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『ベイビーガール』、身を委ねることは弱みを握られることではない

  • 同意
  • 欲望
  • 仕事、性別、望むこと
  • ファンタジーと境界線
  • スクリーンの女性

結婚生活のあいだずっと絶頂を演じてきた経営者は、支配する側を演じるインターンのもとで、望んでいたものにようやく出会う。問題は彼女の望みではなく、その遊びが逆向きの上下関係を抱えた職場のなかで行われたために、二人が互いの弱みを握り合い、どちらも「やめて」をただでは言えなくなったことにある。

夜、ニューヨークのアパートメントで、ひとりの女性が長年連れ添った夫と体を重ねたところだ。彼女は寝床を抜け出し、別の部屋へ行ってノートパソコンを開く。そしてポルノを見ながら、夫とのあいだでは一度も訪れたことのない絶頂に、ひとりでたどり着く。『ベイビーガール』はここから始まる。筋が動き出す前に、少しだけこの部屋にとどまっておきたい。このあと起きることはすべて、この部屋から出ようとする試みだからだ。

彼女の名はロミー・マティス。ニューヨークで自動化技術の会社を率いていて、その仕事に長けている。愛している夫、舞台演出家のジェイコブがいて、二人の娘がいて、田舎には別荘があり、彼女の言うとおりに動く人々で満ちたビルがある。持っていないのは、あの部屋で望んでいるものが存在してよい場所だ。あの部屋のほかには、どこにも。

脚本と監督を手がけたハリナ・ラインは、ヴェネツィア国際映画祭での初上映に寄せた言葉を、この部屋をそのまま言い当てる一文で始めている。私たちは誰もが小さな黒い箱を抱えている、誰にも打ち明けないかもしれない禁じられた空想でいっぱいの箱を、と。ノートパソコンは、ロミーの箱だ。この映画は、彼女がその箱を誰かの前で開けたときに何が起きるのかを描く。そして、その誰かが誰なのかを。

その誰かは、彼女自身の会社のインターンである。職場では彼女が彼の上司で、二人が始める遊びのなかでは、彼が彼女の上に立つ。この文章は、その交差について書く。彼女の望みは問題ではない。症状でもなければ、フェミニズムの失敗でもなく、言い訳して片づける必要もない。問題は、彼女がその望みを持ち込んだ部屋のほうにある。逆向きに走る現実の上下関係の上で、身を委ねる遊びをすること。向きの違う二つの力は、打ち消し合わない。積み重なる。二人はそれぞれ相手の何かを握るようになり、互いに身を委ねているように見えたものは、場面を追うごとに、弱みの握り合いへと変わっていく。

この図書室がこれまで大切にしてきた意味での「身を委ねる」には、ただで抜けられる出口が要る。弱みを握られるとは、その出口に値札がつくことだ。欲情は、この二つを見分けてくれない。だからこそ、誰かが見分けなければならない。

何が起きるのか、結末にふれる前に

まず記録から。『ベイビーガール』はハリナ・ラインの脚本・監督作で、ロミーをニコール・キッドマン、サミュエルをハリス・ディキンソン、ジェイコブをアントニオ・バンデラス、ロミーのアシスタントのエスメをソフィー・ワイルドが演じる。二〇二四年八月三十日、第八十一回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門で初上映され、キッドマンは女優賞にあたるヴォルピ杯を受けた。アメリカでは同じ年のクリスマスに劇場公開され、日本では二〇二五年三月二十八日に公開された。

ある朝、出勤途中のロミーに、放し飼いの犬が襲いかかりそうになる。それをなだめたのが若い男で、新しく入ったインターンのサミュエルだった。彼は社の研修制度で、指導役にロミーを選ぶ。面談のたびに彼は権力について彼女をからかい、やがて彼女の権力を試しはじめる。先に唇を重ねるのは、彼女のほうだ。ホテルで会ったとき、彼女は気がかりを口にする。立場を悪用しているのは自分のほうではないか、と。彼の答えは、電話一本であなたを辞めさせられるのは僕のほうだ、というものだった。この答えには、あとで戻ってくる。その安ホテルの一室で彼が支配する側に回ると、彼女はすすり泣くほど激しく達する。

関係は深まり、圧力も強まっていく。サミュエルは忘れ物のパソコンを届けに一家の別荘へ現れ、家族をすっかり魅了してしまう。二度と来ないでと命じるロミーに、彼は担当替えを願い出ると脅す。そうなれば、理由を問われる。ロミーは夫に、あなたとは一度も達したことがないと打ち明け、そのうえでサミュエルに続けてほしいとすがる。彼は、彼女が服従を認めてはじめて関係を元に戻す。次女の誕生日会には、付き合っているエスメを連れて現れる。エスメはロミーに、関係に気づいていると告げ、終わらせてほしいと頼む。

