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『Sanctuary サンクチュアリー』、役の向こうにいる人

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自分が辱められる台本を自分で書き、それを演じるプロに報酬を払う男。映画の題は、ふたりが「これを言えばすべてを止める」と決めておいた言葉からとられている。お金を介した取り決めが相手に負っているのは、愛でも一生でもない。役の向こうにいる相手を、止めることも、立ち去ることも、終わらせることもできる、ひとりの人間のままにしておくことだ。ひと晩のうちに、ふたりは互いからそれを奪っていく。

ホテルのスイートで、男がルームサービスを頼んでいる。ドアがノックされ、書類鞄を提げた女が入ってくる。父親の築いたホテルチェーンを率いるのにあなたがふさわしいかどうか、確かめに来たのだと彼女は言う。質問は資格審査のように始まり、やがて別の方向へずれていく。生活の癖へ、体のことへ、取締役会なら決して尋ねないことへ。数分もしないうちに、どれも見かけどおりではないことがわかる。彼女はプロのドミナトリクスで、この面接はひとつの場面だ。そして、その台本を書いたのは彼自身である。

ザカリー・ウィゴン監督の『Sanctuary サンクチュアリー』は、こうして始まる。登場するのはふたり、舞台はスイートひとつ、時間はひと晩。やがてわかるのだが、題名は、ふたりが「これを口にしたらすべてを止める」と決めておいた言葉だ。力をめぐるスリラーであり、本当に主導権を握っているのはどちらなのかを競う物語として、おおむね受けとめられてきた。この文章が立てるのは、もっと地味な問いだ。この映画の土台には、力をめぐるスリラーの多くが素通りしてしまうもの、つまり取り決めがあるからである。台本があり、報酬があり、触れないという決まりがあり、セーフワードがある。そういう取り決めは、向こう側にいる相手に何を負っているのか。

ここで示す答えは、映画がたどり着く答えとは違う。お金を介した取り決めが相手に負っているのは、愛ではない。一生でも、何かの取り分でもない。負っているのは、もっと小さく、もっと難しいものだ。相手を、ひとりの人間のままにしておくこと。場面のなかでなら、男は物のように扱われることを望んでいいし、女はそれを見事にこなして報酬を受け取っていい。けれど役の向こうには、いつでも「やめて」と言えて、部屋を出ていけて、関係を終わらせることのできる誰かが、ずっといなければならない。その人の仕事も、体も、秘密も、相手が勝手に持っていってよいものではない。触れないという決まりと、止めるための言葉は、そのためにあった。ひと晩のうちに、このふたりは互いから、それをひとつずつ奪っていく。

この図書室は、隣り合う映画についてすでに書いている。「『ベイビーガール』、身を委ねることは弱みを握られることではない」は、現実の上下関係をまたいで身を委ねる遊びが、互いの弱みの握り合いに変わっていき、どちらも「やめて」をただでは言えなくなる過程を論じた。『Sanctuary サンクチュアリー』には、ふたりをそれぞれの場所に縛りつけておく職場も取締役会もない。スイートのなかで力を分けているのは、お金と、台本を書く権利だ。ここで問うのは、やめることの値段ではなく、ふたりがそれぞれ相手に何を負っていたのか、である。映画自身の答えは朝にやってくる。この文章は、ひとこと断ってからそこへ行き、その答えには与しない。

この作品について、そして結末にふれる前に

『Sanctuary サンクチュアリー』の監督はザカリー・ウィゴン、脚本はマイカ・ブルームバーグ。ふたりだけの映画で、マーガレット・クアリーがレベッカ・マリンを、クリストファー・アボットがハル・ポーターフィールドを演じる。二〇二二年九月にトロント国際映画祭で初上映され、アメリカでは二〇二三年五月にネオンの配給で劇場公開された。上映時間は九十六分。撮影はニューヨークで、三週間足らずで行われた。日本では配信で公開され、英語の原題に片仮名の読みを添えた題がついている。

ここから先は、結末まで含めて作品全体を扱う。性暴力と、人を消すという脅しと、相手を殺して自分も死ぬという脅しにもふれるが、起きたことを述べるにとどめ、場面を描写することはしない。

物語のあらましを書いておく。面接の質問は、彼の書いた台本どおり、しだいに私的に、やがて屈辱的になっていく。彼女が台本から外れると、彼は文句を言う。彼女は下着姿の彼に浴室を掃除させ、そのあとで絶頂を許す。役を降りた夕食の席で、ハルは、父が亡くなって自分が会社を継ぐこと、ふたりのセッションは新しい生活にそぐわないことを告げ、別れの品として高価な腕時計を差し出す。レベッカは気分を害して出ていく。

