EN
メニュー

Cinema

『愛がなんだ』、そばにいるために「好き」を手放す

  • 愛着
  • スクリーンの女性
  • 孤独
  • 恋愛物語の形に収まらない
  • 日本

マモルに呼ばれれば何をしていても駆けつけるテルコは、プライドのない女と片づけられがちだ。けれど彼女が映画のなかで手放していくものを数えると、それは恋人になる資格、好きになってもらう資格といった「求める資格」の一覧であり、最後まで手放さないのはただひとつ、彼のそばにいることである。

夜、テルコが家に帰ったばかりのところで電話が鳴る。マモルからだ。風邪をひいたらしい。帰る途中なら何か買ってきてくれないか、と言う。テルコはもう家にいる。それでも、まだ外だと答える。袋いっぱいに買いこんで彼の部屋へ走り、台所で味噌煮込みうどんをつくる。夜中の十二時を回ったころ、そろそろ帰ってくれないかな、とマモルが言う。テルコは帰る。

この文章は、結末まで含めて映画の全体に触れる。この最初の小さな嘘に、そのすべてが入っている。もう家にいたのに、まだ外にいたことにする。そうすれば、駆けつけることが、ついでに寄っただけのように見えるからだ。自分の想いを、実際より小さく見せるための嘘である。およそ二時間後、終わり近くになって、彼女は自分の部屋でまったく同じ種類の嘘をもう一度つく。最初の嘘と最後の嘘のあいだにある距離を測ること。この文章がしようとしているのは、それである。

山田テルコは二十八歳。田中マモルに出会った日から、暮らしのすべてを彼に合わせてきた。そのせいで仕事を失っても、自由になったと思うだけだ。いちばん古い友だちには、もうやめなよと言われる。こういう女性についての説明は、ほとんどひとりでに出来あがる。プライドがない。自分がない。笑いどころの多い教訓話。この文章は、その説明がテルコをちょうど裏返しに捉えていると考える。映画のなかでテルコが手放していくものを数えてみると、それは「求める資格」の一覧になる。恋人と名乗ること。好きになってもらうこと。そして最後には、好きだったことそのものまで。反対に、最後まで手放さないものを数えると、ひとつしかない。彼のそばにいることだ。

そのすぐ隣に、映画は正反対の取引をする青年を置いている。テルコがマモルを想うように、ナカハラはテルコの親友の葉子を想っていて、ふたりは出会ってすぐ、互いのなかに自分を見る。先に身を引くのはナカハラのほうだ。そして彼が手元に残すのは、テルコが差し出してしまうもの、好きだと声に出して言う権利である。どちらの選び方がよかったのか、映画は言わない。題名の「愛がなんだ」は、愛とは何かという問いにも聞こえるし、愛がなんだというのか、という開き直りにも聞こえる。映画はどちらとも決めない。この文章も決めない。

作品のこと、そしてこの文章が明かすこと

事実を一度だけ確かめておく。『愛がなんだ』は今泉力哉の監督作で、脚本は今泉と澤井香織。原作は、直木賞作家の角田光代が二〇〇三年に発表した同名の小説である。テルコを岸井ゆきの、マモルを成田凌が演じ、葉子を深川麻衣、ナカハラを若葉竜也、すみれを江口のりこが演じている。上映時間は百二十三分。二〇一八年十月、第三十一回東京国際映画祭のコンペティション部門で初めて上映され、二〇一九年四月十九日、エレファントハウスの配給で劇場公開された。岸井はほとんど全編に映っている。監督によれば、彼女の出てこない場面は二つか三つしかない。

小さく始まった映画は、小さいままでは終わらなかった。公開時の上映館は七十二館。その春の十連休、中心館のテアトル新宿では連日満席、立ち見が続き、客席の大半は十代後半から三十代の女性と、カップルだった。劇場は、ロングランとなった『この世界の片隅に』以来の高い稼働だと伝え、繰り返し観に来る人も現れた。六月には、上映館は百五十二館にまで広がっている。五月のある晩、テアトル新宿は、映画を一本も上映しない催しを開いた。映写機を止めた映画館で、九十分、愛について、この映画について語り合うだけの夜である。

