EN
メニュー

Cinema

『赤線地帯』と、戸口を開けたままにしていた理由

  • 親密さの経済
  • 倫理
  • スクリーンの女性
  • 規制
  • 日本
  • 差し出されている形

溝口健二の遺作は、国会が売春の禁止をめぐって揺れていたころの吉原で、一軒の店に働く女たちを追う。店の主人も、議員も、夫も、息子も、父親も、彼女たちのためだと口にする。映画はそのどれにも与せず、ひとりひとりに自分の理由を持たせて、稼いだ金で誰が暮らし、恥を誰が負わされ、ほかに何も差し出されないとき戸口に誰が立たされるのかを見せていく。

夜も更けて、冷える。吉原の通りに、赤ん坊を連れた男が立っている。仕事を終える妻を迎えに来たのだ。妻が店から出てくると、三人は連れだって家路につく。帰り道に、明るい話はあまりない。

妻の名はハナエ。いま彼女が出てきた店は「夢の里」という。夫は病気で職を失っている。その店で、通りから入ってくる男たちに身を売って得る稼ぎで、三人は暮らしている。この場面に、客はひとりも出てこない。それでも、ここにいる全員があの商いで食べている。映画はこのあと何度も、このことに戻ってくる。

『赤線地帯』は溝口健二の最後の作品である。国会が売春の禁止をめぐって揺れていたころのこの一軒の店を、そこで働く女たちの側から描いていて、そのあいだにもラジオは何度も国会の審議を伝える。ひとりの主人公はいない。いるのは、それぞれの理由を抱えてここにいる五人の女と、店の下働きで、まだ戸口には立たない娘である。

この文章は、最後の場面を含めて、映画の全体に触れる。

女たちのまわりの人間は、たいてい彼女たちについての筋書きを持っている。店の主人は、国が手を回さないことを自分たちが引き受けているのだと言う。国会の改革派は、法律が彼女たちを救うのだと言う。夫も、息子も、父親も、それぞれ自分に都合のいいかたちで、女をあの暮らしから連れ出したがる。映画はその筋書きをどれも脇へ置き、代わりにひとりひとりに理由を与える。病気の夫。ひとり息子。父親の保釈金。普通の結婚への夢。従うつもりのない父親。金の行き先をたどると、それは家へ、夫や息子や父親のもとへ届いている。恥の行き先をたどると、それは戸口へ、そこに立つ女のもとへ戻ってきている。

この文章の読みは、こうである。店は女たちの理由の上に成り立っていて、家族もまた、それぞれのかたちで同じ理由の上に暮らしている。そして理由というものは、法律で閉じられる扉ではない。法律は店を閉め、借金を無効にし、場所を貸した者を罰することができる。けれど夫の薬代を払うことも、息子を育てることもできない。最後の場面は、理由が開いたままのときに何が起きるのかを見せる。家の暮らしに困った下働きの娘が、着物を替えられ、化粧を施され、戸口に立たされるのである。

これは罪の映画ではない。救いの映画でもない。その金で誰が暮らし、その恥を誰が抱えさせられるのかについての映画である。

映画のこと、その年のこと、警察の地図に引かれた線のこと

まず記録から。『赤線地帯』は大映の作品で、一九五六年三月十八日に公開された。上映時間は八十六分。成澤昌茂の脚本は、洲崎を舞台にした芝木好子の『洲崎の女』を一部に取り入れ、話を吉原に移している。撮影は、溝口がもっとも信頼していたといわれる宮川一夫で、白黒で撮られた。音楽は黛敏郎。冒頭で鳴る奇妙な旋律は、何かがうまくいかなくなりそうなところでまた聞こえてきて、幽霊屋敷にでも似合いそうだと書いた観客はひとりではない。五人の女を演じるのは、京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子、町田博子。興行的にも成功した。

溝口はこのころ、世界でもっとも注目される監督のひとりになっていた。五〇年代のはじめには、ヴェネツィア国際映画祭で三年続けて賞を受けている。次の作品の準備に入ったところで体調を崩し、一九五六年八月二十四日に亡くなった。公開と死去のあいだの五月二十四日に、売春防止法が公布されている。

