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『あなたがしてくれなくても』と、誰のせいでもない痛み

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セックスレスに悩むふたりが、戦友になる。ふたりとも自分に触れてくれない相手を愛していて、その愛が怒りの向け先を消してしまうことを、このドラマは正確に描く。触れられないことは誰のせいでもないが、そのあとで何をしたかは、それぞれが引き受けるしかない。

第一話のはじめのほう、昼休みのデパートの下着売り場。建設会社で働く三十二歳の吉野みちは、そろそろ旦那さんにも刺激が必要ですよ、という後輩のすすめに押されて、派手な下着を買う。セックスレスのことでここ数日ぎくしゃくしていた夫の陽一は、その夜、彼女を抱きしめて約束する。今日はもう遅いから、別の日に。約束の夜、会社に忘れたスマートフォンを取りに戻ったみちは、夫からの連絡を見つける。少し遅くなる、と。

そのあと、ひとりで缶ビールを飲みながら夜風にあたっていると、会社の上司の新名誠がたまたま通りかかる。並んで飲むうちに、みちは、誰にも言えずに抱えていたことを口にしてしまう。結婚して五年。夫とは仲がいい。毎晩同じベッドで眠っている。それなのに夫は、もう二年、自分に触れていない。

この夜には、悪者がひとりもいない。夫は約束し、そして少し遅くなった。それだけのことだから、苦しい。怒りをぶつける相手が、どこにもいない。

二〇二三年の春にフジテレビで放送された『あなたがしてくれなくても』は、セックスレスになった二組の夫婦、四人の物語である。フジテレビが公式サイトに載せた第二話のあらすじに、作品全体を背負う一文がある。会社の花見の席で、みちと新名は自分たちが同じ状況にあることを知り、夫を、妻を「愛しているからこその苦しみ」を打ち明けあう。ふたりは、作中の言葉でいう「戦友」になる。

この文章は、こう考える。愛は、この痛みをやわらげるのではない。怒りを向けられるただひとりの相手を、消してしまうのだ。自分に触れてくれない相手がやさしく、自分もその人を愛していて、その人も自分を愛しているなら、触れられないことは誰のせいでもない。そして誰のせいでもない痛みには、行き場がふたつしかない。内側へ向かえば、自分への判決になる。横へ向かえば、同じ痛みを抱えたもうひとりのところへ行く。そうして始まった戦友の関係は、それなりに誠実で、やがてふたりにとっていちばん嘘のない関係になっていく。だからこそ、あれほど高くつく。触れられないことは、誰のせいでもない。けれど、そのあとで何をしたかは、それぞれが引き受けるしかない。

作品について、そして読み進める前に

事実を一度だけ確かめておく。『あなたがしてくれなくても』は、フジテレビの木曜劇場の枠で、二〇二三年四月十三日から六月二十二日まで、木曜の夜十時に全十一話が放送された。翌週に放送された、最後の二話のあいだの数か月を描く特別編には、この文章ではふれない。吉野みちを奈緒、夫の陽一を永山瑛太、新名誠を岩田剛典、その妻の楓を田中みな実が演じる。陽一のカフェで働くことになる三島結衣花をさとうほなみが、みちの後輩の北原華を武田玲奈が演じている。原作は、双葉社の『漫画アクション』で二〇一七年に連載が始まった、ハルノ晴の同名の漫画である。

作り手たちは、この題材をよく知っていた。同じ枠で二〇一四年に放送された不倫ドラマ『昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜』の西谷弘監督と当時の制作スタッフが、九年ぶりに集まったのだ。プロデューサーの三竿玲子は放送の発表に際して、二組の夫婦の四人がそれぞれにもがき苦しんでいて、誰ひとりとして本当の意味での悪者はいない、そういう作品にほれこんだと語っている。原作者のハルノ晴も二〇二四年のインタビューで、誰かひとりがとことん悪者になってしまうような描き方だけはしないようにしている、人の数だけ考え方や正義があるのだから、と語った。この文章はふたりの言葉をそのまま受けとったうえで、悪者のいない物語は、そのなかにいる人たちに何をするのかを考えたい。

ふたつ、断っておく。この文章は、作品の映像を見て書いたものではない。場面は、放送局による各話のあらすじと、最終回についての報道が伝えるとおりに書き、台詞は、あらすじや報道そのものが引いている短い言葉のほかは、要約で伝える。そして、この先では結末まで含めて作品全体にふれる。この作品の主張が決まるのは、結末だからだ。結末を先に画面で見届けたい人は、ここでいったん読むのをやめて、あとで戻ってきてほしい。