題名についても、ひとこと。「がなんだ」は、行く手をふさぐものを払いのけるときの言い方だ。雨がなんだ。年がなんだ。そこに愛を置けば、愛そのものに向かって肩をすくめる言葉になる。けれど、ゆっくり口にしてみると、愛とはいったい何なのか、という素直な問いにも聞こえてくる。この映画は、そのふたつの聞こえ方のあいだに立っている。

この文章が触れる最後の場面は、原作ではなく映画のものだ。監督によれば、ラストシーンは脚本が行き詰まっていたとき、知人の俳優に自宅で脚本を通して読んでもらっているうちに思いついたものだという。あれが現実なのか夢なのか、救いなのか絶望なのかは自分にも分からない、観る人に委ねている、とも語っている。この文章が読むのは小説ではなく映画であり、台詞は引用せず、意味をとって書く。

電話一本を中心にまわる暮らし

まず物語を置いておく。この先のすべてが、そこに立っているからだ。テルコがマモルに出会ったのは、ある結婚式の二次会だった。その場で恋に落ちた。マモルは出版社に勤めている。仕事中でも真夜中でも、彼からの電話が何よりも優先される。いつ呼ばれても出られるように、テルコは仕事をおろそかにし、上司に注意され、やがて解雇される。それでも、自由になったと思うだけだ。

いっときは、何かになりそうに見える。朝まで飲んだ夜、テルコはそのまま彼の部屋に泊まり、ふたりは身体の関係を持つ。テルコは、恋人になれたと信じる。映画はそれを笑いものにしない。ちゃんと甘い時間を与えている。お風呂で髪を洗いあったり、ケチャップをつけた指をマモルが差し出したり。ケチャップのくだりは、成田凌のアドリブだったそうだ。そしてテルコは、恋人ならしそうなことをしはじめる。彼の洗濯物をベランダに干す。彼の靴下を、彼のやり方ではなく自分のやり方でたたんで、収納ボックスにしまう。二人用の土鍋を、彼の台所に置いていく。

マモルは引いていく。テルちゃんだった呼び方が、いつのまにか山田さんになる。下の名前から名字へ。小さく、冷たい一歩である。ある朝は、夜明けに部屋を追い出される。そして、連絡が途絶える。監督は、ベランダで彼の服を抱きしめているテルコを、帰ってきたマモルが冷たい顔で見ている場面を撮ったものの、共同脚本家とプロデューサーに止められて使わなかったと語っている。その場面だけが、映画のなかで唯一マモルの側から見た場面になってしまうからだ。彼の目線を思わせる低い位置からの画がひとつ残っているほかは、映画は、ガラス戸のこちら側、テルコの側にとどまっている。

数か月後、また電話が来る。テルコは何もかも放り出して飛んでいく。待っていたマモルの隣には、年上のすみれがいる。煙草を手放さない、飾らない女性だ。マモルは見るからに彼女に恋をしていて、すみれのほうは見るからに相手にしていない。テルコは、そんな人がいること自体に腹を立てる。けれど、その怒りは長続きしない。路上で、すみれへの文句をラップにして吐き出すのだが、並べた悪口がどれも、すみれを好きになる理由にしか聞こえないのだ。すみれはすみれで、なぜかテルコを気に入る。テルコ、マモル、すみれ、ナカハラという奇妙な四人が、一緒に飲み、湖畔の別荘で週末を過ごすようになる。すみれと飲んだある晩、テルコとマモルはまた同じベッドに入る。隣で横になりながら、マモルは、自分には好きになるところなんてないと言う。

彼女が守っている規則と、その理由

世間の説明が見落としているのは、ここだ。テルコには規則がある。映画とともに公開された紹介文に、はっきり書かれている。今の関係を保つことに必死なテルコは、自分からは決して連絡しないし、決して好きだとは伝えない。最初の夜の、まだ外にいるという嘘は、この規則が働いた姿である。マモルの前で見せる気軽さも、すべてそうだ。彼女の技のすべては、途方もなく大きな想いを、ささやかなものに見せることに注がれている。

規則がいちばん目に見えてゆるんだのは、はじめて一緒に夜を過ごしたあと、恋人のようにふるまってしまった時期である。そしてマモルが引いたのは、まさにそのときだった。二人用の土鍋も、自分流にたたんだ靴下も、実物大の彼女の想いだった。それは、彼が望んだよりも大きかった。そこからテルコが学ぶのは、友だちが学んでほしいと願っていることではない。彼が自分を好きではない、ということではない。それなら知っている。学ぶのは、自分の想いの大きさを、決して見せてはいけないということだ。プライドのない女に見えるのは、プライドを変装につぎこんでいる女なのである。

