Cinema
『慕情のアンソロジー』と、聞き届けられる望み、届かない望み
四人の監督が、何かを望む四人の女性を描いた。女性が望みを口にすることを正面から描いたと評価された映画だが、四つの物語を並べてみると、違っているのは望みの中身ではない。誰がそれを聞くのか、聞いてもらうのにどれほどの代価がかかるのか、である。そして誰にも聞いてもらえないただ一人の女性は、その部屋を掃除している。
『慕情のアンソロジー』の終わり近くに、若い教師が、夫の家族全員の目の前で絶頂を迎えてしまう場面がある。夫の祖母が、何を操作するものかも知らずにリモコンを手に取り、ボタンを押しはじめたからだ。この一編を撮ったカラン・ジョーハルは、その瞬間に、自分が二〇〇一年に撮った大家族の映画の主題歌を重ねてみせる。誰もが話題にした場面であり、話題になるように作られた場面でもある。
けれど見終えたあとに残るのは、もっと静かな場面のほうだ。四編のうちの二番目。ムンバイで独身男の部屋を掃除している女性が、彼の縁談のために顔をそろえた二つの家族に、お茶をいれている。まず彼の両親に出す。次に相手方の両親に出す。それから寝室へ運ぶ。そこでは彼が、結婚することになる若い女性と並んでベッドに腰かけている。ふだんの日なら、そのベッドで彼が寝る相手は、お茶を運んできた彼女のほうだ。彼女はふたりにもお茶を出し、仕事に戻る。すべてを終えて帰るとき、彼の母親が婚約を祝う菓子を差し出す。彼女はそれを受け取り、口に入れる。
そのあいだ、彼女はほとんど何も言わない。公開当時、ある批評家は、この一編を通して彼女の台詞はせいぜい二行だと書き、別の批評家は、せいぜい二言だと書いた。それ以上は要らない。この物語が言うべきことは、すべてお茶のなかにある。
この映画は二〇一八年六月、ネットフリックスで配信された。女性は何を望むのか、そしてそれを口にしたら何が起きるのか。主流のヒンディー語映画では長いあいだ、この問いを引き受けるのは、男を誘惑する悪女の役柄だけだった。四人の監督が、それぞれのやり方でその問いに答えたのが、この一本である。率直さが評価され、その評価は正当だった。だが四つの物語を並べると、別のものが見えてくる。四人とも、望んでいる。映画はそれを一度も疑わない。違うのは、その望みが聞いてもらえるかどうか、誰に、どんな代価で、である。大学講師は、カメラに向かって延々と自分を説明するのに、暮らしのなかの誰にもほとんど話さない。銀行員は、自分で選んだ部屋で、夫に話を聞かせる。花嫁の望みは、夫が一度も耳を傾けないうちに、家族全員の知るところとなる。そして部屋を掃除する女性の望みは、誰にも聞かれない。
この文章の主張はそこにある。この映画の率直さは本物だ。ただし、誰にでも同じだけ配られているわけではない。その配分は力関係に沿っている。誰が誰を教えているのか。誰が誰に賃金を払っているのか。そこは誰の家なのか。四編のうちいちばん静かな物語が、そのことをいちばんよく知っている。
この映画について、そしてこの文章が明かすこと
まず記録から。『慕情のアンソロジー』は、ヒンディー語の短編四本からなるオムニバス映画で、全体でおよそ二時間になる。アヌラーグ・カシャップ、ゾーヤー・アクタル、ディバーカル・バナルジー、カラン・ジョーハルの四人が順に監督した。同じ四人は二〇一三年にも、インド映画の百年を記念するオムニバスを撮っている。本作は劇場を通らず、二〇一八年六月十五日にネットフリックスで配信され、国際エミー賞ではテレビ映画・ミニシリーズ部門と、ラーディカー・アープテーの主演女優賞の二つにノミネートされた。
配役はこうだ。カシャップ編では、ラーディカー・アープテーが講師のカーリンディーを、アーカーシュ・トーサルが教え子のテージャスを演じる。アクタル編では、ブーミー・ペードネーカルがスダーを、ニール・ブーパラムがアジートを。バナルジー編では、マニーシャ・コイララがリーナーを、サンジェイ・カプールが夫のサルマーンを、ジャイディープ・アロワットがその親友スディールを。ジョーハル編では、キアラ・アドヴァニがメーガーを、ヴィッキー・コウシャルが夫のパーラスを、ネーハー・ドゥピアが同僚のレーカーを演じている。
この文章は、四つの物語すべてに結末まで触れる。何が起きるかの説明は、作品の公式な記録と、公開当時の批評にもとづいている。場面は引用せずに描写し、記述が食い違うところでは、記録に従うか、何も言わない。
誰にでも自分を説明するのに、彼にだけは話さない人
