれて、彼女は、絨毯の下に隠せるものには限りがある、と冗談で返す。

そのウマンが、少女のころから憧れていた映画スターで、いまは自分の顧客でもあるサマラ・カプールと恋に落ちる。サマラの仕事がそれにかかっているから、恋は隠れて続く。やがてタブロイド紙がふたりの代わりに決めてしまい、サマラの同性愛を暴く。そこでは、誰も誰にも尋ねていない。サマラはウマンと別れる。

その知らせは、考えうるかぎり最悪の食卓でウマンに届く。母が段取りした、見合い相手の家族との食事の席だ。母の選んだ男性に会うことを、ウマンは承知していた。暴かれた女優の話が、噂話として食卓にのぼる。そしてその夜、何も言うつもりのなかったウマンは、記事のなかでサマラと一緒にいた女性は自分だと言い、自分は両性愛者だと言って、席を立つ。場面の組み立ては正確だ。家族が彼女を男性にあてがおうとした食卓が、彼女が自分を表す言葉を自分で選ぶ場所になる。時を決めたのは新聞だった。言葉は彼女のものだった。

そのあとドラマがその言葉をどう扱うかも、場面と同じくらい大事だ。ドラマは一度も、それを撤回させない。四シーズンを通じて、ウマンは女性にも男性にも惹かれる。それを卒業すべき一時期として、解くべき問題として、あるいは明かされるべきどんでん返しとして扱う書き方は、どこにもない。ドラマが傷として描くのは、沈黙のほうだ。あの食事のあと家族は口をきかなくなり、第三シーズンでようやく父が彼女を受け入れる場面は、彼女が生まれてからずっと待っていたものとして、胸に迫る。

第二シーズンは、もっと苦い。暴かれて仕事を失ったサマラは深い落ち込みに沈み、ドラマは彼女が双極性障害を抱えていることを伝える。ウマンは、彼女を支えるただひとりの人になる。やがてサマラは公に交際を明かし、注目のなかでウマン自身の仕事が伸び、そしてサマラが求婚する。ウマンは受ける。ウダイプルの宮殿ホテルでの結婚式は、ネットじゅうの注目を浴びる見世物になっていき、準備はサマラが取り仕切る。式の直前、ウマンは、サマラがふたりの将来について下したある決断を知る。そして祭壇の前で、ウマンは関係を終わらせる。

この場面に何を読み込み、何を読み込まないかは、正確にしておきたい。この文章は、サマラの病を理由として読まない。ドラマが示す理由は、ウマン自身のものだ。いつのまにか自分だけが支え手になっていた関係。いつのまにか別の人の演出になっていた結婚式。自分の気持ちを、もう言い表していない「はい」。「はい」は、約束したことが実際に起きる前なら、いつでも取り消せる。祭壇の前は、取り消すにはこれ以上ないほど高くつく場所だが、それでも取り消すのは彼女の権利である。

二シーズン後、スタジオは繁盛し、夜は空っぽのウマンのもとに、サマラ自身の結婚式の招待状が届く。ウマンはうろたえる。スタジオに出資する新しい相手、シャイに同伴を頼んで断られ、ほかの三人が式に行くのまで止めようとし、それでも出かけていって、そこでようやく心の区切りをつける。最終話では、プライドのイベントで、シャイへの気持ちを人前で伝える。約束が彼女に求めたのは、恋をいちいち運命と思い込むのをやめることだった。彼女がしたのは、もっと単純で、もっと勇気のいることだ。自分の気持ちを言い、それを差し出したままにしておく。

いつも自分をいちばん後ろに置く母

アンジャナに向けられる一語は、このドラマでいちばん重く、しかも口に出されないまま届く。第一シーズンの終わり、娘が熱を出したという電話が来る。アンジャナは飲んでいた。娘を車に乗せて運転し、事故を起こす。シーズンは、逮捕される彼女と、親権を取ると迫るヴァルンの姿で終わる。ドラマはその結果に語らせている。この文章は、そこに説教を足すことも、何かを差し引くこともしない。