なぜ、そんな規則を守りつづけるのか。さっさと離れればいいではないか。そう答えを出してしまう前に、彼女の言い分を聞いておきたい。いちばん単純な理由から言えば、彼のそばにいると、テルコは幸せなのだ。映画は、あの甘い日々を思い違いとして片づけない。お風呂で洗いあった髪も、ケチャップも、本物だった。あとで何が起きても、それが本物でなくなるわけではない。

二つ目の理由は、仕事がもともと、彼女の人生の中心ではなかったということだ。テルコは作中で、べつに世の中を回すために生きているわけじゃない、という意味のことを言う。恋愛運と仕事運は反比例する、という持論もある。二十八歳で、一週間を埋めている仕事が、その一週間の目的ではないと感じている人は、めずらしくないだろう。テルコがめずらしいのは、それを口に出し、そのとおりに生きてしまうところだけだ。

三つ目は、外からは見えにくい。そばにいるということには、打ち明け話をされることも含まれている。自分には好きになるところなんてない、とマモルが言うのは、ほかの誰でもなく、テルコに向かってである。監督は、自分にも似た経験があると語っている。好きな人と二人きりでいるときに、その人から、別に好きな人がいるという話を聞かされる。恋愛の相手としてはまったく見られていないけれど、恋愛相談をされる距離にはいる。悲しさと嬉しさの、ふしぎな同居。テルコはマモルの愛を持っていない。けれど、彼の打ち明け話を持っている。それは、ゼロではない。

そして、テルコは崩れていない。これは大事なことだ。彼女を哀れな人にしないのは、この点である。映画もそこに気を配っている。よく食べ、よく眠り、ラップをする。冗談も言うし、怒りもするし、喧嘩のできる友だちもいる。監督は、テルコのまっすぐさを羨ましがる後輩の同僚を、わざわざ登場させた。登場人物のなかに、ひとりくらいはテルコを肯定する人を置きたかったからだという。そのうえで、その後輩を結婚の決まった人にして、テルコをもうひと刺しさせた。監督自身も、みんなが痛々しいというテルコのまっすぐな想いに、羨ましさと、ある種の嫉妬を感じると語っている。被害者を羨む人はいない。

近くにいるか、手が届くか、見てくれているか

愛着の研究には、こうしたことを語る言葉がある。ラベルではなくレンズとして使うかぎり、それは役に立つ。愛着理論を築いたジョン・ボウルビィは、愛着のしくみがひとつの問いを発しつづけていると考えた。心理学者のクリス・フレイリーの要約によれば、その問いは、愛着の相手が近くにいるか、手の届くところにいるか、こちらに注意を向けているか、である。一九八七年に、大人の恋愛も愛着の過程として理解できるという研究が発表されて以来、同じ問いは恋人たちにも向けられてきた。

この問いを通してテルコを見ると、彼女の取引は、愚かさというより算数に近く見えてくる。近くにいること。それは自分で確保している。手が届くこと。どの夜も空けてある。手放したのは三つ目だ。マモルの注意はすみれに向いていて、テルコはそれなしで生きることを引き受けた。三つのうち二つ。誰も望んで選ぶ数字ではない。けれど、ゼロでもない。何より彼を失いたくない人にとっては、はじめから差し出されていたもののうち、それが精いっぱいだったのかもしれない。

ただ、レンズはレンズのままにしておかないと役に立たない。この図書室は「『Attached』を便利なラベルで終わらせない。愛着を「運命」にしない読み方」で、パターンは人の内側だけでなく関係のなかでも起きること、そして、自分のタイプは何かと問うより、この人といると自分に何が起きるのかと問うほうが人間的だということを書いた。『愛がなんだ』は、ほとんどその実演のような映画である。テルコは誰に対してもこうなのではない。葉子にはずけずけ言うし、上司には無頓着だし、すみれには興味しんしんだ。あの激しさは、ひとつの関係に宿っている。そして、テルコが近づくたびに身を引くマモルは、すみれの前では、テルコが自分の前でするのとまったく同じことをする。浮かれて、気を回して、こっちを見てほしいと願っている。映画は同じ男を、ときには同じ夜のうちに、両方の位置に立たせる。

