Cinema
『Fair Play/フェアプレー』と、彼のものだと決まっていたはずの席
マンハッタンのヘッジファンドで働く二人は、ひそかに婚約している。彼が得るはずだった昇進は、彼女に与えられる。この映画はふつう、男のもろさを描いた作品と呼ばれる。この文章が追うのは、もっと狭く、もっと硬いものだ。上の席はもともと自分のものだという、彼が一度も口にしない前提。そして、その前提が、二人が安全に保ってきた唯一の部屋に何をするのか。
夜遅く、ひとりの女性が会社のトップに呼び出される。ファンドのポートフォリオ・マネージャーがひとり解雇されたばかりで、空いたその席には、彼女がひそかに婚約している男が座るらしい。同僚たちがそう話しているのを耳にして、彼女は彼と祝杯をあげたところだった。ところが最高経営責任者は、その席を彼女に与えると告げる。
彼女は家に帰り、彼に伝える。彼は、おめでとうと言う。
クロエ・ドモントの『Fair Play/フェアプレー』は、そのひとことと本心とのあいだの距離を描いた映画であり、その距離を一歩も省かずにたどる。すねることから足を引っぱることへ。足を引っぱることから、両家の前での辱めへ。そしてその先、この文章がたどり着いたところで、はっきり名前を呼ぶことになる地点へ。この映画はふつう、作り手自身の言葉も含めて、男のもろさを描いた作品だと言われる。それは正しい。ただ、少し広すぎる。映画が取り出しているのはもっと狭いもので、その近くで暮らしたことのある人にとっては、もっと役に立つものだ。ひとつの前提である。
ルークはそれを一度も口にしない。自分自身に向かってさえ、言葉にしたことはないのかもしれない。上の席はもともと自分のものだ、という前提。彼女も出世していくだろうし、自分はそれを喜ぶだろう。ただし、一歩うしろで。誰も彼女に尋ねないうちに決まっていた順番で。彼女の昇進は、この前提を傷つけるというより、覆す。そして彼は、覆されたことを、奪われたこととして受けとる。奪われたのなら、取り返さなければならない。手の届くところに残っている、どんな通貨を使ってでも。
前提は、生まれつきのものではない。教えられ、報われることで身につく。この映画でそれを教えるのは、何よりも二人の職場である。だからこれは、男についての文章ではない。序列が、人が自分の値打ちを数える単位になったとき、愛に何が起きるのか。そして、その数え方を、彼女も含めてそこにいる全員に教えこむ職場について書いた文章である。
記録と、結末にふれる前に
まず記録から。『Fair Play/フェアプレー』はクロエ・ドモントの長編第一作で、脚本も彼女自身が書いている。それまで彼女は、アメリカのテレビドラマの演出で何年か経験を積んできた。エミリー・マイヤーズをフィービー・ディネヴァー、ルーク・エドマンズをオールデン・エアエンライクが演じる。二人はマンハッタンのヘッジファンド、ワン・クレスト・キャピタルのアナリストだ。ヘッジファンドとは、投資家から預かった大きな資金を、相場が上がる局面でも下がる局面でも利益を狙って運用する会社のことで、アナリストは銘柄を調べ、売り買いを提案する役目を負う。この会社では、社員どうしの交際が禁じられている。ファンドの最高経営責任者キャンベルを演じるのはエディ・マーサン。映画は二〇二三年一月にサンダンス映画祭で初上映され、争奪戦のすえにネットフリックスが二千万ドルで権利を得て、同じ年の十月に配信を始めた。上映時間は百十三分である。
エミリーとルークは愛し合っていて、職場の誰もそれを知らない。ルークの兄の結婚式で彼が求婚し、エミリーは一瞬ためらってから受け入れる。ポートフォリオ・マネージャー、つまり預かったお金を実際にどこへ投じるかを決める運用の責任者がひとり解雇されると、後任はルークだという話を彼女は耳にし、二人は祝杯をあげる。ところが深夜、キャンベルに呼ばれたエミリーは、その地位が自分に与えられると知る。
その速い転回のあとで、ゆっくりとした転回が始まる。ルークは三千ドルを払って、職場で自己主張するための講座を受けはじめ、君も受けたらどうだと言い、ベッドでは彼女に背を向ける。キャンベルはエミリーに、ルークは使いものにならないと思っていると漏らす。ルークの勧めた取引に彼女が乗ると、ファンドは千五百万ドルを失い、キャンベルは彼女を責め立てる。次にルークが持ってきた情報は、使えば違法になりかねないものだった。彼女はそれを退け、別の会社の株の空売り、つまり値下がりに賭ける取引を自分の判断で勧め、それが当たる。五十七万五千ドルのボーナスの小切手を受けとった彼女は、男性の同僚たちとストリップクラブで祝う。酔って帰った夜、小切手を見ていたルークは、体を使って出世したのかと問いつめはじめる。
