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『ヴァイブレータ』と、あとから来た静けさ
頭の中の声を止められない書き手が、雪の夜、コンビニから若いトラック運転手のあとを追う。見知らぬ男の体に癒される女の物語として語られることの多い映画だが、映画のなかの出来事の順序は、別のことを語っている。最初の夜がくれた数時間は長くは続かず、静けさは、あとから、もっと地味なかたちでやってくる。
雪の夜の東京。コンビニのワイン棚の前で、ひとりの女性が一本を選べずにいる。選ぶのが難しいわけではない。頭の中がうるさいのだ。いくつもの声が重なりあい、口をはさみ、あれこれ指図する。その下で、自分が何を欲しいのかが聞こえない。携帯電話が震えても、彼女は出ない。瓶は棚に並んだままだ。
早川玲、三十一歳、フリーのルポライター。このところ眠れていない。酒を飲み、食べては吐く。そこへ金髪の若い男が入ってくる。数分後、彼女は雪のなかを、男が運転する長距離トラックのほうへ、そのあとを追っている。
ここから先は、最後の場面を含めて、映画の全体に触れる。
廣木隆一監督が赤坂真理の小説を映画にした『ヴァイブレータ』は、たいていこんなふうに語られる。壊れかけた女が、見知らぬ男の体と数日の旅によって癒されていく物語だ、と。作品紹介にも、そう書かれていることが多い。けれど映画そのものは、紹介文よりも正確だ。その正確さは、出来事の順序のなかにある。
運転席の後ろの寝台で過ごした最初の夜は、彼女に数時間を与える。けれどそれは続かない。夜明けには彼女は路上で吐き、翌日には、トラックの無線を通して頭の中の声が戻ってくる。映画の最後にある静けさは、そのあとで、ひと晩よりずっと地味なかたちでやってくる。叩かれても立ち去らず、そのあと何も求めずに彼女を風呂に入れる男。そば屋で打ち明けられる、ふたつの嘘。そして、手渡されるハンドル。
最後に彼女が店へ持ち帰るのは、男ではない。彼から借りた会話の終わらせ方と、一本のワインを迷わずに選べるということだ。
この映画について、そして読み進める前に
『ヴァイブレータ』は二〇〇三年の日本映画で、監督は廣木隆一、脚本は荒井晴彦。原作となった赤坂真理の小説は、文芸誌『群像』の一九九八年十二月号に発表され、翌年一月に講談社から単行本になり、芥川賞の候補にもなった。玲を寺島しのぶが、長距離トラック運転手の岡部希寿を大森南朋が演じる。上映時間は九十五分。デジタルで撮影され、二〇〇三年十二月六日に公開された。
公開の前から、この映画は注目を集めていた。その年の十一月には東京国際映画祭のコンペティション部門で上映され、寺島しのぶはもうひとりの俳優とともに優秀主演女優賞を受けた。のちのヨコハマ映画祭では、その年の日本映画ベストテンの第一位に選ばれ、廣木、荒井、大森もそれぞれ賞を受けている。寺島はこの秋『赤目四十八瀧心中未遂』でも主演しており、その年の主演女優賞のいくつかは、二本の題名を並べて彼女に贈られた。
廣木も荒井も、低予算のピンク映画や、一九七〇年代から八〇年代にかけての撮影所の成人映画の現場から仕事を始めた人である。この映画をめぐる議論のいくつかはそこから始まるので、後でもう一度触れる。
読み進める前に、ひとこと断っておきたい。この文章は、酒を飲み、食べては吐き、一度は自分の頭を叩く女性のことを、はっきりと、ただし細部には立ち入らずに書く。玲が聞いている声に、病名はつけない。映画自身がつけていないからであり、名前をつけることは、彼女自身の声をかき消す声を、もうひとつ増やすことにしかならないからだ。
止まらない雑音
映画は、声の正体を説明しない。それが何なのかを観客に決めさせようともしない。ただ、聞かせる。玲の頭の中で起きていることの一部は、つぶやきとして音で流れてくる。どのワインがいいか、どんなダイエットか、どんな服か。別の一部は、ショットとショットのあいだに文字として差しはさまれる。彼女の思いが、活字になって画面に置かれる。カルテを読まされているというより、ラジオを何台もつけっぱなしにした部屋に立っている感じに近い。
