Cinema
『人生の最期にシたいコト』、言葉にした約束が、彼女に声をくれた
他人が何を望んでいるかを読み取ることに人生を費やしてきた女性が、死を告げられ、一度も手にしたことのないものを探しに出る。最初に見つかるのは絶頂ではなく、ひとつの文法だった。どの行為も頼まれてから始まり、前もって言葉にされ、ひと言で止められる。ドラマは彼女に、その文法を寝室の外へ持ち出させる。主治医へ、母へ、愛する男へ、そして自分の最期へ。
夫婦カウンセリングの部屋に、ひとりの女性が座っている。結婚して十年。その結婚は、もうとっくにうまくいっていない。そこへ電話が鳴る。主治医からだ。治療したはずの乳がんが戻ってきて、骨にも、脳にも、肝臓にも広がっている。ステージ4。彼女はそれを部屋にいる二人に声に出して告げ、立ち上がって出ていく。まずその部屋から。やがて、その結婚から。
『人生の最期にシたいコト』はそこから始まる。この先の物語は、たいてい題名が約束するとおりに紹介される。ミシェル・ウィリアムズが演じるモリーは、誰かと一緒に絶頂を迎えたことが一度もない。死ぬ前に、一度でいいからそれを知りたい。可笑しくて、率直で、ときにとんでもなく、そしてとてもよくできたドラマだ。けれど笑いの下で語られているのは、看板に書かれていることと少しだけ違う何かである。
モリーが探しに行くのは快楽だ。けれど、最初に見つけるのはひとつの文法である。ドラマがキンクと呼ぶ性の片隅では、頼まれていないことは起きてはならず、何をするかは始める前に言葉にされ、たったひと言ですべてが止まる。他人が何を望んでいるかを読み取ることに人生を費やし、誰かが近づくたびに体がこわばってしまう女性にとって、その文法は、壁の位置が見える初めての部屋になる。そしてドラマは、見落とされやすいことをひとつしている。彼女に、その文法を寝室の外へ持ち出させるのだ。主治医のもとへ、母のもとへ、愛する男のもとへ、そして最後には、自分自身の最期へ。
残り時間の短さは、彼女の「やめて」を軽くしなかった。かえって重くした。この文章が言いたいのは、そういうことだ。もうひとつ言っておきたい。実在のモリーがいた。画面のなかのモリーと同じ人ではない。この文章は、二人を分けて扱う。
物語のあらまし、そして結末までふれることについて
『人生の最期にシたいコト』は、アメリカで制作された全八話のリミテッドシリーズで、キム・ローゼンストックとエリザベス・メリウェザーが生み出した。二〇二五年四月四日、アメリカで全話が配信され、日本でも同じ日にディズニープラスで独占配信が始まった。モリー・コーチャンをミシェル・ウィリアムズが、親友のニッキー・ボイヤーをジェニー・スレイトが、壁越しに気配の聞こえる隣人をロブ・ディレイニーが、夫のスティーヴをジェイ・デュプラスが、母のゲイルをシシー・スペイセクが演じる。下敷きになっているのは、実在のモリー・コーチャンが実在のニッキー・ボイヤーと作ったポッドキャストで、モリーは二〇一九年、四十五歳で亡くなっている。
先に断っておきたい。この文章は、最終話とモリーの死を含めて、シリーズの全体にふれる。結末を知らないまま彼女に出会いたい人は、ここでいったん読むのをやめて、観終えてから戻ってきてほしい。
ブルックリンに暮らすモリーは、尊大なジャーナリストの夫スティーヴとの不幸な結婚生活が十年目に入ったところで、あの電話を受ける。治療で処方されたホルモン剤によって性欲が高まり、夫に触れると、スティーヴは泣き出してしまう。病院で緩和ケアを担当するソーシャルワーカーのソーニャに、モリーは打ち明ける。誰かと一緒にいて絶頂に達したことは、一度もない。彼女は夫のもとを去り、俳優をしている親友ニッキーの部屋に移る。ニッキーは自分の暮らしを脇に置いて、彼女を看ることになる。出会い系アプリ、ホテルの部屋、エレベーターで出会った男。どれも寸前で、モリーのほうが引き返す。やがて壁越しに隣人の気配を聞き、自分が命じる側に立つのを好むのだと知る。ソーニャのかつての恋人には、支配する前にまず服従を学べと教わる。頼まれて隣人を蹴った拍子に、大腿骨が折れる。親密さが近づくたびに体がこわばる理由を、ドラマは最初からはっきり告げている。七歳のとき、母の恋人から性的虐待を受けていたのだ。
