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『NANA』、そばにいてほしかったのはハチだけではなかった

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二十歳のふたりのナナが、ひと春とひと夏のあいだ、東京の707号室で一緒に暮らす。誰も必要としないパンクの歌い手と、ひとりでいられない女の子の物語として記憶されがちなこの作品が描いているのは、ふたりとも誰かにそばにいてほしかったこと、それを表に出すことを許されたのが片方だけだったこと、そして子どもがやってくることになったとき、ふたりの暮らしには後ろ盾が何ひとつなかったことだ。

『NANA』の最終話は、707号室で、花火の夜に終わる。何年かが過ぎている。かつてブラストと呼ばれたバンドの面々がこの部屋に戻ってきていて、ハチも、娘の皐を連れて来ている。みんな、花火が上がるのを待っている。そしてもうひとつ、誰にもどうすることもできないまま、ここにいない人を待っている。ナナは、みんなの前から姿を消している。ハチは、ナナが戻ってくることを願っている。アニメは、そこで終わる。

結末が何を待っているのかに、目をとめておきたい。夫ではない。恋人でもない。男と女がもう一度めぐり会うことでもない。友だちである。バンドとデビュー、婚約と妊娠とスキャンダルを四十七話かけて描いてきた物語が、ひとりの女性がもうひとりの女性の帰りを待つ場面で、幕を閉じる。

名前も、そこにかかわっている。ハチの本名は小松奈々という。大崎ナナとは書き方が違うだけで、同じ名前だ。同じ名前のふたりが出会うところから、この物語は始まる。その奈々を「ハチ」と呼びはじめたのは、ナナのほうだった。忠犬ハチ公のハチである。東京帝国大学の教授だった飼い主の上野英三郎が亡くなったあとも、十年近く渋谷駅に通って帰りを待ちつづけた、あの秋田犬。人懐っこくて従順で、そのくせひどく手のかかる犬のようだから、というのが作中で語られる由来で、もとは一途さをからかう冗談だった。最終話で、その冗談は筋書きになっている。待っているのは、ハチのほうだ。

この物語を愛してきた人たちもまた、長いあいだ待っている。矢沢あいの原作は、作者の療養のため、二〇〇九年から休載したままだ。アニメはアニメの終わる場所で終わり、原作にはまだ終わりがない。物語がどこへ行き着くのかは、この文章も含めて、誰にも分からない。分かったふりもしない。

『NANA』は、正反対のふたりの物語として記憶されることが多い。誰も必要としないパンクの歌い手と、ひとりでいられない女の子。この文章が言いたいのは、作品そのものが、その見取り図を壊すように組み立てられているということだ。ふたりとも、誰かにそばにいてほしかった。ハチのその気持ちは、外から見えた。見えてしまう必要は、名前をつけられ、裁かれる。ハチがもらったのは犬の名前だった。ナナのその気持ちは自立という形のなかに組み込まれていて、ハチが離れはじめてようやく、乱れる呼吸と、自分でも怖くなるほどの嫉妬として表に出てきた。707号室でふたりがつくった暮らしは、この物語のなかでただひとつ、背後に何も立っていない関係だった。法律も、お金も、名字もない。子どもがやってくることになったとき、大人の世界が差し出すものは、どれもそこから離れる方向を指していた。そして、ハチの暮らしを守ることのできる男は、ハチが安全でいられる男ではなかった。守られることと、安全であることは違う。作品はそれを知っている。

このアニメが何であり、どこで止まるのか

事実を、一度だけ確かめておく。アニメ『NANA』はマッドハウスの制作で、監督は浅香守生、シリーズ構成は金春智子。日本テレビの深夜枠で、二〇〇六年四月五日から二〇〇七年三月二十八日まで放送された。全四十七話に、総集編が三本はさまる。ナナの台詞は朴璐美が、歌は土屋アンナが担っている。関東地区の平均視聴率は最高で六・三パーセントに達し、深夜のアニメとしては異例の数字だった。

