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『マルガリータで乾杯を!』、手を借りることは、望むことの反対ではない
デリーの大学に通うライラには脳性まひがある。悪態をつき、詞を書き、歌い手に恋をし、やがてひとりの女性を愛する。彼女を愛する人たちは、彼女に何が必要かをよく知っている。この映画が描くのは、彼女が何を望んでいるかのほうだ。物語は浴室で向きを変える。母に入浴を手伝ってもらう側だった娘が、今度は母の入浴を手伝いながら、誰を愛しているのかを告げるのだ。
デリーの大学のバンドが、音楽コンテストで優勝する。詞を書いたのはライラ・カプール。脳性まひがあり、車いすを使い、バンドのボーカルに恋をしている。表彰のとき、審査員のひとりが会場に向かって勝因を説明する。勝ったのは詞のおかげで、その詞がすばらしいのは「障害のある」女の子が書いたからだ、と。ライラは中指を立てて応える。
笑える場面で、品のない場面でもある。そしてこの映画のすべてが、この身ぶりひとつに入っている。審査員は、ほめたつもりだったのだろう。そこが問題なのだ。ほめられたのは詞ではない。審査員があらかじめ用意していた、彼女の体についての物語のほうだ。障害のある若い女性の仕事は、障害があるからこそ胸を打つ、という物語。中指は、その物語の役を振られることへの拒絶である。
この中指を覚えておいてほしい。映画のもうひとつの大切な身ぶりは、浴室で起きる。インドの批評家バラドワージ・ランガンの記述によれば、はじめのほうで、ライラは母に入浴を手伝ってもらいながら、好きな男の子ができたと告げる。何か月もあとのデリーの夏、体調を崩しているのは母のほうで、入浴を手伝うのはライラのほうだ。同じ浴室で、役割が入れ替わったまま、ライラは母に、自分は両性愛者で、ひとりの女性を愛していると打ち明ける。
このふたつの入浴のあいだに、映画は言うべきことのほとんどを置いている。ライラのまわりの人たちのほとんどは、まず、彼女に何が必要かを通して彼女と出会う。入浴を手伝う手、大学への送り迎え、授業で割り当てられる手助け役、審査員の善意。映画が描くのは、彼女が何を望んでいるかのほうだ。恋、性、男の人、女の人、自分だけの夜。そして、彼女に手を貸す人たちに、その彼女とも出会ってもらうことだ。この文章の読みは、一行で言える。人の手を借りることは、望むことの反対ではない。映画はそのふたつをひとつの体に住まわせ、どちらか一方で、もう一方を片づけてしまうことを許さない。
最後の場面は、それをグラス一杯で言ってのける。マルガリータは大人の楽しみで、彼女はそれをストローで飲む。ストローは飲み方で、マルガリータは飲みたいものだ。
この映画について、そして結末にふれる前に
『マルガリータで乾杯を!』は二〇一四年のインド映画で、監督はショナリ・ボース。脚本は、共同監督としても名を連ねるニレーシュ・マニヤルとの共作である。ライラをカルキ・ケクラン、母シュバンギニをレーバティ、ハヌムをサヤーニ・グプタ、ジャレッドをウィリアム・モーズリーが演じる。ライラは母を、マラーティー語で母を意味する「アーイー」と呼ぶ。二〇一四年九月にトロント国際映画祭で初上映され、長編一作目か二作目の監督によるアジア映画に贈られるネットパック賞を受けた。インドでは二〇一五年四月に、日本では同じ年の十月に公開され、ケクランの演技は二〇一六年、インドの国家映画賞で審査員特別賞を受けている。
始まりは、ある誕生日だった。ボースによれば、障害者の権利を訴える活動家で、自身も脳性まひのある従姉のマリニ・チブに、誕生日に何が欲しいかと尋ねたところ、チブは大きな声ではっきりと、セックスがしたい、と答えたという。チブはライラそのものではない。一本の指でタイプして自伝を書き上げた、ひとりの書き手である。役づくりのために彼女と時間を過ごしたケクランは、チブの快活さとユーモアとお酒好きが役に注ぎこまれ、最後のひとつは題名にまでなった、と語っている。ボースは自分自身も書きこんだ。初期の脚本では、ライラは異性愛者だったという。両性愛者であるボースが自分の経験を書き入れるにつれて、ライラも変わっていった。