依存症から立ち直ろうとしている母ゲイルが、ふたたび姿を見せる。疲れ果てたニッキーは恋人のノアと別れ、モリーともぶつかる。名前も明かされない隣人に、モリーは愛していると告げる。その瞬間に、肺がつぶれる。呼吸の管が外れたあと、夜勤の看護師アーニーが渋々認めた病室で隣人は一夜を過ごし、モリーは初めて、誰かと一緒に絶頂を迎える。その後の検査で、がんが脊髄と脳に及んでいることがわかる。モリーはそれ以上の治療を断ってホスピスに移り、看護師のエイミーから、体がどのように死んでいくのかを教わる。ようやく母の手助けを受け入れ、隣人には去ってほしいと頼み、別れを告げに来たスティーヴを見送る。モリーは、ニッキーとゲイルに見守られて息を引き取る。時がたち、ニッキーは舞台の仕事に戻り、ノアとよりを戻している。そしてある日、性の話で笑い合う年老いた二人の女性に目をとめる。
この文章を書くにあたって、作品そのものを視聴して確かめてはいない。ここに書いたことは、作品の公刊された記録と、批評や取材記事から取っており、誰かの言葉を引くときは、それが誰の言葉なのかを添える。
モリー・コーチャンと、画面のなかのモリー
実在のモリーがいた。その人を、登場人物のなかに溶かしてしまうわけにはいかない。モリー・コーチャンは一九七三年にニューヨークで生まれ、ロサンゼルスで暮らしていた。乳がんの治療を受け、二〇一五年、それがステージ4として再発したことを知る。そのとき彼女と夫は、夫婦カウンセリングに通っていた。二人は別れ、報道によれば、その後もよい友人であり続けたという。残された時間の多くを、彼女はこのドラマが描くような探求に費やした。演技教室で出会って以来の親友ニッキー・ボイヤーと、その日々をポッドキャストにした。最後の録音は、病院のベッドで、そしてホスピスで、ボイヤーの携帯電話を使って行われた。モリーは二〇一九年三月八日に亡くなり、ポッドキャストは翌年に配信された。
このドラマが何の上に建っているのかを知るには、彼女自身の言葉がいちばんの手がかりになる。報道が伝えるポッドキャストでの発言によれば、処方されたホルモン療法のせいで、彼女は目に入るものすべてと、誰とでも、したくてたまらなくなったという。そして結婚について、いや結婚だけにとどまらない話として、こう語っている。長いあいだ自分は、相手が何を好むのかを見抜くことに、とても、とても長けていた。それを俳優のように演じてみせることもできた。けれど、自分が何を好きなのかは、本当にはわかっていなかった。診断のあとの探求が自分に何をもたらしたかについては、こう言った。それは自分を体につないでくれる。生きている、何かを生み出している、という感覚に。
ドラマは、その人生にいくつもの脚色を加えている。制作者たちもそれを隠していない。誰かと一緒に絶頂を迎えたことがないという設定は創作だと、ボイヤーは語っている。ポッドキャストで本人が話していたのは、治療のあいだに夫と性の歩調が合わなくなり、欲求が戻ってからも元には戻れなかったことだった。隣人は、実際に彼女が出会った多くの男たちを合わせてつくられた人物だ。蹴られるのを好む男性と付き合っていたのは本当だが、その拍子に大腿骨が折れたわけではない。二人の恋の物語は、制作者自身の言葉を借りれば、実人生からの大きな逸脱である。順番も変えられている。メリウェザーによれば、ポッドキャストが子ども時代の性的虐待にふれるのは終わり近くになってからだった。ドラマはそれを第一話に置いた。秘密として最後に明かすのではなく、それを抱えて彼女がどう生きたのかを描きたかったからだという。
メリウェザーは、ドラマがなぜ実人生のその先まで物語を進めたのかも、率直に語っている。実在のモリーが向かう途中にいて、たどり着く前に亡くなってしまった何かに向けて、物語を組み立てたかった。「それを彼女に贈ることにしたんです」。この一言が、以下のすべてを決めている。ドラマの結末は、書き手たちが亡くなった女性に贈ったものだ。贈り物として受け取られるべきであって、記録と取り違えられてはならない。
だからこの文章で「モリー」と書くときは、ほかの人々が書き、演じた、画面のなかの女性を指す。モリー・コーチャンについて語るときは、その話がどこから来たのかを添える。ボイヤーはこのシリーズの製作総指揮のひとりで、モリーの死の場面の撮影にも立ち会った。彼女の言葉は、取材記事からだけ引く。
議論の前に、彼女の理由を
議論に入る前に、彼女の理由を置いておきたい。こういう物語を語るときの決まった語り口は、たいていこの手順を飛ばすからだ。性を求める死にゆく女性は、笑い話にも、教訓にも、症例にもしやすい。どれも、彼女の話を聞かずに済ませるやり方である。