ここから先、この文章は結末を含めて映画の全体にふれる。最後の幕にはレイプがある。この文章はそれをはっきりそう呼び、描写はしない。翌日にエミリーがすることについても同じである。この文章は、作品そのものを観たうえで書いたものではない。ここに書くことは、作品の公刊された記録と、ドモントがインタビューで語ったことと、記録として残る批評にもとづいている。記述が食い違うところでは、共通する部分だけを書く。
彼だと思っていた夜
祝杯の夜に戻ってみる。この映画が差し出すもっとも精密な証拠であり、しかも数分で過ぎてしまう場面だからだ。次はルークだという噂を聞いたとき、エミリーは彼のために喜ぶ。無理をしている様子はない。彼の出世は、彼女から何も奪わなかったはずだ。二人が一度も話し合ったことがなく、それでもどちらも前提にしていたらしい順番を、確かめるだけだったのだから。彼が先、という順番を。
順番が逆になったとたん、同じ喜びが彼には手の届かないものになる。それでも彼は、おめでとうと言う。その言葉のいくらかは本心かもしれない。アメリカの公共ラジオ局の批評で、アイシャ・ハリスは、ルークは漫画に出てくるような女性蔑視の男ではない、という公平な指摘をしている。他人のための喜びと、自分への失望。ふたつの反応が同時に起きているのであって、どちらもありふれたものだ。友人が望みのものを手にするのを見送ったことのある人なら、この二つが一緒にやってくることを知っている。ありふれていないのは、二つめの反応の行き先であり、それを口にできない理由のほうである。
口にできないのは、それが本当は失望ではないからだ。失望は、望んでいたものについての感情である。ルークが失ったのは、すでに自分のものだと信じていたものだ。そういう喪失には、人前に出せる名前がない。愛している女性に向かって、君の昇進のせいで、君より上に自分でひそかに決めていた地位を失った、とは言えない。だから前提は地下にもぐる。そして地下で、前提がいつもすることをする。取り立てる先を探すのである。
ドモントは、この映画は自分の人生から始まったと語っている。アカデミー賞を主催する映画芸術科学アカデミーのウェブ媒体に二〇二三年十月に掲載されたインタビューで、彼女は、仕事が軌道に乗りはじめたころ、成功がどこかで損失のように感じられた時期があったと振り返った。当時つき合っていた男性たちのせいだった。彼らは彼女の野心を愛し、才能を愛していた。それでも、彼女が大きくなると自分たちが小さく感じてしまう、という口にされない感覚がそこにはあった、と彼女は言う。彼らを守るために、彼女は小さなところで自分の足を引っぱるようになった。そしてどの関係でも、どちらの側もそれを認めることができなかった。彼女自身も含めて。ここで重みを担っているのは、口にされない、という言葉である。誰も口にしない前提は、交渉することも、断ることも、卒業することもできない。仕えるか、取り立てられるか、そのどちらかしかない。
この映画はエミリーに、説明のない一瞬をひとつだけ残している。求婚にうなずく前の、あのためらいだ。映画はそこに何があったのかを語らないし、この文章も語らない。映画がそれをそこに置いたままにしている、ということで十分である。
得点表につながれた寝床
この映画は浴室から始まる。ルークの兄の結婚式を抜け出した二人は、浴室で体を重ねようとする。生理の血で少し汚れても、どちらも気にしない。そして彼は、その場で求婚する。遊び心があって、恥じらいのない、いい幕開けだ。二人の親密さがそれまでどんな場所だったのかを教えてくれる。何ひとつ取り繕わなくていい場所。いちばん人に見せたくない体の状態でさえ、取り繕わなくていい場所。
それから、序列が動くにつれて、その親密さがどう動くかを見てほしい。次はルークだという噂が流れた夜、二人は一緒に祝う。キャンベルが地位をエミリーに与えたあと、彼はベッドで彼女に背を向ける。小切手を見たあと、彼は彼女をまったく求めなくなる。映画評論家のブライアン・エガートは、この二人の性生活を、二人の力関係を映しだす、賢くて心理的に込み入った計器だと評した。言い得ている。この二人のあいだで、欲望はずっと、ひそかに得点表とつながっていた。順番が保たれているあいだは、誰にもその配線が見えなかった。