原作は、二〇〇〇年に集英社の漫画誌で連載が始まった矢沢あいの漫画で、単行本は二十一巻、二〇一九年の時点で累計発行部数は五千万部を記録している。アニメが描くのは、十二巻の冒頭までだ。原作はそこから十巻近く先へ進み、そしてやはり止まっている。二〇二二年、はじめての展覧会に寄せた読者へのメッセージのなかで、矢沢あいは、以前より体力が戻ってきたように感じると語り、体調を管理しながら、少しずつでもまた作品を描いていけたらという思いを伝えた。この先について誠実に言えるのは、それだけである。

同じころ、実写映画も二本つくられている。中島美嘉がナナを、宮崎あおいがハチを演じた一作目は二〇〇五年九月に公開されて興行収入四十億円を超え、二作目はアニメの放送中だった二〇〇六年十二月に公開された。映画は、また別の話になる。この文章が読むのはアニメである。

以下では、最終話と、そこで描かれる未来の場面まで、アニメの結末に触れる。アニメが止まった先の原作の展開には触れない。作者がまだ描いていない結末を、こちらでつくることもしない。台詞は引用しない。必要なところでは、各話の題名を挙げる。

二十歳のふたりと、半分ずつの家賃

まず物語そのものを、あらためて置いておく。この先のすべてが、そこに立っているからだ。二〇〇一年三月、東京へ向かう新幹線で、ふたりのナナが出会う。どちらも二十歳。小松奈々は人懐っこく、影響されやすく、すぐに恋に落ちる。東京の大学に受かった恋人の章司を追って、上京するところだ。大崎ナナは心を固く閉ざしたパンクの歌い手で、恋人の蓮が人気バンドのトラネスへ移ったあと、自分のバンド、ブラストで成功をつかむために東京へ来た。翌日、ふたりは同じ部屋の内見で再会する。707号室。家賃を半分ずつ出して、一緒に暮らすことに決める。

同居を選んだ理由は、ふたりの評判とは逆を向いている。ハチは章司と一緒に住むこともできた。章司もそう言った。けれどハチは断る。彼に頼りきりにならないためだ。ナナのほうは、もともとあの部屋をひとりで借りるつもりでいた。頼る側だと思われている女が、頼らないことを覚えようとしてやって来て、誰も必要としないはずの女が、同居人を得る。

そこから、ひと春とひと夏のあいだ、ふたりは所帯を持つ。部屋のために最初に買いそろえたもののなかに、いちごの柄のグラスがふたつある。ナナは同居人に、犬の名前をつける。ハチは章司の誘いを断って、ナナのために食べ物を持ち帰る。ナナの古い友だちのノブがバンドを立て直そうと現れたとき、ナナに歌ってと頼むのはハチで、ナナは歌う。章司がバイト先の後輩を選んでハチのもとを去った夜、そばにいるのはナナだ。トラネスのライブを観にふたりでハチの故郷へ帰ったとき、ナナはハチの実家で、はじめて自分の子どものころの話をする。母親に置いていかれたこと。祖母に育てられたこと。

ふたつの家族を並べておくと、分かりやすい。所持金が二千二百円まで減ったとき、ハチの母親は、娘の口座に三万円を振り込んでくれる。ナナには、そうしてくれる母親がいない。作品はそれを言葉にしない。言葉にする必要がないからだ。

あだ名は、願いでもある

この物語では、名前がよく働く。ふたりが同じ名前を持っていることからして、すでにそうだ。けれどいちばん重いのは、ナナが選んだほうの名前だろう。ナナは同居人を何と呼んでもよかった。選んだのは、この国でもっともよく知られた忠義の話のひとつだった。もう降りてこない人を、駅で待ちつづけた犬。