先に断っておく。この文章は、ライラの母の死と最後の場面を含めて、映画の全体にふれる。ライラの障害は、解決すべき問題としてではなく、彼女の人生の一部として扱う。映画がそうしているからだ。彼女の体については、映画が示す以上のことは書かない。脳性まひがあり、車いすを使っている。それだけである。彼女の性は大人のものであり、大人のものとして、描写には立ち入らずに論じる。
必要なものは、誰もが知っている
デリーでのライラの暮らしは満ちていて、映画がこだわるとおり、ごく当たり前のものだ。デリー大学で学び、「トライブ」というバンドの詞を書き、悪態をつき、チェスを指し、友だちと笑い、母とけんかをする。アーイーは娘の入浴を手伝い、一緒に歌う。別の批評家の要約によれば、毎日娘を大学まで送り、この子に恋は訪れるのだろうかと気をもんでもいる。自身も車いすを使う友人のドゥルヴは、ライラを想っている。ライラが想っているのは、バンドのボーカルだ。
彼女のまわりの人たちが、何に通じているかを見てほしい。母は、彼女に必要なことに通じている。入浴、大学への送り迎え、手助けの要る体の、毎日の段取り。審査員が通じているのは、彼女についての物語のほうだ。彼女が何を望んでいるかに通じている人は、まわりにほとんどいない。映画の前半は、その隙間についての、ささやかな授業になっている。
ボーカルの青年に振られて、ライラは同じ年ごろの誰もがそうなるように、まるごと傷つく。ありふれた失恋であり、映画はそれを、ありふれた失恋のままにしておく。一方で、ドゥルヴは彼女を想い、彼女はその想いに応えない。車いすの若い女性は、車いすの若い男性に想われたらありがたく受けるべきだ、という勘定を、映画はここで静かに退けている。ライラの欲望は、人を体で振り分けない。どちらの方向にもだ。ドゥルヴの気持ちは本物で、断る言葉は彼女のものである。
そして表彰と、中指。二〇一二年、オーストラリアの障害者運動家ステラ・ヤングは、あの審査員がしているようなことに、あけすけな名前を与えた。感動ポルノ。障害のある人を、その境遇ゆえに、ほかの人たちの感動の材料にすることだ。この言葉はわざと無作法で、ライラの身ぶりもそうだ。どちらも同じことを言っている。感動の対象にされることもまた、見てもらえないことのひとつのかたちなのだ、と。
助けと欲望が、同じ手のなかにある
奨学金を得て、ライラはニューヨーク大学で一学期を過ごすことになる。夫のためらいをよそに母が付き添い、グリニッジ・ヴィレッジに住まいを見つけて、娘の暮らしを整える。創作の授業では、イギリス人の同級生ジャレッドが彼女の手助け役を任され、ライラは彼に惹かれていく。
映画は、手助けを文字どおりに見せる。これもランガンの記述によれば、ある場面でジャレッドはライラを抱えてトイレに入り、いったん外へ出る。彼女が用を済ませると戻ってきて、服を整え、便座から抱き上げる。憐れみにも、気まずさにも転びうる場面だ。ランガンがそこに見たのは、欲望だった。ライラが何に心を動かされているのかを、映画は観客にはっきり見せている、と彼は書いている。
このふたつをひとつの場面に置くところに、この映画のいちばん精密な仕事がある。体にふれる手助けは誘いではないし、誰かを求めることは感謝ではない。ここでは、どちらの向きにも間違えやすい。手助けの要る体は何かを望んだりしない、と決めつけること。あるいは、手を貸してくれる人を求める女性は、手助けに惑わされているだけだ、と決めつけること。ライラはそのどちらでもない。手助けは手助けで、欲望は彼女のものだ。映画はふたつを分けておきながら、それぞれが別の場所に住んでいるふりはしない。彼女の暮らしでは、同じ場所に住んでいるからだ。
同意の問題は、この映画では寝室よりずっと手前で始まっている。毎日手助けを必要とする女性は、たいていの人より頻繁に、たいていの人より多くの人に、欲望とは関係のない理由で体をふれられる。そのせいで、まわりの人たちは、彼女の体が、彼女自身の意思で誰かに差し出すものでもあることを、かえって忘れやすくなるのかもしれない。映画は、それを忘れない。あのトイレでジャレッドがしたことは、彼女に対する何の権利も彼に与えないし、彼女がやがて彼に抱く気持ちは、お礼ではない。