寝床が安全な場所でなくなる、というのはこの意味においてである。そこは、見かけどおりに安全だったことは一度もない。条件つきで安全だったのであり、その条件とは彼の序列だった。一方が下にいるあいだだけ保たれる親密さは、安全ではない。休戦である。そして休戦は、その条件が試されたときに終わる。
翌年に公開されたハリナ・ライン監督の『ベイビーガール』を横に置いてみる。最高経営責任者の女性が、自分より下の立場にいるインターンに、二人の遊びのなかで命じられたいと望む映画だ。あの作品にはあの作品の深刻な問題があるが、これはそのひとつではない。彼女の望みは、彼女が上にいつづけることを必要としていない。この映画の困難は、女性が男性より上の立場に立つことではない。彼の欲望がいつのまにかその逆に寄りかかるようになっていたこと、そして誰もそれに気づかなかったことにある。それまで、気づく必要がなかったからだ。
断られた男が、そのあとにすること
この図書室は「初デートの安心は、危険がないことではない。最初の小さな「いいえ」のあとに何が起こるかだ。」という一篇で、男性とのあいだの安全を示す確かな証拠はひとつしかない、と論じた。望んだものが得られなかったとき、その人が何をするか。断られたあとも温かさが残るのか、それとも温かさは、断られないことを条件にしていたのか。この映画は、その試験を職業人生の規模で行う。「いいえ」を言うのはエミリーではなく、ファンドだ。そして映画の残りは、ルークがその「いいえ」をどうしたかの記録である。
彼が最初にするのは、それを彼女に向けることだ。キャンベルには手が届かないが、彼女には届くからである。恨みの相手はファンドなのに、取り立ては家で行われる。はじめは古い通貨、助言で。講座に金を払い、君も受けたらどうだと言う。そのひとことのあいだだけ、彼は「わかっている側」の位置に戻ることができる。次に彼は、下の立場から彼女の成功を自分の手柄にしようとする。ファンドに千五百万ドルの損を出したのは彼の勧めた取引で、そのつけは彼女に回される。彼が次に持ちこんだ情報は彼女に退けられ、当たったのは彼女自身の判断だった。
そして、この映画を組み立てている軸の一手が来る。ここでは速度を落としたい。これこそが、あの前提の最後の防衛線だからだ。小切手を見たルークは、体を使って出世したのかと問いはじめる。この問いが彼のために何をしてくれるのかを見てほしい。もし彼女がベッドでその地位を手に入れたのなら、彼は職場で何も失っていないことになる。前提が覆されたという事実は、不正として分類し直される。一度も持ったことのない序列が、彼にまだ動かせる唯一の帳簿、つまり彼自身の帳簿のなかで、元に戻される。彼が払うのは真実だけだ。彼女が払うのは、その出世が意味していたことのすべて、つまり自分の力で勝ち取ったということである。しかも映画の描くところでは、彼の疑いに火をつけたあの小切手こそ、彼女がまさに彼の近道を断ることで得たものだった。
その残酷さは、精密でもある。前提がすでに序列と結びつけていた通貨で、彼女を攻撃しているからだ。寝床は得点表だった。いま彼は、寝床は賄賂だったと言う。
「『落下の解剖学』と、証拠として提出された結婚」は、どの夫婦もつけている帳簿と、そのなかで決して清算できない種類の記入について書いた。相手が何かをしたという記入ではない。自分が生きられなかった人生という記入であり、相手には払いようがない。何を差し出しても、それは生まれてこないからだ。ルークの記入は、この種類のものである。彼が得られなかったポストを、エミリーは払えない。だから彼は、誰も負っていない借りを抱えた人間がすることをする。債務者をこしらえるのだ。あの告発が、そのこしらえものである。
そこから、取り立ては人前に出る。彼はキャンベルに忠誠を誓う大げさな演説をして、次のポストがすでに埋まっていると知らされる。酔った彼は、海外の投資家に向けたエミリーのプレゼンに乱入し、キャンベルを罵倒し、二人の関係をぶちまける。二人で分けあっていたただひとつの秘密を、彼女が持っていて自分は持っていないただひとつのものを壊すために使うのだ。彼女の母が開いた婚約パーティーで、彼は両家の前で、彼女が体と引き換えに地位を得たとほのめかす。エミリーは瓶で彼の頭を殴る。
数え方を教えた場所
ここで止まって、ルークを「そういう男」の棚にしまってしまえば楽だ。映画はそれをあまり許さない。二人の関係と同じくらい、ファンドについても鋭いからだ。ワン・クレスト・キャピタルは、エガートが指摘するように、解雇されたばかりの男が建物から運び出されていくあいだ、アナリストたちが、誠実さと多様性という会社の価値観を説く研修の映像を見せられている場所である。男たちの夜の付き合いは、ストリップクラブだ。脚本の準備のために金融業界の人々と会ったドモントは、映画のレビュー共有サイト、レターボックスドの取材に、彼らは思っていたよりずっと感じがよかったが、その世界は弱肉強食の動物の王国で、仕留めた者だけが食べる世界だと語っている。そして、その人たちと話してはじめて、性暴力を告発するミートゥー運動が金融の世界には届かなかったのだと知った、とも。
