花と蛇
Flower and Snake (1974)
ストーリー
結末まで書いています。
団鬼六原作の第1作。谷ナオミをSM映画の女王にした。
三十歳の片桐誠は、母の美代と暮らしている。美代は終戦直後、アメリカ兵相手に体を売って息子を育て、いまは自宅で大人のおもちゃの店と緊縛写真の商売を営んでいる。幼いころ、母を抱いていた黒人兵を拳銃で撃ち殺した、と誠は信じている。それ以来、彼は不能になり、縄で縛られた女の写真を眺めて自分を慰めるだけだった。
誠が勤める会社の社長・遠山千造も同じ嗜好を持つが、若い後妻の静子は、縛られることはおろか入浴をのぞかれることさえ拒む。誠母子のことを調べ上げていた千造は彼を自宅に呼び、妻をさらって「調教」し、夫の望みに従う女にしてくれと命じる。誠は薬で眠らされた静子を自分の部屋に運び、ベッドに縛りつける。目を覚まして抗議した静子は、それが夫の差し金だと知って呆然とする。母にけしかけられ、戸口で母が聞き耳を立てるなか、誠は静子を犯す。不能は消えていた。
誠は千造に報告を送りながらも静子を返さず、しだいに彼女に惹かれていく。留守中に母と店の者たちが静子を責めていると知ると、手を出すなと怒鳴りつける。嫉妬した美代は、死んだ兵士に似た男を使って芝居を打ち、誠はふたたび不能になる。だが静子が観たいと言った映画をきっかけに、誠はあの日のことをはっきりと思い出す。撃ったのは母で、母はその罪を息子に負わせていたのだった。誠は母と決別し、静子と結婚したいと告げる。
妻を連れ戻しに来た千造のもとへ、静子は自ら寄り添う。私はこの人のもの、でもあなたも一緒に来ればいい、と誠に言う。誠は夫婦とともに車に乗り、美代は泣きながらその後を追う。遠山の家で三人は交わる。男なんて汚らわしい、奥様をあんなふうに、とこぼす女中のハルに、静子は花の香りをかぎながら微笑んで言う。男なんてかわいいものね。
主な出演
谷ナオミ遠山静子役
社長の若い後妻。夫の嗜好を拒んだために、夫の手で部下に誘拐され「調教」される。
遠山静子の物語
静子は、夫の千造に縛られることも、入浴をのぞかれることも拒んでいる。夫に薬を盛られて眠り、目を覚ますと誠の部屋のベッドに縛りつけられていた。それが夫の差し金だと、彼女は知らされる。母親にけしかけられた誠に、戸口で母親が聞き耳を立てるなかで犯される。誠の留守には母親と店の者たちに責めさいなまれるが、誠がそれをやめさせる。守ってくれるかと誠に尋ね、縄をほどかれて手洗いに立っても、戻ってくる。連れ戻しに来た千造のもとへは、自分から寄り添う。結婚したいという誠に、私はこの人のもの、でもあなたも一緒に来ればいい、と言う。遠山の家で三人が交わったあと、男なんて汚らわしいとこぼす女中に、静子は花の香りをかいで微笑む。男なんてかわいいものね。
石津康彦片桐誠役
幼いころの殺人の記憶に縛られ、不能になった三十歳の会社員。社長の命令を引き受ける。
片桐誠の物語
誠は母の美代と暮らし、母の店の者たちからも子ども扱いされている。机の中の緊縛写真を見つけた社長の千造は、妻の静子をさらって「調教」しろと彼に命じる。ためらったすえに誠は従う。母にけしかけられ、戸口で母が聞き耳を立てるなか、静子を犯し、不能は消える。千造には報告を送り続けながら、静子に惹かれていき、店の者たちに手を出すなと怒鳴り、一生一緒にいたいと告げる。嫉妬した美代が死んだ兵士に似た男を使って芝居を打つと、不能はふたたび戻る。だが静子と観た映画をきっかけに、撃ったのは母だったとはっきり思い出す。妻を連れ戻しに来た千造のもとへ静子が戻り、結婚を断られると、誠は夫婦とともに車に乗り、泣きながら追ってくる母を置いていく。
坂本長利遠山千造役
年配の社長。妻を自分に従わせるため、部下に彼女をさらわせる。
藤ひろ子片桐美代役
誠の母。自宅で大人のおもちゃの店を営み、どんな手を使ってでも息子を手元に置こうとする。
片桐美代の物語
美代は終戦直後、アメリカ兵相手に体を売って息子の誠を育て、いまは自宅で大人のおもちゃの店と緊縛写真の商売を営んでいる。誠が社長の妻・静子を薬で眠らせて連れ帰ると、美代は喜んで、静子を犯せと彼をけしかけ、戸口で聞き耳を立てる。息子の留守には、店の者たちと静子を責めさいなむ。誠が静子に惹かれ、自分をばばあと罵ると、誠が殺したと思い込んでいる兵士に似た男を雇って芝居を打ち、息子をふたたび不能にする。だが誠は、母が長年隠してきたことを思い出す。撃ったのは美代で、その罪を息子に負わせていたのだ。誠は母と決別する。静子と夫とともに車で去る息子を、美代は泣きながら追いかける。
この作品が問いかけるもの
『花と蛇』は、サディズムとマゾヒズムを正面から扱った最初の日活ロマンポルノであり、同じ年に同じ主演ふたりで撮られた『生贄夫人』とともに、1970年代の日活を支えた縄と責めの路線の起点となった。その中心にあるのは、このジャンルを支える空想だ。さらわれ、縛られ、犯された女が、やがてそれを望むようになるという空想。映画はそれを疑うというより、その空想が誰の役に立っているのかをかき乱す。静子を差し出すのは夫であり、彼女を奪う男は母の嘘に人生を損なわれてきた男であり、最後には、誰もが利用してきた女が、じつは男たちを手玉に取っていたと微笑む。原作者の団鬼六はこの映画化に不満だったという。残るのは、強いられた物語がいかにたやすく女の自由の物語として語られうるか、そして画面にあるのがどちらなのかを見分けることの難しさだ。