互いを気づかう、ふたりの女性
抗議デモの場で、ライラはハヌムと出会う。パキスタンとバングラデシュにルーツを持つ活動家で、目が見えず、自立心が強い。ふたりは恋に落ち、互いを支え合い、やがてライラはハヌムの部屋で暮らし始める。
これがライラにとってどれほど新しいことかは、読み過ごされやすい。ここまで、ライラの暮らしのなかの助けは、一方向に流れていた。彼女のほうへ。ハヌムとのあいだで、映画のなかで初めて、助けが両方向に流れる。どちらにも必要なものがあり、どちらにも差し出せるものがある、ふたりの女性のあいだで。映画はそれを教訓にしない。子どものころの彼女を知る人がひとりもいない街で、ふたりをただ恋人どうしでいさせる。
家から遠く離れて、彼女は自分が女性を愛せることを知る。その発見は、この種の発見がたいていそうであるように、順番どおりにはやってこず、名前が用意される前に届く。ランガンは、ケクランが演じようのない感情を演じている、と書いた。自分について知るべきことはすべて知っていると思っていたのに、自分を定義し直さなければならなくなる、その感覚を。
別の国で二つ目の暮らしを築いたことのある人なら、この先の成り行きに覚えがあるはずだ。外国で、故郷の家族がまだ会ったことのない自分ができあがっていく。そして遅かれ早かれ、ふたつの暮らしをひとつの家に入れなければならない夏がやってくる。家族の食卓に座る恋人。途中で切り替わる言葉。親に紹介されたことのない自分が、親の台所に立っている。この映画では、何も知らない母のほうが招待状を出す。夏休みをデリーの家で一緒に過ごさないか、とハヌムを招くのだ。
間違える自由
その夏の前に、ライラは、映画が言い訳をしてやらないことをする。自分が何者なのか決めきれないまま、一度だけジャレッドと寝る。すぐに悔やみ、ハヌムには黙っている。その夏のデリーで、彼女はハヌムに打ち明ける。裏切られたと感じたハヌムは別れを告げ、ニューヨークへ戻っていく。
ライラを憐れむ映画には、これは書けなかっただろう。憐れみには聖人が要る。耐えてきたものによって善い人になった誰かが要る。ふたりの人を求めて、それをうまく扱えない若い女性の居場所は、憐れみのなかにはない。この映画は、その居場所をつくる。彼女に大人のありふれた仕方で間違えさせ、その間違いに、それ相応の代償を払わせる。
障害者運動には、その底にある原則を言い表す言葉がある。一九七二年、アメリカの著述家ロバート・パースキーはそれを「危険を冒す尊厳」と呼んだ。ほどほどの危険を引き受けることは人の尊厳の一部であり、表向きは親切に見える過保護が、その尊厳を奪うことがある、という考え方だ。この映画でいちばん危険なのは恋であり、映画はライラに、その危険を自分の手で引き受けさせる。愛する人を傷つけてしまう危険も含めて。
傷は本物で、そこは正確に言っておきたい。映画はジャレッドとの一夜を、ライラが選び、そして悔やんだこととして描き、そのふたつを混ぜない。悔やむことは、選ばなかったことと同じではない。ハヌムをいちばん傷つけたのは、もしかすると、そのあとの沈黙かもしれない。秘密は、ハヌム自身の関係について、ハヌムのいないところで決定を下してしまった。恋人どうしであるとは、いくつかの選択をふたりで分け持つことで、そのひとつが彼女から取り上げられたのだ。
ランガンは別の読みも示している。男と寝ることは、自分が「普通」であることを世の中に、少なくとも自分自身に証明するやり方だったのかもしれない、と。ありうる読みで、映画はその余地も残している。この文章は、もっと平らな読みをとる。彼女はまだ自分が何者なのかを知らず、それを高くつくやり方で知った。人はよくそうする。この展開には重い反論があり、それはあとで取り上げる。
浴室で、ケアの向きが入れ替わる
話を、その夏のはじめに戻そう。