カーリンディーは大学で教えている。年上の夫ミヒルは海外に暮らし、かつて自分がそうしたように、妻にも自分なりの性の経験を持つよう勧めている。この自由の形に、少し立ち止まってみたい。それは夫の提案として、ほとんど宿題のようにして届く。しかも、その場にいない男から。彼女はそれに、まじめな人が宿題に取り組むように取り組む。不安げに、そしてずっと実況しながら。
その実況が、この一編の仕掛けだ。カシャップは何度も彼女を物語の外へ出し、カメラに向かってまっすぐ自分を説明させる。姿の見えない聞き手に答える、ドキュメンタリーの登場人物のように。ある批評家が書きとめたところでは、彼女はそうした語りのひとつで、友人であり恋人でありファンタジーでもある相手を一人の人間に求めるなんて無理ではないか、と考え込む。別の語りでは、夫が重ねてきた物語だらけの人生のことを話し、自分もそういう人生がほしいと言う。彼女は雄弁で、おかしくて、矛盾していて、そして聞いてもらえている。私たちは全部を聞く。
ただ、この物語の当事者である相手は、そのほとんどを聞かない。彼女は教え子のテージャスと寝て、深入りを恐れて彼を遠ざける。同僚のニーラジと「一対一」の関係を試し、ぎこちない一夜で終わらせる。テージャスが同級生のナターシャと付き合いはじめると、嫉妬が彼女を支配する。ふたりのあとをつける。ふたりきりの時間を邪魔する。ついには彼の部屋に入り込む。そしてナターシャと別れると彼が言ったとたん、自分は結婚していると告げて出ていき、彼を途方に暮れさせる。
彼女を戒めの物語に仕立てるのは簡単だが、映画はそうしない。まず、彼女の側の理由を汲んでおきたい。自分で思いついたわけではない自由を手渡され、それがあなたのためになると言われた。すがりつく女になることを恐れ、結局そうなってしまう。人間のいちばん古い筋書きのひとつだ。この一編は、彼女をほとんど裁かない。欲望をもつ女性の居場所として、かつてのヒンディー語映画が用意してきたのは、聖女か悪女かの二つだけだった。彼女はそのどちらでもない。それは本物の前進である。そして同じ一編に、同意をめぐる、この映画でいちばん正確な冗談が入っている。その冗談は、まじめに受け取る価値がある。
「合意のうえ」を、録音しておく
ふたりが寝たあと、カーリンディーはテージャスに、ふたりのあいだのことは合意のうえだった、という言葉を録音させる。笑わせる場面として撮られていて、実際おかしい。若い彼は、合意を意味する英語の一語をうまく言えずにつかえ、ある批評家は、カシャップが撮ったなかでもいちばん黒い喜劇のひとつだと書いた。笑いが成り立つのは、場面が正確だからだ。
この場面にある力関係は、はっきり名指しておくべきだろう。映画自身が名指しているのだから。彼女は彼を教える講師で、彼はその大学に通う若い男性だ。嫌がっていたことを示すものは、物語のどこにもない。けれど、自分の成績をつける人に頼まれて録音した「はい」は、あとでそれを聞く人に、何が言われたかは伝えられても、「いいえ」が本当に選べたのかどうかは伝えられない。しかも、その記録は彼のために作られたものではない。まだ存在しない聞き手、たとえば大学の委員会や、うわさや、法廷のために作られ、頼んだ側を守る。同意とは、あとから集める証文ではない。ことが起きているあいだずっと成り立っていなければならない状態であり、そこには、何の代償もなくやめられる自由も含まれる。録音が証明できるのは、ある言葉が口にされたことだけだ。その言葉が自由だったことまでは、証明できない。
では、彼女がこのあとすることを、男女を入れ替えて考えてみる。既婚の男性教授が教え子の女子学生と寝て、合意したという言葉を彼女に録音させ、それから突き放す。彼女と新しい恋人のあとをつけ、ふたりきりの時間を邪魔し、彼女の部屋に入り込み、恋人と別れてもいいと彼女が言ったとたん、自分は既婚だと告げて去る。これを喜劇として見る人は、ほとんどいないだろう。カーリンディーの追跡を笑いにできるのは、この映画が古い思い込みに寄りかかれるからでもある。若い男は、年上の女性の関心によって本当に傷つくことはない、という思い込みだ。映画自身も、それを完全には信じていない。最後にテージャスを途方に暮れさせる。それが、この映画が彼の痛みを見せることを許した、ただひとつの形である。
だからといって、カーリンディーが悪人になるわけではないし、この映画は懲戒の場でもない。言いたいのは、もっと狭いことだ。女性が、望む相手に対して制度上の力をもっている唯一の物語で、映画は彼女に、いくらでも聞いてもらえる場を与えている。カメラは、彼女が望むかぎり耳を傾ける。そして彼には、記録を与える。この非対称を、次の物語まで覚えておいてほしい。そこでは力の向きが逆になり、聞いてもらえる側も逆になる。
