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『I MAY DESTROY YOU / アイ・メイ・デストロイ・ユー』、彼を必要としない結末
ミカエラ・コールのこのシリーズは、「同意」という言葉が難しくなる場所を、ひとつずつたどっていく。薬を盛られた一杯、黙って外されたコンドーム、嘘で仕組まれた一夜、帰ろうとして帰してもらえなかった男。そして最後に、主人公が自分をレイプした男と向き合う場面を三通り思い描き、そのどれも残さずに、彼から何ひとつ必要としない結末を彼女に手渡す。
朝、彼女は割れた携帯と、どうしても見つからない一夜を抱えて目を覚ます。出版社には、今朝までに原稿を渡すはずだった。ひと息つこうと、友人たちと「エゴ・デス」という名のバーへ飲みに出たのだった。その先で手もとに残っているのは、ひとつの像だけだ。トイレの個室で、自分を見下ろしている男。ミカエラ・コールの『I MAY DESTROY YOU / アイ・メイ・デストロイ・ユー』は、この朝を中心に組み立てられている。大事なのは、このあとシリーズが何をするかである。スリラーならするはずのことを、ほとんど何もしない。あの夜を見せない。彼女の手もとにあるのと同じだけしか、私たちにも渡さない。そして全十二話を、残りを持たないまま生きていく作業に費やす。
飲み物に薬を盛られ、彼女はレイプされていた。シリーズはそれをはっきり言う。この文章も、ほかの何より先に、ひとつのことをはっきり書いておく。その一杯も、締め切りも、バーも、時刻も、彼女がされたことの説明には一切かかわらない。薬で自分の夜を奪われた人は、その夜の何ひとつにも、同意できたはずがない。
このシリーズは、同意についての作品だと言われる。その通りだ。同意という言葉が難しくなる場所へ、作品はひとつずつ入っていく。そういう場所は、たいていの人が思っているよりずっと多く、その多くにはまだ名前もない。けれども、この作品がいちばん深く理解しているのは、同意という言葉が何のためにあるのか、ということだ。同意とは、自分の身に何が起きるのかを自分で決める立場のことである。いちばん素朴な意味で言えば、自分の身に起きることの書き手でいることだ。シリーズのなかの侵害は、それぞれ別の道筋から、この立場を奪っていく。そして、そのあとに来る時間は、同じものをめぐる二度目の争いになる。今度は、物語をめぐって。何が起きたのかを言えるのは誰なのか。それが本当にあったこととして数えられるまでに、誰の同意が要るのか。
この文章は、その二つの争いを追う。言いたいことはひとつだ。復讐も赦しも観客に渡さないあの結末こそ、このシリーズでもっとも正確な部分である。最終話は、自分をレイプした男と向き合う場面を三通り思い描き、その三つとも、彼から何かを必要とする。シリーズはそのどれも残さない。残るのは、彼から何ひとつ必要としない、ただひとつの結末だ。
記録と筋、そして結末についての断り
まず記録から。『I MAY DESTROY YOU / アイ・メイ・デストロイ・ユー』は全十二話のシリーズで、ミカエラ・コールが企画と脚本を手がけ、共同で監督も務め、主人公のアラベラ・エッシードゥを演じている。英国のBBCと米国のHBOの共同で作られ、二〇二〇年六月七日にHBOで、翌日にBBC Oneで放送が始まった。アラベラの学生時代からの親友テリーをウェルシュ・オピアが、三人目の友人クワーミをパーパ・エッシードゥが演じる。二〇二一年、コールはこの作品でエミー賞のリミテッドシリーズ部門の脚本賞を受け、作品は英国アカデミー賞テレビ部門のミニシリーズ賞を受けた。日本では二〇二三年五月、U-NEXTで配信が始まった。
コールが公の場で語ったことを、ここで二つだけ記しておく。すでに知っている読者も多いだろうから。二〇一八年、エディンバラ国際テレビ祭でマクタガート講演を行った彼女は、前作『チューインガム』の執筆中に性的暴行を受けたと語った。また、この作品が放送されたころのインタビューでは、権利をわずかでも手もとに残せない契約だったために、より大きな額の申し出を断り、権利を持ち続けられるBBCで作ったと話している。どちらも彼女自身の言葉だ。この文章はそれを彼女の言葉として記すにとどめ、その先へは進まない。作品を彼女の人生の記録として読むことも、彼女の人生を作品に読み込むこともしない。