アーイーは体調を崩している。かつて自分が娘にしてきたように、今度は娘に入浴を手伝ってもらう。これまでケアが一方向にしか流れてこなかった部屋。かつて好きな男の子ができたと告げた部屋。そこでライラは母に、自分は両性愛者で、ハヌムを愛していると告げる。
なぜ、そこなのか。映画は言わない。どんな答えも読みにすぎない。この文章の読みはこうだ。浴室は、ふたりのあいだで何ひとつ隠されたことのない、ただひとつの部屋である。アーイーは、何年にもわたる毎日の世話を通して、娘の体を誰よりもよく知っている。知らないのは娘の欲望で、それは体が誰かに教えられるものではない。言葉にされなければならない。この図書室は「親密さとは、近さではなく、正確に知られていること。」という一篇で、ふたりの人間は、住まいも日課も体の世話も分け合いながら、なお正確には知り合っていないことがありうる、と論じた。そして近さとちがって、正確さは口にされなければ確かめようがない、と。あの浴室は、そのことを映画が絵にしたものだ。人がこれ以上近づけないほど近く、それでも一文だけ足りない。
理由はもうひとつあり、それは入れ替わりそのものにかかわる。このときばかりは、タオルを持っているのはライラのほうだ。彼女は手を貸す側から、大人として大人に語りかけ、母はそれを、いちばん無防備な姿で聞く。体調を崩し、入浴の途中で、娘の手に身をあずけたまま。
アーイーは戸惑い、怒る。けれど、ライラの前では崩れない。崩れるのはあとで、鏡の前に立ったときだ。ランガンはそれを疲れ果てた姿として読んだし、そうなのかもしれない。けれど、自分の反応のいちばんひどいところを、あと一時間だけ娘から遠ざけておこうとする母の姿なのかもしれない。それもまた、ケアのひとつのかたちだ。いずれにしても、彼女が受けとめるよう求められたものの大きさには、敬意を払っておきたい。彼女はこの娘の必要を中心に、暮らしを組み立ててきた。そしていま、娘をいちばんよく知っているはずの部屋で、自分がまったく知らなかった人生について聞かされたのだ。映画は彼女の怒りを罰しない。鏡を与える。鏡のなかで、彼女は母親であるだけでなく、ひとりの人間でもある。
わかることと、受け入れること
やがて、病が戻ってくる。以前に治療したシュバンギニの大腸がんが、進行した状態で再発する。ライラは病院で母に付き添い、残された時間のなかで、ふたりは互いのもとへ戻っていく。母は亡くなる。葬儀でライラは、どれほど母を愛していたかを語る。自分を本当にわかってくれたのは、母だけだった、と。
この一言に、映画のいちばん難しい真実がある。ライラの告白を受け入れられなかった人が、ライラをいちばんよくわかっていた人でもあった。どちらも本当で、映画はどちらかを選べとは言わない。わかるとは、一生ぶんの注意が積み上げていくものだ。どう眠るのか、何に耐えられるのか、いつ無理をしているのか。受け入れるとは、それとは別のことだ。自分が思い描いていなかった人として、相手をそのまま在らせること。シュバンギニは、ライラが生まれてからずっと、前者を持っていた。映画がふたりに与えるのは、時間である。その時間について、この文章は、映画が語る以上のことを言わない。
このころには、ケアの向きはすっかり入れ替わっている。入浴を手伝われてきた娘が母を看病し、すべてを切り盛りしてきた母が、世話をされる側になる。この図書室の「『秘密の森の、その向こう』と、母と対等に出会うこと」は、娘がほとんど手を届かせることのできないものについて書いた。まだ何ひとつ決まっていなかった人としての、母である。あの映画では、そこへ至る道は、祖母の家の裏の森へと続いていた。『マルガリータで乾杯を!』は、同じ対等さへの、はるかにつらい道を見つける。その道は、病棟を通っていく。
障害のある子を育てる家族の多くは、ある問いを胸に抱えている。自分たちがいなくなったあと、この子はどうなるのか。日本ではこの問いに「親亡き後」という名前があり、厚生労働省の文書にまで出てくる。映画はこの問いに答えない。ライラには、まだ父がいる。それでも映画は、彼女の入浴を手伝ってきた親がいなくなった、その翌朝を見せる。