あだ名は相手の描写であり、同時に、相手への頼みごとでもある。人懐っこくて、従順で、手がかかる。そう描くことで、ナナは自分を世話をする側に置く。その役割分担は、ナナ自身が一度も疑ってみないまま、彼女に都合よく働いていた。誰かの世話を焼くことは、置いていかれたことのある人が、しがみついていると認めないまま誰かにしがみついていられる、数少ないやり方のひとつだからだ。必要は、相手のほうに預けられる。求めているのは自分ではない。求められているのが自分なのだ、と。

ナナの来歴を知ると、このやり方が読めてくる。ここから先は診断ではなく、読みである。母親は去った。蓮がトラネスに誘われたとき、ナナはついて行かず、別れを選んだ。蓮の彼女としてではなく、自分の力で成功したかったからだ。駅で蓮を見送ったとき、その別れを決めたのはナナだった。それは本物の誇りである。同時に、二度と置いていかれる側にならないためのやり方でもある。ついて行かないと決めた人を、ホームに置き去りにすることは、誰にもできない。

矢沢あいは、この人物像のひとつの形を、以前にも描いている。『NANA』の前の年に同じマッドハウスがアニメにした『パラダイス・キス』で、物語の中心にいる若いデザイナーのジョージは、自分の足で立てない女に我慢がならない。作品はその苛立ちを、彼の母親にさかのぼらせている。『NANA』は、その主題の向きを変える。関心が向かうのは苛立ちそのものより、それを抱える側が払う代償であり、世話をしてきた相手が扉の外へ出ていったときに何が起きるか、である。

ハチの寂しさは、見えてしまう

ハチは一目で恋に落ちる。何度でも。そして作品は、それがどこへ行き着くかを隠さない。仕事は続かない。勤めていた店は閉まり、雇ってくれた出版社からは辞めさせられる。章司は去る。トラネスのリーダーの巧は女好きだとナナは忠告し、ハチもその忠告が正しいことを分かっている。それでも、クビになったその日に巧から電話がくると、ハチは会いに行く。愛されているという感覚が、どうしても欲しかったからだ。そのあとハチは恥じ入り、その夜どこにいたのかについて、ナナに嘘をつく。

ハチに冷たくするのは、たやすい。空いた夜に耐えられず、手近な男でそれを埋めるヒロインは、見下すのにたやすい相手だ。けれど見下す前に、その夜そのものを見ておきたい。ハチは作中で二度、来ない人たちのために料理をする。一度目はトラネスのため。彼らは来るとは言っていなかった。二度目はブラストのためで、ハチが祝いの支度を整えていた夜、メンバーはレコード会社の人に食事へ連れ出されている。ハチは、料理なんて作っていないと言う。料理とともに部屋に残された夜、ハチは巧のほうへ向かう。同じ夜、ナナはハチに会いたくて早めに帰ってきて、ハチのいない部屋を見つける。ふたりは一晩の差ですれちがう。その回の題名は、そのまま「すれちがうハチとナナ」である。

そのどれも、弱さと呼ぶには値しない。二十歳の寂しさである。いつも部屋にいるはずのたったひとりの相手に、バンドがあり、恋人がいて、レコード契約が動きはじめている街での寂しさであり、誰にも受けとめてもらえない必要が、行けるところへ行ってしまうということだ。ハチの必要がほかの人のものより悪く見えるのは、主に、それが目に見えるからである。人目のあるところで男のほうへ向かい、誰にでも数えられる結果を生む。

嫉妬もまた、両方向に流れている。のちに自分の独占欲に怯えるのはナナだが、はじめのころ、ナナの地元から熱心なファンの美里がやってきてナナと親しくすると、嫉妬してふたりに当たるのはハチのほうだ。ふたりの女性を分けているのは、人を必要とするかどうかではない。その必要が、どう見えるかである。