「赤線」という言葉を、いまどれだけの人が説明できるだろう。これは、もとは地図の言葉である。一九四六年、占領軍の指令で日本の公娼制度が廃止されたとき、それまでの遊廓は消えなかった。看板を掛け替えたのだ。店はカフェーや特殊飲食店として営業の許可を取り、女たちは書類の上では、店の部屋を借りて暮らす女給になった。客が女給の部屋へ行くのは、書類の上では、恋をした男が贈り物をするためだった。警察はこの取り決めを、地図の上で赤い線で囲った区域の内側にかぎって黙認した。赤線という呼び名はそこから来ている。映画の「夢の里」も、そうした特殊飲食店のひとつである。

吉原そのものは、その地図よりずっと古い。幕府が一六一七年に許し、一六五七年の大火のあと浅草寺の裏手の田圃へ移されて、そのままそこにあった。映画の最初の場面で、夫とともに店を営む女将は、店に来た巡査に向かって、本当にいらない商売が三百年も続くものか、と言う。うまい台詞で、そして自分に都合のいい台詞だ。映画はそれを打ち消しもせず、そのまま置いておく。この映画のいちばんいい台詞は、たいていそういうものである。

英語の題名は、恥の通り、とでも訳せるもので、アメリカで最初に公開されたときに付けられた。日本語の題名にはない「恥」という言葉が、そこで書き加えられたことになる。二〇〇四年、オーストラリアの映画批評誌に寄稿した批評家のダン・ハーパーは、この題名を愚かだと書き、溝口が意図したよりずっときわどい扱いをほのめかすためだったに違いない、と述べている。けれどこの題名は、映画が八十六分をかけて問うことに、始まる前から答えてしまってもいる。いったい誰の恥なのか、という問いに。

赤線の外に何があったのかを知っておくのも、助けになる。鈴木清順の『肉体の門』は一九六四年の作品で、終戦直後の焼け跡を舞台に、店を持たずに街に立つ女たちを描く。彼女たちは自分たちで掟をつくり、ただでは寝ないというその掟を、互いに力ずくで守らせる。溝口の女たちには、あの女たちになかったものがある。まともな屋根と、許可を受けた店と、ときどき顔を出す巡査。そして屋根についてくるものもある。店の主人と、その主人への借金である。

五人の女と、五つの理由

議論の前に、まず理由を並べておきたい。映画がそれを最初に、言い訳としてではなく事実として差し出しているからだ。

ハナエは毎日、家から「夢の里」に通っている。その稼ぎが、病気で職を失った夫と、ふたりのあいだの赤ん坊の暮らしを支えている。

ゆめ子は年かさの未亡人だ。稼いだ金を、ひとり息子に送っている。息子は田舎の、亡き夫の実家で育った。いつか息子と一緒に暮らす日を、彼女は夢見ている。

やすみは若く、店いちばんの稼ぎ手である。汚職で投獄された父の保釈金をつくるために「夢の里」に来て、いまは金を貯めるためにここにいる。客ごとに、その男が聞きたい言葉をささやき、仲間の女たちには利子をつけて金を貸す。

より江は、普通の妻になることにあこがれている。下駄をつくる職人が彼女と一緒になりたがっていて、彼女には店への借金がある。

そこへ神戸から、新入りのミッキーがやって来る。派手で、口が達者で、アメリカかぶれで、金を貯める気などまるでない。彼女の理由はいちばん見えにくく、本人がいちばん固く守っているものだ。それは父親にかかわっていて、やがて明らかになる。

そして画面の奥にはいつも、店の下働きの娘、しづ子がいる。店の用事をこなし、まだ戸口には立たない。

映画は、こうした理由をよしとしてくれとは言わない。理由を抱えていることを哀れんでくれとも言わない。ただ、知ってほしいと言う。理由は言い訳ではない。判決でもない。ほかの何よりも先に向き合わなければならない事実である。このあと映画に現れる救いの手は、どれもちょうどその一点でつまずく。

女たちは、張り合うだけの仲でもない。金のことで、なじみ客のことで言い争いもする。けれど仲間のひとりが嫁いでいくときには送別の宴を開いて贈り物を渡し、贈られた彼女は涙を流す。映画は、彼女たちが男たちにとって何であるかと同じくらい、互いにとって何であるかに目を向けている。