この構図は、ぐるりと一周している。ナカハラにとっての葉子は、テルコにとってのマモルだ。葉子にとってのナカハラは、マモルにとってのテルコだ。誰のことも追いかけていない唯一の人、すみれは、マモルにとってのマモルである。追う人と追われる人に、はじめから分かれているのではない。誰もが、どちらの位置にも立ちうる。それは性格ではなく、立ち位置の問題なのだ。

このレンズは、テルコに有利なことをひとつ映し出してもいる。映画の紹介文は、機嫌よく笑っていたかと思うと、テルコが少し踏みこもうとした瞬間に突然拒絶するマモルを描いている。そういう人のそばで気を張っていることは、張っている側の性質だけを語っているのではない。相手についての情報でもあるのだ。

ナカハラは、逆の取引をする

ナカハラはカメラマン助手で、葉子を想っている。夜中でも、頼まれれば使い走りをする。葉子がふと寂しくなったとき、いつでも呼び出してもらえる場所にいたい、と彼は言う。監督はナカハラを、テルコの鏡のような存在で、けれどテルコとは違う決断をする人物だと語っている。ふたりは、出会ってすぐに互いのなかに自分を見る。振り向いてくれない相手のためなら、何でもしてしまう者同士として。

湖畔の別荘で、すみれはナカハラに、葉子とはいったいどういう関係なのか、身体だけの関係と何が違うのかと、正面から問いただす。すみれさんには分からない、とナカハラは返す。そのやりとりを、テルコとマモルは横で聞いている。監督によれば、あれは見ている二人自身の話でもある。そして、いかにもこの映画らしいのだが、ほかの誰も口にしないことを口にしたすみれは、そのあと台所に立ち、しばらくすると、アスパラがあったよ、とナカハラに声をかけている。

やがてナカハラは、葉子にもう会わないことにしたとテルコに告げる。自分が好きでいることが、葉子をだめにしていると感じたのだ。テルコは食ってかかる。手に入らないからあきらめるだけだと、正直に言えばいいのに、と。ナカハラは、本当に好きなのだと答え、せめてあきらめることくらいは自分で決めさせてほしいと言う。幸せになりたい、とも言う。去りぎわ、彼は唾を吐く。これは現場で監督が若葉竜也に提案したもので、このまま去らせるとナカハラがただのいい人で終わってしまう、と考えたからだという。ただし、テルコに向かって吐いたようには決して見えないように、とも頼んでいる。

テルコの怒りは、ナカハラが何をしているかを見れば腑に落ちる。彼は、求める資格のほうを手元に残し、そばにいることのほうを手放した。好きだと、はっきり口にする。それはテルコがマモルに一度も言ったことのない言葉だ。そのうえで、葉子に会える唯一の場所から歩み去る。テルコの取引をそっくり裏返したものを、それを誰よりも分かっている人が、目の前でやってみせたのである。食ってかかるのも当然だ。見知らぬ他人が相手なら、人はあそこまで熱くならない。

そのあとテルコは葉子に向かっていき、長いつきあいのふたりが激しく言い争う。監督は葉子について、親を見てきたからこそ、男が強くて女が言うことを聞くという形に強く反発していて、だからああいう人になったのだと語っている。それは葉子を説明する。言い訳として差し出されているわけではない。そして葉子は、誰にも頼まれていないことをする。マモルに電話をかけて、友だちへの彼の仕打ちを責めるのだ。

この映画でただ一度の告白

最後の訪問は、最初の夜と対になっている。今度寝込んでいるのはテルコのほうで、やって来てうどんをつくるのはマモルのほうだ。原作では、ふたりが最後に会うのはテルコの家の近くの居酒屋だが、映画はそれを彼女の部屋に移した。監督によれば、冒頭と対にするためであり、いつも行く側だったテルコを、一瞬だけ、来てもらう側にするためでもあった。マモルは、彼なりに誠実であろうとしてやって来た。すみれが好きだから、この曖昧な関係はもうやめよう、と言う。