そのつぶやきに耳をすますと、ただ奇妙なだけのものではないことがわかる。雑誌の見出しのように聞こえるところが少なくない。何を飲むか、何を食べるか、どう見えるか。それがどこから来るのか、映画は言わないし、この文章も推し量らない。それがそこにあり、止まらない。それで十分だ。
止まらないこと。困難はそれに尽きる。眠れない。飲む。食べては吐く。のちに旅の途中で、彼女は岡部に、吐くと安心して眠れるのだと話す。それは彼女の説明であり、この文章もそれを、彼女なりの理由として受けとる。理由は、解決と同じではない。その理由が何を奪っているのかを、映画は説明抜きで見せる。夜明けの路上で、そして翌日のガソリンスタンドで。
この文章が名前に慎重なのには、はっきりした理由がある。診断は批評の仕事ではないし、映画のなかの女性を診察することはできない。もうひとつ、映画自身がわかっているように見える理由もある。映画が見せるかぎり、玲を苦しめているのは、何を望むべきかを言いつづけて止まない声である。病名は、その声をもうひとつ増やすだけになる。映画が代わりに差し出すのは、ひとつの体と、ひと晩と、一本の道と、出来事の順序である。この文章が読むのは、その四つだ。
通路の手と、口にされた望み
ふたりのあいだの最初の接触は、男のほうからだ。店の通路で、彼の手が後ろから彼女の体をかすめる。軽く、そしてわざと。彼女が求めたものではない。それでも映画は、それを火花として扱う。玲のなかで何かが目を覚まし、驚くほどまっすぐな思いが浮かぶ。この人を食べたい。彼女は男を追って店を出る。
長いあいだ、彼女の空腹は自分の体に向けられてきた。ここでそれは、ほんのいっとき外へ、ひとりの人間へ向かう。そしてその欲望が彼女のものであることに、映画は率直だ。玲はトラックの助手席に乗りこみ、勧められた焼酎を飲む。人が怖いのだと話す。それから、触りたい、と必死につぶやく。岡部は彼女を運転席の後ろの寝台に誘い、ふたりはアイドリングするエンジンの振動のなかで肌を重ねる。
同意については、ここで正確に読んでおかなければならない。映画はひと晩のうちに二種類の接触を見せていて、あとのほうで前のほうを片づけてしまうのはたやすいからだ。通路での接触は求められていなかった。そのあと何が起きても、それがさかのぼって求められたものに変わることはない。そのうえで映画が見せているもの、そして評価してよいものは、助手席での求め方である。何を望むかを言葉にし、相手に向かって言うのは玲であり、岡部はそれに応える。二つ目の接触を一つ目と分けているのは、そこだ。孤独でも、怖さでも、酒でも、雪でも、空腹でもない。どれも場面のなかにあるが、それらは「はい」を取り巻く天気にすぎない。「はい」そのものは、彼女がつぶやいたあの一言である。
この場面には、「「触れられたい。でも、関係はいらない。」触れ合いを、恋愛の証明にしなくていい。」という文章が示した区別がよく当てはまる。触れられたいという気持ちは身体の欲求であって、いつも関係を求めているとはかぎらない。そして、ひとつのことへの「はい」は、次のことへの「はい」ではない。玲が求めたのは彼に触れることであり、未来ではない。彼女がその先を頼むのは翌朝、明るくなってからで、それは道連れにしてほしいという、別の頼みとしてである。
だからといって、見知らぬ男のトラックが安全な場所になるわけではない。雪の夜、知らない男の運転台についていく女性は、決まりごとのある部屋にいるわけではない。玲は、たまたま相手の男に恵まれたにすぎない。その運がどれほど薄いものかを、映画は知っている。一日もたたないうちに、男は自分がヤクザだったころの悪事を楽しげに話しはじめるのだから。この映画は何かを勧めてはいないし、この文章もそう読むつもりはない。
夜明けと、ふたりが語ること
夜明け、玲はトラックを降りて路上で吐く。それから戻ってきて、道連れにして、と頼む。岡部はそれを受け入れ、トラックは東京を出て新潟へ向かう。
この朝に、少し立ちどまりたい。癒しの物語が最初にほころぶのが、ここだからだ。その夜は、彼女に何かを与えた。映画もそれを認めている。体がパニック以外の何かを感じられた、数時間。けれどそれは続かなかった。それを感じていた体が、夜明けのアスファルトの上で中身を吐き出している。同じ体である。夜と朝のあいだで変わったのは、彼女の状態ではない。もう一度、頼んだということだ。暗がりで頼んだのは触れることだった。明るくなってから頼むのは、道である。二つは別の頼みであり、映画はそれを混ぜない。