キャンベルは、このファンドの信条がそのまま人の形をとったような男だ。ルークを使いものにならないと考えていて、それをエミリーに言う。彼女が推した取引がうまくいかないと、彼は彼女を責め立てる。そしてのちに、いちばん大事な場面で、誰の責任かなど関係ないと彼女に言うことになる。こういう場所では、ポストは仕事ではない。人の値打ちについての判定であり、人前で言い渡され、いつでも取り消されうるものだ。
ルークは、この場所の例外ではない。いちばん忠実な生徒である。ファンドが信じていることを、彼も信じている。男の値打ちは、序列のどこに立っているかで決まる、と。彼はその算術を、持ちこむべきでない家に持ちこみ、それまでその算術を免れていた唯一の関係に当てはめる。ドモントはその結果を男のもろさと呼ぶ。そう呼ぶのは彼女の権利だ。この文章が付け加えたいのは、それが序列の上に建てられた自己のもろさだということ、そしてそういう自己を建てることこそ、ファンドがそこで働く全員に対してしていることだ、ということだけである。
この型は、画面の上だけのものではない。二〇一五年に経済学の専門誌クォータリー・ジャーナル・オブ・エコノミクスに載った研究で、マリアンヌ・ベルトラン、エミール・カメニカ、ジェシカ・パンは、アメリカのデータから、妻が夫より多く稼ぐことへの忌避と彼らが呼ぶものの兆候を報告した。妻の収入が夫を上回る夫婦は、結婚への満足度が低く、離婚する可能性が高かった。そしてそうした夫婦では、家事の分担の男女差が縮むのではなく、むしろ大きかった。ただし証拠には、この映画がいつも払うとはかぎらない注意を払っておきたい。のちにアリエル・バインダーとデヴィッド・ラムは、その研究のよく知られた発見のひとつが拠っている夫婦の収入の分布からは、そうした規範があるのかどうかについてほとんど何もわからない、と論じた。残るのは、一部の夫婦がそのなかで暮らしていて、研究者が不完全にしか測れていない型である。男という存在の法則ではない。
肝心なのは、そこだ。ルークが抱えている前提は、彼が発明したものではない。けれど、彼の体に書きこまれているものでもない。人が教えこまれうるものであり、人が拒みうるものである。
彼女の理由と、あの部屋の入場料
エミリーもその算術の外にいるわけではないし、映画もそのふりはしない。彼女は男たちが建てた部屋に席を得て、その部屋の決まりに従って、それを守っている。彼らと飲む。取引の成功を祝うために、彼らとストリップクラブへ行く。彼らの冗談や、それよりひどいものを、受け流す。ハリスは彼女を、出世をたくらみながら、同僚たちの性差別や言葉による嫌がらせを受け流していられる人物として描き、エガートは、ただの仲間のひとりになろうとしている女性をそこに見た。会社が禁じているから、彼女は婚約を隠す。
これらをすべて軽蔑とともに読むのはたやすい。席ひとつと引き換えに、自分の側を売った女として。この文章はその読みを採らない。やさしさからではない。ドモントは、ヘッジファンドの世界を選んだのは、そこで上にのぼっていく女性がごくわずかだからだと語り、自分が見せたかったのは、彼女がテーブルの席を守り、男たちの内輪にとどまるために何をしなければならないか、生き残るために、多くの点でどれほどきれいごとではすまないふるまいをしなければならないかだった、と述べている。ストリップクラブは好みの問題ではない。入場料である。部屋が選んだ通貨で払う入場料だ。それを払うことを拒む女性は、自分への敬意を守って、席を失うかもしれない。隣にいる男たちは、その選択を迫られることがない。
もうひとつ、家で払われる代価がある。ドモントが自分の人生について語ったもの、つまり男に自分は小さいと感じさせないために、女性が小さなところで自分の足を引っぱってしまうことだ。エミリーもそれを払う。彼女は気の進まないまま、昇進を伝える。職場でルークのために口添えしようとし、損失のつけは、その口添えをした彼女に回ってくる。ベッドで彼に手を伸ばし、背を向けられる。どれもうまくいかない。理由を、映画ははっきり見せている。あの前提は、彼女が何をしたかとは最初から関係がなかった。盗まれたと信じられている序列は、どれだけ小さくなってみせても戻らない。小さくなってみせること自体が、その序列がいまや彼女の与えるものだという証拠になってしまうからだ。