それがどんな種類の言葉なのかに、目をとめておきたい。日本でよく知られている恋の始まり方は、告白を通る。好きです、付き合ってください、と誰かが言葉にし、その瞬間からふたりは恋人になる。監督は、その筋書きが年齢とともにねじれていくことにも触れている。高校生なら告白して付き合うけれど、ある年齢を過ぎると、寝たあとで付き合うかどうかを確かめることもあり、順番が逆になる。言葉にしていないから、片方は恋人だと思っていて、もう片方はそう思っていない、ということも起こりうる。規則を守っているテルコは、一度も告白していない。だからこの映画は、はじめから終わりまで、来なかった告白の手前で起きている。そしてこの映画に含まれるただひとつの告白は、マモルのものだ。別の人への想いを打ち明ける告白である。

ここで気まずくさせたら、二度と会えなくなる。テルコはそれを知っている。だから、もうマモちゃんのことはどうでもいい、と言う。いつまでも好かれていると思わないで、という意味のことまで言う。友だちを紹介してほしい、と頼みさえする。嘘である。そして、つける嘘のなかでいちばん正確な嘘だった。テルコは作中で、自分には好きな人と、それ以外のどうでもいい人しかいない、とはっきり言っている。いま彼女は、マモルを声に出して、その後者の棚にしまってみせる。そして、それはうまくいく。ふたりはこれからも、友だちとして会うことになる。

映画は、この最後の動きにひとりの証人を置いている。小学生のころのテルコだ。この子は何度か現れて、大人のテルコが自分に向けようとしない問いを向けてくる。監督は、この子を登場させた理由を語っている。ラストでテルコが今の関係を保つためにとる行動は、映像だけでは伝わりにくいかもしれない。かといって、心の声のナレーションにすると、全部が説明になってしまう。子どもと話させれば、本当にいいの、マモちゃんのこと好きなんじゃないの、という気持ちをはっきり出せる。だから逆に、子どものほうが大人びていたりもする、と。

監督は、この映画の形をひとことで言い当ててもいる。はじめテルコは、マモちゃんの彼女になりたいと思って動いていた。けれど途中から、目的は、今の関係が壊れないように保つことのほうへ向かっていった。そして自分は、何かを達成する主人公には興味がなく、現状維持を目的にしてしまう人の物語に惹かれるのだ、と。彼女を見るまなざしとして、寛大で、しかも正確だと思う。映画の最初の嘘は、駆けつけられるように、彼女の想いを小さく見せた。最後の嘘は、そばにいつづけられるように、それを無いものに見せる。同じ規律の、実物大の姿である。崩れたのではない。完成したのだ。

いまだに田中マモルではない

映画の途中、動物園に出かけた日に、ふたりは象の前に立つ。マモルは、いつか会社を辞めたら象の飼育員になる、と言う。何の気なしのひとことだ。テルコは泣く。その言葉のなかに未来を聞き、その未来のどこかに、自分もいると思ったからだ。

最後の場面で、テルコは動物園で象の飼育員をしていて、象に餌をやっている。映画のはじめのほうで彼女は、どうして自分はいまだに田中マモルの恋人ではないのだろう、と自分の声で語っていた。最後に同じ声で語るのは、私はいまだに田中マモルではない、ということだ。文から、ひとつの言葉が抜け落ちている。恋人、という言葉が。途中で彼女は、マモちゃんになりたい、とも言っていた。彼の口から聞いたたったひとつの夢を、テルコは自分の毎日の仕事にしてしまったのだ。

それが何を意味するのか、映画は言わない。言わないのが正しいのだと思う。監督自身、あれが現実なのか夢なのか、救いなのか絶望なのか、自分にも分からないと語っている。ここから先は、この文章の読みであり、それ以上のものではない。テルコは、もう彼の許しを必要としないやり方で、マモルのそばにいる方法を見つけた。彼が口にして、たぶん忘れてしまった未来を、彼女が生きている。それがこの映画のなかでいちばん自由なことなのか、同じ献身のいちばん深いかたちなのかは分からない。たぶん、その両方なのだろう。映画が見せているのは、自分で選んだ仕事をしている女性の姿であり、抱きしめるには大きすぎて、彼女を好きになる必要もない動物の世話をしている姿である。