店は帳簿をつけている

映画は始まってすぐ、店のなかを動く金を追いかける。「夢の里」に布団を貸している布団屋の主人が布団を届けに来て、そのままやすみに小遣いを握らせる。次の瞬間には、ゆめ子がやすみから金を借りている。誰もそのことを口にしない。この店では一日じゅう金が手から手へ渡っていて、映画はそれを、ほかの映画が目くばせを追うように追いかけていく。

女たちは店に借りがある。店は稼ぎを当てにして前貸しをし、その借金が女たちをここにつなぎとめる。店から学んだやすみも、同じやり方で仲間に金を貸す。疲れた顔で出てきたハナエに、女将はそんな顔をするんじゃないと言う。あんたは売り物なんだから、と。

主人の田谷は国会の審議を聞きに出かけ、腹を立てて帰ってくる。女たちを集めて、法案がおまえたちにとって何を意味するかを言い聞かせる。法案が通れば、客を取っただけで牢屋行きだ。そうなったら、どうやって食っていく。本当におまえたちのことを考えているのは、おれたち業者なのだ。店は政治の手の届かないところを補っている。これは社会事業なのだ、と。

映画のなかでいちばん身勝手な演説だが、映画はそれを愚かなものとしては描かない。そこには本当のことが二つある。ひとつは脅しの中身だ。一九五五年に女性議員たちが提出し、その年の七月に否決された法案は、買った男だけでなく、売った女も罰するものだった。田谷は牢屋をでっち上げているのではない。利用しているのである。もうひとつは不満の中身だ。この映画のなかで、ほかに彼女たちに暮らしを差し出す者は誰もいない。田谷はそれを知っている。

国会もまた、同じ議論を反対の側から聞いていた。この法案が否決されたとき、賛成の立場にあった社会党の山口シヅエは本会議で、否決の表向きの理由は、売春婦を経済的に救う社会保障制度が整わないうちは法案を通せないというものだったと述べ、それを成立を引き延ばすための詭弁だと批判した。どちらの側も、女たちの暮らしを語っていた。そして、どちらの側も、それを用意してはいなかった。

そして映画は、田谷の社会事業が何を代価にしているのかを見せる。利子。女をその場に縛りつける前貸し。疲れた女を、値の下がりかけた品物のように見る女将。そして最後に、下働きの娘。この映画で怒りを向けてよいのはここであり、その怒りは正しいところへ向けたい。田谷を怪物として憎むのではない。彼は不満と帳簿を抱えた小さな商売人にすぎない。向けるべきは、ほかに誰もその仕事をしに来なかったばかりに、帳簿が福祉を名乗れてしまった仕組みのほうである。

裁判所が消した借金と、彼女の手だけを欲しがった結婚

出口を差し出されるのはより江で、映画は彼女に二つの出口を続けて差し出す。

ひとつ目は裁判所から来る。映画が公開されるおよそ五か月前、一九五五年十月に最高裁判所は、女をこの種の仕事に縛る契約は公序良俗に反して無効であり、それにともなって貸された金も返せとは言えない、と判断した。その知らせが「夢の里」にも届く。店を出れば、借金は置いていける。より江は店を出る。仲間たちは送別の宴を開いて贈り物を渡し、ハナエの夫は、同じ店で妻が稼ぐ金で自分の家を支えられていながら、花嫁に、二度とあんな暮らしに戻るな、と言う。

ふたつ目の出口は結婚で、こちらは長くもたない。より江は戻ってくる。夫が欲しかったのは、ひと組の手だった。店と家で、ただで働いてくれる女だった。ここなら、と彼女は仲間に言う。少なくとも、稼いだ分は自分のものになる。

これを、愚かな女の悲しい笑い話として読むのはたやすい。けれど、それは誤りである。より江は二つを比べたのであり、その比べ方は正確だった。一方には、仲間のいる店での、報酬のある仕事。もう一方には、夫のいる家での、報酬のない仕事。彼女は報酬のあるほうを選んだ。映画は、彼女が正しかったとも、間違っていたとも言わない。ただ、世間体のよい出口もまた仕事であり、そこから賃金だけが取り除かれていたことを書きとめる。