仕事場でもある部屋
ゾーヤー・アクタルの一編は、およそ二十分。アジートの部屋で働くスダーのそばを、カメラはほとんど離れない。毎日には決まった流れがある。お茶と朝食をつくり、ベッドを整え、シャワーを浴びる彼にタオルを渡す。彼が彼女と寝る。彼女はまた床を掃く。アクタルはそれを、ほとんど言葉なしに撮る。ショットからショットへなめらかに流れていくので、繰り返しには切れ目がないように見える。内側から見た日々とは、そういうものだ。
ある批評家の指摘によれば、ベッドの上のふたりは乱暴なからかいの言葉を対等に投げ合い、そのあいだだけは本当に対等である。部屋のほかの場所では、序列ははっきりしている。やがて彼の両親が泊まりに来て、ふたりは互いを避ける。母親はスダーに優しい。けれど家の者にお茶を頼むとき、その数にスダーを入れない。別の批評家は、もうひとつの小さな残酷さに気づいた。スダーが整えている部屋で、母親は、息子の家が散らかっているのは妻がいないからだとこぼすのである。
そこへ縁談を持った一家がやって来て、あのお茶の場面になる。その批評家は、居間から寝室へと向かうその歩みを、階級の溝がどれほど深く根を張っているかを突きつける場面だと評した。それはまた、誰の言葉が聞かれるのかをめぐる、きわめて精密な演出でもある。居間では二つの家族が、声に出して結婚を取り決めている。寝室では若いふたりが、互いを好きになるための時間を与えられている。スダーは盆を持ってその両方を通り抜ける。どちらの部屋でも、彼女を当事者に含む言葉は、ひとことも交わされない。
それでも、彼女の望みはそこにある。そのことは、はっきり言っておきたい。アジートが思っていた以上のものを、彼女がひそかに望んでいたことを、映画はきちんと見せている。彼女を利用された人としてだけ読めば、この物語のなかで彼女のものであるただひとつのものを、取り上げてしまう。彼女は彼を望んだ。望みをもった。お茶を運ぶあの歩みが壊すのはその望みであり、それがあったことを、あの部屋の誰も知らないままだ。
賃金を払う相手に言う「はい」の重さ
映画は、アジートが彼女に無理強いする場面を見せていないし、この文章もそうだったとは言わない。映画が見せているのは、彼女の「はい」が立っている地面のほうだ。彼は彼女に賃金を払っている。ベッドは、彼女の仕事場のなかにある。「いいえ」が彼から奪うのはせいぜい午後のひとときだが、彼女からは仕事を奪うかもしれない。だからといって、彼女の「はい」が「いいえ」に変わるわけではない。ただ、その「はい」を、彼も、ほかの誰も、ただ自由なものとして読むことはできない。そしてこの取り決めは、彼がそれを確かめようとしなくて済むように組み立てられている。彼女の「はい」にどれだけの重さがあったのかを確かめなければならない理由が、あの部屋には何もない。
怒ってよいのは、ここだ。ただし怒りを向けるべきは取り決めの仕組みであって、ひとりの男でも、ひとつの国でもない。同意とは、力ずくでないというだけのことではない。言っても何も失わない「いいえ」であり、それを本当に聞いている相手のことであり、何よりまず、誰かがわざわざ尋ねるところから始まる。あの部屋で、スダーに何かを尋ねる人はいない。雇い主は、彼女が何を望んでいるかを尋ねない。その母親は、茶碗を数えるとき彼女を数えない。訪ねてきた一家にとって、彼女は盆を持った人以外の何者でもない。
そして、あの菓子。映画は答えを出さず、いくつもの読み方がなされてきた。先の批評家は、甘い菓子を口に入れるスダーの表情に、頭のなかの葛藤とようやく折り合いをつけた人の姿を見た。飲み込むこと、と読むこともできる。家の人たちが正しいと認めてくれる、彼女に許されたただひとつのふるまいとして。あるいは誇り、何ひとつ見せまいとする拒否として。その全部かもしれない。ただ、あの菓子が、聞いてもらえることの代わりになることはない。あれは彼女を数に入れない家からの礼儀であり、彼女はそれを、賃金を受け取るのと同じように受け取る。
恋人の家で告げられた真実
ディバーカル・バナルジーの一編は不倫の物語で、四人のうち、関わりのある相手にいちばん直接語りかける女性が出てくる。銀行員のリーナーはサルマーンの妻で、二人の子の母だ。三年前から、夫の親友スディールと、海辺にある彼の家で会っている。物語のほとんどは、その家のなかで進む。夫が疑いはじめたとスディールから聞くと、彼女は打ち明けて堂々と暮らしたいと言う。スディールは、親友を失うことに耐えられない。ある批評家が取り上げたのは、ふたりの男が仲間うちの気安い調子で話しながら、彼女が求めているただひとつのことを避けつづけ、彼女がそれを黙って聞いている場面だった。