ロミーは夫に浮気を告白するが、見知らぬ男との一夜だったと偽る。自分が何を必要としているのかを彼女が伝えようとしても、傷ついた夫には聞き取れない。別荘でサミュエルといる妻を見つけたジェイコブは、彼と殴り合いになる。女性のマゾヒズムなど神経症だと言う夫に、サミュエルは古い考えだと返す。ジェイコブは発作を起こし、落ち着くまで彼を抱きとめるのはサミュエルだ。そしてサミュエルは去り、日本での仕事に移る。長女のイザベルに背中を押されてロミーは夫のもとへ戻り、彼の劇場を訪ねて、自分の望みを一度も口にしてこなかったことを詫びる。関係を知っているとほのめかし、自宅に誘ってきた役員には、あなたなど怖くないと言い放って部屋から追い出す。家で、ロミーとジェイコブは彼女が望むとわかったやり方で愛し合い、彼女は夫との行為で初めて達する。頭に浮かんでいるのは、サミュエルの姿だ。

これが結末までを含めた映画の全体であり、この文章はそのすべてにふれる。ここに記した内容は、作品の公刊された記録と、記録として残る批評や対談から取っている。台詞をそのまま引くのではなく記述するにとどめ、それらの記述が食い違うところでは、そう書くか、何も書かない。

分析の前に、彼女の理由を

議論に入る前に、彼女の理由を置いておきたい。まずはそれ自体として理解されるべきものだからだ。ロミーのような女性を語るときの決まった語り口、つまり教訓話として、症例として、力を持った女をめぐる笑い話として語るやり方は、どれもこの手順を飛ばす。残酷さは、その飛ばしたところから始まる。

彼女が自分の寝室で何をしてきたかを考えてみる。拒んでいたのでも、出し惜しみしていたのでも、得をするために嘘をついていたのでもない。演じていたのだ。何年ものあいだ、夫に、自分が妻を悦ばせていると信じる喜びを差し出してきた。それはおそらく、愛とほとんど見分けのつかない何かからだった。夫を守るため。ほかの点ではほとんどうまくいっている結婚を守るため。そしてたぶん、どう切り出せばいいのかわからない会話から、自分を守るため。演じることは、ひとつの有能さだ。思いやりでもある。そして、特有の孤独でもある。人生でいちばん親密なことが、誰にも気づかれない上演になってしまうのだから。

次に、あの部屋で彼女が望んでいるものを考える。最初に欲しいのは、男ではない。自分が生み出すのではなく、自分の身に起きる何かだ。命じられること。彼女の権威を怖がらない誰かに、扱われること。彼女の会社が売っているのは、指示されたとおりに正確に動く仕組みである。あの部屋で彼女がなりたいのは、指示される側だ。そこに矛盾はない。一日じゅうすべてを支えている人が、一度くらい支えられたいと思う。これほど人間らしい望みはない。

その下には、もうひとつ理由がある。この図書室は以前、仕事での有能さと私的な欲望についての一篇で、こう論じた。自分のすることにいつも理由を示すことで立場を保ってきた女性にとって、理由のない望みには存在の許可がなく、その許可はほかの誰にも出せない、と。『ベイビーガール』は、それでも誰かが出してくれるように感じられる理由を見せる。命令は、許可に見えるのだ。彼が命じるなら、彼女は望みを自分で許可しなくていい。決めたのは別の誰かで、望みはただ起こるにまかせられる。それは本物の安堵であり、あのホテルの部屋が彼女を圧倒した理由の一部でもある。そして同時に、この文章がこのあと扱う欠陥でもあり、以前の一篇が別の道筋から正しかったことの証しでもある。他人が出した許可は、他人が取り消せる。値をつけることもできる。

あの部屋で彼女がすすり泣くとき、映画はそれを崩壊として扱わない。誰もそう扱うべきではない。あれは、何年分もが一度に届いた涙として読める。ずっとあとで夫が彼女の望みを神経症と呼ぶとき、映画は答えを若い男のほうに渡し、彼はその考えを古いと言う。この点について、この図書室は留保なく同意する。支配されたいと望むことは病ではなく、この文章のどこもそれを病として扱わない。ラインは、この脚本は自分にとって恥にとり囲まれたものだったと語っている。恥は本物だった。けれど、恥に値したのは望みのほうではなかった。