誰も必要としなかったはずの人

そして、ハチが離れていきはじめる。作品は、ナナの自立がそれまで何を支えていたのかを見せはじめる。

兆しは、妊娠より前からある。ハチと巧のことを知った夜、ナナは部屋を出て、戻りづらくなる。のちに、ハチが巧からノブへ心を移したあとで、ナナはノブに、ハチをそばに置いておくためにノブを利用したと打ち明ける。ノブは揺らぐ。ナナも、ナナなりに揺らいでいる。蓮の部屋で夜を過ごしながら、ナナは、愛する人に対して自分がどれほど独占欲が強いかに気づき、その発見に怯える。

それから婚約。ナナが部屋に帰ると、ハチと巧が待っていて、結婚すること、ハチがこの部屋を出ていくことを告げる。ナナは、いちごのグラスのひとつをうっかり落として割り、残ったもうひとつを自分の手で割る。片方だけ残ったペアなら、ないほうがましだとでもいうように。ナナが九日ぶりに部屋へ帰ったとき、ハチはもういない。手紙が残されている。

その手紙をはさむ時期が、この物語でいちばん多くを語っている。手紙を見つける直前、シンと言い争ったあとで、ナナは、もう人には頼らないと言い放っている。それは、頼っていたと認めることでもある。そのあとナナは新しいいちごのグラスを買ってハチの新居を訪ね、中へ入れてもらえない。蓮との交際が週刊誌に暴かれると、カメラの前に立ち、カメラ越しにハチへ言葉を送る。ブラストは有名になる、と。その回の題名は、ハチを犬の名前のまま呼んでいる。「ハチ公、見てろよ!」。ナナに残された回路は、もうテレビしかない。

ハチを取り戻すためのナナの計画は、ブラストを成功させることだった。スキャンダルがデビューを呼び込むと、ナナはプライドを脇に置いて、その騒ぎを使う。スキャンダルを足場にしたデビューに、ノブは落ち着かない。ナナは、もう気にしていない。ナナの呼吸がはじめて乱れるのは、ハチを取り戻すのはもうあきらめたとノブに言われたときである。精神科にかかることを勧められても、ナナは行かず、バンドの活動にのめり込んでいく。こういう呼吸の乱れは医師に相談すべきことで、作中で誰かがそう言うのは正しい。ナナが耳を貸さないとしても。秋が終わるまでに、ナナはドラムのヤスから好きだと告げられて心を寄せ、すでに薬物に手を出している蓮からの求婚を受け入れている。ナナのまわりには、人があふれている。ナナが耐えられないのは、出ていったひとりのことだ。

愛着の研究には、こうしたことを語る言葉があり、つい手を伸ばしたくなる。けれどこの図書室は以前、そうした言葉はラベルではなくレンズとして使うほうがよく、パターンは人の内側だけでなく関係のなかにも宿る、と書いた。『NANA』は、その論点をほとんど実演してみせる。ナナは世界に対してはひとりで立っていて、ハチに対しては怯えている。ハチは男たちの前では揺れ、ナナの前では揺るがない。どちらの女性も、ひとつのものではない。ナナの自立は、必要がないということではなかった。必要がとった形だった。そして、もう一方の端を握っていた人が手を離したとき、その形を支えるものは何も残っていなかった。

妊娠と、ひとつの形の家族のために敷かれた道

ハチが妊娠に気づくのは、その夏だ。巧と別れて、ノブとの幸せな日々が始まったあとのことである。どちらの子なのかは分からない。医師は、産むかどうかを決めなければならないと告げる。作品は、ハチが何を秤にかけたのかを、少しだけ見せる。ハチはこのとき、ナナも、バンドの十代のベーシストであるシンも、親に置いていかれた子どもだったことを知っている。

そして、ふたりの男。察した巧は、自分の子として育てると言う。ハチを愛し、ハチも愛しているノブは、音楽をあきらめなければ家族を養えない。その音楽のために、ノブは継ぐはずだった実家の旅館を飛び出してきたのだった。ハチは古い友だちに相談しに行き、707号室に戻ると巧がいて、その夜はずっと巧に世話を焼いてもらう。朝になって、ハチは巧に、産んで、巧の子として育てると告げる。巧は、結婚しようと言う。