悪者のいない、ふたつの結婚

陽一は、雇われの店長としてカフェを任されているが、店はあまり繁盛していない。自分のだめなところも含めて受け入れてくれるみちを、彼は愛している。人との関わりを避けて生きてきた彼にとって、みちは、まったく気を遣わずにいられるただひとりの相手だ。ところが、いざその場面になるとプレッシャーを感じて、いつも適当にはぐらかしてしまう。そして、セックスがなくてもいい夫婦関係を築けていると信じている。みちには、そうは思えない。女としての魅力が足りないのかもしれないと努力を重ね、そのたびに期待外れに終わってきた。

新名は、社内で評判の男だ。仕事ができて人当たりがよく、家事もこなす「奥様思い」の夫として知られている。妻の楓は、ファッション誌の副編集長になったばかりで、今がキャリアの正念場だと感じている。夫の支えがあるから今の自分があるとわかっていながら、心に余裕がなく、夫をぞんざいに扱ってしまうことも少なくない。夫の本音には、気づいていない。周囲からは、美男美女の理想の夫婦と見られている。

どの人物の描き方にも、理由が書きこまれている。陽一のはぐらかしには重圧が、楓の上の空には正念場のキャリアがある。新名の献身も、みちの努力も本物だ。それぞれの寝室の空白には、いきさつがある。けれど、犯人はいない。

だからこそ、この物語はつらい。そしてそれは、作り手が選んだことだ。冷たい夫がいれば、みちには出口があった。冷淡な妻がいれば、新名にはまっとうな不満があった。作品は、そのどちらも差し出さない。

愛は、痛みに何をするのか

あの一文のなかで「愛している」という言葉が何をしているのかを、見ておきたい。愛されていないのなら、触れられないことはひとつの情報になる。相手について何かを教えてくれるし、怒りの置き場所もくれる。けれど、自分が愛している人に、やさしく愛されているのだとしたら、触れられないことは謎になり、その謎に残された答えは自分しかない。みちの痛みが最初に向かうのは、そこだ。私の何がいけないのだろう。彼女は下着を買う。沈黙を、自分の体への判決として読む。ほかに判決の向け先がないからだ。

この図書室は、その仕分けを外側から描いたことがある。「セックスレスは区分であって、判決ではない。」は、雑誌でその言葉に出会い、ただの集計を自分への判決として聞いてしまう女性を追いながら、この区分は観察できるひとつの事実で結婚を仕分けているだけで、誰の価値についても何も語っていないと言いきった。このドラマでは、雑誌がなくても同じ仕分けが起きる。みち自身が、その雑誌になっているのだ。そして判決をもっともらしく感じさせているのが、愛である。夫はやさしいし、大事に思っていると言ってくれる。だとしたら、いけないのは自分のほうだ、と。

愛には、もうひとつ厄介な働きがある。言葉を封じてしまうのだ。やさしい人に向かって、あなたは私を傷つけていると言えば、その人を傷つけることになる。だから言葉は下着になり、冗談になり、別の夜にとりつけた約束になる。新名は、反対側から同じ難しさを抱えている。妻の不在がどれほどこたえているかを口にすれば、妻の成功を恨む夫になってしまう。そして彼は、妻のその成功を支えることを、自分の生きがいにしてきた。だから何も言わず、家のことを回し、待っている。

誰のせいにもできず、それが向けられている当の相手にも言えない痛みは、消えはしない。横へ流れていく。

戦友

会社の花見の席。すでにみちの秘密を聞いていた新名は、彼女を心配して外へ連れ出し、ふたりきりになったところで、自分もまた妻とセックスレスなのだと打ち明ける。みちが泣き出し、新名は思わず彼女を抱きしめる。

ふたりがなっていくものを、作品は「戦友」と呼ぶ。放送局のあらすじには「セックスレスの戦友」とある。もとは同じ部隊でともに戦った仲間を指す言葉だが、国語辞典は比喩的な使い方として、仕事やスポーツなどで厳しい競争をともに経験した仲間を挙げ、会社の黎明期に苦労をともにした戦友、という例を添えている。このふたりは同僚で、この言葉がよく似合う。戦友は、恋人ではない。同じ側に立って戦う人のことだ。そしてここでは、ふたりとも、それぞれの相手にもう一度求められるために戦っている。

はじめのうち、この関係はふたつの結婚のどちらにも誠実だ。結婚記念日を前に、みちは新名に、楓に思いを伝えるよう背中を押す。陽一が二年ぶりに花束を贈ってみちを求めたとき、男性が急にプレゼントをくれるのはどういうときかとみちが尋ねると、新名は、大切な人を喜ばせたいという愛情表現だと答える。進展があったと報告するみちを、新名は微笑みながら祝福する。その表情にかげりがあることに、みちは気づく。理由は、まだ知らない。