電話一本

この映画でいちばん精密な台詞は、ホテルの部屋でサミュエルが返す答えだ。そこで立ち止まる価値がある。映画が描いている混乱のすべてが、その一文に折りたたまれているからだ。

公平のために言えば、ロミーは正しい気がかりを口にしている。自分は最高経営責任者で、相手はインターンだ。立場を悪用しているのは自分のほうではないか。あの椅子に座る責任ある人間が問うべき問いであり、しかも何かが起きる前という、正しい時点で問うている。サミュエルの答えは、力を持っているのは僕のほうだ、電話一本であなたを辞めさせられる、というものだ。

この一文が何をしているかに耳を澄ましてみる。差し出され方は、安心させる言葉だ。あなたは僕を搾取していない、だから進んでいい。けれど組み立ては、脅しである。同意についての問いに、弱みについての言明で答えている。互いに相手を破滅させられるのだから、これは公平な取り決めだと言わんばかりに。人質が二人いれば、自由な人間が二人いることになる、とでもいうように。

ラインは映画祭に寄せた言葉で、この関係を、二人が権力や性別、年齢、上下関係をめぐる自分たちの混乱を演じきる場として描いている。混乱というのは監督自身の言葉であり、電話一本の台詞は、その混乱がもっとも純粋な形で現れる場所だ。その下には、多くの人が確かめないまま抱えている考えがある。相手を傷つけられる力は一種の対等さであり、対等さは一種の同意だ、という考え。どちらの段も成り立たない。相手を破滅させられるからといって、相手をただで拒めるわけではない。どちらかが拒めば、どちらかがどちらかを破滅させるかもしれない。それだけのことだ。

だからあの台詞は、遊びが公平になった瞬間ではない。場面が終わっても二人とも下ろすことのできない、現実の賭け金を、遊びがもうひとつ抱え込んだ瞬間なのである。

逆向きにかかった二本のはしご

この映画のいちばん安易な読み方は、上下関係が釣り合う、というものだ。昼は彼女が彼を従え、夜は彼が彼女を従える。その逆転がこの映画の官能であり、どこか正義でもある。力のある女がひざまずき、はしごのいちばん下にいる若い男が命じる。これで帳尻が合う、と。

実際の構造を描いてみると、違って見える。職場では、彼女が彼の将来を握っている。インターンの経歴は上に立つ人々の手のうちにあり、彼女はその頂点にいる。彼が彼女に何を言うにせよ、それは自分の先行きを終わらせられる相手に向かって言っているのだ。遊びのなかでは、彼女の招きによって、彼が彼女の意志を握る。そしてその両方の外で、最初の夜から、彼は彼女の秘密を握っている。それは彼女の先行きを終わらせうるものだ。向きの違う三本の力の線があり、どれも別の線を打ち消さない。積み重なっていく。

スティーヴン・シャインバーグの『セクレタリー』は、弁護士と、彼がしつける秘書を描いた二〇〇二年の映画で、なじみのあるほうの形を見せている。職場のはしごと遊びのはしごが、同じ向きにかかっている。彼女に給料を払う男が、遊びのなかで彼女に命じる男でもある。この形にも影がある。雇われている人が雇い主に言う「はい」は、単純な「はい」にはなりえない。職場の性について人が心配するとき、たいてい思い浮かべているのはこの影だ。『ベイビーガール』は、その修正版のように見える。ここでは、力を持つほうがひざまずくのだから。けれど、一本のはしごを逆さにしても、もう一本は消えない。それぞれが、相手に蹴り外せる段の上に立つようになるだけだ。

交差は、サミュエルのほうも自由にはしない。映画は彼の内面をほとんど閉じたままにしていて、この文章も彼の内面をこしらえるつもりはない。けれど動機が見えなくても、立場は見える。彼は経歴の入り口にいて、関係を持っている女性が率いる会社にいる。そして映画は、彼女に対して損なしに「いいえ」と言えるかどうかを彼が確かめられる場面を、一度も見せない。彼が彼女にかける圧力は圧力であり、この文章はそれを和らげない。彼女が彼に対して持つ力は力であり、それも和らげない。正直に言えば、最初の口づけのあと、どちらも、相手をただで拒める位置には一度も立っていない。

これが、この映画が求める配慮を、いちばん平たく言い表す方法だ。欲望は、職場の力の差を消さない。ひざまずきたいという彼女の望みは、彼女を彼の上司でなくすわけではない。命じたいという彼の望みも、彼を彼女のインターンでなくすわけではない。部屋にほかの何があろうと、この二つの事実は毎回、そこにある。