裁判所が与えたものは本物だった。誰にも取り立てられない借金は、ひとつの扉になる。けれど消えた借金は、収入ではない。映画はその違いに正確だ。より江は、負っていたものからは解き放たれたが、必要としていたものからは解き放たれなかった。だから、稼げる仕事に戻ってきた。

ハナエと、その稼ぎで暮らす家族

ハナエは女たちのなかでいちばん現実的で、いちばん疲れている。寒い夜には夫が赤ん坊を連れて迎えに来るが、帰り道に話すことはあまりない。やがて夫は将来を悲観して、自ら命を絶とうとする。

この場面で大切なのは、彼女の返事のほうだ。ハナエは夫を慰めない。怒る。わたしたちは盗みをしたわけでも、悪いことをしたわけでもない。わたしが身を売らなければ、生きてこられなかった。それなのに、あなたはまだ、それがわたしにとってどういうことなのか分かっていない、と。そして彼女は、また仕事に出ていく。

これを、より江の送別の宴で彼が花嫁にかけた言葉、二度とあんな暮らしに戻るなという言葉と並べてみると、ものの形がはっきりする。彼の家を支えているのは、あの店だ。そして店についての彼の意見は、世間体の側の意見である。彼は悪人ではない。病気で、おびえていて、何から何まで妻に頼っている。けれど金は一方へ流れ、裁きはもう一方へ流れる。ハナエは、その二つが交わるところに立っている。

「『OUT』と、家計の緩衝材であることの原価」という文章は、この立場に名前を与えた。緩衝材とは、衝撃を受けとめて、構造のほかの部分を無傷に保つための部品であり、まさにその役目によってすり減っていくものだ、と。桐野夏生の小説の女たちは、深夜の弁当工場で家計の衝撃を受けとめた。ハナエはそれを「夢の里」で受けとめる。病気、失業、赤ん坊、家賃。家に降りかかる衝撃は、ひとつ残らず、彼女のもう一晩の仕事に置き換えられていく。

最後には、家主に家を追い出される。法案が流れたとラジオが伝えるときも、ハナエは「夢の里」にいる。ほかに行くところがないからだ。映画は彼女を哀れんでくれとは言わないし、哀れまれても、彼女は礼を言わないだろう。映画が求めているのは、彼女が何を、誰のために背負っているのかを見ることである。

ゆめ子と、母を恥じた息子

ゆめ子の理由には顔がある。息子の顔だ。ある晩、その息子が「夢の里」に母を訪ねてくる。ゆめ子は恥ずかしくて会えない。息子は立っていた場所から、客を呼び込む母の姿を見てしまう。

ゆめ子は田舎へ息子を訪ね、息子が東京の工場へ働きに出たことを知る。彼女は喜ぶ。あの子はひとり立ちしたのだ。ようやく会う約束をとりつけると、きっと一緒に住もうと言ってくれる、と仲間にはしゃいでみせる。けれど息子は、母の商売を汚いと言い、もう二度と連絡してくるなと告げる。

店に戻ったゆめ子は黙り込む。映画はそのあと彼女に起きることを、名前をつけずに見せる。彼女のなかで何かが崩れ、もう誰の声も届かなくなり、彼女は病院へ連れていかれる。この文章も、それに名前はつけない。映画が見せているとおりのものだ。たった一度の会話で、ただひとつの理由を奪われた女の姿である。

演じる三益愛子は、戦後、悲劇の母を演じる「母もの」の映画で一世を風靡し、母もの女優と呼ばれた人である。その彼女が年かさの娼婦を演じたことは、公開当時、話題になった。溝口は彼女に、母の犠牲だけを与え、見返りは何ひとつ与えない。

ここで、英語の題名がつけを払わされる。この映画の恥は本物だ。けれど、それを抱えさせられているのが誰なのかを見てほしい。息子はその金で育った。恥は母のもとへ戻ってきた。この文章が言おうとしていることの、いちばんはっきりした例がこれである。金は家へ届き、恥は戸口へ戻ってくる。

息子を憎むのはたやすい。けれど映画は、それを見かけほど簡単にはさせない。彼は若く、彼の育った土地の人たちは、母が何をして金を稼いでいるかを知っている。息子の恥は、息子から始まったものではない。それは言い訳ではなく、理由である。映画はその違いを知っている。