関係がどう流れていくかは、想像にかたくない。そして作品は、それを誰かの決断としては描かない。戦友だけが、ほんとうの言葉を聞いてくれる。配偶者には気を遣わなければならないが、戦友には話すだけでいい。説明しなくてもわかってもらえることは、人が人に与えられるもののなかで、もっとも親密なもののひとつだ。そしてふたりがそれを与えあえるのは、まさに、ふたりともほかの誰かを愛しているからなのだ。ここに、あの一文の罠がある。相手への愛が、この関係を安全なものに感じさせ、その安心が、関係を深くしていく。

触れないという約束

かげりには、理由があった。結婚記念日の夜、楓は仕事で待ち合わせのレストランに間に合わず、ずいぶん遅れてホテルの部屋に来たものの、疲れていて、頭は仕事のことでいっぱいで、夫を拒んだ。新名は呆然と街を歩き、みちに電話をかけた。みちは出なかった。

やがてふたりは水族館へ出かけ、その帰り道、思いがあふれて口づけを交わす。研修旅行の夜には、部屋でふたりきりになり、金平糖で星座をつくって遊ぶ。新名はみちを抱き寄せ、みちも身をまかせて、こうして愛されたかったのだと感じる。そして、ふと気づくと涙が流れている。それを見た新名は、体を離す。どれほど新名に惹かれていても、みちの心から陽一は消えていなかった。

翌日、新名はオリオン座に似た形の砂時計を贈り、とんでもないことを頼む。もう指一本触れないから、今までのようにそばにいてほしい。いけないとわかっていながら、みちはうなずいてしまう。

この頼みごとの前で、少し立ちどまりたい。セックスのない結婚をしている男が、別の女性に、触れることのない近さを求める。しかも本気で。次の回のあらすじには、新名にとってみちは、触れあうことがなくてもそばにいてほしいと願うほど必要な存在なのだ、と書かれている。だとすれば、彼が楓とのあいだで失っていたのは、行為だけではなかった。ふたりの戦友が飢えていたのは、誰かの味方でいること、そして誰かに味方でいてもらうことだった。自分の困りごとを、その形のままわかってもらえること。そのなかに、ひとりで置き去りにされないこと。

ずっとあとで、楓はこの近さに、残酷で、しかもぴたりと当たっている名前をつける。「心のセックス」。戦友のふたりには、その言葉を聞く余裕がない。けれど、文章なら聞ける。ふたりが築いたのは体の不倫ではなかったし、作品もその違いを丁寧に描いている。それは打ち明けることでできた親密さで、しかもふたりの結婚に欠けていたものでできていた。どちらの配偶者も知らなかったし、どちらも何ひとつ聞かれなかった。これは、寂しいふたりを裁く言葉ではない。自分の人生を変えかねないことが起きているのに、そこから外されていた人がいた。その事実を言っているだけだ。

「みちとだけ」という告白

陽一の側の物語は、見えにくい。彼はほとんど口をきかないからだ。花束を贈ってみちを求めたあの日、陽一は最後までできず、そのことをあとあとまで気に病んでいる。カフェには、ふたりの思い出の桜のジグソーパズルが飾られている。それを眺めながら彼は、出会ったころからずっと、合わせてくれていたのはいつもみちのほうだったと思い出す。そのつりあいは、これからも崩れないと思っていた。やがて陽一は、セックスのことも含めてみちと向き合うと約束し、みちは夫と向き合うために新名に別れを告げる。そして、久しぶりにふたりで旅行に出かけようとしたその日、彼はほんとうのことを打ち明ける。みちとだけ、セックスができない。そして、一度だけ裏切った。

この告白の前半は、作品のなかでいちばん奇妙で、いちばん痛い言葉だ。みちが恐れていた判決と、その正反対とが、同時にふくまれているからである。原因は、あなただ。けれど、あなたの体のせいではない。作品はその理由を示さないし、この文章も付け足さない。名前もつけず、診断もせず、子ども時代にさかのぼった説明もしない。言えるのは、もっと狭いことだけだ。一度きりの夜が示すとおり、彼の欲望はある。だから、これは量が足りないという話ではない。

この図書室は「性欲の差は、量の差ではなく、文脈の差。」で、こう論じた。ふたりの欲望の差は、たいていは量の差ではない。どんな条件がそろえば欲望が動きだすのか、その条件の差であって、条件はしばしば変えられる、と。「みちとだけ」は、その議論のいちばん厳しい形だ。ここでの条件は、詰まった予定でも、隣の部屋で眠る子どもでも、鍵のかかっていないドアでもない。結婚そのものである。ひとつの読みとして、あくまで読みとしてだが、こう考えることはできる。彼にとってみちがかけがえのないのは、何ひとつ取りつくろわなくていいただひとりの相手だからだ。そのことこそが、欲望には変えられないのかもしれない。セックスの場面だけは、取りつくろわなければならないと彼が感じてしまう場面だからだ。作品は、これを確かめてはくれない。ただ、その場面で重圧を感じてしまう男と、彼にそれを感じさせまいと、ずっと自分を合わせてきた女を描いている。予定なら組み替えられる。けれど、結婚がふたりをどんなふたりにしてきたのかを組み替えるのは、もっと難しい。しかもそれは、どちらかひとりではできない。