アラベラはロンドンに暮らす二十代後半の作家で、ソーシャルメディアで人気を得て、最初の本で名を上げた。エゴ・デスの夜のあと、彼女は友人たちと、口を濁す友人サイモンの言い分と彼のタクシーの領収書から夜をたどり直し、警察に届け出る。捜査は行われるが、犯人は見つからず、打ち切られる。そのまわりに、シリーズは名づけにくい別の侵害を見つけていく。作家仲間のゼインは性行為の最中に黙ってコンドームを外し、アラベラは文学フェスティバルの壇上で彼を告発する。クワーミは出会い系アプリで知り合った男に性的暴行を受けるが、届け出た警官は真剣に取り合わない。テリーは、イタリア旅行での三人での一夜が、他人どうしのふりをした二人の男に仕組まれていたと知る。そして、学生時代にレイプを訴え、アラベラとテリーがその訴えを疑わせる側に回った同級生セオドラは、いまアラベラが通う被害者の会を主宰している。
アラベラは自分の体験をネットでの発信に変え、友人たちとのあいだに溝をつくり、出版社からは契約を切られる。女性との一夜がこじれたあと、クワーミはタイロンという男性とやさしい関係を築いていく。テリーは役をつかみ、トランス男性のカイと恋に落ちる。そしてエゴ・デスで、アラベラはついに、自分をレイプした男を見つける。名前はデヴィッド。最終話は二人の対決を三度思い描き、それから、まったく別のことをする。
この文章は、その結末を含めて、すべてにふれる。シリーズが描く行為は、それぞれはっきり名指すが、どれも描写はしない。作品について述べることは、公刊された記録と、記録として残る批評やインタビューにもとづいており、場面は引用せず、記述するにとどめる。
明白な事件が、彼女にほとんど何も残さないこと
このシリーズの中心にある事件は、一見、これ以上ないほど単純に見える。見知らぬ男。薬を盛られた一杯。トイレの個室。それがレイプだったかどうかを、作中の誰も争わないし、見ている側にも争う理由はない。言葉がもともと、こういう事件のために作られたような事件である。
それなのに、この事件が彼女に残すものは驚くほど少ない。記憶がない。だから、一人称で語れる説明がない。容疑者がいない。だから、訴える相手がいない。捜査は閉じられる。だから、どこかへ行き着く手続きもない。もっとも明白な事件が、制度にとってはもっとも手の打ちようのない事件になる。理由を探すのは難しくない。制度が必要とする証拠は、薬を盛られた人には集めようのない種類の証拠なのである。代わりに彼女の手もとにあるのは、断片と、友人たちの誠実さと、すべてを話してはくれない友人のタクシーの領収書だけだ。
夜をたどり直すこの作業は、シリーズのなかで彼女が最初にする執筆であり、それは本の原稿ではない。記憶を奪われた人に残された、ただひとつの方法を、作家が実行している。他人の記録から、他人が言うことと言わないことから、ひとつの説明を組み立てること。見た目は捜査に近いが、その論理はむしろ書くことに近い。彼女は、自分に何が起きたのかを言える人間になろうとしている。あの夜に奪われたのは、まさにその立場だった。
ここでシリーズは、同意について最初の主張をする。それは道徳の主張ではなく、仕組みの主張だ。同意は、人が持っていたりいなかったりする気分ではない。人が使う能力であり、何かが起きる前に、抵抗もないまま、一杯の飲み物によって取り上げられてしまうことがある。薬を盛られた人は、弱いイエスを言うのではない。イエスそのものを言えない。答えるはずの人が、答えられる場所にいないのだから。そして、酔っていることは、その程度がどうであれ、それ自体がイエスになることはない。
カメラが彼女にしないこと
シリーズ全体を、二つの拒否が貫いている。どちらも、女性を画面にどう置くかにかかわる。