値札のついた「やめて」

同意はふつう、「はい」についての問いとして語られる。与えられたか、明確だったか、心からだったか。『ベイビーガール』はそれより役に立つ。この映画はほとんど丸ごと、「いいえ」についての映画だからだ。この取り決めのなかで、それを口にするのにいくらかかるのか。

この図書室は以前、主導権を手放したいと望むことは選択を手放すことではない、と論じた。選ばれた委ねと諦めを分けるのは縁だ、と。主導権を渡す本人があらかじめ引いた限度と、それを取り戻す道筋である。この映画は、その議論が言う必要もなく前提にしていたことを試している。縁を引いた人が、縁を守ろうとしたことで罰されない、という前提だ。ロミーが縁を守ろうとするたびに何が起きるかを、たどってみよう。

家族のまわりに線を引き、二度と別荘に来ないでと命じたとき、返ってきたのは担当替えの申し出という脅しだった。そんな申し出があれば、なぜなのかを問われるのは彼女のほうだ。理由を問われることの重さは、組織で働いたことのある人なら想像がつくだろう。彼女の「いいえ」には値札がつき、支払いは詮索という通貨で求められる。終わらせようとして終わらせられず、続けてほしいとすがりに戻ったとき、彼は彼女が服従を認めてはじめて彼女を受け入れる。戻るための条件を決めるのは彼だ。そして遊びは、招かれてもいない部屋へ次々と入っていく。部下たちに囲まれた仕事の席で、彼が頼んだ一杯の牛乳がウェイターの手で運ばれてきて、彼女はそれを飲み干す。それから別荘。それから子どもの誕生日会。自分の部屋を持たない遊びは、やがて暮らし全体の天気になる。

この映画には交渉がある。それもかなり多く。そこがこの作品の珍しいところだ。けれど、その交渉がどんな通貨で行われているかを見てみる。すべての条件が、必要か脅しで値づけされている。誰も限度を口にしない。止めるための言葉も、終わる時刻も、誰も決めない。ソフィー・ハイドの『グッド・ラック・トゥ・ユー、レオ・グランデ』と並べてみるといい。夫を亡くし、一度も絶頂を知らないままの女性が、性的なサービスを仕事にする若い男性を予約して、ホテルの一室で会う映画だ。あちらでは、誰かが部屋に入る前に縁が決まっている。予約された時間、先に済ませた条件、仕事のための名前、そして扉の両側にある、部屋が触れない暮らし。それでもあの映画は、線が越えられる瞬間を正直に描いている。『ベイビーガール』の部屋には、縁がまったくない。二人とも本名と本物の仕事を抱えたまま入り、それを抱えたまま出ていく。

彼女がどれほど彼を欲しているかは、このどれも変えない。ここで、この映画はこの文章でいちばん平たい言葉を求めてくる。欲情は、同意ではない。ホテルの部屋での彼女の絶頂は圧倒的で、本物で、それが起きた取り決めについては何ひとつ証明しない。反応する体は、自分自身について報告しているのであって、部屋について報告しているのではない。空想も、同意ではない。あの別の部屋で彼女が見ていた画面は、何も言い返してこなかった。サミュエルには経歴があり、気性があり、電話がある。

日本語には「嫌よ嫌よも好きのうち」という言い回しがある。拒む言葉は本心ではない、という古い思い込みを、軽口の形でしまいこんだ言葉だ。二度と来ないでと命じた女が、やがて続けてとすがる。この映画の筋は、その文法で読まれる危うさを抱えている。この文章は、その読み方をとらない。彼女の「いいえ」は「いいえ」であり、あとの「はい」は「はい」だった。どちらも彼女のものだった。そして、どちらもただではなかった。

もうひとつ、ここに置いておくべき事実がある。議論全体の縮図になっているからだ。ラインはこの映画を、インティマシー・コーディネーターのリジー・タルボットとともに撮った。性的な場面の撮影で、俳優の同意と安全を段取りする専門職である。スタント・コーディネーターなしに格闘の場面は撮れない、性の場面もそれと同じだ、とラインは語っている。合意された限度のないまま即興で進む二人の遊びを描いた映画は、限度を合意するためにつくられた仕組みの内側で働く人々によって撮られたのだ。これは逆説ではない。映画が見せているものと、それを安全に見せるために必要だったもののあいだの、距離そのものである。