そのあとドラマがすることは、罰よりもずっと興味深い。ドラマはアンジャナに、何が欲しいのかを尋ねつづけ、彼女は答えないままでいる。まず母親で、次に弁護士で、自分の望みをもつひとりの女性は、はるか後ろの三番目。その順番を押しつけた誰かがいるわけではない。若くして娘を産んで以来、ただずっとその順番で暮らしてきたのだ。この図書室の「母と、女。ひとり親であることと、恋愛のある人生。」は、ひとり親の女性にふつう用意される二つの枠、憐れみと称賛が、どちらも、身体と、土曜日と、自分自身の望みをもつ人を消してしまうと論じた。アンジャナにはお金がある。あの文章に出てくる母親たちの多くにはないものだ。彼女にずっとなかったのは、土曜日のほうである。

第二シーズンの職場では、女だからという理由で彼女の力量を疑う新しい上司が現れ、彼女はその下にとどまるより辞めるほうを選ぶ。そして、法廷で打ち負かしたばかりの相手シャシャンクの事務所に移り、彼に惹かれていく。ここでは同意を、はっきり見えるところに置いておかなければならない。ドラマがそれをぼかしていて、ある批評家がそこに気づいたからだ。米国の性的少数者向けウェブメディア「オートストラドル」に書いた評者のヒマニは、性的な関係はもちたくないと何度も言ったのに押しつづけてくる既婚の同僚と、アンジャナが関係をもつようになった、と描いている。彼は、夫婦で自由な関係を認め合っていると言った。それは嘘だった。アンジャナが何に同意したのであれ、彼女が同意したのは彼がこしらえた事実であり、そういう取り決めにほんとうに同意が必要なただひとりの人、つまり彼の妻は、一度も尋ねられていなかった。事が明るみに出ると、罪悪感を抱えて取り残されるのはアンジャナのほうで、見方を変える手助けをするのは友人たちだ。友人たちは正しい。

第三シーズンでは、ヴァルンが彼女の家に戻ってくる。両親がひとつ屋根の下にいることに、娘は大喜びする。しばらくのあいだ、アンジャナはかつての家族の形を、もう一度なぞってみる。それからヴァルンを、彼のもうひとつの家族のもとへ帰し、自分の家族をもつのに彼は要らないのだと気づく。このドラマでもっとも静かで、もっとも良い決断のひとつであり、それはまったく彼女ひとりのものだ。

そうして彼女は、あの約束の、いちばんおかしくて胸に来る一文にたどり着く。友人たちは言う。年より先に老け込むのはもうやめなさい。二十代で子どもを産んだからといって、残りの人生まで使い切ったみたいに暮らすのはやめなさい。最終シーズン、彼女は共同オフィスの隣人ローハンと出会い、彼との時間を楽しみ、それから、何もかも速すぎると距離を置こうとする。約束から彼女を解き放ち、あの人は手放すには惜しいと告げるのは友人たちで、ゴアで彼女は彼を選ぶ。それから、このドラマがそれまで一度も彼女にさせなかったことをする。休職して、インドを走る旅に出るのだ。

ひとりでいることを選んだ一年

ダミーニに向けられた最初の一語は、役員会から届く。四人のなかで調査報道を仕事にする彼女は、相手が望もうと望むまいと、他人を正確に書き表すことを職業にしている。その仕事の上に築いた会社が、ドラマが彼女から最初に取り上げるものになる。役員会が求めるのは、彼女の調査報道よりも、扇情的な記事や閲覧数稼ぎの見出しのほうだ。第一シーズンの半ばには、新しく来たアーカンクシャーが主導権を握り、会社は彼女の手を離れていく。もっと長く残るのは、彼女が自分自身に与える一語のほうである。彼女はまた、自分をつなぎとめようとする人からは誰であれ逃げる人でもある。そんな彼女から、ドラマはその後もひとつずつものを取り上げていく。本は出版社に断られ、世に出たとたんに発禁になる。そして第二シーズン、彼女はワルシ医師の子を身ごもりながら、ジェーに惹かれている。妊娠を続けるかどうかのあいだで揺れ、やがてその子を失う。ちょうど、ジェーが彼女と子をまるごと受け入れるつもりで戻ってきたときだった。

この扱いには批評家から異議が出ていて、その異議は書き留めておく価値がある。オートストラドルの評者は、この筋が、女性は赤ん坊の写真でも見せれば中絶を思いとどまるものだと言わんばかりで、しかも最後は、彼女の言い方を借りれば物語の都合で、流産によって片づけられた、と書いた。前半をどう受け取るにせよ、後半は物語の組み立てについての指摘で、この文章も同じ考えだ。ダミーニの人生で、まったく彼女ひとりのものだった決断が、ほかでもなく物語によって、彼女の手から取り上げられている。