まず結婚から。ドラマのなかで、薬は、死を告げられたちょうどそのときに彼女の欲望を高める。そして夫に手を伸ばすと、夫は泣く。気まずい笑いを誘う場面として演じられているが、描き方は正確だ。夫は彼女を見て、その死を見る。彼女は自分を見て、自分のなかの渇きを見る。どちらも間違ってはいない。けれど、すでにうまくいかなくなっていた結婚には、その二つを同時に抱える力がない。望むこと自体が問題なのではない。望みに行き場がないことが問題なのだ。
次に、こわばり。親密さが近づくたびに、モリーのなかで何かが固まる。ドラマは、その理由を観る者に長く待たせない。第一話で、虐待のことをはっきりと、短く告げる。この文章も、先に同じように書いた。虐待は、筋書きが解くべき謎ではない。それが彼女に残したものも、診断ではない。虐待は彼女の過去にある事実であり、彼女がいちばんその場にいたいと願う瞬間に限って、呼ばれもしないのに体へやって来る。
制作者たちは、性教育者のエミリー・ナゴスキーに話を聞いている。その言葉づかいが、ここで役に立つ。ナゴスキーの『Come as You Are』は、性の反応を、同時に働くアクセルとブレーキとして描いている。この本がいちばん役に立つのは、ブレーキについて語るところだ。ドラマのなかの薬は、モリーのアクセルを床まで踏み込む。けれどブレーキは、少しも緩まない。いくら頑張っても事態が変わらないのは、そのためだ。部屋のなかで何かがまだ「いや」と言っているあいだは、どれだけ望んでも体は動かない。変えなければならないのは、彼女の努力ではない。部屋のほうである。
そして、こわばりのさらに下には、実在のモリーが自分で名づけた、もっと古い習慣がある。相手が何を好むかを見抜き、それを上手に差し出すことに人生を使ってきた女性は、誰の快楽にも詳しいのに、自分の快楽のことだけは知らないまま、中年にたどり着くことがある。それはひとつの有能さで、しばしば思いやりでもある。そして同時に、その場に本当にはいないための方法でもある。ドラマはモリーに、点数のような目標を与える。誰かひとりと、一度の絶頂を。けれどその目標の下にある本当の目標は、コーチャンが語ったとおりのものだ。自分が何を好きなのかを知ること。
だから、新しく手にした自由と短い時間で、彼女が最初に何をするかを見てほしい。アプリで知り合った男とホテルで会い、引き返す。エレベーターで出会った男を誘い、乳房切除の傷跡を見知らぬ人に説明するくらいならと、誘いを取り消す。引き返し、また引き返す。彼女のような立場の人にふつう向けられる助言は、急げ、というものだろう。時間がない、さっさと済ませてしまえ。ドラマはその助言をとらない。そして彼女が引き返すことを、一度も失敗として描かない。どの撤退も、そのまま認められている。
この図書室は「はじめての時は、若い人だけのものではない」で、どの年齢であれ、はじめての時を「さっさと済ませる」のは間違った物差しだと論じた。追い立てられて迎えるはじめては、結果だけを残して、何の手がかりも残さない。はじめてを安全にするのは、前もって整えておけるいくつかの条件だ。途中で止められること。誰が知るかを自分で決められること。そのあとも暮らしが壊れないこと。一度したからといって、その先を約束させられないこと。あの文章が相手にしていたのは、大人に「もう遅い」と告げる、想像上の締め切りだった。モリーの締め切りは本物だ。それでもドラマは、条件はやはり有効なのだと静かに示す。止めることは、やはり手がかりになる。残り時間がほとんどないなかで、彼女はその一部を、引き返すことに使う。ドラマはその時間を、彼女のものとして残しておく。
壁の向こうから
ようやく何かが動くのは、デートではなく、ひとつの物音からだ。家でひとりきりのとき、壁越しに隣人の気配が聞こえてくる。彼が自分のことを考えているのかもしれないと思っただけで、それで足りた。ごみ袋を手にした彼と廊下で鉢合わせしたとき、彼女は拾いなさいと命じ、彼はそのとおりにする。近づかれるたびに固まってきたモリーは、自分が命じる側に立つのを好むのだと知る。
なぜ、よりによってそれなのか。安易な答えは見下しになりやすく、ドラマはそれを避けている。支配が彼女の本性だとも、症状だとも言わない。ドラマが示すのは、もっと実際的なことだ。彼女が見つけた役割のなかでは、自分が口にしていないことは、何ひとつ自分の身に起きない。先に話すのは彼女だ。何が起き、いつ止まるのかを決めるのも彼女だ。そして彼が何を望んでいるかも、声に出される。彼自身が頼むのだから。前ぶれなく近づいてくる親密さに固まってしまう体にとって、すべての接近が前もって告げられる部屋は、ようやく居続けられる最初の部屋なのかもしれない。