同意していない人々

二人のあいだの同意は、二人の分しか覆わない。映画は、それ以外の人々からも目を離さない。

いちばんさらされているのはエスメである。ロミーのアシスタントで、野心があり、サミュエルと付き合っている。そしてある時点で、恋人が自分の上司と関係していることに気づく。それが彼女をどんな位置に置くかを考えてみる。三人のなかでいちばん力のない人が、いちばん力のある人のところへ行って、やめてほしいと頼まなければならない。彼女の言い分は嫉妬ではない。あなたほどの地位に就ける女性は少ない、若い女性が見上げられる人でいてほしい、というものだ。

その両面を、どちらも手放さずに持っておきたい。頼みは正当である。経営者とインターンの関係は私事ではない。その代償は彼女より下にいる人々に落ち、エスメはその一人だからだ。そして頼みは、それ自体がひとつの圧力でもある。一人の女性の私生活に、ほかの女性たちの先行きを背負わせ、彼女の欲望を手本の役目に駆り出す。その重荷は、頂点にいる数少ない女性にこそ、いちばん重くのしかかる。映画はそれを、この状況のすべてに腹を立てていい理由を持つ女性の口から言わせている。

その下には、もっと冷たい要点がある。遊びが職場を通り抜けはじめると、知っていることは、使うつもりがあろうとなかろうと、弱みを握る力になる。エスメはいま、サミュエルが知っていることを知っている。終わりには、役員も知っている。知った人は誰もが何かを握り、握っている人の輪は、場面ごとに広がっていく。自分の部屋を持たない遊びとは、そういうことだ。漏れる。そして漏れたものは、誰か別の人の力になる。

そして家族がいる。ジェイコブは自分の結婚についての真実を二度に分けて知らされ、そのとき彼にできなかったのは、耳を傾けることだった。映画はそれを許しもしないし、罰しもしない。娘たちの家は、母親の恋人が誕生日会に現れる場所になる。そして最後に母を家へ帰すのは、長女だ。誰ひとり、そのどれにも同意していない。ただ、その部屋にいただけだ。

『ヘッダ・ガーブレル』と、ラインが拒んだ結末

映画のあいだずっと、ジェイコブはイプセンの『ヘッダ・ガーブレル』の稽古をしている。ある批評家は、彼が主人公について、彼女の人生はもう終わっているのだと語る場面を書きとめている。この選択は飾りではない。映画を撮る前、ラインは俳優で、とりわけ舞台に立ってきた人だ。トネールグループ・アムステルダムでイヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出のもと、ヘッダその人を演じた。二〇〇六年に初演された舞台だ。彼女は、ヘッダをはじめ自分が演じてきた名高い役はみな最後に死ぬと語り、ある対談ではさらに率直にこう述べている。自分を解き放つ女は家父長制のなかには本当には存在しない、死ぬか、精神科の施設に入れられるかのどちらかだから、と。

『ヘッダ・ガーブレル』の結末を思い出しておく。ブラック判事は、スキャンダルになりうることを知っている。使われたのが誰の拳銃だったのか。そして自分が黙っていることにどんな値がつくのかを、彼女にわからせる。ヘッダは、これからずっと彼の力のもとに置かれることを悟り、そのなかで生きるよりも、自ら命を絶つことを選ぶ。一八九〇年に書かれ、翌年ミュンヘンで初演された戯曲である。その原動力は、この文章がここまで描いてきたものとまったく同じだ。女について何かを知っている男と、彼がその知識につける値段。

『ベイビーガール』にも、ブラックがいる。終わり近くに現れる役員だ。サミュエルが日本での仕事に移ったと告げ、あなたが何か関わっていたのかと尋ねる。知っているのだと、わからせる。そして、自宅に来ないかと誘う。知識と、醜聞の脅しと、値段。弱みの握り方としては、もっとも古い形である。そしてこれは、制度の上で彼女より上に立つ男がその梃子を手にする、映画のなかで最初の場面でもある。イプセンとの重なりはこの文章の読みであって、映画がそう告げているわけではない。けれど映画は始まりからずっと、背景であの戯曲の稽古を続けてきた。そしてこれが、その結末が拒まれる場面なのである。

ロミーは、あなたなど怖くないと言い、彼を部屋から追い出す。なぜそうできるのか。答えの一部は、弱みで人を動かすには、相手の恥という取っ手が要るということだ。彼女はその恥を、いちばん重くのしかかっていた場所で、すでに下ろしていた。秘密が持ち込まれるおそれのあった夫は、もう知っている。答えのもう一部は、彼女が最高経営責任者だということで、この点はあとの反論で真剣に扱う。けれどこの場面は、ラインが映画をそこへ向けて組み立てた場面だ。結末について問われたラインは、夫を裏切ったからといって彼女が最後にすべてを失うことにはしたくなかったと語り、二人が互いのもとへ戻り、夫が彼女を許し、彼女が自分自身を許せるようになるほうが、ずっと人間らしく感じられた、と述べている。