そして、彼女がストリップクラブから酔って帰った夜は、彼が小切手を見た夜でもある。職場で払う入場料と、家で待っている恨みが、同じ戸口から入ってくる。映画は、その巡り合わせを彼女のせいにはしない。映画が見せるのは、職場で部屋の決まりに従う女性が、家に帰るとその部屋の算術に出迎えられることがある、ということだ。一緒に暮らす男が、同じ場所でそれを覚えてきたからである。
パーティーの浴室と、その翌朝
映画は、結婚式の浴室から始まった。そして、婚約パーティーの浴室に戻ってくる。瓶のあと、エミリーはそこへ入り、ルークがあとを追う。口論はもみ合いになり、彼は彼女をレイプする。彼女は、やめてと言う。彼はやめない。
映画のなかで、これが何であるかについて曖昧なところはひとつもない。ここでも曖昧にはしない。これはレイプである。行きすぎた情熱ではないし、この二人の性生活が別のかたちで続いたものでもない。それまでにあったことの何ひとつ、これへの同意ではない。婚約も、これまで何度も互いを求めあってきたことも、結婚式の浴室も、口論も。「やめて」は「やめて」だ。そして彼はそれを無視した。
約束していた容赦のなさとは具体的に何だったのかとアカデミーの媒体に問われて、ドモントは最後の幕を挙げて、浴室で彼が体の力で彼女から力を奪い返すさまを語った。この場面について語られた言葉のなかでも、指折りの正確さだろう。そしてそれは、映画が積み上げてきたものの名前を言い当てている。これは欲望ではない。ほかのすべての通貨が尽きたあとで、彼女の体の上に執行された前提である。
翌朝、エミリーは出社する。職を守るために、彼女はキャンベルに、ルークが一方的に執着していただけで、交際などなかったと告げる。ルークが何をしたのかは言わない。キャンベルは、私生活を職場に持ちこむなと言い、誰の責任かなど関係ないと言う。ここで少し立ち止まる価値がある。ルークに数え方を教えた組織には、彼がしたことを置く場所がなく、それをつくる気もない。その組織が持っている手続きは、お金のためのものだけだ。
家に帰ると、ルークが荷造りをしている。落ち着いていて、もう、これから自分がどうするかを話している。そして、お互い熱くなりすぎただけだと言う。
「『フレンチアルプスで起きたこと』と、説明の合わない一秒」は、知っている事実を隠している男のようにではなく、自分が住むことのできる出来事の版にたどり着き、それを、真実を守る人のありふれた誠実さで守っている夫について書いた。あの一篇は、それを嘘よりも厄介なものと呼んだ。嘘つきは捕まえられるが、記録を書き換えてしまった人は捕まえられない。捕まえるものがないからだ。ルークの言葉は、その書き換えを、レイプに当てはめたものである。彼の版では、二人の人間と、ひとつの気分と、ひとつの行きすぎがあった。彼女の「やめて」は、そこにない。
エミリーは、彼の版のなかで暮らすことを拒む。
ナイフ、そして映画が認めていること
彼女はナイフを手にとり、彼を切りつける。そして、彼が泣き出し、心から許しを乞うまでやめない。それから、血を拭いて出ていけと命じる。
起きることについて、この文章が言うのはそれだけであり、結末を読むにはそれで足りる。ドモントは自分の意図をはっきり語っている。ネットフリックス自身が掲載した結末の解説で、彼女は、最後の場面は女性の復讐についてのものではなく、男に責任をとらせ、自分が劣っていることに向き合わせることについてのものだと述べ、それをキャンベルの言葉と結びつけた。彼の世界の見方では、非難も責任もどうでもいい。けれどルークと最後に向き合ったとき、エミリーは責任こそ大事なのだと気づく、と。
そう読むなら、結末は、ファンドへの映画の答えである。組織は責任を無用のものと宣言し、映画は彼女に、ほかの扉をひとつも見せない。だからこの映画のなかで責任が存在する場所は、ただひとつしかない。エミリーが自分の手で課すことのできる場所だ。映画はそれが空想であることを知っているし、作り手も知っている。ドモントはレターボックスドの取材で、この映画をつくる経験のなかでカタルシスだったのは、痛みや、ときに恥ずかしくもある感情や経験を、少しの空想を加えることで乗り越えられたことだと語っている。