第三シーズン、彼女は政治家の選挙参謀を務め、その仕事に心を躍らせ、ジェーを裏切る。彼女はそれを打ち明ける。ふたりは別れる。打ち明けたからといって、したことが消えるわけではなく、ドラマも消えたふりはしない。破られた約束には、それだけの代償を払わせる。そしてダミーニは、ドラマが彼女の本当の転機として描くことをする。ひとりでいる必要がある、と決めるのだ。罰としてでも、男と男のあいだの休憩としてでもない。誰にもつなぎとめられず、自分も逃げていないとき、自分が何を欲しいのかを知るための場所として。

約束が彼女に求めたのは、幸せを疑うのをやめること、欲しいと思う自分を罰するのをやめることだった。最終シーズン、彼女は卵子凍結を考える。ドラマはその決断を、あるべき場所、つまり彼女自身の手に委ねている。デリーから弟のアッシュがやってきて住みつき、ふたりで始めたポッドキャストが評判を呼ぶ。ある批評家は、このシーズンが一時、恋の行方から姉と弟の日々の親しさへと、感情の重心を移したことに目をとめている。それもまたひとつの愛のかたちで、このドラマがそれまで手をかけてこなかったものだ。そしてゴアで、ジェーはふたたびひとりになっていて、彼女は彼のもとへ戻っていく。先にひとりでいることを選んだからこそ、今度は逃げずに彼を選ぶことができる。

四人がばらばらだった夜

ここで、友情そのものに目を向けよう。このドラマは、評判から想像するよりずっと手荒に友情を扱う。第一シーズンの終わり、脅されているシディは、ほかの三人にバーへ来てほしいと急ぎの連絡を送る。三人は来る。そして助けるかわりに、けんかになる。ひとシーズン分の不満がいっぺんに噴き出し、四人は互いを責め合い、ばらばらの方向へ帰っていく。シディはひとりで片をつけると決める。アンジャナはバーにひとり残される。

その最終話が次に何をするかを見てほしい。四人はそれぞれに最悪の時を迎え、それぞれがひとりでそれを迎える。シディは自分を脅してきた男と向き合う。ウマンは見合いの食事の席に座る。授賞式の会場にいるダミーニはウマンに電話をかけるが、つながらない。そのあと、会いたかった男が元の恋人とよりを戻しているのを知る。アンジャナは娘についての電話を受ける。けんかがそのどれかを引き起こしたとは、ドラマは言わないし、この文章も言わない。その夜それぞれがしたことは、それぞれのものだ。けれどもドラマは、四人がテーブルでなくなったただ一話に、四つの危機を並べている。その並べ方が、ひとつの主張になっている。友情は、問題が解決される場所ではない。いちばん必要な夜に、この女性たちの手もとにないもの、それが友情なのだ。

第二シーズンは四か月後、口をきかなくなった四人から始まる。どうしてそこにいるのか自分でもわからないままイスタンブールにいるシディから、取り乱した電話が来る。それが三人を彼女のもとへ向かわせ、誰のものでもないその街で、四人は仲直りし、ずっと続く友情を互いに約束する。その回の題は「ずっと一緒?」で、疑問符は正直だ。

ドリー・オルダートンの回想録を読んだこの図書室の「『Everything I Know About Love』と、恋愛だけが人生の中心ではないこと」は、友情を、筋をもたない唯一の愛だと見た。求婚も、儀式も、記念日もなく、誰かに知らされる終わりもない。友情は壊れるのではなく、薄れていくからだ。『フォー・モア・ショット・プリーズ!』は、あの文章が欠けていると見たものを差し出そうとする。恋愛が独り占めしてきた文法を、友情に与えるのだ。日付を言える出会い、それも化粧室での。人前でのけんか。四か月の沈黙。約束つきの、旅先での仲直り。そして最終シーズンには、結婚式で、誓いのあとに交わす約束。ドラマは友情を公のものにはできないし、しようともしない。そのかわり、語れるものにする。友情にいちばん欠けているのは、もしかするとそれなのかもしれない。

同じ文章は、人生の広さは、そこにいる人の数ではなく、夜を良いものにしてくれる別々のものがいくつあるかで決まる、とも論じた。ドラマの終わりに、ダミーニの手もとには、マイクと、弟と、もう逃げなくていい男と、自分を知っている三人の女性がいる。アンジャナには道がある。このドラマを終わらせるのは、どの恋でもない。終わらせるのは友情で、それも、いつもの注文という形でだ。