そして、どれほどやさしい口調で言われても、この言葉がみちから奪うものは返ってこない。二年間、彼女は自分の何がいけないのかと問いつづけてきた。今、彼女は、自分についての答えで、しかも自分のせいではない答えを手にした。それをどうすることもできないまま。

一度きりの夜と、その代償

みちと新名が水族館の帰りに口づけを交わした夜、陽一は三島結衣花と衝動的に体を重ねる。三島はカフェを手伝いに来た女性で、その接客のおかげで、閑散としていた店が繁盛しはじめていた。翌朝、みちが熱を出す。陽一は罪の意識から、出勤の途中で引き返して彼女を看病する。のちに彼は三島に、あの夜のことはなかったことにしてほしいと頼む。三島は、自分もそのつもりだったとあっさり答え、陽一を驚かせる。

三島を、夫を試すためだけに登場する、もうひとりの女として片づけるのはたやすい。作品は、それもさせない。三年前、彼女は当時の上司と不倫関係にあり、今その妻から慰謝料を請求されている。陽一が、みちに打ち明けたのだと話すと、三島は怒りをあらわにする。それは自分が楽になりたいだけの身勝手だ。話されたことで妻は深く傷つき、その怒りの矛先はやがて相手の女に向かうのだ、と。そして、かつての不倫相手の妻がカフェに現れる。三島は謝り、あれから一度も会っていないと言う。妻は、この三年間、心から笑ったことも、怒ったことも、夫に触れたこともないと語る。陽一は、それが聞こえるところに立っている。

セックスレスの結婚が不倫を生む物語のなかに、作品は、不倫がセックスレスの結婚を生んでしまった女性を置いた。不倫は空白を埋める手立てにはならない。空白の原因にさえなりうる。

だから、誰が何を支払ったのかを名指しておきたい。三島は二度支払う。一度は昔の不倫への請求として。もう一度は、他人の告白のなかの「一度だけ」になることで、つまり別の夫婦の清算のなかで、証拠のひとつにされることで。かつての不倫相手の妻は、三年分の人生で支払っている。みちは、もう聞かなかったことにはできない言葉で。陽一は、取り消せない一夜で。こうした場合に、日本の法律のもとで誰が誰に何を請求できるのかは、弁護士に尋ねるべきことで、ドラマについての文章が答えることではない。

打ち明けるべきかどうかという問いを、作品はふたりの女性に向け、正反対の答えを言わせる。三島の怒りは、打ち明ける側が楽になるための告白に向けられている。華はみちに、本当のことを言っても旦那さんを傷つけるだけだ、隠したまま一生背負っていくのが浮気の罰なのだ、と厳しく言う。それより前には、陽一への怒りをぶちまけるみちに、被害者はあなただけなのかと問いかけてもいた。どちらが正しいのか、この文章は決めない。ただ、どちらの答えにも代償があり、どちらの場合も、その一部を背負うのは、何も聞かれなかった誰かなのだ。

楓の理由を、先に

放送のあいだ、楓には視聴者の味方が少なかった。そして作品は、後半になるほど、彼女を責めることを難しくしていく。判決の前に、彼女の理由から始めよう。副編集長への昇進は、競争の激しい業界でのことだ。憧れであり目標でもある編集長のもとで、いまは仕事にすべてを注ぐしかない時期にいる。それは冷たさではないし、作品もそのことで彼女を悪者にはしない。

記念日の夜に拒むかどうかは、楓が決めていいことだ。一夜の「いや」は、結婚への判決ではない。それを判決に変えてしまうのは、その「いや」が何を意味していたのかを、誰も口にしないことだ。のちに楓は謝り、買ってきた料理を並べて待つ。新名は、仕事への思いはわかっていると答えながら、料理には手をつけずに寝てしまう。楓は、自分が夫にしてきたことを返されたように感じる。車のナビに水族館の履歴を見つけ、夫が誰と行ったのかを言おうとしないときも、彼女がまず考えるのは夫の裏切りではない。記念日に自分が拒んだせいではないか、ということだ。

やがて楓は、みちの前に現れる。視聴者が「地獄のランチ」と名づけた場面だ。長い沈黙のあと、楓は落ち着いた口調で問いただし、みちは謝ることしかできない。あなたさえいなければ、うちは何の問題もなくうまくいっていた、と楓は言う。追いつめられたみちは、自分の悩みは夫とのセックスレスだったのだと口にしてしまう。動揺した楓は、「たかがレスごときで」と返す。