ボイヤーは、実在のモリーについて、もっと平たい言葉で同じことを語っている。寝室で男たちを思いどおりに動かすことは、がんが自分の手に負えなくなっていたときに、何かを自分で動かしているという感覚をくれた。米誌タイムはそう伝え、ボイヤーがそれを「自分の体を取り戻すこと」と呼んだと書いている。英紙オブザーバーの批評でバーバラ・エレンも、画面のモリーについて、新しく見つけた力が彼女に自分で舵を取る感覚を取り戻させる、と書いた。ただ、ここでいう「思いどおり」が何を意味しないかは、付け加えておくべきだろう。力ずくのことではない。自分が書き手になることだ。検査や薬や他人の決定が、何年も彼女の次の場面を決めてきた暮らしのなかで、次に何が起きるかを自分で言う権利のことである。
そしてそれは、もっとも実務的な意味での同意でもある。ドラマはこの点を一度もぼかさない。蹴ってくれと頼むのは、隣人のほうだ。頼まれ、具体的で、される側が望み、しかも本人がいつでも止められる。だからそれは、彼女が彼に加えることではなく、二人で一緒にすることになる。頼まれていない蹴りは、見た目がどれほど似ていても、まったく別の行為である。彼女の好奇心は、それを同意に変えはしない。彼の興奮も変えはしない。変えるのは、彼が頼むこと、そして彼が止められることだ。
そして大腿骨。頼まれて蹴った拍子に、彼女の太ももの骨が折れる。がんは最初の電話のときから、彼女の骨にある。場面は喜劇として始まり、床に倒れて激痛にもだえる彼女で終わる。笑い話としてだけ覚えておくべき場面ではない。彼女がようやくその体で望みはじめたちょうどそのとき、その体は壊れはじめている。同意は、部屋にいる二人ともが望む行為をつくることはできる。骨を強くすることはできない。このドラマのすべての快楽は、その限界の内側で起きている。そしてドラマは、そうでないふりを一度もしない。
骨折で運ばれた病院のベッドで、モリーはソーニャに尋ねる。人を痛めつけなければ絶頂できないなんて嫌だ、私のどこがおかしいのか、と。ソーニャは笑って、どこもおかしくない、と答える。この点について、この図書室は留保なく同意する。こういう形の望みは病ではない。この文章も、それを病として扱わない。
まず、委ねてみること
このドラマでいちばん役に立つ教えは、モリーがほとんど知らない相手から与えられる。ソーニャの勧めで出かけたパーティーで、彼女は、ソーニャのかつての恋人が別の女性をゆっくりと、正確に導いていくのを目にする。そして、あれが欲しいと思う。その人が働く生活雑貨の店を訪ねると、主導する前に、まず従ってみなさいと言われる。この回には、主導する側に立つことは神聖な技術だ、という意味の題がついている。題は本気だ。
モリーは一度、その助言を無視する。ネットで見つけた、辱められたがっている金融業界の男を相手に。そして場面は、ドラマが実に精密に描くやり方で崩れていく。罵る言葉が、彼女自身に向きはじめる。彼女が話しかけているのは、もう彼ではない。傷跡の残る自分の体と、自分の過去だ。そこで、止めるための合図の言葉、セーフワードを口にするのは、床の上の男のほうである。すべてが止まる。彼は平気で、彼女は平気ではない。そして仕組みは、まさに働くべきとおりに働いた。力を握る側を、その下にいる側と同じように守ったのだ。
だから彼女は店に戻り、奥の部屋で、短く、丁寧に、その人に身を委ねる。そこで彼女が学ぶのは、そういう場で上手に主導してきた人なら誰でも知っていることだ。場面のなかの権威は、奪うものではなく、預けられるものである。それは手渡す側に属していて、それを上手に持つには、手渡すとはどういうことかを内側から知っていなければならない。
この図書室は、その手渡しを反対の側から書いたことがある。「『任せたい』は、何も決めたくないという意味ではない。」は、区切られた委ねは選択の不在ではなく、ひとつの行為に凝縮された選択であり、それを諦めから分けるのは縁なのだと論じた。主導権を渡す本人が前もって引く限度、すべてを止める言葉、そして、あらかじめ用意しておく帰還の道筋。このドラマは同じ設計を、もう一方の椅子から見せている。そして、あの文章が言う必要のなかったことをひとつ付け加える。縁は、導く側のことも守るのだ。金融業界の男との場面で、合図の言葉は彼女のために使われた。