道中、ふたりは話す。それぞれが自分について語ることも、注意して読みたい。岡部は、妻と子どもがいると言う。ストーカーにつきまとわれているとも言う。ヤクザだったころの悪事を面白おかしく話し、無線でほかの運転手としゃべったあとは、口笛を吹いて会話を締めくくる。玲は、酒のことと、食べては吐くことを打ち明ける。
男の話は、男の側の説明である。映画は、それを確かめる手立てを観客に与えない。この文章は、その話をもとに彼を裁かないし、その話で彼を魅力的に仕立てることもしない。見知らぬ女と寝る既婚の男は、人がとがめたがる人物像であり、手のやさしい元ヤクザは、人が憧れたがる人物像だ。どちらもありふれた型で、映画はそれを承知しているように見える。翌日、玲がその妻子を嘘だと言い、彼がうなずく場面を、映画は用意しているのだから。
それでも、運転台の会話がはっきり見せているものがある。玲は、前の晩に会ったばかりの男に、酒のことと吐くことを話している。彼は去年の彼女を知らないし、明日の彼女に口を出すこともない。運転台は、ほかの何であるにせよ、誰も彼女の記録をつけていない部屋である。
無線と、ガソリンスタンドと、風呂
トラックの無線もまた、声でいっぱいの部屋だ。運転手たちは離れた場所から、道や天気のことを話しあう。玲もその輪に入って話す。すると、頭の中の声が戻ってくる。それを連れ戻すのが、にぎやかで悪気のない他人のおしゃべりだというところに、この映画の静かな残酷さがある。彼女が抱えきれるより、少しだけ多い声。
ガソリンスタンドで、それが崩れる。玲は岡部を叩き、それから自分の頭を叩く。気持ちが悪い、と泣きながら。岡部は立ち去らない。彼がするのはそれだけで、それは小さなことではない。
モーテルで、岡部はやさしく彼女を風呂に入れる。玲はその胸で泣きじゃくる。映画がいちばん大切にしている接触は、たぶんこれだ。それがどんな接触なのかを、正確に見ておきたい。それはいちばん悪い時間のあとに来る。何の見返りも求めない。自分を叩いていたばかりの相手に向けられる、世話である。
同時にこれは、彼女が求める場面を映画が見せていない接触でもある。ここまで「求めること」にこだわってきた以上、そのことも書いておくべきだろう。彼女はそれを受け入れ、そして泣く。受け入れることは、求めることと同じではない。言えるのは、もっと狭いことだ。ここでは彼女は何も求められていない。そして彼は、いちばんひどい状態の彼女に、ひるまずに触れている。
この映画に触れることについての考えがあるとすれば、それは寝台ではなく、ここにある。自分の体が住めない場所になってしまった人には、どれほど歓迎された欲望も届かないことがある。届くのはむしろ、最悪の姿を見たうえでそこにとどまった誰かに、しばらくのあいだ注意深く扱われることなのかもしれない。
そば屋の、ふたつの嘘
翌日、ふたりはそば屋に入る。玲は、自分には男がいると言う。それから、それは嘘だと言う。そして、あなたの妻子も嘘でしょう、と言う。岡部はうなずく。
小さな場面だが、映画でいちばん正直な場面である。ひとつの寝台と、一日の道のりと、ひどい一時間をともにしたふたりが、それぞれ誰かをこしらえていたことを認める。なぜ見知らぬ相手に、自分には誰かがいると言うのだろう。ひとつの読みにすぎないが、どちらの嘘も境界だったのではないか。手もとにある唯一の材料でこしらえた境界である。自分には相手がいる、という言葉は、これは終わる、という意味になる。期待しないで。私も期待しないから。この数日について、誰も条件を取り決めてはいなかった。だからふたりはそれぞれ、作り話で壁を立てた。その壁があったから、近くにいられた。