一つ目は、彼女より多くを知ろうとしないことだ。あの夜は、彼女が取り戻していくのと同じ断片としてしか示されない。ひとつの像、そしてまたひとつの像が、彼女の望まないときにやってくる。本人が思い出せないことを観客にだけ見せ、彼女の夜を彼女以上に観客に握らせることは、たやすいし、よくあることでもある。コールはそれをしない。観客は、それが起きた女性と同じ空白のなかに留め置かれる。それは敬意のかたちであり、議論のかたちでもある。観客も含めて誰ひとり、彼女より先に、彼女の夜の書き手になってはならない。
二つ目は、彼女を守りやすい人物にしないことだ。アラベラは、原稿を書いているはずの夜に出かけていった。野心があり、人を笑わせ、いつもネットにいて、ときに自分を愛してくれる人たちに無頓着で、のちには彼らを遠ざけもする。シリーズは彼女にそのすべてを与える。それが大事なのは、被害の前の女性のふるまいが、その説明のどこかに入るはずだという古い議論が、いまも多くの場所でくり返されているからだ。シリーズはその議論に、一度もそれを持ち出さないことで答える。締め切りも、一杯も、フォロワーも、欠点も、なぜそれが起きたのかという問いには決して近づけられない。説明は、デヴィッドである。
画面のなかの物語は、しばしば、傷つけられた女性に、信じられる前に非の打ちどころのない人であることを求めてきた。しらふで、慎み深く、用心深く、どの場面でも同情を誘う人であることを。このシリーズは、まるごとの、扱いにくい、矛盾だらけの女性を画面に置き、彼女を信じることと引き換えに、何ひとつ求めない。画面のなかの女性について考える人にとって、この作品が大切なのは、題材のためだけではない。このためでもある。
イエスと言った三人
明白な事件のまわりに、シリーズはもっと難しい事件を置いていく。難しい理由は、ひとつに絞れる。どの場合も、誰かがイエスと言っていたのだ。
アラベラは、好意を寄せる作家仲間のゼインと夜を過ごす。性行為には同意している。その最中に、彼は黙ってコンドームを外す。あとになって彼女は、彼のしたことには名前があり、自分が暮らす国の法ではレイプとして扱われうると知る。彼女のイエスは本物だった。同時に、特定のものへのイエスだった。ひとつの行為へのイエスであり、彼がしたのは別の行為だった。彼女が何を知っていると彼が思っていたにせよ、彼は尋ねなかった。イエスは、相手が広げたかった範囲にまで、勝手に広がりはしない。同意なくコンドームを外すことは、合意の上の行為のなかの細部ではない。行為そのものを変えてしまうことであり、同意は、変わった行為にはついてこない。
テリーの場合はもっと静かで、ある意味ではもっと奇妙だ。イタリア旅行で、彼女は互いに他人どうしに見えた二人の男と一夜を過ごし、そのときはいい夜だった。ずっとあとになって、二人が示し合わせていたことに彼女は気づく。自分がイエスと言った偶然の出会いは、演出されたものだった。それをどう受けとめるべきかを、シリーズは彼女に告げない。この文章も告げない。シリーズがはっきりさせるのは、もっと狭く、もっと鋭いことだ。彼女のイエスは、存在しない状況に向けて与えられていた。彼女が同意したのは一夜であり、その一夜は、別の誰かが書いた作り話だった。
一度与えたイエスはずっと有効なのか。そんな議論があるなら、クワーミの場合はそれを終わらせるはずのものだ。彼は出会い系アプリで男と知り合い、二人とも望んだ性行為をする。そのあと帰ろうとすると、男は彼を帰さず、性的暴行を加える。数分前に彼が言ったイエスは本物だった。それが覆っていた範囲を覆い、そして終わっていた。男はそれを、まだ取り立てていない借りのように扱った。
この図書室の二つの文章が、ここで手がかりになる。「同意は、続いていく会話のこと。」は、入口でのイエスを、入口でどう感じていたかの報告にすぎないと書いた。「一度言った「はい」は、借りではない。」は、以前の「はい」は続ける義務を何ひとつ生まないのに、部屋のなかのほとんどすべてがそれを借りのように感じさせるよう出来ている、と論じた。このシリーズは、本物のイエスが、与えられたことのない範囲にまで広げられてしまう道筋を三つ示している。本人の知らないうちに、行為が変えられる。本人が着く前に、状況が作られている。本人に、終わらせることが許されない。どの場合も、イエスと言った側が言いそこねたことは何もない。どの場合も、そのイエスが何を覆うことにするかを、相手がひとりで決めたのだ。