連れ戻されないミッキー

ミッキーは、この映画のにぎやかさそのものだ。声が大きく、おかしくて、派手で、女たちのなかでただひとり、人に見られることを楽しんでいるように見える。稼いだそばから使ってしまう。道を踏み外した今どきの娘として見るのはたやすく、映画はその姿をいったん組み立てておいてから、壊してみせる。

神戸から父親が訪ねてくる。母が死んだと告げられて、ミッキーは泣く。それから父は、訪ねてきた本当のわけを話す。家には守るべき名前がある。妹には縁談がある。だから、この仕事をやめて帰ってこい。

ミッキーは父に食ってかかる。母が生きていたころ、さんざん女遊びをして母を泣かせておきながら、いまさら世間体か、と。そして父を追い返す。

彼女が「夢の里」にいる理由は、拒むことだったのだと分かる。父が長年傷つけてきた世間体をつくろうために、連れ戻されるつもりはない。映画はそれを褒めもしなければ、罰しもしない。法案が流れたときも、ミッキーは相変わらず騒がしく、悪びれもせずに「夢の里」にいる。映画は彼女を、自分で選んだ人間としてそこに残す。それはまさに、映画のなかの世間が彼女に決して許そうとしないことである。

やすみと、ただひとつ用意されていた出口

そして、計算のできるやすみがいる。

やすみが店いちばんの稼ぎ手なのは、この街の書類の上の作り話を、それを書いた者たちよりもよく分かっているからだ。書類の上では、赤線のカフェーの客は女給に恋をして、贈り物をする。やすみは男ひとりひとりに、自分は恋をしているのだと、彼女と一緒になれるかもしれないのだと信じさせ、贈り物を受け取る。なじみ客の青木は妻のある勤め人で、彼女が妻になってくれると信じて、勤め先の金を使い込んでまで彼女の借金を肩代わりする。布団屋の主人は彼女に金を注ぎ込み、ついには借金を踏み倒して夜逃げする。

だまされていたと知った青木は彼女に襲いかかり、殺しかける。やすみは回復する。そして法案が流れたあと、映画のなかでほかの誰にもできないことをする。夜逃げした客が残していった布団屋を買い取り、女主人に納まるのだ。店は布団を貸していて、「夢の里」もその客のひとつである。映画の冒頭であの男の金が彼女の手に渡り、終わり近くには、あの男の店が彼女の手に渡っている。

女たちのなかで抜け出していくのは、彼女ひとりだ。そして用意されていた出口とは、借りる側をやめて貸す側に回ること、店に売られる側をやめて、店に売る側に回ることだった。映画は彼女を罰しないし、称えもしない。ただ、「夢の里」の経済のなかでは、出口が川上にしかなかったことを見せる。

彼女の理由も、ほかの女たちの理由と同じだけの敬意に値する。父親の保釈金が彼女の肩にかかり、それが、彼女にありえたはずの人生を奪った。彼女を冷たい女と呼び、ほかの女たちを犠牲者と呼べば、見る側は楽になる。映画はそれを許さない。彼女たちはみな、同じ計算をしている。数字が違うだけだ。

最後の場面

ラジオが、法案が流れたことを伝える。女たちはそれを聞き、また仕事に出る。ほかに行くところがないからだ。ゆめ子は病院へ連れていかれた。やすみは自分の店へ移った。ハナエは家を失い、まだここにいる。一度出ていったより江も、戻ってきている。ミッキーは、一度も出ていかなかった。

店はいちばんの稼ぎ手を失い、その穴を内側から埋める。下働きのしづ子、九州から出てきた、家の暮らしに困った娘が、その晩から店に出ることになる。着物を替えられ、化粧を施される。

そして彼女は戸口に立たされる。まわりでは女たちが、通りを行く男たちの袖をあからさまに引いている。しづ子はそこにおびえて立ち、ためらいながら、男のひとりに声をかける。映画はそこで終わる。

映画は彼女を若い娘として見せていて、この映画について書く人たちは、彼女を少女と呼んでいる。映画は年齢を示さないし、この文章もそれを推し量らない。推し量らなくても、映画が見せているものははっきりしている。店は、いちばん断る力のない者を戸口に立たせた。家の困窮が彼女をそこへ差し出し、それを止めるものは何もなかった。これは搾取である。映画もそれを、搾取以外の何ものとしても描いていない。その画面には楽しめるものが何もなく、楽しまれるために撮られてもいない。溝口が最後に残したのは、ひとつの告発である。