結末のなかには、もっと硬い命題もある。やわらげずに言っておくべきだろう。この文章の読みでは、ルークの謝罪は、映画の後半で彼が口にするただひとつの本当の言葉であり、それは彼の序列のかけらがすべて失われたとき、血を流し、怯えているときにだけやってくる。映画は、あの前提こそが彼とその言葉のあいだに立ちはだかっていたのであり、すべてを失うことでしかそれは動かなかった、と言っているように見える。ルークについては、そうかもしれない。けれどそれは方法ではないし、この文章はそれを方法として差し出してもいない。
ドモント自身の説明のなかにある対称性も、受け入れるべきではない。彼女は、浴室で彼が力を奪い返したことと、彼女が彼から力を奪い返したことを、ひとつのゲームのふたつの手のように語った。そうではない。前者は、口に出された拒絶に対して行われた犯罪である。後者は、映画が観客に解放として差し出す報復である。観客はその解放を感じてかまわない。それでも、ナイフが浴室と同じ言葉、つまり力で話していること、そして責任を力としてしか想像できない映画が、登場人物の暮らす世界について、本当の、そして暗いことを語ってしまっていることには気づける。ドモントは、この映画を弾丸のような形にしたかったと言った。結末は、その弾丸が着弾する場所である。指示ではないし、ここでも指示としては読まない。
日本では、「やめて」に法の名前がある
この映画は日本でもネットフリックスで見られてきた。この国でこれを見る女性は、最後の幕を名指す言葉を、すでに法のなかに持っている。その言葉がいまの形になったのは二〇二三年七月、配信が始まる数か月前のことだ。
二〇二三年七月十三日、改正された刑法の性犯罪の規定が施行され、同意がないことを軸に組み立て直された。新しい不同意性交等罪の要になるのは、同意しない意思を形成し、表明し、または全うすることが難しい状態である。法務省の説明は、嫌だと言ったのに聞き入れられなかった場合を、まさにそのまま取り上げている。嫌だと意思を示したのに、たとえば体を押さえつけられた場合や、嫌だと言えばやめてくれると思ったのに、予想に反してやめてもらえず恐怖を覚えた場合には、罪が成立しうる、と。同じ改正は、これらの罪が婚姻関係の有無にかかわらず成立することを条文に書きこんだ。法務省はこれを、それまでも一般的だった理解を、確認の意味で条文上はっきりさせたものだと説明している。この文章は、架空の人物に法を当てはめない。ただ、エミリーの「やめて」がこの国では法の言葉で名指されていること、そして二人に関係があってもそれが打ち消されないことまで条文に書かれていることを、記しておく。
政府の調査を見ると、この映画の状況がどれほど例外でないかがうかがえる。内閣府の令和五年度の男女間における暴力に関する調査では、回答した女性の八・一パーセントが、不同意性交等をされた経験があると答えた。加害者との関係を複数回答で尋ねると、その女性たちがもっとも多く挙げたのは交際相手と元交際相手で、それぞれ十六・二パーセントだった。職場やアルバイト先の関係者は十・〇パーセント、まったく知らない人も同じく十・〇パーセントである。そして、その女性たちの五十五・四パーセントは、誰にも相談していなかった。職場の関係者に相談した人は、三・一パーセントだった。
この数字と並べると、映画の状況はスリラーの作りごとには見えなくなる。同僚でもある交際相手は、この調査でもっとも多い答えのうちの二つが重なる場所に立っている。そして翌朝、エミリーが職場で話すただひとりの相手が受けとるのは、彼女の身に何が起きたかの説明ではなく、関係そのものを消した話である。調査は、黙っていた女性たちのひとりひとりがなぜそうしたのかを語れないし、この文章も語れない。映画はひとつの理由を差し出し、それをはっきり述べている。ワン・クレスト・キャピタルでは、話せば席を失っていただろう、と。
そしてあの前提そのものについて、国が測っているもっとも近いものは、ひとつの意識である。内閣府が令和六年九月に行った男女共同参画社会に関する世論調査では、夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである、という考え方に、賛成またはどちらかといえば賛成と答えた人が三十三・一パーセント、反対またはどちらかといえば反対と答えた人が六十四・八パーセントだった。賛成した人が挙げた理由(複数回答)でもっとも多かったのは、六十一・三パーセントが挙げた、育児や介護、家事と両立しながら妻が働き続けるのは大変だと思うから、というものである。誰が上に立つべきかという信念ではない。ここから言えることは二つある。ルークの生きる前提は、この国では少数派の考えであって、国民性ではない。そしてそれが残っているところでも、多くの場合、序列についての確信というより、二人ともが働くようには誰も設計しなかった暮らしの形への、折り合いのつけ方なのだ。