三つを並べて見えてくるのは、人が言葉に無頓着だということではない。どの場合も、二人で決めるはずのことを、ひとりが勝手に決めてしまった。名づけにくい侵害とは、これのことだ。指し示せる抵抗の跡がないことも多い。あるのはただ、ひとりの人が、別の人の身に起きていることの書き手になってしまった瞬間だけだ。
クワーミと、誰も受けとらなかった届け出
クワーミの物語には、独立した一節が要る。シリーズ自身が、それだけの場所を与えているからだ。
アラベラがレイプを届け出たとき、警察署で隣にいたのは彼だった。自分の被害を届け出たとき、警官は真剣に取り合わない。シリーズはそれを醜聞としては描かない。ありふれた失敗として、通り過ぎさせる。そのほうが、たぶん悪い。この文章の読みでは、この場面が映し出すのは、彼の話のひとつひとつの事実が、どれほどたやすく、聞かなくていい理由として聞かれてしまうかということだ。男であること。アプリで会ったこと。数分前には自分も望んでいたこと。彼が口にしなければならない話の、どの部分も、彼に不利なものとして数えられてしまう。
そのあとに来るのは、物語がよく差し出すような回復ではない。彼は行きずりの相手を重ねる。ある女性と、ゲイであることを告げないまま関係を持ち、打ち明けると部屋を追い出される。アラベラとテリーは、それを欺きだと責める。彼は彼女を昼食に誘って謝るが、許されない。シリーズは、暴行を受け、信じてもらえなかったばかりの男を、自分にイエスと言った女性に大事なことを伏せていた側に立たせる。それが侵害だったのかどうかを、シリーズは決めない。彼の傷を理由にそれを許すこともしないし、それを理由に彼の傷を帳消しにすることもしない。
それから、タイロンが現れる。クワーミのために料理をし、デートに連れ出し、急いで体を重ねようとはしない男だ。虚勢の抜けたクワーミは、ハグしてほしいと口にする。シリーズでもっともやさしい場面のひとつであり、法とはかかわりのない、同意についての教えでもある。遅いほうの人が決める速さ。近づく前に尋ねる親密さ。帰ることを許されなかった男が、今度は自分から頼んで、抱きしめられる。
終盤の彼は、タイロンとともにいる。初めて恋人と呼べる相手と。シリーズはそれを治癒として差し出さないし、そう読むべきでもない。差し出されるのは、彼が自分の速さでそこへたどり着くことを許された、ということだ。同意が守ろうとしてきたのは、もともと、そのことだけだった。
線の外に立っている人は、ひとりもいない
コールのもっとも居心地の悪い選択は、三人の友人それぞれに、線の向こう側に立った瞬間を与えたことだ。
学生時代、セオドラは同級生をレイプで訴えた。アラベラとテリーは、その訴えを疑わせる側に回った。シリーズはそれを回想で示し、やわらげない。自信に満ちた十代の少女が二人、学校がもうひとりの少女を信じないと決めるのに手を貸す。何年もたって、アラベラが自分に起きたことを持ち込む会を主宰しているのは、そのセオである。
テリーは、シリーズのほとんどのあいだ、アラベラにあることを黙っている。あの夜、サイモンに、アラベラを置いていくよう言ったのは彼女だった。それを知ったアラベラは、テリーを責めない。友情に、礼を言う。そしてクワーミは、先に見たとおり、ひとりの女性がイエスと言う前に知りたかったはずのことを伏せていた。
このどれも、害を同じ重さにするものではない。デヴィッドのしたことは、三人の誰のしたこととも次元が違う。シリーズは一度も、そうでないふりをしない。シリーズが拒むのは、傷つけられる人と傷つける人に仕分けられた世界の居心地のよさであり、見ている自分は安全に前者の側にいる、という感覚である。デヴィッドに自分を見る人は、ほとんどいないだろう。けれども、もうひとりの少女が嘘をついていると確信していた少女に、なんでもない夜の小さな判断があとで重くなった友人に、相手のイエスを変えたはずのひとことを言わなかった人に、自分を見る人は少なくないはずだ。