彼女は戻ってくる。ハルの父の経営書を引きながら、あなたにこの仕事は務まらないと言い放ち、初年度の報酬の半分にあたる四百万ドルを要求する。払わなければ、これまでのセッションの録画を公にする、と。あざ笑う彼女の前で、ハルは隠しカメラを探して部屋じゅうを荒らし、誤って感電する。床に倒れたまま、これはただの取引だ、その気になればきみを消すこともできる、と言う。するとレベッカはナイフを突きつけて彼に性行為を強い、子どもができれば一生離れられなくなる、と告げる。

ハルは送金の手配をするが、エレベーターの前で彼女を引き止め、二度と取り立てに来ないという保証を求める。拒む彼女を部屋に引きずり戻すと、レベッカはひそかに撮っていた映像を見せる。ハルは彼女をベッドに縛りつけ、消せと迫る。だが彼女は、ほかに客はいない、このセッションの中でしか自分らしくいられないのだと打ち明ける。ハルはふたりのセーフワード、「サンクチュアリ」を口にする。彼女はやめない。もう遊びではないのだ、と言って。ハルは、彼女を殺して自分も死ぬと脅す。レベッカは、自分が彼の亡き父を演じる最後の場面を提案し、その場面のなかで、自分は父とは違うし、同じになる必要もない、と彼に言わせる。ふたりは抱きあったまま眠りに落ちる。

翌朝、母から会社を託される式典へ向かう途中で、ハルは、代わりにレベッカが会社を率いてはどうか、自分はそばにいる、と持ちかける。お母さまにはどう説明するのかと聞かれ、彼は答える。愛しあっていると言う、と。ふたりは口づけを交わす。

この文章は、作品そのものを観たうえで書いたものではない。記したことは、公表された作品の記録と、批評、そして作り手へのインタビューから取り、使うたびに出どころを名指している。台詞は要約して伝え、批評家や作り手の言葉としてかぎかっこで引いたのは、名前を挙げた資料に書かれている言葉を訳したものだけである。

台本、報酬、ひとつの決まり、ひとつの言葉

まず、誰かが壊す前の取り決めを見ておきたい。このあとに起きることはすべて、その部品がひとつずつ取り去られていく過程だからだ。

台本があり、それを書いたのは彼だった。「デイリー・ビースト」に載ったニック・シェイガーの批評によれば、それは綿密に振りつけられた二人芝居で、一字一句そのとおりに演じられることになっていた。報酬があり、それを払うのも彼だった。「スラッシュフィルム」に載ったエリン・ブレイディの批評では、彼は亡くなった億万長者の息子で、彼女は請求書の支払いにもやっとの暮らしだ。決まりがあり、それは彼女の決まりだった。セッションのあいだ、彼女は触れられない。商売道具は言葉だ。命令と嘲りを、合意のうえで差し出すこと。そして、ふたりのあいだで決めておいた、すべてを止めるための言葉があった。

この四つは、それぞれ誰かを守っていた。台本は彼を守った。その部屋で彼の身に起きることは、言葉の細部に至るまで、彼が頼んだことだけだった。報酬は彼女を守った。彼女が差し出すのは値段と範囲の決まった仕事であって、気持ちの借りではなかった。決まりは彼女の体を守った。言葉は彼を守った。四つがそろっていたので、ふたりは役のずっと奥まで入っていけた。役の向こうでは、どちらも、自分の意思をもつひとりの人間のままでいられたのだ。ブレイディの言葉を要約すれば、場面のなかで性的な力を握っているのは彼女だが、境界線を決め、代金を払っているのは彼のほうだ。こういう取り決めは、どちらもが「もう半分も本物だ」と覚えているあいだしか安定しない。

最初の場面でレベッカがしていることには技術がいる。台本を覚えて演じる。どの一言が相手に届くかがわかるほど、ひとりの男を細かく読む。台本の薄いところは即興で埋める。彼が代金を払っている屈辱は、彼女がこしらえているものだ。そこに、どちらの側にも恥じることは何もない。合意のうえで辱められたいと望むことは症状ではないし、それを演じて売ることは転落ではない。技術の要る仕事だ。そしてその技術こそ、彼がいちばんたやすく忘れてしまう部分なのだ。

それは誰の仕事だったのか

この映画でいちばん鋭い言い争いは、台本の作者は誰かをめぐるものだ。カート・ローダーが「リーズン」誌の批評に書き留めたやりとりによれば、レベッカはハルに、あなたは私に借りがある、と言う。私たちのセッションがあなたに一本芯を通したのだから、と。彼は、きみは何も教えていない、と答える。場面を書いたのは自分で、きみはその言葉を口にしただけだ、と。すると彼女は言い返す。起きていたのは言葉ではない、と。

どちらも本当のことを言っていて、どちらの言い分も、言う本人に都合がいい。取り決めが彼の注文どおりに組み立てられていたのは確かだ。けれど部屋で起きていたことが彼の台本だけでは説明しきれないのも確かで、場面は、書いた人と同じくらい、演じる人によってつくられる。彼女が台本から外れたと彼が文句を言ったとき、彼が文句を言っていたのは、彼女の仕事そのものだった。ふたりのどちらも口にしないのは、その取り決めがふたりのものだったということだ。彼の台本は、彼女が演じるまではただの紙だった。彼女の芸は、彼の欲望がなければ演じる場がなかった。報酬は、一方を持ち主に、他方を道具にしたのではない。ふたりを、ひとつの取り決めの当事者にしたのである。