この返しには、新名夫婦のすべてが入っている。夫にとって痛みのまんなかにあったものが、妻には小さなことだった。妻が冷たいからではない。夫が、それがどれほど大きいかを、一度も言わなかったからだ。結婚が一度も聞かなかった言葉を、戦友だけが聞いていた。

最初の兆しは、車の画面から届いた。そのほかのことは、誰よりも遅れて知らされた。夫が記念日をやり直してくれた夜、心の準備はできていたのに、夫はひとりで寝室へ行ってしまう。ホテルに移って夫の気持ちを試すが、帰ってこいという連絡は来ない。離婚を切り出されると、夫がとまどうほどあっさり応じる。どれも、彼女が受けるに値した罰ではない。物語のなかで、ひとり知らされずにいた人が支払う代償である。最終回を伝えたある記事は、最後になって楓を応援する声が上がったと書いている。

ようやく差し出された手

ここで作品は、ただの不倫ドラマではなくなる。ずっと応えられなかったふたりの配偶者が、ついに、待っていた相手に手を伸ばすのだ。陽一はみちを、楓は新名を求める。そして、何年もまさにそれを望んできたはずのふたりが、流れに身をまかせるうちに、思わず拒んでしまう。ふたりは、そんな自分にショックを受ける。放送局のあらすじには、この場面を作品の倫理の中心にする一文が添えられている。陽一と楓もまた、今まで自分がしてきたことが返ってきて、相手のつらさを知ることになる、と。

拒絶を仕返しとして読むのは簡単だ。けれど、放送局のあらすじに、そう読ませるところはない。むしろ、手が遅すぎたとき、別の理由で伸ばされたときに起きることのように見える。その手は、告白のあとで、結婚が脅かされたと感じたあとで、修復として差し出された。あなたを失いたくないという手であって、あなたがほしいという手ではない。そして長いあいだ、期待しないことを覚えてきた体は、言われてすぐにひらくものではない。ここに病名はいらないし、つけるべきでもない。

言い訳も、いらない。結婚していることも、長く待ったことも、自分がかつて望んでいたことさえも、ある夜に体を差し出す義務を、誰にも負わせはしない。記念日の楓の「いや」が彼女のものだったように、今のみちの「いや」はみちのもので、新名の「いや」は新名のものだ。拒むことは、失敗ではなく情報である。そしてこの場面で、作品の対称はようやく完成する。そこには、どこか救いのようなものがある。この場面が終わるころには、四人の誰もが、待っていた側と、応えられなかった側の両方を経験している。もう誰も、自分だけが傷つけられた側だとは言えない。それは屈辱ではない。四人がはじめて共有するものだ。

寝室がひとつの部屋

吉野家の寝室の沈黙の下には、もうひとつの沈黙があった。作品はそれを、間取り図で掘り起こす。カフェのオーナーは陽一に、妻に浮気がばれたと打ち明ける。前にばれたときは家を買って許してもらった。家は一生の買い物で、妻へのでっかいラブレターなのだ、と。

その夜、陽一はみちに、賃貸の更新をやめてマンションを買わないかと持ちかける。内覧の予約も、もう入れてあるという。彼なりのラブレターのつもりだったのかもしれない。けれど見せられた間取りは、寝室がひとつしかない。夫がふたりの未来に子どもを思い描いていないことを、みちは知る。内覧の日、陽一はみちの気持ちをくんで、寝室がふたつある部屋も見せてもらう。みちは子ども部屋になるはずの部屋に立ち、もしセックスレスでなかったら、今ごろ子どものいる家庭ができていたのだろうかと考える。

これが、作品全体の下にあった、もっと重い問いだ。そして、誰も口にしなかった問いでもある。セックスレスは、未来をめぐる食い違いの上に乗っていた。子どものいる未来は、みちのものだった。子どものいない未来は陽一のもので、一度も言葉にされなかった。

乗らなかったバス

新名が転職で会社を去る最後の夜、華の計らいで、ふたりはラーメンを食べる。別れぎわ、新名はみちの手をとって走り出す。バス停までたどり着き、来たバスに乗ろうとして、ふたりは踏みとどまる。もうどこにも逃げたくない、と。ふたりはそれぞれの家へ帰り、自分の結婚相手と向き合う。

戦友のふたりがしたことのなかで、これがいちばんいいことだ。そしてそれは、拒むことだった。この関係は、始まったときと同じように誠実さで終わる。ただしその誠実さは、もう取り決めにではなく、ほんとうのことに向けられている。