ここで同意は、部屋のなかで二人が何に合意したかという問いから、人が互いに何を負っているのかという問いへと移っていく。判決の前に負っているのは、信じることだ。それは、話が真実だと確信することではない。それが何なのかを決める前に、話を最後まで聞くだけの注意のことである。離れたほうが楽なときに、とどまることを負っている場合もある。そして、相手のイエスが自分の言うことにかかっているなら、本当のことを負っている。テリーへのアラベラの礼は、友情が失敗をどう扱えるのか、というシリーズの答えだ。忘れない。裁きもしない。そのうえで、友情の残りの部分もまた本当だと決める。
数か月後、テリーはカイと愛し合い、不安を演技に変えてテレビの広告に出ている。アラベラとの友情は、かつてなく深い。シリーズはもっとも重い素材を、ひとつの友情のなかで閉じる。それは感傷ではない。修復というものが、起きるとすれば実際にどこで起きるのかについての、シリーズの考えなのだ。
聴衆を必要とする物語
警察が捜査を閉じたあと、アラベラは、フォロワーを持つ作家にできることをする。語るのだ。それが彼女に与えるものについて、シリーズははっきりしている。彼女を信じ、聞き続けてくれる聴衆だ。閉じられた捜査には、それはできなかった。そしてシリーズは、同じ時期に彼女が失っていくものを、その隣に置く。遠ざけていく友人たちと、やがては出版社を。
シリーズは語ることに反対していない。この文章も反対しない。この文章の読みでは、シリーズが警戒しているのは、ある種の依存だ。聴衆が確かめ続けてくれるあいだだけ、本当に感じられる語り。それもまた、ほかの誰かから何かを必要とする結末である。今度は彼からではなく、見知らぬ人々から、毎日、数として。
二〇二一年九月、エミー賞を受けたコールは、書き手たちに向けた短いスピーチを読みあげた。自分を怖がらせる物語を書いてほしい、と彼女は言い、しばらくのあいだ姿を消すことを恐れないで、沈黙のなかで何がやってくるかを見てほしい、と続けた。そして、この物語を、性的暴行を生き延びたすべての人に捧げた。それは書くことについての彼女の言葉であり、シリーズの放送から一年以上たって語られたものだ。この文章はそれを、彼女の人生を読み解く鍵としても、アラベラの人生を読み解く鍵としても使わない。ただ、シリーズが、あのスピーチの描く場所で終わることだけを記しておく。書けるだけのあいだ静かになった、ひとりの女性のところで。
三つの結末と、彼女が残すひとつ
エゴ・デスでデヴィッドを見つけたあと、最終話は二人の対決を三度思い描く。
一度目、彼女はセオと、そばにいるテリーとともに、彼に薬を使い、殴りつける。復讐のもっとも古いかたちだ。害を、それが来たところへ送り返す。二度目は、警察が現場で彼を捕まえられるよう、わざともう一度襲わせる。そして、自分の怯えを語る彼の話に耳を傾けたあと、彼が連れていかれるのを見届ける。最初の届け出で制度がくれなかった正義のかたちだが、それは彼女が求めてもいなかったものを連れてくる。彼の内面だ。それを抱えて運ぶ役目が、彼女に手渡される。三度目は、彼を家に連れ帰り、自分の主導でセックスをし、出ていくよう告げる。あの場面を、自分が指揮する側として書き直したものだ。
どれも草稿であり、どれも同じ試験に落ちる。三つとも、彼から何かを必要とするのだ。一度目は、彼の苦しみを。二度目は、彼の逮捕を。そのうえ、彼の怯えを彼女に預けていく。三度目は、彼の服従を。彼女が命じる結末にさえ、命令に従う彼がいる。三つのどれでも、彼女から書き手の立場を奪った男が、彼女の結末の共作者として残っている。
三度目については、はっきり書いておきたい。シリーズはそれを治療として差し出していないし、この文章もそう読まない。それは空想であり、空想のなかでは、書き手が彼の役まですべて書く。だからこそそれは、答えではなく、彼女が最後に手放す草稿なのだ。彼女の条件であれ、誰の条件であれ、セックスは彼女がされたことを修復しない。シリーズは、ほかの二つを通り過ぎたのとまったく同じように、この夜も通り過ぎていく。
そしてシリーズは、ずっと向かっていたことをする。彼女は家にとどまる。もうバーには戻らない。数か月後、本が世に出て、彼女は朗読会の満員の部屋の前に立ち、読み始めようとしている。この結末には、デヴィッドが罰せられる場面も、赦される場面も、問い詰められる場面も、説明される場面もない。彼はただ、もうそこにいない。