だから彼女は、自分でやる。夫をスディールの家に呼び、本当のことを告げる。不幸だったこと。妻ではなく、夫の子どもたちの世話係になってしまったこと。関係が三年続いていること。この映画でいちばん高くつく言葉を、彼女は面と向かって言う。サルマーンは泣き崩れ、子どものためにとどまってくれと懇願する。彼女はとどまる。翌朝、スディールとの関係を終わらせ、夫は知っている、と告げ、ひとつだけ念を押す。あなたが知っていることは、決して夫に悟られないで。そして、夫とともに去っていく。
これを敗北と呼びたくなる気持ちはわかる。真実を告げた女性が、たったいま自分で描写した結婚へと連れ戻されるのだから。勝利と呼びたくなる気持ちもわかる。ふたりの男が臆病で語れなかった物語を、彼女が引き取ったのだから。映画はどちらにも読ませ、どちらにも決着をつけない。この文章も、彼女に代わって決めることはしない。それでも、構造についてなら言えることがある。『慕情のアンソロジー』のなかで、誰が何を聞くかを決めるのは、リーナーただ一人だ。彼女は聞いてもらう場を手に入れ、それを、ある沈黙の条件を定めるために使う。三人とも、もう知っている。誰が知っているように見えてよいかを決めるのは、彼女だけだ。日本語には仮面夫婦という言葉があるが、この結婚の仮面は世間に向けたものではない。三人のあいだに掛けられている。正直さと秘密は、ここでは対立しない。彼女は一方を差し出して、もう一方を買う。
当時の法律がこの物語をどう聞いていたかも、知っておく価値がある。リーナーの物語が配信された二〇一八年六月、インドでは姦通はまだ犯罪だった。しかも独特の形をした犯罪である。罪を犯すのは男で、他人の妻と、その夫の同意も黙認もなく関係をもったときに成立し、妻のほうは罰せられなかった。法律の上では、リーナーのような物語は、ふたりの男のあいだの問題だったのだ。その三か月あまりのち、インド最高裁はこの規定を無効とし、それが守っていたのは結婚の神聖さではなく夫の所有権だった、と述べた。この図書室の「インド。取り決めの内側で、何が交渉されているのか。」が、その秋の一連の判決を、より広い文脈のなかに置いている。日本の読者にとっても、無縁の前提ではない。日本の刑法にもかつて姦通罪があり、罰せられたのは夫のある妻とその相手だった。しかも夫の告訴がなければ罪に問えず、夫が黙認していれば、その告訴は効力をもたなかった。一九四七年に削除されるまで、それは続いた。向きは違っても、二つの法は、妻の貞操を夫の問題として扱う同じ前提の上に立っていた。映画は法を持ち出さないし、この文章も物語の人物に法を当てはめはしない。それでも、リーナーが語ることを自分の手に取り戻す姿を見ていると、当時の法の上では彼女がその物語の当事者ですらなかったことに、気づかずにはいられない。
三人の大人の誰も、きれいなままでは終わらない。映画は、誰の側につくかを私たちに求めない。サルマーンの悲しみは本物で、子どもたちのためという訴えも本物だ。親友への忠誠は、スディールにとって自分を守るやり方でもある。リーナーの選択は、愛かもしれないし、義務かもしれないし、疲れかもしれないし、作戦かもしれない。たぶん、少しずつ全部だろう。この物語がしないのは、いったん語られた真実が誰かを自由にする、というふりをすることだ。真実がもたらすのは、新しい条件である。
花嫁の快楽と、家族の主題歌
カラン・ジョーハルの一編は、四つのなかでいちばん大らかで、いちばんはっきりした喜劇だ。教師のメーガーは、パーラスと結婚したばかりである。夫は優しく、気遣いも細やかで、そしていつも早く果ててしまう。夫の家族は、もう子どもを急かしている。彼女が望んでいることは、この映画のほかの誰の望みよりも単純だ。自分の快楽も、数に入れてほしい。同僚のレーカーが勧めたのは、リモコン式のバイブレーターだった。
メーガーは家でそれを試す。途中で居間の騒ぎに呼ばれ、リモコンは手を離れ、夫の祖母がそれを拾っていじりはじめる。家族全員の前で、メーガーは隠しようのない絶頂に襲われ、音楽は、あの二〇〇一年の映画の主題歌で盛り上がる。義母は離婚を言い渡す。