二〇一四年のイギリス映画、ピーター・ストリックランド監督の『バーガンディー公爵』は、同じ骨組みを、お金をまったく介さずに見せている。恋人どうしのふたりの女性が、女主人と小間使いの儀式を毎日くり返す。やがて、仕える側こそがその儀式の作者であることがわかってくる。エヴリンが場面と台詞を書き、シンシアは恋人を喜ばせるためにそれを演じる。そしてエヴリンの誕生日、シンシアは場面を、エヴリンの望まない方向へ押し進める。エヴリンはセーフワードを口にする。シンシアはそれを無視する。

八年を隔てた二本の映画が、拒まれるセーフワードを、同じ側の手に置いている。相手の台本を演じてきた側だ。この文章は、それを偶然だとも、言い訳になるとも考えない。誰かが書いた台本を演じることは労働であり、労働として名前を与えられない労働は、どこかに出口を探す。二本の映画ではどちらも、それがいちばん出てきてはいけない瞬間に噴き出す。作者が「やめて」と言ったときに。そこから先で『バーガンディー公爵』がすることを、『Sanctuary サンクチュアリー』は一度もしない。無視された言葉を、傷として扱うことだ。次の場面でシンシアは役を降りて泣き、エヴリンが彼女をなぐさめる。書かれた指示は燃やされ、儀式が始まり直すのは、そのあとのことだ。『Sanctuary サンクチュアリー』は拒まれた言葉を最終幕の入口に変え、その朝は、一度もそこを振り返らない。

終わらせる代わりに差し出された腕時計

夕食の席に戻ろう。最初の約束が破られるのは、そこだ。静かに、行儀よく。

ハルには取り決めを終わらせる権利がある。このあとの話は、彼が去ったことへの不満ではない。客は、客であることをやめてかまわない。新しい自分になりたいと願うことは過ちではないし、自分の私生活を取締役会がどう見るかを恐れることも過ちではない。この映画のなかで、ためらいなく同情してよいものがあるとすれば、父が座り、そのことを一度も忘れさせてくれなかった椅子に、ぎこちなく体を合わせようとしている男の姿だろう。

彼がしくじるのは、終わらせ方のほうだ。彼は新しい生活についての演説と、贈り物とで、それを終わらせる。批評によれば三万二千ドルほどするという腕時計は、気前のいい贈り物だ。そして、まさにそこが間違っている。支払いは、これは仕事だった、その値打ちはこれだけだ、と告げる。報酬のある仕事の終わりに差し出される贈り物は、別のことを告げる。あれは自分のためにしてもらった親切で、いま自分はそれに報いる立場にいる、と。シェイガーの記述によれば、彼女はその時計を、警官が退職祝いの会でもらうような代物だとあざける。的確な侮辱だ。彼女は演説ひとつで、失うかもしれないとは思ってもいなかった仕事から退職させられたのである。取り決めを閉じる権利は自分だけにある、とひとりで決めた男によって。

このあと彼女がすることの是非を考える前に、あの食卓で彼女が何を失ったのかを見ておきたい。映画はそれを終盤まで明かさない。彼は、彼女のただひとりの客なのだ。食卓の向こうの男は、趣味をひとつやめようとしているのではない。彼女の収入を、彼女の仕事の唯一の場を、そして数時間後に彼女自身が口にするように、自分らしくいられるただひとつの時間を、終わらせようとしている。だからといって、このあと彼女がすることが許されるわけではない。けれど、それは理由である。理由というものは、裁かれる前に、まず理解されるべきだ。

あの食卓を小さくしたような場面なら、多くの人が知っている。十年通った美容師、子どものころからのピアノの先生、親の世話を手伝ってくれた人。お金を介して始まり、いつのまにか個人的なものになった長い関係を終わらせようとしたことのある人なら、出口を見つけるのがどれほど難しいか、そして贈り物がどれほど魅力的かを知っている。贈り物があれば、気前のいい気分のまま立ち去れるからだ。向こう側にいる人は、たいてい、その違いに気づいている。お金を介した取り決めが、その終わりに負っているのは、理由でも贈り物でもない。ふたりでしたこととして終わらせることだ。顔を見て告げ、答える時間を残し、仕事を仕事と呼ぶこと。

四百万ドルと、隠されたカメラ

彼女は数字を持って戻ってくる。四百万ドル。それが何をもたらすかを見る前に、それが何を主張しているかを見ておきたい。取り分だ。いくつもの批評が伝える彼女の言い分は、あなたをこの仕事にふさわしくしたのは私だ、会社がこれから頂点に据えようとしている男は、半分はこういう部屋でつくられたのだ、というものである。これは功績の主張であり、ばかげてはいない。仕事は本物だった。