この映画のなかで、商いは終わらない。まだ誰も手をつけていないただひとつのところから、自分を新しくしていく。遠くの家が金を必要とし、東京の店に空きができ、法案は流れた。戸口の娘には、何ひとつ新しいところがない。そこにこそ、この映画の怒りがある。

二か月後

そのあと歴史は、映画には知りようのなかったことをする。映画は、流れた法案で終わる。一九四〇年代の終わりに最初の法案が出されて以来、どの法案もそうして流れてきた。映画の公開は一九五六年三月十八日。五月二日、今度は政府が自ら法案を国会に出し、五月二十一日に成立した。売春防止法が公布されたのは、その三日後である。

この映画が成立を後押ししたとは、よく言われる。公開されて当たったこともあり、先のハーパーも、この映画が法の成立に大きな役割を果たしたと一般に信じられている、と書いている。そうだったのかもしれない。けれど、誰もそれを示してはいないし、示せる種類のことでもないのかもしれない。この文章は、それを信じられていることとして置いておく。

法律が何をしたのかは、正確に書いておく価値がある。この映画に答えている部分と、答えていない部分があるからだ。法律は、何人も売春をし、またはその相手方となってはならない、と定めながら、そのどちらにも罰を設けなかった。罰したのは、そのまわりにあるものだった。周旋。女をその仕事に縛りつけるための前貸し。売春をさせる契約。場所の提供。売春をさせることを業とすること。そのための資金や土地や建物の提供。親族関係による影響力を利用して人に売春をさせることも、別の罪として定めた。罰則が効力をもったのは一九五八年四月一日で、赤線の店はその春までに一斉に廃業した。

「街について。どの国も、これについて何かを決めなければならなかった。」という文章は、これが長い目で見て何を意味したのかを描いている。一九五六年の日本は、行為そのものを、女についても男についても罰しないことにした。売る側を罰しないスウェーデンの法律が称えられるより、四十三年も前のことだ。しかも日本はそこへ、何かの設計によってではなく、女たちを貧困の犠牲者とみなした戦後の政治を通ってたどり着いた。これは日本だけの奇妙な歴史ではない。あの文章が言うとおり、どの国もこの商いについて何かを決めなければならなかった。日本の決定には十年の議論と最高裁判所の判断が要り、そして女たちの理由は、もとの場所に残された。『赤線地帯』は、その議論が見つめていた貧困の記録である。

例外がひとつあり、映画はそれをすでに撮っていた。法律が女自身に残した罪は、人目につくかたちで客を誘うことだった。見知らぬ相手に声をかけること。道で立ちふさがり、つきまとうこと。人目につくところで客を待つこと。罰則が施行されたとき、「夢の里」の最後の場面にある行いは、あの店のなかで、後ろにいる店ではなく戸口に立つ女のほうが罰せられうる、ただひとつのことになった。

法律は、映画のもうひとつの問い、店の代わりに何が差し出されるのかという問いにも答えていた。その答えは第三章にある。都道府県は婦人相談所を置き、そこに一時保護のための施設を設け、婦人相談員を置かなければならない。婦人相談員は非常勤で、売春を行うおそれのある女子を見つけ、相談に応じ、指導をする。女たちを収容して保護する施設は、都道府県が「設置することができる」とされた。法律の言葉である。それは無ではなかった。けれど、夫の薬代でも、息子を育てる手立てでも、父親の保釈金でもなかった。それが誰かの理由に届いたかどうかは、法律の歴史が問うべきことだろう。映画が見せているのは、その問いがなぜ大事だったのかである。

言葉そのものは、その後薄れていった。ウィメンズアクションネットワークでこの映画を紹介した中村奈津子は、赤線という呼び名を知らない人が増えていく社会に、忘れてはならない記憶を手渡すような作品だと書いている。言葉は薄れた。けれど問いまで薄れたとは、この文章は言わない。