ハリナ・ライン監督の『ベイビーガール』と並べてみる価値がある。夫とのあいだで一度も絶頂を知らなかった女性が、力のやりとりを通してそれに出会う、もうひとつの近年の物語だ。この図書室が「『ベイビーガール』、身を委ねることは弱みを握られることではない」で論じたとおり、あちらの遊びは現実の上下関係の上で行われ、あらゆる拒絶に値札がついた。モリーの部屋には、遊びの外に上下関係がない。隣人は彼女の部下ではなく、店のあの人も彼女の上司ではない。そこでは誰も、誰かの職業人生を握っていない。弱みの握り合いを差し引いたあとに残るのは、あの映画がどうしても届かなかったものだ。ただで口にできる「やめて」。
そしてドラマは、この文章が目を留めたいことをする。同じ日の午後、モリーは主治医の診察を受ける。診察台の自分の隣に座るよう頼み、一緒に呼吸をするよう言い、それから、残りの治療をどう進めたいかを告げる。医師は同意する。軽やかに演じられる場面だが、ここがこのドラマの蝶番だ。奥の部屋で覚えたばかりの文法、つまり、望みを言うこと、先に言うこと、どこで終わるかを言うことが、寝室を出て、診察室へ歩いていった。何年ものあいだ、彼女の体に何が起きるかを他人が決めてきた部屋へ。
ボイヤーの話によれば、実在の彼女の人生でも、同じことが起きていた。米誌ヴァルチャーが伝えるボイヤーの回想では、最期の数か月のコーチャンは、性の場面で自分が主導してきたやり方から生まれた自信と、自分で舵を取っている感覚をもって、死に向き合っていた。気力を奪う見舞いは断った。見下すような医師や、人間らしく接してくれない医師には、面と向かって話をした。
病室の一夜
病は、恋の物語を待ってはくれない。モリーは血栓のためにクリスマスを病院で過ごし、大みそかには手の感覚を失う。ある日、出かけた先で隣人に出会い、肺がつぶれるその瞬間に、愛していると告げる。病院で、彼女は呼吸の管につながれる。
そこで、ニッキーに委ねられた決断がやってくる。モリーが自力で呼吸できないかもしれないと知りながら、ニッキーは、楽にしてあげるために管を外すと決める。モリーは息をする。ドラマがもっとも深く信頼を寄せている瞬間であり、同時に、その同意の文法が自然な限界にふれる場所でもある。何かを頼むことも、断ることもできない時間が、人にはある。そのとき、彼女を愛する誰かが、決断を引き受けなければならない。それもまた手渡しであり、それが成り立つのは、必要になる前に二人のあいだで交わされてきた言葉があったからだ。
管が外れると、夜勤の看護師アーニーが渋々認めた病室で、隣人が一夜を過ごす。そしてモリーは初めて、誰かと一緒に絶頂を迎える。ドラマはそれを褒美のようには描かない。何がそれを可能にしたのかは、正確に言っておく価値がある。努力ではない。薬でもない。七話をかけて整えられた条件である。彼女の決まりごとを覚え、それを守る男。もう誰のためにも演じなくていい体。いちばん重い決断を代わりに引き受けた友。一夜が過ぎるのを許した看護師。ブレーキが外れたのは、部屋が変わったからだ。
制作者たちは、自分たちが何をつくろうとしていたのかを語っている。癒えるとはどういうことなのかをナゴスキーと長い時間をかけて話し合い、メリウェザーの言葉で言えば、モリーが体のなかにまるごといられる出会いへ向けて、物語を組み立てた。その場面をどう受け取るべきかは、すでに書いた。書き手たちが贈ることを選んだ贈り物として、である。それはモリー・コーチャンの人生の記録ではない。辛抱強く愛されさえすれば体は開く、という、ほかの誰かへの約束でもない。報道は、実在の彼女に、彼女自身の物語を残している。もっと静かで、しかし同じくらい彼女のものである物語だ。ボイヤーによれば、最期のときまで、病院のベッドの上でも、モリーは本当に生きていると感じていたかったし、できるかぎり普通でいたかった。
「行って」と言うこと
あの夜のあと、ドラマは向きを変える。その転回は、いくつもの文でできている。検査で、がんが脊髄と脳に及んでいることがわかる。モリーはそれ以上の治療を断る。ホスピスに移り、看護師のエイミーから、体がどのように死んでいくのかを教わる。ずっと拒み続けてきた母の手助けを受け入れる。そして死が近づくと、愛する男に、行ってほしいと頼む。
彼は理解し、去っていく。メリウェザーは、愛にはいろいろな形があり、本当の愛の行為は、彼が理解して、去っていくことなのだと語っている。モリーの側から見れば、それは彼女が彼に与える最後の命令であり、いちばん難しい命令だ。そしてそれは、あの文法が性のためだけのものではなかったことを証明している。彼女は望みを言う。いまは、あなたにいてほしくない、と。どこで終わるかを言う。彼は頼まれたとおりにする。はじめから、やさしく、ずっとそうしてきたように。