要求が実際にもたらすものは、別の話だ。彼女はそれを、ふたりのセッションの録画に結びつける。録画は彼の知らないうちに撮られていたことがわかる。そして公にすると脅す。これは恐喝であり、この取り決めが何より頼っていた約束を破るものだ。ここで秘密を守ることは、礼儀ではなかった。取り決めが立っている地面そのものだった。彼が自分の屈辱を彼女に手渡せたのは、それが部屋の外に出ないとわかっていたからだ。ひそかに撮ることで、彼女は、彼が預けたただひとつのものを素材に変えた。公にすると脅すことで、彼を取り決めの当事者から人質に変えた。彼女が何を受け取るべきだったにせよ、それをこういうやり方で取り立てることはできない。

そこから映画の笑劇が始まり、それは最初の本物の暴力でもある。彼はカメラを探してスイートを荒らし、誤って感電し、床の上から、映画全体が試そうとしている一文を口にする。これはただの取引だ、気持ちなどない、その気になればきみを消すこともできる、と。

その二つを並べて聞いてほしい。前半は、報酬のほかに彼女が受け取るべきものは何もない、と言う。後半は、彼女が受け取るべきものは何ひとつない、命さえも、と言う。「ただの」という一語が、殺すという脅しを、帳簿づけのように聞こえさせている。

「ただの取引」という言葉が消したもの

これよりずっと穏やかな取り決めについても、多くの人がこの言葉を使う。そしてそれは、たいてい間違っている。取引とは、何も負わなくてよい関係のことではない。負っているものが、言葉にして書き出されている関係のことだ。値段と時間と、することと、してはいけないことを取り決めた見知らぬふたりは、十分のあいだに、多くの夫婦が十年かけても交わさないほどはっきりした約束を、互いに交わしている。約束は双方向で、お金のところで終わりはしない。払う側は報酬を負い、そのうえで条件を負う。触れないという彼女の決まり、彼女の時間、仕事を仕事として認めること。払われる側は演じることを負い、そのうえで限度を負う。彼の言葉、彼の秘密、彼が終わらせる権利。お金は、その勘定の一行を片づける。それ以外は、何ひとつ片づけない。

この図書室の「『グッド・ラック・トゥ・ユー、レオ・グランデ』と、望むことへの許可」は、別のホテルの一室で、反対の側から、同じ一行を見つけている。お金はあの出会いを偽物にしたのではなく、互いの負うものを不均等にしたのだ、と。客が買ったのは時間と注意と、あらかじめ合意された枠であって、お金を払っている相手の人生に入りこむ権利ではなかった、と。『Sanctuary サンクチュアリー』では、同じ一行が両側から踏み越えられる。ハルはレベッカを、報酬で彼女の仕事の日々をまるごと買い、チップひとつで閉じられるものであるかのように扱う。レベッカはハルを、自分の仕事によって彼の未来と体への権利を手に入れたかのように扱う。どちらも、取引の向こう側にいる相手を、はじめから人ではなかったことにしてしまう。

「ただの」とは、取り決めが一度も与えていないものを取ろうとする直前に、人が口にする言葉なのである。

ナイフを突きつけて

次に起きることは、正確に名指さなければならない。レベッカはナイフを突きつけて、ハルに性行為を強いる。それは性暴力だ。誰が誰にしたとしても性暴力であり、された側が男性だから、客だから、合意のうえで一晩じゅう辱められていたから、といって小さくなるものではない。彼が辱められることに同意した遊びのなかに、力ずくで性行為を強いられる場面は含まれていない。同意は、遊びに対するものだった。ナイフは、その遊びを終わらせる。

彼女は、子どもができれば一生離れられなくなる、と告げる。だからこの暴力は、彼からもうひとつの決定を奪おうとする試みでもある。親になるかどうか、誰とそうなるか、という決定だ。どちらの決定も彼のものだった。ナイフは、その両方を奪った。

この場面を見ないですませる方法が二つあり、どちらも、この映画について書かれたもののなかに見つかる。ひとつは、合意のうえの出来事として読むことだ。ナイフが出てくる少し前、映画は彼女に、彼の体が反応していることを指摘させる。少なくともひとつのネット上の結末解説は、彼がそれを楽しんでいると読み、ナイフが置かれた瞬間をその証拠とみなしている。同じ解説は数行あとで、彼にはほかに選択肢がなかった、と書いている。本当なのは後の一文で、それが前の一文を打ち消している。体が反応することは、同意ではない。女性の場合とまったく同じように、男性の場合も。ナイフは問いではなく、その前で体が何をしようと、それは答えではない。