この読みへの反論と、この家への反論

ここまでのすべてを疑う理由は、ちゃんとある。できるかぎり強いかたちで並べておく。

第一に、この映画は正反対の二つの方向に読むことができ、実際に批評家たちはどちらにも読んできた。ある人々にとって、これは禁止への反論である。店を閉めれば、女たちが持っていたただひとつの暮らしの手段を取り上げることになり、その代わりには何も置かれない。別の人々にとっては、これは商いそのものへの告発である。利子、借金、疲れた女に値をつける女将、戸口に立たされる娘。ハーパーは、映画は激しく争われた論争の両側を容赦なく描きながら、それでも溝口がどちらの側に立っているかに疑いはない、女たちの側だ、と書いた。この文章は理由についての第三の読みを選んだが、第三の読みは、選ばずにすませるための方便にもなりうる。この映画を商いへのまっすぐな告発として受け取る人も、道徳家たちから女たちの生計を守る弁護として受け取る人も、映画の後ろ盾を得ている。

第二に、五人の人生にとって、八十六分は長くない。ひとりひとりに与えられる場面はわずかで、そんなふうに素早く描かれた群像は、型に寄っていく。母、策士、反逆児、妻になりたい女、一家の稼ぎ手。この文章は彼女たちをひとりひとりの人として扱うことにこだわってきたが、映画はそのための余地を、この文章が示すほどには用意していない。五人に焦点を分けたせいで、ひとりひとりの印象が薄まったと書いた観客もいる。

第三に、溝口の評判である。彼はしばしば女を描く巨匠と呼ばれ、ときにはフェミニストとも呼ばれる。ドナルド・リチーは、後者の呼び方に、溝口についてさえ釘を刺した。女のなかに劇にうってつけの主人公を見いだしたからといって、監督がフェミニストになるわけではない、と。映画は女たちの側に立ちながら、それでも彼女たちの苦しみを素材として使うことができる。文章も同じである。

第四に、この映画は商品だった。撮影所が当時の論争を題材に撮り、客が入り、英語の題名は海外で、実際よりきわどい映画としてこれを売った。それで映画が嘘になるわけではない。ただ、映画にはこの主題についての自分の利害があった。それについて書く者にも、同じように利害がある。

最後に、この図書室自身に向けられる反論。この家は私的な同伴を売っている。だから、認可された店を描いた映画は、この家にとって中立の場所ではない。ここには、都合のいい筋書きがすぐ手の届くところにある。昔の赤線は搾取だった。一九五六年の法律がそれを閉じた。そしていま売られているものは、その線の向こう側にある、改められたものなのだ、という筋書きである。この文章は、その筋書きを語らない。それを語る家があったら、読む人は疑ってかかってよい。『赤線地帯』のどこにも、いま売られている何かについての証拠はないし、いま売られているどんなものも、この映画への答えではない。この文章が映画から受け取ったのは、三つの問いである。その金で誰が暮らしているのか。恥は誰に押しつけられているのか。戸口の代わりに何が差し出されているのか。この問いは、読む人が出会うどんな取り決めにも当てはまり、この家も例外ではない。そしてどんな家も、自分についてこの問いに答えることはできない。

この図書室が受け取るもの

この商いが恥ずべきものだということでもなく、ほかと同じただの仕事だということでもない。映画はそのどちらも採らず、この文章も採らない。受け取るのは、もっと小さく、けれど手放しにくいものだ。女が身を置いているどんな取り決めにも、世間体のよい取り決めにも向けることのできる、ひとつの見方である。

金がどこへ行くのかを問い、恥がどこへ行くのかを問うこと。「夢の里」では、その二つは逆向きに流れる。金は家へ、夫や息子や父親のもとへ届き、恥は戸口へ戻ってくる。世間体のよい世界の暮らしは、それが見下している場所によって支払われている。この形は、一九五六年の吉原だけのものではない。ひとりの仕事が家の暮らしを支えていて、家のほうはその仕事の話をしたがらない、というところには、どこにでも現れる。

そして、戸口の代わりに何が差し出されているのかを問うこと。この映画の救いの手は、どれも同じところでつまずく。結婚はより江に、報酬のない仕事を差し出す。息子はゆめ子に、自分の恥を差し出す。父親はミッキーに、自分が長年傷つけてきた世間体を差し出す。法律は、やってきたときには、婦人相談所と「設置することができる」を差し出した。うまくいく出口はやすみのものだけで、それは商いそのものを通っていた。女の理由に向き合わない改革は、彼女がもつただひとつの暮らしの手段を手放せと言いながら、その代わりには何も差し出さない。