新名は楓に離婚を切り出す。みちも陽一に、話したいことがあると告げる。すると陽一は、彼女が言う前に、子どものことなら作ってもいいと言う。その言葉に、みちはもう一度傷つく。これ以上自分をすり減らしたくない、と彼女は言い、離婚してくださいと告げる。誰か好きな人がいるのかと陽一は尋ね、みちは、彼を傷つけないために新名のことを隠し通そうと決めて、いない、と答える。陽一は、離婚はしないと返す。

彼の申し出は、そのままの重さで受けとめられるべきだ。口にするには覚悟が要ったのかもしれない。けれど、相手を引きとめるために差し出される子どもは、望んで言う「はい」ではなく、失うのが怖くて言う「はい」だ。みちは、言い争いに折れるようにして子どもを与えられることを拒む。彼女が受け入れられなかったこと、そしてそう口にしたことでようやく取りつくろいが終わったことを、作品は正しく描いている。

ここから先は、最終回の内容にふれる。

二組の離婚が成立すると、新名はみちを水族館に誘う。これまで自分の気持ちは後回しにしてきたけれど、あなたへの気持ちだけは大事にしたい、と彼は言い、ずっといっしょにいてほしいと告げる。みちは、その気持ちには応えられない、誰にも頼らずひとりで生きていきたいと答える。ちゃんと振ってくれてありがとう、と新名は言う。ふたりは、戦友になれたことも、互いを好きになったことも後悔していないと伝えあって、別れる。

結末と、手渡された言葉

月日が流れる。ひとりの暮らしは、みちが思っていたより不便で、寂しい。陽一は、ふと入った店でみちが別の男と会っているのを見かけ、新名を呼び出して、みちには誰かがそばにいて見ていてやる必要があるんじゃないのかといら立つ。実はそれは、華が約束を二重に入れてしまったために、みちが代わりに会っていた相手だった。新名もいら立って、みちさんはひとりで生きていますよ、と返す。

育児雑誌の編集長になった楓は、元夫とみちが付き合っていないことを知る。新名がみちを戦友だと言うと、楓は、いつまで「心のセックス」を続けるつもりなのか、寒気がする、と言い放つ。翌日、みちと鉢合わせした楓は、面と向かって「泥棒猫」と呼び、そのうえで彼女を立ち飲み屋に連れていく。ふたりはそこで、それぞれが結婚について、セックスについて考えてきたことを語りあう。それから楓は、みちを陽一の店へ連れていく。そこには、けじめをつけに来た新名がいた。

新名は、自分にはみちの心の穴を埋められなかったと言い、ふたりの幸せを願う。陽一は何も言わない。みちが帰ろうと促し、三人は店を出るが、外でみちは忘れ物をしたと言って引き返し、陽一ともう一度やり直すことにする。その姿を見送りながら、楓は新名に、戦友になってあげる、と声をかける。最後の場面、坂をのぼっていくふたりの幸せそうな姿が、よりを戻したふたりなのか過去の場面なのかをめぐって、視聴者の意見は分かれた。奈緒は、それがいつのふたりなのかは明確にしていない、見る人それぞれのなかのラストになればいいと思っていた、と語っている。

この言葉が、どこからどこへ移ってきたかを見てほしい。「戦友」は、ふたつの結婚の外で結ばれた同盟の名前として始まり、かつて夫婦だったふたりのあいだの申し出として終わる。これが、作品が自分の題名に返す答えだ。ふたつの結婚に欠けていたのは、セックスだけではなかった。戦友のふたりが互いのなかに見つけたもの、つまり、同じ問題をはさんで向かいあうのではなく、同じ問題の同じ側に立つことだった。戦友の関係が結婚の外で育ったのは、結婚のなかの誰も、それを支えているひと言を口にできなかったからだ。楓の申し出は、その言葉を本来の場所に戻す。ふたりの結婚には遅すぎた。けれどふたりにとっては、まだ遅すぎないのかもしれない。

みちは、なぜ戻ったのか。いちばんやさしい読み方をすれば、何を失ったのかを互いに知った今だからこそ、結婚は直す価値があるのかもしれない、ということになる。そのころには、みちも知っている。戦友にできることと、できないこと。ひとりの暮らしは、決意が見積もっていたより寂しいこと。そしてもしかすると、自分に触れられなかった人が、自分のことを気にかけるのをやめてはいなかったことも。それは証明ではないし、作品も答えを示してはいない。