もうひとつは、そもそも見ないことだ。アダム・ネイマンは「ザ・リンガー」の思慮深い批評で、この映画をラース・フォン・トリアーのはるかに陰惨な『アンチクライスト』と並べ、括弧書きのなかで、この映画に性暴力は出てこない、と書いた。出てくる。その一文を挙げるのは、批評家に恥をかかせるためではない。この場面がどれほどたやすく見過ごされるかを示しているからだ。女と男。すでに始まっている辱めの遊び。夜の大半を笑いとして見せる映画。誰なら力ずくで何かを強いられうるのか、誰ならありえないのかについての古い思いこみがあり、それはナイフ一本を隠してしまえるほど強い。

もうひとつ、ここに書いておくべきことがある。取り決め自身の論理が裏返されているのだ。セッションのあいだ彼女の体を守っていた決まりは、誰もその体に触れない、というものだった。ナイフを突きつけて、彼女は、その決まりが部屋から締め出しておくためにあったことを、彼に対して行う。ふたりの取り決めの言葉で言えば、これは最後の守りが消えた瞬間である。

映画は、ここに戻ってこない。この文章は戻ってくる。あの夜を愛と呼ぶ物語は、この問いを放っておけないものにしてしまったからだ。

映画の題になった言葉

エレベーターの前で、二度と取り立てに来ないと約束しようとしない彼女を、彼はスイートに引きずり戻す。これもまた力ずくであり、同じ平明な言葉で名指すべきだ。彼女は立ち去ろうとしていて、彼はその立ち去ることを取り上げた。ここから先、強制はどちらの側からも向けられている。

そして、彼が彼女をベッドに縛りつけたところで、映画は題名にたどり着く。彼はセーフワードを口にする。すべてを止めるはずだった言葉を。彼女はやめない。もう遊びではない、と彼女は言う。

こうした取り決めにおいて、同意は部屋に漂う気分ではない。実際に働く仕組みであり、セーフワードはその仕組みの在りかだ。ほかのすべての条件より上に置かれる、ただひとつの条件。台本に何が書かれていようと、いくら払われていようと、どちらが何を望んでいようと、その言葉が出ればそれで終わる。だからそれは何かが始まる前に決められ、途中で交渉の対象にはならない。セーフワードこそが同意なのだ。それが口にされたあとに続くものは、もう場面ではない。

だから彼女の理由は、ちょうど裏返しになっている。もう遊びではない、という言い分は、誰かをあの言葉から解き放ちはしない。それは、あの言葉がいちばん重くなる条件である。もう遊びでないのなら、ふたりのしていることのどれにも、合意の裏づけは何ひとつない。そのとき続きうるのは、やめることだけだ。彼女はルールの外へ、何かもっと本物の場所へ踏み出したのではない。そのすべてを許されるものにしていた、ただひとつのものの外へ踏み出したのである。

この図書室の「拒否権は自己決定ではない。もう半分は、止められるはいだ。」は、取り決めが何でできているかを明かすのは、入口で言う「いいえ」ではなく、何かがすでに始まり、止めれば相手に何かを失わせることになる途中で言う「いいえ」だ、と論じた。『Sanctuary サンクチュアリー』のセーフワードは、その「いいえ」である。また「『任せたい』は、何も決めたくないという意味ではない。」は、第二言語で、追いつめられた状態で口にするセーフワードは、セーフワードとして働かないかもしれない、と注意を促していた。この映画が見せるのは、どの言語を選んでも防げない失敗のほうだ。彼の言葉は、ふたりが共有する言語で、はっきりと口にされ、聞き取られる。そして拒まれる。セーフワードは、誤解されるという問題なら解決できる。理解されたうえで無視されるという問題は、解決できない。

そして、夜のいちばん悪いところが来る。彼は、彼女を殺して自分も死ぬと脅す。ふたりを引き戻すのは、あの言葉ではない。ひとつの場面、彼女が彼の亡き父を演じる場面だ。映画でいちばん奇妙な転回であり、いちばん多くを明かす転回でもある。すべての決まりが消えたあとで、ふたりを崖っぷちから引き戻すのは、合意のうえで入っていくひとつの役であり、その役のなかでようやく本当のことが言える。死ぬという脅しのもとで差し出されたその場面は、同意というより救出に近い。それでもこれは、枠組みがはじめから問題ではなかったことを示す、映画のなかでいちばん確かな証拠である。

朝は、夜を取り消さない

そして朝が来る。前の晩に彼が彼女の立ち去るのを止めた、あのエレベーターのところで、ふたりは口づけを交わす。

映画はこれを幸せな結末として、少なくとも、そうでありうる結末として差し出している。クリストファー・アボットはアメリカの雑誌のインタビューで、これは愛の物語であり、「楽しいロマンティック・コメディ、ポップコーン映画」なのだと語り、互いに愛しあっているのにそれに気づいていないふたりの話だと言った。ザカリー・ウィゴンは「フィルム・デイズ」のインタビューで、一九三〇年代から四〇年代のスクリューボール・コメディとエロティック・スリラーのあいだに、彼の言葉で言えば「隠されたトンネル」を探したのだと語り、結末の意味をひとつに決めてしまうと、ほかの見方を閉ざしかねないとして、語るのを控えている。こうした意図は、言葉どおりに受けとめられてよい。そしてそれは、問題のありかも説明している。