誰かの結婚式の片隅で交わした約束

ここで、あの約束に戻ろう。この文章がずっとそのまわりを回ってきた違いに。約束の四つの一文を、第一話の題にある四つの言葉の隣に置いてみる。言葉のほうは判定だ。その女性が何者であるかを言う。人は、自分が何者であるかをやめることはできない。約束の一文には動詞がある。彼女がいつもしてしまうことを言い表す。だから、ほかのこともできる。しかも、期限がついている。

その一文を口にするのは、このドラマのなかで、それを言う資格を自分で手に入れた、ただ一組の人たちでもある。シディを測りつづける母。ウマンの見合いの食卓を囲む親族。ダミーニから会社を取り上げる役員会。アンジャナから娘を取り上げると迫る男。誰もが彼女についての一語をもっている。そして誰も、彼女が付き合いにくかった夜を、そばで過ごしたことがない。友人たちは過ごした。けんかを越え、四か月の沈黙を越え、それでもイスタンブールまで出かけていった。それが彼女たちの資格であり、このドラマが認めるらしい、ただひとつの資格である。

そして、もうひとつの違いがある。これを気づかいの問題から、同意の問題に変える違いだ。スネーハーに、娘の身体についての意見を求めた人はいない。タブロイド紙に、サマラのことを書いてくれと頼んだ人もいない。あの約束は、前もって同意された正直さである。四人はそれぞれ、自分について本当のことを聞かされるとわかったうえで席に着き、うなずく。このドラマが性をめぐる筋書きのなかで手放さずにきた原則を、真実のほうへ向けたものだと言っていい。言い表されることは、触れられることと同じで、うれしいこともあれば、そうでないこともある。どちらになるかを決めるのは、彼女が同意したかどうかだ。

この図書室は、以前にも四人の女性のテーブルについたことがある。神戸の四人の友人を描いた濱口竜介の五時間の映画を読んだ「『ハッピーアワー』、四人の女性が互いに言うこと」は、一緒にいることと打ち明けることを分けて考えた。あの映画の四人は前者をあふれるほどもち、後者をほとんどもたない。『フォー・モア・ショット・プリーズ!』は、その反対の端にいる。四人は何もかもを、大声で、毎晩のように打ち明ける。バーはそのためにある。それでもこのドラマは、終わり近くになって、打ち明けることもまた友情の行き着く先ではないと気づくらしい。約束は、三つめのものを加える。自分について友人に語ることではなく、自分について友人に語ってもらうこと。

この図書室のもうひとつの文章、「親密さとは、近さではなく、正確に知られていること。」は、親密さが失われたと人が嘆くとき、惜しんでいるのは近さではなく正確さだと論じた。誰かが抱いている自分の像が、実際の自分と合っていること。あの約束は、その像を、それを抱いている三人が、それが言い表すただひとりの人に向かって、声に出したものだ。あなたのいちばんひどい夜をそばで過ごしてくれた友人がいるなら、その人はたぶん、あなたの一文をもう知っている。尋ねられるのを、待っているのかもしれない。

ムンバイのバーと東京の居酒屋を、勝ち負けの表にしない

日本の読者にいちばん近い比較は、批評家がこぞって持ち出した『セックス・アンド・ザ・シティ』よりも、『東京タラレバ娘』だろう。三十歳の女友達三人が同じ居酒屋で夜ごと飲み、ああだったら、こうすれば、とありえた人生を語り合う、二〇一七年のドラマだ。ふたつのドラマが分け合っているのは、酒の席だけではない。『東京タラレバ娘』で三人を名づけるのは男性である。辛辣な若いモデルが、あんたたちはタラレバ女だと言い放ち、ドラマはその言葉に半分うなずく。そして最後の最後、彼がもう一度そのレッテルで呼んだとき、ヒロインは、それは自分の名前ではないと言い返す。『フォー・モア・ショット・プリーズ!』では、名づけは最後に友人たちから来る。互いの顔を見て、期限つきで、うなずきとともに。どちらのドラマも同じ終わり方をする。結婚式ではなく、友人どうしの約束で。男がいてもいなくても三人で東京五輪を見ようと約束する三人と、もう一杯を頼む四人。