これが、彼を必要としない結末である。判決を待たない。判決は来ないかもしれないからだ。謝罪を待たない。謝罪もまた、彼が差し出すものの一つになってしまうからだ。彼が苦しむことも、理解することも、その場にいることさえ必要としない。必要なのは、物語が何であるかを彼女が決め、それを書くことだけだ。最終話に含まれる四つの結末のうち、そう言えるのはこれひとつである。
同じ年に公開された映画を並べると、違いがはっきりする。エメラルド・フェネルの『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、主人公に復讐の筋書きを与え、それを最後までたどらせる。その結末は観客を二分した。このシリーズは、復讐に想像の一場面だけを与えて、手放す。どちらが一般に正しいということはない。けれども、シリーズの選択には正確な意味がある。復讐もまた、男を中心に組み立てられたほかのあらゆる結末と同じように、彼を彼女の人生の中心に据え続けるのだ。
この図書室の「『シークレット・サンシャイン』と、すでに与えられていた赦し」は、ある種の慰めのかたちを書いた。本人の言い分を第三者に預けさせ、第三者のところで決着させ、決着済みのものとして返してくる慰めである。アラベラの事件は、警察によって、閉じたものとして彼女に返される。彼女の物語は、いつでも閉じられる聴衆によって、開かれたままになる。思い描かれた対決は、どれも彼女の結末を、男を通して進めようとする。最終話は、そのどの経路も拒む。物語を書くのは、それを書く資格のある、ただひとりの人である。
結末が求めること、求めないこと
この結末を、ひとつの指示に変えてしまうのはたやすい。自分の物語を語れ、本を書け、それを何かに変えろ、と。シリーズはそう言っていないし、それは残酷な言い方でもある。アラベラは作家であり、書くことが、彼女にとって書き手の立場を取り戻す方法だった。傷つけられた多くの人にとって、それにあたるものは、もっと小さく、もっと私的なものだろう。誰に、いつ、どんな言葉で知らせるかを決めること。誰にも言わないと決めること。たとえ一度、自分に向けてしか口にしないとしても、あの夜には名前があると決めること。
シリーズの言う書き手であることは、公表することではない。物語が何であるかを決める立場のことであり、選んだ沈黙なら、沈黙もまたその使い方のひとつになりうる。シリーズが抗っているのは沈黙ではなく、待つことだ。誰か別の人の次の一手を中心に組み立てられた暮らし。男が捕まるか、謝るか、消えるまで保留される回復。
これは、届け出ることや、彼が罰せられることを望むことに反対する議論でもない。アラベラは届け出た。シリーズは彼女の届け出を真剣に扱い、その失敗を、教訓としてではなく、失敗として示す。シリーズが退けるのは、誰か別の人が動くまで彼女の人生が宙づりのままでなければならない、という考えだけだ。正義は来るかもしれないし、来ないかもしれない。それを待たなくても、彼女は始めていい。
この図書室の立場は、ここにある。発見ではなく、立場として述べておく。同意とは、自分の身に起きることの書き手でいることだ。それは力ずくでなくても奪われる。一杯の飲み物で、嘘で、外されたコンドームで、開かないドアで。奪われたあと、その人にまず負われているのは判決ではなく、聞かれることである。そして、もっとも深くその人のものである結末は、残りを奪った人に左右されない結末だ。
日本では、法が動き、言葉がまだ届きつつある
このシリーズが日本の視聴者に届いたのは、二〇二三年五月だった。その二か月後の七月十三日、同意のなさを軸に組み立て直された性犯罪の規定が施行された。新しい不同意性交等罪は、同意しない意思を形成し、表明し、あるいは全うすることが難しい状態を要件とし、そうした状態を生む行為や事由を八つ挙げている。暴行や脅迫、心身の障害、アルコールや薬物の影響、睡眠など意識がはっきりしない状態、拒むいとまがないこと、予想外の事態に直面した恐怖や驚き、虐待による心理的な反応、そして経済的・社会的な立場にもとづく影響力への不安である。シリーズが明白な事件として描いた状況は、いまでは法がそのまま言葉にしている状況でもある。この文章は、架空の人物に法を当てはめはしない。言葉が届いた、ということだけを記しておく。