そして最後の場面。映画はそれを、きれいに結ぼうとしない。家で、ロミーとジェイコブは彼女が望むとわかったやり方で愛し合い、彼女は夫とのあいだで達する。サミュエルの姿を思い浮かべながら。結婚のなかへ移ってきたのは、望みと、それを言い表す言葉だ。もう一人の男の姿も、一緒についてきた。この文章はそれを、裏切りとも失敗とも読まない。空想は空想であり、自分たちの性についての真実を抱えられるようになった結婚なら、暗がりのなかの一つの顔くらいは抱えられるだろう。大事なのは部屋である。映画のなかで初めて、望みが、ただで止められる場所にある。彼女はジェイコブに「いや」と言えるし、ジェイコブも彼女に「いや」と言える。そのせいで誰かが暮らしの糧を失うことはない。

拒めるかどうかで力を測る言葉が、日本にはすでにある

『ベイビーガール』は二〇二五年三月に日本で公開された。ここで観る人は、この映画の職場の半分について、すでに言葉を持っている。それを映画の横に並べておく価値がある。

厚生労働省が定めたパワーハラスメントの指針は、二〇二〇年六月から適用されている。その要になるのが、「優越的な関係を背景とした言動」という言い方だ。目を引くのは、その優越的な関係の定め方である。肩書きではなく、拒めない見込みの高さで定めている。言動を受ける労働者が、行為者に対して抵抗や拒絶をすることができない蓋然性が高い関係。そして例として、職務上の地位が上の者による言動と並べて、同僚や部下による言動も挙げている。業務に必要な知識や豊富な経験を持ち、その協力がなければ仕事が円滑に進まないような同僚や部下。あるいは、抵抗や拒絶が難しい、同僚や部下の集団。言いかえれば指針は、この文章が試みてきたのと同じやり方で力を測っている。誰が誰より上かではなく、誰が「いいえ」を言えるかで。

刑法も同じ方向を向いている。二〇二三年七月に施行された改正で、不同意性交等罪は、同意しない意思を形成し、表明し、または全うすることが難しい状態を軸に組み立て直され、その状態を生む行為や事由が八つ挙げられた。そのひとつが、経済的または社会的な関係上の地位にもとづく影響力によって受ける不利益を、心配させること、あるいは心配していることである。法務省は、ここでいう社会的な関係には、家庭や学校とならんで会社での関係も含まれると説明している。法は、この映画が描くものに名前をつけている。暮らしの糧を左右できる誰かの影の下で口にされる「はい」。この文章は、架空の人物に法を当てはめることはしないし、映画の誰かについて裁判所がどう判断するかについても何も言わない。

そして、エスメの頼みの裏にある算術がある。内閣府の男女共同参画白書によれば、二〇二五年、日本の管理的職業従事者に占める女性の割合は十四・四パーセントで、比べられている諸外国がおおむね三十パーセント以上であるのに対して低い。常用労働者百人以上の企業では、部長級に占める女性は九・三パーセントだった。この国でロミーの椅子に座る女性は、一人の人である前に象徴になるだろう。若い女性が見上げられる人でいてほしいという頼みは、ここではもっと重く響く。そして、その不公平さも。この話のなかに怒りに値するものがあるとすれば、それはこの算術だ。一人の女性の私生活を、ほかの女性たちの証拠に変えてしまう算術。その怒りはエスメに向けるものではなく、ロミーに向けるものでもない。

日本で、母語ではない言葉を使って働く女性にとっては、交差はこの映画よりも文字どおりのものになりうる。会議の空気を読み、大事なメールを下書きし、その場が本当は何を考えているのかを教えてくれる、二つの言葉のできる部下に頼っている管理職を思い浮かべてみる。指針が描いている、まさにその交差した位置だ。形のうえでは上にいて、実際には頼っている。それで誰かが加害者になるわけではない。ただ、「やめて」の値札に、言葉そのものが含まれうるということだ。

この文章の一部が、映画の話ではない読み手もいるだろう。職場の誰かに弱みを握られている人。あるいは、自分が誰かの弱みを握っていると気づいた人。それが数に入るかどうかを、先に決めなくていい。各都道府県の労働局には総合労働相談コーナーがあり、全国の労働基準監督署などにも置かれている。無料で、予約はいらず、ハラスメントの相談を受けつけ、さまざまな言語での相談にも応じている。起きたことが性暴力だったなら、全国共通の短縮番号「#8891」が、最寄りの性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターにつながる。通話料はかからない。