その一方で、ナカハラは写真の個展を開いている。それを知った葉子が会場を訪れ、自分を写した一枚の前で微笑み、彼のほうを振り返る。それだけだ。まなざしがひとつ。去った人には、まなざしがひとつ与えられる。残った人には、象が一頭与えられる。どちらも結婚式ではない。映画は、正しい愛し方に賞を配ったりはしない。

都合のいい女を、内側から描く

テルコのような女性を指す言葉が、日本語にはある。都合のいい女。映画とともに公開された紹介文にも、この言葉が出てくる。この言葉が何を前提にしているかは、一度立ち止まって考えておく価値がある。女性を、まるごと男の側から測っているのだ。男にとって、どれだけ手間がかからないか、で。映画は二時間かけて、テルコがちっとも都合よくないことを見せていく。うるさくて、頼まれてもいないことをして、何もかもが多すぎる。二人用の土鍋まで持ちこむ。都合がいいのは、ただ一点だけ。声に出しては何も求めない、ということだけだ。

しかも映画は、この言葉を女性だけのものにしておかない。ナカハラは都合のいい男であり、監督は、ナカハラがしていることは普通とは男女が入れ替わっていると指摘している。ナカハラを都合よく使う葉子は、家でその普通を間近に見てきて、それと関わりたくないと思っている人だ。映画は葉子を責めない。ただ、その取り決めの反対側にいる男が、何を払っているかを見せる。

三人の女性を、型にはめることもしない。テルコは、そうなるはずの尽くすだけの女ではないし、葉子は冷たいだけの女でもない。そしてすみれは、構図からすれば恋敵になるはずなのに、テルコがどうしても嫌いになれない人として描かれる。別荘の朝、脚本では、眠っているマモルの顔をテルコがひとりで見つめることになっていた。監督によれば、現場でふたりの距離感を見て、すみれを隣に置くことにした。ふたりの女性が並んで、眠っているマモルを見つめる。この映画のなかでも、とりわけ優しい決断のひとつだと思う。物語が用意しているかに見えた女どうしの争いは、とうとうやって来ない。

ここでテルコは、この図書室が読んできた別の女性と道を分かつ。「『Acts of Desperation』と、欲しい人の前で自分を小さくしてしまうこと」は、メーガン・ノーランの小説を読みながら、望まれるために自分を作り変えていく女性について、小さくなることは彼女が払う代価ではなく、彼女が得ているもの、つまり自分であることの労働からの解放なのかもしれない、と論じた。テルコは別のケースであり、その違いこそが、この文章の要点である。テルコはマモルの前で自分を小さくしていない。むしろ彼の前で大きすぎるのであり、マモルが引いていくのは、その大きさからだ。彼女が小さくしているのは、彼に向けた求める資格のほうである。食欲も、気性も、冗談も、頑固さも、最後の場面まで実物大のままだ。

原作を書いた角田光代は、『紙の月』の原作者でもある。この図書室がその映画を読んだ「『紙の月』と、彼女がはじめて自分として使った金」は、お金に手が届くことと、お金を使う資格があることを区別した。テルコの物語は、同じ線を反対側から見たものなのかもしれない。彼女は、手が届くことのほうは守る。彼の手の届くところにいて、彼も彼女の手の届くところにいる。そして、あらゆる資格を手放す。恋人と呼ばれる資格も、何かを求める資格も、好きになってもらう資格も。

日本で何が起きたのか、外からはどう見えるのか

日本でこの映画は口コミで観客を見つけ、その多くは十代後半から三十代の女性だった。当時の声には学ぶところがある。テルちゃんの気持ちがすごく分かる、身に覚えのある場面ばかりだ、と書く人がいた。ちょっと怖かった、少し共感してしまう自分も怖い、と書く人もいた。当時引かれた声のなかに、彼女を戒めとして読んだものはほとんど見当たらない。この映画は、教訓話としてより、鏡として受け取られたようだ。映画を上映しないで語り合う夜を開いた映画館は、観客が何を求めて来ていたのかを分かっていた。判決ではなく、会話である。