冗談のひとつの層で、ジョーハルは自分自身を笑っている。二〇〇一年のその映画は、家族が家族を愛することをうたいあげる大作で、主題歌を歌ったのはラター・マンゲーシュカルだった。当時、歌手の親族のひとりがこの場面での使われ方に抗議したと報じられている。賛歌のような歌なのに、これは冒涜だ、と。この抗議には、それ自体に意味がある。家族の情をうたう歌が、若い妻の快楽の伴奏をさせられたことは一度もなかった。そうさせられたとき、そこに侮辱しか聞き取れない人たちがいたのだ。
笑いの下に、正確なものがある。家族は、孫を産む体としてメーガーの体を求め、彼女の快楽にはうろたえる。子どもにかかわるときには家族の問題になる体が、彼女自身にかかわるときには恥になる。そして、あの居間で実際に起きたことを見てほしい。器具は彼女のものだった。その操作が、偶然、別の人の手に渡った。そのあと彼女の体に起きたことは、誰かに見せようと彼女が選んだことではない。体の反応は同意ではない。見ている人たちに対しても、ほかの何に対しても。そして、罪でもない。それなのに、離婚の言い渡しという罰は彼女に下る。別の人の手が彼女の体にしたことのために。
ひと月後、別々に暮らしているふたりは、カフェでひそかに会う。パーラスは別れたくない。彼女の望みにもっと向き合う、と約束する。アイスクリームに手を伸ばす彼女を止めて、彼は自分の手でそれを彼女の口に運ぶ。やさしさとして読むこともできる。自分の快楽ではなく、彼女の快楽に仕えることを覚えはじめた男として。あるいは、また主導権を握る男として。彼女がどう食べるかまで決めてしまう男として。映画はどちらにも読ませる。はっきり差し出しているのは、望みの当事者である相手から、ようやく聞いてもらえるということだ。控えめで、心もとなくて、それでもこの映画でいちばん幸せな結末である。
二つの甘いものと、四つの聞かれ方
この映画は、二つの物語を、女性が甘いものを与えられる場面で終える。スダーは、ほかの女性と結婚する男の母親から、菓子を受け取る。メーガーは、耳を傾けると約束したばかりの夫から、アイスクリームを食べさせてもらう。ひとつは、彼女を数に入れない家からの慰め。もうひとつは、数に入れはじめた男からの、心もとないけれど本物の約束。この二つの甘いもののあいだの距離が、階級について、この映画がいちばんはっきり口にしていることだろう。
四つの聞かれ方を並べてみる。カーリンディーの聞き手はカメラだ。私たちには延々と自分を説明するが、暮らしのなかの誰にもほとんど話さない。リーナーは聞き手を選ぶ。一人の夫を、一つの部屋で。そしてそのあと、誰が知っているように見えてよいかを決める。メーガーの聞き手は、望んでもいないのに膨大で、家族全員だった。騒ぎのあとで、ようやく当事者の一人に絞られる。スダーの聞き手は、カメラだけだ。彼女の物語のなかで彼女の望みを見る者は、映画と、私たちのほかにいない。
この図書室の「『Three Women』と、望みが手に入れてしまう観客」は、ひそかな望みの行方を決めるのは、望むことそのものより、誰が見ているのか、あとで誰がそれを語るのかであることが多い、と論じた。その文章は、あの本に向けられたある批評家の異議も書きとめている。女性の声が聞かれるときでさえ、聞かれるのはしばしば「ふさわしい」種類の女性だけだ、という異議である。『慕情のアンソロジー』は、同じ異議を自分の内側に抱えている。四人のうち三人は講師と銀行員と教師で、その望みは、代価はどうあれ、言葉にされる。四人目は、他人の家で働いている。長く残るのは彼女の物語であり、この映画が自分の率直さの限界にいちばん正直なのも、その物語においてである。
この映画自身が聞いてもらえるかどうかも、配分されたものだった。配信の前年、インドの映画認証機関は、四人の女性のひそかな望みを描いた『ブルカの中の口紅』に、物語が「女性志向」だとして上映の認証を与えなかった。上訴を受けた審判所は、成人向けとして、いくつかの削除つきで上映を認め、女性を中心にした映画に禁止を課すことはできない、と述べた。この映画は劇場を通らずに配信へ直行し、映画館で上映する作品を審査するその機関の前を、一度も通らなかった。つまり、その率直さの一部は、作り手の度胸だけでなく、通り道の問題でもあった。こうした映画が、その国がどこまで受け入れる準備ができているかの物差しとして読まれるとき、覚えておいてよいことだ。それが語っているのは、少なくとも同じくらい、そのときどの扉がたまたま開いていたか、である。