報道によれば、ポッドキャストにも、この瞬間にあたる場面がある。モリーがニッキーに、もうセックスはおしまい、と告げるのだという。二つの結末は、違う言葉で同じことを言っている。望みは、命より先に終わることがある。そして、それを終わらせることもまた、彼女のものだ。
スティーヴが別れを告げに来る。モリーはホスピスで、ニッキーとゲイルに見守られて亡くなる。ドラマはその死を、部屋の反対側からの引きの画で、途切れさせずに映している。制作者たちは、その部屋にいながらも、誰かの顔のすぐそばまでは寄らないようにしたかったと語っている。この文章は、それよりも少なくしか書かない。彼女が亡くなったこと、そして、ひとりではなかったことだけを書く。
最終話の書き方について、ローゼンストックは、最期のモリーは怖がっていなかった、自分が何を望んでいるのかを知っていて、完全に自分で舵を取っていた、と語っている。それが誰かの死に方の描写として正しいかどうかを、文章が確かめることはできない。けれど、ドラマがモリーに与えたものの描写としては正確だ。よい死に方、という観る側のための言葉ではない。最後のひと言まで、彼女自身の文である。
残る側の人、ニッキー
ローゼンストックは第一話を、プロポーズの場面のようなものだと言っている。モリーがニッキーに、言ってみれば、あなたのそばで最期を迎えさせてくれるかと尋ねる場面だ。ニッキーは引き受ける。そしてドラマは、看る人を描くときにテレビがめったにしないことをする。その代償を数えるのだ。
ニッキーは自分の暮らしを脇に置く。スティーヴから渡されたモリーの医療記録を、すぐになくしてしまう。もっとも、米誌タイムによれば、実際のボイヤーは役よりずっときちょうめんで、そんなことはなかったという。歯の手術から回復するあいだに恋人のノアが彼女の携帯の電源を切り、モリーからの連絡に返事ができなくなると、ニッキーは彼と別れる。看る人の線だ。連絡がつかないことが、看ている相手にそのまま響く、ちょうどその場所に引かれた線。大みそかには、ニッキーとモリーが言い争い、モリーが謝る。それもまた、彼女が覚えはじめた文のひとつだ。
制作者たちは、人生のどこかでがんに見舞われる人は多いけれど、誰かを看る側になる人はそれよりさらに多い、だからニッキーの歩みも描きたかった、と語っている。ドラマは最後の画を、その場所に置く。モリーの死のあと、時が進む。ニッキーは舞台の仕事に戻り、ノアとよりを戻している。そして、性の話で笑い合う年老いた二人の女性に目をとめる。ローゼンストックによれば、あの画が抱えているのは、二人にはあの長い友情が訪れない、という喪失だ。その二人の役には、実生活でも親友どうしの二人が選ばれている。
このドラマでもっとも痛い画であり、もっともやさしい画でもある。悲しみと快さを、同じ画面のなかに並べておくからだ。はじめからずっと、そうしてきたように。そしてこの画は、物語が教訓で終わることを拒んでいる。制作者たちは、がんを抱える人たちから、自分の病気を、誰かが人生を大切にすることを学ぶための道具にされたくない、と聞いていたという。だからドラマは、ニッキーが喪失を感じるところで終わり、そこから何かを教わるところでは終わらない。彼女の人生は、ただ続いていく。友のかたちをした穴を抱えたまま。
このドラマのなかで、看ることは、モリーが覚える文法の反対側にあるものではない。もう半分だ。最初の「うん」、ノアへの「いや」、管についての決断、最後に握った手。残る側でいることもまた、いくつもの文でできている。その多くは、自分自身に向けて言われる。
日本で観るということ
日本では、このドラマはディズニープラスで『人生の最期にシたいコト』という題で観られる。「したい」の「し」をわざわざカタカナで書くところに、目配せのような遊び心がある。扱われている主題は、遠い国の話ではない。国立がん研究センターの最新の統計によれば、女性が診断されるがんのなかで最も多いのは乳がんで、二〇二三年のデータにもとづくと、女性のおよそ八人に一人が、生涯のうちに乳がんと診断される。多くの女性が、いつかどこかで、生き延びることだけではない体の問いを抱えて、診察室の椅子に座ることになる。
その問いについて、国のがん情報サービスが書いていることは、多くの人が思うよりも穏やかで、率直だ。国立がん研究センターが公開している、がんと性生活についてのページはこう述べている。がんやその治療は性生活に影響することがあり、それは誰にでも起こりうることで、特別なことではない。性生活に対する考え方は人それぞれで、大切なのは、本人がどう考え、どうしていきたいかだ。向き合いたくない、考えたくないと思うときには、無理に考える必要はない。