テルコを、国民的な類型にしてしまうのはたやすい。黙って愛する日本の女、というふうに。監督はそれをしない。そういう距離の感覚は、気持ちを率直に言葉にしない日本だけのものかと問われて、監督は、国はあまり関係なく、どこの国にもその差はあると答えている。カナダの映画祭で、付き合っていても結婚していても、想いの重さが五分五分のカップルなんてほとんどいないと思う、と話したら、最前列のカップルににらまれたそうだ。そのうえで、日本人は特に表明しないところがあるのかもしれない、とも言う。それくらいの重みで受けとめるのが、ちょうどいいのだと思う。好きだと言わないというテルコの規則は、日本人の性質ではない。言えば何かが決まってしまう世界、告白すれば答えを出さなければならない世界に、よく合う規則なのだ。

日本の外の読者にとって、この映画は、よくある物語へのいい反証になる。公開のころ、ある英字紙の批評は、日本の若い大人のうちどれだけの人が異性との性経験を持たないかを推計した研究の話から書きはじめ、そうした報道が、セックスにも恋愛にもアレルギーのある無気力な世代、という紋切り型を育てていると指摘した。『愛がなんだ』の登場人物は、何にもアレルギーなど持っていない。むしろ入れこみすぎている。しかも、全員がばらばらの方向に。この映画が関心を向けているのは、人が互いを求めなくなったことではない。求める気持ちが両方向を向くことが、どれほどまれか、ということなのだ。

そして、ほかの国で育って日本で暮らしている女性には、この映画は特別な仕方で見覚えがあるかもしれない。ふたつの習慣のあいだで恋をするというのは、相手がどちらの筋書きで動いているのか、いつも分かるわけではないということだ。最初の夜は始まりなのか。関係は告白がなければ存在しないのか。黙っているのは、いやということなのか。それを第二言語でやれば、ひとつひとつの文に、疑いの層がもう一枚重なる。テルコの状況は、その人の状況ではない。けれど、自分と誰かが互いにとって何なのかを何か月も分からないまま過ごし、尋ねたら終わってしまいそうで尋ねられずにいた人なら、テルコが暮らしているあの部屋のことを、きっとよく知っている。

この読みに対する反論

この文章が間違っている道は、いくつかある。少なくとも二つは、ここまで頷いてきた人をこそ落ち着かなくさせるはずだ。

第一に、相手の側のこと。この文章はテルコの言い分を大切にしてきたが、マモルの言い分も本物である。彼は、こんなふうに愛してくれと頼んだわけではない。ベランダの洗濯物も、彼女流にたたまれた靴下も、頼まれたものではなかった。彼が引いたことは、どれほど卑怯に見えても、彼が引いてよい線でもあった。そして、最後の嘘がある。これからも友だちとして会うという彼の同意は、彼女の気持ちについての事実でない説明の上に立っている。偽りの絵を見せられて与えた同意は、実際に起きていることへの同意ではない。映画はこれを罪としては描かないし、罪でもない。それでも、テルコの規律に感心する読みは、その規律が、彼の知ることを管理することで成り立っていると認めなければならない。

同じ注意は、ふたりの身体の関係にも向けておきたい。映画のどこにも、どちらかがそれを望んでいなかったことを示すものはない。ふたりに一度もなかったのは、それが何を意味するのかについての合意である。同じ夜を望むことは、その夜について同じ物語に同意することではない。

第二に、この映画の優しさ。悪人がひとりもいないことは、この映画の魅力であり、危うさでもある。仕事を失うほどの愛し方が、かわいらしいものに見えてしまいかねない。解雇を自由として描く映画は、家賃を見せずにすむ。テルコを微笑ましいより怖いと感じた観客もいたし、それは間違いではない。抱えている人がどれほど面白くても、それだけで献身が無害になるわけではない。

第三に、この文章の中心にある区別は、きれいすぎるのかもしれない。求める資格を手放すことと、自分を手放すことのあいだに、はっきりした線などないのかもしれない。ひとりの男の電話を中心に組み立てられた暮らしは、彼女の食欲がどれほど旺盛でも、すでに手放された自分なのかもしれない。明け渡すことそのものが彼女の得ているものなのだという、ノーランの語り手についての読みが、テルコにも当てはまる可能性はある。この文章は、自分の読みのほうを選ぶ。証明はできない。