ひとりで見られた物語

原作の漫画は、スマートフォンのなかで大きな読者を得た。主な利用者が二十代から三十代の女性だという電子コミックの配信サービスで、二〇一八年の年間ランキングの一位になり、一万四千三百件を超えるレビューが寄せられた。運営会社は、セックスレスの悩みは、誰かに聞いてほしい一方で誰にも言えないまま抱えている人が多いように思う、その「だれかに伝えたい、聞いて欲しい」という思いがレビューにつながったのではないか、と語っている。五年後、ドラマも同じ道をたどった。放送時の視聴率は決して高くなかったが、最終回を伝えたある記事によれば、家族そろって見るより、ひとりでじっくり見たいという視聴者が多く、見逃し配信で数々の記録を打ち立てた。民放各局の公式配信サービスはこの作品を二〇二三年のドラマ大賞に選び、総再生回数が五千六百万回を超えたと発表している。奈緒は、「こっそり視聴」という言葉ができるほど、ひとりで見てくれる人がいるのだと感じたと語り、百人のうち三人でいい、これは自分のことだと思ってくれる人がいたら、と思いながらみちを演じていたという。

打ち明ける相手のいない痛みの物語は、ひとりひとりの小さな画面のなかで、見る人を見つけていった。レビューを書いた人たちも、こっそり見た人たちも、みちと新名と同じことをしていた。結婚の外に、あのひと言を置く場所を探していたのだ。作品は、そのうちの何人かにとって、戦友になったのかもしれない。

この図書室は「『昼顔』と、予定の入っていない唯一の時間」で、あのドラマの夫たちを、家にいながら不在の人たちとして読んだ。誰も不満として名指せないかたちで、そこにいないのだ。そしてその結婚の欠乏を、加害者のいない欠乏と呼んだ。九年後、同じ監督とプロデューサーは、そこからもう一歩進んだ。ここでは、配偶者は不在ではない。そこにいて、やさしく、愛されていて、愛してもいる。それでも寝室は空いたままだ。そして「『1122 いいふうふ』と、決まりが肩代わりしたひと言」は、セックスのこと以外なら何でも話せる夫婦が、話すかわりに決まりをつくる物語を読んだ。この作品の夫婦は、決まりをひとつもつくらない。話は結婚の外で、戦友を相手に交わされる。そして作品は、それが何を支払わせるのかを問う。

そのどれも、この作品を日本の結婚の肖像にするものではない。まんなかにある空白には、どこに暮らす人も覚えがあるだろう。日本で、母語ではない言葉で暮らしている女性にとっては、この戦友の関係が、別の形で見覚えのあるものかもしれない。同じ言葉を話す友人や、同じ境遇にいる友人。その人となら、自分の暮らしをいちいち翻訳しなくていい。作品は、そういう人がいることの救いも、その危うさもわかっている。ほんとうの言葉を聞いてくれる人が、その言葉に答えられる人だとはかぎらない、ということを。

この読みへの反論

この読みが間違っている可能性は、少なくとも五つある。

ひとつめ。この結末は、修復ではなく屈服なのかもしれない。最終回を伝えたある記事は、ふたりの子どもへの思いが何も変わらないまま元のさやに収まったことで、多くの視聴者が混乱したと書き、別の記事は、「うそでしょ」「理解できない」「モヤモヤする」といった声を伝えている。寂しさは、誰かのもとへ戻る理由としては心もとない。触れてくれなかった男のもとへ女性を戻す物語は、我慢に報いて、それを愛と呼んでいるだけなのかもしれない。この文章は、それに答えられない。作品は子どもの問いを開いたままにしている。みちは同じ問題のところへ戻っただけだと考える人は、間違っていない。

ふたつめ。悪者がいないということは、責任を問われる人がいないということにもなりうる。この物語では、何人もが嘘をついている。新名は、水族館に誰と行ったのかを楓に隠した。みちは陽一に、好きな人はいないと言った。陽一は三島に、あの夜をなかったことにしてほしいと頼んだ。そして代償がいちばん重くのしかかったのは、戦友の関係の外にいた人たち、楓と三島と、三年間夫に触れていない妻だった。悪者のいない物語でも、過ちを描くことはできるし、この文章はそれを名指そうとしてきた。けれど作品は、戦友の関係を美しいもので取り囲んでいる。水族館、金平糖の星座、オリオン座の形をした砂時計。美しさは、それ自体がひとつの主張になる。

みっつめ。「戦友」という言葉は、ふたりを持ち上げすぎている。それは戦友のふたり自身の言葉で、作品もそれを採用している。楓の言葉のほうが手厳しく、もしかすると、より正確だ。最終回では、批判はみち自身に向かった。新名をはっきり振っておきながら、連絡があれば昔の戦友として受け入れ、ひとりで生きると言いながら、一年もたたないうちに陽一に近づいていく。その一貫性のなさに苛立つ声もあったが、それはほんとうのことに気づいた声だ。寂しさは、決意を守ってはくれない。みちの選択を戦友という言葉で包むこの文章は、あの言葉がふたりにしたのと同じことを、彼女にしているのかもしれない。