「よく知る人が聞かなくなったことを、境界のある他人には話せることがある。」という文章は、よく知る人は記録を持っていると書き、過去のない相手には訂正のための材料が少ないから、正直でいることが人生全体の審判にならずにすむことがある、と論じた。その文章は、ここで大切になる線も引いている。偶然の出会いと、取り決めた出会いは、どちらも終わりがあるとしても、同じ種類の有限ではない。境界が取り決められていれば、ふたりは最初から時間に限りがあると知っていて、どちらからでもやめることができる。偶然にまかされた出会いでは、境界はどこか別のところから来るしかない。『ヴァイブレータ』では、それは新潟まで行って戻ってくる道から来る。そして、ふたつの嘘から。
そば屋の場面が見せるのは、嘘を下ろしたときに何が起きるかである。境界は消えない。ふたりはやはり別れるし、どちらもそれを知っている。けれど終わりは、もう作り話に支えられてはいない。ただの事実になり、ふたりはそれをまっすぐ見ることができる。触れることについての先の文章は、同じことを別の側から述べていた。未来について何も請求しない触れ方は、未来について誰も安心させられない。だからそれは身体を落ち着かせても、問いを落ち着かせはしない。そば屋のテーブルに置かれるのは、その問いである。そしてふたりとも、答えたふりをしない。
ハンドルと、コンビニと、口笛
食事のあと、岡部は玲にトラックを運転させる。大きなトラックで、はじめはこわごわとハンドルを握る。けれどしばらく走るうちに、彼女の顔に笑みが浮かぶ。頭の中の声は、いつのまにか消えている。
映画がその静けさをどこに置いたかに、目をとめたい。寝台でも、風呂でもない。ハンドルを握ったときである。声が止むのは、彼女が自分のものとして注意を向けられる先を持ったときだ。前に続く道、手の動きに応える重い機械、誰かにまかされた行き先。これを治ったと呼ぶのは言いすぎだし、映画もそうは言わない。ただ、静けさが訪れる場所がそこだというだけである。
トラックは、ふたりが出会ったコンビニに戻ってくる。ふたりは言葉もなく見つめあい、やがてトラックは走り去る。何も言われないのだから、何も約束されない。ひとり残った玲は、無線を切るときの彼の合図だった口笛を、小さく吹く。それから店に入り、迷わずにワインを選ぶ。
口笛は、映画が彼女に渡す最後のものだ。それが何なのかを、正確に見ておく価値がある。無線では、それは彼が会話を終わらせるやり方だった。話はここまで、という小さな合図で、誰も傷つけず、説明もいらない。彼女の頭の中の声には、それがなかった。許しもなく始まり、終わらなかった。だから彼女が彼から受けとるのは、彼自身ではない。終わらせ方であり、回線の閉じ方である。そして彼女がそれを使って最初にするのは、夜が始まったのと同じ明るい店に入り、あのときできなかった選択をすることだ。
それが続くのかどうか、映画は語らない。語られないことを付け足すのは不誠実だろう。最後の場面はありふれている。そのありふれ方こそが要点である。ワインを選ぶ、ひとりの女性。
小説と映画、そして東京から延びる道
小説と映画は、違うところでは分けて考えたい。最初の違いは、誰が語っているかである。赤坂真理の小説は一人称で、玲の頭の内側から語られる。雑音が、そのまま文章になっている。映画にはそれができない。廣木隆一は、聞こえてくるつぶやきと画面の文字によって、彼女の思いを彼女から少しだけ離れたところに置いた。観客は、彼女が聞くとおりにそれを読むことになる。小説を読んでから映画を観た人のなかには、小説には母親とのことをはじめ、映画が語らない玲の過去が書かれていると指摘する人もいる。この文章が読むのは映画であり、映画が見せていないものを小説から借りてはこない。
ふたりを取り巻く世界はありふれていて、映画もそれをありふれたものとして撮っている。一晩じゅう開いていて、舞台のように明るいコンビニ。夜にほかの扉がないとき、人が入っていく場所だ。長距離トラックの運転台の後ろに寝台があるのは、仕事がそれを必要とするからである。運転手どうしの無線のやりとりは、一日じゅうひとりで道にいる人たちが、互いの話し相手になり、天気を知らせあうためのものだ。どれも見慣れた、この国の夜の道具立てである。