第四に、結末は誰のものでもない。監督は、あれが現実かどうか分からないと言っている。ここで象について書いたことは、すべて読みであり、読みとして差し出している。

最後に、この文章がどこから書かれているか。この家は私的な同伴を売っている。区切られ、予定され、代金が支払われる同伴である。だからこの家には、求める資格を伴わない近さに尊厳を見いだす文章について、はっきりした利害がある。読者には、そのぶんを割り引いて読む権利がある。テルコが手にしているのは、そういうものではないし、買えるものでもない。誰にも代金は払われていないし、時間どおりに終わるものは何もない。そして彼女が欲しいのは、ただひとりの特定の男であり、それはどこで売られているものでもない。

この図書室の考え

この図書室の立場を書いておく。何も求めない愛は、それだけで気高いわけでも、それだけで病んでいるわけでもない。問うに値するのは、代価を払う本人が目を開けてそれを選んだかどうか、そしてそれが、本人に払う権利のある代価かどうか、である。テルコは目を開けて選んだ。そしてそれは、彼女に払う権利のある代価だった。映画はそれを尊重しているし、この文章もそうする。彼から離れなさい、とは言わない。映画は去った男を描いているが、その男に冠をかぶせてはいない。

言えるのは、こういうことだ。好きになってもらうことを求める資格と、ふつうに大切に扱われることを求める資格とのあいだには、見ておく価値のある線がある。前者は、誰が手放してもかまわない。後者は、誰も手放さなくていいはずのものだ。前者を手放しても、人は丸ごとの自分のままでいられる。後者を、たいていは気づかないうちに手放してしまうところで、献身は、それを抱える本人が払うと決めた以上のものを取りはじめる。テルコがその線のどこに立っているのかは、映画が観る人に委ねている。

そしてもうひとつ、どんな文章よりも映画のほうがうまく言っていること。テルコの規律は、自尊心の欠如ではなかった。自尊心そのものだった。多くの人なら選ばないものに、それをつぎこんだというだけだ。つぎこみ先に異を唱えることはできる。けれど、彼女につぎこむものが何もなかった、とは誰にも言えない。

持ち帰るための問い

誰かの前で、自分を小さくしたことはあるだろうか。そのとき小さくしたのは自分自身だったのか、それとも、その人に向けて求める資格だけだったのか。自分の想いが実物大に見えないように守っている規則はあるだろうか。その規則を、誰から教わったのだろう。近くにいて、手も届くのに、こちらを見てはいない人は、暮らしのなかにいるだろうか。その人がこちらを見たら、どうするだろう。好きな人から、別の人を好きだと打ち明けられたら、本当のことを言うだろうか。それとも、扉を開けたままにしておくだろうか。友だちに、もうやめなよと言うとき、それは誰の気持ちを楽にするための言葉だろう。

もう家にいるのに、まだ外にいると言ったことがあるなら、この物語の続きを、あなたはもう知っている。あんなふうに誰かを愛したことのある人に、それが何を代償にしたかを教える必要はない。毎晩その計算をしてきたのは、あなた自身だからだ。映画はあなたを愚かだとは呼ばないし、この文章も呼ばない。ただ、自分が手放したのがどちらだったのかだけは、知っていてほしいと思う。求める資格は、手放すことができる。けれど、自分自身まで手放すことを、誰かに求められたことは一度もなかったはずだ。

ほかの章から読む

『Attached』を便利なラベルで終わらせない。愛着を「運命」にしない読み方愛着スタイルは、自分を理解するヒントにはなる。でも、人生の判決文ではありません。夜の十一時、残っているのは全員、答えに利害を持つ人だ。十一時十五分、彼女は四十の名前をたどって、誰にも連絡しません。そしてもう遅いから迷惑だ、と自分に言います。本当の理由は、気づかないまま走らせた計算です。その時刻に届く相手はすべて、彼女が何を言うかによって人生が変わる人なのです。なかば形になっただけの文は、利害を持つ人のなかに情報として着地し、そして取り消せません。つまり、彼女がもっとも愛している人たちは、彼女がその前でもっとも考えを声に出せない人たちです。そしてそれは親密さの失敗ではありません。親密さの帰結です。秘すれば花。日本は正しい性についての教義をついに生まなかった。行為を道徳の問題にしない文化には、その行い方を定める理由がないからだ。代わりに生まれたのは美学であり、そしてその美学は、見せることではなく察することを軸に組み立てられている。それが、訪れる人を戸惑わせるほとんどすべてを説明する。前戯という語も、あの映像のなかの声も含めて。

この問いから、次へ

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

このお便りについて