ストローで飲むマルガリータ
母の死のあとに、台所の短い場面がある。ランガンの記述では、ライラはフライパンの上で卵を割り、殻とこぼれた黄身を片づける。映画館でこれを観た彼は、そこには大げさな動きがひとつもない、と書いた。隣の席の女性が、ヒンディー語で「かわいそうに」を意味する「ベチャーリー」をつぶやき、ランガンは、ライラはまったくそんな人ではないと言ってやりたくなったという。母がもういないいま、あの場面はほとんど、彼女の自立を祝う場面なのだ、と。
暗がりのそのつぶやきには、少し立ち止まる価値がある。この映画がまるごと拒むためにつくられている反射が、それがもっともふさわしくない瞬間にやってきているからだ。母を亡くした若い女性が、母のいなくなった家で、自分の朝食をつくっている。それは悲しみであり、有能さであり、日常である。そこにふさわしい言葉は「かわいそうに」ではない。
そして、最後の場面。ライラはデートに出かける。相手は自分自身だ。彼女は、ストローでマルガリータを飲む。
これを、笑顔でやり過ごす孤独として読むのはたやすい。けれどその読みは、映画が百分をかけて組み立ててきたものを取りこぼす。彼女はこれまでずっと人を必要としてきたし、これからも必要とする。結末は、そうでないふりをまったくしていない。あのテーブルで、彼女は自分自身と過ごすことを選んでいる。それは、誰もいらないということとは別のことだ。「ひとりでいられることと、誰もいらないことは同じではない。」という一篇が、この図書室にはある。最後の場面は、その題の隣に置いてもいい。ストローは、この絵のなかの妥協ではない。彼女がその一杯を飲める理由だ。この映画では、手立てとは、楽しみが彼女に届くための道筋であって、楽しみから外されたしるしではない。
原題は「ストローを添えたマルガリータ」とでも訳せる言葉で、日本では『マルガリータで乾杯を!』という題になった。グラスは残り、ストローは消えた。公開時の題名は宣伝のための判断であって、そこに誰かの意図を読みこむべきではない。それでも、明るい題名がどの言葉なら手放せると考えたのかには、気づいておいていい。
同じ問いを、ふたつの国で
性をもつ大人として扱われるのは、誰なのか。この映画の問いには、映画が生まれた国にも、この文章が読まれている国にも、それぞれの歴史がある。並べてみるのは、勝ち負けの表をつくるためではない。どちらの国にも、他人についてのこの問いに、本人に尋ねないまま答えてきた記録がある。
まず、インド。この映画がインドで公開された二〇一五年四月、その一年四か月前に、最高裁判所は刑法三七七条を復活させていた。植民地時代にさかのぼるこの条文のもとで、成人どうしの合意にもとづく同性間の性行為は犯罪とされていた。最高裁がそれを違憲と判断するのは、二〇一八年九月のことである。さかのぼって一九九八年には、ディーパ・メータ監督の『炎の二人』が、義理の姉妹ふたりの恋を描いて公開され、数週間後に映画館が襲撃された。『炎の二人』の家にも、障害のある女性がいる。脳卒中のあと、体を動かすことも話すこともできなくなった義母のビージーだ。彼女はすべてを見ていて、何もできない。あの映画では、障害のある体は、ほかの女性たちの欲望の、声を持たない証人だった。この映画では、その体こそが望んでいる。
次に、日本。この映画は二〇一五年、まずあいち国際女性映画祭で上映され、十月に劇場公開された。紹介の言葉は、明るく乗り越えていく物語の語彙で書かれていた。ある映画情報サイトは「障害を持ちながらも前向きに生きる少女の奮闘と成長」と書き、映画祭の紹介文は、生まれつきの障害を「ものともしない前向きな明るさ」をたたえた。大学生の彼女が、少女と呼ばれている。宣伝の文章は切符を売るために書かれるもので、紹介文の一句は国の意見ではない。けれどそれは、障害のあるヒロインがいちばん売りやすい額縁であり、この映画が百分をかけて拒んでいる額縁でもある。