スクリューボール・コメディには、観客との契約がある。恋人たちは侮辱しあい、だましあい、へとへとになるまで互いを振り回す。その残酷さが笑いになってよいのは、誰も本当には傷つかないからだ。傷に見えるものは求愛なのだ、とこのジャンルは約束している。『Sanctuary サンクチュアリー』は、夜の半ばで、ナイフと、拒まれたセーフワードと、殺すという脅しによって、その約束を破る。そのうえで、約束が守られたかのように、ジャンルの結末だけは受け取る。批評家たちは、その継ぎ目に気づいていた。シェイガーは、ふたりがたどり着く決着が「すっかり信じられる」ものには見えないかもしれない、と認めている。ウィゴンにインタビューし、この映画を高く評価していたアリーシャ・ムガルでさえ、ふたりが互いにぶつけあった暴力のあとでは、ロマンティックな幕切れは「どこか不協和に響く」と書いている。

この文章は、その誰よりも厳しく結末を読む。朝は、夜を取り消さない。性暴力は性暴力のままであり、脅しは脅しのままであり、拒まれた言葉は拒まれたままだ。口づけは、そのどれについての説明にもならない。愛で終わる物語は、それだけでは、その前に起きたことが愛の代価だったと示したことにはならない。人は、ナイフなしで、互いを愛していると気づく。毎日のように。暴力を、親密さへ至る険しい道として読むよう観客に求める映画は、暴力について、拒むべきことを教えてしまう。どれほど魅力的な映画であっても。

朝が何を清算しているのかを見ておきたい。ハルはレベッカに、取り決めが一度も約束していなかったもの、つまり自分の会社をまるごと差し出し、取引が一度も負っていなかった言葉、これは愛だという言葉を口にする。ふたりが本当に負っていて、そして破られたもののほうは、ひとことも触れられない。彼の秘密、彼女の決まり、彼の体、彼女の立ち去る自由、そしてあの言葉。結末は、誰も求めていない通貨で気前よく支払い、本当の勘定は未払いのまま残している。

これは新しい取り決めでもある。台本があり、それを書くのは彼だ。報酬があり、それはいまや給与になる。役があり、最高経営責任者と、その伴侶がいて、母に言う台詞まで用意されている。古い取り決めにあったものはすべて、ひとまわり大きくなってそこにある。ただひとつを除いて。それを終わらせる言葉のことを、誰も口にしない。

一九九〇年のゲイリー・マーシャル監督作『プリティ・ウーマン』は、一週間ぶんの代金で彼女を雇った裕福な男に、セックスワーカーの女性が、今度は私があなたを助け返す、と答えるところで恋の物語を閉じた。『Sanctuary サンクチュアリー』の朝は、あの台詞を組織図に書き直したもののように読める。この版のおとぎ話は、彼が彼女を仕事から救い出すことではない。その仕事こそがはじめからずっと恋愛だったのであり、そのふさわしい報いは彼の会社だ、ということだ。これもまた、お金についての空想である。

命じる才能を、ほかのどこで使えばいいのか

批評の多くがマーガレット・クアリーの演技を特に挙げており、その賛辞は正当だ。信じさせることを商売にしている女性を、彼女は、観客が最後まで読み切れない人物にしている。映画は彼女に最初の場面を与える。有能さの肖像だ。そして、誰の仕事だったのかという議論の、より良いほうの半分を。

映画が彼女に与えないのは、ほかの居場所だ。これは最も厳密な意味での二人芝居で、ほかには誰もいない。ほかの客も、友人も、スイートの外の暮らしもない。そのスイートさえ、彼の一族のホテルの一室だ。スリラーとしては、良い形式上の選択である。そしてそれは、そのまま彼女の状況でもある。セッションの中でしか自分らしくいられない彼女を、映画の形式もまた、ほかのどこにも思い描けないのだ。

批評家たちは、その下にある古い型に気づいていた。「リトル・ホワイト・ライズ」のハンナ・ストロングは、脚本はレベッカの仕事と、彼女がそれをする理由にもっと踏みこめたはずだと書き、ところどころでセックスワークについての紋切り型をなぞっている、と指摘した。その自然な行き着く先は恋愛だという見方と、それをする女性は金目当てに客を罠にかける策略家だという見方だ。『Sanctuary サンクチュアリー』は、その両方を順番に使う。夜の大半、レベッカは録画を握る策略家であり、朝になると会社の花嫁になる。

そして結末の気前のよさには、仕掛けがある。彼女の才能はついに役員室を与えられる。けれどその役員室は、彼が与えるものだ。彼女が人を率いる力を正当に使える道を、映画は、彼の受け継いだものに組みこまれる形でしか思い描けない。それは昇進であり、同時に捕獲でもある。どちらを意図しているのか、映画は言わない。監督も、言わないことを選んでいる。