シリーズはのちに、スダーの物語が引いた線のところへ戻ってきた。二〇二三年の『慕情のアンソロジー2』で、コーンコナー・セーン・シャルマーは、その線を反対側から描いた。一人暮らしの女性が早く帰宅すると、自分のベッドで家政婦が、家政婦自身の夫と抱き合っている。問いただす代わりに彼女は隠れて見つめ、それからは毎日午後、見るために早く帰ってくる。やがて、同じ家の両端にいるふたりの女性が、ひとつの秘密を分け合うことになる。二〇二六年には第三集も配信された。どちらもこの文章の主題ではない。このオムニバスが、自分の急所がどこにあるかを知っていた。それがわかれば十分だ。
やわらかな邦題のもとで、日本から見る
日本では、この映画は『慕情のアンソロジー』という題で配信されている。英語の原題にある「ラスト」は、欲情や情欲を指す、遠慮のない言葉だ。それに比べて「慕情」はやわらかい。誰かを慕わしく思う気持ちで、どこか古風な恋愛の響きもある。題名で選んだ人は、実際に見たものより穏やかな映画を想像していたかもしれない。けれど四人の女性のうち、英語の題より日本語の題のほうがよく似合う人が、一人いる。スダーだ。彼女の感じていることは、英語の意味での欲情ではない。聞いてもらえない相手への、黙ったままの慕情である。意図したかどうかはともかく、この邦題は、原題が素通りした物語に名前を与えている。
二つの言語のあいだで暮らしている読者には、この小さな言い換えに覚えがあるかもしれない。望みは、国境を越えるあいだに名前を変えることがあり、そのたびに何かが失われたり、足されたりする。第二言語で、恋人や医師や雇い主に自分の望みを伝えようとしたことのある人なら、聞いてもらえるかどうかが、使える言葉と、それを聞き取ろうとしてくれる相手に、どれほど左右されるかを知っているだろう。
日本映画にも、教授と録音の物語がある。濱口竜介の『偶然と想像』も、女性の望みをめぐる短編を束ねた映画で、その第二話「扉は開けたままで」では、既婚の女性が、教授を陥れるために研究室を訪ねる。教授は、扉を開けたままにしておくよう求める。彼女は彼の小説から露骨な一節を朗読し、それをひそかに録音する。教授は誘いに乗らず、ふたりは代わりに率直に語り合う。のちに宛先の打ち間違いから録音は別人のもとへ届き、その騒ぎは、彼の職と彼女の結婚を終わらせる。カシャップの一編と並べると、二つの物語はよく似た韻を踏んでいる。研究室、教授、録音。濱口の教授は開いた扉で自分を守り、録音は彼を陥れるために作られる。カシャップの講師は、録音で自分を守る。どちらでも、扉や記録は、その部屋にいた人たちが実際に感じていたものを収めることができない。記録は、望みを守ってはくれない。次にそれを聞く誰かに、手渡すだけだ。
日本のテレビにも、家のなかで報酬を受けて働く女性の物語がある。そしてそれは、『慕情のアンソロジー』には行けない場所を指している。『逃げるは恥だが役に立つ』では、大学院を出ながら派遣の仕事を切られた女性が、三十六歳のシステムエンジニアの家事を請け負い、やがてふたりはその仕事を、給料と休日のある契約結婚に変える。この図書室の「『逃げるは恥だが役に立つ』と、関係に「契約」を持ち込むと見えるもの」は、契約は関係に条件を付け加えたのではなく、すでにあった条件から覆いを取ったのだ、と論じた。それをスダーの隣に置くと、もうひとつのことが見えてくる。日本の恋愛喜劇が条件を紙に書けたのは、ふたりが同じような足場に立っていたからだ。スダーには紙がなく、それを求められる足場もない。違いを生んでいるのは国ではない。その家のなかで、女性がどこに立っているかである。
メーガーの物語は、いちばん説明がいらない。親戚の集まりで「子どもはまだ?」と聞かれたことのある日本の視聴者なら、結婚したばかりの女性にかかる圧力にも、若い妻の体に家族が強い関心を寄せながら、その快楽は口にしてはならないものとして扱う奇妙さにも、見覚えがあるだろう。ただ、その見覚えは軽く持っておきたい。それは日本の家族一般について何も語らないし、インドの家族一般についても何も語らない。ジョーハルが笑っている取り決めが、ひとつの場所に固有のものではない、と語るだけだ。
二つの国の法律を、勝ち負けの表にしない
日本からスダーの物語を読むと、よその国の家庭の話として片づけたくなるかもしれない。それは、どちらの方向にも間違いだ。二つの国の法律から、文をいくつか並べてみる。どれも点数ではない。
インドで二〇一三年に成立した、職場での女性へのセクシュアル・ハラスメントを防ぐ法律は、住居や家を職場のひとつとして名指し、報酬を得て家事をするために雇われた女性を家事労働者と定義し、彼女を雇う世帯をその雇用主として扱う。家事労働者の訴えは、その世帯ではなく、地域の委員会に届けられる。実際にどこまで届いているかは別として、この法律は、スダーの働く部屋を、そのとおりのもの、つまり職場として見ている。