クワーミの筋も、ここに届く。二〇一七年まで、日本の強姦罪の被害者は女性に限られていた。この年の改正で罪名は強制性交等罪に改められ、被害者の性別は問われなくなった。性犯罪・性暴力について内閣府が案内するページは、いまでは、被害は性別にかかわらず誰にでも起こりうる、とはっきり書いている。
まだ半分しか届いていない言葉もある。ゼインのしたことを、日本の報道はステルシングという外来語で呼ぶようになった。けれども二〇二四年七月、坂野真一弁護士は法律ニュースサイトで、改正後の法のもとでも、それは現時点では不同意性交等罪として処罰できない、という読みを示している。性交そのものには同意があり、法が数える誤信は、行為がわいせつなものではないという誤信と、人違いに限られていて、避妊具のことは含まれていないから、というのが彼の説明だ。彼はそれを公式の見解ではなく、あくまで自分の見解として示しており、これが最後の答えとは限らない。それでも、文学フェスティバルの壇上でアラベラが自分にされたことを名指す場面を日本で見る人は、この国ではまだ法にまで届いていないかもしれない名前を、見ていることになる。
それから、調査の数字がある。ゆっくり読む価値のある数字だ。内閣府の令和五年度「男女間における暴力に関する調査」では、回答した女性の八・一パーセントが、不同意性交等の被害にあったことがあると答えた。そのうち五十五・四パーセントは、誰にも相談していなかった。そして、まったく知らない人からの被害だったと答えたのは一割にとどまり、大多数が挙げたのは、交際相手や元交際相手、職場の関係者、配偶者といった、知っている人だった。
バーの見知らぬ男は、誰もが思い浮かべる事件だが、この調査のなかでは例外である。ふつうなのは、シリーズが明白な事件のまわりに組み立てた世界のほうだ。作家仲間、アプリで会った男、旅先の二人の男、同級生。シリーズの配分は、多くの人が頭のなかに持っている物語よりも、この調査の数字に近い。そして、その沈黙を、勇気が足りないしるしとして読むべきではない。選ばれた沈黙もあれば、語ることの代償に強いられた沈黙もある。シリーズが問うとすれば、それが選ばれたものかどうか、だけだろう。
母語ではない言葉に囲まれて日本で暮らす女性には、もうひとつの距離がある。シリーズには、ただそこにいてくれる友人たちがあふれている。警察署でアラベラの隣にいるクワーミ。思い描かれたどの結末でも、彼女のそばにいるテリー。国を移って暮らす人には、午前二時に手の届くところに、そういう人がひとりもいないかもしれない。起きたことを言う言葉が、まわりの誰とも共有していない言語のなかにしかないこともある。
日本では、#8891に電話すると、通話料無料で最寄りの性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターにつながり、性別を問わず、警察に届けるかどうか決めていなくても話ができ、内閣府のキュアタイムでは、毎日夕方から夜にかけて、日本語のほか英語などの外国語でも、匿名のチャットで話を聞いてもらえる。
この読みに向けられる反論
反論を四つ挙げておく。はじめの二つは当たっている。
一つ目は、これは作家の結末であり、恵まれた人の結末だ、という反論である。アラベラには戻っていける出版社があり、発信の場があり、フォロワーがいて、時間を割いてくれる友人がいる。傷つけられた人の多くは、そのどれも持っていない。被害を受けた人が書き手になるという結末は、固まってしまえば、もうひとつの要求になりかねない。生産的に回復せよ、人前で回復せよ、それを何かに変えよ、と。この反論は、全面的に認める。返せる答えは、すでに書いたことに尽きる。書き手であることには沈黙も含まれ、聴衆は要らない。けれども、シリーズ自身が描くその姿は満員の朗読会であり、その姿は多くの人の手には届かず、望まない人も多い。
二つ目は、書き手であることは決してひとりきりの営みではない、という反論である。起きたことの説明にはいつも他人がいて、それを語ることは、他人からも何かを取る。シリーズはそれを知っている。アラベラは壇上でゼインを名指しし、自分の物語をフォロワーに変え、友人を遠ざける。それが、この文章が評価する結末の、もっとも難しい縁である。被害を受けた人の物語は、その人が書くものだ。そしてそこには、ほとんどいつも、ほかの人々がいる。