この国で働く外国籍の女性で、パートナーが一緒に来日した人にとっては、映画の取り決めが書類の形でやってくることもある。家族滞在の在留資格で来たパートナーが働くには、原則として許可が必要で、一般的な包括許可で働けるのは一週につき二十八時間以内だ。彼が彼女より下に立つことを、誰かが決めたわけではない。規則が決めたのである。それで誰かがルークになるわけではない。ただ、ルークがつけていたような帳簿は、二人のどちらも気づかないうちに開いているかもしれない。そして恨みを向ける先として手近にいるのは、二人をここへ連れてきた仕事を持つ人だけかもしれない。
そして、あの最後の幕が映画だけの話ではない読み手へ。起きたことを何と呼ぶかを、先に決める必要はない。全国共通の短縮番号「#8891」は、最寄りの性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターに通話料無料でつながり、センターは産婦人科医療やカウンセリング、法律相談などの専門機関と連携している。内閣府の「キュアタイム」は、性暴力についての匿名のチャット相談を毎日十七時から二十一時まで受けつけていて、日本語のほか、英語などの外国語にも対応している。
この読みへの反論
反論を四つ挙げる。はじめの二つは、当たっている。
第一の反論は、この映画はまさにこの点を言うために組み立てられているのであって、そこにきれいな仕組みを見つける文章は、映画の足場を見つけているだけではないか、というものだ。ニューヨーク・マガジンの映画サイトに批評を書いたロクサーナ・ハダディは、この映画は世界全体を理解と誤解の二択の瞬間に分けてしまい、人物に手触りを与え、中心の緊張を説教くさくなくしたはずの灰色の濃淡を欠いている、と評した。そこには真実がある。ルークは論旨に向かって書かれていて、映画は彼に、恨みの外側の生をほとんど与えていない。この文章が描く仕組みは本物でありながら、この映画ではきれいに描かれすぎているのかもしれない。ルークのような人と暮らしたことのある読み手が、映画の描き方は単純すぎて役に立たないと感じても、それは間違いではない。
第二の反論は、結末に向けられる。ザ・プレイリストのジェイソン・ベイリーは、喝采や冷笑や歓声を引き出すために作られたように見える、ばかげた調子の転換、と書いた。オブザーバー紙のウェンディ・アイドは、第三幕で筋も演技も煮えこぼれてしまう、と感じた。この映画を高く評価したエガートでさえ、映画が写実から離れることがあるとすればそれはクライマックスだと認め、そこで起きることを詩的許容として擁護している。この文章はナイフを空想と呼び、本気でそう言っている。だからこの反論には、答えるのではなく、認める。結末が観客を喜ばせるためのものだとすれば、喜ばせる相手は、レイプを見届けたあとで判決を求めている観客であり、映画は、その世界のほかの何ものも出すはずのなかった判決を差し出している。
第三の反論は、逆向きに走る。ルークの前提をファンドに置くことで、この文章は彼を、選んだ人間ではなく製品にしてしまったのかもしれない。製品は、人より許しやすい。そういうつもりはない。ファンドが教えるのは数え方であって、彼の代わりに数えるわけではない。女性のあとを追って浴室に入るのも、ファンドではない。同じ部屋で同じ算術を覚えても、誰も傷つけない人は大勢いる。ルークがしたことは、ルークのものである。
第四の反論は、この図書室に向けられる。この家は私的な同伴を売っている。そしてこの家は、こういう映画に、はっきりした利害をもっている。こういう映画からいちばん引き出しやすい結論、つまり男は女性の成功に耐えられない、だからどこか別の取り決めに向かえばいい、という結論は、売れる結論だからだ。この文章は、その結論の両方の半分に逆らって論じようとしてきた。問題は序列についての前提であって、男の性質ではない。そしてこの映画のなかのどれひとつとして、この家が売っているものによって答えられはしない。この議論は利害によって形づくられたのではないかと疑う読み手には、その疑いを抱く資格がある。ここまでのすべてを、それと照らし合わせてほしい。
この図書室の立場
立場として、はっきり述べておく。一方が下にいるあいだだけ保たれる親密さは、安全ではない。休戦である。そしてこの映画は、試される休戦の物語だ。