日本の労働基準法は、個人の家庭に直接雇われて家事をする人、いわゆる家事使用人を、適用の外に置く形で書かれ、二〇二六年九月の時点でもその規定は残っている。労働契約法は及ぶが、労働時間や労働条件を定める中心の法律は及ばない。厚生労働省は二〇二四年に家事使用人の雇用についてのガイドラインをまとめ、二〇二五年一月には同省の研究会の報告書が、家事使用人だけを特別視して適用除外にする事情は乏しくなってきた、と結論づけた。ただ、法律そのものはまだ改められていない。また日本は、国家戦略特区の事業として、外国人が個人の家庭で家事をすることを認めている。雇うのは各家庭ではなく認定を受けた事業者で、この事業は、目的のひとつに女性の活躍促進を掲げている。つまり日本でも、ある女性たちの働き方は、ほかの誰かが他人の家でする仕事の上に成り立っていて、法律はその部屋を見ることに苦労してきた。
日本の刑法には、スダーやテージャスのような「はい」が立つ地面を言い表す文がある。この図書室の「『ベイビーガール』、身を委ねることは弱みを握られることではない」が述べたとおり、二〇二三年七月から、不同意性交等罪は、同意しない意思を形成し、表明し、または全うすることが困難な状態を軸に組み立てられている。その状態を生む事情として法が挙げるもののひとつが、経済的または社会的な関係上の地位にもとづく影響力によって受ける不利益を心配すること、である。法務省は、ここでいう社会的関係には、家庭、会社、学校といった社会生活の関係が広く含まれると説明している。講師と学生、雇い主と家事労働者。この映画の二つの力の差は、ちょうどこの言葉が指すところにある。この文章は物語の人物に法を当てはめはしないし、どの裁判所が何を判断するかについても何も言わない。映画が見せているものを言い表す語彙がすでにある、と記しておくだけだ。
どちらの法律も、アクタルの物語が描いているものを聞き取ることはできない。法は、ハラスメントや労働時間や賃金には届く。望みには届かない。けれど法は、ある部屋をそもそも職場として数えるかどうかを決める。そしてその問いに、二つの国は、違う時期に、違う目的で、違う答えを出してきた。それを並べるのは、勝ち負けを決めるためではない。家という場所が、どんな法にとっても職場として見えにくいことを思い出すためだ。そこは同時に、誰かの暮らす家でもあるのだから。
この読みへの反論
この文章には、まっとうな反論がいくつかある。できるだけ強い形で、向き合っておきたい。
第一に、映画にない統一をこの文章がこしらえている、という反論。『慕情のアンソロジー』は、四人の監督がそれぞれの気質で撮った四本の短編で、その並び順に特別な意味はないかもしれない。四つを、聞いてもらうことをめぐるひとつの議論として読むのは、批評家の並べ方であって、映画の並べ方とは限らない。もっともだ。ここでの主張は、四つを並べたときに何が見えるかについてのものであって、誰かが計画したことについてのものではない。映画が選んだのは、ひとつの題と、四人の女性だけだ。残りは、この読みである。
第二の反論がいちばん強く、この文章がいちばん惹かれている物語に向けられている。スダーの沈黙を讃えることは、貧しい女性が声をもたないことを、美徳に変えてしまう危うさをはらむ。インドの報道サイトに寄せた評で、ある批評家は、この一編は胸を打つ物語でありながら、批判しようとしているその社会そのものに縛られている、と書いた。本当らしさを保つには、ひとつの終わり方しか許されない、と。そして、家事労働者の沈黙をこれほど近くから見つめるカメラは、その沈黙を見えるものにしながら、彼女に言葉を差し出すことは一度もないまま終わることができる。そう考えれば、この文章が讃える抑制は、スダーに誰も何も尋ねない部屋がもうひとつ増えただけで、今度はそこにカメラがあるにすぎない。この反論に、この文章は十分には答えられない。言えるのは、映画が彼女に声を与えている場所がひとつだけあること、それがベッドの上であること、そしてほかの場所の沈黙を、安らぎに見せかけずに事実として置いていること、くらいだ。それが敬意なのか、尋ねないことの別の形なのか。映画は決めていないし、映画の外にいる読み手にも決められない。