翌年の夏、その額縁には全国放送で応答があった。二〇一六年八月、日本放送協会の『バリバラ』は、日本テレビ系の長寿番組『24時間テレビ』と同じ時間帯に、ステラ・ヤングの言葉を借りて「感動ポルノ」を検証する生放送を行い、出演者たちはあえて黄色いシャツを着た。障害のある出演者たちとともにつくられたこの番組は、テレビが長く口にしてこなかった障害者の性についても率直に語り、二〇二二年には、女性障害者の体と性の悩みを取り上げている。
もっと重い歴史もある。一九四八年から一九九六年まで、日本には、障害のある人や特定の病気のある人に不妊手術を行うことを認める法律があり、多くの人がそれを強いられた。二〇二四年七月、最高裁判所はその規定を憲法違反と判断した。二〇二五年一月に施行された補償の法律は、国会と政府の謝罪から始まっている。半世紀近くのあいだ、国は、おおぜいの人について映画の問いに勝手に答え、本人たちには尋ねなかったのだ。怒りを向けるべきなのはここであり、その怒りは法律に向けられるもので、誰かの家族に向けられるものではない。
いちばん近い日本映画は、二〇二〇年に公開された『37セカンズ』だろう。ヒロインのユマには脳性まひがあり、母はいまも彼女の入浴を手伝い、何を着てよいかまで決めている。ユマは成人向けの漫画を描いて自立したいと願うが、経験したことのないものは描けないと言われてしまう。この映画は二〇一九年のベルリン国際映画祭パノラマ部門で観客賞を受け、主演の佳山明は、自身にも脳性まひがある。ふたつの国のふたつの映画が、同じ部屋を見つけた。母と、大人になった娘と、浴室。どちらも国の肖像ではないし、どちらの国が上ということもない。
映画への反論、そしてこの読みへの反論
反論はいくつもあり、少なくともふたつは、この映画を好きな人をこそ悩ませるはずだ。
第一に、配役。カルキ・ケクランには障害がない。六か月かけて準備し、チブや、チブの理学療法士、言語聴覚士と時間を過ごし、動きと話し方をワークショップで磨いた。技量は疑うまでもない。反論はもっと単純だ。ライラのような役は、障害のある俳優が、映画の言うとおりの丸ごとひとりの人間として見られうる、数少ない役のひとつであり、それは障害のない俳優に渡った。表現の多様性の観点から映画を批評するサイトで、マディ・レアマンははっきり書いている。登場人物に障害があるのだから、障害のある俳優が演じるべきだった、と。ケクランはまた、チブの障害はライラより重く、言葉はもっと聞き取りにくく、動ける範囲も狭いとも語っている。言いかえれば、この映画は、障害を、もとになった人生より軽くしてもいる。『37セカンズ』は、別のやり方がありえたことを示している。この反論に、この文章は答えを持たないし、持っているふりもしない。
第二に、ジャレッドとの一夜。レアマンは、それを人物像にそぐわないうえ、「浮気する両性愛者」という紋切り型にそのまま落ちている、と書いた。映画がライラに与えるただひとつの過ちは、両性愛の女性に対して偏見がもともと予期している過ちだ。いずれ裏切る、それも男のほうへ、という。危険を冒す尊厳は立派な原則だが、物語はヒロインがどの危険を冒すかを選ぶ。この物語は、紋切り型を選んだ。さきの読みは、狭めたかたちでしか生き残らない。映画は、代償をともなう仕方でライラに間違えさせることで、彼女に敬意を払っている。たとえ、その間違いの選び方がまずかったとしても。
第三に、がん。物語の大きな要素になるのは終盤になってからで、レアマンは、それがいくぶん場違いに感じられると書いた。母と娘の言い争いを閉じる死は、仕掛けに見えることがある。ふたりがまだ言葉で果たしていなかった和解を、病が肩代わりしてしまうのだ。病院の場面のやさしさは本物である。都合のよさもまた、本物である。
第四に、この文章が寄りかかっている結末。この映画を高く評価したランガンでさえ、最後の場面を「象徴的にすぎる」「題名と同じくらい甘ったるい」と書き、映画がほかの場面では避けている、人間の精神の勝利という類いの教訓に危うく近づいていると見た。審査員の場面についても、声高すぎると書いている。女性とカクテルとストロー。それはまさに、ポスターが選びそうな絵だ。狭い弁護をするなら、あれは小さく私的な絵であり、何かに打ち勝った場面ではない。それでも、反論は残る。