女性に向けたページは、聞くことは恥ずかしいことではない、とも書いている。体についての疑問は担当の医師に、直接たずねにくければ看護師を通してもいい。そして、全国のがん診療連携拠点病院などに置かれたがん相談支援センターの名前が挙げられている。患者本人もパートナーも、誰でも無料・匿名で利用でき、性生活についての悩みも相談できる窓口だ。
この率直さには意味がある。病のまわりで語られる物語は、たいていもっと率直ではないからだ。米誌タイムの批評家ジュディ・バーマンは、このドラマを「完璧な患者」の物語への反論と呼び、このモリーは、献身的な男が何が本当に大切かに目覚めるための道具などではない、と書いた。日本で観る人も、その型をよく知っているはずだ。若い女性に残された時間と、それに心を動かされる人々をめぐる物語は、この国にも少なくない。ドラマはその型を拒み、生きている側が死にゆく人をどう扱うかについても容赦がない。ある回でモリーは、治る見込みのあるがんの女性たちの支援グループに、嘘をついて入り込む。そして出ていくよう求められる。グループの進行役に言わせれば、彼女に起きていることは、そこにいる人たちがいちばん恐れていることだから、というのだ。
生まれ育った場所から遠く離れて日本で暮らす女性には、このドラマは、まず別のところに届くかもしれない。モリーが主治医にしたように、自分の治療の進め方を自分で伝えることは、母語でさえ難しい。慣れない言葉で、怯えた体を抱え、緊張で語彙がやせていくなかでは、自分の望みを言う一文が間に合わないこともある。必要になる前に、近くのがん相談支援センターがどこにあるかを知っておき、言葉の助けを頼めるかどうかを尋ねておく価値はある。そして、そういう女性にこのドラマがいちばん強く問いかけるのは、性のことではないのかもしれない。第一話でモリーがニッキーにした、あのプロポーズの奥にある問いだ。最後に、誰にそばにいてほしいと頼むだろうか。
この読みへの反論
反論を三つ挙げる。最初のものが、いちばん強い。
米国のウェブ媒体に書いた批評家のダナ・ディッキーは、自分が覚えた居心地の悪さに名前をつけた。彼女の読みでは、このドラマが語っているのは、女性は死にかけていて、しかも被害者でなければ、満たされる性に値しない、という物語だ。観客がモリーを応援できるのは、彼女が死を宣告され、傷を負っているからだ、と。ディッキーは、ドラマがそのかわりに、性の快楽は誰にとっても人生に欠かせないものだ、と言ってほしかったと書いている。この文章は彼女の結論に同意する。そして彼女の反論には、すべては答えられない。最期の願いという枠組みを持つ日本語の題は、その反論をいっそう鋭くさえする。言えることがあるとすれば、この物語の望みは診断とともに始まったのではない、ということくらいだ。本人の言葉によれば、実在のモリーは長いあいだ、他人の快楽の専門家だった。診断は彼女の望みを生み出したのではない。望みを先送りにさせてきた理由を、取り払ったのだ。理由の取り払われ方として、それはあまりにむごい。誰も、そんなものを必要とするべきではない。
第二の反論は、結末に向けられる。恋の物語はドラマの創作であり、モリーの旅の最後の一歩を、ひとりの男に手渡している。ボイヤー自身による実在のモリーの要約は、別の方向を指している。彼女は恋をしたかった。そして恋をした。自分自身に恋をしたのだ、と。女性の物語を、相手の男を通して解決させることで、ドラマはそれをありきたりなものにしたのではないか。そう考える読者の側には、制作者たち自身の説明がついている。この図書室は「『5時から7時までのクレオ』、見られることが効かなくなる九十分」でも、同じ種類の反論を認めた。自分の人生へ向き直る女性の転回が、男の同伴のなかで完了する映画についての文章だ。ここでも、それを認める。手に入るもっとも狭い応答は、ドラマがそのあと、モリーに彼を送り出させていること、そして最後に彼女の手元に残るのは男ではなく声だ、ということである。