これを間違った選択と呼ぶのは、たやすい。二十歳で観た人のなかにも、そう感じた人はいただろう。けれど、ここで速度を落としたい。ハチは二十歳で、定職がない。二〇〇一年は、いわゆる就職氷河期のさなかにある。学校を出たばかりの若者に仕事の口が乏しかった時期で、政府の白書は、その影響を受けた世代を、一九九三年から二〇〇四年にかけて学校を卒業する時期を迎えた人たちと定義している。一方の男は子どもを養うことができ、自分の子として引き受けると言い、そのために何も手放さずにすむ。もう一方の男は、子どもを引き受ければ、彼を彼にしているものを失う。ほかに何が秤に載っていたにせよ、それは載っていた。

しかも、ハチが進んだ道は広く、踏み固められていた。厚生労働省が二〇〇二年に公表した人口動態統計の特殊報告は、二〇〇〇年に結婚している夫婦から生まれた第一子のうち、両親が結婚式を挙げるか一緒に暮らしはじめる前に妊娠していたと推計される子が二六・三パーセント、およそ四人に一人だったとしている。母親が二十歳から二十四歳の場合、その割合は五八・三パーセントにのぼる。経済協力開発機構(OECD)の家族データベースによれば、二〇二三年の加盟国平均では、生まれてくる子どもの四三パーセントが婚姻の外で生まれている。日本は韓国、トルコとともに、それが二パーセントから四パーセントにとどまる国のひとつだ。どの数字も、どの夫婦がなぜ結婚したのかは語らないし、結婚に至らなかった妊娠がどうなったのかも語らない。架空の人物であるハチについては、もちろん何も語らない。数字が描いているのは、道の形である。この物語の舞台では、妊娠を続けると決めた若い女性の多くが出産までに結婚し、子どもが結婚の外で生まれることはごくまれだった。世界がハチに向ける問いは、結婚するかどうかではない。誰と結婚するか、である。

その選択から、抜け落ちているものもある。妊娠を知ったナナが強く求めるのは、ノブが父親になることだ。ハチをいちばん愛し、ハチにいちばん出ていってほしくない人でさえ、ハチを手元に置く方法を、男を通してしか思い描けない。ふたりの女性が分け合っているのは下の名前だけで、世の中が数えるものは何ひとつ分け合っていない。名字も、契約も、権利も。作品が描く選択は、ふたりの男のあいだの選択である。ふたりの部屋は、より良い愛に負けたのではない。検討される資格を、はじめから持っていなかった。

この物語に怒りを向けてよいものがあるとすれば、それはハチではないし、巧でもない。ハチをいちばん愛していた人でさえ、男を通さずにハチを引きとめる方法をひとつも思いつけなかった、その世界のしくみのほうである。

アニメの放送が終わって一年ほどのち、ゴールデンタイムのドラマが、もう一方の道を描いている。二〇〇八年の『ラスト・フレンズ』では、若い女性の産んだ娘を、彼女と、ひとつ屋根の下で暮らしてきた友人たちが、自分たちで選んだ家族として育てていく。ただし、その物語はそこへ至るまでに、ヒロインにあるものを通らせている。彼女を見張り、支配し、殴る恋人である。『NANA』には、道を切り開いてしまうような破局がない。だから道は、道の行く先へと続いていく。

守られることと、安全であることは違う

巧は悪役ではないし、作品も彼を単純な悪役にはさせない。自分の子ではないかもしれない子どもを引き受けて、揺るがない。ハチを白金の高級マンションの最上階に住まわせ、婚約指輪を買い、赤ん坊への贈り物を手にハチの実家へ挨拶に行く。巧が差し出すものは本物である。お金、住まい、子どもの名字、計画の立てられる未来。それは暮らしの保障であり、二〇〇一年の、妊娠した二十歳にとって、決して小さなものではない。