だからといって、彼女を哀れむ理由にはならないし、彼女もそんなことは望まないだろう。彼女はこの映画でいちばん有能な人物で、自分でもそれを知っている。言いたいのは、もっと狭いことだ。最初の場面でセックスワーカーの技術に敬意を払った映画が、最後の場面までに、彼のものではない未来を、彼女のためにひとつも見つけられなかった。

日本の法が名指すようになったもの

日本の読者は、あのナイフの場面を、ごく最近の法の歴史と並べて見ることになる。一九〇七年の刑法制定から百十年のあいだ、刑法が強姦罪と呼んでいた罪では、警察庁の言葉を借りれば「被害者も女性に限られていた」。二〇一七年六月に成立し、七月十三日に施行された改正で、罪名は強制性交等罪に改められ、被害者の性別は問われなくなった。それまで法の言葉のうえでは、男性は強姦の被害者になりえなかったのである。

二〇二三年七月から、法はさらに先へ進んだ。法務省は、性犯罪の本質的な要素は「自由な意思決定が困難な状態で行われた性的行為」であると説明している。現在の罪は、同意しない意思を「形成し、表明し若しくは全うすることが困難な状態」を軸に組み立てられている。この三つの動詞は、キンクについて書かれた多くの文章よりも正確に、セーフワードというものを言い当てている。セーフワードとは、その意思を表明する方法を、取り違えようのないように前もって決めておくことだ。そして法が、全うすることが困難な状態と呼ぶものは、『Sanctuary サンクチュアリー』が画面に映す失敗そのものである。形づくられ、口にされ、聞き取られ、それでも尊重されなかった「いいえ」。

この改正と同時に成立した性的姿態撮影等処罰法は、盗撮を独立した犯罪にした。二〇二三年七月から、正当な理由なく人の性的な姿をひそかに撮影することも、その記録を人に提供することも、それ自体が罪になっている。法務省は、この法律が守るものを、意思に反して自分の性的な姿を他の機会に他人に見られないという権利利益、と説明している。映画のなかの取り決めが頼っていたのは、秘密を守るという約束だった。その約束が破られることを、国はもはや私事としては扱わない。

内閣府の令和五年度の調査で、不同意性交等の被害にあった経験があると答えたのは、女性の八・一パーセント、男性の〇・七パーセントだった。そう答えた男性は、千三百人余りの回答者のうち十人。傾向として読むには少なすぎるが、声として聞くには十分な数だ。その声が挙げた状況のなかには、相手から脅された、相手との関係性から拒否できなかった、というものがあった。被害にあった人全体では、女性も男性もあわせて、半数を超える人が、どこにも、誰にも相談していなかった。

このような場面が物語の中だけのものではない人のために、書いておく。全国共通の番号「#8891」は、最寄りの性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターに、通話料無料でつながる。男性の被害者のための専用の窓口を設けている都道府県も、いくつかある。厚生労働省の「まもろうよ こころ」のページには、死にたい気持ちを抱えた人のための無料の相談窓口が並んでいる。二十四時間つながるものもあり、そのひとつ、よりそいホットラインでは、音声案内で外国語での相談も選べる。

ここに書いた法律は、どれも映画の登場人物に当てはめるためのものではない。ふたりは架空の人物で、別の国の法の下に暮らしている。書いたのは、この国の法が、止めるという行為と、録画と、力ずくで何かを強いられうる男性とを、どのように枠づけるようになったかを示すためだ。

この読みへの反論

四つの反論に、耳を傾けておきたい。一つ目は、作り手自身の反論だ。これはスクリューボールの味つけをしたエロティック・スリラーであり、楽しんでもらうための映画である。そこに負債の帳簿をつけてまわる文章は、夢を契約書として読んでいる。その多くは認めるべきだ。映画は残酷であると同時に可笑しくてよいし、この映画を楽しんだ観客には、正すべきことは何もない。けれど、題名を選んだのは映画自身だった。取り決めのなかで絶対であるはずのただひとつの条件を自分の名前にし、その条件が拒まれることの上に最終幕を組み立てた。この文章が立てている問いを立てたのは、映画のほうなのだ。この文章は、その答えを受け取らないだけである。

二つ目は、映画自身のいちばん深い主張だ。枠組みは檻だったのかもしれない。このふたりは遊びのなかでしか正直になれず、あの夜は、ひどいものではあったけれど、そこから出るための代価だったのかもしれない。気持ちは本物かもしれないし、映画はそう信じている。この文章が拒むのは、気持ちから正当化へと踏み出す一歩だけである。ふたりがその中で見つけたものに対して枠が小さくなりすぎたのなら、出口は、そう口にして、ふたりで新しい枠をつくることだ。隠しカメラとナイフと殺すという脅しで枠を壊せば、もっと悪い檻に入るだけである。