三つ目は、結末はこの文章が認めるよりも奇妙だ、という反論である。三つの空想と、数か月の跳躍は、書き手であることについてのきれいな議論ではないかもしれない。解けないものの周りを心がめぐり、終えるのではなく、止まる。その姿を描いたものかもしれない。最終話を、彼女に有利に解決されたものではなく、あえて解決されていないものとして受けとる読者は、そこにあるものを読んでいる。この文章の読みは、そこを通り抜ける道のひとつであって、唯一の道ではない。
四つ目は、この図書室自身に向けられる。この家は私的な同伴を売っている。取り決めのうえに夜を組み立てる商いには、同意を、注意深い人ならうまく扱えるものとして描く文章に、明白な利害がある。読者はそれを差し引いて、この文章を読んでいい。このシリーズは、ひとつには、注意深く見える人々がどれほど頻繁にそれを誤るかの記録でもあるのだから。そして、留保なしに書いておく。この家が売っているものは、アラベラがされたことにも、クワーミがされたことにも、ほかの誰かがされたことにも、応えるものではない。この図書室のどの頁も、それと違うことをほのめかすものとして読まれるべきではない。
この文章が主張していないこと
この文章は、文化についての分析である。臨床的、法的、治療的な助言ではなく、いかなる治療も記述せず、誰も診断しない。どの登場人物にも、臨床的な呼び名は使っていない。アラベラに戻ってくる断片的な像は、シリーズが示すとおりに記述しており、何かの症状としては扱っていない。ここにあるどれも、読者についての言明ではない。
コールの言葉は、彼女の言葉として記した。二〇一八年の講演、作品の成り立ちについてインタビューで語ったこと、そしてエミー賞のスピーチである。そこから彼女の人生について何も推し量らず、シリーズのどの場面も、彼女の身に起きたことの記録としては読んでいない。
日本の法は記述したが、当てはめてはいない。同意のないコンドームの取り外しをめぐる弁護士の読みは、本人が示したとおり、ひとりの弁護士の解釈として紹介した。調査の数字は政府のもので、国全体ではなく標本にもとづいている。ここでは、沈黙について、そして女性たちが挙げた相手について示すものとしてだけ読んでいる。男性の数字は使っていない。この調査で被害を答えた男性は十人で、確かなことを言うには少なすぎるからだ。
結末は、シリーズの公刊された記録と、それについての批評にもとづいて記述した。思い描かれた三つの対決は細部なしに要約し、シリーズが描く暴行は名指すにとどめて描写せず、台詞は引用していない。このシリーズを作った人々や出演した人々を含め、ここに名前の挙がった誰かが、この家を知っている、あるいは推奨していると示唆するものは何もない。
持ち帰るための問い
このシリーズを、もう少し手もとに置いておきたい人のために、いくつかの問いを。
言葉を持たないままの夜が、あるいは夜のなかの一瞬が、あるだろうか。言葉を見つけることと、それをどうするか決めることは同じではない。前者だけを持っていてもかまわない。かつて、誰かの話を信じないと決めたことがあるだろうか。そのとき、その話をどれだけ聞いただろう。最初の答えを思いこむほうが楽な部屋で、二つ目の問いを最後に口にしたのはいつだったか。あなたが待っている結末のうち、誰か別の人にかかっているのはどれだろう。
シリーズが最後に彼女を置いていくのは、判決の場でも、謝罪の場でも、対決の場でもない。自分の書いたものを読み始めようとして、満員の部屋の前に立つ場所だ。
もしこのどれかがあなたのものなら、この文章に、あなたへの指示はない。シリーズも指示を出さない。示しているのはひとつのことだけで、それは本当のことだ。あなたの身に起きたことの物語は、あなたのものだ。誰にも語らない権利も含めて。そしてそれは、ほかの誰かを待たなくても、始めていい。
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