それと一緒に何がついてくるかも、同じだけ大事だ。ナナに婚約を告げたその夜、ハチの部屋で、巧はハチが望まない性行為を迫る。のちには、ナナに会うことにもいい顔をしない。シンから電話がかかってきても、巧が部屋に入ってくると、ハチは電話を切らなければならない。そして、自分のバンドのイメージを守る必要が出てくると、先送りにされるのは巧とハチの結婚のほうである。作品はそのどれも、怪物めいたものとしては描かない。それもまた、正確さの一部だ。巧といれば、そういうものだ、として描かれる。

はっきり言っておくべきことが、ふたつある。結婚を承諾したことは、ある夜の性行為を承諾したことではない。養われていることも、承諾ではない。ハチのためらいは、それ自体がひとつの答えである。そして、ある女性の暮らしを支払っている男は、彼女の毎日に大きな力を持つ。だから、お金が彼の側にあるときほど、いやと言える自由が大切になる。

作品は、言葉にしないまま、この区別を描いている。守られること、つまり保障は、与えることができるものだ。部屋、収入、名字。安全であることは、それを与えてくれる相手にいやと言えるかどうか、そして言いながら友だちを失わずにいられるかどうか、である。この図書室は以前、「安心できる人と、惹かれる人が違うとき。」という文章で、そのふたつが別々の人を指してしまうときのことを書いた。『NANA』は、その問題をもう一段ねじる。ハチの暮らしを保障できる男は、ハチが安全でいられる男ではなかった。ハチが愛した男は、ハチを養えなかった。そして、住まいと、自分らしくいられる自由の両方があったただひとつの関係、ナナと分け合った部屋は、何の後ろ盾も持たない関係だった。

新しいグラスを抱えて、ハチの新居から追い返されるナナは、そのことの像である。親友は、結婚の扉の前で、何の資格も持たない。

日本で何だったのか、外からはどう見えるのか

日本で『NANA』は、一部の熱心なファンのための作品ではなかった。現象だった。五千万部の原作、二本の映画、深夜としては異例の視聴率を得たアニメ。そして、真剣に読まれてもきた。二〇二二年にカルチャー系のウェブメディアに掲載されたある批評は、『NANA』がシンデレラの物語を覆したと論じている。作者自身がかつての作品で約束していたハッピーエンドから離れ、若い女性の暮らしに実際にあるものを描いた、と。迷走する仕事、思いがけない妊娠、急かされる結婚、毎月やってくる家賃。ハチの白金への引っ越しを読むには、これがふさわしい枠組みだ。シンデレラの物語なら、最上階の部屋で幕を下ろす。『NANA』は、その先を描きつづける。

二〇〇〇年代の半ばにふたりのナナに出会った人のなかには、彼女たちと同じくらいの年の人も多かっただろう。その人たちはいま四十歳前後で、あのころのナナたちの倍の年になっている。四十歳で観る『NANA』は、二十歳で観た『NANA』とは別の物語だ。二十歳には裏切りに見えた選択が、そのあとひとりで家賃を払い、子どもひとりを育てるのにいくらかかるかを数えたことのある人には、算数に見えることがある。

海外では、二〇〇七年に北米での権利が取得され、このアニメは英語圏の観客にも届いた。外から観ると、違って見えるかもしれないことがふたつある。ひとつは、さきほどの道の形だ。子どもの多くが結婚していない親のもとに生まれる国から来た人には、ハチの選択肢がこれほど早くふたりの男に狭まっていくことが、ふしぎに見えるかもしれない。答えは数字のほうにある。そして数字が描いているのは制度と慣習であって、誰かの性格ではない。もうひとつは、友情そのものだ。家族から遠く離れ、第二言語で働きながら日本で暮らす女性にとって、家族になっていく同居人は小さな存在ではない。暮らしを支えるもののほとんどになりうる。ふたりのナナも、それぞれに東京へ出てきた人だった。ひとりには遠くに家族がいて、もうひとりには誰もいない。まだ自分の街になっていない街では、台所の向こう側にいる人が、暮らしを立たせておいてくれる人になる。