三つ目は、この文章の論旨そのものに向けられる。物として扱われることこそが、ある種の場面の核心ではないのか。そのとおりであり、この文章もそれに同意する。けれど最初の場面で浴室を磨いている男は、同時に、それを終わらせる言葉を握っている作者でもある。この議論は、合意のうえで物にされることに反対しているのではない。役の向こうにいる人が消えてしまう、その瞬間に反対しているのである。

四つ目は二つの方向から同時にやってきて、これが一部、的を射ている反論だ。一方は、この文章はハルよりレベッカに厳しい、と言う。ハルもまた力ずくで彼女を引き戻し、縛り、二度にわたって命を脅したのに、と。もう一方は、この文章はレベッカに甘い、と言う。性暴力を、彼の脅しと同じ頁に並べてしまっているから、と。この文章は、彼の行為も彼女の行為も、同じ平明な言葉で名指し、互いを天秤にかけることはしていない。性暴力にだけ独立した節を与えたのは、それがいちばん見過ごされやすい行為だからだ。それが公平なのか、公平の見かけにすぎないのかは、読む人が判断してよい。

この家が売っているもの、そしてこの映画が証明しないこと

この家は私的な同伴を売っている。つまりこの家は、ここまで書いてきたことのすべてについて、利害をもつ当事者だ。そのことを何より先に述べておく。よく守られた枠組みさえあれば、お金を介した取り決めは安全になる。読む人がそう結論してくれれば、この家には都合がいい。

この映画は、その証明にはならない。逆の証明にもならない。これは反転のためにつくられた二人芝居であって、プロのドミナトリクスの仕事やセックスワークが実際にどう営まれているかの研究ではない。この映画の多くの部分が古い紋切り型で動いていることには、批評家たちも気づいていた。この家が売っているものについては、何ひとつ語っていない。お金を介した取り決めが暴力で終わることを示してもいない。枠組みが誰かを守ることを示してもいない。映画のなかで枠組みがふたりを守ったのは、ふたりがそれを守っているあいだだけだった。家が守る枠組みも、同じことだ。守るか守らないかを決めるのは、人なのだから。

だからこの家は、この映画のなかの何かの、より良い版として自分を差し出したりはしない。誠実にできるのは、この文章がハルとレベッカに向けた問いが、お金を介したあらゆる取り決めが答えなければならない問いであり、自分たちのものもその例外ではないと認めること、そして、どんな家も自分の答えを内側から証明することはできないと認めることくらいだ。

そして、このふたりに必要だったものは、どれも売り物ではなかった。あの夜を救えたのは、守られたひとつの言葉と、撮られなかった一本の録画と、相手の顔を見て告げられた終わりだった。どれも、お金はかからない。そして、どれも、お金では買えない。

この文章が主張していないこと

これは文化批評である。誰も診断していない。ハルとレベッカは架空の人物であり、支配する側と服従する側というのは取り決めのなかの役であって、臨床的な分類ではない。この文章は、キンクを正当な営みとして、プロのドミナトリクスの仕事を仕事として扱っており、そのどちらについても、また力の受け渡しを注意深く実践している多くの人たちについても、判定を下すものではない。

場面について公表された記述が食い違うところでは、共通している部分だけを書いた。感電も、資料が記しているとおり、事故として書いている。

ここにあるのは、法的な助言ではない。作品をつくった人や出演した人の私生活については何も述べておらず、その誰かがこの家を知っている、あるいは推薦しているという含みもない。

持ち帰るための問い

あのスイートに、何か覚えのあるものを見た人のために、いくつか問いを置いておく。

お金が介在していてもいなくても、あなたの暮らしのなかに、「ただの取引」と呼んできた取り決めはないだろうか。もしあるなら、相手はそこで何が約束されていたと言うだろう。何かが終わったとき、それはふたりでしたこととして終わっただろうか。それとも、演説と贈り物で終わっただろうか。あなたと誰かのあいだに、口にされたかどうかは別として、物事を止めるはずの言葉はあるだろうか。それを口にしたら、本当に止まると信じられるだろうか。あなたの何かが、携帯電話やフォルダや誰かの記憶のなかに、あなたをその場に縛りつけておくために取っておかれてはいないだろうか。

映画は、持っていた条件をすべて壊したふたりが、出口の書かれていない新しい取り決めのなかで口づけを交わすところで終わる。この文章は、もっと小さな場所で終わりたい。お金が介在していようといまいと、取り決めの良し悪しを量る物差しは、うまくいっている夜にどう感じられるかではない。どちらかが「やめて」と言ったとき、何が起きるかである。

あなたは物事を終わらせていい。そして、きちんと終わらせてもらっていい。自分の仕事の対価を受け取りながら、それは親切だったのだと言われずにすんでいい。すべてを止めるための言葉は、はじめからずっと、あなたが口にするためのものだった。誰かが拒んでいいものでは、一度もなかった。

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