「『The Right to Sex』と、欲望に権利はあるのかという難しい問い」は、出会いが本当の意味で安全なのは、そこにいる誰も、自分は何かを受け取って当然だと信じていないときだ、と論じた。誰かが取り立てる権利を握ったとたん、どんな拒絶も、返すべきものを返さないことに変わってしまう。この映画は同じことを、一晩ではなく何か月にもわたって、ひと組の男女のなかで見せる。ルークの請求は、はじめから彼女の体に向いていたのではない。順番に向いていた。彼が先で、彼女はそれを喜ぶ、という順番に。けれど、そういう請求は、始まった場所にとどまらない。取り立てがまだ可能な場所へと移っていく。そして映画は、それが決して届いてはならなかった場所まで、最後まで追っていく。
愛する人に追い越されたとき、喜べと命じられて喜べる人はいないし、最初の痛みを恥じる必要もない。二つの反応が一緒にやってくる、というハリスの指摘は正しい。危ういのは、痛みではない。その下にある信念、順番は決まっていた、上の席は自分が受け取るはずのものだった、という信念のほうだ。その信念は拒むことができる。まず誰よりも、それを抱いている本人が拒むことができる。映画のなかで、彼がそれを自分から拒むことは一度もない。それは最後に、彼に代わって拒まれる。あまりにも大きな代価とひきかえに。
この図書室の考えでは、野心をもった二人のあいだの愛はありうるし、ありふれてもいるし、しばしば、とてもよいものだ。そこに必要なのは、二人が同じ速さでのぼっていくことではない。どちらも、順番をひそかに先に決めてしまわないことである。
この文章が主張していないこと
この文章は文化についての分析であり、法的、臨床的、治療的な助言ではない。どんな治療も記述せず、誰も診断しない。ルークにもエミリーにも、実在か架空かを問わず誰にも臨床的な呼び名を当てておらず、ここにあるどの文も読み手についての言明ではない。
この文章は、作品そのものを観たうえで書いたものではない。記したことは、作品の公刊された記録と、クロエ・ドモントがアカデミーの媒体、レターボックスド、ネットフリックスの取材で語ったことと、記録として残る批評にもとづいている。最後の朝にルークが自分の今後について何を話すのかは記述によって食い違うため、これからのことを話しているとだけ書いた。台詞は引用しておらず、レイプとナイフについては名前を挙げるにとどめ、描写はしていない。
ドモントの言葉は彼女の言葉として伝えており、どの読みの証明としても扱っていない。批評家たちの判断は彼らのものとして伝えた。そのうち三人については、批評を集めたサイトに掲載された抜粋でしか読めておらず、そのように扱っている。
夫婦の収入についての研究はアメリカのもので、議論が分かれており、その争いとともに伝えた。日本の数字は政府のもので、全数ではなく標本にもとづいており、示している範囲でのみ読んでいる。法は記述しただけで、誰にも当てはめていない。
前提、得点表、休戦という読みは、一本の映画についてのこの図書室の解釈であって、男について、成功する女性について、金融について、あるいはどこかの国についての知見ではない。この映画をつくった人や出演した人、この文章に名前の出てくる誰かが、この家を知っている、あるいは推薦しているという含みはない。
手元に残しておく問い
あの二人の暮らしに、何か覚えのあるものを見た人のために、いくつか問いを置いておく。
愛する人が上にのぼったとき、あるいはあなたがのぼったとき、二人は口にしないまま、どんな順番を前提にしていただろう。あなたが演じた喜び、あるいは差し出された喜びのなかに、本当は休戦だったものはないだろうか。誰も口にしていない前提に名前をつけることは、あなた自身の暮らしのなかで、何を代価にするだろう。そして、あなたが自分の値打ちを数えるその通貨を、誰があなたに教えたのだろう。
この映画は、血を拭いて出ていけと男に告げる女性で終わる。そして観客に、それを解放として感じるよう求める。その解放は本物だ。そして、彼からひとつの正直な言葉を引き出すのにナイフが要った、ということも本物である。
誰かを大きいままでいさせるために、自分を小さくしたことがあるなら、それは弱さではなかったし、あなたの仕事でもなかった。順番は、決まってなどいなかった。ただ、そう思いこまれていただけだ。
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読みもののお便り
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