これがどんな友情の物語ではないのかも、言っておく価値がある。ふたりの女性を描いた偉大な物語の多くは、競い合いの物語だ。フェッランテの『リラとわたし』は、ふたりの少女が同じ乏しいものを欲しがるからこそ、嫉妬を物語の動力にしている。ふたりのナナは、同じものを欲しがらない。ひとりは歌いたく、もうひとりは愛されたい。ふたりは競わない。ふたりのあいだに入ってくるのは、競争ではない。大人の暮らしが、とることを許されている形のほうである。

この読みに対する、いちばん強い反論

この文章が間違っている道は、いくつかある。そのうちのひとつは、文章ではなく作品にかかわるものだ。

第一に、友情こそ本当の恋愛物語だったと言うことは、ほかのすべてを、そっと格下げしてしまう。ナナの蓮への愛は途方もなく大きく、作品はそれに全力の重みを与えている。ハチのノブへの思いにも、同じだけの重みがある。そして、その言い方そのものが疑わしい。友情を恋愛物語と呼ぶことで大切なものにしようとするのは、問い直すはずの序列を、なぞり直すことになる。友情は、恋愛に格上げされてはじめて意味を持つかのように。より正確な主張は、もっと小さい。『NANA』のなかで、ふたりがいちばん自分らしくいられたのは、ふたりで分け合った暮らしのなかだった。そして作品は、その暮らしを待つ場面で終わる。

第二に、707号室は無垢な場所ではなかった。ナナはハチをそばに置いておくためにノブを利用し、それを自分で認めている。ハチは一度ならずナナに嘘をついた。ナナを怯えさせた独占欲は、恋愛のほうから友情へ染み出してきたものではない。はじめから、友情のなかに住んでいた。あの部屋を安全な場所として讃える文章は、安全ではなかった部分を書き落としていることになる。

第三に、これは作品についてのことで、和らげてはならない。トラネスの二十二歳の歌い手レイラは、ブラストの十五歳のベーシスト、シンに金を払って一夜を共にさせる。そこから続くのは、少年への性的虐待である。作品はそれを、孤独なふたりの慰め合いとして描く。巧の婚約のなかにある、思いやりの顔をした支配を見ている同じ作品が、ここではそれを見ていない。しかも、この文章が使ってきたレンズ、つまり孤独や、誰かにそばにいてほしいという必要は、作品がこの関係を和らげるときに使っているレンズそのものだ。それは、レンズについての警告である。寂しさは、人のふるまいを説明することはある。けれど、子どもを傷つけることの言い訳には決してならない。必要への共感の上に組み立てた読みは、そのことを声に出して言わなければ、和らげる側に加わってしまう。

第四に、ハチがどうすべきだったかを決めるのは、この文章の役目ではない。ハチの選択を大人の選択と呼ぶ人は少なくないだろうし、ハチ自身もそう呼ぶかもしれない。子どもには家が必要で、ハチはその家を見つけた。作品は強要を描き、この文章はそれを名指しした。けれど、結婚のなかで起きたことを名指すことと、その結婚のなかにいる女性より物事が分かっているつもりになることは、同じではない。

最後に、いちばん明白な限界がある。これは、結末のない物語についての読みだ。アニメは止まる場所で止まり、原作はその先へ進んで、やはり止まった。原作を読んだ人は、アニメが見せていないことを知っている。すべてが何を意味するのかという読みは、文字どおりの意味で、暫定のものにとどまる。作者は、まだ描き終えていない。