これはふたつのドラマであって、ふたつの国ではない。どちらも何かを測る物差しではない。ムンバイの四人を見て、あちらの女性はよく話す、こちらの女性は話さない、と結論するのはたやすい。どちらの結論も、女性についてではなく、テレビについての結論である。『フォー・モア・ショット・プリーズ!』がにぎやかなのは、率直な会話のコメディとして作られているからで、その型を批評家たちはニューヨークにさかのぼらせた。濱口の映画が静かなのは、彼が神戸でそのように撮ったからだ。日本のレビューサイト「フィルマークス」でも、視聴者はインド版、あるいはムンバイ版の『セックス・アンド・ザ・シティ』という同じ呼び名に手を伸ばし、その世界の豊かさに目をとめる声がいくつもある。ムンバイだからなのか、お金持ちだからなのか、と首をかしげる人もいる。もっともな問いだ。四人は企業法務の弁護士、自分の会社をもつ記者、映画スターを顧客にもつトレーナー、裕福な家の娘で、その友情はイスタンブールへ、ウダイプルの宮殿ホテルへ、ゴアへ、バンコクへと旅をする。彼女たちは四人の女性であって、ひとつの国の見本ではない。ドラマのほうも、そう装ったことは一度もない。

海を越えて届くのは、声の大きさではない。テーブルだ。この国の読者にとって、そのテーブルはバーでなくてもいい。郊外の幹線道路沿いのファミレスで、子どもが寝たあとの夜十時、ドリンクバーのグラスを何度も満たしながら囲む席でもいい。学生時代から続くグループのトークで、誰かが困ったときにだけ急ににぎやかになる場所でもいい。大事なのは場所ではない。そこにいる誰かが、あなたの一文を言う資格と、言ってほしいという招きを、もっているかどうかだ。

よその国から日本に来た女性にとっては、そのテーブルは別の時間帯にあるのかもしれない。自分について本当のことを言ってくれる資格のある人たちは、置いてきた人たちで、連絡がつくのはいつも誰かが疲れている時刻だけ、ということもある。このドラマには、そのための場面もある。いちばん大きな仲直りは、四人の誰も住んでいないイスタンブールで起きた。友情は距離を越えて保てるし、約束は画面ごしにも交わせる。

この読みへの、いちばん強い反論

ここから反論を、できるかぎり強い形で並べる。五つあり、三つめは和らげてはならない。

第一に、あの約束は、この文章が言うほどのものではないかもしれない。最終シーズンの配信にあわせてインドのニュースサイト「ザ・フェデラル」に書いた批評家のポウロミ・ダスは、この仕掛けを気が利いていて手際がいいが少し整いすぎていると評し、このシーズンは友情について新しいことを何も言っておらず、親しさを勝ち取るのではなく身ぶりで示すだけの場面が並ぶ、と論じた。その見方に立てば、約束とは四つの物語を七話で片づけるための装置であり、六か月の期限つきの自己改善計画は、親密さではなく進行管理である。別の見方をした批評家もいる。『インディア・トゥデイ』の評者サナ・ファルジーンは、女性の友情の描き方をこのドラマのいちばんの強みと呼び、それがもっとも生きるのは何も劇的なことが起きない時間、つらい一日のあとの遅い一杯や、黙ってそばにいることだと書いた。どちらの読みも成り立つ。この文章の読みは、前者を消し去りはしない。

第二に、もっと鋭い反論がある。友人の一文と家族の判定のあいだにこの文章が引いた線は、この文章が望むよりも細い。約束を交わしたその友人たちが、結婚式当日に取り乱すシディを、いつもありのままの彼女を受け入れてきた男こそふさわしい相手だと言って落ち着かせ、アンジャナを約束から解き放って、ローハンは手放すには惜しいと告げる。最終話までに、四人のうち三人は、自分自身のためのはずだった約束によって、ゴアで男のもとへ戻されている。ダスは、アンジャナの新しい恋を、発見のない繰り返し、また別の男、またやり直しだと呼んだ。最終シーズンに、テレビでいちばん古い物語、つまり親友たちがヒロインを正しい男のもとへ導く話を見る読者は、十分に正確に読んでいる。この文章に言えるのはせいぜい、友人たちの後押しは、彼女が断ってもテーブルに残っている人たちから来る、ということだけだ。