だから一度だけ、あなたに向けて書く。あなたの稼ぎや、時間や、力が、ほかの人たちの暮らしを回してきたことがあるなら。そして、あなたが支えてきたその人たちから、そのことで裁かれたことがあるなら。その裁きは、あなたがしてきたことの物差しではなかった。あなたには理由があった。それは言い訳ではなく、判決でもなかった。まわりの人たちが何よりも先に向き合うべき事実だった。そして彼らは、向き合わなかった。

この文章が主張していないこと

この文章は文化についての分析であり、法律や臨床や歴史の研究ではない。誰も診断せず、ここにあるどれひとつとして、読む人についての言明ではない。ゆめ子に起きたことは、映画が見せているとおりに書き、名前はつけていない。

法律上の助言は何もしていない。売春防止法は、一九五六年に成立したときの条文にもとづいて書いた。その後この法律は何度も改正され、二〇二四年四月には保護更生の章が削られて、婦人相談所や婦人保護施設は、困難な問題を抱える女性への支援に関する法律のもとに引き継がれた。ここにあるどれひとつとして、それらが今日どう働いているかを述べるものではない。

この文章は、映画を観たうえで書かれたものではない。読んでいるのは映画であって、芝木好子の小説ではない。公開された作品情報を超える場面の細部は、批評家や観客の詳しい記述から取り、二つ以上の記述が一致するものだけを使った。台詞は要約して伝えており、正確な引用として示したものはない。

しづ子の年齢は示していない。映画が示していないからである。彼女の最初の夜について、最後の場面が見せている以上のことは、何も書いていない。

この映画が法律を変えたとも、いまが一九五六年より単純によくなった、あるいは悪くなったとも、今日営まれているどんな商いも遊廓の後継ぎだとも、主張しない。ここに名前の挙がった監督、俳優、批評家、撮影所、団体のいずれも、この家とは何の関係もなく、この家を推奨してもいない。

持ち帰る問い

あなたは誰の暮らしを背負っているだろう。そのなかの誰が、あなたの背負い方に意見を持っているだろう。

誰かがあなたに出口を差し出したとき、それはあなたに何を手放させようとし、その代わりに何を差し出しただろう。

あなたの暮らしのなかに、まわりの人たちが判決のように扱いつづけている理由はないだろうか。彼らがまずその理由に向き合わなければならなかったとしたら、何が変わっていただろう。

あなたの家族のなかで、あらゆる衝撃を受けとめてきたのは誰だっただろう。そのことを、誰かが声に出して言ったことはあっただろうか。

ほかの章から読む

その作り話を支えている女性について。中で何が起きているかは誰もが知っている。法も知っている。警察も知っている。二つの料金を別々に払う客も知っている。それでもこの取り決めは存続する。なぜかを理解するには、道徳ではなく、金と契約を追う必要がある。経営者を刑務所の外に保つ構造こそが、女性を労働法の外に置いている構造だからであり、ひとつの取り決めが両方をしているのは偶然ではない。『OUT』と、家計の緩衝材であることの原価深夜零時から五時半まで、四人の女が弁当の詰め口に立っている。そのうちの一人が夫を殺し、残りの三人が手を貸す。桐野夏生が一九九七年に発表したこの小説を、社会を背景にした犯罪小説としてではなく、家計の帳簿の記述として読む。四人の関与はいずれもそれぞれの帳尻で説明がつき、誰かが悪人である必要はどこにもない。読んでいるのは、金のある女に時間を売っている家である。金のない女たちの本を。その立場は、反論ではなく承認として置く。社会は、存在を認めた圧力のためにしか、弁をつくらない。四世紀にわたる建物、法、語彙、基盤が、この国では男性の圧力を逃がすために築かれてきた。女性のために比肩するものが築かれたことは一度もなく、その理由は単に誰も気にかけなかったからではない。それぞれ単独でも十分な、四つの別々の仕組みがある。自分が見ているのがどれなのかを知ることは、世界には自分の抱えているものを置く場所が見当たらないと気づいた女性が、自分自身について何を結論してよいかを変える。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

このお便りについて