第三に、カーリンディーについてこの文章はユーモアを欠いている、という反論。この一編の贈り物は、散らかったままでいることを許された女性、聖女でも悪女でもない女性であり、同意と力の言葉で彼女を読むのは、黒い喜劇に苦情処理の手続きの言葉を持ち込むことだ、と。一理ある。喜劇であることもこの一編の要点で、笑った観客は何も悪くない。けれど、録音を物語に持ち込んだのはこの文章ではない。映画だ。彼女に記録として同意を集めさせ、その一語のところで笑いを落としたのは、映画自身である。
第四に、結末についての反論。家族が離婚を言い渡すところから始まった物語にしては、メーガーの結末はきれいにまとまりすぎている。ひと月の別居、カフェがひとつ、約束がひとつ、スプーンが一本。リーナーの結末も、不幸な結婚へ連れ戻された女性が、それはあなたの選択だと言われているように見えなくもない。別の批評家は、ふたりの男への彼女の静かな復讐は、彼女にとって十分だったのだろうか、と書いた。もっともな疑いであり、この文章も同じ疑いをもっている。ここで描こうとしてきたのは、どちらの結末が十分かではない。それぞれの結末で、最後に誰が、誰に向かって語れるようになるのか、である。
この家がここから受け取るもの
この家は私的な同伴を売っている。だから、この映画のなかで自分たちがどこに立つのかを、はっきり言っておくべきだろう。答えは、居心地のよいものではない。この家の仕事は、お金と、相手に向ける注意とを、同じ私的な部屋のなかに置く。アクタルの物語が見せているのは、お金が一方向に流れる部屋で、それを受け取る側にいる人の望みに何が起きうるか、である。誰もそれについて尋ねない。そして取り決めそのものが、誰も尋ねなくて済むようにできている。
お金は力の線であり、有償の時間のなかでは、その線が部屋の真ん中を走る。この映画が見せる基準は、口にするのはたやすく、守るのは難しい。報酬を受け取る側は、尋ねられなければならない。「いいえ」と言えなければならない。何の代償もなく、やめられなければならない。そして払う側も、同じだけ自由でなければならない。これは基準であって、いつも守られているという主張ではない。自分についてそれを書く家を、読者が疑うのは当然のことだ。
疑う理由はもうひとつあり、そちらのほうが鋭い。注意を売る家には、女性の望みは聞かれずにいる、という結論に明らかな利害がある。その結論は、映画を見る前からこの家に用意されていたのではないか。そう疑う読者には、疑う資格がある。だから、はっきり言っておきたい。この映画のどこも、この家を指してはいない。メーガーにようやく聞いてもらう場を与えたのは、カフェのテーブルの向こうにいる夫だった。スダーに欠けているのは、誰かの注意に満ちたひと晩ではない。彼女が働くその家のなかでの、立場である。それは、この家にも、ほかのどんな家にも売れるものではない。
この図書室がこの映画から受け取るものは、もっと小さく、もっと一般的だ。望みは、感じられただけでは決着しない。聞いてもらう場が要り、その場には、答える立場をもった誰かが要る。それが誰なのか、聞いてもらうのにどれほどの代価がかかるのかは、望みの中身よりも、自分がどこに立っているかで決まる。あなたも、この四つの部屋のどれかに覚えがあるかもしれない。当の相手以外の全員に、長々と自分を説明してきたのかもしれない。望んだことが聞いてもらえたのは、誰かに恥をかかせたときだけだったのかもしれない。あるいは、尋ねてくれた人が一度もいなかったのかもしれない。そのどれも、あなたの望みが正当かどうかについては何も語らない。聞いてもらったことのない望みは、裁かれたわけではない。まだ誰にも、尋ねられていないだけだ。
これは一本の映画の読みである。物語の女性たちを含めて誰のことも診断せず、演じた俳優たちの人生や経験については何も言わない。物語の人物に法を当てはめることもしない。二つの国の法律に触れたのは、それぞれに何が見えているかを示すためであって、順位をつけるためではない。
持ち帰るための問い
あなたの家のなかで、一度も尋ねられたことのない望みは、誰のものだろう。そして、それを尋ねるのは誰であるべきだろう。
最後に自分の望みを口にしたとき、最初にそれを聞いたのは誰だったか。当の相手だったか、それとも別の誰かだったか。
あなたの暮らしを難しくできる相手に、「はい」と言ったことはあるだろうか。「いいえ」と言う自由はあったか。そして、誰かが尋ねてくれたか。
あなたの家で誰かが働いているなら、あるいはあなたが誰かの家で働いているなら、その部屋で口にできることと、できないことは何だろう。
あなたの望みに似合うのは、どちらの題だろう。遠慮のない題か、やわらかな題か。
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