この読みへの反論

反論を四つ挙げる。そのうち二つは、当たっている。

第一の反論がもっとも強く、それは作り手自身から来る。これは官能の映画であり、危うさこそが要点だ、という反論である。映画祭に寄せた言葉でラインは、この映画を、人の内にある相反する力に判断を交えずに光を当てる試みだと述べ、あの関係を探ることの喜びは、禁じられたものであっても、解放であり、癒しでさえあると書いている。その立場から見れば、同意の語彙や職場の指針を持ち込むこの文章は、夢を人事の書類のように読んでいることになる。越境こそがこのジャンルであり、圧力は熱の一部であり、この映画にぞくぞくした観客には、直すべきところなど何もない。そのすべてを認めるべきだ。画面のなかの空想に許可証はいらないし、それを楽しむ観客にもいらない。ここでの主張は、もっと狭い。映画がもっと安全であるべきだった、ということではない。映画の取り決めを、あの望みが住める唯一の場所と取り違えないでほしい、ということだ。そして、すべての場面を誰が誰を破滅させられるかをめぐって回しているのは、この文章ではなく映画そのものである。

第二の反論はさらに鋭く、職場そのものに向けられる。職場はあの望みにとって間違った部屋なのではなく、それが意味を持ちうる唯一の部屋なのかもしれない。ロミーの権威は職場に住んでいる。ほかの場所で演じられた逆転は、何も逆転しない。これは真剣な指摘で、この文章はそれを退けられない。言えるのはせいぜい、逆転に熱を与えている力と、それを危うくしている力は同じものであり、映画はその両方を知っているように見える、ということだけだ。

第三の反論は、あの結末は特権の物語だ、というものだ。イギリスの映画批評サイト、アイ・フォー・フィルムに書いたある批評家は、結果がもたらす脅威は女性たちのほうにより重くのしかかっているように見える、と書いた。映画はそれを裏づけている。サミュエルは日本での仕事に移り、エスメは知ったことを抱えたまま残り、ロミーは、映画が見せるかぎり、会社も夫も娘たちも手放さない。弱みを握る相手に、怖くないと言い切る。それは、妻を受け入れ直した夫のいる最高経営責任者だからこそ払える代価だ。インターンやアシスタントにとっては、戦略にならない。これは全面的に認める。映画でいちばん自由な瞬間は、いちばん多くの後ろ盾を持つ人のものだ。

第四の反論は、逆向きに走る。サミュエルの脅しを圧力として扱うことで、この文章は、古くて感じのよくない物語をよみがえらせているのかもしれない。力のある女は実は被害者で、若い男は実は捕食者だという物語。そのあいだも、制度上の力はいつもどおり彼女の手元にある。答えはこうだ。この文章は対称性を主張していない。主張しているのは、積み重なりである。制度は最初の場面から最後まで彼女のものであり、映画自身の役員の場面は、制度上の梃子を男が握ったときにそれがどう見えるかを示している。彼女は制度を握り、彼は物語を握っている。どちらも真実で、映画はどちらかを選ばないことで、いっそう良い映画になっている。

この家が売っているもの、そして自分に引くべき線

この図書室は、日本で私的な同伴を売る家に属している。あらかじめ整えられ、代金が支払われ、始まりと終わりが告げられている一晩。女性の求めに応じて、しばらくのあいだ、その晩の段取りを別の誰かが持つこともある。この文章はその位置から書かれた。読み手は、ここまでのすべてをそれと照らし合わせてよい。

利害の向きは、はっきりしている。この望みには職場の外、そして情事の秘密の外に部屋が要る、と結論する文章は、部屋を売る商売にとって都合がいい。それは本当であり、そう言ったからといって利害が消えるわけではない。

もっと言いにくいことがあり、この節はそのためにある。お金もまた、力の線である。代金の支払われる一晩では、彼女が払い、相手が払われる。そして彼女の求める役が、相手が導く役であるなら、その一晩は、この映画の職場とまったく同じように二本の線を交差させる。経済的な力を持つ側が、導かれる側になるのだ。前もってその交差に同意しても、交差は消えない。見えるようになるだけだ。