この図書室の考えと、この家に差し出せないもの

この図書室の立場を書いておく。女性どうしの友情は、ひとりの人生の中心にある愛着でありうるし、ふつうは恋愛のためにとっておかれる真剣さに値する。友だちを結婚へ送り出すことは、本物の喪失である。誰もそのための儀式をひらかず、悲しんでいる本人でさえ、それを悲しみと呼んでいいと思えなかったとしても。見えてしまう必要は、弱さではない。そして、称賛される自立は、必要がとった形であることがある。それは称賛を減らす理由にはならない。ただ、その自立が何を運んでいるのかを尋ねる理由にはなる。

そして、この家にとって不利なことも書いておく。この家が売っているのは、私的な同伴である。区切られ、予定され、代金が支払われる。『NANA』のなかに、それを擁護する議論はひとつもない。707号室がそうであったもの、つまり時計も値段もなしに、ひと春とひと夏をかけてふたりがつくった住まいは、買えるものではない。ここで予約されるひと晩は別のものであり、時間どおりに終わる。誰にも認められていない絆を讃える文章は、どこにも登録されない関係を時間で売っている事業にとって、都合がよい。読者には、そのぶんを割り引いて読む権利がある。

持ち帰るための問い

あなたの暮らしのなかで、見えている必要は誰のもので、有能さや自立や、みんなの世話をする役目のなかに隠れている必要は誰のものだろう。友だちが結婚して離れていったとき、あるいはあなたが離れたとき、誰かがそれを喪失として扱っただろうか。あなた自身は、どうだっただろう。いまあなたが持っているのは、保障だろうか、安全だろうか、その両方だろうか。それを失わずに確かめるには、どうすればいいのだろう。そして、もしそのときが来たら、あなたは誰を待つだろう。

二十歳でふたりのナナに出会ったなら、あなたはたぶん、どちらかを選んだ。ふたりのヒロインがいる物語は、それを求めてくる。いまはもう、選ばなくていいのかもしれない。もしあなたがハチだったなら。子どもがいて、二十歳で、道がそちらへ続いていたから、お金と名字のあるほうへ行ったのなら、その道を分かっている人に、それを弱さと呼ぶ資格はない。もしあなたがナナだったなら。置いていかれたことを生き延びるための形が自立だったのなら、誰かを必要としたことは、一度も失敗ではなかった。それは、あなたのなかでいちばんありふれたことだった。物語は、ひとりの女性が、もうひとりの女性の帰りを待つところで終わる。そして、待つことを愚かだとは言わない。

ほかの章から読む

『リラとわたし』と、二人ともは持てない野心についてこの四部作はふつう、女性同士の友情についての小説として紹介される。その紹介は、この本が実際に行っていることに対して柔らかすぎる。これは、乏しいもの——学校、この土地からの脱出、自分自身の人生——が、まったく同じように育った二人の少女のうち一人にだけ差し出されたときに、その乏しさが二人のあいだの愛に何をするかについての小説である。そしてこの本の達成は、愛と競争を切り分けることを拒む点にある。ここで描かれている条件のもとでは、その二つは最初から分かれてなどいなかったからだ。安心できる人と、惹かれる人が違うとき。その分裂は、あなたの欠陥ではない。あなたの人生が、何と何を同時に感じさせてくれなかったかについての報告だ。スウェーデン。法が「抵抗したか」を問うのをやめ、そして数字は上がった二〇一八年七月一日、スウェーデンは強姦罪の敷居を書き換えた。暴力があったかではなく、自発的な参加があったか、と。その後、同国の犯罪予防の官庁はこの変更を二度評価しており、その結果は、どちらの陣営が報じる勝利とも失敗とも違う。法廷に届かなかった種類の事件が届くようになった。それでも通報の十件に九件は起訴に至らない。そして定義を広げたこの国は、ヨーロッパのあらゆる集計の頂点に現れる。それはこの分野でもっとも誤用されている統計であり、この文章の後半が法ではなく算術についてである理由でもある。

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