玲は、日本の女性の肖像ではない。ある冬の、ひとりの女性である。それでも、彼女を取り巻く仕組みのいくつかには、見覚えがある人もいるだろう。通う職場がなく、眠れたかどうかを気にかける人もいないフリーランスの働き方。いつでもワインは買えるのに、電話をかけられる相手がいない街。女性に向けた助言が、長く静かになることのない暮らし。これらは背景であって、説明ではない。そして、東京だけのものでもない。
同じ二〇〇三年には、東京を舞台に、見知らぬ者どうしの孤独を描いたもう一本の映画も公開されている。『ロスト・イン・トランスレーション』は、ふたりを街を見下ろすホテルの高層階に置き、観客には聞こえないささやきで終わる。『ヴァイブレータ』は、ふたりを地面の高さの運転台に乗せて、街の外の雪のなかへ走らせ、言葉のない視線で終わる。どちらも、最後にふたりのあいだで何が交わされたのかを語らない。そのうち一本だけが、その街に暮らす女性の生活の内側から語られている。
第二言語で暮らしている読者には、筋よりも口笛のほうが強く響くかもしれない。触れることについての先の文章は、第二言語では、同意する言い方より先に、断る言い方が足りなくなると書いていた。終わらせる言い方も、早くに足りなくなる。電話の切り方、会話からの抜け方、誰も傷つけずに「もう十分」と伝える言い方。玲は第二言語で暮らしているわけではない。けれど旅のあいだに、彼女は運転手たちの言葉を少しだけ覚える。そして手もとに残すのは、別れのためのひと言である。
この読みへの反論
ここまで書いてきたことには、強い反論がいくつもある。映画に向けられるものもあれば、この文章に向けられるものもある。
第一に、結局これは癒しの物語なのかもしれない。声は最後には静まり、それは男と過ごした数日のあとのことだ。出来事の順序にこれほど寄りかかる読みは、我田引水なのかもしれない。この映画は、男に救われる女という最も古い筋書きを、ほかより少し辛抱強く語り直しただけなのかもしれない。順序は示唆的だが、証明ではない。最後に救いを見る観客は、読み違えてはいない。
第二に、つくった男たちのこと。監督も脚本家も成人映画の世界から出てきた人であり、苦しむ女性が、頼んでもいない見知らぬ男の手に引き出され、その体によって楽になる映画は、その世界の幻想を上等な服に着替えさせただけだ、と読むこともできる。答えはあるが、部分的なものだ。物語も、通路でのあの手さえも、女性が一人称で書いた小説から来ている。最初に上映されたころ、運転台のなかのごく近い距離で撮られた性の場面を、真実味があると評した批評家もいた。それでも、何をどう撮るかを選んだのは、映画をつくった男たちである。そして、やさしくて、しかも安全だとわかる見知らぬ男というのは、誰が書こうとひとつの幻想だ。
第三に、結末がやさしすぎるのかもしれない。雪、口笛、選ばれる一本。路上で吐き、自分の頭を叩く女性を見せてきた映画にしては、美しすぎる最後の一分である。数日では静まらない雑音とともに暮らしている人には、見ていてつらいかもしれない。そう感じる人は間違っていない。映画は少なくとも、見せた以上のことを主張しない。それが続くかどうかを言わないのだから。
最後に、この図書室自身に向けられる反論。この家は私的な同伴を売っている。見知らぬ相手と触れあい、話し、言葉もなく終わる数日を描いた映画は、この家の主題に近い。ここで書かれたことを割り引いて読んでもらうべきほどに近い。だから、この映画が何の証拠にならないのかを、はっきり書いておく。見知らぬ人に触れられることが誰かの苦しみを静める、という証拠にはならない。終わりの決まった出会いが人を助ける、あるいは安全だ、という証拠にもならない。この映画のなかでは何ひとつ前もって取り決められておらず、誰もお金を払っておらず、玲の安全は運にすぎない。この家のものを含めて、どんな取り決めの証拠にもならない。これは存在しないひとりの女性の物語であり、実在する誰についても何も証明しない。そして、ひと晩は答えではなかったというこの文章の読みが、この家にとって都合がよいのだとしたら、それは言うべきでない主張をせずにすむからである。それもまた、慎重に割り引く理由のひとつに数えてほしい。
この図書室が受けとるもの