だから、そういう形の取り決めにこの文章が求める基準は、私たちのものも含めて、映画のなかで破られていくものそのものになる。始まる前に条件が告げられていること。終わりが決まっていること。そして、お金の両側で「やめて」がただであること。彼女の「やめて」も、払われている側の「やめて」も。払われている人の「いいえ」は、インターンの「いいえ」が肩書きの影に入りうるのと同じように、お金の影に入る。これは基準であって、自慢ではない。いつも守れていると内側から保証できる者はいない。そして、自分たちの一晩をそれ自体の安全の証拠として売る家があるなら、それはサミュエルの電話一本と同じ手口を使っていることになる。同意についての問いに、自分についての言明で答えるという手口だ。

そして、はっきり言っておくべきことがある。この映画の答えは、どんな商いでもない。『ベイビーガール』は結婚のなかで終わる。望みがようやく、それを隠してきた相手に向かって口にされる場所で。あの最後の部屋では、誰にも代金は払われていない。

この文章が主張していないこと

どの登場人物についても、法的な判断はしていない。日本の指針と刑法にふれたのは、この国で力と同意がどう枠づけられているかを示すためであって、架空の人物に当てはめるためではない。ここにあるのは法的な助言でもない。

支配と服従をめぐる嗜好や、交渉された力の交換を注意深く実践している多くの人々についての判定でもない。批判の対象は、一つの架空の取り決めと、映画がそれを置いた条件である。

誰も診断していない。神経症という言葉は登場人物のものであり、映画のなかで退けられている。この文章は、実在であれ架空であれ、誰にも臨床的な呼び名を当てておらず、ここにあるどの文も読み手についての言明ではない。

ラインの発言は、映画祭への声明と公刊された対談からの、彼女自身の言葉として伝えており、どの読みの証明としても扱っていない。役員とイプセンのブラック判事を重ねたのは、この文章の解釈である。

この文章のために作品を上映で確かめてはいない。記したことは、公刊された作品の記録と、批評と、対談から取っている。ロミーとエスメの場面については、ほかに何が交わされたかをめぐって公刊された記述が食い違っており、ここでは一致している部分だけを伝えた。映画をつくった人や演じた人の私生活や経験については何も述べておらず、関係者の誰かがこの家を知っている、あるいは推薦しているという含みもない。

手元に残しておく問い

あの別の部屋に、何か覚えのあるものを見た人のために、いくつか問いを置いておく。

もしあなたがロミーのような望みを抱えているなら、それはどこに住めば、あなたにとっても相手にとっても、止めることがただになるだろう。いまあなたがいる取り決めのなかで、職場でも家でも、「いいえ」と言うのにいくらかかるだろう。その値段を決めたのは誰だろう。その部屋には、招かれないまま、ほかに誰が立っているだろう。誰かに弱みとして握られる前に、まず打ち明けられる人はいるだろうか。

映画の最後の場面は、一人の女性が、演じ続けてきた相手に向かって、ようやく自分の望みを口にするところだ。そこへたどり着くまでに、結婚と、情事と、二人の男の殴り合いと、娘の後押しが要った。映画は、その道のりが安全だったふりをしない。けれど、彼女がたどり着いた場所には目を留める価値がある。「やめて」と言っても、失われるのはその瞬間だけで済む部屋。

抱きとめられたいと望むことが、危うかったことは一度もない。危うかったのはいつも、「やめて」という言葉についた値札のほうであり、その値段を決めるのは望みではなく部屋だ。あなたには、それがただで言える部屋がふさわしい。

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『任せたい』は、何も決めたくないという意味ではない。一日中すべてを決めている女性にとって、ひと晩だけ委ねたいという願いは弱さではない。自分の意思をどこに使うかについての、とても具体的な決断だ。『Fifty Shades of Grey』は、ファンタジーと現実の境界線をどこまで教えてくれるのか支配されることへの憧れ、危うさ、ときめき、交渉。世界的ベストセラーを「こういう関係を真似すべき本」ではなく、なぜ権力差のあるファンタジーが人を惹きつけるのかを考える入口として読む。南アフリカ。世界で最初に書かれた条項と、それが届かない部屋南アフリカは、性的指向を憲法の平等条項に書き込んだ世界で最初の国であり、その最高裁は、三か国を除くどの国よりも早く同性カップルに婚姻を開いた。同じ国が、自国の科学者たちが異例の丁寧さで記録する水準の強姦と親密圏の殺害とともに生きており、あの条項が守るために書かれた女性たちは、その暴力が届く女性たちのなかにいる。それを偽善と呼ぶのは、簡単な答えであり、役に立たない答えである。より難しい問いは、憲法に実際に何ができるのかである。この文章の答えはこうだ。憲法は、何を請求できるか、誰が訴えを起こせるかを変える。夜のタクシー乗り場に誰が一人でいるかは変えない。

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