第三に。第二シーズンが向かっていく、女性ふたりの結婚式は、祭壇の前で終わらされる。二〇二一年五月にオートストラドルに書いたヒマニは、このシーズンを裏切りと呼び、サマラとウマンを結婚式で別れさせたことは、性的少数者の関係そのものの正当性を否定するように感じられる、と論じた。同性愛が犯罪でなくなってまだ三年しかたたず、同性婚が認められていない国で、と。法の記録は、彼女が置いた前提を裏づけている。インドの最高裁は二〇一八年九月六日、成人どうしの合意にもとづく同性間の性行為を犯罪とする規定を違憲と判断した。ドラマの配信開始の五か月足らず前である。そして二〇二三年十月十七日には同性婚の承認を退け、その判断を議会にゆだねた。ヒマニはまた、サマラが関係を通してしか病とつきあえないかのような含みにも疑問を投げている。祭壇の前のウマンの「いいえ」は彼女のものであり、「はい」は取り消せる、というこの文章の読みは、人物については正しい。けれども、批評家への答えにはならない。彼女の異議はウマンについてのものではないからだ。ドラマが何を終わらせることを選び、どの結婚式を最後まで行かせるのか、についての異議である。ふたつのことは同時に正しい。後者をこのドラマの落ち度とする読者は、間違っていない。

第四に、テーブルにはお金がかかる。四シーズンを生き延びる友情は、飛行機やホテルやバーの勘定に少なからず支えられている。二つの仕事を掛け持ちする女性が、友人の資格というこのドラマの考えは、自分には一度もなかった種類の自由な時間を前提にしている、と感じても無理はない。この反論は、ドラマについては正しい。原則については、それほど正しくない。約束が拠って立つ資格は、そばに居つづけることで得られたもので、居つづけることは、このドラマのなかで誰もお金を払っていない、ただひとつのものだからだ。

最後の反論は、いちばん素朴なものだ。私的な同伴を売る家には、女性には本当に聞いてもらえるテーブルが必要だと結論する文章に、はっきりした利害がある。この結論はドラマを見る前から用意されていたのではないか、と疑う読者には、そう疑う資格がある。次の節は、多くを主張するのではなく、少なく主張することで、それに答えようとする。

この家が売っているもの、売ることのできないもの

この家は私的な同伴を売っている。区切られ、段取りされ、代金が支払われる時間だ。だから何よりも先に、私たちに不利なことを書いておく。このドラマが描いているものは、買うことができない。ひとりの女性について本当のことを言う友人たちの資格は、彼女が付き合いにくかった夜に、何年もかけて、ただで得られたものだ。段取りされた一夜の席にいる誰も、その資格はもっていない。もっているかのように口をきく同伴者がいたら、それは務めを果たしているのではなく、踏み越えている。

ここでの一夜は、始まりと終わりのある取り決めであり、決められた時間、ひとりの注意がもうひとりに向けられる。それは友情ではないし、友情の代わりにさせてはならないものだ。もしそれがテーブルの代わりになりはじめたら、友人たちとの時間がそれに合わせて組まれるようになったら、その夜がどう感じられたにせよ、それは人生を広げるのではなく狭めている。その見きわめをするのは彼女であって、私たちではない。

これは、ひとつのテレビドラマの読みである。虚構の四人を含めて誰のことも診断せず、実在の人物の内面については何も言っていない。サマラの診断はドラマ自身のもので、ドラマが示すとおりに書いた。法律の日付は裁判所のものであり、批評家の言葉は、はっきり本人の言い回しである部分を除いて要約で伝えた。そして四人は、インドでも日本でもほかのどこでも、女性一般についての証拠としては差し出していない。

持ち帰るための問い

あなたの生活のなかで、あなたについての一語をもっているのは誰で、一文をもっているのは誰だろう。それぞれの言葉が、どれほど違って届くかに気づいてほしい。

先に尋ねてくれるなら、友人に言ってもらってもいいと思える一文があるだろうか。あなたのほうから、尋ねてみたことはあるだろうか。

最近、職場で、夕食の席で、誰かの前で、あなたは誰の話をしてきただろう。その人は、そこに登場することに同意していただろうか。

あなたの友情が壊れたとき、誰かがそれを出来事として扱っただろうか。どちらのものでもない場所で仲直りするとしたら、あなたはどこへ行くだろう。

友人たちがあなたの四つの一文を書くとしたら、何と書くだろう。そのなかのどれを、十年前に聞いておきたかったか。

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