触れることが癒す、ということではない。映画はそれより慎重であり、この図書室もそうあるべきだ。映画が見せているのは、もっと狭く、もっと役に立つことである。最悪の姿を見たうえでとどまった誰かに注意深く扱われることで、体に届くものがときにはある。作り話の妻を認めるような小さな正直さが、ひと晩の親密さより深く届くことがある。そしてハンドルを手渡されること、何かの行き先をまかされることが、抱きしめられることにはできない何かをするかもしれない。
映画はまた、境界を言い表す言葉を持たないふたりが、それでも境界をこしらえていく様子を見せる。玲と岡部は終わりを、まず嘘で、次に道で、最後に視線で組み立てる。映画のなかではそれが持ちこたえる。けれどそれは壊れやすく、方法ではない。
女性が雪のなかへ見知らぬ男のあとを追うのには、もっともな理由がある。見知らぬ人は、彼女の記録を持っていない。去年の彼女を覚えていないし、母親に話すこともないし、月曜日に職場で顔を合わせることもない。自分を知りすぎた声で頭がいっぱいの人にとって、それは街でただひとつの静かな部屋のように感じられることがある。愚かなことではない。それは理由である。
だから一度だけ、あなたに向けて書く。もしあなたが、雑音がいちばん大きくなる時刻にこれを読んでいて、見知らぬ誰かのぬくもりが、それを消すスイッチのように見えたことがあるなら、それを欲しいと思ったことは、あなたの落ち度ではない。欲しかったのは、見知らぬ人そのものではなく、声が追ってこられない場所と、ひるまない誰かだったのかもしれない。それはもっともな望みだ。映画がそっと示しているのは、それがひと晩よりも地味なかたちでも届くということである。何も負わずに世話をされること。テーブル越しに告げられる、ひとつの本当のこと。何かのハンドルを握る番。そしてもし、酒や、食べては吐くことや、頭の中の声が、あなた自身の夜に近いものなら、それは医師に話してよいことだ。止むまでひとりで抱えていなければならないものではない。
この文章が主張していないこと
これは一本の映画についての読みである。臨床的なものではなく、虚構の人物も実在の人物も、誰も診断していない。玲が聞いている声にも、彼女の飲酒や吐くことにも、名前をつけていない。ここにあるどれ一つとして、読者について、あるいはこの映画をつくった人や演じた人についての記述として読まれるべきではない。寺島しのぶや大森南朋の私生活については何も述べていない。
小説と映画は分けて扱っている。場面を述べるとき、述べているのは映画であって小説ではなく、小説がどう終わるかについては何も主張しない。岡部が語る結婚やストーカーや過去の話は、彼の側の説明として扱った。それが本当かどうかについては、映画が見せていること、つまり玲が妻子を嘘だと言ったとき彼がうなずくということ以上には、何の立場もとらない。
これは見知らぬ人や、トラックや、夜についての助言ではない。見知らぬ人の車に乗ることが安全だと示唆するものでもない。触れることや、どんな形の同伴であれ、それが何かを治すとも主張しない。
玲が抱えているものが、あなた自身の暮らしに近いのなら、話す相手はこの文章ではなく医師である。各都道府県と政令指定都市には精神保健福祉センターがあり、電話や面接で相談を受けている。地域の保健所でも相談できる。厚生労働省は、こうした相談は無料で、秘密は守られると案内している。
ここで名前を挙げた監督、脚本家、俳優、映画祭、出版社は、いずれもこの家とは何の関係もなく、この文章のために意見を求めた相手もいない。台詞は一行も引用しておらず、小説の文章も引用していない。
持ち帰る問い
頭の中の雑音がいちばん大きいとき、それは何を言っているだろう。誰の声に似ているだろう。
そこにいない相手や、ありもしない予定のような作り話で、境界をこしらえたことはあるだろうか。本当のことを言っていたら、どんな言葉になっただろう。
いちばんひどい状態のあなたのそばにとどまってくれるのは誰だろう。ハンドルを手渡してくれるのは誰だろう。それは同じ人だろうか。
誰も傷つけない、あなたなりの会話の終わらせ方は何だろう。それを教えてくれたのは誰だっただろう。
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