第五に、恵まれた条件。ライラにはニューヨーク行きの奨学金があり、一学期のあいだ家を離れて付き添える母がいる。ランガンが指摘するとおり、この映画は、インドで障害とともに生きるとはどういうことかを、ほとんど語らない。映っているのは、ひとつの恵まれた家庭の内側だけだ。映画はその問いを、恵まれた場所から投げかけている。読者には、そのことに気づく権利がある。
第六に、この映画のいちばんやさしいところは、いちばん現実から遠いところかもしれない。ライラを求める人は三人いる。ドゥルヴ、ジャレッド、ハヌム。この図書室の「『The Right to Sex』と、欲望に権利はあるのかという難しい問い」は、それがなぜ問題になるのかを説いている。誰が求められるかには型があり、障害もその型をつくるもののひとつだ。そして、その型をどれほど検討しても、誰かが誰かに対する権利を得ることはない。現実には、問いは、障害のある女性が望むかどうかより、望み返されるかどうかにあるのかもしれない。どんな映画も、どんな議論も、誰かに誰かを求めさせることはできない。それは誰にとっても同じだ。ただ、誰にとっても同じように楽なわけではない。映画の気前のよさは、フィクションの特権である。
最後に、この図書室自身に向けられる反論。この家は私的な同伴を売っている。女性の望みには誰の許可も要らない、と結論する文章は、この家にとって都合のいい文章だ。その分を差し引いて読んでほしい。映画そのものは、誰かにお金を払ってそばにいてもらう場面では終わらない。最後のデートを、彼女はひとりで過ごす。
この図書室が受けとるもの
障害は、ここで脇に置いてよいものではない。障害はすべての場面にある。浴室にも、トイレにも、ストローにも。映画が解体するのは、必要を中心に組まれた人生には望みの入る余地がない、という思いこみであり、誰かを愛する人たちのあいだにある、もっと静かな思いこみだ。彼女に何が必要かを知っていることは、彼女を知っていることと同じだ、という思いこみである。
家族が必要を中心に暮らしを組み立てるのには、ちゃんとした理由がある。必要は切実で、毎日やってくる。それに応えそこなえば、望みに応えそこなうのとはちがう結果が待っている。何年も娘の入浴を手伝ってきた母には、娘を知っていると信じる資格がある。シュバンギニは実際、娘を知っていた。一文だけ足りなかったのであり、その一文は、ライラからしか来ようがなかった。
だから一度だけ、あなたに向けて書く。もしあなたのいちばん近くにいる人たちが、あなたに必要なものを、薬のことも、階段のことも、調子の悪い日のことも、お茶の好みまでも、誰よりもよく知っていて、それでもあなたが何を望んでいるかは一度も聞かされたことがないのなら、それは彼らの愛が足りなかったからでも、あなたが臆病だったからでもない。まだ誰も場所をあけていない一文がある、というだけのことだ。手を貸してくれる人の誰も思い描いていなかったものを、あなたは望んでいい。そして、もしあなたが長いあいだ手を貸してきた側なら、彼女が思いもよらないことを告げた日は、あなたが彼女を知らなくなった日ではない。まだ知らなかった彼女を、知りはじめる日なのかもしれない。
手もとに置いておく問い
あなたに何が必要かをいちばんよく知っているのは、誰だろう。その人は、あなたが何を望んでいるかを知っているだろうか。
ほめられたことで、かえって見てもらえなかったと感じたのは、いつだっただろう。
あなたの暮らしに、いつも自分が助けられる側、あるいはいつも助ける側になる部屋はあるだろうか。その向きが入れ替わったら、そこでどんな言葉が口にされるだろう。
自分自身とデートをするとしたら、それはどんな夜になるだろう。そして、それに出かけるには、何が必要だろう。
ほかの章から読む
さらに深く、資料室で
この問いから、次へ
もう少し静かな、次の一歩
読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。