第三の反論は、癒しについてだ。制作者たちは、回復とはどういうことかを性教育者に相談し、ドラマ全体をそこへ向かう動きとして組み立てた。こういう文章は、キンクは人を癒すとか、声に出した決まりこそ被害を受けた人に必要なものだ、という方向へ滑っていきかねない。この文章は、そのどちらも言わない。モリーと似た過去を持つ人のなかには、力のやりとりを軸にした部屋が、決まりごとがどれほど丁寧に言葉にされていても、まさに入ってはいけない部屋だという人もいるだろう。このドラマにも、この文章にも、誰かへの助言は含まれていない。主張はもっと狭い。この登場人物にとっては、声に出した決まりが「やめて」をいつも手の届くところに置いてくれた。そして、いつでも止められるという条件こそが、彼女の体がその場にとどまっていられる条件だった。それは架空の女性についての読みであって、ほかの誰かについての知見ではない。
この家が売っているもの、借りてはならないもの
この家は私的な同伴を売っている。それをここで、本文のなかで言っておく。女性の快楽についての文章が、そういう家から書かれるということは、主題に利害を持つ当事者が書いているということであり、読み手には、ここまでのすべてをそれと照らし合わせる権利があるからだ。
同じくらいはっきり言っておくべきことがある。このドラマは、何かのサービスを勧める物語ではない。モリーが見つけたもので、買われたものはひとつもない。彼女はそれを、隣人と、店の奥の部屋にいたほとんど見知らぬ人と、親友と、一夜が過ぎるのを許した夜勤の看護師と、ようやく受け入れた母とのあいだで見つけた。その並びのなかに、この家の居場所はない。死にゆく女性の物語を借りて一夜を売る家があってはならないし、この家はそれをしない。
この家がこのドラマから受け取るのは、ひとつの基準であり、誰よりも先に自分自身をその基準で測る。どの行為も頼まれてから始まること。条件は始まる前に言葉にされること。すべてを止めるひと言があり、それがどちらの側にも使えること。そして「やめて」が、決して失敗として扱われないこと。これは基準であって、いつもそれを守れているという主張ではない。
この文章が主張していないこと
これは医療についての文章ではない。どの薬についても、何も主張していない。ドラマのなかでモリーの欲望を高めるホルモン剤についても同じだ。似た作用についてのモリー・コーチャン自身の話は、彼女の話として伝えている。がん、骨、呼吸、ホスピスや緩和ケアについても、ドラマが描いていることと、先に紹介した公式のページが述べていること以上には、何も主張していない。治療と体についての疑問は、治療にあたる人たちのもとへ。
誰も診断していない。モリーのこわばりは描写しているだけで、名前をつけてはいない。子ども時代の虐待が大人一般にどう影響するかについても、何も主張していない。キンクが何かを癒すとも言っていないし、誰にも何も勧めていない。
実在の人々と登場人物を分けて扱っている。モリー・コーチャンとニッキー・ボイヤーについて書いたことは、公刊された報道と取材記事から取り、出どころを示している。ドラマが創作したところは、創作だと書いた。モリー・コーチャンの夫については、診断のあとに二人が別れ、その後も友人であり続けたという報道の事実のほかには、何も書いていない。
ドラマやポッドキャストに関わった誰も、この家とは何の関係もなく、ここにそれをにおわせるものは何もない。
手元に残しておく問い
診断のあとのモリーではなく、診断の前のモリーに、何か覚えのあるものを見た人のために、いくつか問いを置いておく。
恥ずかしいからではなく、ただ誰にも聞かれなかったから、一度も声に出したことのない望みはあるだろうか。あなたの暮らしのなかで、理由を用意せずに「やめて」と言える場所はどこで、言えない場所はどこだろう。いつか医師に、どう進めてほしいかを伝えなければならなくなったとき、その言葉を口にしているのは、あなた自身の声だろうか。それとも、誰か別の人の声だろうか。そして、最後に、誰にそばにいてほしいと頼むだろう。
モリーは、自分の文を遅くに覚えた。店の奥の部屋と病院のベッドで、ほとんど時間の残っていないなかで。ドラマはそれを勇敢なことに見せるし、実際に勇敢だった。けれどドラマのどこにも、その文が宣告を待たなければならなかったとは書かれていない。
望みを口にすることも、「やめて」と言うことも、医師の宣告がなければ許されないものではない。どちらの文も、それを使う理由を誰かに与えられる前から、ずっとあなたのものだった。
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読みもののお便り
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