よっつめ。この文章の主張は、きれいにまとまりすぎているのかもしれない。痛みを口にできなくしていたのは、愛だけではない。意地も、答えを聞くことへの恐れも、疲れも、吉野夫婦のどちらも切り出せなかった子どもをめぐる食い違いもあった。愛はそのなかでいちばん聞こえのいい理由にすぎない、と考える人は、正しいのかもしれない。

いつつめは、この家に向けたものだ。この家は私的な同伴を売っている。だから、結婚の外で話を聞き、わかってくれる誰かを、セックスレスの結婚の物語の主役にする読み方は、この家にとって都合がいい。作品は、そういう読み方を、いちばん誠実なひと言で退けている。その誰かにいちばん近づいた男が、自分には彼女の心の穴を埋められなかったと言うのだ。この家にも、埋められない。そしてこの家は、自分をセックスレスへの答えだとも、家のなかで言えずにいることを聞く戦友だとも言わない。この物語の誰も、サービスを必要としてはいなかった。必要だったのは、愛している人と同じ側に立つこと、あるいは、立っているふりをやめることだった。

この図書室の立場

愛しあっている結婚のなかでセックスがなくなることは、多くの場合、誰のせいでもない。それでも、誰かの痛みではある。愛はその痛みを打ち消さない。怒りを向けられる相手を、取りのぞいてしまうだけだ。痛みがいちばん行くべき場所は、いちばんたどり着きにくい場所だ。その痛みが向けられている、当の相手のところ。ふたりが、同じ問題の同じ側に立てるのなら。

遅れて差し出された手は、拒んでいい。子どもは譲歩ではない。打ち明けることは、それが関わる相手のためにするものであって、打ち明ける人が楽になるためのものではない。戦友の関係の外にいる人たちも、結婚の外にいる人たちも、そのなかで起きたことの代償を払う。その人たちのことも、数に入れるべきだ。結婚は、守りきれなくても敬意を払うことができるし、終わらせなくても正直に見つめることができる。作品は、自分の結末が正しいとは言わない。ただ、「戦友」という言葉ははじめから家のなかにあるべきだった、と言っているように見える。

手元に残しておく問い

この物語のなかに、見覚えのある寝室を見つけた人のために、いくつか問いを置いておく。

あなたの結婚についてのほんとうのひと言を、聞いているのは誰だろう。それは、あなたが結婚している相手だろうか。相手がやさしい人なのだとしたら、あなたの怒りはどこへ行ったのだろう。内側へ行って、自分への判決に変わったのか。それとも横へ行って、わかってはくれても答えることのできない誰かのところにあるのか。問題をはさんで向かいあうのではなく、同じ側に立つとしたら、それはどういうことだろう。もし今、遅れて手が差し出されたら、あなたの体は何と言うだろう。そしてそれを、失敗ではなく情報として受けとめられるだろうか。ふたりで立てた計画、たとえば間取り図や、家計や、予定表は、まだふたりで話していない未来について、何を語っているだろう。

もしあなたが、自分の何がいけないのだろうと問いつづけてきたのなら、この作品には、なぐさめでも非難でもない答えがある。あなたには、何もいけないところはないのかもしれない。それでも、何かがうまくいっていない。そのふたつは、同時に本当でありうる。触れられないことは、誰のせいでもないのかもしれない。けれど、それをどうするかは、あなたのものだ。はじめの一歩は、その痛みが向けられている当の相手のほうを向いて、ふたりで同じ側に立てないだろうかと尋ねることかもしれない。

ほかの章から読む

セックスレスは区分であって、判決ではない。この言葉を作ったのは日本で、数年ごとに数え、それで雑誌が売れる。しかしこの区分は、彼女の結婚で実際に何が起きているのか、彼女が何を望んでいるのかを、何も教えてくれない。『夫のちんぽが入らない』が問い直す、「できる夫婦」が普通なのかということ性交がうまくいかないことと、夫婦としてつながれないことは同じではない。こだまの私小説から考える、痛み、羞恥、普通という圧力、そして「親密さ」を一つの行為に閉じ込めないための視点。台湾。先に動いたのは裁判所で、法律はその判決の名を負っている台湾は「アジアで最初」と報じられる。その言い方は、すでに合意していた社会があったことを含意する。そうではなかった。二〇一七年五月に憲法裁判所が判断を示し、二年の時計が動き出した。その一年半後の国民投票で、七百五十万を超える人々が逆の方向に投票した。そして立法府は、民法を改正するのではなく、あの判決の名を冠した一本の法律を通すことで、その差を割った。国民投票が強いた妥協が、法律の題名そのものに残っている。ここにいる読者への教訓は、文化が成熟していなければならない、ということではない。どこかの機関が先に動く意思を持たねばならない、そして先に動いた者は、請求書をどこかへ送ることになる、ということである。

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週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

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